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カントにおけるシステムの統一と弁証論
竹内, 章郎
一橋論叢, 91(2): 223-241
1984-02-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/11362
Right
Hitotsubashi University Repository
(73) カントにおけるシステムの統一と弁証論
カントにおけるシステムの統一と弁証論
竹 内
章 郎
理性の本質と分離しがたく緒ぴついているL︵国Sω︶等
と述べる時、そこには、哲学体系の統一等と密接に関連
しつつも、これらとは区別されて独自に問われるべきカ
はじめに
カント哲学に関してシステムの統一という事柄を議諭
論哲学においてであれ、実践哲学においてであれ、およ
ントの主張が孕まれているように恩われる。それは、理
の姐上に載せた場合、一般的に想起されることは、理論
^1︶
哲学としての﹃純粋理性批判﹄︹以下﹃第一批判﹄︺と実
が﹃判断カ批判﹄を介して体系的に統一されるという哲
あり、またこの論理は、その本性に従えば弁証論的仮象
は、特有の、しかしまた共通の論理があるとするま張で
そシステムないしシステムの統一が立論されるところに
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
学体系の統一のことであり、また、理論理性と実践理性
や弁証論的詐取に陥りかねない︵くoq−.く−竃目、眈.手︶我
践哲学としての﹃実践理性批判﹄︹以下﹃第二批判﹄︺と
との体系的統一ということであろう。しかし、カントが
我人間の理論的かつ実践的な﹁同一の理性﹂︵く胃O。︶と
端的に言えば、カントにあっては、システムないしシ
相即的に捉えられねぱならないとする主張である。
﹃第一批判﹄の超越論的弁証論を総括するある節で、﹁理
、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
性の︹による︺統一はシステムの統一2①目巨一筆ま叩
OO壱冨ヨωである﹂︵︸N冨︶とか、﹁最大の体系的統一
ステムの統一の論理は、理論哲挙においても実践哲掌に
^2︶ 、 、 、 、 、 、 、 、
豊oo目Hg註︷ωぎ昌きωoヴ㊦嘗ま集という理念は我々の
223
一橘諭叢 第91巻 第2号 (74)
おいても弁証論皇里至︷2・という構想の下にのみあり、
アウフガーベ ゼツノェノ
条件者︺としての純粋理性概念︹超越論的理念︺を自ら
、 、 、 、 、
しかもこのことがシステムの統一性とその構成員の多様
の必然的課 題として定立し、これによって現象認識
、 、 、 、 、
を体系.的な統一の下にもたらそうとする︵くo目一・国
’ステ守ーテイツノユ
って、第三章純粋理性の理想における超越論的理念のみ
讐貫二田so饒二︸きご、自■岨、宍︶﹀、という点である。従
性との関連を特有なものたらしめているのである。付言
し金体性や普遍性を示す領野において容易に成立しうる
ならず、先行の二章、つまり第一章純粋理性の誤謬推理
パラ日ギス’ン
及ぴ第二章純粋理性の二偉背反における超越論的理念
7 ノ チ’ ・︷1
も、それらが﹁経験的認識︹現象認識︺の多様なものを
では、超越論的弁証論全体が多様な諸現象のシステムの
、 、 、 、 、 、
統一の論理を内包していると考えてよい。
、 、
しかし、第三章においてのみ、固有に﹁システムにお
ける諸部分の選言的総合の無条件者﹂︵困ω葛︶としての
ウ7ヴエーゼソ
的理念とされ、これに対して、第;早では﹁主語にお
ニ切の存在者の存在者︹原存在者︺L︵田Sω︶が超越論
ズプイエク6
性の理想の章で展開されるが、この章を合む超越論的弁
ける定言的総合の無条件者﹂︵︸ω葛︶としての﹁思惟す
れたものであるとはいえ、感性的に条件づけられた多様
る。それは、︿純粋悟性概念によって総合的に統一さ
︵︸ω竃︶が、各々超越論的理念とされる。このことは、
しての﹁所与の諸条件の系列における端的な無条件者﹂
では﹁系列の諸項の仮言的総合の無条件者﹂︵団ωS︶と
る主 観の絶対的統一の概念﹂︵団ω竃︶が、また第二章
ズプイ’クト
な現象認識に対して、理性が諸条件のトタリテート︹無
ジンテーデイソソユ
脈絡においては、一般的に次の点において立論されてい
証論︹理性圏︺は超越論的分析論︹悟性圏︺との直接的
﹃第一批判﹄におけるシステムの統一の論理は純粋理
1
■ステ﹃ーテイツソユ レ■ラテイ,フ
動揺の内にあって、それ自身仮象となりかねない概念だ
体 系的に統一する統整的原理﹂︵田80︶である点
批判﹄の時期までの批判期カントのシステムの統一の論
^4︺
理の根幹を摘出し、その概略を示すところにある。
^3︺
ったのである。本稿の目的は、以上の観点から、﹃第二
ほど確実な概念であったわけではなく、常に不安定性と
確実な概念と考えられているが、カントにあってはそれ
すれぱ、システム︹体系︺概念は、通常、内的構造を有
、
224
(75) カントにおけ予システムの統一と弁証論
カントにあっては、﹁一切の可能的諸述語︹諸現象︺の
ウー−ウェルシタス^1o︶
全体性﹂︵団80︶と圭言われるシステム概念自身が、
って、﹁理性の仕事が⋮−悟性が常に結びつけられてい
る条件づけられた総合から、悟性が決して到達しえない
、 、 、 、
わぱ無限累進においてのみありうる蓋然的なことな
一9一 ぎプζエアイツζ
とは実は想定であり、しかもこの想定白身が理性のい
;ネーづ^8︺
無条件的総合︹超越論的理念︺へと上昇することであ
固有には、デカルト的なコギトの延長上にある思惟する
る
﹂
︵
市
s
o
︶
と
す
れ
ぱ
、
理
性
に
よ
る
超 越 論 的ゼ
理ツ
念ツ
のユ
定ソ
立
ズプイユク︸
主 観概念やその構成員︹諸項︺の一方を他方へ順次従
属させる因果的な系列概念に対してではなく、構成員
︹諸現象︺の同位性︹対等性︺に依拠する概念︵<㎝F
ヨーナーデイナ苧オン
は、第三章の形式論理学的展開枠組として選言推理が採
験のいかなる対象でもない﹂︵田N8︶が故に、理性はこ
しても、この対象は悟性圏内でのみ成立する﹁可能的経
のである。また、超越論的理念の対象が想定されうるに
用され、選言肢に多様な諸現象が重ねられていることに
の対象を﹁相対的に想定する﹂ことができるのみで、
氏−曽︶に適用されるべきことを示している。このこと
^6︺
も現われているが、更に、道徳法則をその原理とする
^ア︶
﹁絶対的に想定する権能をもちえない﹂︵田N睾︶。つまり、
に超越論的理念は常に”アルスオプ。という性格を帯ぴ
てのみ超越論的理念を定立︹想定︺しうるのであり、逆
他ならない。換言すれば、理性は”アルスオプ。を介し
、 あたかも−かoよう旧
としった事情の集約的表現こそ周知の”アルスオプ・に
原理たる超越論的理念をめぐる課題性、蓋然性、相対性
以上の事情、つまり多様な諸現象のシステムの統一の
︵ωぎω︶にすぎないものなのである。
界︺との関係において相対的に想定することができる﹂
