Title 日本におけるラングストン・ヒューズ : その紹介の経緯 - HERMES-IR

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日本におけるラングストン・ヒューズ : その紹介の経緯
について
斎藤, 忠利
一橋論叢, 98(4): 524-542
1987-10-01
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/11243
Right
Hitotsubashi University Repository
一橘論叢 第98巻 第4号 (26)
日本におけるラングストン
ーそ の 紹 介 の 経 緯 に つ い て ー
・ ヒ
ユーズ
で中国に渡ることにしたのであった。
斎 藤
二^1・冒ークの黒人衛ハーレムの桂冠詩人として記
船で日本海を渡り、一九三三年六月二三日に敦賀に上陸、
間は、無為に過,こしていたようであるが、そのあとヒュ
︵■彗oq津昌雪自嘗霧︶︵一九〇二−一九六七︶は、一九
ーズは築地小劇場に出かけている。
京都で一泊したのち、東京に向かい、東京では、前々か
周旅行の途中で、ソプィエトを経由してアメリカに帰国
実は、ヒューズはモスクワで、築地小劇場の元の演出
三三年︵昭和八年︶に来日し、短い滞在の記録を二冊目
する遣すがら、わが国に立ち寄ったのである。ヒューズ
家セキ・サノ︵佐野碩︶と会っていて、佐野がヒューズ
らフランク・ロイドニフイトの建てたホテルであると散
の最初の予定,では、モスクワを発ったあと、中国に渡り、
の来﹃の予定を築地小劇場の俳優たちに予紙で知らせて
の自叙伝﹃さすらいつつ驚く﹄︵−ミoミミ§、§ミミ︶
北京を訪れるつもりであったが、東支那鉄遺を日本軍が
あったので、芝居の上演後、舞台裏を訪れたヒューズは、
々、聞かされていた帝国ホテルに逗留する。最初の数日
ことは断念するほかはなく、日本に立ち寄り、日本経由
切断してしまったために、東支那鉄道経由で北京に行く
︵一九五六︶に残している。そのときヒューズは世界一
シベリア鉄遭でウラジオストクまで来たヒューズは、
利
憶されるアメリカの黒人詩人ラングストン.ヒューズ
忠
5泌
の芝居が上演されたことを聞いていたからであるが、左
のは、この劇場でドゥボウズ・ヘイワードの﹃ポーギー﹄
^1︺
︵U自︸o竃葭2ミ彗pき、簑︶︵一九二五︶その他の外国
そもそもヒューズが、築地小劇場を訪れたいと思った
ら暖かく迎えられた。
無名の黒人詩人ではないことを知った。ヒューズは書い
その人々を通じてヒューズは、自分がn口本人の間で全く
会っているのは、主に芸術関係の人々に限られていたが、
鳴をあげるほどの歓待を受ける。もちろん、ヒューズが
招待があって、ヒューズは自分自身の時閲が無い、と悲
ら、寺院、劇場、公園、大学などへの案内、晩餐会への
ユーズを訪ね、そのあと二週間ほどは、インタプユーや
翼運動の中心であった、この前衛的な劇揚が警察の監視
ている1
この劇場を訪問した最初の黒人作家として、俳優たちか
下にあったことを最初、ヒューズは知らなかった。しか
芝居の上演中、警察の検閲官が台本を見ながら、俳優の
日本の文芸誌に発表されていたし、わたしの肖像が
わたしの詩のいくつかは、すでに翻訳され、ある
しながら、その日ヒューズは、ホテルに帰るまでの間に、
台詞を監視していたことを察知している。その後ヒュー
らしかった。 ■’ ・
小劇場に行こうとしていたことを、警察に通報していた
る。また、帝国ホテルの従業員までが、ヒューズが築地
受け取って来たのではないか、と疑っていたことがわか
して搦んでおり、ヒューズがモスクワから秘密の指令を
は、ヒューズがモスクワで佐野碩と会ったことも情報と
W・C・ハジディの古典的作品﹁セント・ルイス・
スは、日本では知られていないものではなかった。
なりの注目を惹いている、とのことだった。ブルー
篇の翻訳は、なかなか上手にできていて、東京でか
るように見えた。わたしのハーレムのブルースの詩
たしは、ちょっびり垂れ目で、すっかり日本人であ
その表紙に載っていた。そして、その肖像では、わ
1それは、写真をもとに描かれたものだったー
その翌日、ヒューズの来日を知った日本の作家や俳優
ブルース﹂は、非常に人気があった。その歌詞は、
ズは、警視庁で尋問を受けることになるが、日本の警察
たち、美術家や新聞記者たちが何人か、帝国ホテルにヒ
525
日本におけるラングストン・ヒューズ
(27)
一橋諭叢 第98巻 第4号 (28)
京のジャズ・パンド は 、 何 人 か の フ ィ リ ピ ン の ミ ュ
