Title Author(s) Citation Issue Date Type 近世郡内領における「村」の特質について 中小路, 純 一橋論叢, 101(2): 237-261 1989-02-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/12592 Right Hitotsubashi University Repository (71) 近世郡内領における「村」の特質について 近世郡内領における﹁村﹂ の特質について 路 純 藩制期の寛文九︵ニハ六九︶年に行なわれた検地を通じ、 近世の村落の一般的な規模を見ると、近世後期の天保 郡内百十一力村と呼ぱれる村々がほぽ確定された。 近世の﹁村﹂と言った場合、それを﹁自然村落﹂とみ 五︵一八三四︶年当時、わが国の総人口は、二七〇六万 も、農民生活に重要な意味を有する基本的な、あるいは されているので、これを一応の季掛かりとして全国的な はあるものの、これに近い天保元︵一八三〇︶年当時、 三九〇七人とされ、全国の総石高は、史料によって相違 基礎的な単位となっていたとみなすことに対しては誰し →︺ も異論のないところであろう。 平均を見ると、村高およそ四八O石余り、人口四二五人 三〇五五万八九一七石、村数は六万三五四〇カ村と算定 本論では、ここ数年間筆者が研究を行なって来た現在 ^2︺ 余りとなることになる。 斐国志﹄村里部を専ら拠るぺき史料として検討を行なう ここでは、右に見る全国平均を一つの目安とし、﹃甲 討を行テことにしたい。この地方では、文禄三︵一五九 ことにしたい。周知の通り、﹃甲斐国志﹄は、、幕府によ うした一﹁村﹂の規模及び形態的特質について、若干の検 の山梨県都留郡、当時﹁郡内領﹂と呼ぱれた地方の、そ しかしそれを、当時の農民の、最小のとは言えないまで なす理解は必ずしも自明のものではないかもしれない。 はじめに 小 四︶年、慶長十五︵ニハ一〇︶年の両度の検地を経て、 237 中 一橋論叢 第101巻 第2号 (72) 第1表 郡内領の石商と人口 寛文9(1669)年 1.9625,851(100.O) 4.1841 (100.O) 0,47 文化11(1814)年 2.0911.6685(106.6) 6.2961 (150.5) 0.3フ 四︶年に刊行されたもので、村 人口六万二九六一人を数えていた。郡内領はこの都留郡 人で、文化十一︵一八一四︶年には石高二万〇九一一石、 九︶年当時の石高は一万九六二五石、人口四万一八四一 られていない。第−表に見るように、寛文九︵ニハ六 高・人口・家数について一括して の全域を一円的に占め、﹁上郷﹂︵郡南部︶、﹁中郷﹂︵現 って編纂され、文化十一︵一八一 れるとは言え、非常に完備した史 知る上では、部分的に誤記が見ら 本組織と童言える性格に注目し、 特に﹁村﹂の、年貢を実現する基 料生言うことが出来る。ここでは 野原組、吉田組、川口組の六組に分けられ、各組の名前 村々は、藩制期には、谷村組、黒野田組、猿橋組、上 ることが多かった。 都留市周辺︶、﹁下郷﹂︵郡北部︶の三郷に分けて呼ぱれ ^3︺ 人口・家数・村高及ぴそれと関わ となっている村に﹁市﹂が設けられて、小市場圏をなし ていたが、これは専ら年貢代金の換金のためのものであ る年貢、とりわけ﹁免﹂について 検討することにしよう。 ったと考えられる。この外、桂川沿いの猿橋の東下流域 ^4︶ 十一力村は﹁川通り﹂と呼ぱれ、また宮士山麓の村々も ^5︶ ﹁岳麓﹂と称して独自の生活圏をなしていた。 郡内地方の特質 本論に先立って郡内地方の概略 この地方では、甲斐国衙と鎌倉とを、河口・加古︵髄 坂︶・須走を経由して結ぷ旧鎌倉街道沿いの上郷の方が と地方的特色について説明してお こう。 かれ、元和四︵ニハ一八︶年に宿請けがなされる以前に 古くから開けており、下郷には、慶長期に甲州街遣が引 ^6︺ ︵谷村藩︶を形成し、後、宝永二 は、僅かな山遣が通じていたのみであったと言われてい この地方は、近世初頭に郡内藩 ︵一七〇五︶年に天領化されて以 降明治期まで支配関係に変化は見 哲 石■人 (石) 人 口 (人) 石 高(石) 年 代 注1()内は指数一 出典:『秋元家甲州郡内治繍考』i『甲斐国志』・ 23ε 蛙図 > # 曲 ↓李塾 ↑萌茸 十皿嵜漣 ↓輯凄 L﹁軸苗 ↑塒田 ↓畔田 N匝血 帖占旧 ︵ホ.︶ ︵刊︺ 茸 竃 河 薄 匝く.N0o− 山oド 岨 o o H0山 s〇一ムN0 舳︷− −o︸ 塞o 旨o o’N旧 ○旧〇 一 曽 、 亀㎜.80 Nε‘宝山 岩o〇一N0N ふoN 一 曽 岨 岩−一雷o 塞o N0− N8−薯ooo 宝o −oo︸一εo −aloo遷 oM −︸︸ 0︸ ︸o﹄8 舳午曾︸ 畠−s晒 ︵>︶ 灘 轟蜆 舳o− 曽o oo旨 寒o ︵訓︶ 肯域米 ︷−o■︸oo胆 ︷旨.o“岨 岩■彗① もo〇一旧塞 Ng一蟹] 餉〇一一〇 a.唱o ㎞ドoo 冒一萬 8二0 ミ一旧o N0一︸N −含一旧是 肯域毒 −、.峠 −>雌 −コ峠 瑚創 訓弱 >憩 −週雌 −>峠 涯中普 諒薄 読薄 糧︸漂 8漂眞 ↓θき 〇一竃^ 士一s︸ 〇一卓N− 〇一岩㎞ 〇一彗蜆 〇一〇No 〇一〇舳ム 〇一0NN 〇一〇山︸ ㎞〇一N旧 餉−﹄、 もー讐 “匝一0N 竃−害 8一s ︸〇一㎞− 〇一士轟 o.害o ︵高︶ ︵高︶ ︸一害0 〇一so ︵封︶ ︵封︶ ︵>︶ N一帖o田 士一N屯︸ 〇一害舳 ︸ol−oo a.塞 〇一s﹄ 〇一〇団︷ ○ら含 〇一−舳壮 o‘o阜σ ︸一㎞豊 ︸.o目蟹 〇一〇曽 ︸一目O固岨 ○ム山N 〇一胆oo 冒−寓 −一〇ミ ○乙o凸 十〇〇ε 〇一舳蟹 〇一山o匝 o﹄﹄︷ o﹂塞 〇一〇〇〇血 〇一〇軸値 〇一易㎞ 〇一旨o ︸〇一旧N ㎞﹄.轟 蜆o−お 甘〇一a 占一N亀 舳−os 干o山N 〇一〇血、 o.霧N o﹄ooo 〇一−ミ 昌.o− 胃.曽 g一〇〇唱 竺−旨 s.匝o 昌.胃 〇一含蜆 〇一0No 〇一〇署 ∼o.﹀ 〇一〇童 0一〇Noo 〇一sN −﹄〇一NNo 〇一〇畠 −一〇〇岨︸ ︸一畠o ○ド塞 署一塁 〇一塞岨 〇一昌N −旧ドoo﹄o 岨トo山 〇一養N 十8阜 餉−﹂旧 〇一﹄ooo ■藺ミ 〇一寒旧 〇一−ω口o 牟㎞﹄oo 〇一昌阜 ○寒N 〇一嵩o ナ山5 #一︸−㎞ s一s 8﹄o 0一呂、 〇一〇く 〇一豊o 0一旧葛 o﹄畠 〇一〇s o.唱曽 〇一8oo ω一“露 〇一お︷ ド旨o ー一まoo 葦﹄唱 富.g 中旧壮① 〇一06N、 〇一so N.o零 〇一︷ε −一塁① 〇一Ho︸ ol塞 −一〇〇NO o.“−oo 舳、■O− 〇一a 塞1a # .匝い0 N一審o 禽一Noo 畠−亀 圭一︸o ○乙旧﹄ −一、寓 o.uo] 〇一冨o 0一蓋 ︷一〇g ﹄ら唖o o;N㎞ O﹄8 〇一ζoo 〇一〇︷o 〇一〇︸餉 〇一〇︸o ■宝︸ −−零 〇一崖o 〇一s餉 01−讐 舳一舳N0 o﹄No 〇一山o直旧 ︷ω一〇N ■塞oo ︸N一−N ︷唱ム出 +篶∼ a.旨 占唱一︷N 〇一豊岨 ︸−一〇〇 竃一旧o ㎞〇一固o 蜆o.ε ㎞ola 呂一H﹄ 0一〇①︸ ㎞o−旨 蟹1$ 〇一塞㎞ 〇一〇語 ㎞o−8 〇一〇〇〇 〇一N2 o.soo o.o8 〇一〇a 〇一〇轟 餉一“畠饅 〇一〇筥o− 〇一岨o− 〇一旨o 企一N莇N 〇一曽﹄ 〇一旧oo o﹄ミ o.︸﹄N 中N0oo 中旨N ︸一竃︸ 〇一〇﹄o o1os㎞oーミ も一岩 ムo〇一H一 ﹄o旧一﹄呂 鵠①一︷圭 竃−崖 ]籟一主 〇一小舳、 ㎞〇一〇〇、 5.N葛 宝o﹄0N oo−一〇“o −一︷N− −一昌o 遣ーざ卓 畠一N− 竃一ムo 干藺含 山︸一舳︷ o﹄富 0一山o匝 畠.oo 占P︸岨 −一吉藺 〇一旨N 〇一gN −﹄OO− o.富o o−o3 卓一〇晒^ ㎞o屯㎞ 卓卓−㎞革 ムー﹂o N+餉N oω二〇 NナーN N〇二〇− 旨一崖oo ム十㎞o −o〇一−㎞旧 旨こoo ]oa 凸ドNN 呂.oo ﹀一〇曾 Hぎーooミ 旨一〇H㎞ 胃loo ︸〇一〇〇害 一一〇〇賢 〇一N♂ 〇一〇轟 ■ミー ]N一藺− 〇一ミ藺 N唱一N0 ω]ら︷ 占︸一〇唖 〇一竈“ 靹ω二〇〇 舳〇一〇〇曽 ム〇一山o 旧H一山N 辛−﹄oo 藺︸一蜆N 暑.