Title ジンメルの個人概念に関する一考察 : 「社会圏の - HERMES-IR

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ジンメルの個人概念に関する一考察 : 「社会圏の拡大・
分化」図式に即して
池田, 光義
一橋論叢, 95(3): 431-449
1986-03-01
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/12799
Right
Hitotsubashi University Repository
(121) ジンメルの個人概念に関する一考察
ジンメ〃の個人概念に関する一考察
池 田
光 義
という指摘が目につく。現代人の本質的特徴をその二重
︵5︶
るものとして捉えていたのであろうか。1この点に関
^3︺
してジンメル研究文献を振り返ってみるとき、ジンメル
^←
が現代人を本質的に︸o昌o]︶毛−巽として捉えていた
1﹁社会圏の拡大・分化﹂図式に即して−
﹁現代の生が抱えるもっとも深刻な諸問題は、社会や
歴史的遺産や外的文化や生活技術がもつ圧倒的なカに対
メル思想の根本問題のひとつが、現代杜会において社会
個人の要請から生まれでてくるものである﹂。ージン
たわっているものと考えられる。すなわち、ジンメルの
底には、ジンメル思想全体に対する次のような了解が横
を置く、ジンメルの個人概念に対するこうした理解の根
性.二元性︵N奏亭①昇U量享津︶に求めたことに強調点
と個人との亀裂.矛盾がますます深まるなかで、個人の
生きた時代、ジンメルがその問題性と真正面から取り組
して、自己の存立の自立性と独自性を保持しようとする、
^1︶
﹁存立の自立性と独自性﹂を理論的に確保することにあ
げ始めた転換期であっ木ということ、そして、個人の内
んだ時代は近代社会がその内部において大きな変容を遂
それではいったい、ジンメルは自己の思想の根本問題
面性を重視するドイツの思想的伝統に立ちつつも、こう
^2︶
ったことは、周知のとおりである。
たる、現代社会における個人の存立構造・根拠をいかな
43j
序
一橋論叢第95巻.第3号(122)
さぷられ、個人主義思想の再建を迫られていることを痛
求を根本動機どする彼の思想全体と彼の個人概念との内
うに捉えてこそ、較齢新pかかか個人の運命の理論的追
れるからである。そして、ジンメルの個人概念をこのよ
相互に緊張関係を孕んだ構造を示す規定であると考えら
感した一個の思想家の時代への解答、−ジンメル自身
的連関もより鮮明に浮かぴ上がってくるものと予想され
した転換期に直面して旧来の個人主義恩想が根底から揺
が好んで用いた表現を借りれぱ−時代への.︽態度︾
することは、もちろん小論では不可能である。本稿の課
とはいえ、ジンメルの個人概念の総体を再構成.検討
る。
︵孝奉竃①︶表明こそ、ジンメルが終生語り続けた思想の
ところで、ジンメルの個人概念における二重性.二元
題は、ジンメルの個人概念を総体的に把握する作業の一
内実であった、ということである。
性の視点に注目するといっても、内容−形式という文化
環として、彼が個人の存立構造・根拠をいかなるものと
哲学的位相、あるいは生−形式、︿より以上の生y︵旨①.
苧−■①一U彗︶と︿生より以上﹀︵雪Φ巨−巴ω・■〇一U彗︶という
して捉えていたのかという間題を社会単的位相に限定し
、 、 、 、 、 、
取り扱っているからである。従って、本稿では、ジンメ
て考察することにある。しかし、この課題設定もさらな
形而上学的︵生の哲学︶位相における二重性.二元性に
^6︶
の個人概念の核心を求める議論が登場してきたことは、
ル社会学の基本的枠組のひとつである︿杜会圏の拡大.
る限定を必要とする。ジンメルが杜会学的位相において
筆者の問題関心からみて興味深いものがある。私見によ
分化﹀という理諭図式の脈絡に即してわれわれの主題を
に対して、最近、社会学的︵量的︶個体性規定と形而上
れぱ、ジンメルの個人概念とは、︵1︶形而上学的、文
論じることにする。この図式自体、彼の著作の各所で論
焦点を絞るジンメル研究文献が大半を占めてきた。これ
化哲学的、経済哲学的、社会学的位相といった多様な位
及されているが、ここではもっとも体系的.包括的にこ
さえ、多様な脈絡において多面的な角度からこの問題を
相において二重性二=兀性を示す複眼的な二重的.二元
の図式が展開されている﹃杜会学﹄の第六章﹁社会圏の
学的︵質的︶個体性規定との二重性・二元性にジンメル
的規定であり、し・かも︵2︶各位相の二重性.二元性が
娼2
(123) ジンメルの個人概念に関する一考察
交差Lと第十章﹁築団の拡大と個体性の形成﹂ を考察の
9 ︶
中心 に 据 え る 。
それでは、この間いに対するジンメルの解答を、︿社
^皿︺
会圏の拡大・分化﹀の図式に即して検討してみよう。こ
の図式は、杜会集団・関係およびそこにおける個人の在
会﹀の出現にみていたと考えられる。諸個人が窒葛器
ジンメルはこの転換期の特徴のひとつを︿旨竃駕の社
要であることは、既に示唆したとおりである。ところで、
た時代をひとつの転換期として捉えることがきわめて藍
ジンメルの個人概念を検討する場合、ジンメルの生き
の築団は、︵a︶構成員の量的規模からみて中間規模の
初状態を複数集団の並存状態として考えている。これら
ジンメルは、︿社会圏の拡大・分化﹀の起点となる源
題脈絡に必要な範囲で再構成してみよう。
発生史的手法をとっているが、まずこの図式を本稿の問
を追跡することによって大衆社会の諸相を捉えるという
り方の源初的状態を想定し、この状態の量的・質的変化
と化することによって生じる問題性に関するジンメルの
集団であり、集団相亙の関係からみた場合、︵b︶閉鎖
的.自己完結的であり、︵c︶相互に異質的であり、︵d︶
考察は多岐にわたるが、ここでは、ジンメルが﹁個体
^8︺
的・人格的差異性の除去﹂︵ω富。一ψ−簑︶による諸個人
かで平準化・匿名化に晒されるにもかかわらず、1
の問題を、ここでは端的に、諸個人が峯塞竃と化すな
ルにとっての、現代社会における個人の存立構造・根拠
調している点にわれわれの関心がある。そこで、ジンメ
うした集団は、地縁・血縁関係、近隣・親属関係を典型
成員の結合様式、集団の統一原理に焦点をあてると、こ
内では相互に同質的.同等的・非個性的である。また構
の構成員に着目した場合、︵e︶構成員はそれぞれの集団
あるいは相互関係はきわめて薄い。さらにこれらの集団
自立的.孤立的であり、従って相亙に没交渉的であるか、
︿社会はいかにして可能か﹀というジンメルの有名な問
の﹁まさに生の人格形式の平準化﹂︵ωoNJψ蟹ω︶を強
^ 9 ︶
いの定式︵益F000・・ω・昌曽︶を転用すれぱ−︿個人
とするような地域的・生理的、すなわち︵f︶外的・自
^1︶
然的関係に基づく集団である。そして構成員とそ.の帰属
はいかにして可能か﹀という問いとして考えてみたい。
433
1
一橋論叢 第95巻.第3号 (124)
である。要するに、杜会圏の拡大・分化の源初状態とし
うな関係、個人と集団とが一体となっているような関係
集団に埋没し、集団は個人の人椿全体を包摂しているよ
牲・全面性によって特徴づけられる。すなわち、個人は
めていた、より狭小な諸集団から分化・析出し、普遍概
れは、﹁各要素︹個人︺をそれまで単一の関係に閉じ込
を巻き込んで巨犬化・普遍化する過程のことである。そ
がますます多くの一次的社会圏とますます多くの個人と
る二次的社会圏の数が増大し、他方では、二次的社会圏
程とは、一方において、一次的杜会圏から分化.析出す
て想定されているのは、対外的には分離、対内的には結
3N︶の形成過程である。この過程はまた、一次的集団
念によって統合される、より高次の集団﹂︵筆串O■一ω.