超越論的理念は、その対象についても、﹁感性界︹現象
﹁道徳性のシステム﹂︵︸O。讐︶についても言えるのであ
る。というのは、道徳性のシステムは最も平凡な理性的
存在者のみならず極悪人をもその構成員としており、彼
ら自身が対等にアプリオリに道徳概念を有する構成員と
されているからである︵くOq一。HくξN戸ω.≠︶。
さて、既に示唆したように、諸現象のシステムの統一
の原理は超越論的理念に他ならないが、﹁これらの理念
が我々の理性の本性によって我々に課せられている﹂︵因
アウフ〆ゲーベノ
sN︶点は承認されるが、この理念の現存在としての現
実性は拒絶されている︵くo目−団N睾︶、という状況にあ
225
ざるをえないのである。弁証論を特徴づけるこの”アル
、
スオプ。は、しかし単一なものとしてではなく、その二
、 、 ^10︶ 、 、 、
重性において把握されねばならない。カントは一方で超
、 、 、
、 、 、 、
越論的理念によって、﹁可能的経験が徹頭徹尾依存的で
、
常に感性界︹現象界︺に条件づけられていながらも、あ
たかも絶対的統一︹システムの統一︺をなすかのよう
に﹂︵田N8︶捉えられるべきことを主張している。同じ
、 、 、 、
ことの別様の表現としては、﹁最大隈の多様性において、
ジステ﹃ーテ
諸現象に対して外的超越的なものたらしめ、超越論的理
諸現象のシステムの統一を理性圏を介することによって
226
、 、 、 、
その主張とは、我々は﹁あたかもすぺての現象の総括
︵感性界自身︶がある唯一最上の最十全な根拠︹原存在
オーベルス︸
一 、 、 、 、 、 、 、
者“神︺を自らの外にもつかのように考察をしなけれぱ
ならない﹂︵︸きo︶、﹁あたかも諸対象︹諸現象︺自身が
、 、 、 、
ウアピルト
ら生じたかのように﹂︵団ぎH︶みなさなくてはならない、
、 、 、 、
すべての理性のかの原型︹原存在者n超越論的理念︺か
という主張であり、また、﹁感性界︹現象界︺の諸物の
︹ネクスス]^11︶、 、 、 、
すべての連結をあたかもこの連結がこの理性的存在者
︹原存在者︺においてその根拠をもつかのようにみなす﹂
、 、 、 、 、
自然︹現象︺を研究すぺきである﹂︵︸N轟︶、があげら
念を可想的に定立し、超越論的理念の側からシステムを
︵︸Ns︶、という主張である。これらの主張は、多様な
れる。端的に言えば、以上の限りでは、”アルスオプ。
なす多様な諸現象を規定することを提起している。つま
している。つまり、現象を可想的物自体とみなす仮象を
論的仮象ないし弁証論的詐取が二重性をもつことに照応
理性が理論的にも実践的にも必然的に陥るとされる弁証
以上の二つの”アルス才プ”は、批判なくしては人間
示されているのである。
り、可想的存在論を背景にした”超越的アルスオプ”が
は悟性圏によっては実現しえない多様な諸現象のシステ
は”超越的アルスオプ・と呼ばれるべきものである。
オプ。と呼ぷとすれば、次の他方の主張に示されるそれ
、 、 、 、 、
であろう。この”アルスオプ”を仮りに”内在的アルス
現象的存在論への内在が強く意識された”アルスオプ。
内在的に規定してゆく為のものであろう。換言すれぱ、
より現象界に内在させ、趨越論的理念を諸現象の側から
ムの統一を、それにもかかわらず理性圏を介することに
的な−・−統一が無隈にみいだされるかのように我々は
イツツユ . 、 、 、 、 、
あたかもいたるところで︹超越論的理念による︺体系
、
第2号(ア6)
第91巻
橋論叢
(η) カントにおけるシステムの統一と弁証論
排する為に”内在的アルスオプ。が必要とされ、可想的
物自体を現象に適用するという仮象を排する為に”超越
的アルスオプ・が必要とされ︵くo目F困象9くH遣R︶、
各々、現象界と可想界とを切断したうえで仮象に陥らず
に架橋するというカントによる接合の試みの表明である
とみなしうるのである。こうした二重の”アルスオプ。
︵12︶
を介して定立される超越論的理念は、定立の主体が理性
であるという点で同一であるとはいえ、多様な諸現象の
システムの統一の原理としては正反対の性格をもつ分裂
^∬︶
ント哲単の間題構制の根幹と密接に関連していると思わ
れる。
^些 ゲ耳ソ︸ヤフトコツヒ
なった︹多様な︺理性的存在者達の体系的な縞合﹂
ジステ〒−テイソシュ
適徳性のシステムとは、﹁共 通 の諸法則による異
︵Hくむい︶によって実現するものであり、このシステム
の統一の原理である共通の諸法則とは、端的には、定言
^砧︶
命法として提示される三つの遺徳法則に他ならない。道
システムの統一の論理自身が分裂していることになるが、
くことを主張する第二命法及ぴ理性的存在者の意志を普
は、行為の目的を理性的存在者の人間性︹人楮性︺にお
徳性のシステムの統一の原理としての道徳諸法則の中心
カントの叙述に則する限り、”超越的アルスオプ・を介
遍的に立法する意志とみなす第三命法と相互前提的であ
した超越論的理念として現出せざるをえない。とすれぱ、
する超越論的理念に主導性があり、このことによって分
るとはいえ、あくまで第一命法に、つまり﹁汝の行為の
、 、 、 、
裂が回避されているように思われる︵くo貝一、民Ns申︶。
いう点は次節で述べる道徳性のシステムについても確認
という命法にある。確かに、カントは第三命法を第一命
、 、 、 、 、
格率が汝の意志によってあたかも普遍的自然法則︹とし
されうるが、こうしたことは、超越論的理念を定立する
”超越的アルスオプ。にかかわる側面に主導性があると
主体としての理性の源たる自己意識がその確実性を剥奪
し、この位置づけは道徳法則全体を﹁理性的存在者の意
法及び第三命法からの結論として位置づけている。しか
志と普遍的実践理性との最上の条件﹂︵HくまH︶として
ての道徳法則︺になるかのように行為せよ﹂︵Hく竃H︶
されて非実体とされた︵<oq一。団さご、田阜s戸ω.老.︶
、 、 、
こと、つまり、へーゲル的に言えぱ理姓の無力という力
227
11
第2号(78)
第91巻
一橘論叢
、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
捉える観点による位置づけであり、﹁遣徳性はすべての
、 、 、 、 、 、 、 、
行為の立法︹遣徳法則の立法︺への関係の内にある﹂
︵Hくむ合︶、といわれる道徳性のシステムを問う際には第
︵くo竈一・くミ︶、従って感性規定を合む現象規定なのであ
り、そうした楕率にもとづいて行為する汝は現象存在と
しての理性的存在者に他ならないのである。それ故、第
い。また、これに対して第二命法が主観的で個別的な目
の形式﹂︵HくよH︶とされていることにあるだけではな
性概念に通じているという意味で、第一命法が﹁普遍性
その理由は、全体性概念としてのシステム概念が普遍
盛性規定を一切排除しているはずの遣徳法則をそれにも
とを命じているのである。この場合の”アルスオプ。は、
法則︹遣徳性のシステムの統一の原理︺にまで高めるこ
象規定自身を”アルスオプ・を介することによって道徳
くH濠︶を前提しているとはいえ、行為の格率という現
一命法は遣徳法則によって拘束された純粋意志︵く。q一.