京のジュークボックスで、さかんに回っていた。東
のを見るのが嫌だ﹂−1÷また、そのレコードは東
日本語に翻訳されていたー﹁わたしは夕陽の沈む
ズムの文学の紹介・受容を試みるところにあったようで
入れているところからも分かるように、英・米のモダニ
︵言昌8言︸8︶︵一八八二−一九四一︶の紹介にカを
の犬きな特徴は、その創刊号がジェイムズ・ジョイス
川正身ほかの、録々たる先生方の御名前が見られ、そ
^2︶
ージシャンも加わっていて、見事なジャズの演奏を
三二年︵昭和七年︶に創刊された﹃新英米文學−亭Ω
ヒューズがここで言及している日本の文芸誌は、一九
家の肖像を掲げているが、創刊号︵二月号︶はジョイス、
また、その編集方針として、毎号、表紙に英・米の作
リア文学の動向などにも目を配っている。
した。
冒妻串眈且ユ↓まσ﹃ま旨淳里昌宰−S目;O冨巨冨﹄であ
三月号はセオドーア・ドライサー︵↓まao竃U﹃9器﹃︶
る関心を示す論考も掲載し、さらにアメリカのプロレタ
あるが、その一方、それと関連してマルキシズムに対す
り、この文芸誌は、小野健人氏を編輯兼発行者として、
︵一八七一−一九四五︶、四月号はオルダス・ハックス
^3︺
月刊、この年の二月一日に創刊号が発行され、最初、定
レー︵>5o寡曽自巴︷︶︵一八九四−一九六三︶、五月
号はD︸H・ロレンス︵U■声■芭妻H彗8︶︵一八八五
価は、一部参拾銭であった。また、そのサブ・タイトル
がすぺて、英語の小文字で書かれているのは、その当時、
里昌O.ヨ筈彗︷︶︵一八九七−一九八四︶、七月号はエ
−一九三〇︶、六月号はリーアム・オフレアティ︵ζ−
名であった国際雑誌﹃トランジション﹄︵“§姜ミ§︶の
ドマンド・ウィルソン︵■o昌昌o峯宗昌︶︵一八九五
いわゆる小雑誌︵、一ま一〇昌晶竃巨①、︶のひとつとして有
タイトルに倣ったものと言われる。
ウェスト︵≦9昌ぎ蟹鼻く畠O−老O叩け︶︵一八九二−一
−一九七二︶、八月号はブィクトリア・サクプィルー−
ス特輯号﹂で、寄稿者には、西脇順三郎、阿部知二、竹
九六二︶、九月号はラングストン・ヒューズ、十月号は
さて、この文芸誌の創刊号は、﹁ヂェイムズ・ヂ冒イ
友藻風、澤村寅二郎、高垣松雄、佐藤清、矢部貞治、西
526
併号はシャーウッド・アンダソン︵望雪考oo﹂>邑實■
ωまくo=︶︵一八九七− ︶L+二・一月合
九六九︶、サシェヴェレル・シトウェル︵ω碧ぎく胃邑
パート・シトウェル︵03雪什ω箒ミ邑︶︵一八九二−一
ウェル︵向昌亭ω津幸o二︶︵一八八七−一九六四︶、オズ
シトウェル姉弟︵↓5ω奉峯①豪︶ーイーディス・シト
関連から、アメリカ黒人の文学の新しい担い手として、
9s母ミ§雨≧祭§亀§雨︶︵一九一四︶の評釈の連載が
^4︶
始まっており、ヒューズの詩才を発見したリンジィとの
人の魂について歌った詩﹃]ンゴウ﹄︵掌雨o§窓一﹄
ィ︵く彗冨−巨目o審︸︶︵一八七九−一九三一︶の、黒
の六月号からは、アメリカの詩人ヴェイチェル・リンジ
の関心と関係が。あるのではないかと思われる。また、そ
ヒューズの存在が注目されたのかも知れない。
眈昌︶︵一八七六−一九四一︶、ニニニ月合併号はジョ
ン・ゴールズワージィ ︵﹄o=自Ω巴蜆毛o﹃亭︸︶︵一八六七
んで八月号はシンクレア・ルイス︵望昌巨﹃5三叩︶︵一
ールド︵﹂o;⋮鶉oま巨︶︵一八七八−一九六七︶、飛
ーズが来日したとき、その年の﹃新英米文學﹄の八月号
ヒューズに敬意を表していたことになる。そこで、ヒュ
を予想だにせず、ヒュ、ーズの肖像をそ。の表紙に掲げて、
つこと十か月前に、恐らくその時点ではヒューズの来目
ともあれ、﹃新英米文學﹄は、ヒュiズの来日に先立
八八五−一九五一︶の肖像が表紙を飾っている。
はそのことを報じて、﹁O享昌巨①昌ρOO昌昌O葦ω﹂欄
−一九三三︶、四・五月合併号はジ目ン・メイスフィ
ア・ルイスは一九三〇年に、また、ジ冒ン・ゴールズワ
に、次のような記事を掲載している1
ノーペル文学賞を受賞した作家を含めて−シンクレ
ージィは一九三二年にノーベル文学賞を受賞している
がら明らかではないが、さきにこの文芸誌の特徴のひと
肖像が、この文芸誌の表紙に用いられた経緯せ、残念な
で、三十歳になったぱかりのラングストン・ヒューズの
は世界漫遊の途上ドイツで例のナチスに遣はれ、日
載せたのは恐らく﹁日日﹂だけであらう。=奏慕蜆
︸温プ鶉が6月23日に敦賀に上陸した。この記事を
●アメリカのz①o目;勺o黒として有名な■彗o目g昌
−この当時の英・米文学を代表する作家たちとならん
つとして挙げておいた、アメリカのプロレタリァ文学へ
52?
