WIJC140302目的主導の人生

2014 年3月2日
聖書:
聖書:Ⅱコリント5
コリント5章 13-
13-17節
17節
タイトル:
タイトル:「目的主導の
目的主導の人生:
人生:キリストのために生
キリストのために生きる」
きる」
序 論
●今日は
今日は、Rick Warren(RW)の
Warren(RW)の Purpose Driven Life(PDL)をガイドラインとしての
Life(PDL)をガイドラインとしての 40 回に亘るメ
ッセージシリーズの第三
ッセージシリーズの第三回目
第三回目である
回目である。
である。
●第一回目は
第一回目は、PDL の Day1「
Day1「すべては神
すべては神から始
から始まる」
まる」で、説教のタイトルは
説教のタイトルは「
のタイトルは「神様がいて
神様がいて私
がいて私がいる」
がいる」で
あった。
あった。
●第二回目は
第二回目は、先週であるが
先週であるが、
であるが、PDL の Day2
Day2「あなたは偶然
あなたは偶然に
偶然に存在しているのではない
存在しているのではない」
しているのではない」をもとにして、
をもとにして、
「すべては神様
すべては神様の
神様の御手の中に」というメッセージを詩篇
というメッセージを詩篇 139 を中心に
中心に取次いだ
取次いだ。
いだ。
●今日の
今日の第三回目は
第三回目は、PDL の Day3
Day3「あなたの人生
あなたの人生を
人生を動かしているものは何
かしているものは何か」から、「
から、「目的主導
、「目的主導の
目的主導の人
生:キリストのために生
キリストのために生きる」
きる」と題してメッセージを取
してメッセージを取り次がせて頂
がせて頂きたい。
きたい。
●RW のこの箇所
のこの箇所での
箇所での論旨
での論旨をまとめると
論旨をまとめると
A.人々の人生を動かしている最も一般的な5つのもの
1.多くの人
くの人は罪責感に駆り立てられて生
てられて生きている。
きている。Many people are driven by guilt.
★RW は言う:私たちは皆自分
たちは皆自分の
皆自分の過去と
過去と無縁ではいられないが
無縁ではいられないが、
ではいられないが、その虜
その虜になる必要
になる必要はない
必要はない。
はない。感
謝すべきことは、
すべきことは、キリストにあって過去
キリストにあって過去に
過去に犯した罪
した罪の赦しがあり、
しがあり、新しい出発
しい出発がある
出発がある。
がある。
2.多くの人
くの人は怒りと憤りに駆り立てられて生
てられて生きている。
きている。driven by resentment and anger.
★RW は言う:怒ることによって傷
ることによって傷つくのは、
つくのは、他ならぬ怒
ならぬ怒っているあなた自身
っているあなた自身である
自身である。
である。だから
自分を
自分を思いやり、
いやり、その怒
その怒りを手放
りを手放しなさいと
手放しなさいと。
しなさいと。
3.多くの人
くの人は恐れに駆り立てられて生
てられて生きている。
きている。… driven by fear.
★RW は言う:恐れに駆
れに駆り立てられる時
てられる時、人生の
人生の好機を
好機を逸してしまう。
してしまう。また恐
また恐れは、
れは、神が意図
しておられる者
しておられる者となることを
となることを妨
ることを妨げる。
げる。それ故
それ故、信仰と
信仰と愛という武器
という武器で
武器で戦う必要があると
必要があると。
があると。
4.多くの人
くの人は物質主義に駆り立てられていきている。
てられていきている。… driven by materialism.
★RW は言う:より多
より多くを「
くを「持つ」ことで幸
ことで幸せになるとは「
せになるとは「神話」。「
神話」。「物
」。「物」は突然、
突然、またいつかなく
なる。
なる。本当の
本当の幸せは決
せは決してなくならないもの(
してなくならないもの(神との関係
との関係)
関係)の中に見出されるべきである
見出されるべきである。
されるべきである。
5.多くの人
くの人は受けいれられたいという必要に駆り立てられて生
てられて生きている。
きている。… driven by the need
for approval.