零 −﹄‘o︸0 −o〇一岨舳 占ω一︸︸ 、018 N00一竃o ︸−︷喧ω ㎞1舳お 旨■寓o ムoo■No︸ け9旧o〇一 騨 鵠∼蜥曽易淳 斗θ茸璃−擁 Ns 呂o sN 亀− −o辛舳 豊o go ︸0H “甘o ミo お山 占o旧 ︸#阜 g− g将 ㎞漂 ム餉﹄ 山旨 岩藺 靹曽 山、oo 旨oo ヨー 主− −]∼ 蜆︸N N旧岨 山o卓 oo曽 ︷舳o a旧 岩︷ 露 蟹o −s −呂 旧o漬 ミー 寄o 舳曽 企胃 ざ ︸富 旧宝 旧o.㎞“旧 ω一−o阜 ①轟一胃 ︼ 舳〇一占o o ﹄ −■ 餉舳岨 oo岨oo1−寄 旧旧旧 旨ざ 価薯 にo# N固︸一︸畠 H0− くo −︸− ミoo 旧s 旨o 山o− 呂o 藺昌 ︸ひoo −呂 −嵩oo ミo 帥 oooooooooooooooooooooo ooooooooo > 寄一蟹 O “o−o〇一畠蜆 8一■、a ムo 岩− 固−oo 岨9oo胃 −宝一N︷H a一血も ︸唖 ひ] ミー −︷− さ−§N −遣g− 阜−一旨o 塞ドH宝 239 蕎翻 'Cll,)Crn ,C LO¥tC/t ],:) C・J 01 te t¥) cr JN O,I]O( OLOb,Ht 雷 轟 曽 拐 竃 s 審 8 8 fH,Sbe4 t CO 'HOC:,COOt 竃 婁 曇§§曇§a§婁ミ蓑§§婁婁曇塞量§§§§婁 砲輔 繭手馨暉甥相 g澁 g 菌由 与s■ 斗温両 ]oooo,o}“}旧Hoooコ}o}占5崖一5 §§竃婁竃婁s姜董 § 爵悶 …□封溝滝舜…κ碑酔]… 塞 亨時 φ潮 o N 前 { ㎞ 山 N 一 0 驚…汁湘蕩汁暴卦竈糞鳶→←箪…湘*冴艶斗与← 〉〉〉 〉 における「村」の緒質について 近 (73) 2号 101 巻 一橋論叢 (74) ed 損甥屈 望■o]蛆 −S一8o 菖菖 嚇寸︾事 a婁as含8s蟹零塞宮 罵湊罫片き栂→{皿 } 1 :Is r;:{ 2 {; **{ } ::: ::! ' B3 ・ : E+ ; t -- ; > > t { 戴ト慈出混斗筆溝揮 いu−.︸No、 曽い一〇冒 竃N二崖 轟N一−寓 ︸魯.oo轟 嵩的一くoo sひ一aN −s‘o富 異〇一−旨 F' 'J re e0 :H Ht'FL H"'te tee¥ Ld: te C!lOt D' c.'c.'c.' ¥' lC" ul"I e . . . ,':q ' ). '$" .' "I Oh] 童害88蟹$呂8昌轟凄 婁§萎姜嚢§§彗§§書 §姜§姜塗………毫§彗≡≡…葦 b) I"coY'teHF 暮……量§§≡≡…………§彗…≡…ミ… C"c." ' o ooh' sge,c, cd ,・)ol t・c・,, ' c.' :t¥'c.' , , S OOOOOOOOOOO t¥,re - ul HOC'] 'J1'eN J J:b : el ,J JLU1 C/1 VIO1"I C!1 e 'GON. 9p O. d: t ,CJIN C.'OOe" 0 :OC/t(:) $d J I,et・t・C,1b, LO , g UIO1:,1 O,:, ・CJI elCt・teO ' '-NC・1JLbD Ot・ C・]C・LOJLLW'O-t --4 C8 8 ,J・),p¥. . PIPPYl . ,, OpYleePOO lrO,・1e C'I ¥I ,N,1,VIC!lC・t 4 CllC.JC・, C・1 ¥,Na _N '!'I eeo CON"JL C.'C.'t¥) 8g, ,:) 蜆︷一〇σ 蜆p曽 ︸N.︸︷ $■ご 餉o‘お −.^o− −一〇〇〇旧 −.0N藺 ω一0No ド舳︸︸ −‘㎞8 N.山塞 ドNo− ㎞o1oo喧 蓄一ち ︸1塞0 ○ド署 お一8 −一、8 H.8︸ 壮い一冒 軍1a . teo'CCOte,* HO N SH ,,,1:C.'HH 〇一嘗o 〇一Nミ ナo旨 ナN志 ナムoo蜆 ナ岩oo ナ亀N ナ岨昌 0一︸蟹 干]$ 01塞O o.舳8 ナos o.藺塞 〇一⋮s や冒口O 阜一も餉o o.ooミ ナ♂− 〇一8N 〇一鵠① O﹄竃 VIC ○し︸︸ 〇一〇唖] 〇一〇No ︸o.8 ^ps ,O: C, O1. ¥]C・,, r・. r ・- I C' 4 C/lC 4LO N tOHC'I crLH tl' OOe N ,. tQ. Cl'. . 8 JLVIC'Cl] O ':, t ) 08 J: . {L. .H OH a b' C'It ) Vlelt ,1' H"'b)E' COt ONHteN:,1 {(,Id C1 , . plpl4 . 9b) ' OO ' ¥] )$"/l¥1'O F'crLH L. { . 4L. dL. d . ?・ . ?, ・1' . 4L. . p 9PPPP9PPP9PPPP999PPP999 PPPPPPPPPPPPPPPPP9PP9P9 C c,1CrJ ul nJLcn'llcnc,10lcn(' c,,c,tc. EA I> l> . , r99 p9 p 99999 t> 〉〉 . . 4Lb.. ' O , ,P)J e Ch¥,C.Jt ) '.$. e"* C.S. 'C. 8 . ?・ ・・ ,)90.,?1. 8 PPP9P9PP9PPPPP9PP99PPP9 > 〉 C!lJ; ¥,¥,,, ¥tC,14 StC.)!.J ¥g・ ,NC・lCl]OIC・. . g . '¥O" O t・H Hppppr H9pt ,re l tee・. C-H(., (:). I ', b'. . 養一8 ○乙OO︸ o.o畠 おー轟 〇一昌山 餉−一㎞o 岨−﹄山 O.蟹ひ o.ooo旧 舳o−塞 ㎞N一︷o 蓋.案 山〇一8 豊.含 o﹄蟹 〇一﹄0N o.−星 o.o塞 o.おα O.−O辛 〇一富い 〇一占舳舳 o.8o o.o8 〇一﹄oo, 〇一ミー 0.−呂 〇一〇8 〉 H HC・e i J:"'1ol cr tl'SbHeo¥]oot'Oo alcntl'LO-'b t C,OOOOOOOOOQOC:,OOOOVICiCIOC:?O . . OLrINNC'L 8NLOO. .'. Hy; eN lFdE" ' 'It , OOt ) b;Nte I":' ::tet:; ' alt¥' Ocl" ] c'l oc!'H :)YIP 90r* Y > >> 240 (75) 近世郡内領における「村」の特質について 湯ミぎ畠望8竃雪8署寵彗蟹竃窒竃 竃曽彗遣轟ミさ鶉ミ鶉sヨ曽s轟亀寓 串今・圓薗←塵>ト)ヰ汁遮苔糊甥→←涛 勘載輔→割篤蟹籔蛾 糖富昨露鴎…壁÷ 蟻 ⇒ 》目法片 善 演芸 豊 薄鴫罰詞蜀……窒薄跨薗南嘉目寧期匝 滝雌φヨ輯;哺、1哨 巨沖漆慈:蟄桑勇 §筆事量峯事§辱§事實鼻参婁冒声 量簿亭事亭婁撃;睾§睾亭§;彗峯ξ §彗§竃毫婁§奪曇§婁§§暮彗竃 尋§……姜蓬嚢曇曇暮婁替……嚢童……塞嚢 N一一壮^ 一 ⋮⋮1 8彗曽昌さs竃8禽亀嵩窒asミ昌 塁主$竃亀雷志ま曽蟹竃5缶6寓お電 §彗婁豪婁婁塞§§曇§……量§毫婁 嚢……套童竃婁§竃婁§§婁§姜§曇…… ⋮⋮⋮ おミ曽.s占お塞畠塞ss室8も8ま §§薯婁§姜§§1…鷺豪§量……曇嚢s §峯書……嚢ミ……電……蟹8≡…§彗§奏 嚢塞姜婁套……8§§昌§嚢…§…竃嚢 8a8a雰旨S;8oo旨易嘗塞§8 8固8く塞嘗旨ご昌o。昌♂’崖oぐ}全 旧]■oo oo ooooooooo o 参箏婁幸婁彗タ弄亭§弄睾鼻……;§ OOOOOOOOOOOOOOOOO 撃芦撃§竃婁事彗§章豊薯ε筆峯争 §§萎§§婁§竃§婁§婁1§婁婁 暮婁彗§§竃竃§婁……蜜婁竃§§l1… 事芦鼻婁筆ξ§彗箪…≡…奉声鼻芦拳 §審亭芦§争事撃撃奉睾峯筆實審睾 冒主鶉s8s9竃亀旨葦♂お 二 s 8 塞8ss8$温曽童s塞8a署童 魯實事事審参筆買事峯参芦筆芦事 β事彗彗参争事撃軍奉睾竃買§審案 s主竃s旨さお彗讐お含宝簑 s竃 圭 邊轟寓さ88湯鴉宝ま遭8圭電宝 9P9■■ド■9■デρデド≒一…一F ■9ド■■■ド■9■9ド■ド■9■ 8呂薯昌富轟ま漫曽お轟旨8竃83 婁婁婁1…嚢§§塞墓董§婁馨婁彗曇§ Pρ999ρρPρρ99999Pρ 9P9冒ρρ9P999ρ9999 ……§§署塞§塞曇§警曇§嚢……婁ミ1 嚢姜竃竃§§姜1§婁嚢曇竃署§……§§ ナト■{^午“一■9午辛9←Pナナナ 干や牛■台“午{^“申や弁弁“戸や} 馨彗馨量婁養§§§塞§毫毫禽ま毫婁 竃婁§……竃1…1蓬§§蔓嚢婁≡1婁……姜 9亨PgP亨ρ99ρP亨99ρP §§嚢曇曇婁§……§姜§§§董§婁 99阜…⊃9999ρ9sgP99ρ…コ 曇§婁曇曇竃§雲§§§婁套§婁曇含 9ρg9亨ρPρρρ9…⊃冒9ρρ …………§姜1§1…婁§量……§§§§…1§§ ←ド■ド9…=,ド■ρ■Pデ“■}O甲 } ㎞ 壮 舳 ^ ㎞ } { } 血 餉 舳 蜆 } 餉 岨 一 8a鴉2岩塞零岩8宝ε竃宝留Sも 〉〉 241 ρ9ρPgPP9ρ亨999ρ9gρ §§§§§婁§曇婁…1§§董§§§ …“9,Pナ、ρ■…“Pρ}■P9■ド9、ド 9s8昌塞sa禺8sぐお蹟暑昌塞岩 〉 > > 一橋論叢 第101巻 第2号 (ア6) t: 一蟹−“oo旧 N#N −§ −旨 豊 o 唖o.