クロい、マニョンの言葉

【文学賞】
クロい、マニョンの言葉
平 川 慧
私は他人とコミュニケーションを取れない普通のLJK。Lはラスト、つまり高校3年
生ってこと。人と目を合わせて話すなんてまず無理。そのことに悩んでる。
数人の友達以外はほとんど誰とも話さない。というか、話し方がわからない。休み時間
などに部活仲間や先生たちと集団で談笑する子たちが信じられない。おまえら、天才か。
私は4人家族。両親と、弟。父親はどこかの電機メーカーで働いている。私にとって父
親=酔って帰ってきては風呂場で吐く人間。私が小さい頃からそうだった。その匂いたる
やすさまじい。昨夜など、得体の知れない黒々とした液体らしきものが入ったビニール袋
を片手に帰ってきた。そこから脳天に突き刺さる激臭がする。母親「なんなのよ、それ?」
「だってよぅ、
うぃー、
タクシーの運ちゃんに捨ててもらうわけにもいかないだろぅがぁっ、
うぃ」
「だからそれは何なのよって聞いてんのよ」「ゲィニク」「げいにく?」「クジラの肉
…うまかったから飲み過ぎた」この人この世からいなくなってほしい。そのときは心から
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そう思った。
母親と弟もどうかしている。弟が生まれて以来ずっと2人は一緒に風呂に入っているの
だ。今でも。弟はもう中3。風呂の中からはきゃっきゃと笑う母親の声がする。いい歳し
て本当に…というか、歳の問題ではないか。弟にしたって、同い歳の彼女を作って風呂に
入れ! …こんな人たちとは話をする気も失せる。というか物心がついてから母親とも楽
しく会話をした記憶がない。こうして私は家族という小社会からの影響を受け続け、「何
も話さないが吉」という価値観が形成された。1番身近な存在である家族と会話らしい会
話をしたことのない私は、必然的に他人ともコミュニケーションをとるのが苦手になって
いったのだ。
1学期が終わり、塾の夏期講習が始まる。千葉駅から歩いて5分ほどの距離にある個別
指導塾に向かう。暑い。街の建物が真夏の太陽の光に照らされ、またその照り返しが街全
体を白く覆う。暑いのは嫌い。暑いのは嫌いだが、熱いのはもっと嫌いだ。熱い人。延々
と話し続ける人。学校の教師。塾の教師も同じか。あ、塾では今日から別の先生が私につ
くんだ。2学期が始まるとすぐに実施される、AO入試を考えている私には小論文と面接
が必要だが、社会人出身の講師がその2つを教えてくれるのだということを、先週塾の教
ほどあるブースの1つに座り、きょろきょろ辺りを見渡す。周りの状況把握はJKに
室長から聞いた。
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とって必須のスキル。今、何が起きているのか。誰がいて、トークの話題は何か。そして、
その話題に対しての大方の賛否はどちらかをつかむ。話についていけないのはJKにとっ
て最大の恥辱。友が去る原因となる。今親しくしている友人とは関係をつないでおかない
とまずい(1人になる)から、コミュニケーションには非常に気を遣う。大事なのは即答
すること。返事と言っても、「だよねー」
「やばいねそれ」とかだけど。1番気を遣うのは、
気を遣って話していることが相手にバレないようにすることだ。それは私の死(=孤独)
を意味する。だから、いつも準備だけはしている。話す準備。…まぁ、ここは塾だし、そ
こまで意識する必要はないか。ほんと周りにびびってる。人間に、びびってる。
しまった、不覚だった。あれこれ考えているうちに、新しい先生が私のブースに来てい
た。状況把握を疎かにしたせいだ!
「こんにちは、黒田といいます。ユカさんですよね? これから宜しく。」
その名の通り、クロい。黒田だからクロくなったのか、クロすぎるから名前を黒田に変
えたのかわからないほど、クロい。そして、見るからにアツい。歳は… くらい?
