Title ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革--研究史と課 - HERMES-IR

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ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革--研究史と課
題
石橋, 悠人
一橋研究, 34(4): 31-44
2010-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/19368
Right
Hitotsubashi University Repository
3ユ
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
一研究史と課題一
石 橋 悠 人
はじめに
ヴィクトリア時代の英国において,グリニッジ天文台はいかなる特徴と機能
を兼ね備えていたのか。これまでの天文台史研究の動向を振り返り,この問
いを解くための糸口を掴むことが本稿の課題そある。19世紀中葉,英国科学
の一大拠点となった同天文台は,純然たる観測施設から脱皮して社会事業にも
進出した。最盛期の大英帝国の貿易と航海を支えたのは,ここで生み出された
天文観測の言己録であった。さらに1884年のグリニッジ世界標準時の誕生をもっ
て,近現代における時空観念のグローバル・スタンダードが成立する。要する
に,ヴィクトリア時代のグリニッジ天文台は国内外に多大な影響を及ぼすよう
になった。従って,その状況と活動は,科学の社会史,帝国史,さらにはグロー
バル・ヒストリーの観点から考察される十分な価値を持っている。
グリニッジ天文台に関する歴史研究は,創設300周年を顕彰する三部作の天
文台史叢書が編まれた1975年から本格化した。その第二巻において,天文学
史の専門家]・ミドウが,第七代天文台長ジョージ・エアリ(G.o.g.A時
1801−9ユ,在職1835−81)の統治と改革を概観している[M。。d.w1975]。1980
年代に入ると,オックスフォード大学の科学史家A・チャップマンが総合的な
エアリ研究に着手し,彼の科学研究上の功績や政府付の科学者として活躍した
様子,海王星の発見に関する英仏の先取権争いにおける立場,そしてグリニッ
ジ標準時の普及活動といった事績を次々と検証した[Ch.pm.n1985.1988屯
工988b,1992.1993.1998コ。以下に紹介するように,1980年代から1990年代に
かけて,ミドウとチャップマンの著作に触発された学名たちの参入により,エ
アリ期の天文台史研究は大きく開花することになる。
大局的に見れば,そうした従来の研究は三つの方向に収敏している。それは
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一橋研究 第34巻4号
天文台の内状を描写する研究,エアリと同天文台の活動を英国科学の発展とい
う脈絡で検討する研究,両者が英国社会に果たした役割を問う研究である。今
後19世紀中葉の天文台史研究に従事するにあたり,これらの主題について,
独自の議論を提供することが肝要である。そのための方針を論じる前に,1820
年代から1830年代初頭におけるグリニッジ天文台の状態を一瞥しよう。
ロンドン近郊,テムズ川のほとりに位置するこの天文台の緒は,国王チャー
ルズ二世の治世に遡る。天文学的な経度測定法の進化がその設立趣意であった。
大洋を航行する軍船や商船の座標を定める作業は航海術の根本的な手続きであ
り,その正確性の増進が海上制覇を導くと期待された。そして同天文台の設立
からおよそ100年後の1760年代,正確性を格段に増した経度の計測技法とし
て,海洋時計クロノメーターと角距法が完成する。これら新機軸の経度測定法
は,航海術や地図作成の手段として,帝国の海外拡張の最前線に導入された
[石橋2008コ。
しかし,積年の国家的課題1であった経度問題の解決後,19世紀初頭からエ
アリの就任前まで,グリニッジ天文台は凋落の一途を辿ってい1たとされる。
ユ820年から海軍省の傘下に入った天文台のスタッフは,航海術を支えるため
の天文観測,経度測定用の航海暦の作成,海軍が所有するクロノメーターの調
整と配給に専念していた。だが,クロノメーター関連の作業が圧倒的に増加し
ていくにつれて,基幹的な業務であるはずの観測言己録の出版に遅滞が生じるな
ど,天文台の活動は円滑に進まなかった[Smith199ユ:7−9]。
折しも,貴族とジェントルマンのアマチュア天文家たちが,国内各所に観測