豊o 害一、退 卑︸一舳、o −害 ミ o −O〇一靹N ︸O〇一ひN 8一お竃一〇〇、 呂.違害.旨 oーまoo 壮.轟岨 o二s o^a や︸a 98o 〇一8旧 血.N8 o.含o N一㎞o〇一 −一曽o N−o蟹 s : 一−竃− o乙竃 阜−㎞OOO 〇一轟ω 卓一㎞OOO 〇一NOO︸ o.os 舳o.遣 o.8N 血ol遣 ol湯、 98oo 讐一8 −.竃− 〇一−竃 宿を数えていたが、宝永二︵一七〇五︶年の郡内領の天 甲州衛道は江戸内藤新宿から信州下諏訪までの四五力 分の一に達する十六の宿がこの郡内領に集中し、宿の密 藩領が一切見られなくなったこと、また全線の宿数の三 除いて、甲州までの宿駅は全て天領化され、その沿遣に E> 領化に続いて行われた享保九︵一七二四︶年の甲斐金域 度が極めて高いことなどに特徴が認められる。 ・ ︵8︺ の天領化後は、信州高島藩内の蔦木・金沢・上諏訪宿を o.8︸ 岨oもい o.o竃 雪.竃 0180 0−80 圭一ち や靹塞 〇一s− 〇一〇崖 山一−曽 午ひ塞 ols一 O1O全 P二− −一竃ω 〇一竃− 山一固塞 一一㎞山︸ 〇一竃− 〇一〇旨 ㎞㎞一軸N 〉 E>>D> −富 o畠 o 蟹‘ま ,- ÷ 繭 富㎞ =OO$し昌 雪一昌 o o. o_ ごα ぎoo蟹 轟ξ t ' 餉㎞一軸N 〇一鶉 ol塞 膣.温oo午漂 一8ら8o零−昌 雷−ざ 卓岨o〇一〇塞 ︷ 一固]田 旨N一颪O]] 鶉‘OO、 =竃ol匝ご血 3‘oo、 J N0# 山ムH os雪 亀旨︸ 旧ミー凄曽﹂o o1象 一〇宝 Nooo ㎞ 〇一= 塞 o o 暑匝.濠害ご b) −oo −o餉一㎞お −8巨.血雷餉 −讐ま 図篤θト宙O−︺芦− 騨、鳥θ茜蔦函“Ψ戸津房−叶閉〇 C11 富N.、s 鵡φ撃 ︸轟一まM晒喧一㎞o 革、 曽 曽8 =昌 餉①N一竃 NoopN︸ −鶴−山岨] 一§一〇山 ︸−−o 卓 oo岨o〇一−oo軌 H鶴一いO山 嵩山一〇竈壮 捧 と・ 津 法 ヨ*岱 是潜一﹃︷精画蛛﹄一紐慕−O省﹁漬薫﹂. ' 時 輯 鼓 愚 ooo 申 埴 h- o −o− 一0N + c., 三戸渚田曝密﹃肖聲・苛qか窪埼戴㎎∼蟄宙勢曽︵菖鞘θ養喘軍−o轟肯︶﹄。。λーき二ご価蒲宝令属ヰ蒔菖“サ l c,l v, Crl ・l 4 d ,・1 'J aleo b'cr e ) V1 Cll o b,,eo c'er' c,L 午9ド 8塞轟 ¥t :) ,cot , JL COIJt O. O. o o. o. o. o, o. ,:) o. t・) ooo 90 ¥,COCll OO J O(:)O L,e o el t- s E ' co d t - L cFt Y:) {., No c.J ,,, b, d O o t- N o eo o o 9 ,P o. o. c:P 01:. oF* te t ' tQ o c., ,,, co t , {., eo s.) ch oe o t - OO ¥e . C/1. 4L Cl, f!・1. ¥, C!l o. o C1 - t¥' eo cr o. o l t ) <., ol c¥ crl c.- vl ,,t ,lT Ob- ob) Job- o; ,e (:, el (:) cp. o o C!l c.- QQ N c ,c " ** t,] te De E}n> 茸石片oべ戸茸困サ 爵 サ 詳 事 炉 蕩 痔 ピ ・ 2 ふ 漣 方 “ ㌫ ぎ C!l (, e c, Ho (J1 Y:, 4 lrO C・1C・{・V1,:1 ol oL t'1 be c.,・1 ) ,c ' Jb trt (.,Vle /] eo d:,, a . ('Ite ' C!l O {., :) h , o o t ) c., L':, t,e 4 eo, )4 vl c:) ; eo ed, ,:¥ c., l o o l' $Q t ) ¥l ( t¥' te t¥, 4L c., ¥o (; el r , o t¥' c¥ se Y'b)4LLc, o c,4 t¥Q 'J t- te t- c., ) to ,,, E.' t s , , c., co E., crl 4 ,,, t- b,] t s c.4 eo (: b , ¥lOV1 ,・H o e¥ 4 co CO t - 8 3 】o ooooo ¥,) O1 ! t・elo ocr 雪 co eo : o c.- N ee t NOOY:, H Y:,al !!,tet )N O OOJ b, : 昏仙粛茸重貢ホτ㌘価蒲封璽戸NO竃刊−竃ミ㌶5料さ創酎−OOω、余。。剖痔ラ一。 l t ) oo J t NY) oco co eC!l , O O S rh' Y' :+' c: o o,c oco o¥, o c,op vl S > I f ch (・lCO(/l T¥]J 8 o 24,2 (η) 近世郡内領における「村」の特質について 第5表 第4表 人口の分布 村 人 家 2力村 100 人未満 数 50戸未満 100 人以上 200 ” 300 ” 400 ” 150 ” 500 ” 200 〃 600 ” 250 ” 300 ” 350 700 ” S00 ” 900 ” 1000 ” 1100 ” i200 ” 1300 ” 1400 ” 村 村 高 数 ・・/l:㌘ 数 仰/1:㌘ 50石未満 50戸以上 ”’ 村 50肩以上 100 ” 32” 200 ” 15” ” 300 ” 12” ” 400 ” 2” ” 500 ” 1” ” ” 600 ” 5” 400 〃 ・/ll 700 〃 450 〃 100 ㏄/:ll ・/: ・/l ● o” 石 2” 800−900 戸 出典:『甲斐国志』. 1” 500−550 出典:同前. 近世以前の戦国期の領主小山田氏は、現在は都留市に あたる中津森に館を構え、現大月市に所在する岩殿山に 出城を有していた。しかし織田信長次いで豊臣秀吉によ 各村の村高、家数、人口、馬数、 牛数、年貢取米、免、年貢率の実 算値及ぴ上欄に示した各項の指数、 男子人口比率を表示し、各列の最 下部に、それぞれの平均・最大・ 最小・含計をも表示した。村々は、 前の章で見た上申下郷の区域分け る平定後、浅野長政によって谷村に勝山城が築かれ、以 出典1同前. 後、ここがこの地方では唯一の城下町となり、天領化後 〃 2200−2300人 には代官陣星が置かれた。 ” 2100 以下実際の分析の集約点について見て行きたい。 ” 2000 一一郡内地方の標準的村藩規模 ” 1900 はじめに﹃甲斐国志﹄村里部によってこの地方の村々 ” 1800 の村高及ぴ戸口の分布状況を検討し、その標準規模につ ” 1700 ^9︺ いて見ることにしたい。 ” 第2表は郡内百十一力村圭言われる村々の一覧表で、 1500 1600 243 第3表 村高の分布 家数の分布 橘論叢 第101巻 第2号 (ア8) となっている。地理的分布を見ると、上中郷では概して 村は、一九カ村で少なく、六、七〇〇石以上の村も別格 で、四ニカ村に達している。しかしその内五〇石未満の かなように、この地方では村高一〇〇石未満の村が最多 村で、僅か三・一〇四石にすぎない。第3表からも明ら えている。これに対し最小の村は山中湖北岸にある長池 村高が最大の村は下吉田村で、八九八・一八六石を数 合計となっている。 検地高を基本としたもので、囲と畑及び桑・漆の石高の いて検討しておこう。ここに見る村高は、藩制期の寛文 題点も存するが、ここでは﹃甲斐国志﹄所載の村高につ 八・三九三石となる。