Title 物質的存在への希求 : ポーの物質的想像力について - HERMES-IR

Title
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
物質的存在への希求 : ポーの物質的想像力についての試
論
高沢, 治
一橋論叢, 103(3): 325-339
1990-03-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/11061
Right
Hitotsubashi University Repository
(19)物質的存在への希求
物質的存在への希求
ーポーの物質的想像カについての試論
D.H.ロレンスは﹃アメリカ古典文学研究﹄の中で、
ポーの﹁ヲイジァ﹂の文体の﹁俗悪さ﹂を次のように説
明している。
ポーはその文体ゆえに非常に賞賛されてきた。しか
し私には俗悪なものに恩える。﹁彼女の大理石の手﹂
︵目。、昌里、巨。ぎ邑︶、﹁彼女の足音の弾性︵色蕩ま一q︶﹂
という表現は人間よりむしろ椅子のぱねやマントルビ
ースのように思える。 中略−さらに、ポー文体
はすべて、彼の詩が機械的リズムを備えているように、
こういう機械的な特質を備えている。彼はどんなもの
であれ決して生命の観点から見ることはなく、殆どい
高 沢
つも物質、宝石、大理石等の観点から1言い換えれぱ・
^1︶
カの、科学的な力の観点から見る。
このように、愛する対象を物質レベルにまで分析し尽く
すことで法悦を得ようとする情熱は、ポー小説の主人公
に共通する︵それゆえポー自身の︶特徴である。それは
時に荒唐無稽にまで高められ、対象物の不合理さを回復
不可能なまでに露わにする。ポーの文体のこの特徴をア
メリカ土着の﹁ほら話﹂の伝統の枠内で語ることは可能
だが、ポーの場合は、解釈を拒否し、救いがなく、現実
の不毛さぱかりが強調されるのである。
話を﹁ラィジァ﹂に戻すと、スコヅトの﹃アィヴァン
325
治
〆
橋論叢第103巻第3号(20)
ホー﹄との類縁が指摘されているこの作品は、語り手−
主人公の意識によつて食られ死んでゆく黒髪のライジァ
が、新しく主人公のもとに嫁いで来た金髪の旧ウイーナ
姫に乗り移る物語である。確かにo凹、〆一嘗身ライジア
と武何宣身ロウィーナとの対照という文学上のコンヴ
ェンションは見て取れるが、それは単に、筋立てに扇情
的な興味を加えるに過ぎず、表面的な類似以上のものは
見つけ難い。これは、ポーと同じアメリカン.ルネサン
スの作家ハーマン・メルヴィルが﹃ビェール﹄で主人公
ピエールを挟んで対置させた豊艮一邑︸イザベルと︷凹一、
厨昌ルーシーとの対立・葛藤と比べると、いよいよは
っきりた犯。強いて類縁を探すなら、吸血鬼物語とのそ
れであり、ロレンスの言葉を借りれぱ、﹁ロウィーナを
徐々に殺していくことにたぎる憎欲を感じているのは夫
の霊と手を結んだライジアの霊である。二人の吸血鬼、
死せし妻と生きている夫﹂ということになる。しかし、
吸血鬼の被害者が、自身また吸血鬼になるように、ライ
ジアも、夫の意識に食り喰われた被害者であることに疑
いはない。
このようにして私は、ライジアの目をじっと見つめ
るうちに、その表情がすっかりわかりかけたような気
になる−そのような気がする−しかし決してわか
ることのないうちに1遂には全てが消えてしまう。
そして︵不思議、この上なく不思議なことに︶宇宙の
ごくありふれた森羅万象に、私はその目の表情に類似
するものを見出したのだつた。つまり、ライジアの美
しさが私の魂に入り込み、そこに祠のように住み着い
届こら
て以来ずっと、彼女の大きな光り輝く眼球を見ると私
の心の中に生じるのと同じような感情を、物質世界の
、 、 、 、 、
ダぐか物数から与えられたのだつた。しかしそれ以上、
私はその感情をはつきり定めたρ、・分析ヰりは・ξ
ず・じっと見つめることさえできなかつた。︵傍点引
用者︶ ’− 一 .・
語り手の渇望する知識が、単なる﹁肉の知識︵。嘗、目、一
ぎO色&Oq①︶﹂でなかったことは明白である。ポーの溶
解的な想像カは、分析の対象を物質的レベルにまで還元
しないではいられないのである。そのために、前述の
﹁大理石の手﹂の他にも、﹁清浄な象牙にならぷ皮膚﹂、
326
(2])物質的存在への希求
/,
・ .●
い. ,.
