第5章:現象学的方法(pp.101-157)

A・ジオルジ『心理学における現象学的アプローチ』
(吉田章宏訳)新曜社,2013 年
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第5章:現象学的方法(pp.101-157)
<哲学的現象学的方法>
・ 現象学は認識論的な関心を重視し、意識に現前する対象と意識の構造を研究する。
・ 以下では、フッサールの哲学的方法を要約し、科学的研究に応用するうえでの修正を試みる。
超越論的現象学的態度をとること
・ 現象学的方法の第一歩は、自然的態度から離れて、現象学的態度を取ることにある。
「総ての
対象を、それらがどのように経験されているかという視点から、それらが経験されているが
ままの仕方で現実に在るか否かにはかかわらずに、視ること」(102)
。
・ 例えば、デパートのサンタクロースを見て、それが本物のサンタクロースだと信じる子供の
場合。子供の見ている知覚、子供の持っている信念を、ありのままに検討することになる。
(※
なお、この文脈で他者の知覚世界を例として引き合いに出すのは不適切。一次的には、私の
知覚においてはたらいている信念が問題になる。
)
現象の本質の探究
・ 現象学的態度の後に、研究対象となる事例に焦点を当てる。
・ その事例について想像変容(※想像的変更 imaginative variation)を加え、それが何である
かという本質を見定める。
・ 色彩についてのフッサールの記述はこの一例である。色は、もし空間において広がりを持た
ないとすれば知覚できないだろう。色の知覚は、広がりや空間性と本質的に結びついている。
広がりを想像上取り除くと、色も消滅する。
本質の叙述
・ 続いて、現象の本質を叙述(※記述 description)する。
・ 現前しているものをありのままに叙述する。また、現前しているものにとって、不在の何か
がその本質にかかわるような場合、その不在まで含めて記述する。
・ 叙述は、①解釈ではない(仮説や理論を借りて経験を分節化することではない)
、②構成では
ない(所与でない要因を用いて対象を現前させることではない)
(※ここの「構成」は原著で
は constitution ではなく construction)、③説明ではない(原因を用いて、現前しているもの
にその理由を与えることではない)
。
・ 叙述は、超越論的現象学的還元(純粋な意識の視点から対象を見る)
、形相的還元(対象の本
質を求める)の過程を踏まえたものである必要がある。
・ ここで、
「超越論的基準から解放された現象学的還元の考え」
(104)を明らかにしておく。還
元にはいくつかのレベルがある。第一に、ある対象が意識に現前することと、それを実在の
何かとして措定することを区別せねばならない(例:知覚された人の姿は現実の人かもしれ
ないし、マネキンかもしれない)
。自然的態度を保留しておくこと。
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・ 第二、エポケー。意識に与えられている対象についての知識や前提を括弧に入れておくこと。
とくに、過去の経験に由来するものによって、現在の経験への評価が歪まないように配慮せ
ねばならない。これは過去を忘れるということではない。過去に得た知識・前提・仮説など
が進行中の出来事の経験に影響しないよう、出来事が展開するままに探求するということ。
・ 厳密に考えると、メルロ=ポンティが言うように、完全な還元は不可能だとも言える。ただ
し、ここで強調しているのは、習慣的なしかたで現在の出来事を経験しないように、過去を
括弧に入れておくということである。
・ フッサールは、決して実行不可能な方法を説いてはいない。括弧入れは、
「現在と過去それぞ
れの役割を見分けるために、現在と過去の間に、ある緊張を保持すること」
(108)である。
・ こうして、自然的態度において経験される対象ではなく、意識に現われるものとしての対象
を検討することになる。想像変容の方法を用いて対象の本質を見出し、それを叙述する。
<科学的現象学的方法>
・ 心理学にとって関連のある現象学的分析を行うには、以上の方法に修正を加えることが必要
になる。第一に、哲学ではなく科学的分析のレベルに移行すること。第二に、心理学的感受
性を備えた分析にすること。
・ 著者(ジオルジ)の方法は、哲学的現象学、人間科学、心理学の総合を試みるものである。
ただし、三者はそれぞれの不安定さを抱えており、本書もそれを背景としている。それでも、
修正しつつ発展できるような計画として、現象学的心理学を構想することは不可能ではない。
・ サルトルはこう述べている:
「さしあたって心理学は、事実をかき集めようとするよりもむし
ろ、現象に問いかけることを、つまり純粋な事実ではなくて意味することであるかぎりにお
ける心的出来事に問いかけることに努めるべきである」
(『哲学論文集』)
<科学的心理学の基準に合致するための、哲学的方法の修正>
・ 科学的方法は哲学的方法とは異なる順序で進む。分析のためのデータが研究者自身ではなく、
他者から得られるものだからである。他者のデータを扱うことは、現象学を人間科学および
社会科学に拡張するうえで不可欠である。
他者たちからの叙述
・ 研究は、他者の経験の具体的な叙述を得ることから始まる。通常はインタビューによるが、
文章になっているデータを扱うこともできる。
・ 生データは、自然的態度で生きる普通の人々によって与えられる。研究者は現象学的還元に
おいて、また当の現象に対する特別の感受性とともに、データを分析してゆく。
・ 他者に由来するデータは、研究者自身の意識に現前するものではない。しかし、他者の経験
