Title Author(s) Citation Issue Date Type ドイツにおける初期「中世平和運動」 : ハインリッヒ四 世期 土浪, 博 一橋論叢, 92(6): 853-869 1984-12-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/11271 Right Hitotsubashi University Repository 第6号(138) 第92巻 一橘論叢 土 浪 筆者は、中世平和運動全体の本質を歴史的帰鯖から遡 、 、 のであることを最初に断っておく。 ざしたものではなく、いわば暴カの交通整理を試みたも 暴カの全面禁止、すなわち暴カなき平和状態の実現をめ ドィツにおける初期﹁中世平和運動﹂ ーハインリヅヒ四世期1 はじめに 中世平和運動、特にドイツにおけるラント平和運動は、 ツに限ってみても十一世紀から十五世紀にわたるこの運 ーチは、依然として有効であると考える。しかし、ドイ って一挙に解明せんとした近代国家形成論からのアプ回 集中していく過程は、フ呈ーデ︵自力救済︶権を制限. 動が、大空位時代を一つの契機として近代の領邦国家体 ^1︺ 近代国家形成論の視角から理論的位置づけが行なわれて 否定せんとするこの運動と軌を一にし、近代的支配権成 の刑法規定の醤約または立法であり、その目的を治安確 するものではない。平和運動が近代国家形成の原動カと フェーデ権の制限・否定は、規範の定立によって即実現 形成の契機として底流をなしていたとはいえない。また、 制へと姿を変えていく国制全体の中で、絶えず近代国家 という名称から生じうる誤解を防ぐために、この運動が 立として捉えれば当然のことであろう。ただ、平和運動 物理的暴カ行使の独占﹂︶。この運動の具体的内容が一種 ^3︺ ^2︺ 立の契機となる︵ウェーパーのいう﹁国家による正当な きた。国王や諸侯が自立的諸権カを抑えて自らに権カを 博 824 (139) ドイツにおける初期「中他:平和運動」 なるためには、最低限、裁判制度と執行機関の整備・確 立が必要である。これちが平和運動を一つの契機として 進行することはありえても、この国制の動き全体を平和 運動として把握することはできない。したがって、まず 平和運動をその時々の状況の中で位置づけ、残された史 料を手がかりにして平和運動の具体的な姿が明らかにさ れねぱならない。 本稿で扱うハインリッヒ四世期︵一〇五六年−一一〇 六年︶は、十世紀末南フランスで始まった神の平和運動 が初めてドイツに及び、ラント平和運動へと発展してい ったとされる、ドイツ中世平和運動の開始期にあたる。 従来この時期については様々な問題が叙任権闘争という 大きな枠組の中で扱われてきたが、ここでは平和運動と いう角度から光を当ててみたい。そうすることによって、 ﹃邑埣竃Fぎき㎞ぎミ慧ミ・ミ§い盲這ミ︵⋮言g昌 ︵2︶ 堀米庸三﹁中世後期における国家権カの形成﹂﹃史学 Hos︶ω.N00い18σ− 雑誌﹄六二−二︵一九五三︶、同﹁戦争の意味と目的﹂﹃恩 想﹄三五一︵一九五三︶、いずれも同﹃昌ーロッパ中世世 ︵3︶ 平和令の妥当根拠︵O睾冒oq晶﹃冒o︶については本稿 界の構造﹄︵一九七六︶、所収。 では検討しない。とりあえず以下を参照。石川武﹁ドイッ 中世の平和運動における﹃公共性の理念﹄﹂﹃歴史学研究﹄ 一七二、一七三︵一九五四︶。西川洋一﹁十一、十二世紀 ルパ回ヅサの政策を中心として1︵一∼四︶﹂﹃国家学会雑 ドイツ帝国国制に関する一試論ーフリードリヅヒ一世・パ 誌﹄九四−五・六︵一九八一︶、九五−一・二、九・十、 ︵4︶ 事実経過については、主として以下の論文に依拠した。 十一.十二︵一九八二︶、のうち︵四︶の六八頁以下。 る。■−目胆﹃老顯2ρ=oぎユo巨−<.目目則2o庄o自房oすo句ユoー 参考文献は金てここに含まれているので、本稿では省略す ま篶冨ミ晶⋮o日一弐一さミ、翁雨§、、ミ竃ぎ素§×、㌧、一 ^4︶ 平和運動とは一体いかなるものであったのかという問い 、§蔓辻ミ助ミ註§“旬雨亭ぎ§さ吻婁ミ︵ω耐昌饅ユコo日g6ご︶ 既に述べたように 平和運動といっても具体的には一 史料について ω一一小−−−Nω一 . に部分的に答えることになろう。 ︵1︶ −9o=∋Oo昌巨9﹃一b寺卜§ミ︸亀§ξ雨§棄§吹ぎ ︵吋o目目s亀︶ω.二弔雪ζ竃勺ユ&一N膏、g竃房巨δ竃o害: b雨ミ竃ミss∼ミ㎞ミ§ミミミ∼ミ勾ふ§乏§§膏軋§§ss魯 ﹁ξζ一昌まH[琶昌ユ血軋彗身宇言雪σξoまgo筥冨﹃具o− 醐5 ハインリッヒ四世期のpaxの史料 p l)* , rf;'1 1083 F ir / :l 1084 Lp =Fi 5 1085 ?4 :17 p (' l094 p (;:!' if; ) ll03 p ○X xO p / ' 1 105 p ::':/; X 史料なし ○ 史料あり ● 年代の記されている文書史料 ◎ paxの内容記述がある叙述史料 みられる。両者を合計すると十一の勺買が確認され、 ○買文書と同列におきうるような比較的詳しい記述も は、t葦について簡単に述.