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中世後期の自伝二著 : トマス・プラッターとブルカルト
・チンク
阿部, 謹也
一橋論叢, 87(4): 403-420
1982-04-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/13062
Right
Hitotsubashi University Repository
(1) 中世後期の自伝二著
中世後期の自伝二著
ートマス・プラッターとブルカルト・ チンクー
阿 部
謹 也
生活へ、多くの神々の世界から唯一神の信仰によって組
ら売買の関係へ、農村を中心とする生活から都市中心の
世紀に犬きな変化をとげた。それは贈与・互酬の関係か
ヨーロヅパにおける人間と人間の関係のあり方は一一
期として位置づけられるだろう。この間題の全容につい
りわけ印刷術の普及とあいまって宗教改革がひとつの画
によって多少のずれはあるが、中世後期以降であり、と
として文書が大きな役割を果たすことになるのは、階層
けれぱならない分野がかなりのこされている。そのひと
^三
つが文書の間題である。人間と人間の関係の重要な表現
この変貌の全体を見渡すためにはまだおさえておかな
織された世界への転換であり、この三つの大きな変化を
いるのでそちらに譲り、本稿においては民衆と文字の問
ては贈与から売買への転換を扱った別の論稿を用意して
題にしぼって中世後期社会史研究の史料のいくつかを紹
軸として公的なるものの原理も変貌をとげた。その変化
介してみたい。
は何よりもまず人間と人間の関係の具体的な日常生活に
おける変化であったから、生活のあらゆる面に浸透して
コンスタンツ中世史研究会の﹁プロトコル﹂二四五号
ゆき、その変化が完了するのに数世紀、つまり中世後期
^1︶
とよぱれる時代の全体を要したのである。
403
第四号 (2)
第八十七巻
一橘論叢
世紀中葉まで書く能力はほとんどなく、騎士層にいたっ
間に連続性はみられないとのべている。聖職者にも一四
四世、五世の他数ヵ国語をあやつった力ール五世までの
ードヴィヅヒ敬塵王、オット⊥二世、ハインリッヒニ世、
けて支配者の大多数は文盲であり、読み書きができたル
支配者についてはメロヴィング朝からカロリング朝にか
聖職者、⇔騎士、㈲ユダヤ人、㈲商人について展望し、
行なっている。ヴェンデホルスト教授は、o支配者、H
世において読み書きできたのは誰か﹂という短い講演を
ウムをのせており、冒頭でヴェンデホルスト教授が﹁中
ける社会的変動のなかの学校と学芸﹄と題するシンポジ
︵一九八一年四月七日∼一〇日︶は﹃中世中・後期にお
ていかなる王も王国の隅々から税を首都へ送らせること
通事情が悪く、治安もよくなかった中世の全時代を通じ
時代がまさにわれわれの研究対象となる時代である。交
たぱあいでも、国王が王国を一生の間旅しつづけていた
展望してみると首都が定漕せず、首都らしきものがあっ
うにして行なわれたのかという点である。。こく大雑把に
を媒介とする人間と人間の関係の世界への変化がどのよ
文字を媒介としない人間と人間の関係の世界から、文字
その点こそが私たちの関心の的となるのである。つまり
けではすまない別種の間題を提起しているのであって、
こうした事態は学芸の未熱な段階として位置づけるだ
とみている。
^3︶
ては中世以後も読み書き能カはほとんど評価されず、い
に及ぶ家臣や貴婦人、職人を引連れて各地に滞在して税
はできなかったから、宮廷そのものを移動させ、数千人
統治の必須の手段でもあった。一六世紀になると領邦君
わたって同様な事態が確認されており、国王や伯の旅は
^6︺
ブルク辺境伯︵一二二四∼二一二九︶のぱあいも数代に
である。最近H・lJ・ファイの研究によってブランデン
︵5︶
を消費して歩き、自らの人格を直接に人民に刻印したの
わゆる騎士文学と称するものの多くも文字とかかわらぬ
ものであり、作者の多くも後代においてすら読み書きが
できなかった。こうしたなかでユダヤ人のぱあいはごく
普通の人でもヘブライ語の読み書きができた点で注目に
値する。また商人も早くから商人学校をつくり、かなり
読み書きができるようになっていた。全体としてひとつ
主は特定の城や館に定住し、恒常的な旅の生活を放棄す
^4︶
の都市の人口の一〇∼三〇バーセントが読み書きできた
{0ヨ
(3) 中世後期の自伝二著
どは視野の外におかれている。しかしながら最近盛況を
いぜい商人層が問題になるにすぎず、職人層や下層民な
という点である。ヴェンデホルストの展望のなかでもせ
衆が文字や文書とどのような伽かわりをもっていたのか
このような状況のなかで私たちの関心をひくのは、民
を担当する官僚が大量に形成されてくる。
手段として文書が決定的な役割を果すようになり、行政
るようになる。この頃になってようやく世俗君主の統治
枚のビラを中心にして大勢の人ぴとが長時間にわたって
黙読して得た知識ではなく、人から人へと渡ってきた一
前で酒稻と自らの信ずるところを述べているのも書物を
られた人ぴとが目に一丁字ない身でありながら審問官の
民戦争ののち、あるいはミュンスターの一撲ののち捕え
多くのビラにこのことが嬰言されている。宗教改革と農
討論するための素材として書かれているのであり、実際
みている。つまりビラは市場や屠酒匿で読みあげられ、
浸透してゆき、その際にピラが決定的な媒体となったと
居酒屋などで議論した結果身につけていった知識.と確信
みせつつある宗教改革史研究においては特にビラ曽品−
9︶
眈oマ豪彗の問題が注目を集めつつある。ゴータのシュ
層や都市下層民も宗教改革期に少なからぬ役割を滅じて
物たりえたのかという問題が生じてくる筈である。職人
のビラはどのようにして民衆に新しい福音を伝える媒介
都市下層民のほとんどが文盲であったとするならこれら
ロスムゼウムにある宗教改革期のビラ五〇点その他多く
^島︶
の蒐集が印刷・刊行されつつある。ところが中世後期の
ーションの形態があった中世都市や農村における研究に
民衆と信仰の問魑についても重要な視点を与えるものと
の研究は宗教改革期のみならず中世後期の民衆と学問、。
とになったのである。この点を指摘したスクライブナー
手段のなかで宗教改革期にビラが大きな位置を占めるこ
ン、合唱などの申世以来の重要なコミュニケーシ目ンの
なのであり、このような口頭伝承と絵画やプロセッシ目
いるからである。まさにこの点についてR・W・スクラ
^9︺
イブナーは注目すべき視点を提示している。彼は口頭の
も示唆を与えるものといえる。
︵1︶ 贈与から売買への転換という観点から中世杜会をとら
いえよう。いわば文書のみによらない多様なコミニニケ
伝承、視覚を通しての伝達、コミニニケーシ冒ンとして
の行動の三つの面において宗教改革の恩想は民衆の間に
405
(4)
第四号
第八十七巻
一橘論叢
かしながら近年このような考え方に近い諭著もいくつか現
えようとする見方はいまだ一般的なものとはいえない。し
やミ“§“吻§§ミ§串§き∼︸ミ雨s ミs薯軋曳 軋婁 “o善雨s ミミ﹄
︵4︶ この問麗については勾目目彗一向二ω津票自目︷ωoプ自一〇
︸寸き雨sミミざぎミミ臼.