である。ポー得意の﹁早過ぎた埋葬﹂のモチーフも見え
まま歯を抜き去り、後でその所業に気付く。.以上が粗筋
等の表現が頻出することになる。いや、遼元しただけで
るが、何よりも歯の扱いが興味深く、ポーは語り手に、
﹁鳥のように黒い、つややかで、豊富な自然の縮れ毛]
からす
は満足しない、と圭言えるだろう。物質に取り付くから
﹁彼女の歯は、全て観念だった﹂圭言わせている。ここ
い。強度の神経過敏に悩む主人公ロデリック、アヅシャ
示す有名な例を﹁アヅシャー家の崩壊﹂の中に指摘した
しかし、取りあえずはまず、この物質との共犯関係を
ある﹁水﹂をモデルとすることで、検証することである。
に決定的に作用しているかを、ポー作品の支配的物質で
明らかにし、その物質的想像カが個々の作品にどのよう
質に付随するさまざまな属性に対するポーの強い執着を
本稿の目的は、ポーの作品を支配している物質及ぴ物
の異種雑婚でなければならないと思う。
ず、この物質との共犯関係であり、最も忌むべき物質と
いて、何か性的な逸脱が語られるのであれぱ、それはま
係である。﹁ペレニス﹂での、このような歯の扱いにつ
場合と同じように、語り手の観念が物質に乗り移る、あ
る い は 、 そ れ を や す や す と 許 容 す る 物 質が
のわ
側の加担の関
物質との共犯関係が見られる。つまり、﹁ライジア﹂の
にも、単なる加虐的なフェティソズム以上に忌まわしい、
である。ポーの渇望する知識は、﹁肉の知識﹂ではなく
﹁物質の知識︵昌算①・邑ζ〇三&OqO︶﹂なのだ。大理石
︵昌嘗、巨Φ︶、象牙︵尋o︷︶、黒檀︵まoξ︶等がポーの好
んで使用する物質のイメージであるが、これらの物質に
は、なめらかで光沢のある表面を持つという共通の特徴
がある。詳しい分析については後述するが、ここでは、
このグループに﹁ベレニス﹂における﹁歯﹂を加えたい。
﹁エレオノーラ﹂、﹁モレラ﹂、﹁ライジア﹂と共に、﹁ベ
レニス﹂は、美女の死というモチーフを持つ。語り手−
主人公は、.陰蟹な夢想家であり、自分の異常な偏執狂的
特徴に気付いている。彼の場合もやはり、幼時より知っ
ている従兄妹のベレニスを﹁生きた、呼吸するベレニス
として、この世の現実的な存在としてではなく、そのよ
、 、
の
抽
象
と
美
す
べ
き
な
く
、分
う な 存 在
し て 、 嘆
対 象 で、は
析、
の
対象として︵傍点引用者︶﹂︵塞ω︶見ている。ベレニスの
歯に強い執着を覚えた彼は、昏睡を伴う癩痢の発作を勘
違いされて埋葬されたベレニスの身体から、忘我状態の
32?
一橘論叢 第103巻 第3号 (22)
1と、アヅシャー館との共感は、冒頭から倍音としてさ
まざまに響いている。語り手はまず、﹁うっろな眼のよ
うな窓﹂を持つアヅシャー館に人間の顔との類似を示唆
した後に、﹁何世紀もの長い年月の閥には、館が住人に
感化を及ぽすこともあり得る﹂︵Ns︶という思いを抱く。
この﹁館﹂と﹁住人﹂という訳は便宜的なものであり、
原文は亭①昌O﹁その一方﹂とまOOまO、﹁他方﹂とな
っている。ポーは、巧みに特定を避けることで、感化が
双方向のものであることを暗示し、当主アヅシャーとア
ッシャー館との共感は一層緊密になる。﹁やっと目にと
まる位の亀裂が、正面の屋根からジグザグ状に壁を伝い、
沼の不気味な水中に消えている﹂︵8ω︶という表現を読
む時既に、読者は、結末でのアツシャー館の倒壊の予兆
ぱかりでなく、ロデリヅクの崩壊の予兆も与えられてい
るのである。更にこの共感が極限まで押し進められる時
に、 ﹁ 無 機 物 の 知 覚 ﹂ と い う 考 え が 生 じ て く る 。
しかしアッシャーの妄想の世界にあっては、この考
え︵引用者註−植物の知覚という考え︶は更に大胆な
性椿を帯ぴ、ある条件下では、無機物界にも及んでい
た。私は彼の信念の全てを、あるいはその真剣な心酔
ぷりを言い表わす言葉を持たない。だがその信念は
︵前に触れたように︶父祖伝来の館の灰色の石材と結
ぴついていた。知党が存在するための諸条件は、これ
らの石の配置に、石を覆う菌類や周りの朽木の配置と
同様、石そのものの配列に、そしてとりわけ、その配
列が長い年月を不動のまま堪えぬいてきたことに、沼
の静かな水面に映る影に十分満たされていると彼は信
じていた。その証拠−知覚が存在するという証拠
、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
ーは、︵私は彼の話に驚いた︶沼の水面や石壁のあ
たりに特有の雰囲気が、徐々にだが確実に凝固しつつ
かかことに見られると彼は言った。︵塞ρ傍点引用
者︶ ’
引用の最後の傍点部分はとりわけ示唆深い。物語の最
﹁目には狂気じみた喜ぴ﹂︵N志︶を浮べて、館の.まわり
後で、病的な興奮状態にあるロデリツクは、それでも
に垂れこめている、発光するガス状蒸気︵o目鶉8畠異.