へただけのものが多いが、 で、この時期のものと考えられる史料は八点ある。後者 令︶文書と叙述史料に隈られる。前者は一種の刑法規定 ^1︶ 連の規範の定立であり、その史料は喀x︵平和・平和 1105 7:/'y ◎○OO◎OOOx 4 :E /L' :/) p 1094 ! :l h ・+ V x●O● xO○●○ l )1' A l093 ?4:1'7 -:/) (v* 7 ll04 - , l082 叙述史料 文書史料 成立地または関係地域 成立年代 第6号(140) 第92巻 一橋論撞 年代順に並べると別表のようになる。 ただし上記八点の文書は、いずれもオリジナルの正式 文書であるという確証はなく、正確な年代が記されてい るのはうち三点にすぎない。他の文書については、年代 のはっきりした史料︵年代記など︶との照合により推定 が行なわれてきたが、未解決の問魑は多い。総じて勺買 関係史料の出現が散発的で、前後の脈絡が不明確である ^2︺ ため、推定が困難になっている。本稿ではこの間題に深 く立入ることはせず、年代については別表に掲げた通り としておく。 ︵1︶ 以下o買という名称をそのまま使用するが、明らか おく。 に平和状態を意味すると考えられる勺買は平和と訳して 芭匡o目oo−凹H﹃Φく何ooUポ筥脾■濤的o帥−串︷自o自×Ho ︵2︶ 例えぱ、>目串Φ旨﹃ダO艮胃毒己o畠蜆膏一芭雫9−葭昌. 岬影〇一〇二冒射§§きき、s吻§忘烹㌧§ミ旬gぎ×−、︵6β︶ 、ラ㎞8−寒㎞はリュヅティヅヒのo凹肖について詳細に考 察しているが、明確な結諭に達していない。 二 平和運動の経過と各勺翼の概略 ドイツにおける最初の勺賢は、ハインリヅヒ四世の 826 (141) ドイツにおける初期「中世平和運動」 承認したとある。規定内容は、いわゆる︵神の︶休戦 内の治安悪化に心を痛め、司教区内の有カ者たちの協カ →︶ を得て渇xを布告したのである。国王、教皇もこれを によれぱ、リュッティヅヒ司教ハインリヅヒは、司教区 で成立した。十三世紀半ぱごろの修遭士アエギディウス イタリァ遠征中の一〇八二年に、リュヅティヅヒ司教区 四月二十日の正式の司教区会議で、様々な議論を経て、 調されており、キリスト教徒たちは﹁静穏と平和につい ^← て全く希望を失っているほどである﹂とある。勺賢は、 よう勧めたものであろう。ここでも司教区内の混乱が強 においても、ケルンの勺買と同様な勺翼を布告する ったことは不明である。おそらく、ミュンスター司教区 述べられていない。 囲はリュッティヅヒ司教区とされているが、有効期間は される他、一偉に被門に処される。この、買の有効範 ら伝えられたのだろう。違反者は、相続財産と封を没収 は、既に神の平和運動が及んでいた隣のランス司教区か どの暴カ行為を禁止する規定1である。このアイデア 節、特定の曜日など︶に限って武器携行や殺人・強盗な 封の没収が定められている︵六条︶。そして、この勺費 は斬首を合む身体刑︵七条︶、自由人に対しては、財産・ れる他︵七、十三、十四、十五条︶、非自由人に対して は、一律に破門、聖務停止といった教会法上の罰が科さ 規定の遵守を宜誓しなかった者や規定の違反者に対して 休戦︵二、三、五条︶を軸に詳紬な規定が並んでいる。 れていない。内容はリュッティッヒの勺買に似ており、 十七条で、有効範囲はケルン司教区、有効期間は明示さ ?︺ ﹁聖職者と俗人の等しい同意を得て﹂成立した。全体は 翌一〇八三年のケルンのo買については、編年誌に の維持は全ての者の義務とされる︵十五条︶。注目すべ ︵茸昌oq里︶1特定の期日︵七旬節、聖霊降臨祭、持降 ﹁神の勺買が成立した﹂と簡単に記されている他、ケル ?︺ 1 ン犬司教ジゲウィンが、自分の大司教区に属するミュン ﹁我々が負う罪過ゆえに常には継続させえない、買を、 きは、規定内容。よりも、規定に対する注釈的部分である。 てある程度回復するために﹂句婁を布告するとか、勺買 ^6︺ 少なくとも何日かの間、我々の権隈に属する限りにおい スター司教のフリードリッヒに宛てた書簡の形式をとっ た文書が残されている。この文書と同内容の手紙が実際 ^3︶ に出されたのか、出されたとすればその目的は何かとい 827 第6号 (142) 一橘諭叢 第92巻 の宜誓︵H昌芭冒曾言目唱ま∪&︶﹂と当初から題されて 言及がない。全十一条から成るこの文書は﹁神の、翼 に対する主人の懲罰︵九条︶、国王・グラーフなどの法 おり、休戦の規定を軸として︵一、十一条︶、家の平和 規定の適用が免除される事例の列挙−非自由人・徒弟 の執行︵十、十一条︶ーとか、裁判権を有する者が不 の遵守が厳命されている︵三、四条︶。殺人や家の平和 侵害を行なった者は一偉死刑で、犯人の身分が考慮され 正を行なってはならないのは﹁己れの魂の耐え難い︵ほ ^7︶ ど厳しい︶裁きを受けるからである﹂、さらには、﹁この ない点、当時としては異例である︵二、三条︶。休戦期 一〇八五年マインツで皇帝派︵ハインリッヒの皇帝戴 ある。 事実とすれぱ両者を拘東したのはどの勺婁かは不明で 回避されたことを伝える史料がある。これが事実か否か ︵11︶ の勺買の宣誓ゆえにハインリヅヒとヘルマンの衝突が のであることから、史料にあるようにドイツ全体に拡大 .