的にのみかかわり、第三命法が普遍的に立法する意志で
かかわらず現象規定に内在させる為に提起された”アル
一命法が中心なのである。
あるとはいえ意志にのみかかわり、共に行為自身に直接
、 、
スオプ。として、現象的存在論への内在を背景にもつ
”内在的アルスオプ。だと言えるであろう。更に言えぱ、
かかわっていないが故に、行為の立法への関係の内にあ
現象存在としての理性的存在者の行為の樒率が”内在的
る道徳性のシステムの眼目とはならない、ということに
よるだけでもない。更に重要なのは遺徳性のシステムと
、 、 、 、 、 、 、
アルスオプ。を介することによって、理性的存在者の内
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
の傾向性⋮⋮といった主体の︹感性的︺諸条件に従って
なくては遭徳性のシステムも不可能なのである。という
ない。.むしろ、”超越的アルスオプ。にかかわる側面が
オプ。にかかわる側面によってのみ実現されるわけでは
しかし、遣徳性のシステムはこうした”内在的ア〃ス
るのである。
^16︶
に遣徳性のシステムの統一の原理があることが確証され
は、可想界のみならず感性界にも属する現象存在として
の理性的存在者をその構成員とするシステムであり、こ
の点を明示しうるのは第一命法のみだということである。
、 、
理性が主体を規定する実践的規則﹂︵冥§一︶として、
つまり、第一命法にのみ言われる行為の格率とは﹁主体
快・不快等の感惰にもとづく欲求能カに直結しており
228
(79) カントにおけるシステムの統一と弁証論
のも、﹁理性的存在者のすべての行為はあたかもすぺて
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
の
私
的
選
択
意
志
を
自
ら
の
内
に
−
−
− 包 括 す るオ
一ー
つベ
のル
最ス
ト
上
の意志から生じるかのように発現する﹂︵田O。奏︶、と言
、 、 、 、 、
われるからである。この場合の一つの最上の意志は、ま
た﹁一切を包括する唯一存在者﹂としての﹁神﹂︵︸N崇︶
でもあり、この点で前節で提示した”超越的アルスオ
プ。を介した超越論的理念としての原存在者等と同じも
のである。つまり、上記引用文自身だけからも明らかな
ことであるが、この一つの最上の意志にかかわる”アル
スオプ・は、格率にもとづく行為︵現象規定︺総体を可
想的趨越的に生ぜしめる為の”超越的アルスオプ・に他
ならないのである。従って、遭徳性のシステムの統一の
原理が遣徳法則であり、理性的存在者の行為を規定する
格率が”内在的アルスオプ。を介して道徳法則に高まる
としても、行為自身が”超越的アルスオプ。を介して一
クー久η︶
善L︵︸寒9<H8戸m。幸.︶に関する議論は、感性規
定の独自性を位置づけておらず、それ故感性規定と可想
^些
的規定との結合自身を間うてはいない遣徳性のシステム
に関する議論を、この結合を問うことによって補う議論
であるが、この議論も、カント自身は盟言していないけ
^19︶
れども既述の”内在的アルスオプ。と”超越的アルスォ
プ。との関連を背景にもっていると言える。﹁理性的で
有限な︹現象的︺存在者の欲求能力の対象としての最高
ヴユル﹂7ツヒ トウー〆ソト
善﹂︵<H遣︶は、道徳性のシステムが実現し、﹁幸福に
ふさわしいL︵①9、︶こととしての道徳性︹徳 ︺が
理性的存在者を満たすこと︹﹁最 上 善﹂︵①巨・︶︺と
〆ス オーベルス一丁 グー’
同義ではない。最高善は最上善を可能にする道徳性のシ
ステムと﹁幸福にあづかること﹂︵09・︶自身としての
クイルハフテイノヒ
感性規定を充足する﹁幸福のシステム﹂︵︸O。竃︶とが結
合してはじめて実現する。この結合に関してカントは、
﹁私︹理性的存在者︺は自らを可想界における可想者と
=1’ノ ノ
して考える機能をもつぱかりでなく、更に自らの原因性
つの最上の意志から生ぜしめられねぱならず、この点で
遺徳性のシステムは”超越的アルスオプ。にかかわる側
︵感性界における︶の純粋に英知的な規定根拠を遣徳法
則に則してもつのであるから、そこで必ずしも不可能で
面の主導性によって実現されると言わねぱならないので
ある。
ないことは心術の道徳性が原因として・⋮:必然的な連関
、 、 、 、 、 、 、 、 、
ダス ^■ヒ只テ
ところで、実践理性の弁証論の眼目である﹁最 高
229
第2号 (80)
第91巻
一橋論叢
を感性界における結果としての幸福に対してもつ、とい
、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
徳性のシステムと幸福のシステムとの前者を原因とし後
として含まれている﹂︵くHξ︶と圭言われるように、道
隈り、また﹁遺徳法則は最高善の概念の内に最上の条件
うことであるL︵く82。︶、と述べる。以上を敷術する
別表現であること自明であるが、上記の叙述は感性規定
る。カント哲学においては”要請。が”アルスオプ。の
体﹂︺の定在が要請されるL︵く眠一・くSご・︶﹀、圭言われ
然から区別された全自然の原因︹﹁神﹂、﹁最高の英知
くs阜︶。だから﹁幸福と遭徳性との完全な合致を含む自
然的連関にとってのいささかの根拠も存しないL︵くO・一・
者を結果とする因果結合は、あくまで現象存在としての
︹幸福︺にとってはむろんのこと、■可想的規定︹道徳性
^20︶
理性的存在者に内在する中で道徳法則に従ウて果たされ
及び遣徳法則︺にとっても超越的な原因を、つまり理性
と言われ、またく道徳法則自身は可想的なものとして感
しうる議論であったことを示しており、この点で最高善
議論が”超越的アルスオプ。を介在させてはじめて成立
としての道徳性の間接性が明示されていたことは、この
、 、 、 、 、 、 、
オプ。を介した最高善をめぐる議論の只中において原因
プ・だとみなしうるのである。従って、〃内在的アルス
^刎︶
で言われる”要請”アルスオプ。は”超越的アルスオ
統一の原理とすべきことを提示しており、この点でここ
^鴉︶
を理性的存在者のシステムとしての最高善のシステムの
、 、 、 、 、
るのである。この点で、理性的存在者の内にそのシステ
的存在者にかかわる一切の規定にとっての超越的な原因
^蛆︶
ム︹道徳性のシステム︺の統一の原理たる遣徳法則をみ
いだすに際して必要とされた”内在的アルスオプ。が、
最高善という﹁二つの全体﹂︵くNS︶としての理性的存
︵22︶
在者のシステムの実現の背景にもある圭言えるのである。
しかし、遣徳性と幸福との因果結合を示した上記引用
の省略都分において、この因果結合は﹁間接的な︵すな
性的︹自然的︺規定からは独立しており、かつ﹁世界に
のシステムにあっても”趨越的アルスオプ。にかかわる
^鴉︶
側面が主導性を担っている、圭言えるのである。
わち自然の英知的創造者を介しての︶﹂︵く8N︶ことだ
