クロアチア概要 2015年1月 在クロアチア日本国大使館 面積:5 万 6,542k ㎡ (日本の面積の約 15%;九州の約 1.5 倍) 人口:429 万人 (日本の人口の約 3%) 首都:ザグレブ(人口 79 万人) 民族:クロアチア人(約 90%)、 セルビア人(5%弱)等 宗教:カトリック(86%),他 公用語:クロアチア語 公用文字:ラテン文字 GDP:579 億ドル(2013 年) (日本のGDPの約 1%) 一人当りGDP:1 万 3,430 ドル (2013 年) (日本の一人当り GDP の約 29%) 貿易(2013 年): 輸出:119 億ドル(石油製品、機械、電気製品) 輸入:209 億ドル(機械、食品、化学製品) <概観> 1. 1990 年代前半の紛争にもかかわらず、近隣諸国との関係は概ね安定。 2. 重点外交目標であった NATO 加盟を 2009 年 4 月に,EU加盟を 2013 年 7 月にそれぞれ達成。2008~09 年任期で国連安保理非常任理事国を務めた。 3. 2000 年以降、経済は好調に推移してきたが(バブル経済だったとの見 方もあり)、2008 年秋に発生した世界経済危機の影響により、2009 年及び 2010 年のGDPはマイナス成長。2011 年 12 月に発足したミラノビッチ政 権は財政健全化や外国からの投資誘致に取り組むものの、2012 年,2013 年 は再びマイナス成長となった。 1 1. 政治体制 ヨシポビッチ大統領 ミラノビッチ首相 プシッチ外相 レコ議会議長 元首:イボ・ヨシポビッチ大統領(2010 年 2 月就任。任期 5 年,2015 年 2 月 18 日迄。 ) 軍の最高司令官。対外政策で一定の責任を担う。内外政で活発に活動,発言。 社会民主党(SDP)所属であったが,大統領就任に伴い SDP の党籍から離れた。 2015 年 1 月 11 日の大統領選挙の結果,2 月 19 日にコリンダ・グラバル=キタ ロビッチ NATO 事務総長補(元外相)が次期大統領に就任予定。 首相:ゾラン・ミラノビッチ首相(2011 年 12 月就任。社会民主党(SDP)党首) 第一副首相兼外務・欧州問題相:ベスナ・プシッチ (2011 年 12 月就任,2012 年 11 月より第一副首相兼任。人民党(HNS)党首) 議会:一院制(任期 4 年(解散あり)定員 151) 議長:レコ議長(2012 年 10 月就任。社会民主党(SDP)所属) 連立与党:74 議席(及び与党系無所属議員 4) ◆社会民主党(SDP:中道左派)56 ◆人民党(HNS)11 ◆年金者党(HSU)4 ◆イストラ民主会議(IDS:地域政党)2 ◆少数民族政党(HNS所属)1 野党:73 議席 ◇クロアチア民主同盟(HDZ:中道右派)41(ディアスポラ 3 を含む) ◇スラヴォニア=バラニャ・クロアチア民主連盟(HDSSB:地域政 党・右派)7 ◇労働党(LH:左派)5 2 ◇少数民族政党(うち独立民主セルビア党 3)4 ◇その他(小政党)9 ◇無所属 7 2. 国内政治情勢 (1)クロアチア独立以来,2大政党が政権交代を繰り返している。 クロアチア民主同盟(HDZ):1991~2000;2003~2011 政権を握る 社会民主党(SDP):2000~2003;2011~現在 政権を握る (2)政権交代の過程で,大統領権限の縮小,民主化の進展等が実現。 (3)現政権(SDP他)は,経済低迷,党内部の混乱で,支持率が低下傾向。 (4)2015 年中に行われる議会選挙で野党HDZが巻き返すかが注目点。 3. 地方行政・政治 (1) クロアチアはザグレブ市と20の県(ジュパニヤ)に分かれている。 (2) クロアチアの国土は以下に分けられる。 ―内陸部:パンノニアと呼ばれる中央部(ザグレブ,ヴァラジュディン, チェコヴェッツ等)及び東部(スラヴォニア)。全土の約 54%。 中央部は発展地域で,与野党の勢力は拮抗している。ヴァラジュディ ンでは与党HNSが強い。 