所をこぞって建設する天文趣味の全盛期が到来しつつあった。彼らは私財を投
じて大型で高額の観測装置を購入し,天文学上の業績を続々とあげていくこと
になる[チャップマン2006L他方,ナポレオン戦争後には,国家的な緊縮財
政の維持と並んで海軍力の大幅な縮小が趨勢となった(いわゆる「財政=軍事」
国家から自由放任国家への転移)。それゆえ,経度問題の終焉にともない,海
軍省が統括する国営のグリニッジ天文台は,いつ予算削減あるいは廃止の。対象
に含まれてもおかしくはなかった。その存続のためには,エアリが改革を成功
させることで天文台の復権を果たすとともに,民間の観測所とは異なる社会的
な存在意義を捻出する必要があった。
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
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1 天文学者たちの「工場」
北部イングランドのノーザンバランドに生まれたエァリは,1819年にケン
ブリッジ大学へ入学し,数学・天文学の領域で瞬く間に頭角を現した
[Cf0wth。。1968:370−1]。当時のケンブリッジ大学は,やがて英国科学を協同
的に牽引することになる学徒たちを輩出している。この知的エリート集団の一
員として,エアリの前途は大いに嘱望された。彼の知的関心は数学・天文学を
はじめ,土木工学や建築といった領野にも及んでおり,その能力は後に観測装
置の設計などにも役立った[S盆tt・・凸w・it・2001コ。学士課程を卒業後,彼はト
リニティ学寮のフェロー,数学教授,天文学教授(ケンブリッジ大学天文台長
を兼任)を歴任する一方で,ロンドン王立協会の機関誌に論文を寄稿するなど,
徐々に首都の学術界にも活躍の場を広げた。
1835年,海軍省の要請に応じて,エアリはグリニッジ天文台長に就任する。
着任早々,彼は組織の挺入れに臨んだ。最初の仕事は,スタッフの増員とその
選別基準の見直しである。1830年代初頭まで,天文台のスタッフはわずかに5
名程度であった。エアリの就任以降,助手や観測結果の補正に励む非常勤の言十
算係は続々と増員され,1860年頃には8名の専任助手と10名から20名の言十算
係が所属していた。1850年代末には,スタッフの採用試験も開始されている。
専門職業として科学に従事する彼らは,アマチュア天文学の黄金時代には実に
特異な存在である[Ognvi・2000Lさらにエアリは前任者の助手を即刻解雇し・
その代りに母校ケンブリッジ大学を修了した優秀な若手の学者を主任助手に据
えた。以降100年にわたり連綿と続く,グリニッジ天文台とケンブリッジ大学
/天文台との人材交換と連携はここに始まった[D・w㎞・・t1976]。
科学史家S・シェーファーによれば,エアリは増員されたスタッフが働く天
文台に,工場制の要素を移入した。その特性は機械化の進展と装置の改良によ
る観測作業の合理化,観測・計算・記録という分業体制の構築,スタッフに対
する規律と訓練の徹底,スタッフ間の厳格な階層性の設定,天文台の生産晶で
ある観測言己録の迅速な出版である。それまで停滞していた天文台の生産性は,
この方式の採用によって初めて改善された[S.h.ff。。1988]。
シェーファーの図式は,階層制の頂点に君臨する「工場長」エアリと抑圧さ
れる「労働者」としての助手・言十算者という,同時代から流布してきた対比の
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一橋研究 第34巻4号
イメージを含意している。ユ9世紀末の助手W・モーンダは,スタッフに対す
るエアリの態度が高圧的であったことや,低賃金で長時間の計算労働を強いら
れた若者がいたことを告発していた[M.md。。1900:117コ。また,当時の主流
派であるアマチュア天文家たちは,’グリニッジ天文台で働く職業天文学者にな
ることを必ずしも目標としなかったという説もある。同天文台に所属すれば,
高給取りではないにしても,.学術研究で空言十を立てることができる。だが,ア
マチュア天文家たちが懸念を抱いていたあは,その代償として,自由な科学的
活動を制限されてしまう公算が大きいことであった[P・n92002:18L
このような工場としてのグリニッジ天文台という理解は,今日でも人口に膳
灸している。これに対して筆者は,天文台で働く助手たちの労働条件が,それ
ほど劣悪ではなかったという見方を提示する可能性を模索したい。例えば,い
くつかの史実を解釈することだけでも,エアリ期のスタッフが虐げられてばか