われている。私自身の基本的な考え方の全体は別の機会に
旨−ま一算冨﹃・宙ぎぎシ§冊﹁膏ミ喜§葛ミ§“ミ‘−oq.oo心o.岩等
⋮旨篶冒毛雪尿色器篶−如gくo︸簑暫尉くo;o︸昌旨o巨−昌
︵5︶ 旅をする国王については古くから研究がある。例えぱ
ω、象饒を参照されたい。
詳論する予定であるが、すでに﹃中也の窓から﹄︵潮日新
進、樺山紘一氏との共著、特に下巻の﹁あとがき﹂参照。
聞社一九八一年︶や﹃中世の風景﹄上下︵網野善彦、石井
中公新書一九八一年︶でスケッチをしておいた。このよう
T.マイヤーによる研究動向の紹介などを参照されたい。
巴ま﹃・ω冨自μ自目o>巨oq巴︺昌ま﹃冒岸ま5岸o;o︸o目Ωo■
旨嘗︸胃一H︸j U胃峯嘗包色目冒皿oHg吋自pgくo目旨−ヰoHl
な考え方に近い論著としてはさしあたりご茎9■.内。
完§智o§、§ミミ sミ、、、急︸肉8§§︸ぎミ雨§§ミ
き︸等ミO、§§§§吻ΩO“ぎ.■O号N荷岩まNbO01
ミミき㎞比§ミ奪き篶︸・餉o隻§ミs姜軋ミ皇§§“§戎
︵8︶薫;貝戸串晶二.一、鳶§“ミミ亀さ§§oミ
稿を集めている。
§§ミ∼ミ昂さ、§§§寒ミ。ωけ二晶彗片岩O。−がすぐれた論
目嘗冨︷O碧巨昌一︸易OPjくー一、ぎ式竃ミ亀§ミ︸ミ婁竃ミ§甲
︵7︶ 数多くある研究のなかの一例をあげれば内o≡巨貝
誌OブO向O嘉O崖自目σq竃.OO干H︵αぎ㌔老ざ■岩OOド
ミミ膏、喜s定§民ミミきき§吠︵−H宝ーご岩︶’曽︸津oE¢目−
︵6︶黒さ麸畠−言碧巨貝完軸ぎ§軋葭ミ§怠ミ
照されたい。
訳﹃フランス・ルネサンスの文明﹄創文社一九八一年を参
£−岬・岩蟹ω・罵・一般的には﹂・フェーヴル・二宮敬
岨o巨o算蜆8富g目目o目一史町§、さ、きミ竃ざト§き夷竃ミoミ雨1
向ミs雨・■昌口冒宕詰・bききΩ’9ミミミ︸更甘ミ竃§
﹃ミーkミ。包∼き・、ミ§︷ミ婁帖ミ軋雨“、“S§ミミミ患“§§1
勺凹ユmH0Nω妃やひo饒.などがある。
︵2︶ この問題については一九八一年十一月に一橘大学社会
科学古典資料センターにおいて﹁ある文書館の歴奥につい
て﹂と題して講義を行なった。人と人との関係のなかで文
書が古代の呪術的な意味をもつ文字の集積としてだけでな
く、生と死︵死後の救い︶とのかかわりにおいて人と人と
の日常生活のなかでの関係においても普遍的な意味をもつ
ようになるのがまさにヨーロヅパ中世における文響の独自
論じてみたいと考えている。
な意味の問題である。この問魑についても別の機会に再ぴ
︵3︶ξ彗宗ぎ易戸>;考實キo⋮富弐彗津〇一葦彗−窮9
N一1HOl抽−畠−彗︷監・H易O−昏一39昌琴.塞㎞し§ミー
冒旦朋g篶旨彗∼串oヰ鼻o;旨彗昌oξg豪↑晶自目σ目き旨
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(5) 中世後期の自伝二著
︵9︶oooき篶■申オ.曽轟げ軍“⋮ρ>量一号等9彗“自≡.
考討5目ま・o口o冒oぎo旨嘗昌昌邑o・昌津o法oぼ宝o昌.