東部は伝統的穀倉地域。戦争で被害を受け,また 2014 年5月には大洪 水の被害。東部では野党(保守勢力)が強い。 ―山岳部:内陸部と海岸部に囲まれている。全土の約 14%。 ―アドリア海沿岸地域:イストラ半島,リエカ等の北部沿岸地域,ドゥ ブロヴニクを含むダルマチア一帯の南部沿岸地域。 北部は工業化が発展,与党(SDP,IDS)が強い。 中・南部は観光資源が豊か,イタリア文化の影響が強い。 (3)ヴコヴァル市(「祖国防衛戦争」の激戦地)ではセルビア系住民の割合が 三分の一を超えていることから,公的な看板の表記をクロアチア語(ラテン 文字)とセルビア語(キリル文字)の二か国語表記をすることが義務づけら れているが,現地のクロアチア人退役軍人達が右に反対しているため,地方 政治のみならず中央政治における重要な争点となっている。 4.外交 (1)ヨーロッパ,西側の一員としてのアイデンティティーと外交路線を追求。 ●EU加盟:外交上の最大目標だったEU加盟を 2013 年 7 月に実現。今後 3 はボスニア・ヘルツェゴビナ等近隣国のEU加盟を後押ししたいとの考え。 ※EUのミッション(アフガニスタン,コソボ,海軍協力)に参加。 ●NATO加盟:2009 年加盟。ウクライナ危機後,クロアチアの政府要人 達は,集団安全保障の道を選択したことは正しかったと発言。 ※NATOのミッション(アフガニスタン(ISAF),コソボ)に参加。 ●国連平和維持活動に参加。(西サハラ,ハイチ,ゴラン高原,キプロス, レバノン,リベリア,インド・パキスタン,コソボ等) (2) 「ヨーロッパとバルカン」を架橋する役割を自ら追求。 ●1990 年代前半の紛争にもかかわらず,セルビア,ボスニア・ヘルツェゴビ ナ等近隣諸国との関係を概ね良好に保つ。近隣国のEU加盟を後押しする。 ●近隣国との各種問題は国際司法・調停の場で解決する方針。 ―セルビアとのジェノサイド裁判:国際司法裁判所で進行中。 ―スロベニアとの海上境界画定:国際仲裁に付託。 (3)エネルギー外交:アゼルバイジャン産ガスのパイプラインによる輸入, LNGターミナル建設によるカタール産ガスの輸入等の構想を立て,これら 諸国との間で協議をしているが,実現の見通しは立っていない。石炭を利用 する火力発電所を建設すべく,欧米以外のパートナーを探している。 参考.クロアチア関連史 ★クロアチアは,その一部なり全部なりが,多くの帝国・王国等に支配・影響下・攻撃さ れたことがあり,また帝国等の列強間の境界地域に存在したという特徴がある。そのため多 くの民族,宗教との関わりがあり,今日の社会・文化等にも大きな影響を与えている。 紀元前 イリュリア人と呼ばれる人々が居住。 紀元前 4 世紀頃 ケルト人とギリシア人が進出。 紀元前 2 世紀頃 ローマ人が進出。ローマの属州「イリュリクム」となる。 (1 世紀に属州 は再編され「パンノニア」 , 「ダルマティア」属州となる。 ) 紀元前 1 世紀~3 世紀 ローマ人によりザダルの広場(フォーラム)が建設される。 1世紀 ローマ人によりプーラのアウグストゥス神殿、円形劇場が作られる。 305 ディオクレティアヌス(位 284~305)がローマ皇帝を引退,スプリットに宮殿(ユネ スコ世界遺産)を造る。 395 ローマ帝国の東西分裂。東西間の境界(ドナウ川とその支流サヴァ川)はクロアチア を走る。 4 世紀~6 世紀 ポレチェ市のエウフラシウス聖堂(ビザンツ様式。ユネスコ世界遺産)が 建てられる。 4 世紀以降 フン族が西ヨーロッパに侵攻。ゲルマン民族の大移動。 4 451 アッティラに率いられたフン族がガリア地方(フランス)まで至る。 476 ゲルマン人傭兵隊長が西ローマ帝国を滅ぼす。 5~7 世紀 スラブ人がバルカン半島に南下。その背景は,アジア系遊牧民からの圧迫。ク ロアチア人はもともとは現在のウクライナあたりに住んでいたと見られる。 7 世紀 クロアチア人はアヴァール人に支配されていたが,一部はその支配から脱する。 