2015 年 年頭のご挨拶 明けましておめでとうございます。 今から 17 年前、日本のデフレが始まって間もない 1998 年の The Economist (9・26)は衝撃的でした。「Japan’s amazing ability to disappoint」(略して JAAD: 日本はビックリするくらい落胆させてくれるなあ)のタイトルで、 歌舞伎役者が舞 台でコケる漫画がドーンと表紙を飾っていたからです。昨年 4 月、安倍首相は東 京で開催されたエコノミスト・サミットの講演でこれを引用し「今や日本は JAAD じ ゃなくて JAAA(Japan’s amazing ability to amaze)、すなわち、ジャパン・トリプル A だ」と訴えたのですが、なかなかウィットに富んでいて感心しました。 昨年末の総選挙は大方の予想通り自民党政権継続という国民審判となりましたが、決して安倍首相の成 長戦略に合格点が与えられたわけではありません。政権発足当初に掲げられた三本の矢の評価がそれぞ れ「A・B・E」だったというジョークは、日銀の金融緩和策しか実行していないという意味でもあり、物価上昇率 2%目標の背景にある「期待インフレ」が、単に「気合インフレ」に終わるという懸念が払拭された訳ではあり ません。金融政策だけで成長できるなら誰も苦労はしないということです。 これは何も日本だけではなく世界共通の認識です。ドイツ連邦銀行(ブンデスバンク)のイェンス・バイトマ ン総裁が、昨年末の講演でこの事に触れ「一国の潜在成長率は金融政策のツールで持続的に引き上げる ことができるという考えは幻想だ」と語っています。黒田日銀総裁の胸中も同じでしょうが、その一言一句が 市場に影響する立場で、期待を気合に言い替えるなど、たとえジョークでも口が裂けても言えないでしょう。 そもそも「中央銀行文学」でジョークは御法度です。 政治家は選挙でジョークを多用します。分かり易い言葉を発する政治家は大衆の人気を博し、マスコミも それを囃し世論を誘導します。ただ、ジョークなら許せても嘘はいけません。「リフレ政策を推し進め、先ずは 景気回復によって財政を立て直そう」という安倍首相の政権公約には賛同しますが、成長は結果であって手 段ではありません。手段である三本の矢、とりわけ、規制改革が一丁目一番地で、その中でも農業・医療・雇 用の三分野における強固な既得権益打破に本腰を据えるというのであれば、将に正鵠を射たものだと思い ます。どうか、今度こそ嘘をつかないでもらいたいものです。 小泉内閣の標榜した「構造改革」も本来これと同義でしたが、その後続いた安倍・福田・麻生の三内閣で 腰砕けになり掛け声倒れに終わりました。そんな自民党政権に愛想を尽かした民意で生まれた民主党政権 も、国民の期待を見事に裏切りました。その失政の根本原因は、「しっかり」を連呼する「はじめてのおつか い政治」と私が形容した拙い行政手腕もさることながら、支持政党を自民から民主に見事に鞍替えた既得権 益集団による岩盤規制強化、すなわち「反構造改革」にあったと私は思っています。規制改革が、民主党政 権下で「事業仕分け」などという政治ショーに堕落していったのがその証左です。 民主から自民への再度の政権交代で、多くの既得権益集団が勝馬に乗るべく支持政党を再び鞍替えまし た。自民党内の復活した族議員たちを操って、第三の矢の反対勢力として規制改革をサボタージすることを 目的にしているのは明白です。族議員の政治スタンスは、第一の矢は意味不明で関心なし、第二の矢は権 益誘導なら賛成、第三の矢は権益分野に絡む事項のみ反対、といったところでしょう。したがって、安倍政権 の最大の敵は身内にあり、政権を奪取する気概も能力もなく、耳に心地よい一般受けする美辞麗句を無責 任に並べ立てているだけの大多数の野党ではありません。 既得権益集団が守ってきた分野に膨大な国の金をつぎ込み、一方で、本来国内のフロンティアともいえる この分野に民の活力を注いで成長に結びつけることを封じたわけですから、世界史的にも例が無いほどの 長い期間、社会全体の鬱状態ともいえるデフレ経済が続きました。