格差拡大研究のビッグバン? - 公益財団法人 家計経済研究所

コラム
格差拡大研究のビッグバン?
――ピケティ教授の大作『21 世紀の資本』について
鈴木 宏昌
(早稲田大学 名誉教授)
先進国の所得格差研究で知られたピケティ
(Thomas Piketty)教授が、昨年、母国フランス
や政治家の領域を超え、知識人や広くマスコミを
巻き込んだピケティ旋風になったわけである。
で『21世紀の資本』
(Le Capital au XXIe siècle )
ピケティ氏の『21世紀の資本』は、様々な意味
という約1,000ページの野心作を発表したとき、フ
で、規格外の著書である。まず何より、現在の主
ランス国内の反響はいまひとつで、専門的な経済
流経済学が想定している、市場経済が発展するこ
学者の注目を集める程度だった。ところが、今年
とにより、所得格差は長期的には縮小するという
の3月に英語版がアメリカで刊行されると、ピケ
仮定を真っ向から否定する。その根拠として、先
ティ氏の本は専門書としては空前のベストセラー
進国における資産・所得格差の長期変動のデータ
となり、氏は欧米で一躍「時の人」となった。出
を示す。この資産・所得格差のデータは、信じが
版に合わせたピケティ氏のニューヨークでの講演
たいほど豊富で、系統的であり、保守派の人です
では、クルーグマン、スティグリッツ(ノーベル
らそう簡単に否定できない迫力を持っている。
デー
経済学賞受賞者)の豪華メンバーがコメンテー
タは、ピケティ氏とその仲間の研究者(ロンドン
ターとなり、この本を絶賛した。また、ワシント
大学のAtkinson、カリフォルニア大学バークレー
ンでは、オバマ大統領の経済顧問に招かれ、ホワ
校のSaez教授などが有名)が10年以上をかけて
イトハウスを訪問したり、IMF本部で満員の聴衆
作り上げた先進国の所得分布に関する長期データ
の前で講演したという。アメリカでピケティ氏が
である。その長期の範囲も桁外れで、18世紀の後
注目を集めるのは、近年目立っているアメリカの
半から現在までの200年以上をカバーしている。
所得格差の拡大という背景がある。アメリカでは、
国民所得の統計が整備されるのは、第2次大戦後
長年、一般労働者の給与があまり改善せず、多く
のことなので、どうしてこのようなすごい時系列
の貧困問題を抱えているのに対し、ビル・ゲイツ
統計を集めることができたのだろうか? ピケティ
に代表される億万長者の資産は、近年高い運用益
氏とその仲間は、ここで実に巧みな選択を行う。
を記録し、ますます資産が増加している。また、
第2次大戦以前には、先進国でも、全体の所得分
大企業のスター経営者は、ストック・オプション
布のデータは存在しない。しかし、高額所得者に
などにより、天文学的な高額の報酬を得ている。
ついては、資産税あるいは相続関連の資料が残さ
しかも、アメリカの富裕層に対する実質課税率は
れている。この一部の富裕層の資産や所得に関す
低く、所得格差の拡大は大きな政治・経済問題と
るデータが得られれば、所得格差の傾向は判明す
いう認識を多くのアメリカの知識人は共有してい
る。具体的には、上位10%あるいは上位1%の資
た。そこに、長期の所得格差拡大のメカニズムを
産・所得を的確に計測することができれば、細か
データで実証したピケティ氏の著書が刊行された
な所得分布のデータがなくとも、資産・所得格差
ので、大きな反響を呼んだ。リベラルな経済学者
の長期傾向を把握することが可能である。考えて
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格差拡大研究のビッグバン?