おける行為する理性的存在者が同時に世界及び自然の原
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
因であるわけではない。それ故道徳法則の内には道徳性
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
と⋮−理性的存在者の道徳性に適合した幸福との間の必
230
(81) かントにおけるシステムの統一と弁証論
システムの統一論という視角からみた場合、二重の
”アルスオプ。は、システムの統一・の原理を現象的存在
諭と可想的存在論の双方から二元論を残したまま提起す
コソ’ルキウム
イデム 6−トウム
カントは﹁多数の実体が相亙作用の内にあり、このこと
によって世界といわれる同一の全体に属するのは一体い
ところのすべての実体の関係そのもの︹相亙作用による
コソ’ルキウム
かにして可能か﹂、﹁直観的にみられると空間と呼ぱれる
粕互関係︺はいかなる原理にもとづくか﹂︵HHきO。︶、と
テノ芋イア
解答を与えている。﹁諸実体の相互作用が諸実体の現存
ヨン’ルキウム イクスイス
捉える傾向に反対しつつ、上記の間題提起に対して次の
・ ^η︺
っての﹁実在的で絶対必然的な紐帯﹂︵HHきひ︶として
相互作用の現象的条件にすぎない空間を一切のものにと
ヨノ’ルキウム
作用である︵くO目一・××自HH㎞3︶が、カントはそうした
ることを意味しているとともに、システムの構造自身の
いう間いを可想界の形式に関する核心的な問題提起だと
]ン﹂ルキウム
.特定をも意味することになる。つまり、カントは現象的 し
ている。ここでの相互作用自身は現象的な相亙的影響
存在論及ぴ可想的存在論の各々自身の内で、システム概
念及ぴシステムの統一の原理に通ずる全体性概念及び全
体の統一の原理を提示し、その申で全体。とその多様な構
成員との関達を、従って全体性の構造を提示しているの
であウて、システムの統一論が現象的存在論と可想的存
在から導かれないことは明白であり﹂、﹁宇宙の諸実
ヨソ’ルキウム ヨムー一一ス
在論との二つの”アルスオプ”による架橋のー内にあると
いうことは、各存在論における全体性の構造がシステム
⋮ ^鴉︺
統一の原理は、究極的には可想的存在論の内に求められ
の原因によって規定されることになる。従って、金体の
可想的存在論を前提する、諸実体に外的で超越的な共通
コムー一一ス
相互作用によって確立されるが、当の相互作用自身は、
ヨソ’ルキウム コン’ルキウム
よれぱ、多様な諸実体︹構成員︺の全体性は現象的な
原因によって外怖に確立されている﹂︵−=oo。︶。以上に
体のすぺての相互作用はすべてのものの共通︹共有︺の
の構造として受容されつつもそのままの形では維持され
なかっ光ことを意味しているのである。可想的存在論に
おける全体性概念の典型は批判期前の相互作用論に、現
iノ’ルキウム
■’インソ十フ6
象
的存在論におけるそれは批判期の相互性論に各々み
られる。
^26︺
批判期前の﹃可感界と可想界の形式と原理﹄において、
231
III
一橘論叢 第91巻 第2号 (82)
る共通の原因であることになる。この共通の原因は﹁世
,ムー一一ス ,ムー’ス エソ
工 ’クス’,ムソグ1ム ^ソア
ヴェーゼソ デウス
界外存在﹂、﹁唯一者﹂︵o巨一︶等と言われる他、﹁原
︹ネクスス]
原理の下では多様な諸現象︹諸物︺の連結圭言われてい
た︵くo口F田N8︶のも、こうした批判期前の議論を受容
したが故のことである。そして、システムの構成員の自
から規定することは不可能であり、逆にこの原理︹超越
立性を認めぬ限り、システムの統一の原理を構成員の側
存在者﹂︵××くHH冨旨︶、﹁神﹂︵H含ω︶とも言われ、こ
の点で既述の”超越的アルスオプ。を介する限りのシス
は、一括された諸実体として都分としての自立性を一切
存を背景とし、かつ連結の内にある都分としての諸実体
にしても、時間自身は純粋な内的直観の形式であるから、
実体の同時存在︹同一時間における定在︺が認識される
れる原則がここでの問題である。カントによれば、︿諸
る隈り、汎通的相亙性の内にある﹂︵>ミH︶、と言わ
〆〒イソツヤフト
を提示する節であるが、﹁すべての実体は同時に定在す
ける諸現象︹諸実体︺の定在を規定する原則﹂︵uNs︶
ける相互性論をみる必要がある。この節は﹁時間にお
ゲ7ソツヤフ上響 −
一批判﹄の趨越論的分析論の経験の類推という一節にお
とも認められるのであるが、この点の確認の為には﹃第
可想的存在論だけでなく、現象的存在論の受容というこ
ところで、既述のようにシステムの統一論には上記の
︵くOq−1U8N︷・︶。
システムの構造のみが表出することになるのである
論的理念︺を根拠とし、構成員・︹諸現象︺を帰結とする
、 、 、 、
テムの統一の原理そのものとして批判期に受容されてゆ
くのである。
コソ’ルキウム
更に、批判期前の相互作周諭は上記の全体性の構造に
ヨソユソクチオー
関して諸実体の結合のあり方を問うて、﹁宇宙の諸実体
の結 合における統一はすぺてのものの唯一者への依
存の結果である﹂︵H=富︶、と述ぺつつ、この可想的存
在者としての唯一者への依存にもとづく諸実体︹構成
ネクスス
冒ソ’ソクチオ■ 3ノポスイチナ■ ,ネクスス
員︺の結合を﹁部分の連結﹂︵o巨.︶だとしている。力
ントによれぱ、﹁すぺての縞 合は合 成か連結であ
ネクスλ 、 、 、 、 、 、 、 、 、
り﹂︵目8一︶、連結とは﹁必然的に互いに属しあってい
る限りの多様なもの︹部分︺の総合﹂︵Φ茎、︶である。
もたぬ諸実体と言えるであろう。1節で触れたように、
認識の対象でないどころか知覚の対象ですらない。同時
、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、
”超越的アルスオプ。を介する限りのシステムの統一の
この点をふまえるならぱ、唯一者︹共通の原因︺への依
1ムー一一ス
、
232
(83) カントにおけるシステムの統一と弁証論
件にすぎない空間は当の相互作用を介して、はじめて
コソ’ルキウム
という專柄は時間性そのものからは認識されえない。つ
相亙作用をなす多様な諸実体に共 有︹共通︺のものと
ガソ’工
に説明される時、諸実体によって共有される空間は諸実
う側面が﹁統覚の相互性︵共有︶﹂︵︸ざ−︶と類比的
〆可’・ソシヤフト コムー−一オー ^初︺
なるわけである。そして更に、この共有︹共通︺とい
コムー一一オー
1ソ’ルキウム ,ムー一一ナー
まり、諸笑体の同時存在は諸実体が相互に影響を与えあ
っていてはじめて認識されうるのであり、こうした相互
〆守イソ
的な影響関係としての諸実体︹諸現象︺の関係が﹁相互
リ十フト
性或は相互作用の関係﹂である︵くo〇一・国8二・︶﹀。
わかる。つまり、︿我々の心性においてすべての諸現象
