ゆっくり時を過ごすことの豊かさ。何度でも訪ねたくなる親しさ。そうした首都圏都市として茅ヶ崎は、いまその魅力をいっそう深めています。 ドラマ なぜか、茅ヶ崎に 劇が。 反骨の俳優 川上音二郎 権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ましたい オッペケペー オッペケペッポーペッポーポー 固い上下の角取れて 茅ヶ崎の風土の魅力にいち早く注目し、 明 治 時 代、一 世を 風 靡した『オッ 劣らず鼻っ柱が強く、自立心旺盛 ペケペー節』です。 の女性。二人は演劇活動の新世界 意気な束髪ボンネット、 これを日本人で初めてレコードに を切り拓きました。パリ万博で貞奴 貴女に紳士のいでたちで 吹き込んだのが川上音二郎 の人気が爆発。欧米の大女優たち、 マンテルズボンに人力車 庵を結んだのは劇聖とも呼ばれる 歌舞伎俳優九代目市川団十郎(1838−1903)でした。 うわべの飾りは好いけれど、 ドゥーゼと同等の評価を得ました。 やがて新派となり、旧劇(歌舞伎) この 時 代を代 表 する作 家 や 芸 術 をしのぐ人気を博し、 「 新劇の父」 家、たとえばピカソ、ロダン、ジイド、 心に自由の種を蒔け ともいわれています。 プッチーニなどが極東の舞台女優 オッペケペー 10代 の 終 わりから自由 民 権 運 に賞賛の言葉を残しています。 政治の思想が欠乏だ 茅ヶ崎を愛した文化人には演劇、映画、小説など、 天地の真理が分らない、 物語を生み出す精神にとって、 この風土のもつ穏やかさ、明るさ、 透明さが必要であったのかもしれません。 サラ・ベ ル ナ ー ル や エレ オノラ・ の 始 めた 書 生 芝 居、壮 士 芝 居 は 以後、近代から現代にかけて、 とりわけ「劇(ドラマ)」に関わる人が多い。 (1864−1911)で し た。音 二 郎 オッペケペッポーペッポーポー 動にかかわり、過激な言動に走り、 しばしば 投 獄 され ます。の ち に、 九 代 目 市 川 団 十 郎を尊 敬してい アメリカに渡り興行、さらにパリ万 た 音 二 郎 は、団 十 郎 が 別 荘 を 構 博 に呼 ば れて公 演し大 好 評を博 えていた茅ヶ崎に貞奴とふたりで します。反骨の街頭芸人は世界の 移り住みます。 エンターテイナーになりました。 茅ヶ崎に欧米のような本格的な演 劇 学 校をつくりたい、という夢を 生 涯 の パ ートナーとなったの は、 音 二 郎 はもって い たとい わ れま 東京で売れっ子の芸者貞奴(1871 す。夢なかばで早世したのは残念 −1946) でした。音二郎に負けず なことでした。 NEWS 「茅ヶ崎ゆかりの人物館」 が00月00日オープンしました。 端正をきわめた映像 漂えど沈まず 小津安二郎 開高健 これ は 今も世 界 的 に根 強 い 評 価 以後、巨匠は茅ヶ崎に通いつめま など多くの辛口の箴言を残した作家 毎年、初日の出を拝もう。 を受ける映画監督・小津安二郎の す。脚本を練るときにこもった定宿 開高健 (1930−1989) は、昭 和49 私 の 肩を軽く叩 いて、のたもうた 言葉です。 は中海岸にある茅ヶ崎館。練りあ 年 (1974) 仕事場として茅ヶ崎に家 ものだった。 がるまで長期滞在していたから郵 を建て、やがてそこに居場所を定め、 昭和21年(1946)11月3日、一人の 便物はいつも茅ヶ崎館か大船撮影 他界するまで住みつづけました。 こと』文藝春秋) 紳士が東海道線茅ヶ崎駅のプラッ 所気付で届いていたといわれます。 トホームに降り立った。終戦の翌年 監督は想に滞ると、茅ヶ崎のまちな 娘 の 開 高 道 子さんのこんな 回 想 遺された邸宅はいま、開高健記念 だ、ホームはリュックサックを背負っ かをゆっくりゆっくりと歩きました。 があります。 館として多くの業績や人となりを た群集であふれていた。