日本史 テレビ学習メモ 第 37 回 学習のねらい 第 4 章 近代国家の形成と国民文化の発展 太平洋戦争 1937 年に始まった日中戦争は、日本 の予想に反して長期化しました。戦局を 打開するために、日本が選んだのがドイ ツ・イタリアとの軍事同盟でした。それ 監修・講師 はなぜだったのでしょうか? また、日 季武嘉也 本は 1941 年にアメリカに宣戦布告して 第二次世界大戦に参戦することになりま 調べておこう・覚えておこう す。なぜ日本は大国アメリカと戦う道を たいせいよくさんかい 原子爆弾/真珠湾/大政翼賛会/第二次世界大戦/ 選んだのでしょうか? ヨーロッパでの 太平洋戦争/日ソ中立条約/東京大空襲/ 第二次世界大戦の戦局やアメリカの思惑 と う じょう ひ で き なんしん 東条英機/南進/日米交渉/ハル・ノート/ などに注意しながら考えていきましょう。 ポツダム宣言/マレー半島/ミッドウェー海戦 要❖其の壱 第二次世界大戦と三国同盟 ▼ ①第二次近衛文麿内閣は、なぜ日独伊三国軍事同盟を結んだのか ②同盟締結後、第二次近衛内閣は国内体制をどのように変革したのか * * * ① 日本が東亜新秩序建設に基づいて海南島など南方への進出( )を進めるの をみたアメリカは、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告してきた(翌年失効)。これに この え ふみまろ だいとう あ きょうえいけん よって資源確保に困難を感じた第二次近衛文麿内閣は、大東亜共栄圏建設をめざしていっそう なんしん 南進を進めようとしていた。また、南進は援蒋ルートを遮断することで、泥沼化する日中戦争 を終結させようという意図も含まれていた。 一方、欧州では 1939 年にドイツとソ連がポーランドに侵攻したことから が始まり、1940 年には東南アジアを領有するオランダやフランスがドイツに敗北した。これ を好機と捉えた近衛内閣は、ドイツと軍事同盟を結び、南進を実行しようとしたのである。 − 99 − 高校講座・学習メモ 日本史 太平洋戦争 ② 近衛内閣は、ナチスドイツのような一国一党の強力な新党の結成をめざして、1940年10 を結成した。諸政党もこれを支持し、解党して合流した。しかし、一国一 月に 党は天皇の統治権に抵触するという指摘が強まったため政治結社とはせず、国策に全国民が協 力するよう働きかける上意下達の機関とした。また、職場ごとの産業報国会を大日本産業報国 会に統一したほか、言論・文学・音楽・美術などの各界ごとに報国会を結成させた。こうして、 軍部と官僚を中心とする支配体制が確立した。 要❖其の弐 太平洋戦争の勃発 ①太平洋戦争開戦に至るまでの日米交渉はどのようなものであったか ②太平洋戦争勃発から翌 1942 年までの戦況はどのようなものであったか * * * ① 近衛文麿首相は、関係が悪化するアメリカとの妥協点を見出そうと、1941年4月から野村 を開始させた。その一方で、交渉を有利に進 吉三郎駐米公使にハル国務長官と まつ おか よう すけ めるため、松岡洋右外相の提唱で4月に を締結した。しかし、6月にドイツが ソ連と開戦し、この計画は無意味となった。翌7月に日本はフランス領インドシナ南部へ軍隊 ▼ を進駐させた。これをみたアメリカは在米日本資産を凍結し、さらに日本への石油輸出を禁止 した。この結果、日米対立はいっそう深まった。9月6日の御前会議で、10月上旬までに日米 交渉がまとまらない場合、開戦に踏み切ることが決定された。しかし、交渉はまとまらず近衛 が首相に就任した。こうした中、11月26日に 首相は辞職、 が 提示され、妥協の余地がないと感じた日本は、12月8日に開戦に踏み切った。 ② 日本陸軍がイギリス領 して、 に上陸し、海軍もハワイの を奇襲攻撃 が開始された。日本軍は、1942年2月にシンガポールを陥落させ、開 戦後およそ半年間でフィリピン・ジャワ・ビルマなど広大な地域を占領した。しかし、同年6 月には で大敗して機動艦隊に大損害をうけ、戦局の焦点であった南太平洋のガ ダルカナル攻防戦にも敗北した(撤退は1943年2月)。 − 100 − 高校講座・学習メモ 日本史 要❖其の参 太平洋戦争 敗戦 ①日本が敗戦に追い込まれるまでの経緯はどのようなものであったか ②なぜ第二次世界大戦では、多くの民間人の犠牲者が出てしまったのか * * * ① 1943年以降、連合国軍の本格的な反攻が開始され、日本軍はつぎつぎに撤退していった。 1944年6月サイパン島が陥落、これによって絶対国防圏が崩れると同時に、同島を基地とし てB29爆撃機による本土空襲が本格化し、1945年3月には が行われた。ヨー ロッパでは1943年9月にイタリアが降伏し、1945年5月にはドイツが無条件降伏したため、 日本だけが戦争をつづける状況となった。1945年7月、アメリカ・イギリス・中国の3国の 名で日本に無条件降伏を求める が発表された。当初、日本はこれを黙殺したが、 8月6日広島に、9日には長崎に を投下され、8日にはソ連が満州や朝鮮・樺太 に侵入を開始した。日本は本土決戦を避けようとポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日に 天皇がラジオの玉音放送を通じて戦争の終結を発表した。 ② 第1には、科学技術が発展したことによって兵器の殺傷力が格段と上がったことであった。 ▼ その典型的な例が原子爆弾である。 第2は、国民全体が戦争に協力する総力戦であったことである。女性や学校生徒たちも軍需 工場などに動員され、敵軍はその軍需工場を爆撃して戦闘力を弱めようとした。 第3は、軍隊が民間人を犠牲にしようとしたからであった。たとえば、軍隊が食糧を徴発し たことで現地住民が餓死したり、あるいは敵軍の攻撃を避けるため、住民を楯にしてゲリラ戦 を挑むようなこともあった。 これらの結果、第二次大戦では民間人の犠牲者が兵士の 2 倍に達した。 − 101 − 高校講座・学習メモ チョン チン
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