さんぽ日和・湘南の風景

しおかぜ 第303号
さんぽ日和
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湘南の夏。楽しんでいらっしゃいますか?
近くに海のない盆地で育った私には
「湘南」
はほとんど外国に近い響きでした
(笑)。
今、
自分がここでこんな文章を書いているのも不思議な感じがします。
毎日のように海に出向くサーファーの皆さまのようにはいきませんが、海岸に行く
時間を時々は作るようにしています。
ちょっと無理をしてでも行ってみると、
ざわざわした気持ちがどんどん平らになって
行くのが分かります。
そう言う時に新しいアイデアが浮かんだり、一歩を踏み出す勇気をもらえたり。。。
海から頂くエネルギーは凄いですね。
「海には久しく行ってないな∼。」
と仰る方も、
たまには海岸のさんぽ、
してみませんか?
昔の写真を引っ張り出して、小物と一緒に再撮影。
子ども達は自分の感覚を最大限に使って全身で海を感じていました。
ここで子育てが出来た幸せを噛み締めている今日この頃。
(そう言えば、藤沢市が全国の主婦の住んでみたい地域でベスト1になったとか!
?)
北川輝美〈はるめきデザイン〉
子どもを出産後、趣味としてカメラを始める。
幼稚園での写真係から始まり、その後口コミで子ども写真の
依頼を受け、延べ1000人以上の子ども撮影に携わる。
5年前から個人のプロフィール写真撮影の依頼を受け始める。
藤沢観光協会や平塚市商工会議所などの撮影に携わる。
写真雑誌「カメラ日和」
にて最優秀賞を受賞。
趣味はカフェ巡りと東北旅行。
湘南の風景−失われた記憶
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第二回
海水浴の開拓者が
龍神へささげた人身御供
関わりがあるといえるだろう。
大磯の松本順、鎌倉の長与専斎は、この地域の新たな価値
をみいだした恩人である。松本順は大磯漁港の一画に、長与
専斎は長谷の大仏(高徳院)境内にそれぞれ顕彰碑が建って
いる。
松本順・長与専斎・そして三留栄三に共通していることが
あることを御存じだろうか。二人(三人)はそのもっとも大
切な宝物を海に奪われているのである。松本順は明治二十六
年、ドイツ留学から帰国早々の次男(鵰)を平塚の沖合で
失っている。長与専斎は明治二十七年夏に次女の藤子を
鎌倉の海岸で失っている。掌中の玉、もっとも愛していたも
のが海に奪われた事になる。三留栄三は海水浴場開設の当
湘南の海水浴場の開拓者は大磯の松本順、鎌倉の長与専斎、 日、祝杯をあげて初泳ぎに海に入ったところ心臓まひで亡
鵠沼の三留栄三とされている。松本順は軍医総監引退後、 くなっている。江の島海水浴場の水難第一号となった。
明治十八年に大磯に海水浴場を開設した。長与専斎は衛生 中世以来、海は海神(龍神)の支配する世界であった。人々
局長などわが国の医療制度の開拓者であり、鎌倉に結核療 は海の怒りを恐れて、あるいは、海の恵みを感謝し海神を
養施設(サナトリウム)海浜院を開設、保養地としての鎌倉 祀ってきた。八大龍王であり、龍神であり、宗像三女神(イチ
を拓いた。江の島海水浴場は明治十九年、地元の漢方医師三留 キシマヒメ他)などである。海は彼(彼女)らの領分であっ
栄三が鵠沼海岸に海水浴場を開設したのが最初であるとさ た。明治以降の海水浴の導入は彼等(海神)の領分を侵す行
れている。従来、日本人の習慣になかった海水浴を医療の面 為でもあった。松本順・長与専斎、三留栄三、彼らの湘南の開
から導入している。
拓者としての名誉は、その掌中の玉を、自らを人身御供とし
海水浴はすぐに夏のレジャーへと変身する。沿岸部の農民 て龍神へ捧げた、その代償ともいえるのではないだろうか。
が農間に地引網をやる程度で人影の少ない場所であった海
かず や
岸線は、保養地・別荘地として新しい価値を見いだしたこと
島本千也(地理・地域研究者)
になる。特に、大磯や鎌倉、鵠沼は、著名人の来訪や別荘建築
著書『詩華集 鎌倉を楽しむ俳句』、湘南社より好評発売中
もあり、全国的にも知られるようになった。明治・大正期、
http://kamakuraguide.com/
湘南から発信された文化の大半は保養地・療養地・別荘地と
写真 明治期の大磯海水浴場
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