日本におけるラングストン・ヒューズ
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第98巻 第4号(30)
一橘論叢
な文學者に會見することにあるらしい。日本では菊
知り、同人のひとりが来日したヒューズと会見して、
﹃新英米文學﹄の同人たちが逸遠くヒューズの来日を
本にやって來たのである。漫遊の目的は世界の著名
池寛氏と冒ネ・ノグチ氏に會見の豫定をつけてゐる
誌に掲載することに成功したのは、まことに快挙生言っ
﹁ヒューズの未蟹表の詩﹂の原稿を譲り受け、これを同
學﹂は昨年の9月、表紙に彼の省像を掲げて、官o−
てよく、かつて同誌の同人のひとりで、その編集にもあ
さうだ。果して目的を果したか否か? ﹁新英米文
言・邑ぎ冒品①を捧げたことであった。あの大きな
たられた西川正身先生が、次のように言っておられるの
も、もっともである。
篇眞を見て、さぞ驚いたであらう−若し旨■O旨
^ 5 ︶
がぎ3;討ミを果したとしたら:⋮・︹原文のまま︺
それから、早いころの国際交流の一例といいまし
ズが未刊の詩集の原稿からえらぴ出して、、望胃Φ
また、隔固には、
●アメリカの黒人詩人■彗窃片昌■品臣ωが來朝し
ょうか、アメリカの黒人作家ラングストン・ヒ^ー
たことは英語關係の雑誌は勿論、新聞は殆ど氣がつ
9o電o畠津○亭宵勺畠旨叩.、を発表していることも
^7︺
注意していいでしょう。
かなかった。本誌では小野健人が︸目o・ぎωに會っ
を貰つて來た。今後アメリカから﹃新英米﹄に網え
の文芸誌の同人たちが、どのようなルートでヒューズの
︹なお、ここで、誰しも興味をそそられることは、二
たのみか、彼の未蟹表の詩と、キューバ詩人の謬稿
ず寄稿することまで絢東させた。來月號にその≡−
来日を逸速く察知したのか、という点であろう。これは、
築地小劇場の俳優たちは、モスクワ在住の佐野碩からヒ
あくまでも推測でしかないが、さきにも触れたように、
^6︺
註Hまo峯及ぴ詩稿を蟹表する。︹原文のまま︺
と、ある。
528
とその夫人の客として、歌舞伎座で歌舞伎の興行を見て
の東京滞在中に、英文学の教授をしている、ある日本人
ていたのではなかろうか。また、ヒューズは二週間ほど
﹃新英米文學﹄の同人たちは、ヒューズ来日の情報を得
ユーズ来日の予定を手紙で知らされており、その筋から
、因ぎo汀田①写一二
三編の表題を衣に列撃して置く。
揮んで紹介することにした。なほ参考までに全二十
可能である。それで、本號には其中から敷篇だけを
の全部を本駿に掲載することは、誌面の都合で、不
=卑oざ、の三部に大別してあるが、それらの詩章
ω訂冨−08勺鴉冨.ズ晶8ω雪く顯目斤HO02ざ巨
いる。ヒューズを歌舞伎見物に招いた、この英文掌教授
夫妻がどなたであったのかは、今までのところ確かめる
之晶85邑①冨.里彗庁ω①①PO享軍旨≧苧
二十篇で、このほかに三篇あったことになる。ついで、
ったとのことであるが、ここに引用したリストによれば
ヒューズから渡された詩篇の数は、合計二十三篇であ
︸⑭Pω艮−望敦望鶉蜆・吋昌斤O・︹原文のまま︺
^8︶
皇﹃&1■oく雪、叩射oざ昌.ω丘く畠ま﹃.ω U首目oo
、田Ho庁①、
oH&オく目吾.■彗opU首目o・田墨斧勺︸.U.
∪窃庁ρ∪H窒昌句邑雪−目彗汁一〇a一呂O旨100−■
、峯巨o司一&田H窒亭二
σ顯昌凹−宙5o斥︸①斥.09〇一U昌Hα一
術がない。この点も、是非、明らかにしたいところであ
る。︺
さて、﹃新英米文學﹄はその予告通りに、次号、九
︸O斥︾其他の詩﹂を、原詩に謡註をつけて掲載している。
月号に﹁特別寄稿﹂という形で、ヒューズの﹁︽望葭鼻
謡註者は、高垣松雄先生で、その前書きには以下のよう
に書かれている−
アメリカの青年詩人■彗o阜津昌¢目腎塞が去六
月下旬に日本を訪れた時、新英米文學同人は幸にも
掲げる特構をえた。詩人から托された詩稿は総てで
高垣先生は、ヒュiズの短かい略歴を紹介したのち、
彼に會ふ機會をもち、且つ未刊詩集の原稿を本誌に
二十三篇、之を、望8 岸 尉 Φ 耳 、 、 : 旨 巨 o q − & 籟 冨 娑 戸 二
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日本におけるラングストン・ヒューズ
(31)
この署名が高垣松雄先生のものであることは間違いない
註には、 ︵M・T・︶という頭文宇による署名があり、
O■肉H≧Zオ向Ω射O■■>∪目貝ω、︵﹁或る黒人指導者に
その注を以下に引用すると−
.、Z向Ω宛○uo■ヵく>之H..︵﹁使はれているニグロ﹂︶、、↓O
寄せる﹂︶、:民■>O宍oo向■∪=︵﹁黒い種子﹂︶、、困■>O宍
圧され、搾取され、ときに懐柔される黒人たちをうたっ
選ぱれている詩のうち、最初の四篇は、差別され、抑
添えて紹介している。
︸■d向ω、︵﹁七十五仙ブルーズ﹂︶の五篇を、原詩に訳を
度は謬を附せず、簡賂に註を加へることにした。
ある。原詩は平易な語句で書かれてゐるから、今
詩集から敷篇を抜い.て紹介しうることを喜ぷもので
月號にもその一部分を蟹表したが、今月も彼の未刊
■彗oq黒昌︸晶臣ωの特別寄稿をえた本誌は、九
︸向■H、︹タイトル訳を欠く。︵筆者︶︺、 、ωH×由胃ω
た作品であり、また、五番目の﹁七十五仙ブルーズ﹂は、
い気分を芸術化したとされるヒューズ独特の作風をうか
してゐることは周知の如くである。此詩は木村毅氏
花栽培が行はれて、そのための勢働カは黒人が供給
uo︸>肉甲o勾o勺勺向内ωーアメリカ南部諸州では棉
がわせる作品であって、どのような観点から以上五篇の
が邦謬して﹁小作﹂と題し﹃改造﹄九月號に紹介し
アメリカ黒人の間で生まれた歌曲ブルースの、やるせな
作品が選ばれているかは、誰の目にも明らかであろう。
ヒュ
︵M・T・︶
^9︺
てゐる。
︹中略︺
∪カ内>雪
︹原文のまま︺
﹃新英米文學﹄の同人のひとり ︵小野健人氏︶
此詩も木村氏の邦謬あり。
ついで﹃新英米文學﹄の十月号は、再ぴ﹁特別寄稿﹂
という形で、二ω曽>射向−O射O勺勺向内ω脚O葦實巾O向旨ω..