7~8 世紀 イスラム勢力が地中海に進出。 8 世紀末 シャルルマーニュがアヴァール人を滅ぼす。一部クロアチア人もシャルルマーニ ュに加勢した。 800 年 ローマ教皇レオ3世がフランク王シャルルマーニュ(カール大帝)に「皇帝」の冠 を授ける( 「西ローマ帝国」の復活;西欧が独自の文明世界としてまとまった。) 。二人の皇 帝の誕生で,ビザンツ帝国との間で当初緊張関係。フランク王国は現在のクロアチア国土 の一部を属国とする。 812 年 シャルルマーニュは,ビザンツ帝国にヴェネツィア,イストリア,ダルマティアの 宗主権を譲る。 (イストリア,ダルマティアは現在のクロアチアの一部。) 9 世紀以降 クロアチアはビザンツ帝国の影響下でキリスト教を受け入れる。 (正教は,865 年ブルガリア,998 年ロシアでも受け入れられた。ビザンツ文化の北方への拡大。 ) 9 世紀後半 ビザンツ皇帝の側近のギリシャ人学者キュリロスによりグラゴル文字が考案 される。クロアチアではグラゴル文字が使われる。 876 ドマゴイ公の反乱によりダルマティアにおけるフランク支配が終わる。 9 世紀以降 バルカン半島にドイツ人,マジャール人が侵入。 9 世紀末 クロアチアのブラニミル王の治世下,独立を周辺諸国から認められる。 10 世紀 バルカン半島でスラブ人が最大の民族になる。 925 クロアチアの初代国王トミスラヴ王(在位 910~928)がローマ教皇により戴冠。 10 世紀後半 クロアチアはペタル・クレシミル4世(在位 1058~1074)の時代に最大の版 図を実現。 (中世クロアチア王国(クロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国) ) 1054 東西教会の分裂。クロアチアはローマ・カトリック地域となる。 1094 ハンガリー王ラディスラフ1世,ローマ・カトリックの司教座としてザグレブのカ プトルを建設。ザグレブという名前が記録に初めて現れる。 1097 クロアチアのペタル・スヴァチッチ国王,グヴォズドの戦いでハンガリーに敗れ, 戦死。 11 世紀 ヴェネチア共和国は形式的にビザンツ帝国の保護領であったが,独立性を高める。 (1082 年にビザンツ帝国内で自由な交易を行える特権を得る。) 1102 ハンガリー王カールマンが 12 人のクロアチア貴族と連合協定を結び,クロアチア王 を兼ねる。以後クロアチアは第1次世界大戦迄,約 800 年,ハンガリーに従属する。 12 世紀 セルビア人が自立を始める。 13 世紀 ヴェネチア共和国がビザンツ帝国と西ヨーロッパの交易を独占して繁栄する。 1203 ドゥブロヴニクはヴェネチィア共和国の支配を受ける。 1204 十字軍がコンスタンティノープルに侵入しラテン帝国を建国(~1261) 。 1241~1242 モンゴル襲来。クロアチア・アドリア海岸に逃れたハンガリー王ベーラ4世 5 をモンゴル軍が追う。 1254 マルコ・ポーロがヴェネチアの商人の息子として,コルチュラ島(現在のクロアチア) で生まれる。 (但し,マルコ・ポーロの実在すら疑う説もある。) 13~18 世紀 ザグレブ市内のカプトル地区にカトリック教会の聖母被昇天大聖堂が建設さ れる。 14 世紀前半 セルビアがバルカンでの大勢力となる。 14 世紀中頃 オスマン帝国がバルカン半島に進出。 1358 ドゥブロヴニクはヴェネチア共和国からハンガリー王国の庇護下に移り,以後独立 性を高める(15 世紀前半に正式にドゥブロヴニク共和国と称する。15~16 世紀に城壁を整 備。 ) 。 1389 コソヴォの戦い。セルビアは,オスマン帝国に立ち向かう戦力を失い,以後オスマ ン帝国の属国となる。 14 世紀~ 都市経済の繁栄していたイタリアで,ルネサンス始まる。 1453 オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす。 