2015 年度 慶應義塾大学 経済学部 (小論文) 解答解説

2015 年度
慶應義塾大学
経済学部
(小論文) 解答解説
A
解説
「知識の特徴を知恵および情報と比較して述べた上で」という条件が付されているので、まず課題文を整理し
て知識の特徴をつかみとることが必要になる。
課題文ではまず「知恵」と「情報」が対極であることを述べている。知恵は「時間を超えた真実を総合的にと
らえるもの」で「深い意味で実用性を持つが、およそ新しさや多様性とは縁がなく」
「内部から自己革新を起こす
性質にも欠けている」と、その特徴が説明されている。情報については明確に記述されていないが、知恵が「永
遠」
「唯一」
「統一性」という特徴を持つのであれば、それと対比して情報は「変化」
「多様」
「断片性」という特
徴を持つと考えられる。その上で「知識」は知恵と情報の中間にあると述べている。知識は「断片的な情報に脈
絡を与え」
「知の統一性を求め」
「永く持続するものにしようとする」点で知恵の方向をめざすが、
「内部に多様な
情報を組み込み」
「たえず新しい情報を受け入れて自己革新に努め」る点では知恵と対立する特徴を持つ。その上
で知識は情報・知恵に比較して、理解に努力が必要であること、効用(実用性)がわかりにくいことを特徴とし
て挙げている。
まず、このように知識の特徴が説明されているのであるが、考えなければならないのは「大学教育の目的は、
知識を授けることである」という考え方との関連で、知識の特徴をどうとらえるのか、ということである。課題
文の3段落目以降の説明をもとにしてこれを考えることが必要である。
3段目では十八世紀以降の知識の拡大について述べているが、そこで重要なのは、知識が最初からたえず情報
に背後を脅かされ、体系的な統一性を試される宿命を帯びていた、という点である。一度確立した知識でも、新
発見つまり新しい情報が入れば、その体系は無効化され、新しい情報を組み込んだ体系につくりかえていかなけ
ればならない、ということである。つまり知識の、たえず新しい情報を受け入れて自己革新に努めるという特徴
は、知識そのものの自発性ではなく、たえず変化する情報によってもたらされるということである。十八・十九
世紀とは比較にならないくらい情報の速度と量が増大している現代社会においては、統一性を持った知識の構築
はかなり困難になることをここから考えられるかどうかが重要である。
さらに、このことに加えて二十世紀の大衆社会における反権威主義によって、実用性の乏しい教養的な知識に
対する無意識の反感が人々に植えつけられたことを説明している。知識は本質的に情報を意味づける意志や信念
に支えられており、その自己拡張の匂いがする知識は二十世紀の市場社会=大衆社会において冷淡に迎えられる
ことになったというわけである。
その後に「市場」における情報と知識の差異を述べている。情報は実用的であるがゆえに商品化され市場に乗
ることができ、需要の予測も可能である。これに対して知識は原価を決める基準もなく、需要は平均化できず、
一回ごとの供給によって逆に生み出される、という特徴を持つ。つまりそれは「実用性」が明確に見えない(乏
しい)ということであり、市場において商品化することになじまないということである。さらに大衆化社会では
インテリゲンチャが消滅したために、個別の知識を選別する働きをする者が消滅してしまったという点を説明し
ている。
課題文の内容をまとめれば以上のようになるが、設問を考える上で一番重要になる点は、現在の社会が大衆社
会=市場社会であり、そこでは知識はいわば「疎外」された存在になる、ということである。つまり、大衆=市
場が求めるものは実用性のある情報であり、
実用性の見えない知識、
特に教養は不要とされるということである。
問題は、では本当に知識は実用性を持たないがゆえに無用なのか、という点である。教養に属する哲学と一体だ
った自然科学は、その進展の過程で細分化・専門化を進め様々な実用的技術を生んできたが、今日の科学的知識
はその細分化のために「情報」化している。知識の統一性はもはや専門領域においては保てないのが実情であろ
う。しかし、
「社会」は人間の諸活動の総体であり、そこにはどうしても秩序=規範が必要となる。
「知」におい
てもそのことは当てはまるだろう。細分化された諸学の情報を有用なものに方向づける規範が知識になるのでは
Copyright (C) 2015 Johnan Prep School
ないか。実用性が見えにくいが知識には必要性があるのであり、変化する社会においてたえず規範が再生成され
なければならないように、知においても常に再生産される知識が必要になるのである。知識の再生産のためには
既成の知識を学ぶ必要があり、
教育の場において知識を教授することは、
人間の知にとって不可欠な営みとなる。
大学が市場とは切り離された場であるのであれば、
「大学教育の目的は、知識を授けることである」というのは正
当な考え方である。
しかし、ここにまた問題がある。大衆社会=市場社会において、大学はその外部性を担保できるのかというこ
とである。大衆社会=市場社会において、大学もまた大衆化=市場化する。大学は知的市場として学生=消費者
の需要に応えなければならないし、明確な実用性を打ち出さなければ市場に淘汰される。つまり、大学において