と魑し、今度は原詩だけを、訳を添えずに、簡略な註を
加えて掲載している。選ぱれている作品は、、OOHO−
、O︸射HωH量>■>団>旨>、一..U射向>呂、一..句d■目■■−
団目尾 旨、一 、U向ω−射向、一 、ω饒>射向−O勾O勺勺目射ω、一
旨向Z↓、・.、ΩOU、の七篇である。その最後に加えられた
が
第98巻 第4号(32)
一橋論叢
530
ーズから渡された二十三︹二十︺篇の詩は、﹁未蟹表の
詩﹂もしくは﹁未刊詩集の原稿﹂であったとされるが、そ
のうちの十篇はすでに﹃オポテユニティ﹄︵◎、盲ミ§︸ミ︶
その他の雑誌に発表されたことのある作品であり、未発
市o伽ωo︷︷−①饒色︷蜆−
■o﹃oo︷“げ①−凹目旦
>■o顯=亭津津首①一象.
宙顯自o眈一〇一甘Φ岨o自−
由①冨一U彗印ま①邑器實9
の詩集﹃ハーレムのシュイクスビア﹄︵簑昌ぎ︷§ミミ
田o器霧艮目g巨目四
表であった残りの十篇のうち、七篇はその後、ヒューズ
ミミミ§︶︵一九四二︶およぴ﹃驚異の野原﹄︵隻雨ミ缶県
zo↑①くo自一ブ9H↓o−一
し、.、田5鼻︸①岸、一、峯oo亨o〇一〇昌ρ老︸冒oブニ一、由饅く①目、
黒土︹人︺ 地帯
ミoミミ︶︵一九四七︶ほか、雑誌類に再録される。しか
の三篇は、このあと、いずれの詩集にも雑誌にも再録さ
れた形跡がないので、そのうちの一篇だけとはいえ、
農地のボスー
あそこに立つのは白人
ことは、まことに有難いことであったと言わなけれぱな
土地と
、里彗岸︸①斥、が選ばれて、﹃新英米文學﹄に掲載された
らない。
自分たちの労苦すらも
何ひとつ ままならぬ
土地にしぱられた労務者たち1
ここで身体を曲げているのは黒んぼたち
それが生み出すものすぺての主人
し
、 1
︼一一顯目
そこで、この詩を以下に引用して、試訳を付してみた
“ゴo峯チ幕①
団−里o片宙⑦岸
Hブ①H①ω片芭目oω
531
目本におけるラングストン・ヒュ_ズ
(33)
一橋論叢 第98巻 第4号 (34)
が無産階級に属する人々であることが示され、事実を事
この詩には、白人の地主の土地で酷使される黒人たち
とは、ヒューズにとって愉快な体験であったに相違ない。
東京の公けの昼食会でそのような差別を受けなかったこ
一緒に食事をすることなど、殆ど不可能であったから、
ホテルでもクラブでも黒人が白人ーそれも女性1と
実として客観的に述ぺている描写の背後に、このような
しかし、その数週間後、中国の上海に渡り、孫文夫人
中、再び日本に立ち寄ったとき、神戸と横浜の港で役人
︵宗慶齢︶に会ったヒューズは、﹁太洋丸﹂で帰国する途
形で行なわれている人種差別に対する無言の抗議といっ
品である、と見ること が で き る 。
から訊問を受ける。ヒューズの動静は、逐一、日本の響
たものが秘められており、いかにも一九三〇年代的な作
また、さきほど引用した、明らかに高垣松雄先生の書
それでもヒューズは上陸は許可され、一か月前に泊ま
察の知るところとなっており、ヒューズは危険人物とし
ており、そのような試みも矢張り、ヒューズの来日を契
ったのと同じ、帝国ホテルの客室にもどってきた。その
かれた注によれぱ、﹃新英米文學﹄と同時平行的に、木
機としていることは確かであり、こうして、わが国にお
日、夕食のあと作家をよそおった響察官たちの来訪があ
て監視されていたのであった。
ける最初のアメリカ黒人の詩の紹介・受容が始まったこ
り、アメリカの左翼作家たちについての質問を受ける。
.そのとき、その響察官たちは、つい最近まで投獄されて
村毅氏によるヒューズの詩作品の翻訳・紹介が行なわれ
とは、記憶されてよい。
とで構成されているバン・パシフィク・クラブの月例の
八九九−一九五八︶を同道しており、ヒニーズは徳永
いた﹃太陽のない衛﹄︵一九二六︶の作者、徳永直︵一
ところで、東京滞在中にヒューズは、日本人と外国人
昼食会に招かれ、スビーチを行なっている。そのとき、
と短かい挨拶を交わしている。
をしていたヒューズは、警視庁からの呼ぴ出しを受ける。
その翌日、日本の作家たちとの昼食会に出かける準傭
アメリカ領事館員の妻で、セント・ルイス出身の白人女
性と隣り合わせに坐ることになった。その当時、アメリ
カ本国のセント・ルイスでは、人種差別が徹底していて、
532
らぬ人物﹂︶として見られていることを聞かされ、日本
と、自分が日本では、鳴畠o畠自昌o目畠試、.︵﹁好支しか
由、築地小劇場へ行った理由などについて尋問されたあ
来日した理由、中国に渡った理由、孫文夫人に会った理
と聞かされながら、実は拘束されて、ソヴィエト経由で
警視庁に連行ざれたヒューズは、拘引されたのではない
く、最初の船に乗って出国すると言明した。この点
ざる以上に一分たりとも、この国に留まる意図はな
否された、と語った。:−・ヒューズ氏は、己むを得
呼ぴ出すことを許されたい、という自分の要講が拒
の経験を論じながらヒューズ氏は、アメリカ領事を
とにもかくにも日本を退去するように命じた①自分