ざ、ぎ喝暮ミミ§ミ肋ミ§︸雨ミ§&ざ§軋ミー寓さ、§畠註Oミ吻−
∼S“.ω’①㎞︷一
は息子フェリクスにあてた自伝を七十三歳の一五七二年
えがたい叙述をのこしてくれた人物である。プラヅター
一月二八日に書き始め、ニハ日間で書き終えている。そ
の概要を一七二四年のチューリヅヒ版匡卑昌ぎく岸竃
H︸o昌里o勺−津⑦ユによって辿ってみよう。プラッターは
伝は経済史のみならず、あらゆる分野の生活を描写して
市民や放浪学生あがりの聖職者や人文主義者が綴った自
ダイナ、ミックな動きを伝えているわけではないが、都市
で重要なのは年代記や自伝の分析である。ビラ程社会の
考えるとき、宗教改革期におけるビラの位置づけと並ん
中世後期における民衆と文字のかかわりという間題を
トマスが生れた時、母親の乳の出が悪く、牛の角の容
もうけているのである。
る。この祖父は百歳のときに三十歳の嫁を姿り、息子を
おり、その死の六年前にトマスもこの祖父と話をしてい
メルマヅターといい、母方の祖父は百二十六歳に達して
れ、父はアントニ・プラッター、母はアンティリ・ズン
スイスのヴァリスのヴィスプ教区のグレンヒェン村に生
おり、とりわけ放浪学生や市民層の生活意識を反映して
器に入れた牛乳を飲んで育った。﹁自分は母乳を飲まな
^u︶
かった。−⋮それが私の苦難のはじまりであった﹂と書
いている。トマスの父はトマスが生れたあとすぐに死ん
いる点で社会史研究の椿好の史料とみなければならない
だろう。
めの上衣やズボンを織って生計のたしにしていた。トマ
でしまった。この地方では冬の前に夫がベルン地方で織
ヅター︵一四九九?1一五八二︶とブルヵルト・チンク
^10︶
︵二二九六−一四七四/五︶の自伝をとりあげてみたい。
スの父も原料の買付けに出かけたときに疫病にかかって
数多くある自伝のなかからここではまずトマス・プラ
いずれも貧しい庶民の出であるが、後世の私たちがこの
死んでしまった。母はすぐに再婚し、子供たちは散り散
物の原料を買い込み、妻たちがそれで冬の間に農民のた
時代の人ぴとの生き方を知ろうとするとき何ものにもか
407
二
第八十七巻
第四号 (6)
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りになった。末っ子だったトマスは伯母に貰われていっ
た。
だくれとこそ泥の手先きとも呼ぱれていた。
故郷をはじめて出たトマスにとってすべては目新しい
あ かしたこともあっ た 。
行方不明になって家に帰れず、山の上で凍えながら夜を
とではなく、何度も谷底におちて死にかけたり、山羊が
まわる山羊の番をすることは六歳位の少年には容易なこ
岩の間で約八○頭の山羊の番をした。峻険な山地で跳ぴ
だが、その実幼い子供を家々の軒先に立たせて物乞いさ
ひよっ子を親・から預り、学校を塵訪させると約束するの
が一人で稼がねぱならなかった。放浪学生は十歳前後の
たり、歌を唱っては兄貴分のパウルスの食事までトマス
き家鴨を盗み、村人から追いたてられ、また物乞いをし
の家鴨をとることが許されていると聞かされて、あると
ことぱかりであった。マイセンでは学生には自由に農家
やがて牛飼いとなり、九歳半位のときにある司祭の許
る。トマスも村道のぬかるみの中を一軒一軒廻って喜捨
せ、自分は稼がずに女に夢中になったりしていたのであ
.六歳になると山羊飼いとして働かされ、八歳まで山の
で文字を学ぷことになった。ところがこの司祭が怒りっ
なぐったから、トマスはナイフでさされた山羊のように
バウルスに貰った物すべてを渡さねばならない。バウル
を求めて歩いて戻ると乾いた国遭のところで待っている
^皿︺
ぽい男で、トマスの耳をひっぱって席からひきたてては
悲鳴をあげ、近所の人は司祭がトマスを殺そうとしてい
スはトマスに水をいっぱいふくませて容器に吐き出させ、
.食物のかすが一片でも残っていると容赦なく殴る、蹴る
ある町でひよっ子があまりにみじめな姿だったので、
な関係が一般的なものであったことが解る。
な記述があり、この頃の放浪学生とひよっ子のこのよう
^u︶
ンネス・ブツバッハーの﹃放浪学生の手記﹄にも全く同様
の暴行を加えたのである。ほぼ同時代の人文主義者ヨハ
るのではないかと思った程であった。ちょうどその頃従
兄のバウルス・ズンメルマソターがたまたま帰国してい
た。バウルスはウルムやミュンヘンの学校へ行っていた
のである。殴ること以外に何も教えてくれない教師から
逃れてトマスはバウルスの子分となり、ルツェルン、チ
ューリヒを経てマイセンヘの旅に出た。これは放浪学生
由竃oぎ具旨とひよっ子ωo巨冨昌の関係であり、のん
{08
(7) 中世後期の自伝二薯
はこの服地をひよっ子にもたせて家々を廻らせ、﹁布地
哀れに思った人が服地を一着分施してくれた。バウルス
人につき一週間にニハヘラーの傷病手当が出されてい光。
一冬に三度も病気になったが、学生用の病院があり、一
があり、千人もの学生がいたという。この町でトマスは
たブレスラウは七つの教区に分れていて、各教区に学校
なかったし、バウルス自身放浪の生活のなかで勉挙の方
トマスは兄費分のパウルスからは何ひとつ学問は学ぱ
ながらえたのである。
た人もいた。これらの人ぴとの情けによって少年は生き
おかみさんもいた。また凍えたトマスの足を温めでくれ
もいたし、兄貴分のバウルスからかぱってくれた肉星の
は哀れに恩ってトマスを養子にしようとした盟かな市民
かけられて追い出されることもしぱしぱあった。なかに
ターニエの実などを食ぺて野天で夜をあかし、犬をけし
一年中飢えと寒さに悩まされ、生の玉葱や焼いたカス
ゾロトゥルンを経由していったん故郷に帰り母に再会す
の学生のためにこの町での生活が困難となり、トマスは
となった。ところがサビドゥスの名を慕って集まる多く
とっては新たな、しかし希望にあふれる苦労のはじまり
まだドナトゥス︵ラテン文法書︶さえよめないトマスに
だのである。これがトマスにとって最初の学校となった。
スは鶏の群のなかの牛のように小さい子供のなかで学ん
学を許可されたときには十八歳になっていたから、トマ
こでヨハンネス・サピドゥス︵∼一五三一︶の学校に入
を逃げまわり、やがてシュレヅトシュタヅトに来た。そ
き手を失ったパウルスが追跡してくるのを予知して各地
の支配下をのがれ、一人で南へ下っていった。重要な働
やがてミュンヘンでトマスはついに兄貴分のバウルス
ができたというo
トマスはいつでも胸のなかから三匹の風をとり出すこと
^蔓
十分な看謹をうけ、ベヅドも良かったが、風だらけで、
はあるのだが、仕立代がないので恵んで下さい﹂といっ
って歩いた。うかつにも一年後に立寄った家で、﹁一年
てほぽ一年間もこうした仕方で多くの家から仕立代を貰
か﹂といわれてしまうまで、こうして彼らは稼いだので
前に仕立代をあげたのにあの布地をまだ仕立ててないの
