略年表 1916-1929 (Charles Kelsey Dozier:1879−1933) C.K.ドージャー G.W.ボールデン 1919-1932 波多野 培根 1920-1944 水町 義夫 1917-1960 (George Washington Bouldin:1881−1967) (はたの・ますね:1868-1945) (みずまち・よしお:1885-1967) 1933-1941 1947-1969 (Edwin Burke Dozier:1908-1969) E.B.ドージャー 1916-1929 1939-1940 (Maude Burke Dozier:1881−1972) M.B.ドージャー 1938-1940 1947-1976 (Alma O'Norean Graves:1907−2000) A.O. グレーヴス 代 院 長に 就 任 1 9 74 短 期 大 学 部 を 廃 止し 、大 学 文 学 部 児 童 教 育 学 科 増 設 1 9 73 W・M・ギャロット、第 年安保闘争 1 9 71 大 学 国 際 交 流 制 度 実 施 。米 国ベイラ ー 大 学 との 間に 姉 妹 校 宣 言 文 交 換 1 9 7 0 学 生 によ る 1 9 6 9 他 校 生 を 含む 学 生 が1 号 館 を 封 鎖し 、院 長 室 や 各 学 部 長 室 な ど を 破 壊 1 9 6 8 学 費 値 上 げ 反 対に端を 発して大 学 紛 争が起こり、E・B・ドージャー 院 長らを 軟 禁 1967 法 学 部 法 律 学 科 開 設 1 9 6 6 学 生 によ る 法 学 部 増 設 阻 止 共 闘 会 議 結 成 1 9 6 5 E・B・ド ージャー 、第 9 代 院 長に 就 任 1 9 6 1 M・B・ド ージャー が西 日 本 文 化 賞 を 受 賞 1 9 5 4 西 南 学 院 卒 業 生 1 万 人 突 破 記 念 式 行 われる 1 9 5 0 福 岡 保 育 専 攻 学 校 を 西 南 学 院に 合 併し 、短 期 大 学 部 児 童 教 育 科 と なる 1 9 5 0 舞 鶴 幼 稚 園 、早 緑 子 供の 園 が西 南 学 院の 組 織に 入 る , S e i n a n ! ﹂を A・O・グレー ヴスが作 詞 1 94 9 カレッジ・ソング﹁ A h 1 94 9 E・S・S 主 催 ギャロット 杯スピー チコンテスト 開 催 1 9 4 9 早 緑 子 供の 園 設 立 1 94 9 W・M・ギャロットが初 代 学 長 と な り 、新 学 制によ る 西 南 学 院 大 学 開 設 1 9 4 8 新 学 制 によ る 西 南 学 院 高 等 学 校 開 設 1 9 4 7 新 学 制 によ る 西 南 学 院 中 学 校 開 設 1 94 5 敗 戦 1 94 5 福 岡 大 空 襲 1 94 4 三 校 統 合 問 題︵ 福 岡 高 等 商 業 学 校 九 ・ 州 専 門 学 校 と 統 合 ︶に 水 町 院 長 が抵 抗 1 94 3 学 徒 出 陣 始 まる 1 94 1 アジア・太 平 洋 戦 争 勃 発 1 94 0 M・B・ド ージャー が創 立 者 と な り 、西 南 保 姆 学 院 開 設︵ 後の 福 岡 保 育 専 攻 学 校 ︶ 1 9 3 9 M・B・ド ージャー 、﹁ 基 督 教 教 育 指 導 者に 参 考 と なる 思 想 ﹂を 発 表 1 9 3 7 御 真 影 拝 戴 式 が 行 われる 1937 日 中 戦 争 始 まる 1 9 3 3 水 町 義 夫 、第 4 代 院 長に 就 任 1 9 32 学 生 寄 りの立 場に立つボ ールデンがミッション会 議 と 対 立し 、院 長 辞 任 1 931 満 州 事 変 勃 発 1 9 3 