丸﹂に乗船するまでの間、二人の私服刑事につきまとわ
そこで﹃ニュー・ヨーク・タイムズ﹄を読むが、その中
日本を発った翌日、ヒューズはホノルルに立ち寄り、
^10︺
退去を求められる。
した。
で、ヒューズ氏の願いは、警察のそれと偶々、一致
れ、船に棄り込む途中で買い求めた日刊新聞﹃ジャパ
に、一九⋮二年七月二五日、火曜日、東京発のAP通信
あ と、さらに続けて 、 以 下 の よ う に 書 い て い た 1
た、その日﹁太洋丸﹂で帰国の途についたことを報じた
ていた。その新聞は、ヒューズが尋問を受けたこと、ま
アメリカの黒人作家ジェイムズ・ラングストン・ヒ
のち出国
J・L・ヒューズ、共産主義に関する訊問を受けた
作家、日本を去る
社の特電が摺載されていた−
月曜日の、.終日にわたる取り調べのあと、警察は
ューズは、昨圓、六時間に及ぶ東京の警察の訊問を
れる﹂という見出しで、ヒューズの国外追放が報じられ
§sには、﹁黒人作家、警察により日本退去を求めら
ン.タイムズ・アンド・メイル﹄︵旨、sミ箏§婁sミ∼
する﹁太洋丸﹂に乗り込むことになっていたが、﹁太洋
このときヒューズは,その二日後の七月二五日に出港
●
その黒人が共産主義者ではないという確信を得たが、
5.害.害
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( 35 )
一橋論叢 第98巻 第4号 (36)
ヒューズとの会見記なるものをデソち上げて、新聞に流
した日本の警察の仕業であって、警視庁でヒューズを訊
極めて称賛した、と報じられてしまったのである。ヒュ
た。
受けたのち、本日、横浜から蒸気船太洋丸に乗船し
疑っていたが、このことは証明されなかった。しか
ーズは、このデヅチ上げの会見記は、日本の訪問者を願
問した係官が述べたてたことを、.ヒューズ自身が喋った
し警察は、ヒ^ーズが直ちに目本を離れ亡はどうか、
すにしても極めて卑劣で、軽蔑すべきものである、と考
警察はヒューズが、激しい弾圧を受けている日本
と﹁提案した﹂。
えて慣慨に堪えず、その気持ちは、二十三年後に書かれ
ことにされてしまい、ヒューズは日本の帝国主義を口を
ヒュiズは、最近ソヴィェトを訪れ、その後、上
た自叙伝の中でも爆っており、﹁わたしは会見などした
の共産主義運動と通じ合っているのではないかと、
海から日曜日に当地に到着した。ヒェーズのホテル
真っすぐ自分の船室に入ってしまうまで、私服の刑事に
ほめそやすことはおろか、誰にもお別れのさよならを言
^ど
ってさえいなかった﹂と、ヒューズは皮肉たっぷりに書
、 、 、 、
つきまとわれていたのだから、わたしは日本の指導カを
ことはなかったし、新聞記者に会ったこともなかった。
を訪ねた十一人の日本人も、共産主義との関係を疑
^ u ︺
われて訊問を受けたが、その後、釈放された。
また、ホノルルでヒ^ーズは、東京を発つ前に行なわ
れたとされるヒューズとの会見記と称するものを見せら
アジアの指導者であり、日章旗をかかげた軍隊が文化を
は、日本が世界の有色人種の予定された救済者であり、
﹃東京日日﹄新聞が掲載したもので、その中でヒューズ
係官が姿を見せていた。もちろん、ヒューズはその後、
迎えた新聞記者たちのほかに、FBI︵連邦捜査局︶の
だけではなかった。ホノルルの桟橋には、ヒ^ーズを出
ホノルルに潜いたヒューズを不快にさせたのは、それ
いている。
伝播している、たち遅れた中国の地域での偉大な安定勢・
膚分の動静がFBIの監視下にあったことを察知したが、
れた。その会見記は、さきにヒューズの来日を報じた
カであると述べたことになっていた。それは明らかに、
534
ヒューズに関する、上海の外国警察の報告書と東京の警
劇作家組合︵U量昌算乗o巨5︶
︷o・亭o>∼彗o彗竃片o︷o〇一胃&雰o旦o︶
全米有色人地位向上協会︵オ里ま昌巴臣竃o封弐昌
メリカ国務省に報告されていたことは、知る由もなかっ
労働者文化連盟︵5σo篶易O巨旨邑■窒oo畠︶
察の調書が、上海のアメリカ総領事の秘密文書の形でア
た。ヒューズの死後、公開されたアメリカ国務省極東担
ヒ^ーズに関する調書がファイルされていたが、ヒュー
■竃8昌>爵一冨︶の秘密文書に、日本の当局が作成した、
た大衆の解放を目指していますが、完全な自由が共
その努カを末永く続けます。共産主義は、抑圧され
圧された大衆の解放のために努カしてきましたし、
ニグロであることから、わたしは、ニグロたちと抑
ズは日本の警察の訊問に対して、次のように答えたこと
産主義の実現によって確保されるものかどうかを、
当局︵まoζ.ω1ω富宥∪毫胃一目g汁.蜆皇く邑旨oh司胃
になっているー
頃、離婚しました。わたしは、以下の組織と関係し
⋮⋮両親は、黒んぼ︵巨oqoq①冨︶で、わたしが子供の
ーズ、三十一歳、アメリカはミズーリ州生まれ。
わたしの名は、ジェイムズ・ラングストン・ヒュ
産主義と、抑圧されている人々の解放のための戦い
し、これを支持するからです。結局、わたしは、共