^14︶
向も意志も失っていたらしい。しかしトマスの自伝から
ある。
当時の学校の様子を知ることができる。トマスらが訪れ
409
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校に入るが、ちょうどその頃すぐれた挙者がアインジー
そののちチューリッヒのフラウエンミュンスターの学
が足りず、トマスはプラウトゥスの書の頁を亜麻布の束
間は職人として働かねぱならなかったから、勉学の時間
ルで、ある親方の家に住みこみ職人として倣われた。昼
具職人としての修業を終えると遍歴の旅に出て、パーぜ
デルンから来るという話があった。そこでトマスは講義
にはりつけ、仕事をしながらよんでいた。こうしている
る。
室の一角に席を占め、﹁ここで挙ぷか死ぬかだ﹂と自分
^正︺
にいいきかせて学業への決意を固めた。その教師がミコ
トゥス.レナーヌスが訪れて綱具職人をやめて他の職に
間にトマスの学者としての名が高くなり、仕事場にベァ
つくようにすすめてくれたが、実現しなかった。
ニウスであった。トマスはドナトゥスを暗記し、そのの
ちローマの喜劇詩人テレンティウスの作品をよみ、やが
て聖書もよんだ。ミコニウスはトマスを助手として家に
うにトマスに頼んだのである。トマスは時間がないから
五〇七∼六八︶が現われ、ヘブライ語を教えてくれるよ
くのであった。
と固辞したのだが、ついにオポリヌスの熱意に負けて親
あるとき仕事場にバーゼルの印刷業者オポリヌス︵一
こうしてようやく少年時代に過した無駄な時間を取戻
方に給料を減額してもらい、夕方の四時から五時までの
連れて帰り、食事を共にしながらトマスの遍歴の話を聞
しつつあったが、このときトマスはすでに二十六歳にも
物乞いをして歩くわけにもいかなかったので、綱作り職
うけていたのである。それをみてトマスは怖れをなして
そこにはオポリヌスだけでなく、一八人もの学者が待ち
一時間の暇を貰って、教会に出かけていった。ところが
人となり、生活をたてていたのである。昼間は働かねぱ
帰ろうとしたのだが、オポリヌスに説得され、以後毎日
なっていた。他の少年たちと同じように衛頭で歌ったり、
ならなかったトマスは、夜になると親方や伸間の職人が
一介の職人が多くの学者を前にしてヘブライ語の講義を
する光景がみられたのである。やがてトマスはバーゼル
^〃︶
のなかに砂を含んで睡魔と戦いつつラテン語、ギリシア
のギムナジウムのギリシャ語の教師となり、かたわらオ
眠っている間に、冷たい水を飲み、生の蕪をかじり、口
語、ヘブライ語などの勉強をつづけていたのである。綱
410
(9) 中世後期の自伝二著
ポリヌスらと印刷所をつくり、カルヴ7ツの書物等を出
版するようになる。
トマスの自伝にはこの他にツヴィングリとの出会いや、
ある町でチューリヅヒからやってきたトマスと旧教派の
司祭との間で論争が行なわれる場面や、トマスの食事の
内容、さらに最初の妻の死後七十三歳で再婚し、この結
あろう。私はここでその答を出すことを控えておきたい。
ただひとつ指摘しておきたいことは、この時代の民衆が
すべて文字に無縁であったわけではなく、また日常生活
のなかでたとえ飢えや寒さをしのぐことができたとして
も、それだけでみたされていたわけではないということ
である。身近かなところでの欲望の満足をこえたところ
れており、当時の素朴な人びとの間に宗教改革の恩想が
の点をおさえておかなけれぱならず、そのためにはトマ
衆の生活と文化、宗教とのかかわりを調べるためにはそ
その方向は人によってさまざまであろう。この時代の民
に、少し遠くをみようとする気持ちが誰にでもあるが、
浸透してゆくあり様がよく解るように描かれている。都
スの自伝は楕好の材料となるであろう。
婚で四人の子をもうける話など極めて多彩な場面が描か
してきて薪にして燃してしまうあたりの叙述も含めて、
︵10︶ 串室ミざミ§Hぎ§§、、ミミ軌・C、、亀§喜寒乱婁ミき耐、雨
屋を暖めるために聖ヨハネの木像を教会から黙って失敬
この時代の自伝としては異色の内容を豊かに合んだ記録
s魯宗>目.ごs一富一言目毒﹃芦g旨2〇一︺冨き餉o−皇庁・
ヲ旨尉O昌⋮−1N旨ざげ箏塞−プラヅターの自伝に.はこの
となっている。この点でも社会史の史料として極めて重
要なものである。
他に数多くの版がある。翻訳を試みるぱあいにはこれらの
う。厚O算員>二皇§§ミ亀一ミ§∼きミ、§ミーN§曳
版の間の違いについて十分な検討を加えねばならないだろ
スイスの山間の貧しい農民の子であったトマスが何故
他の遍歴学生のように自堕落な生活に陥ることなく、職
人としての生活の間に刻苦して語学や古典の学業に精を
↓H蝉Oo箒勺凹H峯一︸o−−自嘗−一−勺曽ユ岬]loひ干 07﹃O目山斥Oo蜆Hw目﹃.
]一ぎ§婁、ぎミミ、餉い良茅§ざ軸§、ぎ雨−一〇〇〇〇ド﹄ミo9晶ミ、ぎ雨
、ざミミ.卜&雨s&雷oぎ・ミ︸§売.団嘗竃一一〇杜中 曽o目雪p 勾二
\ミoミ£§、ぎ§.−︸鶉o−−ooき.︸胃冊旨嘗⋮‘>・Hぎ§婁
何であったのか。こういった閲題に対してはこの自伝を
出しえたのか。一体この時代の人びとにとって古典とは
全都よんで検討してゆくなかでおのずと答がでてくるで
41j
片曽﹃0Nぎ汗1−ωひoo−H全①oolb︸雨oき§ミ宗雨ミ良ミ、軸ミ竃−雨s
吻§ミ雨︸。︵HO。象︶。チンクに関する研究では以下の二つが
主なものである。峯自−い■ >・ 冒二 bミ、討s、“N︸sぎ 良ミ
﹂宮恥&ミミミoミ§汁“.い雨ぎト茎§§這寒ぎミミ討.H遺oo’
アウクスブルクの商人ブルカルト・チンクの自伝である。
^些
チン.クは二二九六年にメミンゲンの商人あるいは手工業
者の子として生れ、四歳のときに母を失い、トマスとほ
出た。父が一四〇四年に再婚し、継母との伸がうまくゆ
ぼ同じ十一歳のときにクラインにいる伯父を頼って家を
■軋ミqミミ﹄§ぎ素∼ミ、雨§ざ急§雲き§Ω婁§軋き雪§ミ︸−
ωOま津戸宍;bざ﹄藁冬−^夷ミOミ§註き㎞bミぎミN§ぎ
かなかったためである。その後クラインのライバヅハ南
とき故郷に戻り、学業を中断した。しかし父も継母も死
東にあるライスニッツで七年間挙校に通ったが十八歳の
ぎ轟軋雷;1㌧Sミぎミ“雨壽一冒蜆蜆−亘邑−崖箏暮巨彗岩蟹
︵11︶ 已旨目竃曽黒o﹃−.ω1旨N一
︵12︶ 放浪挙生の生活についてはω官晶巴一老二b婁盲ミ§き
に、財産もなく、クラインの伯父も死んでしまった。初
い§ミミミ§一向§向泰帖︸ミ㎞∼ミきミ帖き§吻§ミ“ミき§§ざ亀
§§ミミ§吻×ヌ㌔×、卜㌧s“きミミき募.炭邑品o 昌∋
恋にも破れたチンクは再び学業をつづける希望を失い、
週間でそれもあきてしまった。そこで再び放浪学生とな
手工業者となる決心をして毛皮工となろうとしたが、二
言∼鶉げ邑o葦忌蜆宍.≧芹胃Ω︸昌毒蜆ぎ目岬昌峯苛き胃oq.