先は越されたが、試合は始まったばかりだ、挽回はできる。「こんにちは」に対して私
は無反応。いや、でも2㎜だけ頭を下げた、というか、動かした。
「あれ…宜しくって言ったんだけどな…聞こえなかったかな、テヘペロ」
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やはり気付かなかったようだ、私の挨拶に。これでマニョンは少なく見積もっても今後
3カ月間は(夏期講習終わってる)私とコミュニケーションは取れないだろう。1番痛い
のは、最後のテヘペロだ。奇を衒って笑いを誘おうとしたのだろうが、そういう人種が1
番きつい。私たちの間だったらまず、1人決定。
何も話さない私にとまどうマニョンは、尋常じゃない汗をかきながら今後の授業の進め
方について説明をしていた。夏の終わりまでに5回小論文、5回面接の指導をするそうだ。
マニョンの説明の間、私はうなずいてしかいない。やはり、2㎜幅で。マニョンの汗の量
がハンパなかった。びしょびしょのハンカチで額を抑えながら、マニョンが次回の宿題の
説明を始めた。
「え、えーと、ユカさんは将来ブライダル関係に就きたいということだから…はじめに、
サービス業の基本、ホスピタリティについて、ユカさんの考えを書いてきてもらおうかな」
ホスピタリティ? なんとなくわかるけど、言葉で説明はできない。だが当然、「どう
いう意味ですか?」と は私は聞かない。1㎜頭を横に振った。それでもマニョンはコミュ
障だから私の意図が汲めないといけないと思い、「小鹿のうるうる眼と小鳥の 度首ひね
なるほど、そういう意味なんだ。2㎜頭縦振り。おもてなしとは何かについて、自分の
「あ、ホスピタリティの意味わからない? 日本語で、
『おもてなし』くらいの意味だよ」
り」を見せ言葉の意味がわからない旨伝えた。すると、マニョンは気付いたようだ。
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考えを書けばいいのね。わかったわ。
今日の夏期講習はこの1コマでおしまい。家に帰る。何も言わずに2階の自分の部屋に
直行。母の「おかえり」に対しては、
部屋のドアを閉めた時の衝撃音をもって返事とする。
お風呂に入る前に小論文用の原稿用紙をリュックから引っぱりだす。おもてなしについて
の考えか。ん、
待てよ、「おもてなし」
ってそもそもどういう意味だ? サービスがすごいっ
てことかな? 手取り足取りサービスをするってこと? あいまいだから、スマホで調べ
「…
る。
「おもてなし…取り扱い。待遇。
」は ? よくわからない。他のサイトを見てみる。
私たちの目指す究極のホスピタリティとは、お客様に最大限満足して頂くために心のかぎ
りを尽くしたサービスを提供することにあります…」要するに、客を満足させるために店
員が気を遣うことだろう。ということはなんとなくわかった。
そのとき、ふと友達の話を思い出した。今年の春九州へ修学旅行に行った時、帰りの機
内でうちの高校の男子がCAからチョコレートが入った小袋をもらったそうだ。その日は
ちょうどバレンタインデーだったのだが、まさかCAからチョコをもらうなんて思いもよ
らなかったみたいで、その男子は超絶よろこんでいたらしい、というエピソード。…これ
か、
「おもてなし」というのは。よし、なんとなくイメージ湧いてきた。
翌日、塾に向かった。
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家を出る前にマスクを装着する。マスクは私にとってなくてはならない必需品。ファッ
ションの一部としてJKが使っているようなことを聞くけど、私は違う。その目的はただ
ひとつ。表情を悟られたくないから。多分他の子たちもそういう意味で使ってる。私の理
論によると、顔のうち、目(眼球の動き含む)と口がそれぞれ4割以上、表情の変化を作
りだす要因となる。表情を作りだす上で重要な役割を果たしてしまうそんな口を隠さない
でいられようか、いやいられない。ということで、マスクを付ける。目については化粧を
して、私の素の感情を読まれないようにすればいい。
教室はビルの2階。階段を上る。私の通う塾は家庭教師も行っており、教室の入口側に
は家庭教師関係の仕事をしている社会人スタッフが働いている。その先、上半分がガラス
張りになっているパーテーションで仕切られた奥に、私の通う個別教室がある。
教室の入口のドアを開けたとたん「だからわからなくなったら動詞を中心に、文の意味
を理解するの。これ言わなかったかー?」とマニョンの声。…教えてもらっている生徒が
かわいそうになる。その声の大きさどうにかしろ。こっちの社会人スタッフも苦笑してる
ぞ、おまえの声の大きさに。
この残念なマニョンという講師についてわかっていることは、昔中学校で教員をやって
いたということだけだ。他にわかっているのは、非常にアツいということくらい。声が大
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きいからアツく感じるのか、色が黒いからアツく感じるのか…。ただ間違いなくマニョン
が出勤している日の教室内の温度は2度くらい上がっている気がする。ただでさえ尋常
じゃない黒さにきてその声じゃ、目立つのも当然だ。絶対に分かり合えない、こういう人
種とは…というか同じ「人」だとは思えない。…他の生徒の授業が終わったようだ、マニョ
ンが私に近づいてくる。はぁ。
「お願いしまーす」授業が始まった。マニョンのお願いしますに対しもちろん私は無視。
マニョンはそれだけで動揺している。宿題になっていた小論文をマニョンに渡す。「あり
がと、
読ませてね…」
といいながら目を通すマニョン。読んでいる間マニョンも無言になる。
CAのエピソードはかなり面白いはずだ、自信はある。普段人と目を合わせることができ
ない私も、
マニョンの表情で宿題の出来を確かめたいという気持ちにかられ、横目でマニョ
ンを見る。すると突然私の方を向き、「いいね、
これ!」と目を見開いて来た。声がデカい。
しかもばっちり目が合ってしまった…ぶぁっとにじむ汗。やばい今私相当動揺してる!