活力の元である競争を避けた結果として 成長が滞り、一方で GDP の 2 倍を超える天文学的な額までに財政赤字が膨らんだのは理の当然でした。ア ベノミクスの本来の目的はこの状態からの脱出であり、その目的達成の手段としての規制改革(構造改革) にあると思います。安倍政権がこれに本腰を入れるかどうか暫く見守りましょう。出来なければ、次の総選挙 は自民党分裂が起点であり、野党の政権奪取などという生半可なものでは済まないように私には思えます。 おそらく、争点は「大きな政府」か「小さな政府」の選択です。「大きな政府」は冗費を生み易いし、既得権 益者たちはそこに寄生します。そして、一旦大きくなったものを小さくするのは並大抵の努力では出来ません。 「いつまでも あると思うな 国の金」で、私は「小さな政府」を支持します。「大きな政府」志向なら、近い将来、 個人所得税や資産課税の増税、及び、消費税の更なる大幅 UP を覚悟すべきでしょう。税金だけではありま せん。例えば、健保組合の保険料は、高齢者医療拠出金増などにより大幅 UP を余儀無くされようとしていま す。多くのサラリーマンにとっての実質増税です。今後、かなりの数の健保が破綻して「協会けんぽ」(旧政 管健保)に移行し、国民医療費の税転嫁が進み財政を更に逼迫させるでしょう。歳出増と歳入増はセットで す。消費税増税反対・社会保障制度充実などという詭弁は慎むべきであり、良いとこ取りは通じないのです。 詭弁が通って国を滅ぼした過去の事例は枚挙に遑(いとま)がありません。 「馬を水辺に連れていくことは出来ても、水を飲ませることは出来ない」という言葉があります。政策とは須 らく水を飲ませるにはどうするかであり、水辺に連れていくことではないと思っています。そういうのをパター ナリズム(家父長主義・父権主義)と称し、簡単に言えば余計なお世話なのです。水辺に連れていった馬が 足を踏み外して池に落ちて溺れたら責任を問われるからと、それを防ぐ為に池の周りに柵を設けるといった 本末転倒にも繋がっていきます。自ら水辺に行って水を飲もうとしている馬も自由に水を飲めなくなるかもし れません。農業でも医療でも、又、その他の規制分野でも、このような事例は探せばいくらでもあります。 ミクロで正しいことも、総和であるマクロでは正しくなくなる、というのを「合成の誤謬」といいます。極論す れば、長期に亘るデフレ経済も、又、巨額な財政赤字も、このパターナリズムの濫用による「合成の誤謬」の 結果ではないかとさえ思えるのです。第二次安倍政権で久しぶりに復活した規制改革会議の目的は、こうし たパターナリズムの排除と、民間開放政策の推進です。それは、パターナリズムになりがちな省庁ベースで の縦串議論ではなく、行政の長たる首相権限に裏付けられた横串での議論とその実行に掛かっています。 安倍首相は今般の選挙で盤石なる権限を国民から与えられ、自民・民主六代に亘っての短期政権で成し得 なかった構造改革を託されたのですから、是非頑張ってもらいたいものです。 ところで、今年の資本市場についてです。「相場は相場に聞け」としか言えませんが、ただ、いずれ到来す るであろうインフレについてだけ触れたいと思います。 何故、これまで「貯蓄から投資へ」というスローガンが功を奏しなかったのでしょうか?答えは簡単で、リス クを取ってまでして運用する必然性が無かったからです。デフレ経済下で最も有効な運用は現金・預金を保 有することです。現在より将来の貨幣価値が低くならないのですから当たり前です。国の GDP がずっと横ば いだったので大して増えていないとはいえ、個人金融資産残高 1600 兆円というのは膨大な数字です。負債 を差し引いたネットでは少なくなりますが、それでも、国の負債総額に匹敵する額です。その個人金融資産 の殆どが預金や保険などを通じて間接的に国債の引受主体になっています。300 兆円を超える内部留保を 有する企業の多くも、銀行がいくら低い金利を提示しても借りようとはしません。日銀が国債の大量買い入れ などでマネタリーベースを思いっきり拡大しても、市中に出回るマネーはそれほど増えていません。当然、金 利は上がりませんし(12 月 26 日現在、10 年物国債利回りは 0.3%まで低下)、物価も、このところの原油価 格下落などもあって一向に上昇する気配を見せておらず、2%UP の目標達成も心もとない状況になっていま す。 