罫一き旨︶を眺めている。語り手は、この現象を単なる
電気的現象や沼の療気のせいであるというように合理的
328
(23)物質的存在への希求
1‘ 一・‘
説明を与えるが、これはポーの好んで使うミスティフィ
ケiシ雪ンで、かえって正鵠の所在を明らかにしてしま
う。ここに至って、ロデリヅク・アヅシャーと彼を取り
囲む物質との共振は最高に達し、以後ロデリツクは終末
の時を刻む振り子と化し、蘇生した最愛の妹マデライン
との対時を経て屋敷もろとも崩壊するのである。読みあ
げられるランスロツト・キャニング卿の﹃狂える会合﹄、
︵ポー自身が詩に最適のテーマとうそぶく︶美女の死、
﹁早過ぎた埋葬﹂のモチー7等の、やや装飾過剰のゴシ
ツク的道具立てを取り除くと、﹁ライジァ﹂の場合と同
様に、﹁物質の知識﹂に綴かれている作者ポーの姿がく
りきりと浮かぴ上がってくる。ポーに冠せられるさまざ
まな汚名.罪名︵殆どが信じ難いものだが︶の一つに
﹁死体愛好癖﹂が挙げられる。結核で死んだ母エリザベ
スや、やはり結核で死ぬ妻ヴァージニアヘの偏愛及ぴ結
核患者特有の﹁青白い肌﹂への偏執等がそれにからめて
論じられることが多いのだが、ポーにとって、死体は単
に生身の肉体よりもより物質に近い、という意義しかな
いように思われる。物質であることが特権であるような
ポー世界では、死は一種の物質的浄化なのである。しか
’
てその形而上挙を無批判に受け入れ、恐らくはポーのミ
方で、﹃ユリイカ﹄をポーの散文作品の﹁絵解き﹂とし
であった。黙殺されることも多く、神学という体裁ゆえ
^4︶
の﹁背徳的﹂﹁異教的﹂という的外れの評価がされる一
この﹃ユリイカ﹄は、長い間批評家にとっての蹟き石
初の単一さに回帰する。
果、宇宙は﹁共通の申心﹂に向う運動によって再ぴ、原
乗に反比例する大きさのカ﹂で互いに引き合い、その結
︵目彗︸︶﹂が生じた。しかし、字宙の分子は、﹁距離の自
は拡散し続け、始源の﹁単一性︵O島篶轟︶﹂から﹁多
よそ考えうる中で最も単純な物質﹂を作り、その物質
うなものである1﹁神﹂はその意志で、虚無から﹁お
﹁直覚﹂に導かれたというポーの宇宙論はおよそ次のよ
アリストテレス的演縄でも、べーコン流帰納でもない、
価しない。しかしその内容はやはり驚くべきものである。
とも呼べる﹃ユリイカ﹄を書いたのは、それゆえ驚くに
﹁物質の知識﹂に鰯かれた作者ポーが、﹁物質的神学﹂
ちの忌まわしさが憧かなりとも減少するわけではない。
し、だからと言って、物質との異種雑婚を望む圭人公た
●
第3号 (24)
第103巻
一橋論叢
スティフィケーシ目ンの犠牲になってしまう向きもあっ
た。科学的説明としては破綻が大きいと言われるが、詩
人の書いた宇宙論として見た場合︵ポー自身も、自分の
死後は詩としてのみ評価してほしいと書いている︶、素
人目には科学的整合性への配慮は十分であるように思え
るし、紬部での詩的類推には美しい部分も多い。しかし
それでも﹃ユリイカ﹄をフランス象徴主義詩人たちのよ
うに純粋想像力の所産として積極的に評価する気になれ
ないのは、﹁純粋﹂ではあるが、アレン・テイトの言葉
を借りれぱ、﹁抽象作用が具体的対象を見る豊かな視野
^5︶
を押しのける﹂ようなポーの想像カが分析し尽くした世
界の不毛さを、我々は﹁モノスとウナの対話﹂﹁イーロ
スとチャーミオンの会話﹂﹁言葉の力﹂といった作品に
示されたポーの手になる天上のエデンで経験しているか
らである。この三作は地球の破滅した後に、天上に転生
した霊たちが交わす対話であるが、﹁モノスとウナの対
話﹂の最後では、死後の意識が次のように語られる。
そして再び全てが空虚となった。星雲状の光は消え
ていた。あの微かな振動も静寂の中に呑まれていった。
多くの年月が過ぎた。塵は塵に帰った。蛆は全てを食
べ尽くした。存在の意識は遂に完全に消え、そのかわ
りに、全てのかわりに、﹁時﹂と﹁場所﹂という絶対
無窮の独裁者がしろしめした。在らざりしものにとっ
て、形なきものにとって、恩考なきもの“感覚なきも
のにとって、魂がなく、といって何の物質的要素もな
いものにとって、全てこの﹁無﹂・にとって、しかも全
てこの﹁不滅﹂にとって、墓はなお家であり、腐蝕の
時は友であった。︵むo1まH︶
ここに見られるのは、ポーの物質的想像力が分析を重ね