「すごいね、
本当にこんなことがあったんだ。このエピソードは使えそうだね。あるきっ
かけを経験し、そのことから自分が得たこと、あるいは今後変わっていけそうな自分を書
くことが小論文では大事なんだけど、この経験は、ユカさんを変える重要なエピソードに
なるんだ!」
そう言われても、何も反応できない私。無言でマスクをいじる。マニョンは私から何ら
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かの反応を期待していたのだろうが、それがないとわかると、「は、はい…こんな感じで
いいと思うよ…」とトーンダウン。
小論文の授業が終わり、続けて面接の練習を行った。ブースでは面接官役のマニョンと
生徒役の私との間に充分な距離を確保できないからという理由で、教室の入口近くにある
来客用のソファーで練習をすることになった。先にソファーに座るマニョン。ドア付近に
立つ私。なんかバカバカしくなってくる。
「どうぞ」
マニョンが言う。いきなり座ろうとする私。面接のやり方なんて何も知らない。
「お、おいちょっと待って、返事もしないで座ろうとしないでよ。」マニョンの怒りのボ
ルテージが上がりつつあるのが手にとるようにわかる。マニョンが続ける。
「あとさ、悪いんだけど、マスクとってくれない? 風邪、引いてるの? マスク付け
て面接するなんて非常識だからさ…」私は無言でマスクをはずす。
そもそも私が面接練習なんかやっても無駄だ。ただでさえ他人とコミュニケーションと
れないのに、どうやって面接の場に必要な「正しい」コミュニケーションスキルを身につ
けることができる? 面接練習はその後も続いたが、質問のたびに「えっと…」を繰り返
したり髪の毛をいじりながら話したりする私に対しマニョンがぷるぷる震えながらそれを
分間の授業は終了した。
無言で塾を出る。8月に入り日は確かに短くなってきているのに対し、真夏特有の肌に
やめさせるやりとりが繰り返されたのち、
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まとわりつくような生ぬるい風がまだ吹いており、私を落ち着かせない。居酒屋やゲーム
センターが入ったビルが立ち並ぶ線路沿いの道にたむろするJCやJKを見るとなぜだか
腹が立ってくる。
家に入ると、いつも以上に部屋のドアをきつく閉める。下から母親の不満そうな声が聞
こえるが、無視する。
服を脱ぎながら、授業の最後に言ったマニョンのセリフが頭から離れない。
「いいけどね、別に…。何で何も言わないのかよくわからないけどさ、それでも何かの
縁でこうしてお互い勉強してるんだから、何か私の言ったことを参考にして、それこそ1
つのきっかけにして、自分を変えていくチャンスにしてよ…えらそうなこと言うけど、人
間の人生って1つの円だと思うわけ。それぞれ1つの円を持っている。今、人と人が関係
しているとき、その2つの円ってどこかで接している状態だと思うんだよね。もちろん夏
期講習が終わったら私とユカさんの授業は終わるわけだから、直接円が接することもない。
円が接しているときを縁って考えてもいいかもしれないけど、その縁をきっかけに、より
よ い 人 生 を 目 指 す … そ う や っ て 考 え て ほ し い ん だ よ ね。 今 か ら 書 こ う と し て い る 小 論 文
だってそうでしょ。CAが見せた行為が1つの縁としてユカさんの心に残り、そこからブ
ライダル関係の仕事を目指すことになるんでしょ。話戻すけど、そうやって人と接してみ
てごらんて。少しは考え方変わると思うからさ…」
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「くそぉぉぉつ」
1人部屋の中で叫んでしまった。無意識に奇声を発した自分に驚く。下にいる家族が何
て思おうと知らない。頭は冷静さを取り戻していた。が、心は熱い。
シャワーを浴びに1階に行く。どうしたのユカという母の声がドアを隔てたキッチンか
ら聞こえる。お風呂場でさっと服を脱ぎ、身体をゆっくり洗う。
部屋に戻り、裸のまま携帯を手に取る。友達から勧められていたツイッターの裏アカウ
ントを取得する。
「裏アカ、すごいよ。顔から下撮っただけで、 リツイート当たり前だからね。全身アッ
プ載せれば簡単にフォロワー5、
600いくよ。友達一気に増えた感じ。プチ芸能人。」
その後も小論文と面接の練習は続いた。
容とは関係ないところでの何気ない会話や質問に対しては、どうしても自然に反応できな