石高についてはなお検討すべき問 先ず村高について見ると、この地方での平均は一八 これに基いた村高・家数・人口の村数分布表である。 上野原周辺の四区域に小区分した。第3・4・5表は、 村周辺の中郷、C現在の大月市付近の下郷、D下郷の内、 村を数えて過半に達しているので、平均値よりはやや小 ているが、それよりは少ない一〇〇戸未満の村が六〇力 二一三戸前後の一〇〇∼一五〇戸の村は二ニカ村を数え なづていると見られる。第4表に見るように、平均値の の村や三〇〇戸以上に及ぶ村は、この地方では例外的に 棚村の十六戸のニカ村を数えるのみで、戸数二五戸以下 以下の村としては、先記の薄原村と、それに隣接する川 戸数五〇戸未満の村は十八を数えているものの、二五戸 程が一村としての臨界点となっていると見て艮い。他方 道志、鳥沢、桶原、上野原の八力村に隈られ、五〇〇戸 数三〇〇戸以上の村としては、小沼、上・下吉田、秋山、 谷村の西方に位置する薄原村の十五戸となっている。戸 二三・八四戸で、最大は下吉田村の五〇八戸、最小は下 次に家数について見ることにしたい。家数の平均は一 少ない一七〇石前後を一つの標準と見て良いであろう。 性が大きいが、村数分布から見て、平均村高よりはやや 全体として最大と最小の差は八O○石以上で分布の分散 布の関係によるものと恩われる地域的な差が認められる。 現在の都留市から窟士吉囲市にかけて、下郷では、大月 かれよう。 規襖な一〇〇戸から平均の一二〇戸にかけてに標準が置 と現在の行政区画をも参照し、A富士山麓の岳麓、B谷 から中初狩にかけての区域の村は石高が大きい反面、岳 ^10︺ 麓、特に山中湖周辺には石高の小さい村が多く、水田分 244 (ア9)近世郡内領における「村」の特質について 。村別の人口を見ると、平均は五六七・二二人である。 第5表に見るように、三〇〇人以上四〇〇人未満の村が 一人当り石高の多い村としては、中郷の四日市場・古川 一人当り石高は○二二三二石となっている。一二目。当り・ しておこう。二目。当りの石高は全郡平均で一・五二一石、 二〇力村で最も多く、そこから上位にかけて村数は広く 渡.十日市場・中津森・下谷村及ぴ下郷の駒橋・中初狩 ” ” 1” 90 ” 2” 100 ” 1” 200−300疋 1” 分布しており、五〇〇人以上の村は四三力村に及んでい 両宿が挙げられる。これらの村々はいずれも、藩制期に、 6” アO 80 る。人口が千人を越えている村は、十五力村で、全体の 藩主秋元泰朝以来行われた用水整備と新田開発により、 8” 一割強となり、その内二千人を越えるのは、桐原・下吉 ” 田の二力村となっている。最大の欄原村は二二二五人を が少ない村としては、長池・忍草・成沢村など岳麓に多 水田化が進行した区域にある。二戸当り・一人当り石高 9” 60 擁しており、下吉田村の二〇二五人がそれに次いでいる。 く、丹波・小菅村がこれに次いでいる。 〃 谷村は下谷が一五五四人、上谷が二二四六人で、上野原 ” 50 は一八七五人、秋山村や遣志村もそれぞれ一八六一人、 四.六人となる。この内、郡内東部の野由尻宿の九・一■ 一方、二戸当りの家族人数を見ると、全郡平均では 〃 一七三五人を数え、岳麓でも河口湖周辺の川口・成沢・ 人が目立って多く、山中湖の北方にあたる内野村の七・ 30 新倉.船津村では、人口は千人に近く、人数が多い。人 出典1同前. 一人がこれに次いでいる。この外、十日市場・下谷村・ 40 口の最小の村は戸数の少ない薄原村の四七人、次いで川 20” 25” 18” 10” 棚村の七一人となっており、村内人口が一〇〇人未満の 10疋以上 〃 の下隈をなしていた圭言えよう。人口については、上位 8” 村はこの二力村に限られており、五〇人前後が一村人口 2力村 ○疋 数 村 馬 数 にかけての分散が著しく、三〇〇人台と六〇〇人台の二 10疋未満 20 つのグルー・プに分けられ、三〇〇人台後半から平均値の 245 五〇〇人台にかけてを標準的と見て良いと思われる。 ここで二戸当り・一人当り石高についても少しく検討 第6表 馬の分布 一橋論叢 第101巻 第2号 (80) D> O c{> Hr lli i ) E:: ,' l i 2 7 ; t eH c- ¥) ,・s te t¥) ¥) O 4 Cll¥,C: ¥Q rt l Q CllC,) f c. ' ec ¥O ' ¥' p : c' 17 f- Oce t C/1 ¥o C)OOeC I- e¥ te* Cll o ¥la ee H' c te H* c t¥) ce¥V1¥OH¥ a C/1 vl CO e4 (JI ¥O :!l :!i ('1 FJ ' * H C o tC¥oal¥OC/l t ) ¥O : 4 c.Q l¥) ¥O - C > ¥O , F+ I:! = { { i ¥o c:¥ e ]e0 .¥c) d ¥oth) :> b, eo ¥' ¥o? I e l ?lrT_*L htl * ' coco¥o¥o ] c・ c] n FJ hJ FJ th) '¥oe' e¥ t¥) l te o('L-¥o 0ee¥] ¥l :j'**- C!1 V1 4 a¥ C1 /1 CJI ' ¥O I- t¥) C・ C!1> (,, co l COOet * I:I ・調薄 l > J CJs C t・d O ¥1 H Vl Vl O¥C/l¥lO t¥)¥]¥oee Fi では男子人口が多い。特に吉田村に近い小沼村、谷村近 辺の薄原村、大月宿から笹子にかけての宿と上野原宿に 近い鶴島村などの町場に近い村や宿の一部で女子人口が ︵12︶ 多い傾向が認められる。 更にここで牛馬数についても検討しておこう。 一般に牛は西日本の、馬は東日本の家畜の代表とされ ているが、この地方でも牛は全体に少なく、﹃甲斐国志﹄ による隈りでは、中津森村と小菅村に各五疋、丹波村に 二疋が数えられるにすぎず、全郡で三カ村に十二疋が認 ^u︺ められるにすぎない。 しかし馬については、真木村の語源に﹁牧﹂が充てら れることからも知られるように、甲州は古来良馬の産地 ^H︺ ( :) :,( ' 1 ce(・1 1 ¥l I + FJ :t¥)e ! co( ce eo 舗“粥 図 蔦望 創劃・澱薄・>口 > 木立・大曾根村がそれぞれ六人以上で、五人以上は十九 カ村、四人以上が七三力村、三人以上は十三力村を数え ている。この内、家族数が三人台の村十三力村の内十ニ カ村は、中・上郷の村で、下郷では、猿橋の南にある小 沢村一力村を数えるのみで、下郷の村では、二□ジ当り家 ^u︺ 族数が比較的多い。 男女人口について見ると、全郡的に男子人口が多く、 女子人口が男子を上回る村は二五カ村で、全体の二二. 五%となっている。区域別に見ると、女子人口が男子を 上回る村は、中郷では十力村あって、同区域内村数の約 三分の一に達し、下郷では、十四カ村を数えて約囚分の 一に及ぷ反面、岳麓では成沢一力村しかなく、この区域 I O eV] Vl ¥, c., cJJ rl :1! j d OO H Ch o a Q a c) rl c.J F c ・ , , tc・ ・1Oo cJ] vl 4n 4> : ('1 :)el,3 t d:>> tO eococN a ri> 1E* f lil > El o o Q o O l F i D[ t¥) t$ t¥) v・ t¥ 1_ 2左6 (81) 近世郡内領における「村」の特質について として知られており、この郡内地方でも馬は多く、各村 人口四〇四人とされた全国的な平均に比すると、人口で 帯であることから、はじめに見たように村高四〇八石、 九九疋、内野村でO・九八疋、長池村も○・八八疋を数 ○疋となっている。二戸当りの馬数では、山中村でO・ いる。最大は道志村の二八○疋で、最小は猿橋・強瀬の 村が最も多く、一〇疋台、三〇疋台の村がそれに次いで で、これによれぱ、岳麓では、村高はそれ程小さくはな た区域毎の平均村高・戸数・人口・馬数を表示したもの の小さい村が多くなっている。第7表は、第2表に示し いの下郷では、いくつかの例外を除いて、やや村落規模 郷には、村高・戸口の大きな村が多い反面、甲州街道沿 村の分布を見ると、谷村から吉田村にかけての上・中 はそれ程違いはない反面、村高はその二分の一以下に止 の馬数総数は三九六六疋、一力村平均三五・七疋を数え え、忍草・平野村は幾分少ないとは言え、岳麓の村々に 主君ぴ 馬数が多く、道志村がこれに次いでいる。