義運動、それに、すぺての抑圧された人々にも共感
ことに反対はしません。なぜなら、すぺての共産主
者であるとは主張しませんが、同調者と見徴される
わたしは今もって疑っています。わたしは共産主義
ております1
に関心をもつ、ひとりのリベラリストなのです。
ヒニーズが自ら、自分の両親を
︵:曽;o量=黒、、︶と名
﹁黒んぽ﹂︵、邑oq需冨、︶
^旭︶
国際革命作家連盟︵−ま彗墨まo墨一射婁oξま昌−
胃く■塞oo篶︶
ま星∼里g峯ユ冨畠g凹。口篶︶
と呼ぴ、﹁ひとりのリベラリスト﹂
国際革命計画作家連盟︵冒需昌津6墨一射望〇一自−
作家連盟︵>=匡一〇鶉5品;︶
535
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7
B; ,;:: ,
( 37 )
一橋論叢 第98巻 第4号 (38)
力本国では﹃アメリカン・マーキュリィ﹄誌︵㌧§ミざ§
日本とアメリカでほぼ同時に発表されたことになる。
きミミミ︶の一九三三年九月号に発表されているから、
﹃新英米文學﹄では、その原文にK・O・氏−明らか
している共感は、当時のヒューズの心惰を正確に伝えて
乗ったとされる点には凝問が残るが、共産主義運動に示
ューズの共感が影を薄くしているのは、この自叙伝がマ
く、以下次号﹂︶と予告されてはいるが、﹃新英米文學﹄
いると見てよく、二冊目の自叙伝で共産主義に対するヒ
おける朝鮮人の問題とアメリカにおける黒人の間題との
に小野健人氏ーによる脚注を添えて掲載し、一種の英
共通性があることを見抜いているのは流石である。︺
は、この合併号をもって廃刊となったので、この文芸誌
葺︺
でのヒューズの短篇作品の連載は完結しなかった。
ヅカーシズムの﹁赤狩り﹂酎の時期に書かれていること
ここで話を﹃新英米文學﹄に戻すことにするが、ヒュ
以上に略述したところが、ラングストン・ヒューズの
語教材の体裁をとっている。連載の二回目は、十二月号
ーズが帰国したのち、この文芸誌は、その年の十一月号
来日の顛末と、わが国におけるこの黒人詩人紹介の事始
と翌年の一月号との合併号に掲載され、読者の便宜のた
から嗣團圃という形で、ヒューズの短篇小説﹁恥知
めとも言うべき、記念碑的な文芸誌の成果の大要である
によって、説明され る で あ ろ う 。
らずのコーラ﹂︵、OO量d墨蜆訂冒&二︶の連載を始めて
が、それにしても来日中のヒューズが警視庁に呼ぴ出さ
︹なお、ヒューズが当時の日本の新聞報遭に関して、
いる。この企画は、同人の小野健人氏がヒューズと会っ
れ、私服の警官につきまとわれ、ヒューズとの昼食会を
めに﹁前号までの梗概﹂が書かれており、さらに達載の
たとき、ヒューズとの間に取りつけた約東−﹁今後ア
予定した日本の作家たちが拘留されたりしたことを考え
予定はあったら1しく、最後に、8σo8目ま昌巴、、︵﹁続
メリカから﹃新英米﹄に絶えず寄稿する﹂約束ーをヒ
ると、﹃新英米文學﹄の同人がヒューズに会い、詩の原
人種的なレヅテルをつけて報遣されるところに、日本に
ューズが守って、帰国後、その原稿を送ってきたことか
稿を託されたことが警察の追求を免れたのは、まことに
朝鮮人の犯罪が強調されていることに触れ、その犯罪が
ら実現したものと想像される。この短篇作品は、アメリ
536
発行で、定価は一圓八十銭であった。
ヒューズの長編小説がこの時期を選んで翻訳.紹介さ
れた事情については、現在、これを詳らかにすることが
できないことを遺憾とするが、﹁課者序﹂には、この作
品がシンクレア・ルイスの﹃本町通り﹄︵ωぎo巨H■o色m一
’イソ・ストエー︸
きぎ9、§︶︵一九二〇︶の黒人版であるとする批評を
踏まえて、以下のように書かれている1
シンクレア・ルイスの﹁メイン・ストリート﹂の
實とかけ離れた観念的な理想主義にかられて田舎町
りの一人のインテリ女性であって、作者は彼女が現
主人公として探られてゐるのはカレヅジを出たぱか
の偉統と因襲を破らうとしながら、自分自身が被れ
制隈性に人間として疑惑を持ち始め、因襲の殻を破
の未知敷の黒人少年であり、彼が黒人といふ存在の
けた小さな家に威育しながら周園を眺めてゐる一人
のお勝手で働く料理女を母に持ち、石油ランプに煤
として選んだのは貧乏な黒人洗濯女を祀母に、白人
るが、これに反してヒューズが自分の小説の主人公
て行くといふ個人圭義者の運命を扱つてゐるのであ
葛ミ︶︵一九六七︶に、﹃新英米文學﹄への言及が全く見
︵二九三〇︶の翻訳出版である。この翻訳の訳者は除村
の長編小説﹃笑はぬでもなし﹄︵き、§§§“卜§恩、ミ︶
ストン・ヒューズの紹介にひと役買ったのは、ヒューズ
なるが、第二次世界大戦以前におけるわが国で、ラング
つぎに、ヒューズの来日の時期よりずっと後のことに
ならない。
られないのは、矢張り、片手落ちであると言わなけれぱ
巨竃戸﹄宙ざ−ミミざ軸§、ミミトss恕“§曽ミ容婁葛sl
記付き書誌一九〇二−一九六七﹄︵Uo量5ρ−︶μ鼻.