小論文の書き方も、面接での受け答え方も、マニョンから指示されたことは覚え、改善
した。マニョンの言っていることを理解していることを示すために。それでも、授業の内
のが大好きなLJKです。どんどんDMくださいね!」もうどうにでもなれ、と思った。
目が入ると自分だとバレるから、上半身に携帯の画面を合わせた。媚びるような笑顔を
口元で作った。その口元も枠内におさめた。指が勝手に動く。「人といろんなお話しする
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い。何も言葉が出てこない。何も話さないんじゃなくて、言葉が出てこないことを、マニョ
ンにわかってほしかった。一方で、マニョンは私と授業をすればするほど私の態度にイラ
イラしているのがよくわかった。
授業が終わり、帰る支度を始める私にマニョンが明らかにさぐりを入れるような目つき
をしながら聞いてきた。
「ブライダル関係って、ウェディングプランナーとかそういう感
じ?」
「具体的に、こんな仕事してみたいなーとかって、あるの?」
最後の質問に対しては首を横に振るだけ。無言。するとマニョンの声がどんどん大きく
なる。私の返答をまるで期待していないかのようにどんどん聞いてくる。
「お客さんのニーズをユカさんはどうやって把握するの?」マニョンの質問が止まらない。
「お客さんにどうやって話しかけるわけ?」何を考えているんだこの原始人は。やがて
マニョンが私から視線をはずし、溜息をつきながら下を向く。やけに小さな声だった。
「あのさ、何か聞かれても返事すらしないで、将来どうやってサービス業に就職しようと
思うわけ? しかも人とロクに話もしないのにどうやって人の気持ちが理解できるの?」
これが聞きたかったのか。いつかは聞かれるだろうと思っていた質問だ。私は言った。
「大学で心理学勉強する」
「アホかおまえは!」
ブースにいた他の先生、生徒が驚いて背筋がピンとなったのがわかった。教室長を見る
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と、顔が険しく曇っている。
「心理学の本読んで人とコミュニケーションなんかとれるようになるなんて思うな! おまえは心理学以前の問題だ! 人の目もろくに見れないおまえがサービス業なんか務ま
るわけねーだろ! 少なくとも何か言われたらまず返事をしろ! 幼稚園生以下だおまえ
は」
あぁ仕方がない、と思った。塾を出るとき、教室長がマニョンを呼んでいた。
あれだけ罵しられたのに、気分は悪くない。やっぱり私は1人なんだという思いが、自
分を冷静にする。家に帰り自分の部屋に戻る時、ドアを優しく閉めた。マニョンが悪いん
じゃない。自分が悪いんだ。何も変わらない。自分は絶対に変われない。
リュックから携帯を探し、裏アカのトップ画面を見る。DMの数が100件を超えてい
る。
「すっごい可愛い!」
「付き合ってください」「そんなに可愛かったら友達もたくさん
いるんだろうなぁ!」
部屋の電気を消す。携帯に映る自分の写真。上半身を露わにして何かを語るように笑う
自分。次々にDMが届く。届くDMの数が増えていくたび、私の涙もとどまることなくあ
ふれ出た。
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マニョンとの授業以来、塾に行く気がなくなった。といってもマニョンが嫌になったわ
けではない。逆にマニョンと授業をしてもマニョンを怒らせるだけでなんか申し訳ない気
がしていた。他の教科を教えてくれている先生たちに対しても同じ思いだった。なんてい
うか、
自分の態度で他人に誤解ばかり与える自分自身に対して疲れがピークに達していた。
お盆前に、大学のオープンキャンパスがあった。正直自分のことで頭がいっぱいで、大
学に行くなどという前向きな気持ちも失いかけていたのだが、そんな状態の私を見かねて
か、教室長が私に電話をくれた。それはマニョンとは別の教科の授業を欠席したときだっ
たのだが、オープンキャンパスに行ってAO入試に関する説明をしっかり聞いてくるよう
にということをその時に言われた。勉強やる気がないならオーキャンに行けばモチベー
ション上がるからさ、
と教室長。
そう言えばマニョンも言ってたっけ。だがマニョンは「オー
キャンは絶対に行け。どういう小論文のテーマが出るか聞いてこい」などと、無謀極まり
ないことを私に要求していた。そんなこと大人数の前で、しかも私が聞けるわけねーだろ。