りの存在とは言えないことを示唆することができる。チャップマンも指摘して
いる通り,1870年には常勤の助手が6名勤務していたが,彼らの雇用期間は
最長で37年,そして最短でも15年を経過していた[Ch・pm・n19921107L助
手たちの待遇が劣悪ではなかったことの傍証として,この事実は十分に説得的
である。
加えて,助手たちの学術活動には,エアリの「専制支配」から解放された
「自律的」な側面を抽出することもできる。ここでは助手J・グレイシャーの
事例を挙げておこう。1862年から1866年にかけて,グレイシャーは28回に
わたる気象観測を目的とする気球の打上実験を行なった。この企画は大衆の関
心を呼びこみ,グレイシャーは一躍時の人となる。これに対してエアりは,天
文台での業務に専従するようグレイシャーを諭したが,彼はこの「指示」を受
け入れることなく,その後も実験を断行した[Hmt1996:327−30L
助手たちのキャリア形成において,グリニッジ天文台が有用な場となってい
たことも重要である。数名の助手の経歴を調査した結果,その大半がロンドン
王立協会や天文学会といった権威ある科学団体において,会長,副会長,評議
員,書記といった要職に上り詰めていたことが判明した。そればかりか,他の
天文台の監督への出世を遂げた助手も観察できる。19世紀初頭まで,グリニッ
ジ天文台長の助手たちの存在感は薄く,彼らは科学的業績を残すことなく数年
単位で辞職していた。学術界における助手の地位が格段に向上したことは,エ
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
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アリ期に独特の現象と言って差し支えない。その要因はエアリの権勢とパトロ
ネイジにある。R・ハチンズが証明したように,助手たちのポストを斡旋しよ
うとするエアリの「人事権」は,一 蒼煌e地の大学や民間が管理する観測所にま
で及んでいた[Hut。㎞、s2008=。h且pt。。2]。ゆえに,グリニッジ天文台の助手
に就くことは,科学者としての高評価と立身出世の手形を得たに等しかったと
推定しうる。
ハチンズは着目していないが,エアリの権勢が帝国の各所にまで届いていた
事実にここで触れておきたい。例えば,シドニー天文台の設立(1856年)に
際して,植民地知事はその監督に適した人物を本国のエアリに尋ね㍍グリニッ
ジ天文台長が,植民地天文台の人事権を持つという明文化された規定はない。
それでも,エアリの推薦と指示をうけた学者が,初代と二代目のシドニー天文
台長として,オーストラリアヘ渡った[Orchisto・1988:50−5]。ケープ植民地
やマドラスにも天文台は設置されており,エアリは観測プログラムや測量事業
について,それらの天文台長への提言を惜しまなかった[んq18961ユ16−7コ。
1846年には,首相R・ピールに対して,エアリは植民地天文台を統括する機
関をロンドンに設立するよう訴え㍍彼はその部局の長に就くことを明らかに
企図しており,グリニッジ天文台を帝国全体の天文学の頂点に立たせようとす
る姿勢が垣間見える[ibid.=149コ。
以上,工場として表現されるグリニッジ天文台の性質を再考したことで,厳
格な階層性と過酷な労働条件を強調する通説とは異なる見方を提示しうること
が浮彫になった。天文台の性格という主要なテーマをめぐって,助手と計算係
の日常業務,キャリア,地位,科学的活動を再検討する意義があることも明白
である。その上で,エアリが助手に与えた業務指令やその助手との関係・軋櫟
を分析するとともに,天文台長が科学界と他の天文台に対してふるっていた権
力の実態を究明することが求められ乱
2 英国科学とグリニッジ天文台
エアリが天文台長に就任した頃,英国の学術界は重大な転期にあった。その
特徴をいくつか挙げるならば,国内の科学研究を主導してきたロンドン王立協
会の貴族的な性格に拠る知的退廃への批判の隆盛,英国科学振興協会という全
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国的な学術団体の創設(1831年),専門的な民間の科学団体(天文学会,地質
学会,動物学会など)の設立ということになる。また,19世紀末にいたるま
で,中央政府は科学技術分野への積極的な振興政策の実施を回避していた。そ
のため,英国科学の衰退論議(1820∼30年代)や科学助成運動(1860∼70年
代)と呼ばれる一連の論争的な局面では,科学研究へ注入される公的資金を増
額することの意義が一部の科学者たちによって熱烈に唱えられている。ただし,
