さんぽ日和・湘南の風景『 結核と妾宅』

藤沢法人会は
e-Tax を推進しています!
さんぽ日和
最近、ボランティア意識、社会貢献意識の高い学生に出会う機会が多い。
自分が学生の頃と比較すると顔を覆いたくなることもしばしば(汗)。
今後、少子高齢化が進み、確実に変化を余儀なくされるこの国で、頼もしい
限りと安堵している。
今月の表紙は藤沢法人会女性部会の皆さまが企画された「税に関する
絵はがきコンクール」の応募作品の一部。文頭に書いたような学生が増えて
来ているのは、今回のような地道な取り組みが子どもの頃から「税」を
身近に考える切っ掛けを作り、
「地域社会と自分」、
「日本と自分」、
「世界と
自分」との在り方を考えることに繋がって来ているのでは無いでしょうか?
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北川輝美〈はるめきデザイン〉
子どもを出産後、趣味としてカメラを始める。
幼稚園での写真係から始まり、その後口コミで子ども写真の
依頼を受け、延べ1000人以上の子ども撮影に携わる。
5年前から個人のプロフィール写真撮影の依頼を受け始める。
藤沢観光協会や平塚商工会議所などの撮影に携わる。
写真雑誌「カメラ日和」
にて最優秀賞を受賞。
趣味はカフェ巡りと東北旅行。
ゴルフ始めました。
湘南の風景−失われた記憶
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第六回
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結核と妾宅
鵠沼辺りの昔を知る人は
「この辺りには肺病の人かお妾さ
んきりしかいなかった」
と云う言い方をする。夏場の海水浴
シーズンを終わってしまえば、通年で残っているのは療養の
ために滞在している結核患者の他所者か、別荘と云う名の
妾宅を管理しているお妾さんの姿が目立ったと考えられる。
湘南から東京や横浜へ通勤する人がまだ少なかった時代で
ある。
湘南は海水浴場として保養地・別荘地として開かれたとい
う言説は表のコード
(陽画)
である。
その裏コード
(陰画)
は結
核療養地であり、女性の自立が困難であった時代には別荘
茅ヶ崎南湖員の療養風景
と云う名の妾宅が点在するのがこの地域の姿であった。
そこ
明治期以降、湘南地区を全国へと伝えたのは徳冨蘆花の
が本来の別荘か妾宅であるかは見きわめるのは困難であ
『不如帰』
であり
『自然と人生』
などの文学作品であった。
その
る。鎌倉などでは、妾宅には
「・・・寓居」
と表記されることが多
作品の背景は結核の療養地、保養地としての湘南であった。 かったとは地元の伝聞である。
茅ヶ崎を全国へと発信したのは南湖院とそこに入院する
の普及
結核は第二次大戦後、特効薬(ストレプトマイシン)
国木田独歩であったと言えるだろう。明治四十一年、読売
により、不治の病ではなくなり、間もなく結核療養施設の役割
新聞紙上に掲載された
「国木田独歩氏の病状を報ずる」
(『病
もほぼ終焉した。かつての療養施設は診療科目を変えて存
床録』)
は大きな関心をよんだ。人気作家の生と死が報じられ
続するか、高齢化社会に対応する老人介護施設に変質して
ることによって茅ヶ崎の名前も全国へと伝わって行った。
いる。妾宅であった記憶は当時も今も封印されたままである。
明治半ばから大正期にかけて湘南の海岸線(逗子から平
結核療養施設も妾宅も湘南の失われた風景といえるだ
塚にかけて)
にはいくつもの結核療養所が開院した。杏雲堂
ろう。
(平塚)
・南湖院(茅ヶ崎)
・鎌倉病院・恵風園病院・鈴木病院
かず や
島本千也(地理・地域研究者)
著書『高浜虚子と鎌倉』、湘南社より好評発売中!
(以上鎌倉)
・湘南サナトリウム
(逗子)
などである。病院(療養
所・サナトリウム)
の周囲には民家を借りて療養する結核患者
http://kamakuraguide.com/
も多くいた。
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