どこが入口なのかわからないくらい広い大学の正門を通ると、目の前にはおしゃれに身
を固めた、女子校生だと思われる女の子が跳ねるように構内に進んで行くのが見えた。私
の歩くスピードが遅いのか、私が会場にたどり着くまでに後ろからそういう子たちに何人
も抜かされた。
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2 0 0 人 ほ ど 座 れ そ う な 階 段 教 室 が 会 場 だ っ た。 ド ア を 開 け る と 右 側 に 演 台 と 壁 に 収
まったホワイトボード、左側に真新しい長机と椅子が段々に並んでいる。私は入ってすぐ
左にある階段通路をのぼり、後方にちょこんと座った。辺りを見渡してみると、親子で来
ている学生もいたが、大半が私みたいに1人で参加している。
入試の説明の前に、教授が学科の説明をしている。周りの学生は真剣にメモをとってい
たが、私はそれどころではなかった。私はこれからどうやって他人と関係を築いていくの
だろう。まともに返事すらできないんじゃ大学に入っても友達だってすぐにはできないだ
ろうし、第一気難しそうな大学教授となんて絶対話せないだろうな…。そうやって考えて
いくと、マニョンの言う通り将来私がサービス業に就くなんて不可能なのかもしれない。
そもそも私は一体何なんだ。なぜ人と話ができないんだろう。
たぶん、自分を知られるのがこわいからなんだと思う。理解されるのが、こわい。私が
話せば、相手に理解される。理解されるのはいいが、そこで話が終わってしまう。話が終
わってしまったら、その人はもう私に興味を持ってくれないんじゃないか。でも話さない
と、
その人が私から遠ざかっていってしまうように感じる。だから話さなくてはいけない。
でも会話が止まるのがこわい…。頭がむずむずしてきた。どうやったら人とうまくコミュ
ニケーションを取れるのだろう…。
「うまくコミュニケーションとろうなんて思わなくていいと思うんです」
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えっ? それは、頭の中の雑念から我に返り目の前に意識を向けた瞬間、耳に飛び込ん
できた言葉だった。
「もちろん接客をする際には適切な敬語を使い、適切な言葉を使ってお客さんと会話を
することは絶対に必要なんですが、それはあくまでビジネス上のコミュニケーションの話
であって、本当のコミュニケーションってのはもっと、うまくいかないというか、誤解が
たくさんあっていいと私は思うんですよね。
」
???何言ってんのこの教授? 全神経を傾けて教授の話を聞こうとしたその時、隣の
教授が説明中の教授に自分の腕時計を示し、時間終了を促しているのが見えた。
「すいません、もう時間とのことなので…。話が途中になっちゃいましたが、まぁ私が
言いたかったのは、
正確なコミュニケーションも大事ですが、誤解の元にコミュニケーショ
ンは成り立っているという考え方もできるってことです。ではそれはいったいどういうも
のなのか、答えは皆さんが大学に入ってから講義の中でお答えすることにしましょうか」
そう言ってその教授の話は終わってしまった。
なに、「誤解があっていい」って? 正確に自分の言いたいことが伝わらなくてもいいっ
てこと? 聞かれたことにしっかり答えることが誤解のないコミュニケーションだとした
ら、聞かれたことにまともな答え方をしないのが誤解を与えるコミュニケーションになる
が…
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ん?待てよ?
私はマニョンに誤解しか与えていない?
私はマニョンにほとんど首しか振ってない。ってことは、マニョンは私のことを、まだ
ほとんど何も知らないはずだ! そうなると、私とマニョンのコミュニケーションはまだ
終わってない、というか、始まったばっかりではないか!
暗い雲で覆われていた私の頭上に一筋の光が射し込んできた気がした。私は間違ってな
い? 私はまだ大丈夫? 嬉しくなった私は、嬉しすぎて外に出たくなってしまった。実
際私は次の教授が話し始めていたのにもかかわらずコソコソと教室を抜け出してしまっ
た。
急いで塾に向かう私。マニョンに会いたいと思ったのだ。私のコミュニケーションは間
違っていないことを伝えるために。でも、
「話しができない」私がどうやって私の言いた
いことをマニョンに理解させる?
