神秘−90 永遠の救いの源 19:8−16;pdf

 信仰の神秘−90 「消え行く光」 2015.3.29
ヨハネ 19:8-16、ロマ 11:25-36、創世記 45:1-8
8
ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 9 再び総督官邸の中に入って、「お前
はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
10
そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字
架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」11 イエスは答えられた。
「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わ
たしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 12 そこで、ピラトはイエスを釈放
しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。
「もし、この男を釈放するなら、あ
なたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」13 ピラトは、
これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷
石」という場所で、裁判の席に着かせた。14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろで
あった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 15 彼らは
叫んだ。
「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、
「あなたたちの王をわたしが十字
架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、
「わたしたちには、皇帝のほかに王はあり
ません」と答えた。16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引
き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。
Ⅰ. 被造者感情
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はヨハネ福音書
19章8節以下です。この段落は主イエスを十字架に上げるために行なわれたピラトの下での裁判の第三場
面です。ここでキリストの十字架刑が決定するのです。
....
ヨハネはこの場面をある不可解な言葉で書き出します。それは、「ピラトは、この言葉を聞いてますます
恐れ」たです。
「この言葉を聞いて」とは、ユダヤ人たちが主イエスを訴えた言葉、
「神の子と自称した」で
す。ピラトはこの言葉を聞いて「ますます恐れ」たというのです。「ますます」とは、これ以前にもピラト
は主イエスに対して恐れを感じていたということです。しかし、これまでの裁判の経過を見ても、ピラトの
恐れを思わせるような表現は見当りません。そうであるのになぜヨハネは、ピラトは「ますます」恐れたと
記したのでしょうか。
ある研究者は、ピラトのこの恐れは《ヌミノーゼ》的な恐れ、即ち《聖なるもの》を前にしたときの被造
者感情であるといいます。この恐れを表現したものに、キドロンの谷における主イエスの逮捕があります。
主イエスが「だれを捜しているのか」と問うと、彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。主イエスが「わ
たしである」とお答えになると、
「彼らは後ずさりして、地に倒れた」のです。ここに《ヌミノーゼ》、即ち
《聖なるもの》を前にした被造物の恐れが描かれているのです。
《聖なるもの》との出会いが引き起こす被造者感情について伝えているものの一つに預言者イザヤの経験
があります。イザヤは神殿で神の聖なる臨在に触れた時、こう言ったのです。「災いなるかな、わたしは滅
びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者あるのに、わたしの目が
万軍の主なる王を見たのだから」(6:5)。
ヨハネが、ピラトの恐れで描いたのはこれではないでしょうか。聖なるものを前にした、汚れた者の恐れ
です。問題は、なぜヨハネは、これまで一度も触れてこなかったピラトの恐れに、この場で唐突に言及した
1
のかということです。ヨハネは、この聖なるものを前にした恐れを読者にも感じて欲しくて、「ピラトは、
この言葉を聞いてますます恐れ」たという一文を記したのではないでしょうか。神の御子が十字架に上げら
れようとしているのです。だれが恐れずにいられるでしょうか。ロゴス賛歌は言います。「万物は言によっ
て成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照
らす光であった!」この光が今、わたしたちの目の前から消えようとしているのです。
聖なるものを前にしたピラトの恐れは、「お前はどこから来たのか」という問いに端的に描かれているよ
うに思います。ヨハネは、主イエスは珍しくこの問いに沈黙したと記します。ピラトが恐れを感じているこ
とに、イエスがどこから来たのかの答えがあるのです。
、、、、
イエスはどこから 来たのでしょうか。実は、ヨハネはこの「どこから」という語を幾つかの箇所で用いて
....
います。例えば、カナの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡が行われたとき、「このぶどう酒がどこから 来た
のか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」と。また、夜密かに主イエスを訪ねて来たニコデモに、水と
霊によって新たに生まれることについて話された行で、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いて
....
...
も、それがどこから 来て、どこへ 行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と主イエス
は言われたのです。ヨハネは早い段階から「どこから」という句を用いて、読者の関心を、この世を越えた
世界に向けさせようとしたのです。 今日のピラトの問いとの関連で注目したいのは、主イエスが「わたしは世の光である」と言われた説話の
....
...