集団との関係を問題にすると、この関係は、︵g︶直接
合によって特徴づけられるような中間規模の集団、すな
の運命に焦点をあてると、一次的集団の相互浸透の過程
わち、相互に異質的で疎遠で無関係な、しかし内部では、
同質的で緊密に結合し合う諸要素から構成される求心的
であり、複数の社会圏への解体過程でもある。さらに、
以下、便宜上、一次的杜会圏ど呼ぷーのあいだに同質
げていく過程と言える。
集団へ、他方では小集団ないしは個人へと二極分解を遂
えると、この過程は、中間集団が解体し、一方では巨大
一次的集団が量的規模からみて中間集団であることを考
構造をもつ統一体の並存状態と言える。 .
的な関係が成立すること、すなわち、﹁異質な圏︹複数︺
そして、こうした相互に異質的で自立した社会圏−
に由来する同質的な構成部分の連合的な関係︵竃㎝oユ里−
けぎく胃憂巨馨︶﹂︵ω畠Jψω畠一く。・F⇔1血﹄.一ω・⋮︶
が形成されることにより、源初状態は変容を遂げるとさ
ものとして捉えていたのかという問題を検討する場合、
︿社会圏の拡大・分化﹀の図式に即して、ジンメルが
^皿︶
まず﹁個別人格における多様な︹社会︺圏の交差﹂︵串
呂鶉竃の社会における個人の存立構造・根拠をいかなる
に基づく社会圏−以下、二次的社会圏ーは増犬し、
れる。そして、様々な一次的杜会圏がこの変容過程に巻
かつ拡大することになる。︿社会圏の拡大・分化﹀の過
き込ま牝れぱ巻き込まれるほど、こうした同質的な関係
11
434
(125) ジンメルの個人概念に関する一考察
い。ジンメル自身の説明の引用から始めよう。
四。ρ一ω・巨戸ξω︶という考えを論じなければならな
しての、社会圏の在り方と個人の社会圏へのかかわり方
次に、こうした意味での個体化を成り立たせるものと
性・唯一性を確定しようと試みていると言える。
ω1ω旨一くoqFdl︸∪.一ω.岩ω︶。
するという可能性は少なくなるのである﹂︵里、纈。O。
こうした多数の︹社会︺圏がもう一度ある一点で交差
ほかの人間も同じ集団の組み合わせを示すこと、また
いる。しかし集団への帰属が増加するにつれ、さらに
している限り、個体性にはまだ幅広い余地が残されて
す厳密・明確に規定されることになる。各集団に帰属
ある﹂︵PPρ一ψ竃二くO貝F芦岬∪−一ψ−S︶とさえ
にいる様々な︹社会︺圏の数は、文化の尺度のひとつで.
あることが肝要である。ジンメルは、﹁個人がそのなか
個人において交差し、総合される社会圏が十分に多数で
引用箇所の傍点は筆者︶となることである。逆に言えば、
数の社会的な糸の交点﹂︵PPOJψω員後者二つの
とつの︹社会︺圏から﹁多数の︹社会︺圏の交点﹂、﹁無
についてジンメルがいかに考えているのか、さらに踏み
、
込んで検討してみよう。重要なことはまず、個人が﹁ひ
言︶
﹁個人が属する築団は、いわぱひとつの座標系を形成
ここでの要点は、多数の社会圏の交差に﹁全き個体的
言う。
し、これに新たな集団が加わる、ことに、個人はますま
規定の存在根拠あるいは意識根拠﹂︵碧嘗OJω。彗o。︶
しかし、さらに重要なことは、社会圏が相互に十分に
説明し、さらに︵b︶こうした個人の内的多面性・多様
いう視点を軸にして、︵a︶個人の内的な質的豊饒性を
基礎にし、こうした社会圏の個人における交差・総合と
き−︶な結合を示すのであれぱ、すなわち、特定の集団
属集団が相互に﹁同心円的﹂︵一8冨彗巨眈o牙串串・O・・ψ
る。個人が複数の社会圏に属する場合でも、たとえぱ帰
示アる﹂︵讐讐O。ω。旨o。︶ことがないことが必要であ
﹁ある社会圏の参加が自動的に他の社会圏への参加を指
、 、
、 、 、 、 、 、 、
を求めるということである。すなわち、ジンメルは、帰
分化・差異化していることである。換言すると、個人の
性から個体間の差異性・異質性を導く一方、︵C︶様々
、 、 、 、
属集団・社会圏の複数化、多様化、重層化という考えを
な社会圏の様々な組み合わせによって個人の質的独自
435
第3号(126)
第95巻
一橋論叢
への帰属が他の集団への帰属の条件であるとすれぱ、そ
・そしてこの明確に隈定された目的を果たすのに必要な限
りで社会集団にかかわる関係が求められるのである。換
言すれぱ、諸個人は、社会集団に対して全き人楮として
、 、 、 、 、 、 、
になる。従って、個人が関与する複数の社会圏は、個人一
全面的にではなく、明確に限定された機能の担い手とし
れは﹁人格的に個体化する契機﹂︵ま彗註︶を欠くこと
に対して﹁相互に独立して作周﹂︵ψω旨︶し、相互並存
て、人楕総体のある特定の側面において一面的にかかわ
ある。ジンメルにとって、このことは、主要な社会築団
合﹂︵P甲O・ω・宝o︶へと変容を遂げることが必要で
属︵墨o昌oぼ旨墨昌昌①堤昌αユoqぎ6による分化と統
的考量と知性的な合目的性﹂に基づいて創出されるとし、
集団形成の﹁含理的性樒﹂を強調し、社会集団は﹁自覚
こうした連関のなかで、ジンメルは、一方において、
味するのである。
存在、つまりは大衆化された存在となっていることを意
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
に代置可能な機能の担い手として匿名化・平準化された
、 、 、 、 、 、 、 、 、
諸個人が個々の社会集団にかかわる限り、諸個人は相互
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
ることが要講されるのである。しかし、こうした事態は、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
の構造を示すものでなけれぱならない。
ところで、これが成立するためには、﹁外面的な共存
︵N目審目冒彗置冒︶による結社﹂が﹁内容的関係に基づく
結社﹂︵嘗讐ρ一ψω8一くOqF⇔。9U二岬H3︶へと、
﹁外面的な図式的観点による分化と統合﹂が﹁事象的共