体が一つの全体をなし統一をなす為の原理であることが
〆︷イソシ十フト
ルでのみ捉えていたわけではない。というのも、カント
らない﹂﹀︵くO〇一.宙N2︶が、このこととの類比において
覚を共有することにより﹁一つの金体をなさなくてはな
、 、
が一つの可能的経験となる為には、諸現象が超越論的統
しかし、カントは相互性をたんなる相互作用のレペ
は﹁相互性という語はドイツ語では二義的であり、
〆︸イソソヤフト
=ムー−一オー !ソ’ルキウム
共 有︹共通︺をも意味すれぱ相互作用をも意味する。
我々はここでこの語をカ学的相互性としての後者︹相
^30ア﹃インシヤフ︸ ;
諸実体によって共有された空間が諸実体の全体の統ごの
’ルキウム . ゲ﹃イソウヤフ︸
互作用︺の意味で用いるが、このカ学的相互性なくし
^33︺
通的相互性の内に相互作用の側面が共 有︹共通︺の
して認識されない﹂︵国ぎO︶、と述べつつ、諸実体の汎
現象的存在論とは同じだと言えるが、前者にあっては
共 有︹共通︺という側面にある点では可想的存在論と
以上からすれぱ、多様な諸実体の全体の統一の原理が
ては︹前者の︺場所的相互性︵空間の共 有︶すら決
側面を内在的に規定することを指摘し、相互作用によっ
共 有︹共通︺の側面が外的超越的に相互作用の側面を
原理である、と言えるのである。
ゲ︷イソツヤフト 、 、 、 ヨムー一一オー
て藷実体の同時存在が確定される事態を、同時に諸実体
規定するのに対して、後者にあっては逆に相互作用の側
、 、 、 、 、 、 、 、 ]ソ’ルキウム
,ムー一−オー 、 、 、 、 、 、 コソ’ルキウム
コソ’ルキウム
,ムー呈オー 、 、 、 、
コムー一’土ー
では両論は正反対だと言える。この共有︹共通︺及ぴ
^皿︶
コムー昌ナー
が空間を共通のものとして共有する事態としても捉えて
面が共有︹共通︺の側面を内在的に規定するという点
〆﹃インシヤフ6 コソ’ルキウム コムー■’オー
いるからである。もともと﹁可感界︹現象界︺において
は空間があるので既に相互作用の条件は存在している﹂
相互作用のシステムの統一論における位置づけについて
!ソ’ルキウム
︵×≦H=ま︶のであるが、現象としての相互作用の条
コソ’ルキウム
233
第2号 (84〕
第91巻
一橋論叢
は次節で述べるが、現象的存在論における相互作用の側
コソ’ルキウム
は超越論的弁証論に示唆を与えている。つまり、現象的
在論においては諸実体︹諸現象︺の結合については﹁諸
あわない、そうした多様なもの︹部分︺の総合﹂︵︸
の連結との対比において、部分が﹁必然的に互いに属し
ネクスス 、 、
ーム ヨソポスイチナー
,ソ’ルキウム !ソ崩スイトウ
面による共 有︹共通︺の側面の内在的規定について言
現象は相互作用を介して⋮⋮、合成体︵実在的合 成
コ ム ー 昌 オ ー 、 、 、 、 、
えぱ、このことは事実上相亙作用を行う諸実体︹構成
体︶をなす﹂︵国Ns︶、と言われるが、合 成とは既述
味しており、この点は”内在的アルスオプ。を介する隈
=ン’ルキウム
員︺■が金体の統一の原理を自ら規定するというこ 。とを意
りのシステムの統一の原理たる超越論的理念について鳴
8H︶に他ならず、それ故有機体論的結合を想起させる
連結に対して機械論的結合を想起させるものではあるが、
ネクスス
、 、 、 、
認められるのである。つまり、カントが超越論的理念を
﹁個別的存在者﹂︵吋8阜︶だとする時、この理念は同時
員︺のみであり、従って汎通的に規定するものは諸現象
のであるが、汎通的に存在するのは多様な諸現象︹構成
ているが故に、諸現象︹構成員︺が〃内在的アルスオ
実体︹構成員︺の自立性がシステムの統一論に受容され
意しうるのである。このような現象的存在諭における各
それだけに部分としての各実体︹構成員︺の自立性を含
、 、 、
なのである。もっとも超越論的弁証論においては、この
プ・を介して超越論的理念を規定するということも可能
に﹁汎通的に規定されたものとして表象される﹂︵09・︶
ような場合も相互作用自身は登場せず、むしろ諸述語に
なのである。
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
よる主語の規定として諸現象︹構成員︺による超越論的
以上のように、二重の”アルスオプ。の下にあるシス
コノ’ルキウム 、 、 、 、
、 、 、 、 、 、 、
テムの統一論の内には可想的存在論の全体性の構造及び
、 、 、
理念の規定が考えられている︵くoq一・射8H︶。換言すれぱ、
全体の統一の原理のみならず現象的存在論のそれらも受
^桝︺
システムの統一の原理はシステムの内にある﹁内的諸述
︵竺
語︹構成貝︺によって規定されうるもの﹂なのである。
容されているわけであるが、■節及び皿節で述べたよう
に、システムの統一論全体としては、あくまで”超越的
、ところで、システムの統一の原理を規定しうる構成員
は当然のことながら規定する兎のとしての自立性をもた
アルスオプ・にかかわる側面に主導性があり、それ故可
、 、 、
ねぱならないが、この点についても既述の現象的存在論
234
(85) カントにおけるシステムの統一と弁証論
うえで両存在論をいわぱ接合してシステムの統一が計ら
想的存在論に主導性がある。そして・この点をふまえた
越論的理念から﹁導出する﹂︵①9・︶、生言われるとすれ
をもち﹂︵︸80︶、関与分としての自らの規定をこの超
アソ’イル
﹁全体的可能態︹超越論的理念︺において自らの関与分
ネクスス
ぱ、システムの構成員としての諸現象の各々は、可想的
アプライテソ
れている場合がある。
1V
諸現象の各々は、確かに”超越的アルスオプ・を介して
ている一括された非自立的構成員ではない。というのは、
存在論が示した連結の内にあって超越論的理念に依存し
的理念を﹁超越論的基体﹂だとし、﹁超越諭的基体は諸
定立された可想的存在者としての﹁最高の実在態︹超越
それは、カントが、システムの統一の原理たる超越論
論的理念︺を前提している﹂︵d8α︶わけだが、超越論
的理念の側から外的超越的に規定されるものではなく、
られるところの、いわぱ材料の一切のたくわえをもって
いる﹂︵国sω︶ものー﹁全体的可能態﹂︵︸so︶、﹁最
この理念から白らの規定を導出−﹁制隈﹂︵o茎・︶、
物︹諸現象︺のすべての可能的述語がそこからとってこ
高の実在態﹂︵国8ひ︶等とも言われる1だ生言う場合
﹁否定﹂︵田8松︶とも言われるーするという意味で超
^㎎︺
越論的理念と内在的につながっていなくてはならず、ま
である。これが意味するところは、超越論的理念はそれ
がシステムの統一の原理である為には、同時に多様な諸
はならない、ということであるが、こうした超越論的理
の諸現象ρ﹁総括﹂︵由9ω︶︹超越論的塞体︺でなくて
においてではあるが、”内在的アルスオプ〃にかかわる.
