地震雲の研究史

東日本大震災以降、国家レベルで巨大地震の脅威が喧伝され続けています。
地震の予知は非常に難しい、との地震学の専門家の見解がアカデミズムの主流となっていて、
国家レベルで、地震の予知よりも防災対策に重点をおいた取組みがなされています。
防災対策に重点を置いた取組みは、非常に適切で重要なことです。
しかし、地震の直前予知の重要性は、誰もが認めていることです。
明日香地震気象研究所が発信する『地震雲情報』は、地震の直前予知情報です。
永年に渡って、雲や気象の変化と地震との因果関係を数多く検証して、予知精度が向上して
まいりました。
昨年の12月に、様々な角度からの検証の結果、今年の8月頃から東海地震の発生の可能性が急速に
高まってゆくと判断いたしました。
東海地震で被害に遭われる人を、できるだけ少なくするために、出来る限りの活動をしてゆく決意を
いたしております。
明日香地震気象研究所
代表者
松本安生
地震雲の研究史
地震雲のことが最初に書物に載ったのは、1970年3月29日発行の『現代の怪奇』(大陸書房)で、
「地震を予知する奈良市長」という表題でした。
執筆者は、当時の堀 清一 奈良気象台長(大阪気象台課長)でした。
鍵田忠三郎奈良市長から直接に聞いた雲による地震の予知が何度も当たったので、
そのことを本に載せることを鍵田市長には言わずに投稿したのだそうです。
それ以降、鍵田市長は地震を予知する「ナマズ市長」として有名になりました。
鍵田先生は、昭和23年(1948年)6月26日に、奈良市で黒ずんだ蛇のような異様な雲を見て、
大きな地震があると直感していた時に、病気の御見舞に来てくださった野村万作奈良県知事ご夫妻に
そのことを伝えました。 そして、2日後の28日に福井大地震( M7.1 死者3769人)が発生しました。
以降、地震雲の研究を始められ、奈良市長になられてからは、多くの市民の前で予知をして当てられた
ことも何度かありました。
マスメディアが地震雲の特集記事を出すようになった大きなキッカケは、
鍵田市長が後援会の会合の席で地震雲に気づき、直接に市会議員や多くの後援者を前にして
大きな地震の発生を予告し、2日後(1978年1月14日)に、伊豆大島近海地震(マグニチュード7.0)が
発生したことでした。 (ホームページの『龍雲について その2』参)
奇しくも、伊豆大島近海地震は、当時の山本敬三郎 静岡県知事が推進していた、東海地震のための
大規模地震対策特別措置法の成立(1978年6月7日)に大きく関わった地震でした。
(ホームページの『東海地震防災体制の成立秘話』参)
その後、東海地震の脅威もあって、地震雲の存在は、マスメディアに頻繁に掲載されるようになり、
多くの地震雲マニア(私もその一人でした)が誕生してきましたが、未だにアカデミズムからは承認
されていません。
沿革
1980年
1978年1月14日の伊豆大島近海地震M7.0を予知した鍵田忠三郎奈良市長の
新聞の特集記事で地震雲の存在を知る。
1980年6月
6月27日に大阪平野で特異な雲を観察する。
その2日後の6月29日に伊豆半島東方沖地震 M6.7が発生。
地震雲の存在を確信し、地震雲研究を開始する。
鍵田忠三郎先生にもお会いして「これが地震雲だ」の著書を頂く。
観賞魚店を経営しながら多くの時間をさいて地震雲研究に没頭する。
1980年
大津久雄氏から多様な地震雲の見方を教えていただく。
1990年6月
観賞魚店の譲渡後は、地震雲研究を中断する。
1995年1月
阪神大震災を契機に2ヶ月ほど地震雲研究をする。
2004年10月 新潟県中越地震を契機に3ヵ月ほど地震雲研究をする。
2011年3月
東日本大震災を契機に本格的に地震雲研究を再開する。
地震予知情報の作成も開始する。
自営の営業業務を続けながら、地震雲及び気象の変化による地震予知研究に没頭する。
2011年7月
屋号を 「明日香地震気象研究所」 とする。
2014年4月
ホームページを作成し、研究資料の掲載を始める。
2014年12月 2015年8月頃から東海地震の発生の可能性が急速に高まることを確信する。
東海地震に関するホームページ項目の作成に多くの時間を費やしながら
警鐘活動を開始する。
静岡県の企業経営者様にホームページの存在をお知らせすることから始める。
① 東海地震の直前予知をして、出来るだけ多くの被災地域の人々の命を守ること。
② 富士山噴火の直前予知をして、被害の減少に尽力すること。
③ 地震雲や気象の変化と地震との関係が、学問としてアカデミズムで研究されるための礎となり、
雷予報や竜巻予報のように、地震予報がなされる社会の到来に貢献すること。
2015年2月20日
明日香地震気象研究所