少なくとも世紀の前半における科学者たちの主潮は,公的資金に依存すること
で,研究の現場が国家に統制されてしまう可能性を排除したいという思惑であっ
た[Macユeod1972,刈tcrユ987,力一ドウェル1989]
任意の科学組織を牽引する貴族やジェントルマンの学者には,政財界の有力
者たちと個入的な親交を結ぶ人々が少なからず存在した。それは非制度化され
た仕方で科学と国家の結合が成立し,民間団体の活動が公共性を持ちえたこと
の要因である。とはいえ,このような非公式の連携とは別に,明らかに制度化
されたかたちをとって,科学研究への公的支援が策定される領域が確立してい
たことを見逃してはならない。その一つが海軍省主管の科学研究である。既に
1980年代には,海軍省が科学研究に多額の予算を充てていた事実は指摘され
ていたものの,その・具体相の追跡は未だに進展していない[R・t・雌f20081
・h乱p…21。
こうした近代英国科学と国家の関係という脈絡のなかで,エアリとグリニッ
ジ天文台はきわめて重要な位置にある。従来の研究が取り上げてきたように,
エアリが科学研究に対する政府の介入に否定的な学界・論壇の意向を象徴する論
客であったからである[高田ユ989,丁皿n.f1993:203,D.unton2005:“In吐。du.don”,
ユ8コ。こうした解釈が依拠するのは,この天文台長が少なからぬ機会に発表し
た,英国科学のr草の根的」な伝統を護持すべきであるという趣旨の言説であ
る。例えば,英国科学振興協会の年次大会(1851年)の基調講演において,
会長エアリは次の一文を述べている。「我が国民の風潮からして,その他のあ
らゆる事象と同様に科学研究においても,何らかのかたちで国家に依存する組
織よりも,民間入からなるヴォランタリな結社が好まれる」[B〃S R仰〃
ユ851:正]。
科学研究に対する政府の関与に否定的なエアリの姿勢が顕著に現れた事例は,
太陽物理観測所の新設問題である[D価y・・md hm・工1923:・h・pt・・6]。1870
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
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年から1875年にかけて,議会内の委員会が,科学教育と研究に関する大規模
な国内調査を実施している。同委員会の書記N・ロッキャーはこの機に乗じ
て,位置天文学の「聖地」であるグリニッジ天文台とは別に,国営の太陽物理
観測所をロンドン周辺に開設する必要性を提言し㍍ロッキャーが天体物理学
に特化するこの新施設の監督就任を目論んでいることは,誰の目にも明らかだっ
た[M。。dowユ972=ch.pt.f4]。一方のエアリはその設立に明示的に反対し,仮
に創設された場合,これをグリニッジ天文台の支配下におくと主張した。彼が
危惧していたのは,太陽物理観測所の設立に起因するグリニッジ天文台への予
算圧縮であったとされる。この出来事はエアリが自分自身の地位,そしてよう
やく立て直した同天文台の権威の保守を試みた事例として知られている。
さて,上記のような近代英国科学とグリニッジ天文台(長)との関係の研究
史を補完するにあたり,詳細な分析に付されるべき論点は二つある。一っ目の
主題はグリニッジ天文台の資金面である。19世紀前半には海軍費が大幅に削
減され,クリミア戦争期に激増したものの,その後もユ880年代以降に増額さ
れるまで低水準に留まっ㍍それにもかかわらず,同天文台の予算をエアリの
任期の初期と末期で比較すると,2,5倍から3倍に増加している。この増額は
人員の拡充や機器購入といった,天文台の「工場化」と連動していると見てよ
かろう。では,通常予算と機器購入・新システムの導入をめぐって,エアリは
海軍省といかなる折衝を経て,予算の増額に成功したのだろうか。言い換えれ
ば,公費節減が目下の課題とされるなかで,エアリはグリニッジ天文台の存在
意義をどのように主張し,海軍省はこの施設に投資し続けることの意味をどこ
に認めていたのか。エアリが予算の必要性を示す際に駆使した論理,そして海
軍側の対応を考察する価値は十全にある。
二つ目の課題の出発点は,科学研究における民間主導の原理を貫こうとする
エアリ自身が,意外に多額の公的資金を運用しているのではないかという疑問
である。ロンドン王立協会,英国科学振興協会,天文学会をプラツトフォrム
にして,いくつかの場面でエアリが議会・政府に対する科学研究への援助要請
を行なっていたことが,先行研究で散発的に記述されている[MO…1班nd