15 世紀後半 オスマン帝国はセルビア,ボスニア,アルバニア,ヘルツェゴヴィナを征服・ 併合。 (20 世紀初頭まで,オスマン帝国はバルカン諸国のかなりの部分の統治者となる。ク ロアチアはオスマン帝国から攻め込まれたが,支配された訳ではなかった。但し 1481 にド ゥブロヴニクは事実上オスマン帝国の庇護下に移る。) 1526 ハンガリー王国ラヨシ2世,モハーチの戦いでオスマン帝国に敗北し,死亡。オスマ ン帝国軍隊はザグレブにも攻め入る。 1527 クロアチアの北部の一部はハプスブルグ家(オーストリア系)の支配下に入る。 16 世紀以降 ハプスブルグ家とオスマン帝国の対立。セルビア人がクロアチアの国境地域 (軍政国境地帯)に国境警備兵(屯田兵)として入植。 1529 オスマン帝国軍がウィーンを包囲。 1534 オスマン帝国艦隊,マルセイユを訪問し,フランスに歓待される。 1538 オスマン帝国海軍,プレヴェザ沖(バルカン半島南部)の海戦でスペイン・ヴェネ ツィアの連合軍を破り,地中海の制海権を握る。 1571 スペイン,レパント沖(コリント湾のとば口)の海戦でオスマン帝国海軍を破るが 決定的勝利ではなく,引き続きオスマン帝国は脅威。 1648 ウェストファリア条約でヨーロッパの主権国家体制が確立。 1667 大地震でドゥブロヴニクは壊滅的打撃を受ける。 17 世紀後半 ハプスブルグ帝国は,反抗的なクロアチアの土着名門貴族勢力の力を削ぐ。 18 世紀 オスマン帝国が衰退し始める。オーストリア,ロシア,イギリス,フランスがオ スマン帝国地域に進出を図る。 1809 ナポレオンのダルマティア遠征。ドゥブロヴニク共和国が廃止される。フランス領 「イリリア諸州」としてナポレオンに統治される。 (~1813) 19 世紀 オスマン帝国地域は,ナポレオンの没落後,第1次世界大戦までの間, 「東方問題」 と呼ばれる不安定な状況。 1830 セルビアはオスマン帝国から自治権を得る。 6 1830 年代~40 年代 クロアチアを中心に「イリリア運動」と呼ばれるロマン主義的な文化・ 政治運動が起こる。 「イリリア人」という呼称は南スラブ諸民族の総称。 1848 ヨーロッパ各地で革命(「諸国民の春」)。イェラチッチがクロアチアの総督になる。 ハンガリーに宣戦布告し攻め入り,ハンガリーの独立運動鎮圧に力を貸したが,ハプスブ ルグ帝国から得たものは無かった。 1853~56 クリミア戦争。イギリス,フランスがオスマン帝国と同盟して,ロシアを破る。 1867 オーストリア,国家体制を改めて「オーストリア=ハンガリー帝国」とする(~1918) 。 1868 クロアチアとハンガリーの合意により,クロアチアに特別の自治が認められる。 1878 セルビアのオスマン帝国からの独立がベルリン条約で認められる。 1914.6.28 サラエボでハプスブルグ帝位継承者フランツ・フェルディナンド大公夫妻暗殺。 1914~1918 第1次世界大戦。オーストリア=ハンガリー帝国の解体。 1918.12.1 セルビア王国の摂政アレクサンダル皇太子は,クロアチア人,セルビア人,スロ ベニア人王国の建国を宣言。 (1929 ユーゴスラビア王国と改称。 ) 1941.3 ユーゴスラビア王国,日独伊三国同盟に参加。ユーゴスラビア王国内で右に反対す る親西欧派将校がクーデター。 1941.4.6~ ユーゴスラビア王国は枢軸国の侵攻を受けて崩壊。 1941.4.10 「クロアチア独立国(NDH) 」建国。日本を含めた枢軸国は同国を承認。ウスタ シャ(クロアチアのファシズム組織)の指導者パヴェリッチが大統領兼外相に就任。ヤセ ノヴァツ収容所とスタラ・グラディシュカ収容所でセルビア人,ユダヤ人,ロマ人(ジプシ ー)らを殺害。 1945.5.8 パルチザンがザグレブに進軍,「クロアチア独立国」は消滅。 1945 ユーゴスラビア連邦人民共和国成立。 (6つの構成共和国:スロベニア,クロアチア, ボスニア・ヘルツェゴビナ,セルビア,モンテネグロ,マケドニア;セルビア共和国内の 2つの自治州:コソボ,ヴォイヴォディナ) 1963 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に国名を改称。 1970~71 クロアチアで大規模な民族運動。 「クロアチアの春」。 1974.1 ユーゴスラビアで新憲法。分権化傾向。 1970 年代 ユーゴスラビアは西側諸国や国際機関から融資を受ける。79 年の石油危機,不 況により打撃を受け,対外債務累積,インフラ等の経済危機に。 1980.5 チトー大統領,87 歳で死去。集団指導体制に移るも,やがて機能不全に。 1989 ベルリンの壁の崩壊。 1990.4 クロアチアで実質的複数政党制での議会選挙。共産党が大敗,クロアチア民主同 盟が圧勝,トゥジマンが大統領に就任。 1990.12 クロアチア新憲法制定。 1991.6.25 スロベニアとクロアチアで独立宣言。クロアチア初代大統領はトゥジマン。ク ロアチア民主同盟(HDZ) (中道右派)が政権を担当。権威主義的体制。ユーゴスラビア 連邦軍は独立を認めない立場から介入。クロアチアでセルビア人・連邦軍との内戦が激化 (クロアチアでは「祖国戦争」と呼ばれることになる) 。 1991.12 クロアチア国内のセルビア人勢力が「クライナ・セルビア人共和国」を建国(ク 7 ロアチアの三分の一を占める) 。 1992.1.15 ECはスロベニアとクロアチアを承認。 1992.5 クロアチア, 国連加盟。 1994 初~1995.11 明石康氏,国連平和維持活動の責任者の職務を,ザグレブの国連保護軍 本部で務める。 1995 クロアチアがセルビア人勢力を攻撃(5 月「稲妻作戦」;8 月「嵐作戦」), 「クライ ナ・セルビア人共和国」を壊滅させた。 (1991~1995 の戦闘の結果,ヴコヴァル,ヴィンコヴツィ,オシエク,カルロヴァツ,スィ ニ,ゴスピチ,ザダル,シベニク,ドゥブロヴニク等が激しく破壊され,死傷者は数万人 とも言われる。) 1995.11 デイトン合意でボスニア内戦終結。 1999.12.10 トゥジマン大統領死去。 2000.2 大統領選挙でメシッチが勝利,第2代大統領就任。 (2005 年1月の大統領選挙でも 再選,2010 年 2 月まで大統領を務める。 ) 2000 議会選挙で社会民主党(SDP) (中道左派,旧クロアチア共産主義者同盟)が勝利。 ラチャンが首相就任。下野したHDZは民族主義から国際協調主義に路線転換。 2000.5 NATOと「平和のためのパートナーシップ」 (PfP)を締結。 2001.10.20 EUと安定化連合協定署名。 2003.2 EU加盟を正式に申請。 2003.11 議会選挙でHDZが勝利し,政権に返り咲き。 (2007 年選挙でもHDZが勝利。 ) 2003~2009 サナデルが首相。前首相サナデルの汚職疑惑と,世界経済危機後の経済低迷 により,HDZへの支持は落ちた。 2005.10 EU加盟交渉開始。 2007.10 国連安保理非常任理事国選挙に当選,2008-2009 年の非常任理事国。 2009.4 NATO加盟。 2009.7 HDZの首相交代。サナデルからコソルへ。 2009.12 大統領選挙でSDP党員であったヨシポビッチが勝利。(2010.2,第3代大統領 就任。 ) 2011.6 EU加盟交渉終了。 2011.12 EU加盟条約署名。 2011.12 議会選挙でSDP,人民党(HNS),イストラ民主会議(IDS) ,年金者党(H SU)の四党から成る中道左派の野党連合が勝利。SDP党首のミラノビッチを首相とす る政権が発足。 2012.1 EU加盟の是非を問う国民投票。66%の賛成多数で承認。 2012.11 ゴトヴィナ将軍(クロアチアで英雄視される),ICTYで無罪判決を受け釈放 される。 2013.7 EU加盟。 (了) 8
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