★RW は言う:多くの人
くの人は人を喜ばせようとして
ばせようとして失敗
ようとして失敗している
失敗している。
している。人を喜ばせようとすると神
ばせようとすると神が
用意しておられる
用意しておられる目的
しておられる目的を
目的を見失う
見失う。誰でも二人
でも二人の
二人の主人に
主人に仕えることはできないと。
えることはできないと。
▼RW は、これら5
これら5つのものに
つのものに動
ものに動かされる人生
かされる人生ではなく
人生ではなく、「
ではなく、「目的
、「目的」
目的」に動かされる人生
かされる人生、
人生、Purpose
Driven Life を歩むように勧
むように勧めるために、
めるために、次に目的主導人生の
目的主導人生の恩恵・
恩恵・祝福を
祝福を5つ挙げている。
げている。
B.目的に導かれた人生をいきることの恩恵
1.目的を
目的を知ることによって人生に意味が与えられる。Knowing your purpose gives meaning
to your life.
RW:
RW:人は目的なしには
目的なしには生
なしには生きられない。
きられない。目的がその
目的がその人
がその人を強くすると。
くすると。
2.目的を
目的を知ることによって人生はよりシンプルになる。…simplifies your life
RW:
RW:目的を
目的を持つとき人生
つとき人生で
人生で何が大切かそうでないかが
大切かそうでないかが見
かそうでないかが見えて来
えて来て人生と
人生と生活を
生活を整理できる
整理できる。
できる。
3.目的を
目的を知ることによって人生の焦点が定まる。…focuses your life.
RW:
RW:あれもこれもでなく目的
あれもこれもでなく目的に
目的に集中して
集中して自分
して自分のエネルギーを
自分のエネルギーを効果的
のエネルギーを効果的に
効果的に用いることができる。
いることができる。
4.目的を
目的を知ることによって人生に動機付けが与えられる。…motivates your life.
RW:
RW:明確な
明確な目的感は
目的感は、そのために生
そのために生きる喜
きる喜びと情熱
びと情熱を
情熱を生み出す。
5.目的を
目的を知ることによって永遠への準備が整う。…prepares you for eternity.
RW:
RW:この世の褒章を目的とするなら
目的とするなら空しく終わる。しかし、
しかし、神の前の褒章を目的とする
目的とする生
とする生涯
は永遠に残る。私たちが永遠に入るまでに神
るまでに神から受ける 2 つの質問:①イエスにどのような
態度を取ったか? ②神様から
神様から与えられたものをどう活用したか
活用したか?
●このような Purpose Driven Life、
Life、目的に
目的に動かされた人生
かされた人生、
人生、目的主導の
目的主導の人生こそが
人生こそが、
こそが、聖書が
聖書が私たち
に勧める人生
める人生であ
人生であり
であり、それを
それを文字通りに生
りに生きた人物
きた人物の
人物の典型的サンプルが使徒パウロ
使徒パウロである。
である。
1
●今日は
今日は目的主導の
目的主導の人生、
人生、Purpose Driven Life のサンプルとしてパウロの生涯について学びたい。
びたい。
●聖書の
聖書の箇所は
箇所は、Ⅱコリント 5 章13-
13-17節
17節である。
である。
本 論
Ⅰ.パウロの人生は、明確な「目的」を持った人生、正に Purpose Driven Life であった。
A. 目的を
目的を持つ人生の
人生の重要性
1.パウロが明確な
明確な目的を
目的を持って生
って生きていたという今日
きていたという今日のメイン
今日のメインテーマを詳しく見
しく見る前に、もう
一度、目的をもって
目的をもって生
をもって生きることの重要性に少し触れたい。
れたい。
2.なぜなら、
なら、クリスチャンを含めて余りに多
りに多くの人
くの人々が、目的主導(purpose
目的主導(purpose driven)の
driven)の人生
に頓着せず、むしろ、緊急主導(
主導( ungency driven)の
driven)の人生を
人生を歩んでいるからである。
でいるからである。
(1)「
(1)「成功する人生
する人生の
人生の7つの習慣:7 Habits for Successful Life」
Life」の著者 Steven Corvey
氏は、私達が人生で
人生で失敗するのは
失敗するのは今
するのは今しなければと感
ればと感じる目睫の事に追われ、奴隷のよう