も知識は不要とされ、情報を教えることになる。さらに、専門性が伴うがゆえに、そもそも知識が存在せず、細
分化された情報を「知識」と呼んでいるだけなのかもしれない。インテリゲンチャの崩壊は大衆社会の必然であ
るだけでなく、過剰な情報化の中で統一性をもつ知識が存在できないことの必然でもあるのではないだろうか。
とすれば、現代社会における以上のような考察を抜きにして、
「大学教育の目的は、知識を授けることである」と
いう考え方を大学を特権化するために使うことは、
「知」にとっては大きな問題になるのではないか。
このような考えに沿うと、知恵との比較で説明すべきなのは「統一性」を持つことという共通点と、知恵には
ない再生産される、という点であり、情報との比較で説明すべきなのは常に情報に脅かされる、という点と、市
場になじまないという点であるということになる。解答字数が300字しかないのでまとめて記述する力が求め
られる。
解答例
知識は知恵と同様に「統一性」を持つことで知の規範としての役割を果たすが、絶えず更新される断片的な情
報を統一するために常に再生産される点で、知恵とは異なった現実的な規範である。したがって「大学で知識を
授ける」ことは知識の再生産のためには不可欠である。しかし、知識は過剰な情報によって統一性を解体される
傾向にあり、また情報と異なり大衆社会=市場社会においては疎外されるという特徴を持つ。大学も現代におい
ては大衆化=市場化されており、その中では知識よりも情報が歓迎され、実際、専門的知識は情報に解体してい
る。
「大学で知識を授ける」ことは現実には空文化しているという認識が必要なのではないだろうか。
B
解説
「知識は人間だけによって創られていくのであろうか」という問いは一見したところAの設問とは関係なさそ
うであるが、課題文を読ませた上での設問であるから、当然Aの設問で読み取り、考えたことをもとにしてこの
設問も考えることになる。
ポイントになるのは「知識」と「情報」の違いである。
「情報」は現実そのものを断片的に表現するものであり、
「足で集めた」ようなものであると課題文にある。情報の生産は現実の切り取りであるから、生産者は人間でな
くても構わない。機械やコンピューターなどは現実に世界の様々な情報を収集しているし、その情報がそのまま
商品化されていることも多い。これに対して知識の生産は基本的に個人の内面の作業である。その意味では人間
的なものであり、人間だけのものであるということができる。
しかし、それだけで、知識は人間だけによって創られていくと主張することは浅薄である。というのは、知識
を創造する個人の内面の思考という作業は、進展した技術によって、たとえば人工知能の発展によってかなりの
部分を代替することが可能であるからである。つまり、生産過程だけを見れば知識もまた人間だけで生産される
ものではない、ということである。
それならば、人間だけで作られるものではない、とすべきなのであろうか。考えなければならないのはここか
らである。生産過程だけを見ればたしかにそうなるが、では、なぜ人間は知識を生産するのであろうか。情報の
収集というのはあらゆる生物が行っている。現実に適応していくためには環境を知らなければならないからであ
る。では、人間以外の生物は知識を生産しているのであろうか。実際のところはわからないが、多分していない
Copyright (C) 2015 Johnan Prep School
であろう。なぜなら情報に対する「統一性」を作り出す必要がないからである。他の生物は現実の情報を処理す
るプログラムとしての本能がきちんと機能していて、個別の情報収集だけで生存を維持できるからである。Aの
設問で知識を「知」の「規範」であると捉えた。なぜ人間は規範を生成しなければならないのか。それは、本能
の働きが他の生物に比べて極端に弱いからである。人間は文化や法という規範を生み出すことなしに秩序ある生
や社会をもつことはできないのである。
「知」は人間の現実認識の様々な働きの総称であるが、そこに規範による
統一がなければ現実に対する対応は社会や個人によって分裂し、社会秩序の形成が困難になるであろう。つまり
知識は人間の文化の一形態であるということである。だからこそ、知識の生産には「意志の力」が必要になるの
である。そもそも知識を生み出そう、という意志がなければ、知識の生産作業は始まらないのであるから、その
ような意味において「知識は人間だけによって創られていく」という言い方ができるのではないか。
解答例
知識の生産には個人の内面の作業が不可欠であるが、現代の技術の進展はその作業を機械によって代替するこ
とを可能にした。その点からすれば知識は人間だけが創り出すものではないように見える。しかし、なぜ知識は
生産されるのであろうか。それは、人間という生物は、断片的な情報の収集だけでは、現実に対する対応が個人
や社会ごとに分裂してしまい、秩序ある生や社会を維持できないからである。知識は現実認識の様々な働きを統
一する規範であり、人間の文化の一形態である。知識の生産を推進するのは規範を生成して現実に秩序を与えた
いという人間の意志であり、その意味で知識は人間だけによって創られていくといえるのではないか。
Copyright (C) 2015 Johnan Prep School