第115号「ラジオから流れる「花の街」の歌」

共創・共育・共感
尾鷲市教育長だより
2015.3.6.(金)
第115号
ラジオから流れる「花の街」の歌
七色の谷を越えて 流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって かけて行ったよ
春よ春よと かけて行ったよ
美しい海を見たよ あふれていた 花の街よ
輪になって 輪になって 踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
すみれ色してた窓で 泣いていたよ 街の角で
輪になって 輪になって 春の夕暮れ
一人さびしく 泣いていたよ
「花の街」の歌は、みなさんもよく知っていると思います。授業や合唱コンクールなどで
も歌われ、2006年(平成18年)には「日本の歌百選」に選定されました。「春よ春よと
かけて行ったよ」「春よ春よと
踊っていたよ」と、新しい季節がやってくることを告げて
いる歌ですので、この季節になるとラジオから流れたりします。江間章子作詞・團伊玖磨作
曲、終戦後の1947年の作品です。(團伊玖磨氏は尾鷲高校校歌の作曲者でもあります。)
「花の街」は、敗戦直後、今晩の食べ物にさえ事欠く生活に耐えていた多くの日本人の心
に、生きる希望を与えようと、團伊玖磨氏が作曲され、全国の町や村にラジオで放送されま
した。TVのないこの時代、静かな農村では、木立の間をぬって、遠くまでこの歌が聞こえ
ていたということです。
詩を書いた江間章子さんの話です。
「花の街」は私の幻想の街です。戦争が終わり、平和の訪れた地上は、瓦礫の山と一面の
焦土に覆われていました。その中に立った私は、夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花
が中空に浮かんでいる、平和という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ
街の角で・・・」の部分は、戦争によって様々な苦しみや悲
しみを味わった人々の姿を映したものです。この詩が曲となって、いっそう私の幻想の世界
が広がり、果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
江間さんは、2005年3月に亡くなりましたが、戦後の焦土に立ったときの体験から、街
はこうあってほしいなと、この歌をつくったのです。どこかに、平和な、あかるい雰囲気、
希望の光といったイメージが漂うのはそのためだと思います。
この曲を聴くといつも、高校に入学して、芸術科目で「音楽」を選択し、その時の授業で
この曲を歌ったことを思い出します。芸術科目の音楽の授業は、田岡先生という男性の、ベ
テランでユニークな声楽の先生でした。音楽の授業でしたが、声を出すのには腹筋が大切だ
といって、武道場で腹筋をさせられたり、音階が変わるときには、「しゃくりあげてはいけ
ない。それじゃ、演歌になっていまうから」となどといって、みんなで演歌っぽく歌ったり
して、大笑いしながら、楽しい授業でした。「野ばら」をドイツ語で覚えて歌ったり、「ビュ
ーティフルドリーマー」を英語で歌ったり、歌うことの楽しさを、その先生に教えてもらい
ました。
この世知辛く、先行き不透明な時代・社会の中で、だからこそ、いま「花の街」が流れて
ほしいのかもしれません。本当に、心から「春よ春よと」祝うことができるような、暮らし
のできる社会にしたいものです。
「さとうきび畑」の作詞者の寺島尚彦氏は、「ざわわ」を66回繰り返して、沖縄決戦と、
その後の悲しい重い空気を表現することに成功しています。回数こそ違え、この「花の街」
でも、「輪になって」が6回繰り返されています。
「ざわわ」という言葉の響きは、私たちの聴覚に何か悲しい重い雰囲気を訴えてきます。
「輪になって
輪になって」という言葉は、目の前に輪のイメージを描きながら、視覚に訴
えてきます。どちらも、悲惨な戦争での悲しみを、こうして歌にして、永久に繋ぎとめなが
ら、人間の尊厳を希求しているのです。
今でも世界中で、そして、私たちの身のまわりでも、「一人さびしく泣いている」状況は
無数にあるのではないでしょうか。江間さんの話のように、その悲しみを、心の奥底に秘め
て、
「花の街」の幻想を追い求めることが、人間として生きるということのように思います。