ていった挙句の究極的物質形態、即ち﹁物質的無﹂の状
態である。物質から分子、分子から原子へと分析を重ね
ていけぱ、漸近的に﹁無﹂に近づくのは必然的であり、
﹁肉体﹂一が死によって物質的浄化を受け﹁死体﹂へと変
貌していった時点では、ぎりぎりの所で人間的経験の範
囲内にとどまっていたポーの想像カ晃、﹁死体﹂が蛆に
よウて﹁無﹂にまで還元されてしまうと、もはや、人間
的経験の限界を大きく踏み越えてしまっている。まさに
?︶
﹁天使的誤謬﹂であ。り、ポ。1は自分の分析の才に仕返し
330
一’︷ ㌧
された格好になウてい■る。
﹃ユリイカ﹄で呈示されたポーの神学の運動因は、﹁原
子間の距離の二乗に反比例する力﹂であり、ポーの神学
の根底には、ニュートンの万有引カの法則があった。こ
の万有引カ、あるいは重カという、物質に作用する力は、
ポーの想像カに働きかけ、散文作品の構造に大きな影響
を与えている。さいぜん﹃ユリイカ﹄の神学を散文作品
の絵解きとして無批判に受け入れることの危険を論じた
ぱかりで、ここで同作品を持ち出すことに伍泥たる思い
はあるものの、重カ及ぴ重カによって引き起こされる落
下というものは、地球上の全ての物質の一つの必然相で
あり、ポーの物質的想像カを謡るには欠かせないもので
ある。そして、実際ポーの作品のほとんど全てが、物質
的必然である﹁落下﹂あるいはその変形である﹁ある中
心へ向かっての収縮﹂の物語なのである。﹁大渦への落
下﹂﹁壕の中の手記﹂﹁落とし穴と振り子﹂﹁ハンス・プ
ファ﹁ルの無類の目目険﹂﹁不条理の天使﹂﹁ある苦境﹂
数えあげても列挙できないほどである。
深淵に最終的に突入することなく、永劫の縁をいつま
のは私には奇蹟中の奇蹟に思われる。我々は確かに、
我々の船の巨大な船体が即座に水に呑まれなかった
察できる。以下は﹁壕の中の手記﹂からの引用である。
れ﹂︵−讐︶る渦の動きには、前述の相剋相が典型的に観
に下方に移っていくのは急ではないがはっきりと認めら
れまでのポー作品の理解の基礎があった︶。﹁一回転ごと
品をこの原型からの種々の発展、と捉えることに私のこ
語をポー作品群の中でも原型的なものとし、その他の作
﹁渦﹂なのである︵この点に着目して、これらの海洋物
わせ持つ物理的モデルが、ポーの海洋物語に頻出する
して出現することになる。この二つの相剋する相を併
は作品によっては﹁同じ動きの繰り返し﹂のモチーフと
ない。それでさらに水平面上での円運動が加わり、これ
ている死は、できるだけ先にまで回避されなけれぱなら
くなけれぱならず、そのために、落下の最後に待ち構え
読者に効果的に伝えるためには、落下の過程は十分に長
しかし、﹁落下﹂だけでは十分でない。落下の経験を
’
でも漂う運命にある。かつて見たことのあるいかなる
331
1﹁落下﹂が主要なモチーフとなっている作品だけを
(25) 物質的存在への希求
一橋諭叢 第103巻 第3号 (26)
鴎の如く滑り抜け、巨浪は深海の悪魔のように船上高
波よりも千倍も大きな波から、我々は矢のように飛ぷ
で、被壊することは禁じられているのだ。︵−睾︶
く頭をもたげるのだが、しかしただ脅威を与えるだけ
このような渦の中を落下していくポーの主人公たちの
共通の性質として、ω手足に代表される運動器官の不能、
ωそれと対照的な感覚器官の昂進、が挙げられる。ωは
鉛直方向に自然落下していく物体が、自分ではその運動
を変えることができない﹁無力さ﹂の類推と見徹す二と
ができるし、倒は、その無カな状態でなお、最終的な墜
落が先延ぱしになっている状態の中で代償的に獲得され
る能カと考えられるので︵循環的な円運動の中では物体
は、一定時間の経過後再び同じ位相にたどり着く。前に
同位相にいた時と次にたどり着いた時の状態の異同を認
識することが、明らかにポーの主人公たちの知覚.知識
の基礎になっており、彼らはその知識を更に未来に対し
て敷術して適用することにより、我が身の破滅が避けら
れないことを知るのである︶、この二つの性質は、前述
の渦の二つの相克相と不可分に結ぴついているのであ
る。
実際ポーが、この二つの性質を主人公たちに保証しよ
運動器官の中でも、手足、とりわけ手が主要な器官で
^7︶
うとするやり方は非常に念の入ったものである。