ド.C.ディキンソンの﹃ラングストン・ヒューズの伝
誌学的研究としては最も浩翰なものと言ってよいドナル
それはともかく、ラングストン・ヒューズの作品の書
恐れたためかも知れない。
かも知れないが、その名を明記して累が他に及ぷことを
ているので﹃新英米文學﹄の名を思い出せなかったため
芸誌﹂とだけ言っているのは、来目後、二十三年も経っ
ズが﹃新英米文學﹄を、その自伝の中で﹁ある日本の文
僥倖であった、と言わなけれぱならない。また、ヒュー
−
ヤヱ女史、出版杜は白水社、一九四〇年︵昭和十五年︶
537
目本におけるラングストン・ヒューズ
(39)
一橋論叢 第98巻 第4号 (40)
ーズは複雑多様な現實の素材をサンデーといふ圭人
牛ぱにして問題を 投 げ 出 し て ゐ る の に 反 し て 、 ヒ ュ
を刹那刹那の統一のない氣分の中に破滅させ、批到
イスが停滞しきつた現實の中で、急進的な女圭人公
ある。同じく田舎町の内部の解刮を試みながら、ル
らうとするに至る廣い現實的な展望を扱つたもので
ン.ヒューズとアーナ・ボンタムの編集した黒人詩集
集﹄︵未来社︶を刊行する。この訳詩集は、ラングスト
編1﹃こと与ことくの声をあげて歌えーアメリカ黒人詩
木島氏は先ず、一九五二年に、ラングストン・ヒューズ
とであって、その先鞭を着けられたのは木島始氏である。
けるヒューズの紹介が本格化するのは、矢張り戦後のこ
説が翻訳・紹介されるまでになりはしたが、わが国にお
︹■固目oqm8自串自o司︸轟陣>;輿do葦o∋場︵o身−︶一Hぎき−
公を中心によく方向づけ、組織し、その申に統一あ
る壁展的な肚會の展望を導き入れたのである。︹原
^帖︺
ミミ県§軸≧祭§ミき−、ミo︵岩$︶︺から抜粋した作
アメリカのブルジョア社会を描写した作晶であるとして、
因みにシンクレア・ルイスの﹃本町通り﹄は、すでに、
艘U彗斥O巨二︶、﹁黒人はおおくの河をうたう﹂︵、−岩
望轟>冒邑8、︶、﹁黒人少女のためのうた﹂︵、ω昌o目︷昌
ズの作品は、﹁ぼくもまたアメリカをうたう﹂︵、戸HO〇一
文のまま︺
左翼的な立場からの批判を加えるために、一九三一年
zo零oω勺窒雰o︷宛ぎo易二︶、﹁母からむすこに﹂︵:呂o−
品の翻訳を納めており、その中に収録されているヒュー
︵昭和六年︶、前田河廣一郎訳で我が国に翻訳・紹介され
艘雪旨ω昌二︶、﹁ワシントン市リンカン記念館﹂︵、−宇
ース﹂︵..︸O昌霧−鼻曽篶ω、.︶、﹁アメリカを再ぴアメリカ
o〇一自ヂ白o目目目o目↑一∼く葭ω−二目o目汁o自.、︶、﹁ホームシック・ブル
ていたが、﹃笑はぬでもなし﹄の中にヒューズは、﹁統一
ある螢展的な杜會の展望を導き入れた﹂と訳者が書いて
いるところから判断して、この翻訳も﹃本町通り﹄の翻
リー.ムーアのうた物語﹂︹作者から直接おくられたタ
にしよう﹂︵,.■9>旨OユS田①>昌ΦユS>O目巴目、︶、﹁ハ
となっていたものと想像される。
イプの原稿からこれを訳した。︵訳者︶︺の計八篇である。
訳を促したのと同じような、傾向的な関心が、その動機
このように、第二次世界大戦以前にヒューズの長編小
538
浜本武雄訳﹃笑いなきにあらず﹄︵黒人文学全集第五
塚書店︶︵一九五九︶
﹁祈り﹂︵、軍螢胃..︶、﹁わたしの国の人々﹂︵:峯︸雰O豆①、、︶
峯塞q望冨蜆、︶、﹁俺だって﹂︵、一H8、︶、﹁大きくなっ
その26号︵一九五六︶に﹁ウイァリー・ブルース﹂︵、Hぎ
九六一︶
篇を収録︺︵黒人文学全集第八巻︶︵早川書房︶︵一
橋本・浜本編﹃黒人作家短篇集﹄︹ヒューズの短篇二
んで﹂︵二射塞害冨峯巨く、︶、﹁アラパマの地﹂︵、>5σ凹目閏
橋本・浜本編﹃ニグロ・エヅセイ集﹄︹ヒューズの論
九六二︶
斎藤忠利訳﹃黒人街のシェイクスピア﹄︵国文杜︶︵一
︵一九六二︶
篇を収録︺︵黒人文学全集第十二巻︶︵早川書房︶
木島・皆河編﹃詩・民謡・民話﹄︹ヒューズの詩十三
房︶︵一九六二︶
丙胃亭、︶、﹁水辺の通り﹂︵、ミ津實−軍O葦ω弍8誌.、︶の四
だけに留めたい。
れたヒューズの作品の書誌という形で、リストを掲げる
これ以後のことに関しては、紙幅の関係から、翻訳さ
ューズの作品の翻訳・紹介は言わぱ軌道に乗るに至った。
訳で﹃ニグロと河﹄と題して、国文社から上梓され、ヒ
の憂いブルース﹄︵§雨ミ§ミ望§吻︶︵一九二六︶が拙