に支配されるからである(
されるからである(彼はそれを Tyranny of Urgency 緊急の暴政と呼ぶ)と言う。
(2)「
(2)「三つの願い」というようなタイトルの付いたヨーロッパの童話がある。
がある。それは、
それは、ある木
こりが、
こりが、木を切ろうとして、
うとして、木の妖精に出会い、「私を助けてくれたらどんな願いでも
三つかなえて上げます」
げます」と言われ、家に帰って奥さんとどれにしようかと思
れにしようかと思っていたと
き、奥さんがふと前から欲しかった大
しかった大きなソーセージをたらふく食べたいと思
べたいと思わず願
わず願っ
てしまった瞬間大きなソーセージが出
ーセージが出てきた。
てきた。それを見
それを見てご主人が
主人がカンカンに怒
ンに怒った。
「こんなくだらないものに大切
なくだらないものに大切な
大切な願いを使って!、お前のような食いしん坊にはこのソー
セージが顔についてしまえばいいんだ」と言った瞬間、そのソーセージが奥さんの鼻の
先にくっついた。
にくっついた。奥さんが悲鳴を挙げて、
げて、後で後悔したご主人と
主人と夢中でどうにかしよう
としたが、
としたが、どうにもならない。
うにもならない。困り果てて、
てて、例のお願いを使ってそのソーセージを取
ーセージを取っ
てもらった。
てもらった。ほっとした二人
っとした二人がさてそれ
二人がさてそれじゃ何をお願いしようかと言
いしようかと言ったときには、
ったときには、気
がついたら、
がついたら、三つの願いは終わっていたというのである
っていたというのである。
というのである。
(3)私
(3)私達も、こんな風に目の前の欲しいもの、
しいもの、目の前の必要、
必要、目の前の様々なことに追われ
ているうちに、
ているうちに、気がついたら人生
がついたら人生が
人生が終っていたということは単に笑い話だろうか?
3.PDL の Day 3 の冒頭に RW は、有名な英国の歴史家トーマス・カーライルのことばを引
用する。「
する。「目的
。「目的を
目的を持たない人
たない人は、舵のない船のようだ。
のようだ。浮浪児、つまらない人
つまらない人間、いや人
いや人間
とさえみなされない」
とさえみなされない」と。
4.即ち、目的を
目的を持って生
って生きることは人
きることは人間の本能であり、
であり、本質である。
である。
(1)先
(1)先々週、先週引用した五木寛之が言ったことと同じである。
である。彼は言う。「人
。「人はおのずと生
きていることに目的
きていることに目的を
目的を求めるのだ。
めるのだ。それは生
それは生まれた川へ帰ってくる鮭や、渡り鳥などと
同じような、
ような、生物の
生物の一種の本能なのかもしれない」
なのかもしれない」と。
(2)これは
(2)これは T・カーライルの言
ーライルの言っていることと
っていることと同じである。
である。即ち「目的を
目的を持たないで
たないで生
いで生きる」
ことは人
ことは人間性の放棄であり、「
であり、「目的
、「目的をもって
目的をもって生
をもって生きる」
きる」ことこそ人
ことこそ人間らしい生
らしい生き方である。
である。
(3)肉体的欲求や、情的な
情的な欲求は動物と
動物と人間は極めて似ている。
ている。早く言うなら同じである。
である。
(4)しかし
(4)しかし、
しかし、決定的な違いは、
いは、人間は動物と
動物と違ってただ肉体的、情的本能の必要を
必要を満たすだ
けでは満足できない。
できない。なぜ生きるのかという人生
きるのかという人生の
人生の「目的」
目的」を必要としていることである
必要としていることである。
としていることである。
5.しかし、
しかし、クリスチャンを含めて漫然と目の前の緊急性に支配されて人生
されて人生を
人生を追われ、終ってし
まっている人
まっている人が余りに多
りに多い。
6.あるいは、
あるいは、人生の
人生の「目標」を人生の
人生の「目的」
目的」と刷り違え、それで済ましてしまっている
ましてしまっている人
しまっている人も多い。
(1)先
(1)先に引用した五木寛之氏も同様なことを言
なことを言っているが、
っているが、「どのような職業に就くか」とか、
とか、
「どのような資格を取るか」
るか」というのは
というのは「
のは「人生の
人生の目標」であって「
あって「人生の
人生の目的」
目的」ではない。
ではない。
(2)即ち、彼は言う。「こうして
。「こうして並べ立てた色々なことを考えてみても、
えてみても、人生の
人生の目的というも
目的というも
のは、
