「世界が一つの言葉を取り戻す」 WEB The Professional Translator

「世界が一つの言葉を取り戻す」
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The Professional Translator
編集長
堀田
都茂樹
「世界が一つの言葉を取り戻す」
バベルと長いお付き合いの方はバベルの塔の神話をご存知のかたは多いことでしょう。
しかし、バベルの塔の神話の真のメッセージは必ずしも人間の傲慢を諌めることだけでは
ないというところから出発したいと思います。
それは、20年以上前にオーストラリアの書店で見かけた子供向けの聖書に書かれた解釈
でした。
神は、人が、ひとところに止まらず、その智恵と力を世界に広げ繁栄するようにと願い、
世界中に人々を散らしたという解釈でした。すると、散らされた民はその土地、風土で独
自の言葉と文化を育み、世界中に多様な言語と文化を織りなす、一つの地球文化を生み出
したのです。
しかし、もともとは一つだったことば(文化)ゆえに翻訳も可能であるし、弁証法的に発
展した文化は、常に一定のサイクルで原点回帰をしているので、ただ視点を変えるだけで、
結局、同じことを言っていることが分かるのではないでしょうか。
しかし、人間のエゴの働きと言えるでしょうか、バベルの塔のころからの傲慢さゆえに、
自文化が一番と考えることから抜けきれないでいると、もともと一つであるものでさえ見
えず、理解できず、伝える(翻訳)ことさえできなくなってしまうのかもしれません。
翻訳の精神とは、自らの文化を相対化し、相手文化を尊重し、翻訳するときは自立した二
つの文化を等距離に置き等価変換する試みであるとすると、その過程こそ、もともと一つ
であったことを思い返す試みなのかもしれません。
「世界が一つの言葉を取り戻す」、それは決してバベルの塔以前のように、同じ言語を話す
ことではないでしょう。それは、別々の言語を持ち、文化を背負ったとしても、相手の文
化の自立性を尊重し、その底辺にある自文化を相対化し理解しようとする‘翻訳者意識’
を取り戻すことなのではないでしょうか。
バベルの塔の神話はそんなことまでも示唆しているように思えます。
また、ここに翻訳の本質が見えてきます。
昨日、あるテレビ番組で、日本料理の達人がルソン島に行き、現地の子供の 1 歳のお祝い
の膳を用意するという番組を観ました。おそらく番組主催者の意図は世界遺産となった日
本料理が、ガスも、電気コンロもない孤島で通用するかを面白く見せようとしていたので
しょう。
この日本料理の達人は自らの得意技で様々な料理を、現地の限られた食材を使い、事前に
現地の人々に味見をしてもらいながら試行錯誤で料理を完成させいくというストーリーで
した。そして、最後は大絶賛を得られたという番組でした。
しかし、かれはその間、自ら良しとする自信作で味見をしてもらうわけですが、一様にま
ずいと言われてしまいます。しかし、何度も現地のひとの味覚を確認しながら、日本料理
を‘翻訳’していくのでした。そこには自文化の押し付けもなければ、ひとりよがりの自
信も見られません。ただ、現地のひとの味覚に合うよう、これが日本料理という既成概念
を捨て、日本料理を相対化し、自らのものさしを変えていくのです。
世界には 7,000 を越える言語、更にそれをはるかに越える文化が有る中、翻訳者が
翻訳ができるとはどういうことなのでしょうか。
翻訳ができるということはもともと一つだからであり、
翻訳ができるということは具象と抽象の梯子を上がり下がりできるということであり、
翻訳ができるということは、自己を相対化できるということでしょう。
例えば、世の中には様々な宗教があり、お互いを翻訳しえないと考えている方が多いので
はないのではないでしょうか。
しかし、一端、誰しも翻訳者であると考えてみましょう。翻訳者という役割が与えられた
時点で、自らの言語、文化を相対化する必要があります。翻訳する相手の文化を尊重し、
自国の文化を相対化し、相手の国の人々がわかるよう再表現をする。
「翻訳とは、お互いの違いは表層的なものであり、もともとは一つであることに気づき、
お互いを認め、尊重し合う行為である」と考えれば、「優れた翻訳者を世界に送り出すこと
で世界を一つにする」ということは、あながち、夢物語だとは言えないのではないか、と
思います。