したとは考えられないが、翌年、復活祭を前にして、神 約東されている︵十一条︶。この勺買が反国王派のも 間中に武器を携行しないことは、司教たちの手にかけて 勺買は人間に対してではなく、神のみに対して約東さ らない旨、全ての信者は心しておくがよい﹂といった記 れたのであり、それだけにしっかりと忠実に守らねばな ^8︺ 述が 注 意 を ひ く 。 以上二つの勺婁は、いずれもハインリッヒ四世に任 命された国王側の司教が中心となって成立したが、続い て反国王側のo翼が登場する。 一〇八四年﹁国王ヘルマンはザクセン︵ゴスラール︶ で復活祭を祝い、そこでまた教皇に忠実な者たちの間で 冠は前年︶の教会会議が開かれた。ハインリツヒが擁立 したローマ教皇クレメンス三世の特使が臨席する場で、 大きな休戦が実現された。それは以後時を経ずしてドイ ^9︺ ツ人の国のほとんど全体で確認された﹂とベルノルトが 反皇帝派の司教は免職され、他の反抗者に対しては破門 ︸婁が定められた。﹂この時のものとされる勺婁文書 一u一 一B一 が宣告された。﹁この場で、皆の同意と助言により神の 伝えている。ヘルマンは、一〇八一年に反国王派によっ った者は、反国王派の聖職者と諸侯であろう。ゴスラー てたてられた対立国王である。したがって、ここに集ま ルのものと考えられる勺婁文響には、年代・地域への ^㎜︺ 828 (ユ43) ドイツにおける初期「中世平和運動」 う年代が記されている。規定総数は十七条のままだが、 は、ケルンのものとぽとんど同内容で、一〇八五年とい 全体として表現が簡略化されており、ケルンの勺翼の 注釈的部分が大幅に省かれている。内容上の主たる相違 は、有効範囲に関する﹁我々の司教区内で﹂という文言 が削られていること︵四、十三条︶、ケルンの勺賢に はない、商人、農民、婦人、聖職者に対する永久のo翼 の保証があることである︵十六条︶。こうした、特定の 人物に対する勺理一︵狭義の勺費︶は、休戦と並んで神の 平和の特徴とされるが、ドイツ地域ではこれが最初のも のである。この会議には、前述のリユヅティッヒ司教、 ケルン大司教を含む大半の帝国司教が出席してお兎、ケ ルンの勺曽一の内容を一般化して帝国全体に対して布告 の と も 考 え ら ^ し た も れb る︶ が、有効範囲について史料は何 も述べていない。 その後約十年を経た一〇九三年、ハインリソヒに背い た長子コンラートと南ドイツの︵o茅邑彗汰9︶反皇帝 派が手を結ぴ、皇帝は、イタリァで窮地に立たされる。 ペルノルトが伝える同年のウルムの大集会には、反皇帝 派の有カ者であるシュヴアーベン太公ベルトルト、パイ エルン太公ブェル7、ベルトルトの兄弟で、コンスタン らにシュヴアーベンの有力者たちが加わって、二年間の ツ司教兼教皇特使のゲープハルトが出席してい越。これ 勺固、が宣誓された。その対象は、聖職者、教会、商人、 勺凹メを宣誓する者全てで、集会後、出席者は、自分の領 内の者に対しても宣誓を求めた。ただし、保護される聖 職者には﹁カトリヅクの︵o里ま昌o畠︶﹂、つまり教皇派 の、という限定がついており、﹁コンスタンツ教会の纂 奪者アルノルーと彼を保謹する者は除外蓑﹂と明言さ れている。アルノルトは皇帝が任命したコンスタンツ司 教であるから、この勺買の保謹の対象から皇帝派の人 間は全て除外されることになる。この℃買は、イタリ ァをめぐる政治的緊張の中で、反皇帝派の勢カ結集の意 味をもっていたことは明らかである。 翌一〇九四年、太公ヴェルフは、先の勺翼をバイエ ルン、さらにはハンガリーまで拡大し、東フランケンや 一ルザスもこれにならつた、とベルノルトが伝えてい一苧 ユヴアーベンにおいて最も効果を発揮したとして・太公 そして、太公ベルトルトの尽力により、この勺翼がシ を賞賛している。ここで言及されたバイエルンとエルザ 一橋論叢 第92巻 第6号 (144) 一20︶ 、 スのo買文書も残っている。前者は七条から成り 年 代や成立地は記されていないが、バイエルンのものとす れぱ、有効期間が二年とあることから︵一条︶、ウルム の勺翼と時期的に一致する。有効範囲は明記されてい ないが、ベルノ〃トによれぱ、バイエルン︵国因一。里、一四︶ である。ここでも狭義の勺買は、教会、聖職者、商人 のみならず、過去・現在・未来にわたる宣誓者全員に対 して保証されているが、﹁我々の冨oo昌冒の外へ馬を売 る商人は牝一とある・一方、一ルザスの零は、一 ルザスの者たちが、当地の有カ者たちと共に、自分たち の同郷人︵8昌肩oま冨邑窪︶の布告に従って宣誓したも のである︵一条︶。全体は十四条で、狭義の巾、戻と休戦 を含んでいる。有効範囲は零巨簑︵六条︶と表現されて いるエルザスであろう。期限について明示はない。宣誓 は厳しく義務づけられており、違反者は追放される︵十 一条︶。さらに若者の宣誓も重視され、﹁若けれぱ若いほ ^22︶ どことを疎かにしがちだからである﹂とある。最終条は、 毎週日曜日に勺買について説教をし、毎週水曜日の日 没時には、鐘を鳴らして神の勺翼︵ここでは水曜日没 時から月曜日の出までの休戦期間をさす︶の到来を告げ 轟︺ ることを聖職者の義務としている。