0 G・W・ボ ールデン、第 3 代 院 長に 就 任 1 92 9 C・K・ド ージャー は 、日 曜 日 問 題の 責 任 を 取って院 長 辞 任 1 92 8 日 曜 日 問 題のため 、高 等 学 部 内にスト ライキ 起こる 4 年 制 ︶及 び 入 学 式 1 92 7 主 日︵ 日 曜 日 ︶のスポ ーツ活 動 を 巡って問 題 が表 面 化︵ 日 曜 日 問 題 ︶ 1 92 1 高 等 学 部 開 設︵ 旧 制 水 町 義 夫 、作 曲 5年 制 ︶ 島崎赤太郎︶ 1 92 1 学 院 本 館・講 堂 献 堂 式 並 びに 第 1 回 中 学 部 卒 業 式 1 92 0 西 南 学 院 校 歌 誕 生︵ 作 詞 1 9 1 8 福 岡 県 早 良 郡 西 新 町に 移 転 1 9 1 7 C・K・ド ージャー 、第 2 代 院 長に 就 任 1 91 3 舞 鶴 幼 稚 園 設 立 1 9 1 6 福 岡 市 大 名 町に﹁ 私 立 西 南 学 院 ﹂創 立︵ 旧 制 男 子 中 学 校 西南学院大学博物館 西南学院創立 100周年記念学院史企画展Ⅱ 1 9 0 6 C・K・ド ージャー 、J・H・ロウ、G・W・ボ ールデンの三 家 族 が宣 教 師 として来 日 略 年 表 〒814-8511 福岡市早良区西新 3 - 13 - 1 URL www.seinan-gu.ac.jp/museum/ 主催 / 西南学院百年史編纂委員会 (1907−2000) (1908−1969) . TEL.092-823-3920 〒814-8511 福岡市早良区西新 6 - 2 - 92 URL www.seinan - gakuin.jp/100aniv/ A.O.グレーヴス (1910−1974) (1881−1972) W.M.ギャロット M.B.ドージャー E.B.ドージャー 5.29[金] 西南学院 100周年事業推進室 11 2015.4.1[水] |時間| 午前 10 時∼午後 6 時(入館は午後5時半まで) |会場| 西南学院大学博物館特別展室 |入場料| 無料 |休館日| 毎週日曜日 西南学院を支えた 宣教師とキリスト者たち 70 水町 義夫 (1868−1945) (1885−1967) 波多野 培根 (1881−1967) (1879−1933) G.W.ボールデン C.K.ドージャー W.M.ギャロット 1936-1940 1947-1964 1972-1974 (William Maxfield Garrott:1910−1974) 1980∼ 1970 1960 1950 1940 1930 1920 1910 ∼1900 西 南 学 院での 在職期間 アクセス 福岡 ヤフオク!ドーム 西南学院を支えた 宣教師とキリスト者たち アメリカ南部バプテスト連盟によって、1916(大正5)年に福岡市大名町に設立された 西南学院は、間もなく創立100周年を迎えます。 この間、創立者C.K. ドージャーをはじめ、 南部バプテスト外国伝道局(ミッション・ボード)から派遣された多くの宣教師や、 日本人キリスト者たちによって建学の精神が守られ、育まれてきました。 そのキリスト教精神に基づいた教育は現在にも受け継がれており、 学院を支えた人々の歴史を辿ることは、100周年を迎える西南学院の歴史を辿ることでもあります。 今回の企画展では、現在の西南学院の発展に貢献した多くの先達の中から、 C.K.ドージャー、G.W.ボールデン、波多野培根、水町義夫、E.B.ドージャー、 M.B.ドージャー、W.M.ギャロット、A.O.グレーヴスに焦点をあて、 西南学院がこれまで歩んできた歴史を振り返ります。 Ⅰ章 建学の精神と日曜日問題 Ⅲ章 西南学院の発展とキリスト教教育 第 第 西南学院は、1916(大正5)年に男子中学校(旧制) として創立さ れ、1921(大正10)年に最初の卒業生を輩出する年に合わせて高 等学部を開設した。