﹁丸尾﹂と呼 いにもかかわらず、それに比して家数・人口が多く、中 ・まっていることになる。 ぱれる宮士火山岩砂に一面に覆われた岳麓の村々での、 郷では、村高が相対的に大きい村が多く、それに対して ている。 馬による駄賃稼ぎの普及を示して余りあるもので、こう 下郷では、概して村高・家数・人口・馬数とも、小さい 村別の馬数を見ると第6表のようになり、二〇疋台の した馬背輸送は中世以来のものであった。村々の馬は、 村が多いことがわかる。村落の標準的規模を考える場合 地方では、村高一七〇石前後、戸数一〇〇∼二一〇戸、 いて専ら数量的な面から検討を行った。次にこうした村 前の章では、この地方の村々の村高・戸数・人口につ 三 集藩形態の特徴 には、こうした地域差の考慮も必要とされよう。 このような輸送手段としてと同時に、深耕を可能とする ^帖︶ 耕起手段及ぴ魔肥給源としての意義をも有していたこと も見逃せない。 人口三〇〇人台後半から五〇〇人台にかけての村をおよ 落の集落形態について、多少の検討を加えておこう。 以上いくつかの点についての検討によれば、この郡内 そ標準的な村と言って大差ないものと恩われる。山間地 2〃 一橋論叢 第101巻 第2号 (82) 近世の村落史研究においては、村内に小字や小村が散 屠し、それらの集合体として村が成り立っていることが 多いことが指摘されており、ここでもそうした村の構成 沿いに集落が形成され、商業機能を持つ﹁街村﹂、数戸 ここでは﹁小村落﹂を四、五戸程度の比較的家数の多い の小集落が村内に散在する﹁小村落﹂、加えて個々の家 ^”︺ 屋が分散している﹁散村﹂の五つの形態に分けられる。 に注意をはらって見 る こ と に し た い 。 ^ 1 6 ︶ 集村 小篠、岩殿、強瀬、宮谷、真木 −五力村 小集落が散在する村とし、二、三戸の小集落が分散して ている。河岸段丘でも比較的広い所には、小沼・鹿留・ この地方の村落では、一般に分散が支配的で、丹波・ 夏狩・谷村・大月・猿橋・上野原などの集村ないし街村 朝日小沢、小沢、立野、塩瀬、川 黒野田、阿弥陀海遣、白野、中・ 街村 −八力村 下初狩、花咲、駒橋、猿橋 いる場合は散村とみなした。それによると各村数は以下 が立地し、また河口湖・山中湖畔にも、密集型の集落が 小村落 ⋮九力村 合、綱之上、藤崎、下和田、葛野 遺志・秋山村に見るように、桂川支流の河谷の﹁入り﹂ 分布していたが、この内後者は宮士の裾野の湧水の関係 のようになり、完全な散村、いわゆる﹁孤立荘宅﹂の村 ^η︶ によるものであろうとされている。 瀬戸、奈良子、林、奥山、浅川、 散村 ⋮七力村 駒宮、 に、点々と集落の連なる山村型の分散と、大月村沢井・ ここでは大月市区域を主に、集落形態の特徴について ^望 見ておくことにしたい。前記の通り、この区域には比較 合計 ⋮二九力村 落は皆無となるが、小村落がやや多くなっていることが 的規模の小さい村落が多い。また枝郷・枝村が多く、出 右に見る集村の内でも、村が一集落から成っているの 強瀬・斧窪・新倉・河合村杖突などに見られるような、 入作関係も広く残されており、いわゆる﹁村切﹂は徹底 は、小篠・岩殿・強瀬の三カ村のみで、他はいくつかの わかる。 したものではなかったと見られる。 集落から村が構成されている。耕地と宅地が裁然と区分 幅狭い河岸段丘上に立地する分散の二つの型が認められ 集落形態については、家屋が集合した﹁集村﹂、道路 24ε (83) 近世郡内領における「村」の特質について 上に住居を移動したと伝えられる。 二六〇−六一年︶の洪水によって家屋六軒が流失し、崖 古くは崖下に人家が所在していたところ、文応年閲︵一 ざれて宅地が奥合した典型的な集村をなす小篠村では、 方の阿弥陀堂によるもので、下方の集落名である吉ケ久 南岸に移動したと伝えられている。この宿名は、村の上 七月の大雨による洪水で集落が流失し、笹子川北岸から われ、阿弥陀海道宿も同様で、享保十三︵一七二八︶年 ^20︶ の門前ないし寺内と言って良い形態をとり、ことに強瀬 は、寺の参詣路伝いに展開し、強瀬・岩殿・官谷村も寺 あって背後に山を請けた地形のため、住宅適地が限定さ 個々の小集落の家数はやや少ない。前記の通り、川筋に 一方、桂川南岸の﹁川通り﹂にかけての小村落では、 保を村の﹁惣名﹂として用いていた。 ^22︶ 村は甲州街遺の回り遣とされていた外、舟着場があって、 れていたことによるものであろう。これらの村の内、塩 街村は町的な性格を持つが、この外、真木本村の集落 いずれにも町的な性格が見られ、この区域では、そうし 瀬村には、大保呂・清水・金畑・申野・新井・下村・山 田・小田・久保・岡の五つの小字を集めて﹁村﹂をなし、 中の七つの﹁村﹂が認められ、藤崎村では、津成・大 ^鴉︺ た町1−商業的要因が強く作用していたことが知られる。 宿・村を上下ないし上中下に分けることは広く見られ、 宿では、江戸に近い方が﹁下﹂、京都・大坂に近い方が ﹁惣名﹂を﹁藤崎﹂村と言っていたとされている。 ^24︶ 桂川の支流をなす葛野川沿いでは、南面傾斜地に下和 ﹁上﹂とされ、河川沿いの場合は、川上が﹁上﹂、川下が ﹁下﹂とされるのが普通であった。この点、初狩には、 て散村が分布して前記の山村型の分散を示し、浅川村で 田・葛野などの小村落が見られるとともに、山合にかけ ﹁波加利庄﹂から分村した際、本来、上初狩として一村 は、峡谷に沿った道伝いに、川窪・平・宮ノ腰の集落が点 中・下初狩のみあって、上初狩がないが、これはもとの をなすべき笹子を、黒野田’阿弥陀海道・白野の三力宿 在している。瀬戸村でも、葛野川を遡って小金沢渓谷伝 ホ・ヲモレ・和田などの﹁小村﹂が点々と連なっている。 ^26︺ いに、瀬戸・常山木・井戸地・コシ百ウ・川津端・ヤツ ク サ ギ イ F ヂ カリツ ^タ ^肪︶ に分村したことによるものであった。下初狩宿はもとは ^21︶ 笹子川北岸に宿があったが、寛文十二︵ニハ七二︶年の 大雨による洪水のため全て流失し、南岸に移動した圭言 249 第2号 (84) 第101巻 一橘諭叢 もこれと同様であるが、道志村や上野原村の場合には、 ^〃︶ 既に多くの実地調査と研究の行なわれた綱原村の場合 村落規模とその特徴の検討に役立つ史料として、享保十 ついて、いくつかの検討を行なった。ここで、全郡的な ^㎎︶ ^四︺ 村の複合構造をとっていたことがうかがわれる。そして の﹁組﹂の下に更に小村があって、﹁村﹂1﹁組﹂1小 た﹁組﹂は、比較的村域の広い村にしばしぱ見られ、そ なわれた年貢現物納の全廃と皆金納の実施に合せて、当 府藩の廃藩に伴なう甲州全域の天領化と、その直後に行 この享保十年の﹁郷帳﹂は、同九︵一七二四︶年の甲 についても合せて検討することにしたい。 ︵一七二五︶年の﹁郷帳﹂により、各村の年貢取米と免 ^30︶ ここに言う小村は、それ自体﹁村﹂と言っても良い集落 時の代官河原清兵衛が作らせたもので、この間に郡申の 村内に﹁組﹂と呼ぱれるまとまりが認められる。こうし をなしていたことが多い。 百姓が厳しく糾しを受けたと伝えられている。その年貢 ^3ユ︶ 取米と免は第2表に記載した。この﹁郷帳﹂の免は、取 以上のように見ると、この区域でも宿など一部を除く と、村内に小字や小村が散在し、それらの築合体として 米■享保村高とほぽ一致しているので、﹁毛付免﹂では なく﹁高免﹂であろう。表には、年貢取米の、﹃甲斐国 ^㏄︺ 村が構成されていることが多いことがわかる。おそらく そうした小字や小村は、近世村落の成立以前にあってこ の地方で中世に一般的であった﹁郷﹂において﹁小村﹂ この村高は文化十一︵一八一四︶年のものであるが、享 保村高とは僅差であるので、免を見る際の参考となろう。 志﹄所載の村高に対する比率をも年貢率として表示した。 さて、村落の集落形態については、この点について確 をなし、近世村落の原基形態となったものと考えられる。 認するに止め、次に年貢、特に﹁免﹂について考えてお よれぱ、甲州では、村により籾摺の相違が多く、その増 の帳面によって﹁取箇﹂を付けていたとし、甲府代官吉 の増減を記し、代官の交替の時には、それを引継ぎ、そ 減にも変化があったので、﹁免取帳﹂という帳面に村で 寛政六︵一七九四︶年の蹴文を持つ﹃地方凡例録﹄に ︵一七二五︶年の年貢取米と免 くことにしたいo 四 享保十 ところでこれまで郡内地方の村落の規模と集落形態に 250 (85)近世郡内領におけるr村」の特質について 田久左衛門の時に、籾性に不同が多く、百姓が難儀に及 こうした免の相違が生じた理由について・﹃地方凡例 時の免改めは、そうした籾摺の関係からと言うより、寛 録﹄は、もっぱら籾摺の相違から説明しているが、この ている。 