れ、個人が外界に対して抱いている思いを伝える直接の
あることは言うまでもない。手は、愛憎であれ憎悪であ
り、そのため、手を使っての操作が、個人の主体性の回
代理人として働き、また外部の障害を取り除くものであ
復の合図と認められる場含は実生活でも数多い。ポーの
主人公たちは、この手の動きを完全に封じられているの
である。﹁大渦への落下﹂では、主人公は環つきボルト
︵二轟−σ05にしがみついたままで両腕とも使えない。
﹁不条理の天使﹂では、気球の曳綱をつかんで何とか墜
落を免れている主人公は、﹁不条理の天使﹂から服従の
しるしとして、綱をつかんだ右手を左袖のポケツトに入
れることを要求されるが、左手は挫いて使えず、右手を
離せぱ墜落してしまうのであり、ポーの意図は徹底して
いる。また、﹁落とし穴と振り子﹂でも、昏睡から覚め
た主人公は、自分が台の上に乗せられ、長い革紐が胴体
及ぴ四肢を幾重にも縛り上げていることに気付くのであ
‘
332
(27)物質的存在への希求
葬﹂では、硬直症から覚醒した主人公が振り上げようと
れる毛チーフが作品の題名になっている﹁早過ぎた埋
る。ポーのオブセヅションとして、多数の作品に変奏さ
はまる。﹁彼の心は吊されたリュートのように、触れる
て﹁落下﹂が存在していない作品でも、このことは当て
五官の情報が氾濫しているのである。物理的な動きとし
に入いる振り子︵視覚︶、その振動する音︵聴覚︶等、
戸 −’一
した両腕は、固い棺に阻まれてしまう。
人があれぱ、すぐ鳴り響く﹂︵8H︶というモヅトーに、
一、
もう一方の特徴である感覚器官の昂進も、ポーの主人
既にロデリヅク・アヅシャーの感覚昂進が示唆されてい
トの猛威を克明に分析しているのである。﹁落とし穴と
彼らの意識は鮮明で、悪意をもって襲いかかるエレメン
もなづている。渦や巨浪に呑み込まれようとする時でも、
もって読者に伝えられることを保証する、語りの技法と
えも目が痛んだ。彼に恐怖の気持ちを起こさせぬ音は、
花の香りは全て息苦しいものであり、かすかな光にさ
かったし、ある特定の生地の衣服しか着られなかった。
悩まされていた。およそ味のない食物しか受けつけな
彼︵1ーロデリヅク︶は五官の病的な鋭敏さにひどく
る。
公たちが必ず共有しているものであり、語り手と主人公
が一致している作品では、このことは、代理で経験され
振り子﹂では、暗闇での最初の覚醒の後、腐敗した菌類
特殊な音、弦楽器の奏でる音だけだった。︵8餉︶
る主人公の恐怖が紬部に至るまでより切迫した現実味を
の臭気︵嗅覚︶、手さぐりでの部屋の探索︵触覚1こ
ら脱出しようとする、ことはない。手は単に触覚の存在
は、外界に対して能動的に働きかける、つまり、部星か
返す振り子と化してしまう。﹁告げ口心臓﹂は、感覚昂
そして彼は、前述したように、自分自身が単振動を繰り
の時には、まだ手は自由なのであるが、それでも主人公
する場として使われるだけであり、主人公は、牢獄の広
に我慢ができなくなった男が、その老人を殺すが、死ん
進自体がテーマであり、老人の﹁禿鷹のような眼﹂︵ω8︶
だ後も聞こえてくる﹁懐中時計を木綿布に包んだ時のよ
さを画定することで逆説的に自分の幽閉された状況を追
認してしまうのである︶、肉の辛い味つけ︵味覚︶、視界
333
、
□
第3号 (28)
第103巻
一橘論叢
徴が絡み合って生まれた帖ので、また、この二つの特徴
ポーの作品の主人公たちの受動的態度はこの二つの特
離れす、殺人を告自してしまう物謡である。
に隠されているポーの想像カの統一性を論じた恐らく最
の作品のさまざまな意匠︵及ぴさまざまな範晦︶の背後
とを実践したガストン・バシュラールは、恐らく、ポー
て共感をめざし詩人の創造的意志と交渉しながら読むこ
実証的経験を追究するのではなく、創造的夢想によっ
があるために、ポーの物語は、隈りなく﹁悪夢﹂の体験
初の批評家だと思われる。バシュラールは、﹃水と夢−
うな、低くて、鈍く、せわしいL︵ωε︶心臓の音が耳を
に近づくのである。目の前で恐ろしい光景が展開されて
物質の想像カに関する試論﹄の第二章でポーを論じてい
る、という解釈上の都合からではない。凝固−液化−気
品で物理的モデルを提供している﹁渦﹂が水でできてい
支配的物質であるのは、私狐﹁原型的﹂と考えている作
