文献紹介:中西慶爾『巡歴中仙道』

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中西慶爾著
巡歴中山道
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上州路七宿・信濃路十五宿・木曾路十一宿・美捜
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介
老残の身で、長旅はできず、 五 日 か 一 週 間 ぐ ら い し て 度 々 帰 宅 し て
休養した﹂とあるが、本書は明治三十年生れの著者が、中山道を踏
(川崎
二 、 八C C円
破 し ﹁ 足 で 書 wた 著 書 ﹂ と し て 、 歴 史 地 理 学 を 専 攻 す る も の の 範 と
木耳社
九回大会の報告︺
す べ き で あ る うO B六 版 五 五 二 頁
︹第
第 一 九 回 大 会 は 去 る 四 月 二 九 日 、 日 本 女 子 大 学K 会 同 て 開 催 さ れ 、
左 記 の 研 究 発 表 が あ り ま し た 。 発 表 終 了 後 ﹁ 都 市 の 歴 史 地 理 一 K関
黒鰐千晴両君)が行なわれました。
夕刻より桜楓会館にな円て懇親会が開催され、参会者多数で盛会裡
山崎謹哉
著 者 中 西 さ ん は 一 花 来 中 国 美 術 史 の 研 究 家 で 、 特K 墨 跡 。 研 究 が 深
に終了しました。なな、正午から別室において評議員会、 終 了 後 総 会
する共同討議(司会
ぃ。そのためか中山道の路傍に、点在する碑文には鋭円観察眼をも
天候の中を木村東一郎君の案内で青梅付近の巡検が行なわれ、定員
三CBKは 悪
が開聞かれ、前号掲載のような審議が行なわれました
ο挿 直
一木曾路名高直会一
一 杯 の 参 加 者 が あD 、 無 事 終 了 し ま し た 。 巡 検 、 共 同 討 議 、 研 究 発
hyです。
四 月 三C 日 は 合 憎 、 朝 か ら 強 w雨 が 降 っ て 山 れ た が 、 青 梅 線 小 作 駅
巡検報告
衰の内容は次のとな
や広重や英泉の﹁木曾街道六十九次﹂の絵を借用して、昔。姿を表現
、 さらに多︿の写真を加えて、読む人を鐙かささ士勺、
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と
、
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著者独特の味のある文で書いてあるので面白い。 本 書 04
ヘ部号、 Gネ ム 道
一巻と
以降、 日 本 住 宅 公 団 が 中 心 と な っ て 開 発 し 、 工 業 団 地 と し て 造 成 さ
った井戸も残されて加え。パスは以前桑閣であった所を昭和三五年
ス で 出 発 し た 。 集 合 場 所K は 青 梅 鉄 道 が 明 治 二 七 年 開 通 し た 時
κ堀
マイクロパ
前には全国各地からの会員が多数集まり、本会々員で青梅市文化財
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赤報隊﹂の説話集が載って仰る c
ζ の 第 二 部K も っ と 力 を 入 れ た か っ た よ う で
﹁惨た
の 道 筋 を 中 心K書 山 円 で あ る が 、 第 二 部 と し て ﹁ 和 吉 の 東 塚 行 一
狗党・死の訪復﹂
がき﹂にもあるように、
あるが、ページ数の関係で割愛したという@
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、
保 護 委 員 の 木 村 東 一 郎 氏 の ど 案 内 で 午 前 一O 時一O 分
一天
中 山 道 を 旅 し て 阿 る よ う な 気 が す る 。 し か も 単 全 司 Q紀行てで士︿、
最初の板橋宿から一気珂成に、最後の草津宿まで茨九でみ
した
が同行﹂など多数の古書を引用したり、
って臨んで刷る。また貝原益軒心一岐線路之記一や太田有数の﹁壬,
を得衣川 U O
り、今では八十オに近い。本書はまず彼のエ為ルギッシュ K 驚 歎 せ ざ る
を巡歴して、街道史を出版(木耳社)したが、その時すでに七十オを越してお
々 に ま つ わ る 物 語Pをまとめたものである。葉室告はかつて﹁甲州街道﹂
路 十 六 宿 ・ 近 江 路 九 宿K 分 け て 、 街 道 の 歴 史 地 還 を 探 求 し 、 宿 場 々
武蔵路十一宿
紹
ま た ﹁ あ と が き ﹂ K ﹁ 中 山 道 の 大 部 分 を 歩 wた が 、 今 や 八 十 近
- 25ー
敏
献