岩宝■ω。①竃。を参照されたい。
︵13︶ ω享昌竃戸﹁Oミo§§雨ぎ雰盲ミ§、§讐§ミ︸.
り、はじめは聖職者になることも頭に描いたらしいが、
アウクスブルクやニュルンベルクの商人の許で働き、バ
︵14︶ Hぎ§§、、ミミ戸u〇一8ooh.
射晶gω一︺≡o冒冨sーや塞1
︵u︶ Hぎ§ミ、、ミミ戸ω.oos□.
ンベルクでは聖界裁判所の書記の地位を得たらしい。こ
の頃まではしぱしぱ職業をかえていたが、アウクスプル
︵16︶ Hぎ§§、、 ミ ミ 戸 ω . b 0 も .
︵17︶ Hぎ§§、ざ“ミ︸ω.ooS. 1
クに一四一九年に来て、ヨス・クラーマーの許で働き、
民衆と文字との関係についてトマス・プラヅターのぱ
チンクは一四五〇∼六〇年代に年代記を書き、二三ハ
将来の方向が固まりつつあった。
ヴェネーチァの支店で働くようになってからはチンクの
あいとは全く異なった脈絡において関心をそそるのは、
三
第四号 (10)
第八十七巻
一橘論叢
412
(11) 中世後期の自伝二著
八年から一四六四年までを扱っている。第一巻は二三ハ
ブルク市の特権を自分のものとして受容れ、一人の人間
としてアウクスブルクに住んだのではなく、アウクスブ
がいえるだろう。チンクのぱあいも自己の体験を語って
験に裏づけられており、信仰の問題においても同じこと
形をとっていて、その限りでまさに彼の経験は自己の体
は自已の体験を恩子のフェリクスに伝えるという叙述の
リヒの年代記︶とも異なウている。トマス・プラヅター
年代記︵例えぱアウクスブルクの市参事会員H・、・、ユー
の年代記はプラッターの自伝ともまた他のドイツ都市の
事が描かれている。このような構成の点ですでにチンク
いる。第三巻は自伝で、出生から一四五六年までの出来
見聞や口頭伝承などをおりまぜて一般史の叙述を試みて
∼一四六六︶と第四巻︵一四ニハ∼一四六八︶は自らの
ア取引で財をなしていた。翌年二十四歳でチンクは貧し
ツンフトに属していたが、のちに商人としてヴェネーチ
ラーマーの許で働いていた。クラーマーははじめ織匠の
一四一九年にチンクはアウクスブルクにきてヨス.ク
伝のなかから注目すぺきいくつかの点を紹介してみよう。
料を提供しているのである。以下においてはチンクの自
その変化、物価の変動なども知ることができ、貴重な材
く記録しているために、当時の一市民の生活の具体相と
細に検討しているように妻との共稼ぎ生活の収支を詳し
すべきものといえる。さらにチンクはE・マシュケが詳
でなく、当時の人の政治意識の世界を知るうえでも注目
人の都市市民の生活を知るうえで貴重な資料となるだけ
その点に注目するならチンクの年代記は中世後期の一
ルク人となった﹂のである。
^20︶
いるのだが、少年時代から職業の選択と実践、アウクス
プルク年代記を編集したものであり、第二巻︵一四〇一
八年のツンフト制の導入から=二九七年までのアウクス
ブルクにおける成功、結婚、そして子供の出生と死など
なベッドと小牛、鍋程度のものであって、全部でも一〇
マシュケは結婚当時の二人の財産は全部でo・L︶ライ
プフント・プフェニヒ程度の価値しかなかったという。
い寡婦の娘と結婚したが、花嫁が持参したものは、小さ
を伝えながら、それらをアウクスプルクの町の歴史と密
^”︶
接に絡みあったものとして叙述している。チンクは一四
ュミヅトの言葉を借りれば﹁チンクはそのときアウクス
四〇年にアウクスブルクの市民権を得ているが、H.シ
413
第四号 (12)
第八十七巻
一橘論叢
ザベトはクラーマーの家で働いていた女であった。チン
^肌︶
ン・グルデン程であったとみている。チンクの妻エリー
ったと推定される。一四二九年の租税帳簿においても家
ン.ディーボルトの名の下に書かれており、借家人であ
四二一年の租税帳簿κはじめて登場するチンクはフォ
り、二人だけで借りていたと考えられ、小さな家だった
^24︺
主の次のH宥昌項目の下にチンクの名だけが書かれてお
クもクラーマーの職人であったから結婚にはあらかじめ
、クラーマーの許可を得なけれぱならなかったが、それを
せずに結婚してしまったためにチンクは解雇され失業し
いう。実際彼女自身一週間に四プフントの羊毛を紡いで
若い妻は﹁私のブルカルト、元気を出して。絶望しては
憂︶
駄目よ。助け含えぱうまくゆくわよ﹂といって慰めたと
に二五グルデンの収入をあげ、一四二四年には約二九三
くれた。以後のチンクの活躍は目覚ましい。一四二一年
ラーマーが一四二一年末に努カ家のチンクを再び傭って
と想像される。
三ニデナリウスを稼ぎ、チンク自身はある聖職者のため
てしまう。どうしてよいか不安をいだいていたチンクに、
に写本をして、一週間にニハボヘミア・グロッシェンを
っている。ポとよりクラーマーから固定給を得た他に一
グルデンにも達し、一四二八年には六六一グルデンとな
なり、二人で一五ニデナリウスを稼いでいたことになる。
ンはNし、デナリウスであったから一二〇デナリウスと
の給与をうけ、一〇力月で一二〇〇グロヅシェン︵九〇
四二二年の戦争では市の俳兵として一日四グロッシェン
チンクの筆写の仕事は三カ月程で終づてしまうが、ク
稼いだ。チンクの記述では当時一ボヘミア・グロッシェ
この数字は当時の他の職種の職人と比べてみたとき決し
仕事を手伝ってヴェネーチアに赴き、そこで主人のため
〇〇デナリウス︶の収入をえた。そのうちほぼ半分の額
^筆
を節約し、貯金にまわしている。その他にクラーマーの
て低い額ではなかった。マシュケの計算によると一四二
一年のアウクスブルクの建設業親方の賃金は週九六デナ
に働くと同時に自ら独立して取引も行なっている。
稼いでいたことになる。
ての仕事に疲れてしまった。﹁すでに私は一四三一年の.