篇が掲載され、また、この年、ヒューズの第一詩集﹃も
文類三篇を収録︺︵黒人文学金集第十一巻︶︵早川書
号︹30号︺︵一九五八︶に﹁坊や﹂︵:d凹耳、︶、﹁−だも
たのだから﹂︵、>眈−Ω篶尋05雪:︶の三篇、その終刊
会︶3号に掲載された。この同人誌には、さらに拙訳で
巻︶︵早川書房︶︵一九六一︶
●
の五篇が、同人誌﹃ぼくたちの未来のために﹄︵明日の
﹁エス様の足許で﹂︵、黒go.言㎝畠、︶、﹁詩﹂︵、勺oΦ昌.、︶、
その翌年、拙訳で﹁自由列車﹂︵.、軍①&o昌■量巨、︶、
㌧
木島始訳﹃ヒェーズ作品集−ある金曜日の朝﹄︵飯
539
日本におけるラングストン・ヒューズ
(41)
第98巻 第4号(42)
一橋諭叢
諏訪優訳編﹃アメリカ・ニグロ詩集﹄︹ヒューズの詩
九篇を収録︺︵思潮社︶︵一九六九︶
木島始訳﹃ジャズの本﹄︵晶文社︶︵一九六八︶
木島始訳﹃ラングストン.・ヒューズ詩集﹄︵思潮社︶
︵一九六九︶
北村崇郎訳﹃自由のための戦列−NAACPの記
録﹄︵小川出版︶ ︵ 一 九 七 〇 ︶
木島始訳﹃ぽくは多くの河を知っているーラングス
トン・ヒューズ自伝1﹄︵河出書房新杜︶︵一九七
ズ自伝3﹄︵河出書房新社︶︵一九七六︶
古川博已訳﹃片道きっぷ﹄︵国文杜︶︵一九七五︶
嶋岡農一松憲徳訳﹃世薫人詩集﹄一三ーズの詩
二篇を収録︺︵飯塚書店︶︵一九七五︶
木島始訳﹃ジャズ﹄︵飯塚書店︶︵一九七七︶
木島始編訳﹃ラングストン・ヒューズ評論集−黒人
芸術家の立場﹄︵創樹社︶︵一九七七︶
斎藤忠利訳﹃驚異の野原﹄︵国文社︶︵一ガ七七︶
らいつつ驚く﹄の扉に書かれた、見事な筆跡の献呈の辞
二︶
木島始訳﹃きみは自由になりたくないか?−ラング
を掲げて、拙稿を閉じることにしたい。
最後に、ヒニーズが筆者に贈ってくれた自叙伝﹃さす
ストン・ヒューズ自伝2﹄︵河出書房新社︶︵一九七
六︶
木島始訳﹃終りのない世界ーラングストン・ヒュー
540
(43)
日本に捌ナるラングストン・ヒューズ
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第98巻 第4号 (44)
一橋論叢
なお、﹃改造﹄︵一九三三年、九月号︶︵90⋮91頁︶には、
︵9︶ 同誌、十月号、41員。
木村毅氏によるヒューズ紹介と^訳詩二篇︹﹁小作﹂およ
︵1︶ ﹃ポーギー﹄は黒人の乞食を主人公にした小説である
ツァー賞を得た。
が、のちにヘイワードは夫人と合作で劇化し、ビューリヅ
放された黒人蓼術家﹂、本文では﹁黒人詩人ヒ,一−ズ君﹂
と題されている。なお、學蓼自由同盟の有志と共にヒュー
ぴ﹁夢﹂︺が掲載されているが、この記事は、目次では﹁追
ズと会った木村氏は、﹃新英米文學﹄の同人、小野健人氏が
︵2︶㌧§ミミ婁、§ミミoIN葦
元東京大学文挙部教授の西川正身先生であり、以下の記述
ヒューズから渡された詩稿の一部を分け与えられて、ヒュ
︵3︶ この文芸誌について、いろいろと.こ教示下さったのは、
し下さった先生に深く感謝申し上げる。
︵12︶ −ミ§軋ミ§、§ミ、ミ℃.ミooI
bミ§軋§ミ雨§︵岩ooω︶o.−①α.
︵11︶ 9司嘗三−籟o冒きトsミ昧包o曽婁軸ぎコ■さミ萬茗軋
︵10︶ 9㌧§ミ軋ミ§㌧ミ邑ミ軋ミ雫NN9
ーズの詩の紹介を試みている。
は、先生のご教示に負うところが多い。貴重な資料をお貸
︵4︶ 一九二五年の冬、首都ワシントン市内のワードマン.
バーク・ホテルで給仕人助手として働いていたヒューズは、
そのホテルで開かれた詩の朗読会のために逗留したブ里イ
チェル・リンジィの食卓に、自作の詩三篇を置き、これを
︵13︶ ξ向巴9田o﹃﹃予◎>9、勺.SN.
読んだリンジィはヒューズの詩才を発見し、黒人詩人ヒュ
ーズの名が広く知られるようになった。9■彗o目g昌
︵叫︶ ﹃新英米文學﹄︵一九三三︶十一月号、35∼38貫、およ
︵一橋犬挙教授︶
なし﹄﹁謡者序﹂8∼9頁。
︵∬︶ ラングストン・ヒュー.ス︵除村ヤヱ課︶﹃笑はぬでも
ぴ十二月・一月︵一九三四︶合併号、脾∼脆員参照。
国品まμ§砧b暗い§︵5♂︶やN旨・
︵5︶ ﹃新英米文學﹄︵一九三三︶八月号、乃頁。
︵6︶ 同誌、κ頁。
︵7︶ 西川正身﹃アメリカ文学覚え書﹄︵増補版︶︵一九七
︵8︶ ﹃新英米文學﹄︵一九三三︶九月号、η員。
七︶獅貢。
542