このように﹁落下﹂の物語であるポーの作品で、水が
夢に も あ て は ま る 一 般 共 通 項 だ か ら で あ る 。
で、時に、水が大きな壁として膠化︵ゲル化︶するから
思われるからである。粘性を感じさせるのは、作品の中
きっと比重の大きさではなく、﹁粘性﹂が原因だろうと
い。そもそも水という流体が﹁重さ﹂を感じさせる時は、
動的実体として、﹁重い水﹂を考えていることは示。唆深
るのだが、本稿の内容と直接関わる部分は少ないにせよ、
^8︺
いるのに思うように手足が動かない、これこそどんな悪
化という三態を自由に行き来する水は、膠化して主人公
である。次は﹁大渦への落下﹂からの引用である。 ・
バシュラールがやはり、ポーの作品の根源に位置する活
たちをある空間内に閉じ込め、また現実に持っている
﹁深さ﹂のために、ウロボロス的変容を遂げ、最終的に
場にあるからである。ポーが好んで使う物質のイメージ
た。漏斗の完全になめらかな壁は、目くるめく速さで
魔法を使ったかのようにひっかかっているように見え
非常に周囲が広く底が深い漏斗の内壁に船はまるで
は、全て、特殊な性格を与えられた﹁水﹂に由来するの
ぐるぐるまわっていなかったら、またひらめくぞっ。と
﹁落下﹂する彼らを呑み込んでしまう、という特権的立
である。
334
〈29)物質的存在への希求
分けることができる。
見出し難い。しかし、
♪ ・
するような光を放っていなかったら黒檀にも見まごう
がその黒い壁ぞいに黄金の光となって注ぎ、深淵の奥
ものだった。先に述べた雲の丸い裂け目から満月の光
それでも二つのグループに大きく
ω主人公が、自らの行動とは直接倫理的な因果関係を
道筋を作っておいてから、次に、ゾル化︵液化︶して、
このようにゲル化した水は、主人公を閉じこめ破滅への
﹁壕の中の手記﹂﹁落とし穴と振り子﹂﹁早過ぎた埋
を、直接、媒介なしに知る⋮⋮﹁大渦への落下﹂
群。主人公は、究極的には死の形を取る外界の悪意
のくぼみにまで達していた。︵一ま1ごN︶
落下の中心で彼を待ちうけて呑み込んでしまうのである。
葬﹂﹁ある苦境﹂等
持たない外界の物理的事象によって危機に陥る作品
円運動と落下運動の総合として考えられた物理的モデル
の﹁渦﹂は、一方で、ポー作品の特権的物質である﹁重
の二相、即ち﹁閉じ込める水﹂と﹁呑み込む水﹂の表わ
円運動と落下運動の表われ方、そして物質としての﹁渦﹂
ができ、その発展の度合いは、運動する﹁渦﹂の二相、
ほとんどが、象徴的には﹁渦﹂の発展として考えること
の落下﹂等の海洋物語を原型として、ポー作品は、その
実際に物理的存在として﹁渦﹂が認められる﹁大渦へ
る︶
しの罪悪感を主人公に意識させる役回り−であ
だし最後の黒猫は、主人公のまだ犯していない妻殺
ー、同名のウィルソン、仮面の侵入者、黒猫ーた
れる存在は、それぞれ順に、マデライン・アッシャ
ソン﹂﹁赤死病の仮面﹂﹁黒猫﹂等︵ダブルと考えら
⋮⋮﹁アヅシャー家の崩壊﹂﹁ウィリァム・ウィル
在を認識することで主人公が自壊していく作品群
ω主人公のダブルと考えられるものが出現し、その存
れ方で測ることができるのである。この発展、あるいは
い水﹂の二つの相、ゲルとゾルの総合でもある。
原型からの乖離、の度合いはまちまちであり、同一作品
についても﹁渦﹂の各相の表われ方は異なり、規則性が
335
、
第3号(30)
第103巻
一橋論叢
述したように物質との共犯関係を築き上げてしまう。こ
作品群では肥大した作者の自意識が物質に取り付き、前
まな敵意をむき出しにするのに対し、第三のグループの
作品群では、外界の物質は、主人公に対して、あからさ
が加わる、という大きな特徴がある。第一のグループの
める水﹂﹁呑み込む水﹂に加えて第三の相﹁反映する水﹂
プには、特権的物質である﹁水﹂の二つの相、﹁閉じ込
が圭要なものであるが、それと同時に、二つめのグルー
この二つのグループ分けの基準は、ダブルの存在の有無
﹁渦﹂の運動の二相、円運動と落下運動はそれぞれ、﹁繰
雑であるし、それだけ豊かな解釈も可能である。しかし、
第二のグループの作品群については、説明はもっと複
なのである。
は、波そのものが円運動の直線上への投射である正弦波
であると考えて差し支えないと恩う。また、海洋物語で