中で語られた言葉です。主イエスはご自分が「どこから 来たのか、そしてどこへ 行くのか、わたしは知って
いる」(8:14) と言われたのです。ピラトはまさに主イエスの究極的な出自を問うたのです (参 9:29−30)。あ
なたは一体、どこから来て、どこへ行くのかと。 Ⅱ. われわれは何者か
ピラトが主イエスに対する恐れの中で発した問い、
「お前はどこから来たのか」を思い巡らしていたとき、
ゴーギャンがタヒチで描いた絵、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行
くのか」が思い浮かびました。 この絵は右から左へと描かれている三つの人物群像が作品の題名を表現しています。画面右側に子どもと
共に描かれている三人の人物は人生の始まりを、ひときわ目を惹く中央の人物たちは成年期を、そして左側
の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」で、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉
がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残しています。ゴーギャ
ンはこの作品に、人が生まれてから死ぬまでの様々な意味を込めたのです。ゴーギャンはこの絵を書き上げ
た後に、実は、未遂に終わりますが自殺を試みています。文明を遠く離れたタヒチの豊かな自然も、また自
然と共に生きる素朴な人々の瞳の輝きも、芸術家が鋭い感性で捉えた人間存在の渇き、「わたしは、なんと
いう惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」の問いには答
えてくれなかったのです。 わたしは、ピラトが主イエスを前にして発した問い、「お前はどこから来たのか」は、ゴーギャンが発し
た問い、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」と重なるよう思
えてなりません。言い方を換えますと、ゴーギャンの、そしてピラトが発した問いへの答えが、イエスはど
こから来たのか、どこへ行くのかにあるのです。御言葉に聞きたいと思います。
この後ピラトはまるで恐れを振り払うかのように、主イエスの沈黙を打ち破ろうとします。「わたしに答
えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と。
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このように迫るピラトに答えた主イエスの言葉は、一層ピラトの恐れをかき立てるものでした。「神から与
................
えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡し者の罪は
.....
もっと重い 。」「もっと重い」とは、これ以上の罪はないということです。
ピラトはこの言葉を聞くと、「イエスを釈放しようと努めた!」とあります。しかしピラトの努力は、ユ
ダヤ人たちの叫び声、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、
皇帝に背いています」を聞いて一瞬にして潰えます。この一言で、主イエスの十字架刑が決定したのです。
ヨハネはこの場面を次のように結びます。
「ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。」ピラトは、主イエスがこれ以上の罪はないと言った罪を犯した人々
の手に、イエスを引き渡したのです。 ヨハネは、このピラトからユダヤ人たちへの主イエスの引き渡しの場面を象徴的な言葉で描いています。
それは「過越祭の準備の日の、正午ごろ」、
「ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所」で行われ
た裁判で可決したと。ピラトの下で行なわれた正規の裁判の場所と時間をこのように詳しく伝えているのは、
四福音書中ヨハネだけです。「これによって、世にある教会にとってこの瞬間の持つ意味がしっかりと把握
される」と言った人がいます。 この場所と時間の詳細な指定、特に時間の指定、
「過越祭の準備の日の、正午ごろ」によって把握される、
世にある教会にとってこの瞬間のもつ意味とは何でしょうか。 「過越祭の準備の日」とは安息日の前日、つまり金曜日のことです。この時間指定によれば、出エジプト
以来、連綿と続けられてきた、イスラエルの解放を記念する犠牲の羊が屠られるまさにその時間に、主イエ
スは十字架に上げられたことになります。言い換えますと、「過越祭の準備の日」というこの時間指定によ
ってヨハネは、主イエスは今、洗礼者ヨハネが証言した、「世の罪を取り除く神の小羊」として、十字架に
上げられるという意味を込めたのです。 Ⅲ. 究め尽くせぬ愛
もう一つ、象徴的な時間指定があります。それは「正午ごろ」です。この時間指定は研究者たちの間で「頭
痛の種」になっています。どういうことかと言えば、「正午ごろ」主イエスはユダヤ人たちに引き渡された
という時間指定は、マルコ福音書が伝える時間と解決不可能なほど矛盾しているのです。マルコでは、主イ
エスが十字架に上げられたのは「午前九時」
(15:25)と明記されています。マタイもルカもそれを前提にして
います。そしてマルコによれば「正午ごろ」とは、「全地が暗くなり、それが三時まで続」き、そして「三
時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』」 主イエスが十字架に上げられた時間は九時なのか、それとも正午ごろなのかと、警察官のような視線で、
その証言の矛盾に思い悩む (頭痛の種) ことは無意味です。聖書記者たちの関心は、それが起こったのはいつ
か、にあるのではなく、起こったことの意味を解明することにあるのです。 では、主イエスが十字架に上げられたのは「正午ごろ」としたヨハネの意図は何か。ヨハネが描く主イエ
スの十字架刑の場面には、共観福音書が描く、昼の十二時から三時まで全地が暗くなったという終末論的な
描写はありません。わたしは、ピラトの下で行われた正規の裁判を「正午ごろ」としたヨハネの意図がここ
にあると考えます。つまりヨハネは、共観福音書が描いた全地を覆う闇を描いたのです。ロゴス賛歌は言い
ます。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命
があった。命は人間を照らす光であった!」この光が今、わたしたちの目の前から消えようとしているので
す。 3
ロゴス賛歌では、ユダヤ人たちは「自分(神)の民」と言われています。その民が、言を理解せず、認め
ず、受け入れないのです。彼らは、ピラトが「見よ、あなたたちの王だ」と言ったイエスを、
「殺せ。殺せ。
十字架につけろ」と狂い叫ぶのです。主イエスの言葉が胸を締めつけます。「わたしをあなたに引き渡した
者の罪はもっと重い!」聖なるものを《呪われた者》として木にかける (ガラテヤ 3:13)、これ以上の罪、闇は
ないのです。 一体、主イエスを《呪われた者》として十字架に上げるこの瞬間の持つ意味はなんでしょうか。そのこと