た超越諭的理念を超越化させないという消極的意味あい
合 成の内にある自立的構成員としての諸現象が、ま
ならないからである。この点で、現象的存在論が示した
た自らの規定を導出する主体としては自立性をもたねぱ
、 、 、
現象のすべての規定を﹁自らの内に含んでいる﹂ところ
イ ソ ズ イ ツ ヒ ベ ■ ラ イ フ ユ ソ ^ 蝸 ︶
念は、多様な諸現象各々にとっては﹁見通しがたい多様
壼︺
性における内容的諸可能態﹂であるが故に、さしあたり
側面が、上記の主張の内には含まれている生言わねぱな
イソベグ﹄フ
は”超越的アルスオプ〃を介し可想的存在論を背景に定
らないのである。
コソ出スイチオー
立されなくてはならない。しかし、他方で諸現象各々が
235
第91巻一第2号(86)
一橘諭叢
この場合・﹁諸物︹諸現象︺の一切の多様性にはそれ
︵くOqFくH遣申︶や﹁理性的存在者達の相関関係﹂︵冥
、 、 、 、
ま阜︶等という相互作用の側面が語られはする。しボし、
!ソ’ルキウム
らの共通の基体であるこの最高の実在態︹超越論的理
この側面は道徳性のシステムが実現している隈りにおい
、 、 、
念︺という概念の制眼のあり方と同じだけの様々なあり
^柵︺
現にとって必須のことではないのである。つまり、■〃内
てのみ可能なことであって、遺徳性のシステム自身の実
うに、システムの統一は、その原理としての超越論的理
在的アルスオプ・を介する隈りの道徳法則による道徳性
方がある﹂︵田Sα︶、と言われることから推察されるよ
念と構成員としての多様な諸現象各々とが直接的に対時
のシステムの実現は、極論すれぱ孤立した自立的な個と
て、超越論的理念が共通の基体であるとか﹁共通︹共
ものではないのである。付言すれぱ、理性的存在者の
則としての道徳法則も理性的存在者の相互作用に基づく
,ソ’ルキウム
を遣徳法則に高めることにのみかかっており、共通の法
、 、 、
しての理性的存在者の各々が、共通に自らの行為の格率
、 、 、
させられ、その上で制限者︹否定者︺としての構成員の
多様性が無制限者︹肯定者︺としての原理の統一性の内
壼 ︶
に定められることによって計られているのである。従っ
有︺の相関者﹂︵︸80︶であるとか言われたとしても、
相互作用に基づかない共通の法則とし。ての遣徳法則を維
、 、 、 、 、 、
そうした共通︹共有︺という側面は、既述の現象的存在
のみならず極悪人をもその構成員とする遭徳性のシステ
持せねぱならなかったが故に、最も平凡な理性的存在者
コソ’ルキウム
、 、
論としての相亙性論におけるような構成員の相互作用の
1ソ’ルキウム 、 、 、
側面に基づくものではなく、多様で自立的な構成員の各
ムの最終的な実現にとっては”超越的アルスオプ。にか
^仙︶
かわる側面が必要とされたと言えるのである。
各が自ら直接的に対時しているシステムの統一の原理と
しての超越論的理念に共通に関与することに基づく共通
カントは体系的統一を語るには﹁多様性、親和性、
、 、 、
︹共有︺性なのである。そして、このことは、また多様
統一性﹂︵団so︶という三概念が必要だとは言う。しか
成員とシステムの統一の原理との直接的対崎、つまり多
、 、 、
し既述の、構成員の相亙作用を欠いたうえでの多様な構
,ソ’ルキウム 、 、 、
ヲステマーテイツツユ
な現象存在としての理性的存在者のシステムたる道徳性
のシステムについても言えるのである。確かに道徳性の
システムにあっては、理性的存在者達の相互的尊敬
、 、 、
236
様性と統一性との直接的対時や、﹁統一性の下にある親
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
U彗雰g彗>臣ま邑oにより、巻数︹ローマ数字︺と頁
た宍凹冒叶.皿困鶉固昌昌o岸oωoゴユ津o目チ耐﹃芭自蜆ooooqoσo自くo目oo﹃
和性﹂︵Φ巨・︶というカントの発言から明らかなように、
し﹃第一批判﹄については、憤例に従い巻数にかえて第一
数︹アラピァ数字︺のみを当該箇所の直後に賂記する。但
様な諸現象や現象存在が統一性としての一つの原理に基づ
︵3︶ カントにあってはシステム概念は、構成員としての多
版をA、第二版をBと略記する。
論と可想的存在論との二元論の接合の表現ではあるが、
ムの実現の為にシステムの統一の原理の藷現象に対する先
りながら現象界︹悟性圏︺では実現されず、それ故システ
批判﹄について言えぱ、システムは諸現象のシステムであ
性概念である。この概念をめぐる不安定性と動揺を﹃第一
いて脈絡づけられていることを意味する全体性ないし普遍
デイアレクテイーク ^他︶
行性が理性圏において主彊される。しかし、諸現象の実在
題視されるのである︵<o官F︸亀N声︶。尚、カントが純粋
僅との対比では、この原理自身の虚焦点としての性裕が問
僑性の国を奥理の国とし、システム概念を提起する理性圏
を仮象の本来の居所として捉えている︵<o司−■田N茎︷︶点
サステム
は、へーゲルの真理11体系説との比較において興味深い諭
.点を提供すると思われる。
カ批判﹄における三批判の体系的統一の原理としての反省
︵4︶ 本稿で言うシステム・の統一の論理の内には既に﹃判断
による強調はすべて竹内による。
性を認めない見解︵<的Fミ.匡o雫oσ〇一穴豊一⋮o量蜆
での弁証論的構想の下にあるシステムの統一の論理の独自
的判断カに基づく論理があるとし、﹃第二批判﹄の時期ま
による付加であり、︿ Vは原文の要約である。また傍点
加であり、︵ ︶は引用及ぴ参照箇所の指示の他は原著者
︵1︶ ︹ ︺は引周文中のものも含めてすぺて竹内による付
する必要があると思われる。
ぴこの間題に深くかかわっている”アルスオプ。に注目
展開とともに、統一性と多様性との媒介をめぐる問題及
冠︶
来繰り返えし主張されてきた二律背反論から矛盾論への
アソ牛ノ⋮1
弁証法への展開を考えるには、ローぜンクランツ以
.