Th且・k・y198ユ,p盆n92002,R・t・冊2008]。彼がこのような公的資金の投下を求
めるロビー活動に積極的であったことを示すさらなる証拠を発見しえた場合,
以下の問題点を追究しなければならない。
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まず,エアリが科学研究に対する国家の統制を批判する発言を少なくとも建
前では続けた理由を改めて検討する。彼が科学と国家の関係について残した発
言書己録を,以前とは異なる見地から解読することが不可欠であろう。次に,公
的資金の投下と運用をめぐるエアリと他の科学者,官僚,政治家との協働・対
立関係を精査する。W・アジュワースによれば,エアリはアマチュア科学者が
行なう天文観測や地質調査を奨励し,彼らが取り組むデータ収集などの学術活
動の方向性を多分に規定していた[A.bwo曲1998]。それに加えて,科学界と
政府の調停者としてエアリが振る舞っていた様子が明らかになれば,彼が近代
英国科学の展開という文脈で担った役割の全体像を描くことができるに違いな
い。
3 エアリとグリニッジ標準時
国営の天文台長として,エアリは自分の仕事と天文台の業務が,英国社会に
対して還元されることの重要性を思量していた。彼が新聞,学術誌,文芸評論
誌,各種の報告書,公開講座によって,研究成果を発表することに熱心であっ
た訳はここにある[ん岬1896:9]。さらに科学知・技術知を要する社会的課題
に関わる政策立案者の原型と評されるエアリは,政府・議会から頻繁に意見を
求められ,少なくとも36の天文学と関連しない王立委員会に携わった(通貨
制度,造船技術,港湾施設,公衆衛生,高等教育,国会議事堂の再建言十画,鉄
橋建築,陸地測量,度量衡,鉄道ゲージ等)[Ch乱pmm1988・,p・・㎞・2001]。
グリニッジ標準時の普及事美は,こうしたエアリによる英国社会のための科
学的実践という理念をよく表している。19世紀中葉まで,国内の諸都市は現
地の子午線を基準に算出する地方時を個別に標準化していた。しかし,移動と
交通が劇的に増大していくなかで,それらを画一化する国内標準時が希求され
るようになった。そこでエアリは,国内全土に張り巡らされた電信網を経由し
て,グリニッジ時の正確な時報を広く伝達するという計画を実現した。
彼が最初に取り組んだのは,グリニッジ天文台のあらゆる時計を一つの標準
時計に共鳴させることであった。標準時計とは天文観測との照合で連日補正さ
れる高性能の時計のことを指す。標準時計は電流によって制御することができ
る他の時計と連結される。そうすることで,標準時計からの電流を介して,他
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
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の時計の時刻をいつでも修正することができる。ハイドパークで開催されたロ
ンドン万博において,ある時計メーカーが開発した標準時計とそれに同期する
従属時計が利用された。それを知ったエアリは,グリニッジ天文台で同じシス
テムを利用できるよう同社に開発を依頼し,その装置は1852年から稼働する
ようになった[Smith1976,D丑vics1978,Howseユ980,Bcmctt王980,Ch且ユdecott
1986,Chapman1998]。
続いてエアリは鉄道会社の電信線を活用して,グリニッジ時の時報を日常的
に送信する一般向けのサービスを開始した。この時報システムが運行されて以
降,郵便局にはグリニッジ時が伝送された時計が掲げられ,グリニッジ標準時
の採用に踏み切った鉄道会社によって,時刻表やターミナル駅の公共時言十がそ
の基準に統一された。しばしば指摘されることだが1国内各地にまで普及した
このサービスの導入は,国民の時間意識の大転換をもたらしたという[Mo・us
2000]。それがイングランド・スコットランド・ウェールズにおけるグリニッ
ジ標準時の法定化はもとより,その世界標準時としての国際的承認にも大きな
影響を与えたためである[世界標準時の成立については,Z。。ub且v。ユ1982,
P最m。。2002,西本2006,B。。吋2007を参照]。それゆえ,グリニッジ標準時の
成立過程に関する研究では,エアリの功績が欠かさず論及される。
従来の研究が想定してきたのは,地方時の乱立状況を打破するエアリの標準
時普及事業,そして時間意識の変容へという直線的な進化の図式である。その
ような思考への反省から,近年の研究は,グリニッジ標準時とそれに関する科
学技術が英国社会・文化に定着する筋道を,より丹念に考察することに比重を
