日本史 テレビ学習メモ 第 39 回 学習のねらい 第 5 章 現代の世界と日本 1952 年、日本は独立を果たします。 講和から高度経済成長の時代へ しかし、憲法で戦力の不保持を定めなが ら、どのようにして国防を行うのかとい う問題が残りました。日本はこのときど のような選択をしたのでしょうか? ま 監修・講師 た、この問題を巡っては岸信介内閣の時 尾﨑久照 に国内の保守・革新勢力の対立が頂点に 達します。しかし、次の池田勇人内閣が 調べておこう・覚えておこう 打ち出した政策の影響もあって、対立は あん ぽ 安保闘争/沖縄諸島/ 55 年体制/ サンフランシスコ平和条約/ GNP/自衛隊/ はとやまいちろう 所得倍増計画/新安保条約/全面講和/鳩山一郎/ ほ あんたい 保安隊/日米安全保障条約 要❖其の壱 徐々に沈静化していきます。それはなぜ だったのでしょうか? 独立後の日本の、 政治と経済の動きを見ていきます。 サンフランシスコ平和条約 ▼ 朝鮮戦争がはじまると、アメリカは、日本を資本主義陣営の一員として自立させ、その協力を 得るために、日本との講和条約の締結を急いだ。 アメリカ、イギリスの作成した講和条約案には、ソ連やインドなどが反対し、日本国内でも、 すべての交戦国との講和、つまり、 を求める運動がおこった。 1951 年 9 月にサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本は、アメリカなど 48 か国との間 を調印した。この条約は、翌 1952 年 4 月に発効し、日本は占領政治から解 で 放されて、独立国としての主権を回復した。 それととともに、日本は、朝鮮の独立を承認し、台湾・千島列島・南樺太などの領有権を放棄し、 奄美諸島や 、小笠原諸島をひきつづきアメリカの施政権下におくことを認めた。 (安保条約)も調印され、極東の サンフランシスコ平和条約の調印と同じ日、 平和と日本の安全を守るという理由で、日本の独立後もアメリカ軍が駐留をつづけることになっ た。また、安保条約にもとづき、1952 年 2 月に日米行政協定が調印され、日本は駐留軍のた − 105 − 高校講座・学習メモ 日本史 講和から高度経済成長の時代へ めに基地を提供し、その費用を分担することになった。 一方、政府は防衛力増強の方針をとり、1952 年に、警察予備隊を へと改編し た。さらに 1954 年、アメリカと結んだ相互防衛援助協定(MSA 協定)によって、アメリカの 軍事・経済援助を受けるかわりに防衛力増強の義務を負うことになると、陸海空の 3 部からな と防衛庁が発足した。 る 要❖其の弐 安保改定と国内対立 よし だ しげる 吉田茂内閣があまりにアメリカに依存しすぎるという不満が、公職追放から復帰した保守系政 治家を中心に起こり、1945 年末、造船疑獄事件をきっかけに吉田内閣が退陣すると、日本民主 党の 内閣が成立した。鳩山内閣が「自主憲法」制定をとなえると、それまで左派 と右派に分裂していた日本社会党が再統一され、改憲阻止に必要な 3 分の 1 の議席を確保した。 これに対し、日本民主党と自由党も合同して、自由民主党を結成した(保守合同)。これを機に、 以後 38 年にわたって自由民主党政権がつづいた( きしのぶすけ )。 1957 年に成立した岸信介内閣は、「日米新時代」をとなえ、アメリカへの従属ではなく、対 等な立場に立ったうえで提携関係の強化をはかろうとした。岸内閣は、日米安全保障条約の改定 )に について交渉をすすめ、1960 年 1 月、日米相互協力及び安全保障条約( ▼ 調印した。 これに対して、新条約は軍事同盟の性格を持つもので、日本がアメリカの戦略体制のなかで戦 争に巻き込まれる危険があるとして、反対運動がわきおこった。1960 年 5 月、衆議院で多数 をしめる自由民主党が条約承認の強行採決を行うと、社会党、共産党、総評などの労働組合、全 学連、 そして多数の一般市民が戦後民主主義を擁護するとして、大規模デモによる阻止行動を行っ た( )。参議院での承認をえないまま、新安保条約は同年 6 月に自然成立し、岸 内閣は新条約の発効直後に総辞職した。 要❖其の参 高度経済成長 朝鮮戦争による戦争景気(特需)なども重なって、重化学工業を中心に日本の経済復興が加速 じん む いわ と 化していた。1955 年から 57 年には「神武景気」、1958 年から 1961 年には「岩戸景気」と − 106 − 高校講座・学習メモ 日本史 講和から高度経済成長の時代へ 呼ばれる好景気が続いた。さらに 1965 年から 1970 年の「いざなぎ景気」へと長期好況によっ て、急速な経済成長がつづいた。 いけ だ はや と こうした高度経済成長を方向づけたのは、1960 年、岸内閣にかわって成立した池田勇人内閣 が打ち出した である。この計画は、積極的な財政・金融政策によって、10 年後 の 1970 年までに国民総生産( )を 2 倍に拡大させ、所得水準も西欧の水準に 近づけることを目標とした。そして、この計画によって社会資本の充実、産業構造の高度化、貿 易促進がおしすすめられた。 技術革新などの国際競争力の強化や、貿易の自由化が進められる中で、日本の輸出は拡大して いった。日本経済は、計画当初の年率 7.8%という予想をも上回り、実質で 11%の急成長をとげ、 1970 年の GNP は、計画の 1.7 倍に達した。 高度成長の要因としては、石油をはじめとする原材料安や、1 ドル 360 円という円安の為替 レートがあった。 ▼ − 107 − 高校講座・学習メモ
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