ウルムとバイエルン の巾費は反皇帝派の勺賢であるが、エルザスの勺芭■ には皇帝を尊重する規定がみられる︵二、八条︶。 一一〇三年のマインツの宮廷会議では、四年間の勺曽宍 が布告された。この時、ハインリツヒがザクセンと和解 した㌧肥、聖地巡礼の意図を明らかにしたことなども伝 ええ苧﹃皇帝一インリヅヒ四撲﹄によれぱ、・かく して︵n長子コンラートの敗北︶至る所に平和と平穏が 訪れ、︵ハインリツヒは︶諸侯を宮廷会議に召集し、王 じてくる悪事を抑えるため、違反者に対して厳罰を定め 国全体にわたる勺買を宣誓によつて確認させ、今後生 た。まことにこ二臼嵩は、弱き者や心正し毒には益 と な り 、 心 悪 し き 者 や 強 き 者 に は 妨 げ と な っ た 。 ^L 〃こ ︺の 勺翼の正確な内容は不明だが、その概略を伝える文書に よると・大司教や司教、グラーフ、マルクグラーフの他、 既にハインリッヒと和解していたバイエルン太公ヴエル フ、太公ベルトルトやシュヴァーペン太公フリードリ 一鴉一 ツ ヒ・王の息子ハインリツヒ五世らもその場にいた。この 勺賢では、ユダヤ人が初めて狭義のo簑、の対象とされ た。平和運動は一般にフェーデ対策といわれるが、ここ 830 (145) ドイツにおける初期「中世平和運動」 れている。 ︵33︺ フリードリヅヒとグラーフたち、さらにアウクスブルク 気︶ 攻撃してもよいが、相手が誰かの家や宅地に逃げこんだ 菊︶ ら、傷つけずに留まらせよ﹂と述べ、華実上フェーデを では﹁もし汝が適で汝の敵と遭遇し、攻撃できる場合は 公認している。前述の﹃皇帝伝﹄は、この勺翼により を宣誓したことを伝えている。規定は十条から成り、期 司教、アイヒシュテヅト司教と両者に従う者たちが勺翼 文言と相応じる。ただ、この一時的平和状態は、弓買成 立つが、王の敵にとっては何の役にも立たない﹂という を締めくくる﹁この宣誓は王の友にとっては盾として役 そそのかしたのだ、と説明している。これは、勺買文菩 不満が昂じて、ハインリヅヒ五世に父親に反抗するよう している。フリードリヅヒがマインツの勺顯■を宣誓し 七、八、九条でマインツの勺賢の内容をほぼ言い尽く 体として前年の喀xに非常によく似ており、一、四、 期限.罰則つきで義務づけられている︵五、七条︶。全 間は約一年︵三、五条︶、有効範囲は明記されていない ^珊︶ が、フリードリヅヒの勢カ圏内と考えられる。宣誓は、 翌一一〇四年の勺買の文書は、シュヴァーベン太公 国内に平和が訪れて庶民は喜んだが、悪事を自由に行な 立の場にほとんど全ての国内の有カ者がいたことからみ ていることから、この勺里xは、マインツの勺里xを地 ^餉︺ 域レベルで実施しようとしたものと解せるが、その有効 えなくなった者は生計の適を絶たれて貧困に陥り、その ても、単に、費公布によるものというより、むしろ国 期間内︵∼一一〇八年︶に期隈一年が設定されているこ ^31︺ ^ヨo︶ 内の政治的緊張の緩和に負うところが大きいといえよ 別的解決という形ではなく、一般的規範としての勺費 ヒ三世にみられるような、現実に起こっている紛争の個 この程×を国王の政策としてみた場合、ハインリッ ヒ五世を含む教皇︵パスカリスニ世︶派の会議であり、 ルトの主導によりノルトハウゼンで開かれた教会会議で 茅︶ 、翼が布告された。これは前年父親に背いたハインリヅ 一一〇五年には、マインツ大司教と教皇特使ゲープハ とが注意をひく。 の布告によって帝国全体で一挙に平和を実現しようとし 議題は教会の紀律︵聖職売買と聖職者の妻帯︶であった。 ・つo ている点に新しさがあり、最初の帝国立法と位置づけら ^珊︶ 831 一橘論叢 第92巻 第6号 (146) 自らこの会議に出席したエヅケハルトは、単に﹁神の 勺買が確認された﹂と述ぺているだけで、その具体的内 ^祝︺ ^39︺ 容は全くわからない。これを一〇八五年のマインッの 勺婁の承認と推定する説もあるが、確証はない。直前に 教会斎日のことが述べられているので、休戦がその主旨 ではないかと思われる。この後ゲープハルトは、ハイン リツヒ五世に助けられ、対立司教アルノルトを排してコ ^40︺ ンスタンツ司教区へ戻った。そして同年十月、彼は自分 の司教区の教会会議で、もう一人の教皇特使、アルバノ 司教リヒャルトの出席を得て勺買を定めた。文書には ^仙︶ 閉ぎ目 ミo註ミ§§§ oミ§昌ミ8雨 ぎ良oミ§一吻ミ膏、ミε︵ぎ ↓o=o︶︵以下、ωω、︶一××く一ω。o.ol8.この、里■を伝える igぷωω.××メω.一曽があり、内容に若千の稲違があ 別の史料としてo鶉go官蜆8渇昌目■82雪蜆ぎ昌きσ8. ︵2︶、霊■9;暮勢.、書畠童里ω婁9ωω.≦一ω・§・ るが、ここではとりあげない。 ︵3︶ミ§§§§9§§ぎミ・ミ雪9蔓§ぎミ・& §§廿きミ§舳§“ミミミミ§ミ§恥ミ§︵以下、oo冨け︶一2■ ︵4︶、暮冨昌言享富9勺買婁一昌暴冒富肩婁膏、一 ムN占 ωーひ0N1αo㎞一 まご二吻H1 ︵5︶ 、冨冒〇一呂oo;冒旧oモ一〇君・;o88畠害茅9テ冨、一 ︵6︶、暮電8員︷§鶉8き・自。