が、外的・偶然的・自然的に与えられ、構成員の全人格
さらに﹁︹社会︺圏の分化と新たな形成の根拠﹂として、
^〃︶
を呑み込むような関係に基づく集団から、本質的に目的
リω畠︶とが十分に分化・差異化していることが必要で
会集団の果たす目的と﹁客観的な機能内容﹂︵串串P
変化を遂げることと同意である。すなわち、第一に、社
る。そしてまた、こうした社会的結合が、﹁どんな微細
基準﹂︵串串ρ一岬呂H︶が機能すると主張するのであ
混合された基準︵家族的基準︶﹂に代わり﹁知性という
的基準﹂や﹁感惰的基準︵宗教的基準︶﹂や﹁両基準が
﹁意志的基 準︵広義・狭義での経済的・軍事的・政治
クリテー”ウム
ある。第二に、諸個人と社会集団との関係に注目すれぱ、
な都分をも、ひとつの統一的な理念、要素間における相
団体︵N養〇一内く實茅邑︶、機能集団の性楕をもつものへと
諸個人が明確に隈定・確定された目的を果たすために、
436
(127) ジンメルの個人概念に関する一考察
互規定によウて統一的・合目的的に制御すること﹂︵p
票O二ρωむ︶の意味で、すなわち、構成員の全人椿を
包摂する外的・偶然的・自然的結合を意味する有機性と
は反対の意味で、﹁機械的結合﹂に対置して﹁有機的結
会関係を特徴づけるさいに、﹁目的の観点、内的・事象
的な、あるいはいわぱ個人の関心に基づく総合﹂︵ρ。寧
、 、 、 、
O・一リさひ︶、.﹁事象的な、つまり主体の本質に根ざした
、 、 、
社会的拘束が働く場合でも、それら一般から個人は逃れ
圏に関与することが可能である、あるいは、外的強制や
ずれの社会圏をも選択することができ、任意の数の社会
これはもぢろん、各自は各自の関心に応じ自由意志でい
わるさいの自由意志、自由裁量の契機にも強意を置く。
ジンメルはまた他方において、個人が杜会集団にかか
合﹂一︵Oσ①目O顯︶であると言うのである。
とするのに対し、杜会的分化の進んだ社会圏は︿人格
において、こうした社会圏が自然的・外的な関係を基礎
達な社会圏の在り方を︿人椿的﹀と形容しながら、他方
らない。ジンメルが、一方において、社会的分化の未発
性・個体性の前提である、ということが強調されねぱな
的な性格こそ、こうした社会関係を取り結ぷ個人の人格
にとって、社会関係の合理的、事象的、有機的、含目的
メルが言い換えていることからも判るとおり、ジンメル
関係﹂︵串PPψωOα戸強調はいずれも筆者︶とジン
ることはできないにせよ、少なくともどの人格に、ある
的﹀関係を基調とする、と両義的な表現を用いているの
^帖︺
いは何によって直接に拘束・規定されるかは個人の自由
も、こうしたことと関連がある。
以上が、︿社会圏の拡大・分化︵複数化・差異化・重
に委ねられる、というジンメルの主張と絡んでいる。そ
して、こうした主張の根拠とされるものが、.社会圏の拡
り、内的に多様で相互に差異化し質的唯一性を与えられ
の概略である。−社会圏の分化と交差ということによ
た存在として個人を基礎づけようとすることの背景に、
・層化︶﹀と︿個人における社会圏の交差﹀という考え方
な機能の担い手として一面的に社会集団にかかわること
個人というものが徹頭徹尾、社会的・歴史的に規定され
大・分化であり、これに伴う社会集団の﹁客観的な機能
であることに、注意 を 払 う 必 要 が あ る 。
内容﹂の分化・差異化であり、諸個人が桐互に代置可能
すなわち、社会圏の拡犬・分化によって形成される社
437
’橋論叢 第95巻 第3号 (128)
匿名化された個人であり、その意味で峯竃器と化した個
個人とは、客観的機能のたんなる担い手として平準化・
て、ジンメルにとって、社会関係網のなかに立たされた・
とつの虚構であることを告知していたからである。そし
他者との社会的なかかわりなくして存立しうる個人がひ
身を自己完結的・先験的に根拠づけることのできる個人、
て相互に孤立し庄立した個人、自己自身によって自己自
ろう。ジンメルの生きた時代はまさに、本質規定におい
ンメルの深刻な問題意識が働いていることは明らかであ
いう座標系の一交点にすぎないのではないか、というジ
たものであり、社会関係の網の目のひとつ、社会関係と
個人が峯竃器となるからである、ということになる。
問いに対するジンメルの答えは、逆説的にも、まさに諸
呂豊器と化すなかでく個人はいかにして可能かVという
大・分化と交差という考えの眼目なのである。諸個人が
なものとして自己を確定できる、1これが社会圏の拡
貫かれるほど、それだけますます個性的なもの、人格的
込まれるほど、没個性的・没人格的なものに貫かれれぱ
ぱかかわるほど、社会圏の網の目に巻き込支れれぱ巻き
.拠を求めたのである。個人は、様々な社会圏にかかわれ
人を差異的・個性的・唯一的存在として成立せしめる根
に伴う社会関係の含理化・事象化ーにこそ、まさに個
人である。個人というものが、このように普遍性・社会
を直視したうえで、それにもかかわらず、いやむしろ、こ
拠を問うということをめぐる前節までのわれわれの考察
︿社会圏の拡大・分化﹀の脈絡で個人存立の構造・根
性によって貫かれ、平準化・匿名化に晒されていること
うした事態をいわぱ逆手にとって全き個体性、内的にも
は、個人の内的多様性、個人間の差異性、個人の質的唯
一性にかかわるものであった。すな.わち、そこでは、個
図と言える。ジンメルは、個人を大衆化︵平準化・匿名
人存立の構造・根拠に関するジンメルの議論は、こうし
︿内容﹀という視点が関心の中心であった。しかし、個
性的・唯一的存在としての個人の質、いわぱ個体性の
化︶する社会的連関−社会圏の拡犬・分化およぴこれ
と︿個人における社会圏の交差﹀という考えの根本的意
理論的に確保しようとするのが、︿社会圏の拡犬・分化V
相互にも差異化した唯一的・個性的存在としての個人を
111
438
(129) ジンメルの個人概念に関する一考察
た個体性の︿内容﹀という視点と並ぶ個体性の︿形式﹀