ぷということであったので、﹁免取﹂に取決めたと伝え 轟︶ 同書は後年の編著であるため、史実の記述については 検地を行なうことが困難とされていたため、免を上下さ 十年を経過した時点で生じた実生産カの相違を、新たに 元文五︵一七四〇︶年から寛延二︵一七四九︶年まで甲 せることによって適正に調整することを目的として行な 文検地時の村高の付け方の村による差及び検地以降約五 府代官を勤めていたことが確認される。甲府代官所で行 われたものと恩われる。こうした免の設定にあたっては、 検証が必要とされる部分も多いが、この吉田久左衛門は、 なわれたと言うこの﹁免取﹂が郡内領でも行なわれたか 土地生産カのみではなく、村々の商・手工業収益も考慮 ^ 硝 ︶ どうかは判明しないものの、郡内谷村代官所は、石和代 され、郡内領の場合、これと同時に皆金納が行なわれた ” ” ” ” 80 12 H 70 o'r 90−100 出典:『郷帳』 れている場合は、寛文検地当時からそれ程の増加を見て の村高に比して上昇していたこと、また免が低く設定さ 土地生産カと農外収益とを合せた経済カが、寛文検地時 れるが、ここでは、免が高い村では、その間にその村の 以上の点からすれぱ、検地村高自体の検討も必要とさ われる。 の代金納額の算定基準としての性椿も強かったものと思 言っても、実納されるわけではなく、石代納にあたって ので、結局のところ、免改めによる年貢取米の算出とは 官所附であり、この享保十年の﹁郷帳﹂には、村毎の ﹁免﹂が記されているので、おそらくこの時期には、甲 〃 ” 2tf 府同様に﹁免取﹂が行われたものと考えて良いと思われ 〃 ” いないか、あるいはむしろマイナスとなっていたことが 251 18 Jr 60 37 p 50 20 p 40 2'r 20 15 H 30 1" 10 1; t 0 以上 る。 第8表 免の分布 一橋論叢 第101巻 第2号 (86) 第1図免の分布 66.34 61.44 一(:1ニム 84・9514560 46・41} 。蛎.22 ’ 82.25 , 153.37 訓.19 0.ヨ 59.珊 、46 、 ・475昌.36 73.畠4 59.47 54,00 、 、 ‘ 、 、51.00, 36,65、 、 ’ 3.45 、 、 、 、 、一’’ 3.86 73.38 \ ⑨ 、 46.30 , 43.55 27.03 〃 \ 18.95\ 9.65 単位:%,出典:享保1i年『郷帳」。 注:国土地理院発行、20万分1地図による。 252 (87) 近世郡内領における「村」の特質について 一応予測される。 上の村は少なく、三〇から七〇の間に大多数の村が含ま 二力村で十一・一%となっている。三〇未満及び八○以 六・七%、三〇台が十五力村で十三・九%、七〇台が十 四〇台が二〇カ村で十八・五%、六〇台が十八力村で十 四・三%に達し、それを中心としてほぽ正規分布を示し、 8表のように、五〇台が三七カ村で最も多く、全体の三 ︵%、以下賂︶となる。一〇単位で村数を区分すると、第 場が置かれたことがあったが、いずれも山村的色彩の一 両村とも現在の大月市七保町にあたり、林には一時村役 林村は村高二七石余り、奈良子村は三五石余りの小村で、 免が八○を越えており、全郡でも最も高くなっている。 とりわけ都留郡北部の林村及ぴ奈良子村のニカ村では、 〇1四〇台の村が多くなっていることがわかる。 などと南西部の窟士山麓、五湖沿岸の村々では低く、三 から東にかけての北東部、中央都諸村の内薄原・玉川村 の村が多いのに対して、百蔵・扇山北面の駒営・浅川村 央部諸村の内四日市場・古川渡村などで高く、六〇以上 れるが、免が五〇以上の村は、合せて六九カ村で、全体 段と強い村である。奈良子村では、天領化直後の宝永二 この点を考慮しつつ免を見ると、平均は五七・〇一 の過半数に達し、免は五〇台の高目、平均値近くに標準 点線 で 囲 ん だ 。 の村々は実線で囲み、免が比較的低く五〇未満の村々は する場所に免の数値を置き、免が比較的高く、六〇以上 の免の分布図である。この分布図では、およそ村が位置 水田の多い区域であるので、平野部の村落にやや近い性 中央部の谷村から吉田にかけての往還沿いの村々は、 二がそれに次いでいる。 の九・六五で、平野村の一八・九五、成沢村の二四・五 二年間には、免が一〇一に及んでおり、村高よりも取米 泰︺ の方が多くなっていた。一方、免が最も低いのは山中村 ︵一七〇五︶年から正徳元︵一七一一︶年にかけての十 これによって見ると、免は、現大月市の山間都から小 格を持っていたと思われるが、山村の場合一般に、本田 が置かれると見て良いであろう。 菅・丹波に続く、小金沢山系から大菩薩山系にかけての 畑の石高は小さいにもかかわらず林産物をはじめとする この免の村別分布を見るために作成したのが、第−図 北都山間地、上下吉田村加ら東にかけての南東部及ぴ中 253 一橘論叢 第101巻 第2号 (88) 産物が各種あるので、免が高く設定される生言われてい があり、岳麓、特に河口湖沿岸の村々では、村高が比較 記のように、当初の村高の付け方についても検討の余地 ここに見たような免の相違の生じた根拠としては、前 る南 西 都 及 ぴ 北 東 部 の 村 々 と で 差 異 が 認 め ら れ る 。 る北都及ぴ南東部の村々と、それが比較的低くなってい 同じく山村とは言っても、免が比較的高く設定されてい る。しかし上記の検討によれぱ、この地方の山村都には、 とになると見て良いようである。また村落分布について にあたるところが、およそ一家一石半にあたっているこ の村に比すると村高が少なく、一般の地方では一人一石 村がおおよそ標準的規模の村圭言うことが出来る。一般 ち、家数一〇〇∼二一〇戸、人数三〇〇∼五〇〇人程の 第一に、この地方では、ほぼ一七〇石内外の石高を持 め、本稿の結ぴとしておきたい。 いて考えてみた。ここで本論で明らかにした諸点をまと 以上甲州郡内地方の村落についていくつかの問題につ 的大きいことが知られるが、天領化以降の農民経済を見 見ると、下郷では、上中郷に比して、小規模な村落が多 ^筆 る上では、この間の小商品生産、特にこの地方の特産物 課題圭言えよう。しかしそうした村と農民経営の展開過 現在の大月市部の村々の内、二九例を主に検討した。そ 第二に、この地方の村落の集落形態の特徴について、 い。 程を見るためには、いくつかの村を対象として、村落構 れによると、集村が五、街村が八、散村が七、集村と散 であった郡内機業の動向について考えることが不可欠の 造の変化を克明に辿ることが必要とされ、容易には明ら とがわかる。この小村落には、個々の小集落の家数が比 村の中間形態圭言うべき﹁小村落﹂が九となっているこ ^η︺ ﹃山村の構造﹄によって解明された忍草村の歴史は、そ 較的多い村落と、分散傾向が強く散村に近い村落とがあ かにし難いため、今後の課題とせざるをえない。既に うした研究にとって今目までの貴重な蓄積となっている るが、この集落形態は、この地方の村落の基本形態とな ている場合が多い。村の中が﹁組﹂に分けられている場 っていたと言って良く、﹁小村﹂が村の構成単位となっ と言えよう。 五結び 254 (89)近世郡内領におけるr村」の特質について 合もいくつか認められ、そうした村落の組成については、 家族構成や同族組織との関連においても検討を必要とし との関連での交通関係の研究も必要とされるが、その特 ^39︶ 質の解明については、この時期に一般的であった﹁郷﹂ 本論では、余りに数値化された現象の把握に終始した の間題と共に今後の研究課魑とせざるをえない。 ^柵︺ 第三に、享保十︵一七二五︶年の年貢及び免について のではないかとの危倶も去り難いのであるが、右の点を ようo 見ると、免は村による差が大きいが、平均は五七・〇一 確認し、本稿のまとめとしておきたい。 ︵2︶ 関山直太郎﹃近世人口史の研究﹄︵竜吟社、一九四八 方史研究﹄一一︵一九五四年︶が参照される。 て来たが、戦後における論点については、さしあたり﹃地 ︵1︶ 近世の﹁村﹂については、旧くから研究課魑とされ ^41︺ となっており、全体として見ても、その前後が標準とな っていたと見て良い。