当初は順調な滑り出しに見えた学院であった が、 キリスト教になじみの薄かった日本の学生とキリスト教の信仰 に忠実に従うドージャー院長との間に主日 (日曜日)を巡って意見 の対立が生じ、 「日曜日問題」 が起こった。 創立者・第2代院長 ボールデンの革のトランク C.K.ドージャー 在職期間/ 1916 海外渡航の際に使用された トランクでステッカーに ボールデンのサインが残されている。 1929 西南学院百年史編纂委員会 戦前から西南学院に奉職していた宣教師たちの多くは、戦後すぐに ミッション・ボードから派遣され、再来日を果たした。彼らは、 日本 が敗戦による喪失感から立ち直るため、西南学院とともに歩み、支 える役割を担った。戦後、西南学院は、1947(昭和22)年に新学制 による中学校を開設し、その後、高等学校や大学も後に続いた。大 学は、積極的にキリスト教教育や外国語教育を行い、現在の西南学 院の発展の基礎を形作ることに貢献した。 第3代院長 G.W.ボールデン 在職期間/ 1919 1932 第9代院長 第2代・第5代 舞鶴幼稚園園長 E.B.ドージャー M.B.ドージャー 在職期間/ 1933 1941 1947 1969 在職期間/ 1916 1929 1939 1940 「日曜日問題」を 背景とした「建議書」 (写し) 建学の精神の 1928(昭和3)年 へんがく 額 ドージャー院長の退陣などを決議し、 ストライキが起こった。 このとき作られた18項目からなる 「建議書」の写し。 1933(昭和8)年頃 創立者C.K.ドージャーの永眠を機に制作された扁額。 Ⅱ章 アジア・太平洋戦争と学院のキリスト者 E.B.ドージャー家の壁飾り 41年間にわたり、 E.B.ドージャー院長宅の食堂に かけられていた壁飾り。 第 W.M.ギャロット 在職期間/ 1936 水町 義夫 波多 野 培 根 在 職期間/ 1920 在職期間/ 1917 1944 波多野培根の胸像 1990(平成3)年 大学紛争時に一部が壊されてそのまま 放置されていたものを大学開学40周年を機に、 波多野の遺徳を偲ぶため復元した。 新島襄の形見分けの書籍 新島襄が亡くなった1890(明治23)年、 奉安所平面図 1936(昭和11)年 夫人の八重から波多野に贈られた 『CHRISTIAN DOGMATICS』 という洋書。 「御真影拝載の件」の申請書類の1つで (西南学院大学図書館所蔵) 奉安所の平面図。 1960 大学名誉教授 A.O.グレーヴス 1940 1947 1976 1949(昭和24)年頃 第4代院長 宣教師が代々受け継いで 使用されていたものと思われる。 在職期間/ 1938 1940 1947 1964 1972 1974 E.S.S.主催ギャロット杯 スピーチコンテストの 優勝トロフィー 高等学部名誉教授 ドージャー夫妻の長女ヘレン・ピーチから 西南学院に寄贈された。 タイプライター 第 5 代・第 1 1 代 院 長 1930年代から、 日本は徐々に世界大戦への道へ進んでいく。 キリスト教は 軍国主義の批判の対象となり、 ミッション・スクールである西南学院は多く の困難と向き合うことになった。 この時代、波多野培根と水町義夫は、 キリ スト教の排斥運動や三校統合問題など度重なる窮地を乗り越えていった。 M.B.ドージャーが 少女時代に描いた油絵 (西南学院大学E.S.S.所蔵) 1957年の卒業記念アルバム 1957(昭和32)年3月27日 旧1号館の写真にグレーヴスが作詞した 「Ah, Seinan!」の歌詞を載せた 卒業記念アルバム。
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