蜆募婁曹目亭畠8目. 旨己j閉r =o⋮冒二膏げざ岸嘗︷良o昌蜆冨o毛o冨冨∋冨、二9o二吻一. ∼一§冨冒目弓g己昌姜一一鼻g邑色岨轟5§2&自叩︷嘗g曽 ^㎎︺ ﹁来たる聖霊降臨祭までo買を行なうこと﹂とあるので、 有効期間は約半年、有効範囲はコンスタンツ司教区と考 置g竃㎜;F毛竃gぎ“o8鶉冨H昌8己8昌旨冨o司昌 冒量旨一g昌買巨鶉g豊く窒彗冨﹃塞〇一鶉旨昌昌電o窒 ︵9︶、匡婁昌竃⋮二巨彗曇雇9竃耐匡・ρ葦冒。ω買. 冨冨9畠串邑嘉ρ暮Oσ岨9く彗夢昌O窃01..ε鼻吻鼻 m&8;U8サ陣目o勺碧o目o﹃o昌げ墨昌旨尿器g蟹鼻o ︵8︶:>二睾§冨二室9墓邑目一蓋名9嚢一目冒ぎ目ぎ一 閉鼻 ︵7︶=一目巨§σ宗彗ぎ爵豊β二目婁冒ぎ買岸..二葦二 えられる。規定は、教会や聖職者に対する狭義のり費 のみで、違反者に対する制裁は聖体拝領の停止に限られ ている。他のo賢には全く見られない規定として、勺費 を遵守した場合の恵み︵祈藤、貧者への施し、悔俊義務 期間の短縮など︶があげられている。最後の両勺費は、 教皇特使の存在からみて、教皇派の勢カ結集の意味もも っていたと考えられよう。 ︵1︶ >晶曇一>膏墨2豊8m︷咀o司鶉冨血旦岬8尼:昌ζo2昌、 832 目O目昌自斥OOogoO目饒H目與庁凹血蜆自目け二 ωo﹃目O−匹− Oチ﹃o自庁O曽 ωω.<一〇〇.宝o. * 編者ペルツは、ゴスラールとしている。Hσ己二>■昌・ αoo. ︵11︶>昌算鼠ω姜9男<卜ω﹂Nγ§. ︵10︶o婁叶.卜ξ豪一ω1§1§‘ ︵12︶=冒警彗8昌昌邑8曇自署葺畠§隻。8鼻一− <一ω﹂818ひー 葦與。餉ζ婁U。︹、、黒葦串邑9§ぎ目豪一⋮邑9ωω1 ︵13︶O旨餉けトξ婁一ω.§−§. ︵14︶9暑5寿壱;昌昏昌彗ζ邑ぎ婁ミ雲bミ㎞きs ︵■。号、荷−oo8158︶︵以下、﹄一︺σ.︶Lく一ω、ご戸s一﹄o器︷ ぎ§葛§ミ隻軋ミ§ミ.§軋き“ミ§、二N塁。1 ヨ何。斥。目蜆け。一目一霊胃事H<.冒=胃宣ぎ茅向冨喜臼一 、目︷。目ぎ塵自。日。冒象−自義睾婁幕ま・−里昌墨冨。・彗 、g、ささ、9、軋§§ぎ二睾一σ奏・婁雪由蓋二嚢︶ 勺﹃Oσ−o目−饅巨片くo目ミoコ昌yHユぴ自H自目OOP目omm寧 ⋮5⋮、雨邑− ωIN富1 ︵∬︶ ξp昌ρ凹.PO二ω.−革oo. ︵16︶ 市o昌o曇O言o己o昌一ωω。<一ω・企零。この時、ヴユル フもベルトルトもハインリヅヒが認める太公ではなかった。 また、コンスタンツ司教についても二重佳命が行なわれて いた。 ︵17︶ :¢共ooo叶o >﹃目o−oo −目く豊o﹃o Oo■9顯冒匡血目色蜆 陣oo−o餉ポ血 ︵18︶旨σ−Hメω.おo. 卑旨肇瘍き蜆雪葦5自眈、二竃1 ︵19︶津・9曇9旨ま昌一ωωーメω1婁1 ︵20︶ バイエルンについては、Oo目黒、−一2﹃・忘“ω一So− 9〇一エルザスについては、oo目餉け戸乞﹃・︷吋“ω、ひ;−9ω。 明となっている。<o日F宛目ρo罵oo8斥∫b膏﹂§§き、 本稿で扱った旧賢文書の中で、後者の原本だけは行方不 卜、ミ§一雨§竃ミ§§ミ§b§奪§ミ︵b萎監昌一 ︵21︶、婁量ニダ宣︷畠⑭箒竃晶≡昌旨弩彗曇. 畠ヨ︶ω−負ぎ昌﹂. 旦冒叶..一〇〇目9.一Z﹃.阜N“吻−。ここでいう5oq目自昌は、 パイエルン太公領をさす。<oq−.ω.雪o冨σo掃−句墨目訂−一曼Φ 、。、、g§軸雨ニミ§ぎぎo§ぎ¥ミω︵§ω︶ω.妄角 津聾g3豪眈−昌o5邑童&昌ぎ黒募。巨一彗g巨 ︵22︶..音二轟暮巨§二顯目8畠。・膏昌。曇、一〇。鼻 ︵刎︶ 同条で一冨及されている教皇レオ︵九世、在位一〇四八 H一琴−志〇一㎝ζ ○翼の成立を十一世紀半ぱとする説もある。く晒一。■昌一g −一〇五四年と考えられる︶の裁可から判断して、この 望ま、一勺・窒目亘婁ミト§、き一ζ膏畠一§ぎ︵O。一− − ‘ ωま3霊喜に。⋮αo實Ω葦芝ユ&巴目里㎜婁巨■ ︵24︶>、、象ぎ。・童員ωω.昌一ωL竺ω専﹃貫;ぎ1 昌胃岩8︶ωLミー−8 身♪ωω.≦一ω1山第 833 ドイツにおける初期「中世平和運動」 (147) 橋論鐘 第92巻 第6号 (148) ︵η︶ 向片斥oゴ酉﹃O−Oす﹃O■庁o曽d目−くo﹃眈巴〇一ωoO−<一〇〇・NMN・ ︵36︶ミきρ唐−顯1◎’ω.冨α1 ︵38︶..9弓婁忌;昌胃蔓暮、二巨P ︵妬︶旨σ.メω−量R ︵26︶..−。・香;;葺;召簑二・彗言⋮器婁呉。昌§彗咀 畠簑︶ω.NN.これらはいずれも明確な根拠をあげていない。 ぎ。目童匿目邑さ員婁。§ぎ雲o§等ミ§・︵5勺、耐 ︵39︶ 薫葭邑“凹一PO’ω.H㎞ジOo﹃目ま自σo、一里・酉・O二ω・↑ナ 邑。邑竃旦竃事毒;簑8暮層葦冒星昌昌彗σ 一膏葭冒昌8津昌邑ぎ岸〇一&ぎ巨σ竃註目巴♪o冨o ま冨昇。司妻竃雲墨己昌§;。・嚢8嚢雪毫一戸曾a 言忌冒層ζ弩音貝ρ喜庁⋮目ぎ、ぎ;昌ξ8巨戸 ︵牡︶ oo自閉け.卜2’阜ωゴω一α一ω1α一α・ ︵40︶ −︺σ一く一ω.N一〇〇一 ープに整理している。すなわち、リュヅティヅヒ、ケル 囲を規準にして区別し、以上十一の勺買を四つのグル ^1︺ 定の内容ではなく、イニシャチヴをとつ.