しかしながらチンクは三十五歳の時にすでに商人とし
リウスであったからチンク夫妻の方がはるかに高い額を
冤︶
若い二人はどのような家に住んでいたのだろうか。一
414
(13) 中世後期の自伝二著
頃にもう十分に富んでいたし、馬に乗って旅をすること
ルデンにのぼっていた。一四三八年には秤場の﹁安定し
産は急速に増加している。一四三五年にはほぽ七〇〇グ
すでに財産は一〇〇〇グルデンになっており、一四四〇
の生活に全カを傾けることになる。秤場をやめた頃には
・た﹂生活にもあき、管理人の職を辞し、再ぴ活灌な商人
に疲れ、町のなかで、そう激しく働かなくてもすむ仕事
につきたいと思ったLと書いている。貧しい出身の男が
^ 2 6 ︺
結婚当初の財産を数倍にしたとき、すでに自分は十分に
豊かだと感じることができたのである。一四三一年に市
あれぱのがさなかった。一四三三年にP・工ーゲンが家
き取引きを行なっていた。それぱかりか、儲ける機会が
らずチンクは年に少くとも一∼二回はヴェネーチアヘ赴
た。求めていた地位を手に入れたのである。にもかかわ
当時の商人は商取引から上る利益の一部を家などの不動
条件であったとも考えられるが、それだけでもなかった。
ブルクの市民権を得ているから、家の購入はそのための
るためぱかりではなかった。チンクはこの年にアウクス
中世都市の商人が家を買うということは安住の場所を得
年にチンクは二〇〇グルデンで家を買い、増築している。
^η︺
を建て替えた際に二〇〇シャフ︵二〇五・三リヅタi︶
産に投資して一種の準備金にあてていたのである。だか
の秤場の仕事を手に入れ、年五三フローリンの給与をえ
の裸麦を一シャフ当り一八○デナリウスで売りに出した。
らチンクのぱあいも四年後にはこの家を三〇〇フロリン
クはユーデンガヅセに家を買って移っている。
で売って、大きな利益を得ているのである。同年にチン
ところがその二週間前の価稚は同じ量につき二一七・五
デナリウスだったのである。そこでチンクも手持ちの裸
麦を売り、ニハグルデンを儲けている。そのうえチンク
ティングの商会に入り、この頃からチンクの財産は急激
一四四一年にはチンクは当時著名な商人ハンス・モイ
の裸麦を買い、さらに儲けている。
に増加してゆく。毎年二〇〇グルデン程の収入を得、一
はもっと値上りがつづくとみて工ーゲンから一〇シャフ
旅にあきて落着いた生活がしたいと願って秤場の管理
四四八年には一二二五グルデンと生涯最高の収入を得て
いる。
人を勤めながらときに商取引を行なっ次のは一四三一年
から一四三八年までの七年間だが、その間にチンクの財
415
第四号 (14)
第八十七巻
一橋論叢
が息子の一人は幼くして死亡し、結局四人しかのこらな
に糟糠の妻が死んだ。二人の間には九人の子供が生れた
の子をもうけた。五年間は幸せに過したが妻がまたも死
た。一四五四年にチンクはある商人の娘と結婚し、四人
裁判所に訴えた。しかし婚姻裁判所はその訴えを却下し
れた。チンクが別れようとするとこの女は結婚を迫り、
かった。一四四一年にチンクは貧しい貴族の寡婦と再婚
去し、六十四歳でチンクは四度目の結婚をした。この結
チンクが家を買い、市民権を得た一四四〇年の一〇月
した。このときチンクは四十五歳であった。新しい妻も
婚はチンクには失敗で、新しい妻は怒りっぽく反抗的で
あった。チンクはあきらめて﹁この女にはしたいように
前の妻のぱあいと同じくほとんど持参するものがない貧
しい女であった。﹁ベッド用シーツのないベッドニ台、足
かったから、こうして七人家族となった。第二の妻は
最初の結婚で生れた子供のうち三人はまだ独立していな
二人とも裸であった﹂とチンクは記している。チンクの
トもブェールもなく、息子一人と娘一人をつれてきたが
民の生活の一端をみることができる。秤場に官職を得て
だ。こうした点にも放浪と定住の間をゆれ動いていた市
七年以後は死ぬまでチンクは転屠せずに一軒の家に住ん
数も多く、三五年間に一〇回も家を移ウている。一四五
持家に住んだだけで、あとは借家に住んでいた。転居回
チンクは生涯の間に一四四〇∼四三年と一四五六年に
させておくことにした﹂と書いている。
^30︺
﹁美しく、敬慶で、貞節であり、熱心に糸を紡ぎ、子供
落着こうとしながらも商用旅行から足を洗うことなく、
のとれた長持、狐の毛皮の敷物だけであり、彼女はマン
の世話をした﹂という。一四四一年頃でも七人家族の生
すぐに定住の生活にあきてモイティングの商会に入って
商業に身をのり出してゆくチンクは、他方で秤場の管理
^㎎︶
えられる。
活には年一〇〇グルデンあれば快適なものであったと考
一四四九年には二度目の妻も死去し、チンク付四年半
人を勤めながら自分自身のためにラテン語の文章を筆写
市と諸侯の話になぞらえて書いている。また一四四八年
^31︶
していた。イソップの寓話の独と四頭の牛の話を帝国都
の間鯛夫暮しをしている。その間にチンクは娼婦と付合
っていたが﹁彼女は愛らしかったが、私に大きな損害を
与えた﹂と書いている。この娼撮との間に二人の子が生
^四︶
416
(15) 中世後期の自伝二薯
﹃ティル・オイレンシュピーゲル﹄や年代記を書いたブ
クスブルクのルーカス・レムやアントン・トゥヒャー、
できない。この時代の都市にはチンクの他にも同じアウ
として紹介している。しかしそう単純に言いきることは