という視点を披きにして語ることはできないであろう。
いやむしろ、個体性というものを、その︿内容﹀と︿形
式﹀という相互に前捉し合うと同時に徴妙な不協和音を
発する契機の緊張関係において捉えようとするところに
こそ、ジンメルの個人概念の問題性があると思われる。
ジンメルにおける個体性の︿形式﹀ということによっ
てわれわれが問題にしようとしているのは、第一に個人
の自立性という視点であり、第二に個人の統一性・自己
同一性という視点である。まず第一の視点について、
︿社会圏の拡大・分化﹀との関連で直接に問題となる隈
りにおいて検討することにする。
すでに第一節で言及したように、ジンメルにあっては、
社会圏が未拡大.未分化の状態は、﹁個人の生と、連帯
的な同輩から成る利害圏︹関心圏︺との融合﹂︵苧P○・一
ω。ωS︶によって特徴づけられ、そこでは議個人は単一
の帰属集団に埋没し、相互に直接的・全面的にかかわり
合うものとされている。それでは、社会圏の拡大・分化
に伴い個人が自立していく根拠は、具体的にどのように
考えられているのであろうか。1社会圏の拡大・分化
とは、個人にとっての意味ということからすれぱ、個人
が単一の社会圏にではなく、差異化した多数の社会圏に
かかわるようになる事態ということであった。しかもそ
のさい、個人は特定の人格として全面的に社会関係を取
り結ぷのではなく、機能的に明確に限定された範囲で人
格総体の一側面において一面的に社会圏に関与する、と
いうことであった。そしてジンメルは、まさにこのこと
が個人の個人としての自立化を保証す。るものと考えるの
である。社会圏の拡大・分化により、﹁純粋に事象的な
目的のために純粋に事象的な寄与によって協働し、その
さい自我の総体を留保する可能性﹂︵讐PO・ψ旨N︶が
生じると主張するのである。
分に差異化した複数の社会圏に関与すること、しかも明
従って、ジンメルが問題にする個人の自立化とは、十
確に限定された機能の担い手として一面的にか・かわるこ
とを通じて個人の人格的総体が個々の社会圏の背後に退
、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、
くことである。換言すれぱ、それは、個人が差異化した
、 、 、 、
多数の社会圏にかかわることにより、価がか社会圏から
、 、 、
ははみ出ることである。個人が複数の社会圏にまさに一
面的にかかわるがゆえに、人格がそこから全伽どいで杵
439
一橋論叢 第95巻 第3号 (130)
肝ポかが、と言ってもよい。あるいは、個入が多様な杜
、 、 、 、 、
会圏にかかわり、つぎつぎと社会関係を緒ぶなかで、つ
まり個々の杜会関係の不断の形成のなかで人格全体が自
立したものとして留保されるという、自立の動的過程性
、 、 、 、 、
にも着目できる。
ところで、こうして個人の自立の根拠を合理化.事象
化された無数の社会圏への一面的で没人格的な不断のか
かわ・りに求めることが、個人の自立性の内面にある種の
逆説性と危うさを宿らすことになることに注目する必要
がある。ジンメルの言う個人とは、自己の自立性を確保
するために不断に無数の社会圏に関与せざるをえず、し
かも、そのさい不断に自己を一面化し平準化することを
強要されるがゆえに、不断に自己を分解し、自己を喪失
する危険に晒されている存在である。いや、ジンメルに
とって個人とは、それぞれの個別的社会関係にかかわる
瞬間、瞬問には自己を解体し、自己を喪失しているので
あり、そうした自己解体、自己喪失の瞬間、瞬間を乗り
越えることにより不断に自己の自立性を確保しているの
、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
である。﹁:⋮・人格は社会圏に関与し、そのなかで自己
を喪失したのち、自己内における社会圏の交差によって
自己の猿自性を再び獲得するのである﹂︵pp◎二ψω旨︶
という言説は、われわれの脈絡で言えぱ個人の質的差異
性・独自性の間題に向けられたものであるが、ここで間
題にしている個人の自立性についても妥当するものであ
ろう。こうした個人存立にとクて、他者と全面的にかか
わることは、その危うさのゆえに内面から込み上げてく
る欲求であると同時に、自己を非自立的な存在へと突き
落とす危険な憧慌でもある。多数の社会圏に一面。的に帰
属することによる人椿全体の自立化ということ自体が、
要するに、個人はいずれの社会圏にも深くかかわらない
、 、 、 、
ことであり、いずれの社会圏からもはみ出し、析出して
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
いるという自立性の否定的・消極的構造の肯定的・積極
的な表現にすぎない。ジンメルの言う個人とは、この意
味で、瞬間、瞬間には﹁異邦人﹂︵ま・﹃、。昌ま︶Lとし
ての生を生きているのであり、﹁異邦人﹂とは現代にお
ける個人存立に普遍的な現象を純粋に体現した個別者な
のである。人間が自立した個人であるということは、人
^正︺
間が不断に杜会に内在化することにより不断に杜会から
外在化することであり、その自立性とは︿社会.内.存
在﹀を媒介にした︿社会・外・存在﹀の意とい、つことに
440
(131) ジンメルの個人概念に関する一考察
語るまえに、個人存立の形式性にかかわる第二の視点、
だが、ジンメルの個人概念に刻印されている背理性を
なる。
にみられるものである。それらのいくつかが、いわぱ
互いに全く対立する他の任意の属性と縞びつくことが
はないのである。︹⋮⋮。︺それぞれの規定と要素は、
ってはじめて一個の人格を形成し、またこの人格も反
作用を及ぽし、個別的特徴のいずれをも人格的n主体
この一連の論述過程は二つの側面に分節化することが
的特徴として性格づけるのであるL︵9竃ま︶。
のを個人のもつ内的な質的多様性との連関で問題にして
できる。まず第一に、個人の内的統一性というものが、