免の分布を見ると、北部山間地と 南東部山間地にかけて高く、桂川沿岸のこの地方の北東 部と南西部にかけての宮士山麓では低い傾向が認められ 年︶八三ぺージ、菊池利夫﹃新困開発﹄︵至文堂、一九六 ︵3︶ ﹃甲斐国志﹄には各種の刊本があるが、本稿では、﹃犬 三年︶二二三−二二五ぺージ。 る。この点については、寛文検地における村高−検地分 米の付け方についての検討をも必要とするが、絹織物を 日本地誌大系﹄版、第一巻︵雄山閣、一九六八年、以下ぺ はじめとして諸産物の多いこの地方の特質との関連でも ^珊︶ 考 える必要があろう。 会、一九三四年︶をも参照した。周知の通り﹃甲斐国志﹄ ージ数は同書︶により、﹃甲斐史料集成﹄第四巻︵同刊行 は、文化二︵一八〇五︶年に甲府勤番士となった松平定能 以上、本論では不十分ながら右の諸点を明らかにした。 ところで周知の通り甲斐国にあっては、中世後期にか が、幕府の内命によって編纂にあたったもので、文化十一 にあたった。その成立事憎については、﹁﹃甲斐国志﹄編さ 内地方については、下谷村の森島其進が史料の採訪・編纂 この時期の研究にと㌧ては基本的な史料となうている。郡 社・産物等、当時の地誌的知識が詳紬に記録されており、 ︵一八一四︶年に成立した。本諭に見た村里部のほか、寺 けて、﹁九筋二領﹂につながる主として交通路による区 分が形成された。それが近世の行政区分となり、いわゆ る国郡制とはやや異なった支配・地域構造が形成されて いた。そうした支配・地域構造については、言うまでも なく旧武田氏以来の支配構造、特に﹁役の体系﹂の間題 255 一橘諭叢第101巻第2号(90) んの次第L︵前出 ﹃ 大 日 本 地 議 犬 系 ﹄ 所 収 ︶ に 詳 し い 。 ︵4︶ 村名σ内訳については、﹁甲州御領ノ大略﹂︵﹃秋元家 一宮町国分に移り、更に御坂に移ったとするいわゆる﹁国 り、現在の御坂町と推定されているが、春日居町国府から 跡をめぐって﹂﹃文化史学﹄二一、一九六六年︶。甲斐国内 五−七六ぺージ、木下良﹁国府跡研究の諸問魑−甲斐国府 の郡域には時代的な変化が見られるが、都留郡について、 府三転説﹂以来の諸説がある︵﹃山梨県総合郷土研究﹄七 ︵5︶ ﹁川通り﹂については、小菅・丹波及ぴ﹁岳麓﹂を除 近時、磯貝正義氏は、その都民支配及ぴ八世紀末に甲相国 甲州郡内治綴考﹄都留市教育委員会、一九六六年︶四八∼ く桂川沿岸、或いは谷村より下流の桂川沿岸に充て、範囲 五四ぺージを参照。 を広く取る見方もあるが︵山梨県師範学校・同女子師範挙 国に属していたと言うより、むしろ相模国に密接に結び付 境争諭が生じていることなどから、七世紀以前には、甲斐 いていたとする仮説を示されている︵﹁古代﹂﹃大月市史﹄ 〇・一四四、二五〇ぺージ︶、より限定された村域を呼ぷ ことが多かったものと思われる︵﹃甲斐国志﹄三〇六ぺー 七、七〇1七一べージ、﹁古代の甲斐国巨麻郡について1 通史篇、校倉曹房、一九七八年、三七、四二、五六−五 校編﹃山梨県総合郷土研究﹄甲府朗月堂、一九三六年、五 ジ︶。﹁岳麓﹂についても、御坂山系にかけての河口湖・西 のち﹃郡司及ぴ架女制度の研究﹄吉川弘文館、一九七八 郡成立についての一考察﹂﹃信濃﹄十四−一、一九六二年、 湖北岸を﹁湖北﹂として区別する場合もあるが︵同、一四 いる。 近辺とする﹃甲斐国志﹄以来の通説の外、古河渡に﹁古郡 年︶。都留郡衝の所在地についても諸説が見られ、上野原 四ぺージ︶・本論では窟士山麓、五湖周辺の村域を指して ︵6︶ この点については、古島敏雄編﹃山村の構造﹄︵御茶 五ぺージ。 ︵7︶﹃圓本地誌﹄第十一巻︵=宮書店、一九七二年︶二五 問魑があるが、これらの諸点については、坂本美夫﹁甲斐 辞書﹄冨山房、一九〇七年、第二版、二四七九ぺージ、 ﹁古郡郷﹂の項︶も見られる。この外、郷域比定などにも 岩流のため埋没したとする吉田東伍氏の説︵﹃大目本地名 戸﹂を充て、ここに所在したのが、窟士山の噴火の際、熔 の水書房、一九五二年︶四八ぺージ所収の概略図が参照さ ︵8︶ 甲州衛道についての研究は、手塚寿男﹁甲府家時代の れる。 甲州海道﹂︵﹃近世甲斐の史的研究﹄山梨日目新聞社、一九 ー研究紀要﹄1、一九八三年︶が最近の研究として参照さ の郡郷制﹂︵﹃山梨県考古博物館・山梨県埋蔵文化財センタ れよう。 八四年︶、山梨県教育委員会編﹃甲州街適﹄︵一九八五年︶ については、一般には十世紀の﹃倭名類聚抄﹄の記載によ が参照されるに止まり、極めて少ない。甲斐国衙の所在地 256 (91)近世郡内領における「村」の特質について ︵12︶ なお、出生性比は、ふつう女一〇〇人に対し、男一〇 八七年〃﹄産業統計研究社、一九八七年、八三九ぺージ︶、 四から一〇六人となっているのに比し︵﹃統計資料集∠九 ︵9︶ なお本論では、﹁標準﹂を、この地方の特徴を代表す 考察を試みたが、それを普遍化してそのまま標準とするこ こ二ではおよそ一〇四となり、やや低目となうている。第 る村落規模を示す一つのモデルとみなし、平均値を中心に とには危険性が伴なうので、村々の統計的分布をも配慮し 2表には男子の構成比を示した。 ︵13︶ 明治十二︵一八七九︶年の﹃甲斐国現在人別調﹄︵一 て検討を行なった。平均値については﹁統計的代表値﹂と 四九ぺージ︶によれぱ、当時都留郡では、南で六疋、北で される蜷川虎三﹃統計挙概論﹄︵岩波書店、一九三四年、 れる。平均値についてはこの外、マールィー﹃﹃資本論﹄ 一六〇∼ニハ一、二八九∼三〇五ぺージ︶の指摘が参照さ ︵帖︶ この点、宿であった猿橘に馬が皆無とされている二と ︵14︶ ﹃甲斐国志﹄二九三ぺージ。 は六七疋の牛を数えているが、馬に此すると少ない。 と統計﹄一一七∼一七三ぺージ、﹃エンゲルスと統計﹄七 は、やや問題を残すが、﹃甲斐国志﹄の記載による。また 〇∼七八ぺージ︵是永純弘監訳、大月書店、一九八○年︶、 オフシェンコ・ヴィターリナ﹃レーニンと統計﹄一四五∼ 同曹刊本では、馬の総数が三八九六疋とされているが、こ 算値との相違が多いので、実算値を適宜参照した。また役 同書では七としているが・これも十二の誤配と思われ、実 れは三九六六疋の誤写ではないか。牛数総数についても、 一八二ぺージ︵佐藤 博 監 訳 、 同 前 ︶ を も 参 照 。 地では、上田をおよそ一石五斗前後としており、これが近 ︵10︶ この地方の場合、藩制期の寛文九︵ニハ六九︶年の検 世を通じて用いられていた。この石高は当時の水田収穫高 ﹃目本農業技術史﹄︵時潮社、一九五四年、のち同﹃著作築﹄ 第六巻、東京大挙出版会、一九七五年、四八八−四九九ぺ 畜の農業技術上の意義とその分布については、古島敏雄 ージ︶を参照。同書も指摘されるように、牛と馬の分布に としては妥当なものと考えられるが、裏作麦などについて ︵11︶ 野田尻の家数は、﹃甲斐国志﹄には六三戸と記されて は含まれていない。 いるが、これは天保十四年の家数一一八戸︵﹁甲州道中宿 は実際には可成りの入糧があり、特に馬は九州にも多い。 多い二一とについては、永原慶二﹁封建制下における村の発 と呼ぱれる小字的小集落が村落の構成単位とされることが ︵16︶ 近世の村落においては、しぱしぱ﹁組﹂﹁方限﹂﹁名﹂ 村犬概帳﹂︹﹃近世交通史料集﹄第六巻、吉川弘文館、一九 い宿のみの戸数或いは百十三ないし九三の誤写か百の脱と 達﹂︵同﹃日本封建制成立過程の研究﹄岩波書店、一九六 七二年︺七四三ぺージ︶に比して少なすぎ、枝郷を合まな 一家族当り人数が非常に多いのはそのためであろう。 思われるが、断定すべき根拠を欠くので、記載通りとした。 257 ‘ 一橘論叢 第101巻 第2号 (92) 究﹄同前、一九七三年に所収︶によってつとに指摘されて 叢﹄四七−三、一九六二年、のち﹃日本中世社会構造の研 一年、五三二ぺージ︶、﹁荘園制支配と中世村落﹂︵﹃一橋論 の例外を除いて、耕地保有状態は判明せず、描写にも精粗 時代をさかのぽっている。但し近世の村絵図では、一、二 ︵19︶ 集落形態については、小川琢治﹃人文地理学研究﹄ があるので、現地調査が不可欠とされる。 いる。また近藤忠氏は、近世の紀州では、村藩の構成単位 落地理学﹄︵同、一九五五年︶一〇一∼一一四べージ、﹃総 ︵古今書院、一九二八年︶四三∼八一ぺージ、矢島仁吉﹃集 合郷土研究山梨県﹄二〇九∼二三四ぺージ等が基本的な分 として﹁小名﹂が広く存在しているとされて−いる︵﹁紀州 流域について﹂﹃史林﹄四一−一、一九五九年︶。