塾に着いた。教室長は入会を希望する保護者と面談を行っていた。マニョンは…いない。
休憩にでも行っているのか。
マニョンは来なかった。少し経ってから、教室長が来た。マニョンとも話がしたいとい
他の社会人スタッフに自習しに来たことを伝え、自習用の机に座った。教室長が面談を
終えるのを待った。あるいは、マニョンが話しかけに来るのを待った。
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う素振りを示すと、教室長の口から出た言葉は思いもよらないものだった。
「黒田先生はね、前回の授業で終わりにしてもらったんだ。やっぱり、あまりにクレー
ムが多くなっちゃったんでね…今時の先生には珍しいくらい熱血でいい先生だったんだけ
ど。ちょっと度が過ぎてるね。ごめんね、決まった時にすぐにユカにも伝えれば良かった
んだけど」
そうなんだ、マニョンは辞めたんだ。平静を装うのには慣れている。無言で頷いた。小
論文と面接の授業については他の先生が見てくれることを教室長は話していた。
家に帰る。部屋のクーラーを付け、ベッドに横になる。
自分を変えてくれるとすれば、それはマニョンしかいなかった。思ったことをずばずば
言ってくれて、誰に気兼ねをするわけでもなく、全てがストレートだった。最初は空気の
読めないただのコミュ障ぐらいに思っていたけど、途中からその生々しさに圧倒された。
あんな話し方をする人とは初めて出会った。羨ましい、ああなりたいなんて思わないけど、
マニョンを見てるとまぶしい感じがした。うまく言い表せられないのだが、直射日光が私
を照らす感じ。私自身のことを聞いてくる時なんて特にそう。そうしてマニョンと一緒に
いると、なぜかあたたかい気持ちになった。それがどういう感情なのか自分でもよくわか
らない。マニョンは私みたいなタイプの人間と一緒にいても楽しくなかったと思うし、彼
の期待に応えないで申し訳ない気がするけど、私はマニョンから大切なことをたくさん教
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わった気がする。でもそんなマニョンも、今の世の中では周りとうまくコミュニケーショ
ンが取れないんだろう。だから、原始時代に戻ってしまったんだ。だって、マニョンはオ
ブラートに包んだ話し方を知らないんだもん。今の社会は、みんながみんなに気を遣って
コミュニケーションをとっている感じがする。何かに脅えながら会話をしているような。
もちろんそれは私も同じ。私など怖すぎて会話すらまともにできない。でも周りに気を遣
いながら話をするっていうことが、社会では必要なんだろうな。そうすれば、誤解なんて
生まれるわけないし。
…だとしたら、あの大学教授の「誤解があってもいい」ということは、どういうことな
んだろう。私の何もしゃべらないことが相手に誤解を生みだしているのだとしたら、それ
はそれで正しいコミュニケーションなのだろうけど、でもコミュニケーション自体は全く
先に進んでいない。どうすればいいのだろう。マニョンに聞きたい。でもそのマニョンは
もう、いない。
自分は相変わらず何も変わっていない気がした。一方で、何かが少しずつ変わり始めて
いる気もした。
リュックから携帯を取り出す。相変わらず増え続けている私へのDMをぼーっと確認し
た。少し経ってから私は裏アカウントを削除した。
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マニョンがいなくなってから3カ月が経った 月下旬。クラスの雰囲気は受験ムード一
色だった。すでにAOや指定校推薦で決まっている生徒もいたが、その人たちは教室内で
は努めて周りの空気に合わせようとしているのがわかった。
私は相変わらず話せない。むしろ、前より状況は悪化していた。以前なら一緒にいる友
達との会話には全神経を集中させ、何か言われたら「あーね」とか「たしかに」とか間髪
入れず相槌を打つことだけを考えていたのだが、今はそれすらできなくなり、いちいち友
達の話すことについてじっくり考え込むようになっていた。そんな私を見て友達は「は、
ユカ何考えてんのかわかんない」というセリフを残し、1人また1人と去って行った。そ
うして私は1人になっていった。だがあれだけ恐れていた孤独と一緒にいるのだけれど、
いざ付き合ってみると、
思っていたほどそれは怖いものではなかった。逆に、孤独にはなっ
たが他人との距離が近くなった感じがしていた。それは、たまに私に話しかけて来てくれ
る人がいたとき、その人が話す内容をじっくり考えることでその人が何を考えているのか
がなんとなくわかる気がしてきたからだ。その行為が楽しくなり1人でニヤついたりして
いた。
塾では新しい先生が小論文・面接の授業を受け持ってくれた。でも、ただ授業を受けて
いるだけという感じ。こんなコミュニケーション嘘っぱちだろとか思いながら先生の話を
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ラッキー、書けそうだ。修学旅行のCAの出来事を書き、そこからブライダルプランナー
