参考 日本語訳(PDF:169KB)

「人道の港
敦賀」の掲載内容(日本語)
「人道の港」敦賀
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75年前の日本で起こった国際交流
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本州が中ほどで大きくくびれた部分の日本海に面した北岸に、敦賀という街はある。京
都から100km(60マイル)と近いこの港町は、20世紀初頭にシベリア鉄道が開通すると
日欧間を結ぶ最短ルートに組み込まれ、ウラジオストク~日本間の国際航路と、これに
接続する東京行きの「欧亜国際連絡列車」の乗継地点として重要な役割を果たした。街
は旅行者で賑わい、街道筋には商店や旅館などが軒を連ねた。しかし、この港町に、欧
州から迫害を逃れてきたユダヤ人達の姿があったことは、あまり知られていない。
1939年、勢力を拡大するナチス・ドイツに祖国を追われ、行き場を失ったポーランド系
ユダヤ人は、唯一残された逃避ルートとなったシベリア鉄道に殺到した。しかし、鉄道に
乗るにはビザが要る。隣接するリトアニアの日本領事館に押し寄せた人々に、時の領事
代理、杉原千畝は、自身の判断で日本に渡るためのビザを発給した。この英断によって
約6,000人のユダヤ人の尊い命が救われたといわれている。これが日本版『シンドラーの
リスト』といわれる史実である。
杉原のビザを携えたユダヤ人たちは、鉄道と連絡船を乗り継ぎ、まず敦賀に上陸した。
敦賀が「人道の港」と呼ばれるのはそのためである。ここで移動の手配を整えると、彼ら
は神戸や横浜へ向かい、船で最終目的地を目指したのである。
しかしこうした史実は、戦争当時の暗い記憶としてあまり語られず、地元の人達の間で
もあまり知られてこなかった。また、関連の書類が大戦末期の空襲で焼失したこともあっ
て、風化の危機にあった。ところが、21世紀に入り杉原千畝の功績が再評価され始める
と、敦賀での出来事を記憶にとどめようとする機運が高まり、地元で詳細な聞き取り調査
が行われることとなった。調査は、関係者が高齢化し話を直接聞く機会が急速に失われ
つつある中、きわめて貴重な情報を提供した。初めは恐々と対応していた敦賀の人々が
、ユダヤ人達の疲弊した姿を見て、少年がリンゴを無償で提供したり、風呂屋を開放した
り、資金を融通したりと、交流を深めていく様子が浮かび上がってきたのである。
この調査結果は、ユダヤ人達が上陸した港の近くに建つ「敦賀ムゼウム」に展示されて
おり、当時の貴重な資料のほか、敦賀を通過して他国へ逃れ、生き延びた人たちのイン
タビュー映像なども見ることができる。
敦賀市では、こうした記憶を風化させないよう、小中学校の教育に取り入れるとともに、
展示物を充実させるなどして、敦賀の歴史を後世に伝えようとしている。「多くの人に資料
館に来てもらい、敦賀の果たした役割や、避難民と地元の人たちとの交流、そして現在
の敦賀の姿などを知ってもらいたい」という言葉に、地元の人の誇りと心意気がこもって
いた。