た人間と有効範 エルマー・ヴァドレは、神の平和とラント平和を、規 三 中世平和運動と勺婁 ︵42︶..冒ζ§目冨一畠ぎ渇■奪。箒二§曇二一一茎・ 曹旨昌員奉昏g呈。目亭畠曇蔓.、くま罵一目ま;く・ ︵27︶O。冨什.一尋 . N ♪ ω ’ § 1 曽 ひ ・ ぎ勺竃a鼻ωω.曽一ωーミN・ ︵28︶ 教皇派によってシュヴァーペン太公とされていたペル トルトは、ハインリヅヒの娘婿であるフリードリヅヒの太 公位を認めたが、ρ衰の称号を保持することを認められ ていた。<oqF﹄σσ.く一ω1Nω︷. ︵29︶、ω二:一二§暮鼻亭二目一葦冨喜閉一餉︷婁ζ旨 冒。竃−§童蜆;毫・一二目旨目冒邑ぎ書斤彗嘗. ン、ゴスラール、マインツ︵一〇八五年︶の各勺買が ○己冨⋮鶉冨昌嘗窒け二〇昌叩け﹂一2﹃−ベナ㎝−鴬ひ. ︵31︶、ま二冨⋮ま書暮;昌包、亀二、。餉昌亘巨. ︵30︶≦冨墨胃ざ;く二ξ§8量ωω.×月。。・ミ︷・ 第一グループであり、教権のイニシャチヴで成立し、司 たとえ帝国金体を対象としていたにせよ、基礎となる単 教区に及んだものと評価できる。マインツの勺顯宍も、 ︵2︶ は、集会に出席した司教たちを通じて、初めて複数の司 教区を単位とする紳の平和とする。ゴスラールの勺賢 目庁o唖くo﹃o目oρ一−pρ自印買−勺﹃oOo閉け二〇〇旨覗け一Z﹃.Nナω・一Nひ・ ︵32︶ 名閏巳ρ與一里.O二〇〇一ごoo角一Ω耐﹃己旨げo♪串串O二㎝・ N㎞1卓o− ︵33︶奏凹夢二墓1㌃1毫一9・き自琴二茎;ω﹄H・ ︵34︶O昌閉叶.一ξむ〇一ωーひ冨19㎞・ ︵∬︶ 西川洋一前掘論文︵三︶九七員、注︵32︶参照。 834 (149) ドイツにおける初期「中世平和運動」 第ニグループをなす、ウルム、バイエルン、エルザスの 位は、出席した各司教の司教区であろう。これに対し、 ドイツ中世平和運動が、ある程度の振幅を舎みつつも、 以上のヴァドレの説明は、リュヅティッヒに始まった かのような印象を与える。しかし、相互連関があるはず 順調に展開して一一〇三年の喝xで一定の完成をみた の各勺買の規定の中で、他の喝xに明示的に言及し 勺貫は、聖職者の影響が認められないわけではないが、・ パイエルン、エルザスといった部族領域を対象とする都 イニシャチヴは世俗の有カ者にあり、シュヴァーベン、 ある。逆に一一〇三年の勺買は、その成立に際し、ハ バイエルン、ノルトハウぜン、コンスタンツの勺曽■で をみると、明らかに敵対的なのは、ゴスラール、ウルム、 うことになる。さらに、各勺翼とハインリッヒの関係 ンスタンツの勺買は第一グループの延長上にあるとい グループの延長上、第四グループのノルトハウゼン、コ 三年︶のo翼と翌年のフリードリヅヒの勺買で、第ニ ?︺ 動の転換点をなす。第三グループは、マィンツ︵一一〇 い。ウルムとバイエルンの勺買には、太公ヴェルフが 教区に対して一字一句繰り返すという点で他に例をみな は、もともとケルン司教区を対象とする規定を、他の司 は人的︶つながりがある。一〇八五年のマインツの勺買 類似、両司教区の関係から、両者の間に︵場合によって まず、リュヅティヅヒと。ケルンの勺婁は、内容上の ようo 各勺賢の相互関係に注意しつつ、経過を再点検してみ ﹁運動﹂という名称と矛盾するのではないか。そこで、 ?︶ ているものはないという事実は、連続性を前提とすゐ インリヅヒが唯一積極的に関与したものである。これ雀 族ニフント平和︵ω試∋昌鶉J■彗黛まま︶であり、平和運 要するに、平和運動は、対立する諸勢カの角逐の卒で、。 関与しており、年代記作者のベルノルトは、東フランケ ^6︶ ンやエルザスのものも含めて一連の動きと解している。 様々な権力に担われつつも、全体として教権から俗権へ の勺貫、は、偲ぼ同内容で、太公フリードリヅ。ヒは両者 一一〇三年のマインツの勺買と翌年のフリードリヅヒ 国と国王を担い手とする一連の妃費の布石となった、 を宣誓している。ただ、一〇八五年の勺費を知ってい と重点が移動し、一一〇三年の勺買こそは、以後の帝 といえよう。 I I ^4︶ 835 第6号 (150) 第92巻 一橋論叢 ていたから問題はない。これに対し、フリードリッヒの トやヴェルフの旧翼は既に期限︵一〇九六年︶が切れ 考えていたのかはわからない。その意味では、ペルトル に?︶司教区に出入りする者とその荷物も保護される。 が含まれる。その他に、祝祭日に︵開かれる市のため を有効範囲とすることから、対象として司教区民全員 まず、リュッティヅヒの場合、ケルンと同様、司教区 るo 勺買は、マインツの勺買の有効期間に含まれる。ノル 有効期間は、史料に限定がないからといって永久とは考 るハインリッヒが、一一〇三年の勺買との関係をどう トハウぜンとコンスタンツの唱xは、教皇特使ゲープ えられない。というのは、このo翼は、治安改善策で ^9︶ あり、﹁何らかの法を定め、それに対する恐れによって﹂ ハルトの関与という点で、ウルムの勺翼とも共通する。 ゲープハルトは、三者の関係を明瞭に意識していたに違 目的を果たそうとしたものであって、まずは一時的措置 と考えられるからである。恐れられるほどの厳楮さは、 いない。