ながら問題用紙を表にした。小論文のテーマは…「これまでの人生で1番感動したこと」。
始めてください」うわもう始まった。自分でも書けるようなテーマであって下さいと祈り
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聞いていた。一方マニョンと一緒にいるときはしていなかったことを始めた。それは、日
記みたいにその日に会った出来事をノートに書く習慣がついたということ。その日に話し
かけられたときの内容をメモするだけだが、そうすることで、言葉だけに集中でき、実際
にしゃべっている時よりももっと相手のことが理解できる気がした。この作業も楽しかっ
た。こうして私は暗さ満点のLJKになったのだが、1人でいる時に笑顔になっている瞬
間が増えたことが、自分でも何より驚いた。
だがそんな私にもついに受験本番の時期が来た。9月にもAO入試はあったのだが、そ
の時は気分が乗らなくて受験しなかった。ということで、 月上旬のこれが最後のAO入
AO入試当日。 月の冷たい風が目に染みる。ときおり正面から吹いてくる強い風が、
私にだけ向かってくるように感じる。
近づいてくるにつれ受験という圧倒的な現実が押し寄せてきた。
試。今まで1人で妄想にふけりながら新しくて楽しい遊びに夢中だったのだが、入試日が
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はじめに小論文の試験があった。塾で授業は受けていたものの、 分で800字を書き
きったことは1度もない。
「準備不足」
という文字が頭の中でぐるぐる回り始める。「では、
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になりたいことを書こうと決めた。
なんとかまとめた。良かった、800字ちょうどではないけど、ほぼ最後まで書けた。
プチ日記を付け始めたことが、
文章を書く良い練習になっていたのかもしれないと思った。
そして次はいよいよ面接。
面接室の控室に誘導される。面接に呼ばれるまでの時間が異常に長く感じられる。考え
てみると、自分が他人と2人きりで 分という長時間会話をするなんて、いつ振りだ?と
いう状態。そんな私がどうやって面接に臨むというのだ。やはりマニュアル通りに聞かれ
た こ と を テ キ パ キ 答 え ら れ る 生 徒 が 合 格 し て い く の だ ろ う … そ ん な こ と を 考 え て い る と、
ふとマニョンの言葉を思い出した。
「目をきらきらさせて面接に臨めばいい。『私は教授が
いる大学に入りたいんです。憧れの大学の教授を前に、胸がドキドキするんです』という
きらきらオーラを顔全体で表現すればいい」…全く参考にならないよ、マニョン!そんな
アニメみたいな人間がどこにいるの? マニョンは出身が原始時代だから、そんな単純な
人間しか想像できないんだよ、
クソマニョン! クソ…間違えた、先生の本名はクロマニョ
ンだ。そんなことを考えながら、ニヤけている自分に気付き、前髪を分ける仕草をしてご
まかした。
「…ユカさん、いらっしゃいませんか?」
我に返ると、私の名前が呼ばれていた。誰に返事をするでもなくすいませんと謝りなが
31
10
ら席を立つ。しばし緊張を忘れていたため現実感がハンパない。
面接が行われている部屋に入るとハッとした。あの教授。AOの説明会の時の教授。オ
シャレに長い髪をワイルドに分けていて、白髪と黒髪の比率はちょうどゴマ塩くらい。街
中で見れば、おーお洒落なワイルドおじさんとか思いそうな感じ。私にとって超ラッキー
だったのは、入試の面接官があの素敵な話をしてくれた教授だってこと。でも目の前にい
る教授から、あの時の穏やかな表情を浮かべながら話していた姿を思い出すことはできな
い。先生、私は誤解を与えるコミュニケーションが取れます…誤解しか与えないコミュニ
ケーションしか取れませんけど…。ろくに返事もできない私を、どうか拾ってください…。
まずいどんどん緊張してきた。
「それでは、志望動機を教えてください。」始まった。
ゴマちゃん先生がついに切り出す。
下を向きながら質問してくる。完全に普通の面接官だ。
肝心の私。何も言えない。面接に必要な一通りの受け答えは練習していたのだが、それ
すらどこかにふっとんでしまった。今私は「うー」とか「あー」とか言語になっていない
音を発している。相手はコミュニケーションの真髄を知っている人間。でもここは面接会
場で、先生は今は面接官に徹している。面接に必要なテクニックでしか私を判断してくれ
ないにちがいない。あ、既に質問されてから5秒は経ってる、もう終わりだ。人の話に5
秒も間をおいて何も反応できないなんて。そもそも何を質問されたのかさえ忘れてしまっ
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た…その時、ゴマちゃんが何か言っていたが、頭の中がゴマちゃんの髪の毛以上に真っ白
で、何も聞こえなかった。
「敗北者」という巨大で赤黒い烙印を全身にぐりぐり押された
私…正真正銘のコミュ障だ。
脳内は完全な白から真っ暗闇へと変化していた。暗い…黒い?