みれば、戦後の高度成長期以前には、多くの先進
では65%前後で推移している。
国で、中産階級はほとんど存在せず、貧しい農民
アメリカは、欧州先進国とはまったく違った所
と労働者が圧倒的な割合を占めていた。多くの農
得格差の傾向を示す。まず、所得格差は、欧州よ
民、職人は、自宅すら持たないものが多く、大部
りは低いレベルから出発したが、次第に富裕層へ
分は無資産の状態であった。その一方、数少ない
の所得集中が起こり、1920年代には、上位10%の
富裕階層は、地主としてあるいは鉱山などの所有
人が全体の所得の45%を占めることになった。そ
者として莫大な富を築く。となれば、この10%あ
の後、所得格差は縮小し、1970年に35%を切る
るいは1%の富裕層の資産・所得を把握すれば、
までになる。しかし1980年代からは所得格差は猛
資産・所得格差の長期変動を理解することが可能
烈な勢いで拡大し、2010年には、欧州のピーク時
となる。
所得格差分析の先駆者S. Kuzunetsの使っ
に記録した45%を上回るようになっている。この
た手法を発展させ、2世紀以上に及ぶ長期データ
所得格差拡大を引っ張っているのは、1%あるい
としたのがピケティ氏とその仲間である。
は0.1%の高額所得者であるという。この高額所得
者の多くは資産運用による所得だが、労働による
この本は、まず、資産と所得の概念を整理し、
所得も相当数にのぼる。つまり、一部の経営者が
資産がストックの概念であるのに対し、所得は資
ストック・オプションなどで、巨額の報酬を得て、
産から得られる所得(資本)と労働(社会的給付
上位1%の中に入ってきている。このような極端
を含む)から得られる所得からなるフローの概念
な経営者の高額報酬は、ヨーロッパや日本では見
とする。資産から得られる所得としては、地代、
られない。この結果、2010年に、アメリカの上位
配当、利子、不動産からのゲイン、そして企業の
1%の富裕層は、全体の所得の20%を占め、下位
所有などが含まれる。データとしては、主に税制
の50%の人は、同じ20%の所得を分かち合う状態
に関する資料(財産税、相続関連資料)に基づき、
となっている。しかもこの所得格差は1980年代か
年々の資産・所得などを計測し、データ化したも
ら傾向的に拡大しているので、税制面での政策介
のを使っている。この本がカバーしている国は、
入がなければ、格差拡大は今後も続くだろうと予
フランス、イギリス、アメリカが主で、そのほか、
想している。
ドイツ、スウェーデン、日本などのデータにも触
これらの全体の所得は、労働から得られる所得
れている。
と資産(資本)から得られる所得の合計だが、資
まず、フランスおよびイギリスに関して、資産・
産および労働から得られる所得をそれぞれ別個に
所得格差(上位の10%の全体に占める割合)の長
も検討している。労働から得られる所得、すなわ
期動向を示す。主な傾向は、19世紀の後半から20
ち給与所得はどこの国でも資産から得られる所得
世紀の初めにかけて、富裕層の所得増加が進み、
と比べると、低い格差に収まっている。給与格差
1910年代に歴史的頂点に達する。上位10%の階層
の一番大きいアメリカでも、上位10%の階層の給
の所得は、全体の所得の45 ~ 50%を占める。そ
与所得は全体の35%くらいでしかなく、その他の
の後、所得格差は急激に縮小し、1970年代にもっ
先進国ではさらに低い状況が続いている。つまり、
と低い30%近くになるが、その後次第に格差拡大
給与所得のみで所得格差を見ると、格差が小さい
が見られ、
現在では、
35%前後となっている。
ストッ
錯覚におちいると警告している。高額所得者は、
クである資産を見ると、どこの国でも資産は富裕
単に給与が高いのみではなく、その他の多くの所
層に集中するが、1910年代には、フランスやイギ
得を資産の運用収益から得ている。
リスでの富の集中は極端で、上位10%が全体の資
以上が、データから見た所得格差の主要な長期
産の90%を占めた。その後、資産の集中は次第に
変動の素描だが、なぜ所得格差の動向がアメリカ
縮小し、1970年代には、上位10%の資産は全体の
と欧州で異なるのかについて、この本は幾つもの
資産の6割まで減ったが、その後、漸増し、現在
新鮮な説明をしている。まず、欧州で1910年代に
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季刊家計経済研究 2014 AUTUMN No.104
極端な資産・所得の集中が起こったかについては、
におけるインフレによる資産の減少、平等への意
欧州が資産運用による金利生活者の社会であった
識の向上からくる累進性の高い所得税の導入、あ
と説明している。資産の大部分は、土地、債権、
るいは福祉国家建設の旗印の下で、社会的給付の
株、不動産などで、企業所有による所得はほんの
大幅な拡大などがあり、所得格差はこの間に大幅
一部でしかなかった。この当時の経済成長は、1
に縮小した。つまり、2つの大戦という人為的な
~ 2%くらいなので、労働からの収入はせいぜい
ショックで、所得格差は減少したのであって、多