のは、それらの具体的な目標とはちょっと違う問題のような気がするのはわたしだけだ
ろうか」
うか」と。
(3)人生
(3)人生の
人生の目的とは
目的とは、
とは、私達がそれら具体的な目標を立てて、実践するのは、
するのは、そもそも「
そもそも「何の
為」なのかというもっと
なのかというもっと実存的、
存的、根本的問題のことである
のことである。
である。
2
7.聖書の
聖書の言っているクリスチャン人生は
人生は、何をするかの「
をするかの「目標主導」
主導」ではなく、
ではなく、何のためにする
かの「
かの「目的主導」
目的主導」である。
である。
B. さて、この目的主導の人生の最も典型的サンプルがパウロの人生である。
1.彼は言う。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、最早自分のために
ではなく、自分のために死んで甦った方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5章15節)と。
2.彼の人生の
人生の目的は
目的は、「キリストのために生きる」ことであった。
ことであった。即ち、「キリストのために」
キリストのために」とい
う目的が
目的が彼の人生を
人生を主導し
主導し、動かしていたのである。
かしていたのである。
3.パウロがイエス・キリストを自
がイエス・キリストを自らの救い主と信じた日、即ちイエス様
ちイエス様が自分のために
自分のために死んで
甦られたと信
られたと信じたその日
たその日から、
から、彼はキリストのために生きる者となったのである。
4.彼の人生にお
人生におけるそのような
そのような強
ような強い目的感は
目的感は、ピリピ1章20-21節に表された彼の言葉にも明
にも明
らかである。
らかである。即ち、「・・・・」と彼は言う。
5.「キリストのために生
キリストのために生きる」
きる」とは、
とは、彼が職業的な意味で、伝道者、宣教師になって
になって生きると
きると言
う意味ではない。
ではない。
6.もう一
もう一度聖書の
聖書の箇所を
箇所を見て頂きたい。
きたい。彼はここで「
ここで「キリストがすべての人のために死なれた
のは、
のは、生きている人々が・・・」
・・・」と言った。
った。即ち、彼の言っていることはこうである:
っていることはこうである:
(1)キリストのために
(1)キリストのために生
キリストのために生きるべく期待される人
される人々は、ごく一部の熱心な
熱心な人々でも、
でも、職業的な
意味での宗教家たちで
たちでもない。
ない。
(2)それはキリストがそのために
(2)それはキリストがそのために死なれた「
なれた「すべての人に」期待されるべきこと
されるべきことであり
ことであり、
であり、生きて
いるすべての人がそうするべきことである
がそうするべきことである。
である。
(3)そもそも
(3)そもそも、
そもそも、それが、
それが、キリストの十字架と復活という福
という福音の目的であった
目的であった。
であった。
7.言い換えるなら、
えるなら、クリスチャンの人生
ンの人生観は、「キリストのために
、「キリストのために」
キリストのために」生きるという「
きるという「目的主導」
目的主導」の
人生であ
人生である
である。
(1)クリスチャン人生とは
人生とは、
とは、上述したある人
したある人々のように、
のように、目睫の緊急性に支配されたり
されたり、
たり、漫
然と振り回されて生
されて生きるのではない。「
きるのではない。「目的
。「目的」
目的」をしっかりと定めて生
めて生きる人生
きる人生である
人生である。
である。
(2)ゆえにクリスチャンとしてパウロは言う。「ですから
。「ですから私
ですから私は決勝点がどこか分
こか分からないよう
な走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません」(Ⅰコリント9章 26 節)。
(3)パウロはかつてイエス・キリストに出
かつてイエス・キリストに出会う前も目的を
目的を持って生
って生きていた。
きていた。しかし、
しかし、それ
は、同じ「目的」
目的」でも、「
でも、「自分
、「自分の
自分の為に」という自
という自己中心な
中心な目的であった
目的であった。
であった。
(4)それゆえ、彼は言う。「キリストがすべての
。「キリストがすべての人
キリストがすべての人のために死なれたのは、
なれたのは、生きている人
きている人々が、
もはや自分のためにではなく、・・・」
・・・」と。これはかつての人生
これはかつての人生を