換言すれぱ、個人の統一性は、個人内部における様々な
﹁様々な諸規定﹂の統一化によって成り立つということ、
、 、 、
徴、諸カが集まる﹂︵勺FPρ一ψω嵩︶ことが必要で
個別的規定から独立する抽象的統一ではないということ
三人間の内的な統一も様々な諸要素と諸規定の相互作
よってのみ、現実的となり効カをもつようになる。⋮
この統一は、それが様々な諸規定を統一化することに
別的属性は、それ自体では、相互に任意に結ぴつきあう、
られる。しかし、第二に、こうした個人内部における個
様性と個人の統一性とを不可分なものと見なす視点がみ
様々な交差.組み合わせによって成り立つ個人の内的多
、 、 、
用と連関に基づいているのである。それぞれの規定と
従って相互に内的・必然的連関を欠き、またいずれの個
が重要である。ここには、個人における様々な社会圏の
、 、 、
要素は、孤立的にみれば、客観的な性樒を帯びている。
人にではないにせよ多数の個人に一様にみられる抽象的
、 、 、
﹁それ︹人格性︺はもちろん相対的な統一体であるが、
あるとし、次のように述べる。
が形成されるためには、﹁人楮性のなかで多数の質、特
いることに注意したい。ジンメルは、﹁特定の人格性﹂
.まず、−ジンメルが個人の統一性・自己同一性というも
ひとつの焦点において出会い相互に結ぴつくことによ
でき、つねに同一のものとして無限に多くの人格の像
ておかねぱならない。
すなわち個人の統一性・自己同一性の問題について考え
‘
すなわち、それ自体ではまだ本来的に人椿的なもので
441
1V
相対的に独自の問題として論じられる必要も、この点に
人格性の根拠としての統一性・自己同一性ということが・
統一性である、圭言われていることに注意すべきである。
定を人格性の不可分な契機たらしめるものこそ、個人の
がこうした性格のものであるにもかかわらず、かかる規
とされることに留意すべきである。そして、かかる規定
距離が小さけれぱ小さいほど、人格感情が現われる程
むほど、感覚的な生の両楓がその平均水準からずれる
われるからである。生が一様に安定した生を刻めぱ刻
々の感情、思考、活動の交替︵峯Φ昌邑︶によって現
格意識を発展させるのは、人椿というものがまさに個
との相互作用自体が、より小さな圏におけるよりも人
﹁より大きな︹社会︺圏における生とこの︹社会︺圏
○二ω.蟹令︶の発展の根拠について次のように述べる。
我意識L、﹁︽固有な︾自我としての自我の感情﹂︵凹.害
かか っ て い る 。
な属性であり、それゆえ超人椿的・客観的な規定である、
ところで、ジンメルにとって個人の多様な内的規定・
度は弱まるのである。だが、この両極が大きくまた激
しくぶれれぱぷれるほど、それだけ人間は人格である
、 、
要素というものが、ーすでに第二節で言及したように
ことを強く感じるのである。:−:自我が心理的内容の
について立ち入って論じてみよう。
れることになることも明らかであろう。次に、この問題
個人の白己同一性自身もひとつの動的過程として考えら
あろう。そしてまた、こうした社会的脈絡に根拠をもつ
と相即的・梱補的に理解することになることは明らかで
ることが、それを多様に分化した多数の社会圏への帰属
される。それは、諸々の個別性にあって﹁こうした個別
なく、個別的な意識内容、感情内容の︿交替﹀にあると
きどきの状態﹂、.﹁個別的な質﹂︵等昌旨︶にあるのでは
こうして、人樒的同一性の内実が、﹁個別の、そのと
鶯一〇’ω.㎞αω︶。
ことにきわめて多くの機会を与える場合である﹂︵顯・
じられるのは、明らかに心理的内容の交替がこうした
交替にあって持続するもの、不変なものとして格別感
ジンメルは、﹁人格意識﹂︵ω竃。ω・蟹ω︶、﹁主体的自
一・性を個人の多様な内的規定性・要素の統一として捉え
よって成り立つものである以上、個人の統一性・自己同
−多様に分化した多数の杜会圏に対する個人の関与に
一橋論叢 第95巻 第3号 (132)
442
(133) ジンメルの個人概念に関する一考察
特定集団への帰属意識、特定の価値感、特定の人間関係
、 、 、 、 、 、 、 、
性の彼岸にわれわれが感じるところのものL︵〇一︺昌註︶
によって支えられた存在感を根拠にして成り立つ自己同
わりによって実現され、またこのかかわりを成り立たせ
不断の縞果なのである。それは、個別的な外界とのかか
識感惰の不断の交替によって媒介された動的過程であり、
に営むことによって不断に成り立つ個別的意識内容・意
わり、様々な事物・個人・集団と多様な相互作用を不断
とは、個人が多様に分化した多数の社会圏に不断にかか
それを否定していく形式、そして内容性を脱色されるが
自己同一性である。多様な内容性にかかわりつつ断えず
方をすれぱ、ますます没内容化し、形式的なものとなる
ことが自己同一性の根拠なのである。それは、別の言い
しないこと、特定の対象のいずれにも深くかかわらない
は帰属しないこと、特定の価値感や規範を完全に内面化
否定的表現を用いれぱ、いずれの特定集団にも全面的に
って不断に成立することを本質とする自己同一性である。
ざる社会関係の形成、多様な社会圏への一面的関与によ
一性ではない。それはむしろ、断えざる対象変換、断え
であり、過程としての統一である。そして、この個別的
、 、 、 、 、 、 、 、
な意識内容、感情内容の不断の交替というものが、杜会
圏の拡大・分化と相即して発展するものとされている点
が肝要である。ジンメルにとって、個人の人椿的同一性
る、たんに一方的にアプリオリな統一性ではなく、こう
ゆえに断えず多様な内容に否定的にかかわらざるをえな
、 、 、
した個別的過程に根拠をもつ不断の結果としての統一で
い形式としての自己同一性である。
わりの過程で人楕的統一性をみることにより、個人の個
脈絡で成立する差異化した現実に対する差異化したかか
で、個人の自己同一性の確保、人格的統一性の維持とは、
それは不断に自己を分裂させることでもあり、この意味