同じ程度に上昇したのに対し、資産運用による収
くの経済学者が信じていた通常の市場取引により
益は、年率5%近くあったとされる。富裕層は働
所得格差が縮小したのではないと指摘する。伝統
くことなく、資産の運用のみで資産を増やすこと
的な経済学では、戦争を外生的要因として、研究
ができる金利生活者の経済であったあったと分析
対象から避けてきたが、ピケティ氏は、所得格差
する(第1次世界大戦まで、金本位制が続き、イ
の長期動向の研究では戦争やインフレ、社会的な
ンフレによる資産の目減りはなかった)
。その後、
意識の変化といった要因の分析は避けて通れない
第1次大戦により、物理的な資産の損失、ロシア
とする。
関連の債権価値の消滅、土地所有価値の低下など
ここまで、ピケティ氏のデータ解析を紹介して
により資産が減耗する。第2次世界大戦後になる
きたが、氏はさらになぜこのような所得格差の変
と、インフレと税制度の整備(累進的な所得税導
動が起こるのかを理論的に説明しようとする。そ
入)
、社会保障の制度化が行われ、所得格差はさ
の主な仮定は、長期の資産収益率と経済成長率の
らに減少し、その状態は、高度成長期の終わりま
違いに求める。先進国の経済成長率は、高度成長
で続く。1975年以降、欧州諸国は低成長の時代を
期の30年を除けば、長期的には1 ~ 2%で推移し
迎えるが、この期間においても、資産運用による
ているのに対し、資産の長期収益率は、2つの大
収益は5%水準を維持するので、当然、資産を持
戦とその直後を除けば、4 ~ 5%で推移したとし
つものがさらに豊かになる構図が戻ってきている。
ている。資産は、どの国でも富裕階層に集中する
これに対し、アメリカは、絶えず人口が増加して
ので、その収益率が経済成長率を上回る限り所得
いたので、20世紀の初め、欧州のような地主や金
格差の拡大は避けられない。そして、このような
利生活者が富を独占することはなかった。しかし
所得拡大を逆転するには財産税を導入し、所得税
1930年の長期不況により、富裕層の資産が減少す
の累進性を高めるほかにはないという見解を示し
るうえ、第2次大戦後、累進性の高い所得税など
ている。
が導入され、所得格差は1970年代まで低い状態
が続いた。1980年代以降、レーガンやブッシュ政
以上、簡単にピケティ氏の本の要旨を紹介した
権の下で、富裕層の減税が行われ、高額所得者が
が、ともかく異例な本である。経済史の本である
増加する。とくに、上位1%さらには0.1%の所得
と同時に現在主流の経済学に対する挑戦でもあ
が上昇し続ける。その一例として、ピケティ氏は、
る。主流経済学が抽象化された世界で、市場の
Forbes誌の有名な億万長者番付から計算し、彼
均衡に関する数学的モデルに満足しているのに批
らの資産の増加率を実質年あたり6 ~ 7%として
判的で、所得格差の拡大という具体的な問題に関
いる(1987 ~ 2013年)
。ビル・ゲイツ氏やフラン
して、とてつもないデータバンクを作り上げ、そ
ス第一の富豪ベタンクール未亡人(L’
Oréal社
れを基にまったく次元の違う問題設定、理論化の
の大株主)は、働くことなく、資産運用で彼らの
試みを行った。ピケティ氏は現在43歳、絵に描
資産がさらに増加したと述べている。
いたようなフランスの秀才である。超エリート校
このほか、興味深い点としては、2つの世界大
として知られるENS(高等師範学校)を卒業後、
戦が先進国の所得格差に大きな影響を持ったこと
22歳でパリのEHESS(社会科学高等研究院)と
がある。戦争による物理的な資産の破壊、復興期
London School of Economicsで経済学博士号を
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格差拡大研究のビッグバン?
同時に取得、その後、MITに招かれ、2年間講
英語版が簡単に購入できるので、ぜひ一度この本
師を務める。その間、数学的モデルを駆使した
を手にとってもらいたい。経済を専門としない人
論文を書くが、それに飽き足らず、フランスに戻
にも分かるように、バルザック、ジェーン・オー
り、29歳でEHESSの教授になる。2007年の大統
スティンの古典の引用する工夫もしているし、多
領選挙では、社会党のロワイヤル候補の経済顧問
くの図表は実に明快である。全部読むには相当の
を務める。その後、所得格差の分析の論文を数多
時間が必要だが、要約部分や図表を読むだけでも
く発表し、格差の経済学で有名となる。税制ある
実に刺激的である。
いは社会保障など広い分野に興味を持ち、左翼紙
(Libération)の論説も定期的に行っている。歯に
衣着せない論客として知られ、現在の社会党政権
のオランド氏たちからは煙たがれている。
ピケティ氏の新作は、欧米で話題の本であり、
すずき・ひろまさ 早稲田大学 名誉教授、IDHEENS-Cachan 客員研究員。労働経済・比較労使関係専
攻。最近の主な論文に「フランスのバカンスと年次有
給休暇」
(
『日本労働研究雑誌』625,2012)
。
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