人生を振り返っての告白である。
である。
(5)即ち、パウロは告白するのである。
するのである。彼を含め人々は、イエス・キリストに出
イエス・キリストに出会う前、自
分のために生
のために生きている、
きている、生きてきたというのである
きてきたというのである。
たというのである。
(6)しかし、
しかし、それが、
それが、その死と復活をもって自分
をもって自分を
自分を愛してくださったイエス様
してくださったイエス様に触れたとき
すべてが変わったのである。
ったのである。そして:
そして:
●「自分の
自分の為に」生きる人生
きる人生の
人生の空しさと罪
しさと罪深さを悔い改めて
●自分のために
自分のために生
のために生きる人生
きる人生から
人生から、
から、自分のために
自分のために死んで甦ってくださったキリストのため
に生きる人生
きる人生へと方向変換したのである。
したのである。
(7)パウロは、それをこのように記している。
している。17 節「だれでもキリストのうちにあるなら、
だれでもキリストのうちにあるなら、
その人
その人は新しく造られた者
られた者です。
です。・・・・」
・・・・」と。
(9)クリスチャンにとって新
ンにとって新しく生
しく生まれ変わるとは、
るとは、●今まで目的
まで目的もなく
目的もなく漫然と生きてきた
人が目的を
目的を持って生
って生きるようになることであり、
きるようになることであり、また●
また●「自分のために
自分のために」
のために」生きてきた人
てきた人々
が、「キリストのために
、「キリストのために」
キリストのために」生きるようになることである。
きるようになることである。
Ⅱ.次に、このパウロの言う「自分の為に死んで甦った方、即ちキリストのために生きる」ことの意味・性質を更に深
く味わい、考えてメッセージを頂きたい。
A.第一に、彼は、決してひとつの考え方や主義のためにその一生をかけたのではなかったことを考えたい。
1.パウロは、キリスト教
キリスト教というひとつの主
とつの主義・教義、考え方、ライフスタイルに捕らえられ、
らえられ、
魅了され、
され、それらを伝えるため・広めるために生
めるために生きたのではなかった。
きたのではなかった。
3
2.歴史において
において、
いて、様々ないわゆる「当時一
当時一世を風靡した」
した」という主
という主義や考え方が生まれ、
まれ、それら
に一生を
一生を捧げ、投じた人々は数限りないほどいる。
いる。
3.しかし、
しかし、そのような考え方、主義は、栄枯盛衰、諸行無常、現れては消え、たとえ様
たとえ様々な形
で、或いは部分的には
分的には残っても、
っても、ほどなく一時
なく一時のような
一時のような広く深い傾倒・心酔は見られなくな
っていく。
っていく。
4.そしてその陰にその主
にその主義や考え方に信奉していた人
していた人々、傾倒していた人
していた人たちの間に少なから
ずの失望や落胆があったことは否めない事実である。
である。それが主
それが主義に生きることの限界である。
である。
5.それは、
それは、主義や考え方だけではない。
ではない。お金や地位や名誉のために生
のために生きた人
きた人も同じである。
である。
6.否、この地上におけるどんな「達成」「成功」も(学究的、職業的達成や成功も)、それらは目
それらは目標
ではあっても、
ではあっても、人生の
人生の目的にはなり
目的にはなり得ないゆえに、
えに、私達を真に満たすことができない。
たすことができない。
7.それゆえに人
えに人は、オリンピックでメダルをとっても、
ルをとっても、ノーベル賞という世界的栄光に満ちた
賞を受けても、
ても、尚自殺を図ったり、
ったり、とんでもない犯罪
でもない犯罪に
犯罪に手を染める人
める人が起こるのである。
こるのである。
8.しかし、
しかし、パウロの人生の
人生の目的は
目的は全く違っていた。
っていた。それは主
それは主義のためではなかった。
のためではなかった。
B.即ち、第二に言えることは、パウロは、主義・考え方のためにではなく、自分のために死んで甦られた「お
方」、即ち、キリストという「お方」のために生きたのである。
1.即ち、それは主
それは主義、考え方などという非人格的なものではなく、「
なものではなく、「お
、「お方」、即ち「キリスト」
キリスト」と
いうお
いうお方、彼のために死んで甦られ、
られ、今も生きておられるお方のために生
のために生きたのである
きたのである。
のである。
2.それでは、
それでは、イエス・キリストとは
イエス・キリストとはどういうお方なのか
なのか?