おいている。すると,エアリによる時報伝達事業が,「標準時化」された英国
社会を直ちに誕生させたという1日来の前提が,全くの幻想に過ぎないことが明
らかになってきた。それどころか,20世紀初頭になっても,正確なグリニッ
ジ標準時は国内に普及しておらず,エアリのシステムがその他の時間伝達の技
法を駆逐したわけでもなかったという。
例えばD・ルー二一は,R・ベルビルという一人の女性の仕事に注目した
[Roon.y2008コ。ユ830年代にグリニッジ天文台の助手を務めていた彼女の父親
は,標準時計に合わせて調整したクロノメーターを携えて,毎週ロンドンの時
言十工場・職人・商店を巡回した。時計を製作・販売するにあたり,彼らは製品
の時刻がグリニッジ時に照らして正確であるか否かを把握しておく必要があっ
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だからである。父親の死後,既に国内に電信時報が広範に普及していた1930
年代まで,ルースとその母親はこの仕事を受け継いだ。一方,グリニッジ天文
台と提携して時報サービス業を展開したスタンダードタイム社やシンクロノー
ム社といった民間企業に焦点をあて,20世紀初頭の英国における標準時の浸
透状況を調査する研究も昨今の潮流と言える[G・y2003,Ny・㎜d Roon・y2007,
Rooney and Nye2009]。
以上のグリニッジ標準時に関する新旧の研究史において,適切な注意が払わ
れてこなかった論点は二つあ孔一つは,海軍基地への時報伝達システムの設
置をめぐる,エアリと海軍省の官僚との交渉過程であ孔エアリの自伝にはこ
れに関する言己述が散見されるものの二それをはじめてまともに検討したのは,
2009年に公表されたC・ホームズの論文であった[Hom。。2009コ。グリニッジ
天文台と海軍省との標準時の伝達に関する共同作業は,エアリが打ち出したポー
ツマス,プリマス,シアネスの軍港における報時球の建設計画をもって開始さ
れる(ユ856年)。さらに1858年以降,彼はデヴォンシャーのスタート岬に,
報時球を建設するよう同省に繰り返し提言した。だが,海軍側はコストの問題
から,この事業を留保し続けた。ホームズの論考では,時報システムの設置に
おける第八代天文台長W・クリスティと海軍省の連携に焦点が絞られている
ため,これに関わるエアリの提言や活動は詳細に検討されていない。エアリが
挑んだ海軍基地とスタート岬における報時球の建設事業を入念に分析すること
で,新たな視角を提示する可能性は残されている。
もう一方の主題は,海底電信ケーブルを用いた他国の天文台との時差の測定
である。長距離の海底電信ケーブル網の敷設は,ヴィクトリア時代の帝国の膨
張と情報通信を支えるプロジェクトであった[M。士sd.Hnd S㎞th2005:。h.pt。。
5コ。エアリはこの電信ネットワークを駆使して,国内・植民地・諸外国の天文
台と交信し,子午線観測の時刻を伝送することで,相互の時差を正しく確定す
る作業に取り組んでいた。エアリとこの作業を実際に担当した助手たちが残し
た活動記録をもとに,帝国の絶頂期の電信網が,地図製作にもつながる経度の
計測と密接に結びついていた様子を究明したい。
エアリによる天文台改革において,スタッフの増員と訓練・規律化が学術施
設としての基礎的な能力を向上させるとともに,天文観測に留まらない新たな
業務に挑戦する土台が形成された。その最たる事例がグリニッジ標準時の時報
ジョージ・エアリとグリニッジ天文台改革
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ジステムの導入であった。こうした社会事業への進出によって,エアリは民間
の観測所にはないグリニッジ天文台の存在意義を誇示し,政府からの予算の継
続的な獲得に成功したと考えられる。本稿で論じてきたとおり,ヴィクトリア
時代のグリニッジ天文台史は,科学と国家の関係,科学者の専門職業化と労働
条件,標準時の国内浸透,帝国の電信網と経度の測定,国際公共財としての世
界標準時といった多彩な主題を設定して検討しうる興味深い研究対象であるこ
とに異論はなかろう。今後,近代の英国史と世界史のなかで,グリニッジ天文
台が残してきた足跡を複眼的な考察から明らかにすることを課題としたい。
※本稿は平成21年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果
の一部である。
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