要するに、デフレ状況はまだ終焉していないということです。突破口は馬が自ら水を飲みたくなるような環 境を創ることしかないでしょう。池の水はマネーです。水を飲みたくなる最大の動機は喉が渇くことです。じっ としていても喉は渇きません。馬を走らせ汗をかかせることが何より大事です。馬が走るフィールドを大きくす るのが規制改革(構造改革)です。喉の渇きのバロメータが金利であり物価です。大いに走って水を飲んだ 馬はどんどん元気になることでしょう。個人や企業を馬に例えるのは一寸気が引けますが、適当な比喩が思 い浮かばなかったのでお許しください。 とはいえ、インフレが必ずしも良いとは限りません。皆が働く意欲を無くすデフレも怖いですが、インフレで も、所得増無きインフレ、即ちスタグフレーションはもっと怖いと思います。インフレは目に見えない増税です から、そうなったら、消費税増税など比べ物にならない負担を国民は背負います。格差も尋常じゃないほど 拡大していくでしょう。日本は、海外勢の投資対象から外れ、円の価値は想像を超えて下がり、極東の貧し い国に成り下がります。溜まった池の水が腐って飲めない状態とでもいうのでしょうか。日本人誰もが、そん な光景を望むはずもありません。 「ハイパーインフレになったら国外脱出」というのは解決策にならないと思います。個々人の心の持ち様が 大事になってきます。他力本願の限界を思い知らされた時に、個人の自立心が増し、「他律的より自律的」と いう本来の自由が生まれ、同時に責任も求められるようになるのです。個人や企業の「自由と責任」こそが、 国家の基本だと私は思っています。場所が変わっても精神が変わらなければ何も変わりません。ちょうど 70 年前の全体主義下における「一億総玉砕」など真っ平御免ですが、その時の教訓からすれば、「国に頼る な」ということに尽きます。起きた事象をけっして他人の所為(せい)にせず、自省して努力するというのは、 日本人の優れた国民性だと思います。そして、これこそが大いなる成長の原動力だと私は信じています。 「日本人は世界でも有数の頭脳と、長い歴史と文化に裏付けられた独創性、そして何よりも勤勉性を有し ているのに、何故それ程までに自虐的になるのか理解できない」と海外の人からよく言われます。私は「我慢 強いからだけさ」と答えることにしています。冒頭の The Economist「Japan’s amazing ability to disappoint」 (日本はビックリするくらい落胆させてくれるなあ)を「Japanese amazing disability to be disappointed」(日本人 はビックリするくらい落胆しないなあ)と読み替えるジョークがあったそうですが、私はこれをネガティブにでは なくポジティブに解釈すべきだと思います。落胆しないというのは諦めないと同義です。 お会いしたことはありませんが、松下幸之助翁の「執念なき者は困難から発想する。執念ある者は可能性 から発想する」は至言だと思います。「他律的に生きてどうなるのか?不満だけが残るだけじゃないか。自律 的に生きていこうじゃないか。不安は生じるけど希望は残る」と説いたものと勝手に解釈しています。言うは 易く行うは難し、とはいえ、年の始まりにあたって、この言葉を改めて噛みしめたいと思っています。年頭のご 挨拶なので、具体策については敢えて触れませんでした。今年も昨年と同様に、様々な媒体を通じて意見し ようと思っています。昨年までの分は当社ホームページに色々と載っていますし、Google や Yahoo などで検 索すれば Web を通じて御覧になれます。 今年も「Bon Courage」(仏語:勇気を出して挑戦してみよう・略してボンクラ)で行こうと思いますので、ご支 援のほど、よろしくお願い申し上げます。 最後になりましたが、未の年の皆さまのご多幸をお祈りして、新年のご挨拶とさせていただきます。 平 成 27 年 元 旦 代表取締役社長
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