断えず複数の社会圏に一面的にかかわるということ、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、
ある。換言すれぱ、ジンメルは、社会圏の拡大・分化の
別的・経験的過程と統一的人格意識とをその根源におい、
不断に自己を分裂的存在として措定することを媒介にし
﹁社会的帰属の複数性により、外面的・内面的な種類
て成り立つもの生言える。ジンメルは言う。
て相補的に捉え、人格的統一性の先験性を相対化したと
言える。
^〃︶
しかしまた、ジンメルの考える個人の自己同一性は、
443
第95巻 第3号(134)
一橘論叢
ゼーレ
うのも、こうした二元性と統一は相互に支え合うもの
を強める固定化作用に対する反証にはならない。とい
れるということは、こうした葛藤がもつ、人格的統一
圏への関与に求めたことが、同時に、個人存立自体が断
化Vという脈絡のなかで、個人存立の根拠を多数の社会
引用文のなかで注目すべきことは、︿社会圏の拡大・分
的に捉えたことの意味を見過,こしている圭言える。右の
脈絡のなかで、租会圏への帰属と個人の在り方とを相補
だからである。つまり、まさに人格が統一であるがゆ
えず内的・外的葛藤に晒され、内面的に引き裂かれる危
の葛藤が生じ、個人が心の二元性、いや分裂に脅かさ
えに、分割ということが個人にとっ。て問題になりえる
険性を孕んだ危うい存在であることを認めざるをえなか
った、ということである。あるいはむしろ、複数社会圏
のである。また、より多様な集団の利害関心がわれわ
れの内部で重なり合い、そして折り合いをつけようと
への一面的関与を根拠とするような個人存立についての
れる﹂ものであるとは考えていなかったと主張する。
﹁︽人格性︾そのものが社会関係においてはじめて構成さ
ら導き出さずに根源的なものとしてはじめから前提し、
は、人格性というものを様々な集団における社会関係か
が人格形成論の根拠を社会関係論に求めながらも、結局
けるこうした葛藤と分裂を前提にしている。﹁分割とい
統一性・自己同一性の確保とは、まさに個人の内面にお
込むものである限り、複数社会圏への関与による個人の
複数社会圏への関与が個人の内面に葛藤と分裂を持ち
があったと言えよう。
在としての個人の存立構造・根拠を問うことにその真意
かにすることにその意味があるのではなく、はじめから
.こうした危うい存在としての個人を前提にし、危うい存
考え方はへたんに一般的に個人の存立構造・根拠を明ら
すればするほど、自我はそれだけ明噺に自己の統一を
意識するようになるのであるL︵P中O。ω.ωご︶。
D・ゴイレンは、この引用文にある﹁まさに人楕が統
この箇所をもってジンメルの人格形成論の全体像を性
うことが人楮にとって問題となりえる﹂根拠とされる人
一であるがゆえに−:−﹂という箇所を挙げて、ジンメル
棺づけることの是非はここでは間わないとしても、こう
楕の統一性は、アプリオリに与えられた所与なのではな
、 、^㎎︶
、 、 、
した解釈は、ジンメルがく社会圏の拡大・分化Vという
444
(135) ジンメルの個人概念に関する一考察
いたのである。そして、このような不断の結果としての
ジンメルは人格性を不断に構成されるものとして考えて
のである。D・・ゴイレンの表現を逆手に取って言えぱ、
く、逆にまた人格の分割によって根拠づけられてもいる
翻って考えてみるに、多様に差異化した多数の社会圏
は逆説と危うさに貫かれた存在としての個人であった。
ても捉えようとするとき、そこに浮かび上がってくるの
統一性・自己同一性という側面︵個体性の形式︶におい
という側面︵個体性の内容︶に限楚せず、その自立性、
、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
統一的人楕が自己分割の不断の前提になるものと考えて
人の質的差異性・唯一性︵内容︶を形成するものではな
素は、平準化・匿名化に晒された存在として諸個人が社
い。第四節で言及したように、個々の内的諸規定・諸要
の交差に基づく個人の内的諸規定・諸要素がただちに個
いたのである。﹁こうした二元性と統一は相互に支え合
^”︺
う﹂とは、かかる意味で理解されるべきであろう。
小括
う脈絡に即して検討した。その結果得た答えは、社会圏
圏の拡大・分化﹀と︿個人における社会圏の交差﹀とい
問いとして立て、これに対するジンメルの解答を︿社会
いかに差異的・唯一的存在として成立しうるのかという
題を、まず、諸個人が平準化・匿名化に晒されるなかで
にすぎず、また個人の統一性・自己同一性が不断の自己
圏への一面的関与による不断の︿はみ出し﹀ということ
そして、こうした意味を担う個人の自立性が多数の社会
じめて個人の質的差異性・唯一性を形成しうるのである。
という地平のなかで個人の統一性によって総合されては
である。そうした内的諸規定・諸要素は、個人の自立性
本稿では、ジンメルが現代社会における個人の存立構
の拡大・分化に伴い諸個人がまさに平準化−匿名化にさ
分割と葛藤によって成り立つものである限り、個人の質
互に内的連関を欠く超人格的・客観的な諸規定・諸要素
らされるがゆえに、諸個人は差異的・唯一的存在として
的差異性・唯一性という側面も不確定性を免れえるもの
会圏にかかわることにより獲得される、それ自体では相
自己を確保しうる、。というものであった。
ではないことは明らかであろう。それは、平準化・匿名
造・根拠をいかなるものとして捉えていたのかという間
しかし、ジンメルの個人概念を質的な差異性・唯一性
445
一橋論叢 第95巻 第3号 (136)
人の統一性は多様な内的諸規定・諸要素の統一であると
ことである。確かに、ジンメルは、一方では、例えぱ個
︵自立性、統一性︶とのあいだに亀裂が存在するという
人概念にあっては、内容︵質的差性・唯一性︶と形式
だが、確認すぺきさらに璽要なことは、ジンメルの個