ゲ
ル
も
る
テ
7ト
レク
ー論
ク からへーゲルの
へ ー
自 身
認 め
カイン
のチ
弁イ証
の唆味さを補う為のものでもあるわけである。
また同時にシステムという普遍性の構造における媒介環
いのである。二重の”アルスオプ。は確かに現象的存在
システムの統一論においては固有の役割を果たしていな
実際には、多様性と統一性との媒介環たるべき親和性が
、 、
■
︵2︶ カントの著作からの引用及ぴ参照については、宍固算,蜆
岬o轟昌昌o岸oωo∼葦o目ぎ量易帥晶&o目くo目o宵勺冨o雲甲
。すg奏邑§庁膏妻馨一一邑葦g及ぴ、これを継承し
・2
37
カントにおけるシステムの統一と弁証諭
(87)
(88)
第2号
第91巻
一橋論叢
.胃oE血目2曇言彗閉N畠ら冒邑雪ωo昌昌葦一︸冨序昌。・㌔
旨冒一g彗一−8+ω.宝阜︶には同意しがたい。<oq−・婁.
︸閏具自8ブ顯iN目昌蜆︸9oヨρ含蜆o︸o冒O算くo■H︿葭目冨穴﹃岸寿
旦串ζ篶邑芽量ダ︸量目斤h膏戸SNN一ωlS1国.旨O﹃8冨一
肉o昌冒昌叶害昌﹃向鶉一gヨ邑何−盲目o日ぎ穴竃日.蜆穴﹃一け寿旦胃
るo
︵8︶ ハイムゼートはこの想定を﹁超越論的仮定﹂︵声
ヒポテー︷
︵9︶ 拙稿﹁二律背反論と超越論的理念の能動性﹄、﹃一橋研
匡色昌蜆ogF票串.O.一ω.N讐︶としているo
︵5︶この全体性との対比で言われる一般性は排中律の
い︵くOO−1向.>旦−O斥耐蜆一内頸目斤O目Oρ−O>−岬−Oσ1勺巨−O餉O勺ヴー9
もその二重性がそれほど判然とさせられてきたわけではな
になった”アルスオプ。については、著名な論者にょって
︵10︶ カント哲挙の指標としてフ7イヒンガー以来特に有名
究﹄通巻五八号、一九八三年を参照。
一般性とも言われ、藷現象︹構成員︺を矛盾対当的な分析
ウ一一蓼ユルノ貞ス ウ一一ウ邑ルサ咀虫ス
c具o豪片量津一量饒目oす而■一竈ご一ω.さ︷ー
的対立において位置づけるにすぎず、システム概念に通ず
ω巨葦oq胃F6ミ一〇〇.o0N︷.︶。
︵12︶ ”内在的アルスオプ。を忘却して自然︹現象︺にとど
︵11︶ 連結<而寿昌貝昌oqについては皿節でふれる。
H非ク^乙
まったままでシステムの統一が完成すると考えるのが﹁怠
↓轟鶉需目o耐津巴oU−巴o片匡河︸雪旨p G8一ω.占阜o[なお、
るものではない︵くoqF︸ひoo︶。くoロー、葭、匡色昌蜆oo匡二
妥当性︵ウニウェルサリタス︶﹂︵L・ゴルトマン、﹃カン
﹁呉体的全体性︵ウニウ主ルシタス︶と物象化された普遍
惰な理性﹂︵籟曽N︶であり、”超越的アルスオプ”を忘却
、 、
超越論的理念を土台から危くする﹁モグラの道﹂︵団ω蟹︶
が﹁転倒した理性﹂︵︸曽O︶であるが、そうした理性は
して自然︹現象︺に原存在者の目的を強制しようとするの
トにおける人間・共同体・世界﹄、三島・伊藤訳、木鐸牡、
︵6︶ この点に関する限り、一読したところでは同じ側面を
一九七七年、一五六頁︶、とする見解もある。
もつように恩われる第二章二偉背反論第四節の超越論的理
を歩むのである。尚、本稿では議論を簡略にする為に、シ
た当該の選言推理について言えぱ、それは、弱選書が採用
分は伝統的な形式論理学的枠組の下で展開されている。ま
宍o目す胃睾一Uポ向ぎ巨o岸﹄oH<彗⋮﹄艮戸穴α己目o目蜆訂ざ一6s一
︹理性︺に固有の行動への、理性の反省が反映される﹂︵内・
は:・⋮、多様な諸認識にとっての体系化点を探究する自ら
て論じたいが、さしあたり﹁合目的性という原理の発見に
毛・︶については一切省略した。この点については稿を改め
ステムの統一と同義である﹁合目的的統一﹂︵巾N皐戸蜆・
念、必然的理念と第三章のそれとの区別については、<撃
︸ωooo︷一また、くo口F=.︸臥昌閉8匡‘葭一顯−O.一ω1志N申・
されたうえで選言肢交叉の禁止や選一冒不完全の禁止が考え
.︵7︶ 本稿では割愛せざるをえないが、﹃第一批判﹄の大部
られているが故に、システムの統一論に適用されたのであ
238
uo.H畠︶、という 見 解 に 同 意 す る 。
︵13︶ つまり、その初発における自己意識の非実体性︹不確
、 、
を自由だと考える時に、自らを可想界の内にその構成貝と
をふまえたものである︵くoq−.<N昌︶。
の下に捉えているストア派及ぴエビクロス派双方への批判
︵21︶ この因果結合は、いづれにしても徳と幸福とを同一偉
しておき換えるL︵−<傘9︶、という主張がある。
ルス才プ・の主導佳とは同一事態の表褒なのである。もっ
実性︺とシステムという普遍性を問う場面.での”超越的ア
ともこうした理性の無カは、隠れて生きるが故にその実体
性を保持しえたデカルト的なコギトが世 間 知としての
分されている以外には一つのシステムをなすことはない﹂
をなすが、しかし幸福はそれが適徳性と厳密に照応して配
︵脇︶ 従って、﹁遺徳性はそれ自身において一つのシステム
ヴェルトヴアイス^イ︸
えなかった事柄ではある。
︵23︶ 従って、﹃第二批判﹄では純粋理性の二律背反として
︵目oos︶、と言われる。
哲挙の内に位置づく過程で、近代的主体性が甘受せざるを
︵μ︶ 本稿では、カント自身の用語としてもその区別が不鮮
明な︵小倉志祥、﹃カントの倫理恩想﹄、東犬出版会、一九
論じられる最高善をめぐる議論に関しては、﹁この二律背
ズイツ6,ツヒオイ︸ 岳ラ,テー︸
七二年、四頁を参照︶人 倫 性と適徳性とを区別しない。
反は経験的世界から生じ、その解決は可想的世界にある﹂
ωε︶。尚、本稿で提示した二重の”アルスオプ。各々の命
8享事簑﹃亘一=o蜆o勺−一尉〇一一価︸o冨o巨冒oq一句匹1−o〇一−漂♪ω1
↓量冨黒=o昌No鶉一一αo庁黒血自Ω=冨眈σ叉 宍印目戸ぎNo子
不可能なものである︵<o0F−甲ω亭彗一−昌昌芭目o冒⋮邑
テムは、カントにとって﹁神秘的集団﹂︵田OOま︶であり、
=ルヲ^ ⋮ステイークム
︵お︶ ”アルスオプ。を介さない理性的存在者の十金なシス
をも超越しているわけである。
くとも最高善のシステムの統一の原理としては神は可想界
内にあるか否かということは、徴妙な間魑であるが、少な
︵24︶ 尚、カント哲学にあっては神ないし神の国が可想界の
と単純に言うことはできない。
︵O.ωけ顯目oq?U訂向叶=斥穴芭目けy■o5N耐−H0N9ω.HN00︶等
︵15︶ 本稿では、﹁遭徳法則に基づ.く拘束性﹂︵団o。ビ︶を前
捉しており、﹁自由は適徳法則の存在根拠であり、適徳法
則は自南の認識根拠である﹂、︵<㎞︶という周知の音口に関
する問題は割愛せざるを吹ない。
︵16︶ この隈りにおいて、神を適徳法則の根拠とはしない
︵<o目−・く.8o申︶というカントの立場が正当化される。
︵17︶ 厳密には、最高善は神の定在と同義の根源的最高善
︵<oロー。<竃㎞︶と派生的最高善︵<軸一.田ooωoo︶とに区別さ
れるが、本稿では後言のみを念頭においている。
︵18︶ それ故、﹁遣徳的世界︹適徳僅のシステム︺はもっぱ
ら可想的世界と考えられる﹂︵吋O。塞︶のである。
︵19︶ くoロゲ穴−穴o目−ρ﹃ρ戸讐串一〇二ω一N㎞㎞、.