彼は、教皇派のプロバガンディストである一方、 ^7︶ 平和運動の拡大にも貢献していたといえよう。以上全体 門にあったと考えられる。 武器携行禁止を中心とする休戦規定の違反者に対する破 ^10︶ ルの勺翼を除くと︶、一定の人的、または内容上のつな ケルンの勺買は、、翼の考え方を知る上で最も重要 としては、時間的に近接する勺買の間には︵ゴスラー がりがあり、連続性が認められる。 な史料である。ここでは、、費を継続させることは困難 であり、しかも教会のなしうることは限られているとい では、これらの勺買はどのような性樒をもってい各 のだろうか。電xは一種の刑法規定であるから、当然違 う現実的認識が前提となウている。それゆえにこそ、休 ^11︶ 戦規定の意義と既存の法が強調されるのであり、これは 反に対する処罰が定められている。しかし、弓翼の実効 については、平和が訪れたといった一般的な記述がある 勺翼の特殊性を証明している。すなわち、休戦期間の終 て有効であるといった指摘があり︵十二条︶、﹁我々の時 ^12︶ 了は暴カ行為の許可を意味しない、既存の法は依然とし だけで、執行の実態に関する史料がない。そこで、視点 ^8︶ を変えて、寒xの及ぷ人、地域、時期に注意して、例外 規定や慨存の規範との関係にかかわる部分を検討してみ 836 (151) ドイツにおける初期「中世平和運動」 代においてのみならず、永久に我々の子孫によって ︵勺単嵩が︶守られるべくL将来の勺買違反者に対する ^ H ︶ 破門があらかじめ定められているのである︵十四、十五 は、破門の旨記した書状が送られる︵七条︶。だが、破 条︶。そして、破門の徹底のために、逃亡犯の所在地に 門以外の処罰規定が永久に効カをもつとは明言されてい ない。それは、むしろ、勺買の成立に関与した当事者た ちが、勺買の効力に不安を感じていたことを示すのでは ないか。この勺費の有効範囲は、休戦期間中、﹁この 勺閏宍が効カをもたない所へ行く必要がある場合には武器 携行が許されるが、攻撃を受けて自衛しなけれぱならな い場合を除いて誰にも害を与えないこと﹂という規定か ^14︺ らもケルン司教区に隈定されることが読みとれるが、こ の規定の後半部分は、いわぱ個人に対する倫理的命令の ^ ど 域にとどまる。また、先にあげた免除規定からみて、こ の喀xは、金ての暴カを一律に規制しようとするもの ではないこと、勺買規定の適用を免除される暴カ行為と 一般の暴カ犯罪行為とを一括するカテゴリーがあったこ と!それゆえ前者を例外としている1がわかる。 ゴスラールの勺買については、家の平和の避守や対 れていること、マインツの勺費については、唐突に挿 外防衛を含む喝芹まの秩序維持義務︵六条︶が厳命さ 入された感のある狭義の勺翼︵十六条︶の侵害に対して 特別な処罰が定められていないことが注目される。 はカノン法の定めるところに従って、太公ベルトルトと ウルムの勺閏■は、﹁皆が、コンスタンツ司教に対して .ラ た 対 は ー ・ ア ノ ム ^些 ク ー フ ち に し て 、 レ ク ス レ マ ー ル に ^〃︶ 従って服従することが定められた﹂上での規定である。 つまり、当事者の考える既存の法秩序が再確認された後、 狭義の勺買が宣誓者を含む特定の人間に対して保証さ れたわけである。したがって、勺翼文書が残っていない の は 、 規 定 が 他 に な か ウ た こ と に よ る と も 考 え ら ^れ ㎎る ︶。 また、皇帝派の人間は全て狭義の潟xの対象から除外 されていることから、明白な戦闘的性格が感じられる。 パイエルンの場含も、狭義の勺婁が宣誓者全体に及 んでいる。エルザスでは、宣誓者は狭義の勺買には含 まれていないが、一定の保謹を受ける︵三、五条︶。国 王の敵に対しては、休戦期間中も武器携行が許され︵二 条︶、皇帝の遠征や勺翼の執行の際には、糧秣確保のた めの特別な配慮がある︵八条︶。また、相続財産や封に 一橋論叢 第92巻 第6号 (152) 関 す る法的関係は、こ の 勺 婁 の 布 告 に よ っ て 影 響 を 受 けないとされている︵十条︶。 一一〇三年のマインツの℃買は、宮廷会議での宣誓 者を通じて帝国全体に及んだものと考えられる。ここで も狭義の勺買は宜誓者を含んでいない。それどころか、 消極的とはいえ、フェーデを公認している。続くフリー ドリッヒの勺貫においても、狭義の勺婁は宣誓者を 含んでいない。違反者が逃走して巾凹〆の期限切れを待 っても、戻ってきたら当初の刑が科されるという規定 ︵六条︶は、一年間という短い有効期間を老えてのもの であろ う 。 最後に、世俗法上の処罰規定が全くない、コンスタン ツの勺費は、この段階で司教が教会会議において勺婁 ︵休戦や有効期間の設定︶と狭義の妃買を軸に、既存の 法秩序に属する規定をも列挙し、それら全体の連守が宣 誓される。こうして、比較的広い範囲に及ぷ、あえてい えぱ領域的な規範の定立が行なわれるようになった。こ のような勺婁の定立の動きが、直接には人的要素を媒 介として時間的に連続していくのが平和運動である。 ︵2︶向巨1ωL歩 ︵1︶ξ景牢甲O二ω1委㌧⋮.