には、時間と共に空間が狭まっていく﹁渦の中の落下﹂
件は、﹁ある消失点へ向かっての収縮﹂であり、比楡的
ように︶酸素の減少、そしてその先にある死、という条
上うど、渦の中の落下で徐々に円周が小さくなっていく
り返し﹂と﹁変化﹂という要素にそれぞれ形を変えて存
の基準を適用すると、明白にダブルが存在する圭言い難
い︺フイジァL﹁ペレニス﹂﹁モレラ﹂等の﹁愛の物語﹂
在しているのである。﹁赤死病の仮面﹂には次のような
降りてくる振り子の動きは、円運動の一つである単振動
と振り子﹂で、拘束されている主人公に向かって徐々に
び﹁水﹂の二相を指摘するのは難しくない。﹁落とし穴
の変化があった。左右には、各壁の中央に高くて幅の
な曲り角があり、曲るごとにそこには何か新しい趣向
見渡すことはできなかった。二、三十ヤード.ことに急
部屋の配置は非常に不規則で、一度に一部星以上を
一節がある。
も第二のグループに入いることがはっきりとするのであ
る。
であり、落とし穴にも﹁呑み込む水﹂のイメージが簡単
狭いゴシヅク窓があり、それが、曲りくねって続く部
第一のグループは、その性格上、﹁渦﹂の運動の二相及
に重ねられる。﹁早過ぎた埋葬﹂ではそのような明白な
星に沿う閉ざされた廊下に臨んでいた。これらの窓に
、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
円運動は見られないものの、緩慢ではあるが確実な︵ち
336
■
(31)物質的存在への希求
はステインド・グ一フスがはめてあるが、そのガラスの
色は、それが開かれる部星の室内装飾の基調をなす色
にあわせて変化するのだった。︵NSーミ9傍点引用
者︶
傍点部分と、前にも引用した﹁犬渦への落下﹂の中の一
文﹁一回転ごとに下方に移っていくのは急ではないがは
っきりと認められた﹂︵−署︶との類似は顕著である。念
の入ウたことに、部星の窓ガラスの色は第一の部星から
第七の部星へと一種のグラデーシ目ンになっていて、プ
ロスペロ公と仮面の侵入者との対時は、最も内奥の︵比
楡的には円の中心の︶第七の部星で行なわれるのである。
﹁赤死病﹂から逃れてプロスペロたちがひきこもる伽藍
の門のかんぬきは皆打ち固められてしまうが、それは、
外部からの侵入ではなく、内側からの逃亡を防ぐ目的で
あることが知らされ、﹁開じ込める水﹂のイメージをこ
こに見ることができる。物語の最後がプロスペロと侵入
者との対時で終わるため、﹁呑み込む水﹂のイメージは
この作品では弱くなっているが、﹁アヅシャー家の崩壊﹂
では、再ぴこのイメージが強くなる。
⊥■・
らず、騒ぎ立つ巨犬な雲の塊りまでが、館のまわりに
我々のすぐまわりにある地上のあらゆる物体のみな
垂れ込め館を覆っている、徴かに発光しはっきりと目
に見えるガス状蒸気の不気味な光の中に輝いていた。
︵睾N︶
この箇所にも、﹁ひらめくぞっとするような光﹂︵冨α︶
を放つ漏斗状の渦、との類似が見てとれ、﹁閉じ込める
水﹂のイメージが明確に表われているが、さらに、ロデ
リヅク.アヅシャーの死の直後、崩れ落ちる館の残骸を
呑み込む黒い沼という形で﹁呑み込む水﹂もはっきりと
認識できるのである。
その他、ここでは具体的な言及は避けるが、第ニグル
ープに属する作品では、﹁渦﹂の円運動と落下運動は、
前述のようにそれぞれ、﹁繰り返し﹂と﹁変化﹂という
物語の要素になって表われている︵﹁ヲイジア﹂での死
体の蘇生の様子はこの好例である︶。しかし、その変化
の先にあるのは、単なる墜死ではなく、ダブルとの対時
なのである、この点で、自分の行動と倫理的な因果関係
337
ユ、
r
一橋論叢 第103巻 第3号 (32)
言うまでもなく、これはアメリカ文学に頻出する﹁鏡﹂
である水の新しい相、﹁反映する水﹂の獲得である。
にしたのが、第一のグループにはなかった、特権的物質
の形式上の深化を見ても艮いと思う。そしてこれを可能
を帯び、内面劇の趣きを強くするのであり、ここに物語
作品は、主人公たちにとって、再帰的・自目言及的要素
以上でもそれ以下でもないのに対して、第ニグループの
第一グループの作品が、一過性の悪夢の体験に似、それ
猫﹂の主人公は、仮定された罪の倫理的結論︵断頭台︶
とり、まだ犯していない罪︵妻殺しの罪︶に怯える﹁黒