確保しようとする個人の深奥に宿る不確定性圭言えよう。
ルの個人概念を貫く背理性と二元性を杜会学的位相にお
し、この図式との関連に限られているとはいえ、ジンメ
においてぱかりでなく多様な角度から論じている。しか
相に限っても、︿社会圏の拡大・分化﹀の図式との関連
ジンメルは個人の存立構造・根拠の問題を、社会学的位
本稿の序においてあらかじめ断わっておいたように、
る二元性、内容と形式の亀裂を確認できよう。
1ここに、ジンメルの個人概念の構造に刻印されてい
し︵第四節参照︶、他方では質的差異性・唯一性を媒介
いて摘出することにより、本稿での考察も、個人を呂o−
化に晒されつつ不断に差異的・唯一的存在として自己を
するものが自立性、統一性であるとする。この意味で、
昌oUξ一婁として捉える彼の個人概念の総体を把握す
、 、 、
ジンメルの個人概念にとって内容と形式は相互前提の関
る作業に向けての第一歩にはなりえたと思われる。
一〇〇qげgoo①墨目津o畠oo匡昌o8轟ω巨昌芸一ωε片猪彗一
ωO舳巨O阻9ω9津OO里ユ宅NH一勺.白.ω昌自まO=冒血ωON一〇−
い。声・−︸g5=o8轟望昌目〇一.冒o9⋮2晶彗色自o﹃
︵3︶ ジンメルの研究史受容史については以下の文献に詳し
⋮邑ω§ぎ盲o;寿睾−少6;1
餉oフ胃寅閏匡o■p=眈昌冨一−自一>﹃o巨く簑﹃ωo讐竺三膣o自窒サ凹津
である。<牲.9毛固穴一〇芭く巨一08売ω一昌昌O−唖蜆畠︸O−OO目−−
︵2︶ これはすでにジンメルの生前から指摘されていたこと
−三﹄豊昌自9ρ9ΩOぎ−ωけ事■昌㈹ρ58一ω.冨N.
︵1︶ O.讐昌昌而=冒oΩ昌穿叶岬睾o自自oO鶉Ωo奉鶉−血σ昌一
係にあり、両契機が相侯ってはじめて個人が成り立つも
の生言えよう。しかし、個人が内的差異性一唯一性をも
ちうるのが、社会圏の交差によってであり、その眼りで
、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、
はたとえ平準化・匿名化された存在として一面的にでは
あるにせよ個人が多様な社会圏に積極的に関与し、杜会
圏と一体となることに基づいているのに対し、個人の自
立性の内実は社会圏からの不断の︿はみ出し﹀という否
定性にある。また、統一性・自已同一性の契機も、多様
な内容性にかかわりつつ断えずそれを否定し、ますます
没内容化し形式化していく統一性・自己同一性である。
446
(137) ジンメルの個人概念に関する一考察
︵チ鶉o目−く一匡.−﹄−bp︸昌足O.内葭冒冒蜆冨︷一︶一勺﹃顯目斤ε﹃く冬巴■
︵6︶ <oq−一宛.富芭巨昌顯目P葭−寧Ol一民.・﹄−U顯巨旨o,O−勾里昌昌−
筍oo“一
−旨f921[邑冨扁.お−︹睾冨肩.冒.Ωo⋮豊具9目−
−o自﹃目里−o申ωoo−o−ooo︸ooH1企㌔oo∼1一−唱Nひ㌔NN⋮ 匡■1﹄.−︶鵯巨目−耐⋮
目−o−、m −目o自o自oo o自 >目−0H−o雷自 oooo−o−oo目×一 ︸目“ >目一〇﹃−o凹目
蜆サw匝け⋮︼︶−血 “o津−omo ]≦oqo﹃目岸脾斤 oo﹃ 閉oN−o︸ooq甘眈o巨o自 穴−串岬.
蜆−片〇一 −目⋮ ︹︸ooお ωフ自目−ω− 目目o 曽ooo−・目9 芭. pl ◎.一 −目蜆σ’
㎝oN−o−晶−o臼尻①罧臼汀けΦ奉−餉肋o■閉o巨里犀−︹woo﹃岬ω−目−目−o−m>目閉顯−■
冒目o 蜆o−冒o ωooo冒け自冒o日 −目 ρo﹃ oqoo目o目ミ脾H匡oq^⋮目 ωoN︸o−o胴−o1
ω.さ㎞葭.
N−顯−o −︺︷印o﹃^⋮目ユo﹃1目oq−ωoN−o−ooo−蜆o巨o 自目o 勺m<o旨o−oo月ポo7o
︵7︶ この二つの章は、それぞれ﹃社会分化論﹄︵、、d冨﹃8・
一﹁o自 卜 ωけ目一けoq芭﹃一 −ooo−.
︵4︶ ジンメルの個人把握にたいするこの形容は、︸峯&−
2目が初めて用いた。
○鼻胃豊g彗o司昌..︶の第三章と第五章とに手を加えたもの
の知る限りいまだ存在しない。本稿においても、両著作に
である。この二つの章に関する両著作の比較分析は、箪者
<。目こ−薫葦三匡≡竃畜膏価彗Oま冒ザ一8巨鶉。︸
豪冒彗O昌ω8巨亀邑9彗O司〇二三ωOO邑句昌8・寓1“
おけるテクストの異同は間題にしない。この二つの章にお
−oNα一
雷自O吾巨蜆Ω8おωぎ目。一蜆二目N睾mO巨阜軍勺巨08・
︵5︶ <o日F自.顯一雪一■四昌匝自−邑目目“−︵o目o−汗叶自目o↓H葭ooo−q︷o.N目H
︵8︶ 以下、ジンメルの主要著作を引用・参照する場合、次
ける論述の差異や共通点の検討も視野外にある。
とほぼ同義に︿群集﹀の意味でも使用されているし︵くo司一・
いているので注意を要する。例えぱ、この用語は峯彗o目o
︵9︶ ただし、ジンメルは峯轟器という用語を多義的に用
身による強調箇所である。
引用文中の傍点箇所は、特に断わらない限り、ジンメル自
o−o ︸o﹃目一〇自 ooH<o﹃o喧o阯o昌而o巨艘h“一﹄昌oq− H︸巾H−目 Hooooo. な^ガ、
ρo9 ︸ω二﹂目 −oNN、川ωoド“ωo舳−o−ooq−①1d目一〇﹃蜆自o=目自o司o自目冨﹃
○ケ目目Oq^W目1]﹁O−勺舳−Oq −OOOO︸ ︸す■旦■O■”勺す二〇蜆O勺=−O旦O餉ΩO−■
O﹃O目屯OH自目Oq1ωON︸O−OO筥庁Oケ∼ 冒目O 勺眈︸O巨O−OO月山蜆O町籟 C自PO﹃肋冒−
の賂号を用いて出典を示す。ζ・ω・O・1−Cσ亀蜆9邑何U罵−
冨ぎ茅︸婁9冒。目95αH㌔S一声■甘冒豊三ωO妻ぎ・
潟募9ω罫冒〇一.血O09o呂昌O︷艘o−邑三き鼻ま一
〇8おω巨昌色5竃−岩冨︵&1耳声匡−婁o5一〇巨o
岩8二’垣彗彗二︺庁岸畳庁ぎま﹃■昏R冒・忌ω目O宗﹃−
目O目竃Φ目蜆O宇曾∼■Oユ﹂■−OαN⋮宛.U①自斥O﹃“−目O−く−︷自臼︸餉日口自叩
冒目o 目−は目o−oqo ︵⋮o蜆o昌岨oチ固︷F ω片自甘一〇日芭﹃斤 o.閏.一〇〇N⋮︸.勺oサー.