貝ω・曇㌧、旨・ξ ︵4︶ 丙σQ.ω.一ご一〇宵ヨ巨一︺o♪買賞・o二uo・o〇一・ ︵3︶畠PωL8− ︵5︶ ケルンの勺婁の十七条にみられる、婁の解釈につ ︵6︶ 二節の注︵19︶参照。 いては、後の注︵12︶参照。 ︵7︶ だからといって、コンスタンツの弓目宍がウルムの勺臼■ ○庁昌 ωo旨毫き昌一旨一N恥辻︸oミsさ﹃ ミ忠ミ膏§冨売軋竃ぎ ρ實勺﹃o巨o;Φog■與自鼻﹃ポ急鶉岨o巨暮昆m−昌昌岸庁血厨−註き. の更新であるとは考えられない。くoqF穴胃−oo庁o目ヨ&巾再. ト§き売竃oぎ§註≧、.ω︵ss︶uo・讐・ のために自カでなしうることの眼界を物語っているとい えよう。 ,・・ ︵8︶ 例えぱ一〇九三年のウルムの寝共について﹁アレマ 勺婁に含まれる規定が既存の法と衝突するかどうかは ニア︵シュヴァーベン︶とその他の地域に平和がもたら される︵、と彗彗旨竺茎暮勺⋮茎竃喀ま§⋮・・、 簡単に判断できない。だが、全体としてこの時期の平和 運動の喝一は、既存の法秩序を前提とした暫定的性楕 ぎ毒一鶉ぎ。・曇負ωω−貝ω.曇.︶﹂とか、二〇三年 のマインッの勺貫に関する﹃皇帝伝﹄の記述など。 のものであり、少なくともそれにとってかわろうとした ものではない。新しい要素として登場した時間的隈定 838 (153) ドイツにおける初期「中世平和運動」 ︵9︶..岳§與一吾彗唱冨暮算一邑易巨9篶、㌻遇豊−− ︵10︶ 休戦の対象となる目数は、 一年の六割以上にも及ぷ。 oq8so且m8電;昌■8〇一彗色昌自一ωω1××メω.81 ︵18︶ 本節の注︵7︶参照。 ハインリッヒ四世期に平和運動をひきおこした原因と おわりに ︵12︶ ﹁辻強盗や強盗は、この神の勺買によっても、そもそ して、不安定な政治状況があげられる。これは単なる勢 ︵11︶ 二節の注︵6︶参照叫 goq量m墨8﹃鶉豊チき艘くヲ顯g︸σo昌己召o易畠勺曽o も全ての勺印共によっても認められていない︵、召&黒o竃蜆 おそらく偶然ではない。それはまた、対内平和・対外戦 けが、宣誓者全体を狭義の喀xの対象としているのは、 も高まった時に成立したウルムとバイエルンの勺費だ 整理を行なおうとしたものにすぎない。政治的緊張が最 面禁止をめざすものではなく、せいぜい暴カ行為の交通 中で、勺翼が登場したのである。それは、暴カ行為の全 数の存在が許されない排他的地位をめぐる熾烈な争いの も二人、太公も二人!﹂と述べている。このような、複 ^1︺ うに、我々は皆二重だ。教皇も二人、司教も二人、国王 状態の何とあわれなることか! ある喜劇作者の言うよ る。この状況について当時の編年誌は、﹁おお、帝国の 対立太公、対立司教と続き、対立教会会議さえ考えられ 教皇は対立教皇を呼び、国王は対立国王を呼ぷ。さらに、 って、全体の構図が二つの党派の対決に支配されている。 カ争いではなく、頂点における教皇と皇帝の対立に始ま 買o︷冒2﹃、一〇〇畠叶−卜乞﹃1竃ナω冒.︶にいう後者の勺婁 は、平和運動の、婁、例えばリュッティヅヒの勺賀など を意味しているのではなく、文脈からみて、既存の法秩序 ︵13︶ :旦昌目8巨昌昌9o昌9ユm8ヨ唱ユ巨閉餉&ぎ福﹁ を意味すると解される。 勺g昌昌陣、=αo易8昌ω目o蜆言島oσ竃;g⋮:二巨p吻軍. ︵14︶ .¢昌8鶉器旨o﹃岸豊o自−::−要ぎま冒蜆言oo官蜆8− 勺閏巨ヲ良=昌自o冒華凹o與■目o目冨冨εH一胃昌四守量戸岸凹 H巨α二㈹キ 憂冒g篶豊o邑自g墨戸目げ二目勺品烏g一暮器まhgq凹戸.. ︵∬︶ 二節のケルンの勺異の部分参照。 ︵16︶ 原文のレークス・アレマノールムが、フランク時代の 部族法典を意味するの・かどうかはわからない。 ︵〃︶ 、暮o昌津曽邑9&o官眈8ooo冒邑昌o9蜆器昌邑冒昌 卑宵εけ凹o凹■o昌﹄昌 oσo2晶巨胃 g自斤 o自9 bo具−量δog ε﹃二一ωo⋮o巨一Ω一﹃9二8目一ωω.<一ω.まN一 8目三σ畠肋8冒o昌自一晶耐目≧“昌彗昌⋮冒oσ蜆8冒ま葛− 839 第6号 (154) 第92巻 一橋論叢 争という十字軍の理念にも相通ずる。弓費は、フ一の世 界のあるべき秩序Lをめぐる争いの中にぴったりと組み こまれて、対内平和を威圧的に実現しつつも、排他的性 かかる、買をめぐる人々の動きであり、かかる勺婁を 格を強めていく。ハインリヅヒ四世期の平和運動とは、 ^2︺ ︵1︶ 、O昌尿o﹃里■o芭冨oq昌澤9o蜆一9o算ぎo自oo芭冒oo昌ざo 担う人々の動きであった。 ○冒罵岬豊目冨oq耐冒−−峯巨一晶岸⋮一潟電oqo昌−量戸勺o鼻旨o鶉 ooo冒ぎg一H晶鶉零昌一量け一旨og竃算o司伺昌−量巨、>目目巴鶉 ︵2︶ 本稿で扱わなかった勺買の法的性格、特に妥当根拠 >品冨一彗一ωω−胃一ω.ごol の間題は、規範定立の前提となる規範対象の法的構造の問 権、さらには身分制的国制と平和運動がいかなる関係にあ 題と不可分の関係にある。この点については、領域的支配 うたかという形で、今後の検討課題としたい。 ︵一橋大挙犬学院博士課程︶ 8勿
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