く、商業活動からすぐに引退して文学活動に入った人物
チンクを当時の他の商人と比べて必ずしも典型的ではな
語の詩まで書いていたため、J:ソユトリーダーなどは
ていた商人チンクが同時に年代記や自伝、さらにラテン
貯え︷ヴェネーチァやロードス島まで商用旅行に出かけ
バルヘントやサフラン、胡槻の取引でかなりの財産を
の詩を書いている。
に激しい嵐がアウクスブルクを襲ったときにもラテン語
けでなく、欲望の点でも収入の増加に自ら枠をはめてい
彼らはある種の安定を求めたのであって能カにおいてだ
産をなすわけではない大多数の中・小商人の一人である。
﹁商業で利益を得、節約を重ねて財産を蓄えても一大財
ていたともいえる。マシュケの言葉を借りれぱチンクは
あるものであった。その隈度はいわぱ社会的に設定され
中世商人の一人として収入に対するチンクの欲望も限り
あくことのない富の追求とは異なった遭を歩もうとする。
やかな財産が出来ると﹁もう十分に豊かだ﹂と判断して、
クもまさに中世の商人なのである。また三十五歳でささ
これこそ中世商人の典型なのであって、その点ではチン
らも明らかであろう。旅と定住の間をゆれ動く人間像、
のではないこ工は以後も商業を独カで営んでいることか
^珊︶
ラウンシュヴァィクの徴税書記ヘルマン・ボーテなど、
たのである﹂
^糾︶
て彼が仕えた市長P・工ーゲンが市と対立し、工ーゲン
ているからである。
自伝や家の歴史その他の作品を書いた数多くの市民が出
轟︺
シニケがいうようにチンクが商業に熱心な関心をよせて
の生活感情を示しているといえよう。しかしながらかつ
おり、商人として十分な能カをもっていたことを示して
が敗れてその家が壊され家財が非常に安個に売却された
泰︶
とき、チンクはそれらを買おうとはしなかった。このよ
チンクのこのような生活態度は申世の市民、特に商人
いる。にもかかわらず商人としての旅にあきて秤場の官
うな彼の人となりが凡人のものであったとはいえない。
バルヘントの価格の変動や通商路についての知識はマ
職につくチンクが、文学に専念するために商業を捨てた
41?
第四号 (16)
第八十七巻
一橋論叢
には墓所などを詳しく記している。このような記述はチ
妻、子供の一人一人について死亡の年と月日、年齢、とき
死について詳細に報告している点である。母と父、姉妹、
もうひとつの特徴はチンクがその自伝のなかで家族の
うべきであろう。
なけれぱならない点である。
うまでもない・。ただその個性を自ら文章で表現すること
が示されており、いずれも個性的なものであることはい
いう男のこまやかな心の動きと人間の信義に対する思い
ンの財産の競売の際の行動と同じく、そこにはチンクと
とめている。その説明がどのようなものであれ、工ーゲ
だと述べているが、チンクはそれを神の摂理として受け
^珊︸
ンク以外にもみられるが、彼のぱあいとくに自分とかか
^餉︶
わりが深かった者への思いがこもった文章となっている。
都市年代記や商人σ自伝はごれまで良く知られていた
そこにこそマシュケがいうように彼の個性があったとい
一四四七年の五月二六日にチンクがヴェネーチァから
にも拘らず、十分に利用されているとはいいがたい。本
ができる時代が始まっていたという事実はおさえておか
荷を積んでインスブルックに向う途中ミッテンヴァルト
稿では十分に分析しえなか.ったが、当時の放浪学生の手
記や市民の年代記、特に家の記録は当時の人びとの家と
のなかで突然雪が降り出した。雪は二日二夜降りつづき、
森も家々も雪の下に埋まってしまった。そのときチンク
国家・社会との関係を知るうえで極めて重要なものであ
る。アハスフェル・フォン・ブラントのリューベック市
は森の小鳥たちのことを何よりもまず気にかけていた。
小鳥たちは人家の近くまでとんできて、ミヅテンブァル
れるように、これらの史料を用いて中世市民の家意識の
民の遺言書などの研究を重視したマシュヶの研究にみら
^39︺
めていたので誰でも容易に捕えることができた。ある若
構造を探る試みが生れつつある。またH:ソユミヅトが
トの中を流れる小川の乾いた石の上に疲れはてた翼を休
者は三〇羽も捕えた。チンクは捕えた小鳥たちを二階の
間と時間に関する意識の構造を、これらの年代記や自伝
からよみとってゆく作業もまたはじまりつつある。もと
かつて行なったように、中世市民の国家・杜会並ぴに空
暖い部屋に放って自ら穀物を与え、雪が晴れてから森に
茅︶
帰してやった。このような記述が年代記第四巻にある。
マシュケはこの叙述を中世で最も美しい動物愛謹の描写
418
(17) 中世後期の自伝二著
より自伝のぱあい記述の信懸性には常に問題があるから、
これらの叙述を社会史研究の史料として用いる際にはそ
れなりの方法、特に文献批判の方法をきたえておかねぱ
^40︺
ならないことはいうまでもない。西洋牡会史の研究分野
には中世後期の一部分だけをとりあげても、これ程の魅
カ的な分野が広がっている。未開拓のこれらの分野は単
に経済史や政治史、法制史に隈定されることなく、文学
や哲学にも開かれており、のびやかな心をもった若い研
究者を待っているのである。
しかしo目o幸宵巨o目昌芭目冒目o胃一︺o津g寧昌o胃ω富庁目胃片
︵18︶ チンクは父の職業についてはっきりとは述ぺていない。
︵O巨Ho■︷斤 旦o岨 団自二︷臼H︷ N−目ポー−ωひoo1一企ひoo−︸自o− H−Hω.