昌彗ヨ冒蜆m畠巨畳眈g冨一一〇8冨ぎ幕冬o昆o8﹃o目ω巨−
−︷o−自o −︺巨i−o■一 −︺−o Nミo−旨o岸 ︷o咀 峯o目蜆o巨o目 σo− ooo轟
目−o−3 句﹃o−σ自﹃o官 −oN〇一 −目眈σ■ ω. −uoo饒∴ 宛. 峯p,一昌閏自目“
一﹁巨^⋮O﹃−価旦O﹃雪OO^W=−9︷冒H︹ポO﹃胴ω=自−自O−=昌qO︸耐室OρΦ﹃目O
望冒三ミ冒き膏。百−8い一〇.勺.串事、Ω8・。qωぎ昌芸
44?
第3号(138)
第95巻
一橘論叢
乱昌︶、少数の︵あるいは単一の︶支配者、支配層、指導者、
g毛閏ωg’ω1讐一ぶごωn’舎p志貫−一含ガミH自^喀蜆−
タイの恩想を継承・発展させたものである。
<一■9ミ道伐邑ヲH竃♪ω。a︶として捉えるW・ディル
様々な体系の交点L︵ミ.冒−艘OごOO竃⋮篶斥OωO∼鼻昌
、 、
︵10︶ ジンメルは、この図式において近代社会内部における
ωoぎω.H員ま−一け蟹自−君蜆蜆−昌︶。
のなかできわめて璽大な意味をもつものであるが、従来の
もあるので注意を要する。こうした用語は、ジンメル思想
お、前者が首ぎo口5具とほぽ同義に用いられている場合
いる隈り、前者を︿事象的﹀、後者をく人椿的Vと訳す。な
︵14︶曽豊−ま9︽が曲電易α自=9余と対置されて用いられて
上層などに対置される多数者からなる被支配者、被支配層、
転換期を明示的に問題にしているわけではないし、また
被指導者、下層などの意味でも用いられている︵くoq一.o薯臼
1﹁形式﹂社会学としての彼の社会学一般の性楕に対応
いて体系的・包括的に諭じられることがなかったと言える。
本稿においてもこの課題は果たせない。なお、かかる事態
ジンメル研究では、こうした用語で示される概念規定につ
は、例えば旨註o墨臭といった他の用語についても言え
してーこの図式を近代社会の生成・発展図式として提示
しかし、ジンメルがその社会挙で明らかにしようとしたの
しているわけではないため、本稿の設間には問題が残ろう。
が、﹁まさに彼のまえに姿をあらわしつつあった新しい社
ることである。
︵b︶ 註︵u︶参照。
会の問題であり、それはとりもなおさず、われわれの﹃大
衆の時代﹄の諸問題であった﹂︵居安正、ジンメル﹃社会
にこうした観点から論じたい。
︵16︶ く撃ω。血8饒。ジンメルの︿異邦人﹀論は、別の機会
三四頁︶ということを考えれぱ、われわれの設問も成り立
︵〃︶ これは、カント主義的自我論とロマン主義的自我諭を
分化論 社会学﹄への﹁解説﹂音木書店、一九七〇年、四
ちうると思われる。
社会学的枠組のなかで批判的に統一化する試みと言える。
冨号暮冒伽蟹Hgo冨m曾一書8号蜆宛o=竃g管穿−目号﹃
ものに次の文献がある。F Ωo︸串g一Ω8轟 ωま冒o尿
︵19︶ ジンメルの自己同一性論を役割理論の視点から論じた
Hミ“ω■H呈、傍点はD・ゴイレン自身の強調。
○昌自2晶自自胴ま﹃ω畠巨−蜆葭庄o冨艘8ユρ司﹃彗ζ冒箒㌔竃巴昌
︵18︶二︺.O星−昌一〇鶉 く胃o貝留o昌蜆9固津9o ω一旦oζ.N膏
︵u︶ ジンメルはこうした関係の在り方る機械的であるとも・
てはのちに諭ずる。
有機的であるとも形容している。この両義的な表現につい
︵12︶ この変容過程およぴ変容を惹起する要因についての考
︵13︶︿個人における社会圏の交差﹀という考えは、個人を
察は割合する。くoq−.夢昌ω畠■一ω。竃N葭。
﹁社会という相互作用における一要素、かかる湘互作用の
448
(139) ジンメルの個人概念に関する一考察
−旨昌旦o津ミo自邑o“Ooo﹃oo凹冒≡色︵ブ冨oq一く一葭.d9一ユ自oqoく穴一
ωg巨品一〇二三>邑δ一寿;旦ω畠ζo牲〇一冒らo旨享−
9言忌﹃︶一専彗÷巨﹃一、⋮閏一目δ鼻ω邑一彗〇一一[1穴﹃占O−
昌竃三ωg−〇一提ぎ烹o;一〇邑昌昌ま・5o昌曇.ωq薫−
−湯∼〇一
2耐↓O葦葦昌名彗;冨﹃−
串ξ昌名8塞望竃一ωg暮電饒
ε篶=o黒2轟⋮餉;冒・
︵一橋犬挙大単院博士課程︶
449
‘