この郡内 における藩政の村の集落構成と内わけ村−主として圓高川 地方の場合、﹁組﹂とされることが多く、小村を﹁村﹂と ては、ω新田百姓村、ω草分け百姓村、㈹根小星百姓村、 類法について参照される。村藩の成立要因による分類とし 国男氏の分類︵﹁郷土誌論﹂郷土研究社、一九二三年、の ω門前百姓村、㈲名田百姓村、㈹班田百姓村とされる柳田 呼ぷ例も見られる。 ︵〃︶ ﹃総合郷土研究山梨県﹄二二一、二一九ぺージ。 ち﹃定本柳田国男集﹄第二五巻、筑摩誓房、一九七〇年に ︵18︶ 集落形態の検討では史料を得ることが難しく、国土地 理院発行地図及ぴ﹃犬月市史﹄史料篇︵校倉書房、一九七 ︵20︶ 同村養福寺御住職野本宗幹氏の御話による。文献史料 所収、六八∼七三ぺージ︶が参照される。 絵図がいくつがあるので、本論の村数二九例より少ない︶ 六年︶所収の村絵図二六点︵一点に二力村以上を記した村 ・つo についてはなお未発見であるが、錨銘が一つの根拠となろ ︵21︶ ﹃山梨県市郡村誌﹄第九冊︵一八九四年︶一ぺージ。 のが四、十七世紀のもの一、十八世紀のもの二、その後の によった。村絵図の内分けは、作成年度の確定が困難なも 十九世紀前半のもの十七、一八五〇年以降幕末のものが二 ︵22︶ ﹃甲斐国志﹄二九一−二九二ぺージ、﹃大月市史﹄史料 ︵26︶ 同前、二九七ぺージ。なお奥山村には、金山があり、 ︵25︶ ﹃甲斐国志﹄二九七∼二九八ぺージ。 年︶所収、天保九年二月﹁村明紬帳﹂三六八ぺージ。 ︵脇︶ ﹃甲州文庫史料﹄第四巻︵山梨県立図薔館、一九七五 ︵刎︶ ﹃甲斐国志﹄三〇五ぺージ。 繍、八三〇⋮八三一ぺージo となっており、大部分が十八世紀以降のもので、﹁代官の 仰せにより差し出す﹂旨が記されているものが多い。十九 世紀前半のもの十七点の内、文化三︵一八〇六︶年前後の ﹃甲斐国志﹄繍纂時に森島共遼に差出されたことが確認さ れる村絵図は十二を数えている。これらの絵図中年代の最 も古いものは、下和田村のもので、絵図に記載されたとこ ろでは、万治元︵一六五八︶年とされ、他村に比し可成り 258 (93) 近世郡内領における「村」の特質について 二八∼五三ぺージ。数値は前者を基本としたが、明瞭な誤 ︵30︶ 犬月市立野、上条家文書及び﹃甲州文庫史料﹄第四巻、 三六五ぺージ︶o 記や実算値と著しく相違する場合及ぴ空白となっている場 国志草稿﹄上、同刊行会、一九七六年、一五八ぺージ︶、 寛永十︵ニハ三三︶年まで採掘が行われていたが︵﹃甲斐 小林利久氏は、根小星集落と推定されている︵﹃大月市史﹄ 特に鉱山集落は残されてはいない。また浅利村については、 た。長池村については、両者ともに記載がないので、太囲 けているが、前者の﹁郷帳﹂に記載があるのでそれによっ 合は実算によって算出・補正した。立野村は、後者には欠 梨県北都留郡禍原村犬垣外を中心として﹂︵﹃民族学年報﹄ 参照︶による。﹁郷帳﹂では、三カ村が、上・下を合わせ 勝也﹃近世における駄賃稼ぎと商品流通﹄︵第2表の注を ︵27︶ 喜多野清一﹁甲州山村の同族組織と親方子方憤行−山 史料縄、八三三ぺージ︶。 県北都留郡綱原村について﹂︵同前︶、磯田進﹁農村におけ 二、一九四〇年︶、小川徹﹁山村の農業生活と農具−山梨 ︵31︶ ﹃北都留郡誌﹄︵同郡役所、一九二五年︶ 二一九ぺージ。 ない一〇八カ村となる。 ︵32︶ なお近世の年買賦課法には、﹁反取﹂と﹁厘取﹂とが て一村とされているので、村の総数は百十一より三カ村少 則﹃親分子分と本分家﹄︵御茶の氷書房、一九七八年︶、 あり、前者は関東の、後者は上方の仕法とされる。通常、 て︵二︶﹂︵﹃社会科学研究﹄五−四、一九五四年︶、服都治 ﹃農村被会の研究﹄︵同、一九八O年︶三四三ぺージ以下。 関東筋には、関八州に加えて伊豆・甲斐が含まれるので、 る擬制的親子関係について−特に村落構造との関連におい また喜多野氏﹁同族組織と親方子方慣行資料﹂︵﹃民族挙年 言われている﹁免取﹂の場合、単に﹁厘付﹂が行なわれた 甲斐の場合﹁反取﹂が行なわれるところであるが、ここで ︵28︶ 道志村の場合、久保・小善地・竹之本・川原畑・神 に止まるか、﹁厘取﹂が行なわれていたかについては確証 ている。 地・善野木の六つの﹁組﹂とその外十二の村名が認められ 見にかわって有毛検見が行われ始めていたことが留意され を得ない。また、この間の年貢賦課法については、畝引検 報﹄三、一九四一年︶では、開地村などについて検討され る︵伊藤堅吉﹃道志七里﹄同村史編纂資料収集委員会、一 ︵29︶ 上野原村の場合、本町・新町・西風・向風の四つの 九五三年、二一ぺージ・﹃甲斐国志﹄二八八ぺージ︶。 二︶年説︵大石慎三郊﹃増補版・享保改革の経済政策﹄御 茶の水書房、一九六一年、一五二−一五五ぺージ︶と、享 よう。有毛検見の実施年度については、享保七︵一七二 保期においてはなお被免時等の特殊例に止まり、寛保二 ﹁組﹂があり、寛文検地時に既にこの四組が見られ、文 ︵﹃上野原町誌﹄同町役場、一九五五年、一九八三二〇三、 政八︵一八二五︶年当時には、各組に名主が認められる 259 (94) 一橋論叢 第101巻 第2号 ︵一七四二︶年に笑施を見たとする説︵森杉夫﹁近世にお 元家甲州郡内郡内治綬考﹄七四∼八五ぺージ︶。 ︵η︶ 前出、一∼二三ぺージ。 ︵38︶ この点については、﹁山寄りの村﹂についての﹃地方 ︵36︶ ﹃大月市史﹄史料編、一五六ぺージ、解説等。 藩穂集﹄︵﹃日本経済叢薔﹄第九巻、同刊行会、一九一五年、 ける徴租法の転換−畿内綿作徴租法を中心として﹂﹃史林﹄ されてはいない。しかしそれが、従来の﹁根取﹂に制約さ 四八−一、一九六五年、二二ぺージ︶とがあり、未だ確定 れていた畝引検見法にかわり、実生産カに基づき、生産カ ︵39︶ この点については、相田二郎﹁戦国時代に於ける東国 一五∼一七ぺージ︶の記述などについて検討したい。 たことについては一致を見ている。有毛検見法では、商・ の上昇分を年貢に取入れることを目的とした検見法であっ を中心として﹂︵﹃歴史地理﹄五一−三、五、六、一九二八 地方の宿・間屋・伝馬−特に今川・北条・武田三氏の分国 年︶、柴辻俊六﹁甲斐武田氏の伝馬制度﹂︵﹃信濃﹄二六− 手工業収益をも合む生産カの上昇分を、年貢形態で吸収し 一、一九七四年、のち永原慶二監修・柴辻編﹃戦国大名諭 ようとしてい 。るが、次第に年貢形態以外の直接的な形での ︵33︶ ﹃地方凡例録﹄上︵近藤出版社、一九六九年︶一六〇 た﹃甲州古文奮﹄第三巻︵角川書店、一九六九年︶によo ︵40︶ この地方では、﹁村﹂という呼称は、柴辻氏の編され 収︶が参照される。 築一〇・武田氏の研究﹄︹吉川弘文館、一九八四年︺に所 増収が目立つようになる。 ∼一﹄ハ一べージ。 ︵34︶ ﹁甲州代官付﹂︵﹃甲州文庫史料﹄第六巻、一九七八年︶ 二九⊥ハページ。。 て知ることの出来た範囲では、天正十九︵一五九一︶年に ︵砧︶ 犬月市奈良子、棚本家文薔。免が十以上となることは、 有毛検見においては間々起こり得ることであるが、この奈 二六日付の小佐野能秀置文に﹁谷村様﹂とする記賊が認め 初出し、それ以前にあっては、永禄六︵一五六三︶年五月 られる︵四三ぺージ、二〇八九号文書︶以外は、﹁郷﹂名 良子村の場合、村高は近世初期以来殆ど変わらず、免も極 られていた可能性もある︵﹃大月市史﹄史料編、一五六ぺ めて高かった二とからすれぱ、村高が実際より少なく付け は、徳川の関東移封と五力国総検地が行なわれているので、 その影響ではないかと考えられるが、確証を得てはいない。 が一般に用いられていたらしい。この天正十八−十九年に ︵41︶ なお本稿は一九八七年度史学会大会報告の一部に基づ ージ所収の慶畏十六︹ニハ一一︺年﹁土免定事﹂を参照︶。 る揚合も多く、畑倉村では、寛文検地高が過重であったと くものである︵﹃史学雑誌﹄九六−二一、一九八七年、七 石高は法定収穫高の性格も強いため、実際の収穫高と異な 地が行なわれた︵﹃甲斐国志﹄二九五∼二九六ぺージ、﹃秋 して農民から訴えがあり、元禄一〇︵ニハ九七︶年に再検 260 (95) 近世郡内領におけるr村」の特質について 八ぺージ参照︶。本論をなすにあたっては、多くの方々の 御助カを頂いた。記して謝しておきたい。 ︵一橋大学大学院博士課程︶ 261
© Copyright 2024 ExpyDoc