H§︶と薔いているから商人とみるぺきであろう。
︵”︶ ωoす自一−ρ寸 由.. b軌雨 軋雨ミ︸餉b︸冊s 吻“趾“冊冊o¥、oミ︸申帖ミ s、吻
筈︷売軸ト 軋雨蜆︸黒泰雨ミ軋““︸ミ吻雨“︸包︸“§ミb箒軸︸ミ臼︸§筈斗“§ミー
“︸、Sミ雨、一 ︹︸0=↓片−目岬^⋮目 ]1O㎞Oo ω.・ωO−
︵20︶ωo−冒巨戸串.苧O1一ω.竃
︵22︶ Oブ﹃o目︷片鼻w㎜ 団自H斥顯H︷N︷目斥.ω庄.−一H.ω.−oo
︵23︶ 峯聾蜆o︸岸P串.嘗一〇二ω.∼革o
︵幽︶ 崇−寅蜆oプ斥o、 蝉. 嘗’ ○.− ω. N︷o
︵肪︶ 当時の換算では一ライン・グルデンは一四ニアナリウ
スであったから、備兵としての収入は約六三・一グルデン
︵26︶ O︸Ho自−斥αo㎝ω自H斥凹H0N山目斥−田ρ.H−H.ω.HωN
となり、そのうち約三〇グルデンをチンクは貯金している。
︵28︶ O︸﹃o目山キoo蜆b自H岸印H︷N−目汗−射ρ.HH−.ω−Hωo
︵η︶O巨昌岸ま蜆︸胃冨邑Nまぎ司PHHH1ω1Hε
︵30︶ O巨Ho目︷斥旦^w蜆︸自H片嘗﹃︷N︸自ド ωP H<1ω1ω−ω
︵29︶O巨昌岸o鶉H一⋮罫己昌目斥籟PHHH−ω.HS
︵皿︶ o︸Ho目−片 ︷o㎝ 田自H庁顯﹃0 N︷目斥’ Hwρ. −<■ ω. N∼o
︵犯︶ ω↑﹃−OOO﹃一 −一− Nミ、①雨S軸㎞︸−軋㎞餉ミーO軋雨、S恥ミ 宍S、ミSミ吻−
︵33︶ ︹﹃棄雨︸ミo“軋雨︸トミos餉−∼雨§sミ︸軋雨ミ ㌧s守、雨ミ 、へoへ ︸︷肋
§ミ屹. H・o−oN−o司 H00企. N >自− H0ω㎞. ω■ −o0H
、︸、、1向−■ 尉乱守串胴 N自﹃ H︷ρ目ρ巴moqo㎜o︸ざけ庁o oポ﹃ ω︷葭μ“
>自O司岨げ自H胴■Hw.︹Ψ﹃①︷串■OO①.−良ブH耐蜆1HwOユO︸“OO蜆7−蜆︷OH−mO︸O目
2o自一︺自Ho司 ︷昌H o串m −ρ︸H −oo①o ︵Hoo瓜−︶一 ﹄s−os Hミo杏雨、︸
内冨げく宵9易旨宛ooq庁昌箏oq蜆一︺①江鼻Φくo目ωoヲく印σo自一旨o
Hw自︺−−O“]−〇一︷ OO蜆 H﹂““OH凹H−㎜〇一−而目
オイレンシュビーゲル
く0H①⋮目㎜ −自 ω庁目“庁o目與﹃け.
曽§蜆ぎ象ぎき︵ξミs帖ξミ︶し寡。・.く.オ亭①一目一5o器1
︸o・H宝︵一〇。ミ︶拙稿﹁ティル・
︵趾︶ 峯里岨o︸片9 向・− ]U①﹃ 妻山﹃“蜆oブp津−oげ⑦ >自涼けooq oo蜆
文献学から社会史へ﹂﹃思想﹄ 六六三号一九七九年。
︸自H■岸嘗﹃ρN山目片︵−ω①ひ∼H阜、企㌧N㎞︶−目>自吹㎜σ自H晒−、軸包︸o“、さ
さ、串雨、ミosss ﹄ミ︸︸s∼ミ§ooo.①軸①sミ︸“義. ]⋮wρIN.幸−o眈−
︵榊︶ 旨鍔oけ汀9p一ρ一〇jω一Nひo
σ邑雪6aω・Nsなお本稿の叙述の多くをマシュケの
この論文に負っている。
419
第四号 (18)
第八十七巻
一橘論叢
︵砧︶ Oヴ﹃o■−斥O o m 句 自 ﹃ 斥 N H ︷ N − 目 庁 一 団 ︷ ・ 一 く ・ ω ・ N 、 α
︵36︶ O−Ho目−汀oo蜆射自H︸芭﹃︷N−目斥 田o・HHH・ω・Hω岨饒・
︵η︶ O巨HO目−斤︷o皿d自H斤胆H︷N−目−︷1d〇一Hく・ω・一〇〇亀・
︵跳︶ 旨顯閉o庁斥o 里. 聖 o− ω. Nひ−
一︵犯︶ ︸﹃里自O戸 崖嘗ωく①HくO目i峯津↓O−寧−片OH−OプOω嘗﹃O目OH“O蜆一嘗.
ミ軋︸㎞雨ミ㎞O寺亀㎞ミ.]⋮︺巨−.IHH−聰“.H︵−一−Oq−ONい■ ω>げ−寧目ρ−自■O膏
罠go.婁“§窒ざミぎ良ミ寒§§軸嚢、隻邑§膏軋ミ
旨里蜆o−岸oi 目一− b︷雨 、s§︷ミ雨 ︷ミ 匙雨、 $雨ミ︸︸o宇軸ミ 吻、s&︸ &雨︸
>斤陣ρo目一−o ρΦH一く−岨蜆耐目餉oケp︷片o■. 弔−−−葭−蜆ヰー H︵−■ −吹. 一山ooo
魯∼雷ミ ミ迂雷︸sミ雨、︸一 〇〇−ヰ嘗]自o目蜆一︺oユoサ↑ oo﹃ ︸9庄①昌︺o﹃o目o﹃
革>げげ頸目︷−自■晒. 曽o︷旦o自︺0Ho胃 Hoooo ω1 HN︷・
︵40︶ 前掲︹註︵羽︶︺拙稿を参照されたい。
︵一橋大学教授︶
420