(1)キリストは
(1)キリストは、
キリストは、神でいらせられる。
でいらせられる。
●それ故
それ故、決していなくなることのない永遠不滅なお方である。
である。
●永遠に存在するだ
存在するだけでなく、
でなく、また永遠に変わらない不変(immutable)なお方である。
である。聖書
は言う。「イエス・キリストは
。「イエス・キリストは昨日も、今日も
今日も、いつまでも同じです/イエス・キリス
トは昨日も、今日も
今日も、永遠に変わることはない」
ることはない」(ヘブル 13 章 8 節)と。
●この世の中のすべて、
のすべて、物も人も事情も事柄も、すべては変わる。変わらないものはな
い。それゆえにそこにはいつも失
えにそこにはいつも失望・落胆がある。
がある。諦めがある。
めがある。
●しかし、
しかし、イエス・キリストにかけた人、イエス・キリストのために生
イエス・キリストのために生きた人
きた人に失望は
ない。
ない。落胆はない。
はない。祝福と
祝福と栄光が待っているだけである。
である。なぜなら彼は永遠不滅
永遠不滅、不
変なお方だからである。
だからである。
●パウロはこの満足を次のように言
のように言う。「・・・・
。「・・・・」
・・・・」(Ⅱテモテ 4 章6-8節)。
●19 世紀の初頭ほぼ全ヨーロッパを制覇してフランス皇帝となったナポレオンは、
ンは、やが
て失脚してセントヘレナ島
ヘレナ島に流されたとき、
されたとき、歴代の世界の制覇者たち、そして自
そして自らの
はかない栄光の生涯を振り返りつつ、
りつつ、1800 余年近くも年月
くも年月を
年月を経た今もなおキリスト
のために生
のために生き、死んでいこうとする人
でいこうとする人たちが後を断たない事実を思いながら、
いながら、キリス
トこそまことの神
トこそまことの神であると認めたのである。
めたのである。
(2)またキリストは
(2)またキリストは、
またキリストは、その命を捨てるほどにパウロと私達を愛してくださったお方である。
である。
●子供のいない一
のいない一組の夫婦が、養子に来てくれる子どもを求めてある孤児院にやって来
にやって来
た。この子はどうかなと思
うかなと思う一人の
一人の男の子を見つけて、個人的に
人的に話す機会を設けても
らった。
らった。そこでその夫婦は、もし自分
もし自分達のところに来てくれたら、
てくれたら、あれもして上げら
れる、
れる、これもして上げられると、
げられると、その子にとって魅力的なことを一
なことを一杯並べた。
べた。しかし、
しかし、
それをジーッと聞いていたその男の子は一言その
一言その夫婦に言った。「
った。「僕は何もいらない。
もいらない。
僕が欲しいのは僕を愛してくれる人
してくれる人だ」と。
●世界で一番幸せな子どもは、親の愛を意識・無意識のうちに確信
のうちに確信できる
確信できる子であろう。
●しかし、
しかし、それは子供だけではない。
ではない。すべての人
すべての人においてそうである。
においてそうである。物で繋がってい
る関係は
関係は、いつも薄氷を踏むような不安がそこにある。
がそこにある。
●聖書は
聖書は言う。愛は死よりも強
よりも強い。大水もそれを消すことはできないと。
すことはできないと。
●パウロは、今日の
今日の聖書箇所でこのように
書箇所でこのように言
でこのように言う。「・・・・」(Ⅱコリント 5 章 13-
13-
14 節)と。
4
●13節の前半では、
では、彼は「狂うほど」になっていると言
になっていると言っているが、
ているが、後半の「正気」と言う
言葉からも分
からも分かるように、
かるように、決して理
して理性を失ってはいなかった。
ってはいなかった。