︵20︶ この主張の背後には、﹁我々︹理性的存在者︺は自ら
239
カントにおけるシステムの統一と弁証諭
(89)
一橋論叢第91巻第2号(90)
︵31︶ 以上の議諭は、時間については超越論的観念性が、空間
については経験的実在性が問われているが故に可能なので
名はこのズィルパーの論稿に示唆を得ている。
︵26︶ この一七七〇年の論文は、網互作用諭という点では一
鋏甘⋮oN筆旨g斤睾二目穴§雰g2彗一向轟畔昌⋮o日蜆冨津o曽一
−o㎞o〇一ω.N5一
ある︵<O日一一b8︶。また、<O目−一−一雪OaO昌ρ⋮二ωりO自一嘗一9−
。 七五五年の﹃形而上挙的認識の第一原理﹄以来の一頁した
内容を示している。
7ナ8亭1
︵32︶ カントにおける類比の問題一般については、<o司−。−.
︵27︶ 端的には、空間自身を神の感覚器官とみなすニュート
ンに対する反対であるが、この点は一七五六年の﹃物理的
■血己o冒凹■pppo二ω1−ooド
既にシステムの統一の原理としての超越諭的理念に類比さ
︵33︶ 尚、合成体としてではなく金体としての空間自身が
,ソ■スイ宇ナー ︸1−,ム
単子論﹄以来批判期煎を通じて一貫している︵<牡匡、
れることについては、<o司−一=。=9昌897↓量冨N0目︷o目−
匡9自易o9旨一〇旨﹃一婁o冒蜆O目甘o−ooq庁自自o2o勺ユ■甘−o目δ易−
Hミピω.ooα︶。
︵34︶ この個別的存在者に一神教としてのキリスト教の神が
冨−oU酎−oζ寿一ω.壮牡oo.
g昌呵−1肉竃亘す宍彗訴↓邑−彗一同﹃oo陣量冒o司餉ぎ津血NH一
︵28︶ 我々の圓常的表象からすれぱ外的な原理の主彊をもっ
る、ということの内に既に理性宗数という考えが現われて
重ねられているが、この存在者が諸現象によって規定され
目ソ’ル“ウ▲
て解答とする、ということは理解しかねるが、事実上諸実
体の相互作用を否定し、﹁諸実体のたんなる相互一致を導
,ソ’ル中ウム
節でふれたように、システムの構成員を系列性においてで
﹁自らの内に含む﹂という表現が採用されたことには、1
イソ ズイフヒ ベ■,イフ’ソ
︵36︶﹁自らの下に含む﹂︵︸8伽︶という表現が斥けちれ、
,ノ’− ズイフ■ べ■ヲイ7’ソ
︵35︶ ︸.雪色∋蜆8艘一串顯.O二ω.卓ミ‘
いると考えられる。
入するライプニッツの予定調和諭﹂︵−ξ㎞︶や、偶然的な
﹁任意の変化﹂︵目♂o︶を機縁として相互作用を基礎づけ
るマールブランシ旦の偶因諭を克服する為には、かの原理
,ソ’ルキウム
かoたのであるo
こそ相互作用を真に確立しうるものとされなくてはならな
はなく、同位性︹対等性︺において捉えていたカントの主
■,イソシヤフ’
︵29︶ カントにあっては相互性諭の最終目的は、魂と肉体
■,イソウ十フ︸
との粕互性の可能性を問うところにあった︵くo目一。××
張が現われている。
、 、 、 、 、 、 、 、
最高の実在櫨︹神︺自身の内に否定や変化や抗争をもちこ
︵38︶ 否定概念がこのように位置づけられたことの背景には、
︵37︶ 宙一匡9昌肋o卑戸閏一閏一〇二ω一全阜α一
N00ω︶が、この点については割愛せざるをえない。
︵30︶ カ挙的と言われるのは、異種の多様なものとしての諸
実体が問魍だからであり、同種的なものについては数学的
と言われる︵くo日F ω 蟹 α 印 ︶ 。
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(91) カントにおけるシステムの統一と弁証諭
んだスビノザ及ぴライプニソツの立論への批判がある
︵犯︶ <o筥−.戸■豊汗ヨo巨鶉星o凹茅昌冨o冒o昌oo鶉o彗g■
︵くoq−一目o9︸ωN0−二自.蜆一毛.︶。
甘9H饒匡目oq耐pH2+ω.㎞阜−
、 、
︵40︶ この点は、﹁理性的存在者は自らたてる法則でなけれ
ぱいかなる法則にも服従しない﹂︵ミお企︶、という主張
︵41︶ 従って、この共通︹共有︺という事柄に関して、批判
に端的に現われている。
ヨソ’ル中ウム
期前の相互作用論、批判期の相互性論及ぴシステムの統一
論としての純粋理性の理想の章を、同一の論理を有する議
九八頁以下を参照︶には同意できない。
諭とみなす見解︵小倉志祥、前掲曹、一八五員以下及ぴ一
︵仰︶ くo目FΩ一奏−句一串ω吹9 妻彗片o −目No氏岬自oo目− >三
〇暮o﹃⋮一g印o目ooo﹃考血鼻oくoコーooωN−一〇〇㌫目耐=耐aoユo
︵43︶ くoロー.宍.宛o器■片﹃声目﹃Ooo﹃胴≦−曇o−昌句ユoOユoサ一四〇■
>冨oq等o︵ω暮鼻印昌勺︶1田q’仰ω’亀1
oq色,m■&彗一〇邑貝崖‡一〇〇.ごN−尚、私は二律背反論
としてではなく、そうした﹁矛盾﹂を成立させるエレメン
自身もたんなる二主張︹二項︺閥の﹁矛層﹂に関する議諭
ると考えている。この点については、前掲拙稿を参照。
トとしての理牲の問魑をも含む議論として捉えるぺきであ
︵一橋大挙大挙院博士課程︶
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