を黙想していたとき、創世記45章が伝える、ヨセフが兄弟たちと和解する場面が思い起こされました。 ヨセフは父ヤコブの12人兄弟の11番目です。聖書記者はヨセフ物語の発端を次のように書き出します。
「イスラエル(ヤコブ)は、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い
晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏や
かに話すこともできなかった」(37:3-4)。 ヨセフと兄たちとの関係は、ヨセフが兄たちを支配する者になるという夢を見て、それを兄たちに話した
ことで決定的になります。ヨセフ17歳のとき、ヨセフに対する兄たちの憎しみ、妬みは殺意に代わるので
す。骨肉の争いが起こるのです。兄たちに殺されそうになったヨセフは、九死に一生を得て、エジプトに奴
隷として売られます。そしてヨセフは、エジプトで囚人の世話をするという、最底辺の仕事をさせられるの
です。 月日が流れ、ヨセフが囚人たちの世話をする牢に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が幽閉されたこ
とで、事態は大きく動き出します。彼らが見た夢をヨセフが解き明かしたことで、やがて王が見た夢、未だ
経験したこともないような大飢饉が襲うという夢を解き明かし、ヨセフはエジプトの宰相にまで上り詰める
のです。豊作の間に食糧を蓄えて凶作に備えよとのヨセフの進言が王の心を捉えたのです。ヨセフ30歳の
時です。 やがて王が夢で見た飢饉が起こると、食糧を求めて多くの人々がエジプトにやって来ます。その中に、か
つてヨセフを憎み、妬み、殺そうとした兄たちがいたのです。父の寵愛を一身に受けていたヨセフを、囚人
の世話係というどん底に突き落とした兄たちです。ヨセフは兄たちに直ぐ気づきますが、兄たちは目の前に
立つエジプトの宰相がヨセフだとは気づきません。先ほどお読みいただいた創世記45章は、兄たちが食糧
を求めてエジプトにやって来た二度目の時にあったことです。ヨセフが兄たちに身分を明かす場面です。そ
れはまことに情感豊かに描かれます。ヨセフ物語のクライマックスです。 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここか
ら出て行ってくれ」と叫びます。だれもそばにいなくなると、ヨセフは声をあげて泣いたと御言葉は記しま
す。そしてヨセフは、嗚咽をこらえて兄たちにこう言ったのです。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ
生きておられますか。」兄たちは驚きのあまり、言葉を失います。その兄たちにヨセフは語りかけます。
「ど
うか、もっと近寄ってください。」 言われるままに兄たちが近づくと、ヨセフはこう語り出したのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ
売った弟のヨセフです。」このヨセフの言葉に、ヨセフと兄たちが生きてきた四半世紀が凝縮されているの
です。このヨセフの言葉は、鋭利な刃物のように兄たちの胸に突き刺さります。不安と恐怖の中にいる兄た
ちに、ヨセフはこう語りかけます。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合った
りする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。
・・・
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です!」 聖書記者は、この素晴らしく、慰めに充ちたヨセフの言葉を兄たちは信じていなかったことを、父ヤコブ
4
の死の場面で描きます。兄たちは、父ヤコブが死んだのを契機に、ヨセフは復讐するのではないかと恐れた
のです。その恐れる兄たちに語られたヨセフの言葉は、旧約で語られた最も甘美な言葉、福音です。ヨセフ
.................... ..
はこう言ったのです。
「恐れることはありません。
・・・あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが 、神は
....... .............................
それを善に変え 、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです !」 それにしてもなぜヨセフはこのように語れたのか。ヨセフは、囚人の世話係のままであってもこう語れた
だろうか。ヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトとの間に与えられた二人の息子に、次のような
名を付けている。長男はマナセ、その意味は「忘れさせる」で、次男は「神は、悩みの地で、わたしに子孫
を増やしてくださった」との思いからエフライム(増やす)と名付ける。エジプトの宰相にまで上り詰めた
ことで、ヨセフは苦難の意味を知ったのである。 わたしは、ヨハネが、主イエスの十字架刑を決定するピラトの裁判を、
「過越祭の準備の日の、正午ごろ」
行なわれたで描いたのはこれではないかと考えています。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、
神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった」ということです。ユダヤ
人たちは神の御子を十字架に上げるという、これ以上ない悪をたくらんのです。その悪を神は善に変え、多
くの人の命を救われるのです! パウロはこの驚くべき神のわざについて次のように語りました。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深
いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知って
いたであろうか。だれが主の相談役相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであ
ろうか。』」 なにゆえ神は、御子イエス・キリストを十字架につけることで、これ以上ない罪を犯した者たちの悪を、
多くの民の命を救う善に造りかえられたと語り得たのか。それは、主イエスが死より復活されたことによる
のです。人間の汚れた手でかき消された光が、永遠の命の光として甦ったのです。それによって、「わたし
は、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と
叫ぶしかなかったパウロが、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と歓喜
の叫びを上げたのです。「栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 (祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけて、究め尽くすことのできない神
の富と知恵と知識の深さを賛美させて下さい。
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