●即ちそれは彼の「熱さ」を意味していた。
していた。彼は理性を保ちつつも「
ちつつも「熱く燃える男」であっ
た。それは彼が生きがいを
きがいを感じ、パッションをもって生
ンをもって生きている姿を表していた。
していた。
●生きることに心熱
きることに心熱く
心熱く燃やしている人
やしている人ほど魅
ほど魅力あるものはない。
あるものはない。力強いもの、
いもの、如何なる
困難にも耐え、乗り越えさせるものはない。
えさせるものはない。パウロが正にその人
にその人であった
であった。
った。
●しかし、
しかし、何故パウロはそのように燃えることができたのか
えることができたのか? パウロをその理
をその理由を 14
節で述べている。
べている。彼は言う。「というのは
。「というのは、
というのは、キリストの愛
キリストの愛が・・・・」
が・・・・」と。然り。キリ
ストの愛
ストの愛、彼の罪の赦しのために、
しのために、彼を神の子として迎えるために、
えるために、ご自分の
自分の命を十
字架に捧げ、死んでくださったお方の愛が彼の心に迫り、彼の心を満たし、
たし、支配し、
燃やし、
やし、力を与えて動
えて動かしていたのである。
かしていたのである。
●彼の生涯ほど、人間としても、
としても、クリスチャンとしても困難・苦難に満ちたものはなか
った。
った。しかし、
しかし、にもかかわらず、最後の日まで彼は、先ほどのⅡテモテ 4 章7-8節
で証言しているように、
しているように、一直線に、曲がらず、ずれず、その上その熱情
その熱情を
熱情を失わずに生
き抜いた。
いた。それは、
それは、彼がキリストの愛
がキリストの愛に捉えられたからである。
えられたからである。
3.パウロは主義の為に生きたのではなかった。
きたのではなかった。彼は愛のために、
のために、彼を命をかけて愛してくださ
ったイエス・キリストのためにその生
ったイエス・キリストのためにその生涯を燃やしたのであった。
やしたのであった。
4.そしてパウロは言う。それがクリスチャン生涯だというのである。「
だというのである。「それは
。「それは生
それは生きている人
きている人が
最早自分のためにではなく・・・
自分のためにではなく・・・」
のためにではなく・・・」と。
結 論
●ツィンツェンドルフ伯爵:彼は若き日に、美術館でイエス様
イエス様の十字架の絵とその下に書かれてあっ
た言葉、「私
、「私はあなたのためにこれをした。
はあなたのためにこれをした。あなたは私
あなたは私のために何
のために何をするか」
をするか」に釘付けされるように
心打たれ、
たれ、その場で全生涯を神様に
神様に捧げた。
げた。
●彼は全財産を投げ打って敬虔派の群れであるモラビア兄弟団
ビア兄弟団を設立するが、
するが、この群れこそが、
れこそが、後に
世界的教団となるメソジスト運動の創立者ジ
立者ジョン・ウェスレーに多大
ーに多大な
多大な霊的影響を与えるのである。
えるのである。
●ツィンツェンドルフもまた、
もまた、一人の
一人のクリスチャンとして「
ンとして「キリストのために」
キリストのために」という目的主導
という目的主導の
目的主導の人生
を生きたのである。
きたのである。
●私達のために死んで甦られたイエス様
られたイエス様は今も私達に尋ねられる。「
られる。「私
。「私はこれをした。
はこれをした。あなたは私
あなたは私の
ために何
ために何をするか?」と。これを考え、これを実行するのが目的主導
するのが目的主導の
目的主導のクリスチャン人生である
人生である。
である。
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