病を怖れるあまり、その赤死病の犠牲者の像を自ら選び
なダブル﹂が存在する理由である。プロスペロは、赤死
の世界には、単なる﹁ダブル﹂ぱかりではなく、﹁特殊
まの像を結ぱせることができるのである。これが、ポー
らせ、﹁ダブル﹂だろうが﹁観念﹂だろうが、ほしいま
ァのように、主人公の意識と共振し、その意識を乗り移
段階に達した物質だけが、﹁大理石﹂の手を持つライジ
ポー世界の物質のヒエラルキーの頂点に位置する。この
のイメージに対するポー的貢献であり、ナルシスの物語
の結像をそこに見て逆上する。このような自壊の過程に
をもたない外部の物理的カによって主人公が危機に陥る
の焼き直しでもある。﹁鏡としての水﹂というだけなら
物質は加胆し、共犯となるのである。
によって救いが用意されていることが多い。それは、外
第一のグル﹁プの作品の結末には、さまざまな仕掛け
ぱ、ポーはアメリカ文学の中で比較的早期の発見者とい
う称号を得るだけだろう。ポーの特異なところは、あら
部からの救出であったり、夢の﹁落ち﹂だったり、咄嵯
ゆるものを、挙句には人間までも︷物質レベルに還元し
の機転による脱出だったりするのだが、このことにょっ
れに比して、物質との忌まわしい異種雑婚を犯した挙句
ていって、物語の中での水の特権的立場を利用して、あ
に自壊していく第ニグループの主人公たちの最期は断末
て、幾分か恐怖が相対化されているのは事実である。そ
持つ物質に対する偏愛がある。これらの物質は、現実の
魔の叫ぴが聞こえる程に容赦がない。これは存外に健全
らゆるものに﹁水の反映﹂を与えたことである。﹁象牙﹂
水のように微風で表面がかき乱されたりすることなく常
﹁大理石﹂﹁黒檀﹂等、ポーにはなめらかな表面と光沢を
に清澄な自画像を結ぷ、理想的な﹁反映する水﹂として
338
(33)物質的存在への希求
ご 、
なポーの倫理的判断カを伝えるものだ、 と言ったら余り
にポiに好意的だろうか。
現実に存在する物質は、本稿で論じたように、勝手な
しているのではない。﹁反映する水﹂は﹁鏡としての水﹂
分析で、その一面性だけが露わになるような仕方で存在
と言うことはできても﹁鏡﹂そのものではなく、他の属
性も備えている。実際﹁黒猫﹂や﹁アモンティリャドー
の樽﹂では、なめらかな漆喰の背後には、死体が隠され
ていて、﹁呑み込む水﹂の恩いがけない出現に、作家の
現実認識の深さを思い知らされたりもした。ポーの作品
舌 凸
に見られる、物質の肌理への執着が気になって本稿のよ
うな試論となったのだが、エレメントの混乱が全編にわ
たって見られる﹃アーサー・ゴードン・ピムの物語﹄に
論及できなかったので、また稿を改めて論じたい。
︵1︶ U・声■陣事篶昌9、。向島睾≧−彗勺o足;昌目吻§§婁
軋、Q、、向︸。﹂§雨、軌o§5ミミミ♪宅8二膏‘−目§冊き8恥・
。−呂山。罰oq閏コ弔、鶉y5a︶一〇雫一宝1H箒.訳は引用者。以
§。ミ。、向膏、き§ぎ二〇﹄ま≠8・一舅︵量く.
●
︵・︶︸。目嘗目墨⋮9峯§Q・掌一峯︸雪§二曇ざ
下すべて訳は引用者。
︵3︶ 向島彗≧−彗弔o9。.■厨o貝.、ヲ§雨9§哀きぎ雲
岩。ミぎ、τH5老薯>曇ま彗ε・凹∼H§︶
§∼ま冊§助ミ嚢寒、﹄ミ§ぎ♪><巨訂opo討o鼻向亀ユ昌
︵2、ミく。、汀射彗qo目︸昌累5ご︶一やa9以下引用は
この版により、引用文の後にぺージを記す。
︵4︶ ポーがキリスト教の神挙体系を物語の重要な骨格とし
て利用することはほとんどない。﹁オムレヅト公爵﹂﹁ボン
ボン﹂﹁悪魔に首を賭けるな﹂﹁鐘楼の悪魔﹂には悪魔が登
場するが、風果は余りに喜劇的であり、戯画以上のもので
︵5︶ ≧−。目H卑9、、H冨>目σq竺二昌顯o目一畠自o自一.、守oヨきミ§
はない。
︵6︶曇P
勾冊、軋雨葦宅竃一﹃君・ぎ§雨勾§o咋sミ§一〇−ooお.
︵7︶ ポー作品の登場人物の−呉害巴唖垣8の意義について
﹄㌔専§o§雨彗。ぎ宵§トミ雨ぶ︵弔ユ篶go目一字−∴弔ユ昌阻o目
論じているのが、U彗己国印昌σ胃け昌一嚢窒、一き、§、oミ
︵8︶Ω印蜆葦望豪一彗戸卜.皇ミ;ぎ乃﹄嚢ニミ■ぎ1
d邑く一市冨窪一旨ご︶一勺や∼9−Ns.である。
智§ミざsきざ§ミ註ミ一︵句彗貫岩含︶
︵一橋大挙専任講師︶
339
1