黒? ふとマニョンの叫び声が頭に響いた。
夏期講習中、汗をふきふきマニョンが私に言っ
た言葉だ。
「何か聞かれたら返事をしろ!」
くわっと顔を上げ、ゴマちゃんを正面から見つめた。驚くほど素直に、ゴマちゃんの目
を見ることができた。
「はいっ!」
するとゴマちゃん。
「ん? 何が『はい』?」
しまった、何秒も経ったあとで「はいっ」て、意味分かんないよね。とんでもない失態
をやらかしてしまった。
「あ、意味わからなかった? 私はね、きみみたいな学生をずっと待ってたんだよ。面
接のマニュアルを一切無視する子。質問に対して通り一遍の考えじゃなく、こちらからの
質問に対して真剣に考えてくれる子。たとえそれが聞かれるに決まってる質問だとしても
ね。少なくとも、志望動機を聞かれて間髪入れず答えなかった学生は君が初めてだ。まぁ
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単純に緊張しているだけなのかもしれないが」
しばらく固まる。何が起きたのかよくわからない。
「 誰 が 聞 い て も 同 じ よ う な 答 え し か し な い 生 徒 を 私 は 望 ん で い な い。 そ れ な ら よ っ ぽ ど
君 み た い に 何 か 苦 し み な が ら 話 す 内 容 を 考 え て く れ る 生 徒 の 方 が 学 生 と し て 魅 力 が あ る。
ただ、何も言わないのはいけない。コミュニケーションを怖がってはいけないよ。何か言
わないと、コミュニケーションは始まらない」
驚くほど完璧に、ゴマちゃんは私のことを誤解している! 奇跡の勘違い! 嬉しさが
こみ上げてきたが、すぐに、これまでの苦しみは今この瞬間のために存在してきた気がし
た。何も言えない自分を否定し、この先どうやって他人と関係を築いていけばいいのか全
くわからなかった自分。そんなときマニョンと出会い、マニョンの人との接し方を目の当
たりにすることで大切なことがおぼろげながら理解できた気がした。たぶんマニョンは信
じられないほど「素直」な人間なんだと思う。人のことが好きで、知りたくて、だからあ
んなふうにどんどんいろんな質問をしてくれたのだろう。私がマニョンに色々聞かれて嫌
に思ったどころかあたたかい気持ちになったのも、自分のことを知りたいと思ってくれて
いることが嬉しかったからなんだと思う。
…今この状況はマニョンと一緒にいる時と同じ。
教授は、私のことを知りたいと思ってくれている。あとは、私が勇気を出して前に進むだ
けだ。汗が全身から噴き出てくるのを感じた。
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「私、話をするのが苦手で、さっきは本当に何て言えばいいのかわからなかったんです。
でも、もう、嬉しいです。頑張って話します。何でも聞いてください。もっと私のことを
知りたいと思ってください。今、この瞬間から私も人に興味をもって、人のことを好きに
なります…」話しているうちから涙が止まらなかった。自分が自分ではないような気がし
た。
ここから先は、自分でもあまり覚えていない。唯一記憶に残っているのは、その時に交
わした教授との対話が非常に心地よかったということ。自分でも気付かなかったような言
葉が、どんどん湧いて出てきたということ…
それから半年後。私の周りには、新しい友人がたくさん広がっている。自分でも信じら
れないくらい。友達を作るポイントは2つ。
「笑顔でいること」と、「あなたをもっと知り
たい」と相手に向かって言うだけだ。あらためてこんなことを言うのは恥ずかしいけど、
効果てきめん。こう言われて喜ばない人はいないということを知った。
前に教授が言っていた「誤解のあるコミュニケーション」というのも今ではなんとなく
理解できる。
相手が話している内容に対して自分の理解が正しいかどうか確認さえすれば、
正しく理解しているのか誤解しているのかがすぐに分かる。私が誤解している時はきまっ
て、相手が興奮気味になる。
「いや、そうじゃなくって…」と熱を帯びて話し始める姿を
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見ているのが私は本当に好きだ。そして、話がこじれつつも話が最終局面まで進み、あら
ためて話の内容を理解できたと相手に伝えると、相手は「いや、こちらこそありがとう」
と感謝をされる。私が単純に誤解しているだけなのに相手に感謝されるって、本当に不思
議。でも言葉って素敵。
今日は言語学概論の授業がある。私に地獄も天国も味わわせてくれたコトバとは何か、
興味をもったので受講したのだ。教授はもちろんゴマちゃん。
「…分節という用語があります。
原始人は、
名状しがたい非連続の世界を把握するために、
言葉(音声)を発し、それが記号として同族民に認知されるようになりました。このよう
にして原始人は世界に意味付けをしていったのです。ここから世界は言葉を介して認識さ
れるようになりました。ちなみに言葉の分節が始まったのはいつかということについては
まだ議論がなされているところですが、皆さんご存じのクロマニョンの時代にはおおよそ
…」
あなたがこの地球上でコトバを発したのね。
爆笑。クロマニョン。懐かしい。マニョン、
そこから、コトバの世界は始まった。マニョン、ありがとう。私は今、笑顔で人の話を聞
いているよ。
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