代用食の 三大名作と評価する人も多い『晩 さつまいもでも手に入れようと東京 春』 『麦秋』 『東京物語』のシナリオは 茅ヶ崎の仕事場で、はじめての正月 や横浜から近い農村(茅ヶ崎) に買 いずれも茅ヶ崎滞在中の作品です。 を迎えた年のことだ。家からは歩い (開 高 道 子『父 開 高 健 から学んだ 伝えています。ひとりの編 集 者は こう語ります。 出しに来た人たちだった。そんなな て5、6分もすれば海岸道路134号線 酔っ払ったとき冗談で、オレが大 かに、まっしろいワイシャツ、臙脂 を横切って、すぐに波打ち際の見え 文 豪になって死んだら、ここは記 のネクタイ、黒い革靴、背広と同色 る海辺である。明けきらない暗がり 念館になるんだゾ、諸君はそうい のソフト帽、といったスタイルはひ のそこに、驚くべき数の乗用車、そし う大切な仕事をやってるんだゾと ときわ目を引いた。この人こそ、そ て人びとのうごめきに、私たちは肝 言 われてましたよ。私はどんなも の年の2月にシンガポールから帰還 を抜かれるほど愕いたのだった。 の かと思ってました けど、ドアに した44歳の映画監督・小津安二郎 車があふれているのは、この茅ヶ パリのメトロのプレ ートを貼り付 だった。すでに巨匠の粋に入ってい 崎 海 辺の初日の出を拝 むために けたりして、この書 斎 が 好きなん た映画監督の戦後の再出発、仕事 それ ほど沢 山 の 人たちが 遠 方 か だという、そういうやり方で私らを 始めの姿であったという。 ら訪れていることを物語っている 励ましてたんですね。 (石 坂 昌 三『小 津 安 二 郎と茅ヶ崎 館』新潮社) より わけだ。父が咳払いして、―結構 (北 沢 通 正「無 邪 気 な 人」 『 悠 々と なところに居るのだ。これ からは 急げ 追悼開高健』筑摩書房) 魂の詩人 八木重吉 そんなにひろくない路で ずっと海の方へつづいていて てんきぐあいも こんなにいいなら こんなみちをいつまでもあるいていたい りょうがわには しばくさがかれかかっており みちのすえには 海がねむっている いきどおりをもつものの ゆくべきみちではない (八木重吉 『寂寥三昧』 より) 茅ヶ崎にかつて南湖院という東洋 魂の詩人八木重吉 (1898−1927) 詩人でもあり彫刻家でもあった高村 一の規模をもつサナトリウム (結核 もここで療養した一人でした。 光太郎はこう述べています。 (「八木 療養所) がありました。療養に適し 生まれたのは東京府南多摩郡堺村 重吉詩集」彌生書房) たという茅ヶ崎の風土のあかしのひ (現在の東京都町田市相原町)。神 この清い、心のしたたりのやうな詩 とつともいえます。 奈川県師範学校在学時より教会に は、いかなる世代の中にあっても死 医 師 高 田 畊 安 によって明 治32年 通いだすようになり、洗礼を受けま なない。詩の技法がいかやうに変 (1899) に開 院されたものですが、 す。25歳のとき18歳の島田とみと 化する時が来ても生きて読む人の 終 戦 直 前 の 昭 和20年 (1945) 5月、 結婚。このころには短歌や詩を精力 心をうつに違ひない。 海軍に全面接収され解散となりまし 的に書いていました。 それほどこれらの詩は詩人の心のい た。ひところは、東京の医学生のほ 29歳のとき、結核を発症。茅ヶ崎南 ちばん奥の、ほんとの中核のものだけ とんどが卒業必修単位のように見学 湖院で療養生活に入ります。病臥の が捉へられ、 抒べられてゐるのである。 に訪れたとの逸話が残っています。 なか第二詩集 『貧しき信徒』 を書き 上げますが、上梓するに至らないま ま30歳の短い生命を終えます。 詩 作 生 活 は5年 間 ほどでした が、 2000を超えるという膨大な詩篇が 遺されました。
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