は世界のなかの特定の状況で生じている点で共有可能であり、経験の叙述が読み書きにおい
て伝達される点でも共有可能である。
・ シュピーゲルベルクは、他者に自分を置き換えて他者を理解する試みを、フッサールになら
って「想像的な自己置換」と呼ぶ。これは、他者に置き換えたときに想像的に見出される手
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がかりを用いて、他者の世界を再構成し、理解することを指す。(※フッサールが言う
「Hineinphantasieren」のことと思われる)
。
・ 言い換えると、他者による叙述のなかに、他者の意識に現前しているであろうノエマ的な手
がかりを求め、そこから他者のノエシス的な要因への接近を試みるということである。
現象学的還元[の態度]をとること
・ 還元は、哲学的には超越論的現象学的還元を用いることになるが、これは純粋な意識の視点
に立つことを要するもので、心理学的感受性をやや欠く。むしろ心理学にとっては、フッサ
ールが「心理学的現象学的還元」と呼んだ手続が必要とされる。
・ 心理学的還元においては、経験される対象は現象へと還元されるが、それに相関する意識は
具体的な人間に属している(※つまり、対象についての諸前提は括弧にいれたまま、具体的
な「誰かの意識」に経験されていることを、ありのままに理解しようとする態度を取ること)
。
・ 研究参加者が現象学的還元の態度を取る必要はない。人々が、自然的態度において、生活世
界において経験したことを生データとする。むしろ、参加者は現象学について無知であるこ
とで、各自の経験を生きられたままに近い状態で報告することができる。
・ 研究者は、人々において対象や出来事がどのように経験されたかに焦点を当てる。語られた
ことが実際にその通りに起こったのだ、ととらえてはならない。また、研究者の個人的な過
去の経験や知識も、括弧に入れたままにされねばならない。
不変な心理学的意味を求める探求
・ 哲学的な現象学の方法では、想像変容を通じて現象の本質を探求することになるが、科学的
な文脈では「本質」という概念は誤解を招きやすい(プラトン的なイデアとして理解されて
しまう)
。私は「本質」の代わりに「経験の構造」を求める。これは、多様な生データをもと
にして、
「研究している現象の共通の意味が何かを可能な限り最善の仕方で伝える」
(117)と
いうことである。
・ 哲学的な「本質」と心理学的な「経験の構造」には違いもある。例えば、学習の本質は新し
い行動や新しい理解を獲得することにあるだろうが、この議論だけでは、多様な人々の学習
経験が実際にどのように生きられ、そこにどのような共通の意味があるのかは分からない。
多様なデータが埋め込まれている状況を越えて一般化できるような、共通の心理学的性質を
明らかにすることがここでの目標である。
・ 「科学的現象学的方法によって獲得された経験の構造は、一般的不変性のレベルにまで形相
的に高められた、心理学的視点から具体的叙述の中に識別された、特定の生きられた意味の
明瞭化である…それらの構造は、心理学的な仕方で生活世界の諸状況を明瞭化し、日常的状
況の、より深い心理学的理解に貢献するのである」
(118)
。
・ 哲学的方法と心理学的方法のもうひとつの差異は、データが複数の人間から与えられる点で
ある。それらがもともと、各自の生活世界の文脈において、各自の意識によって経験された
ことを無視してはならない。各自の意識のノエシス=ノエマ相関が尊重されねばならない。
・ 共通の現象を扱っているつもりでも、そこに共通の構造が見つけられない場合、その現象の
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生きられた姿が非常に多様であるのかもしれないし、単一のレッテルによって、もともと異
なる現象をカバーしているのかもしれない。
・ すべてのデータを単一の構造へと統合できるのであれば「構造内変動性 intrastructural
variability 」 を 、 二 つ 以 上 の 構 造 が 記 述 さ れ ね ば な ら な い の な ら 「 構 造 間 変 動 性
interstructural variability」が問題となる。
・ ここで言う構造は、人間の経験における心理学的側面を浮き彫りにするような心理学的構造
を意味している。具体的レベルにとどまれば、特定の個人についてより多くを明らかにする
し、より一般的なレベルに進めば、心理学的現実を最もよく現わす局面に至る。
・ 抽象的すぎる用語でないと構造を叙述できない場合は、データが単一の構造に収められるに
は大きすぎるのであり、一つ以上の構造が与えられるべきことを告げている。ただし、この
判断に特定の基準をあらかじめ設定するのは難しい。これは、研究者の側に心理学的感受性
を要する問題である。
・ 著者(ジオルジ)の考えでは、科学的心理学において現象学的方法を適用するには一定の修
正が必要になるが、現象学的基準には違反しない。自然的態度での語りや叙述をデータにす
るため、超越論的現象学的還元には至らないものの、
「科学的現象学的還元」
(121)のもとで
研究者はデータの分析を進め、経験の構造を求めることができる。現象学の枠内で研究しつ
つ、現代の心理学の実践を尊重することができる。
・ 叙述を進めるうえで、ノエシス=ノエマ相関に留意する必要がある。意識に何かが現前して
くるとき、そこには志向的な作用と、意識される対象との相関的関係がある。意識の志向的
作用がノエシスであり、志向的対象がノエマである。
・ データ提供者である他者の意識において、このノエシス=ノエマ相関がどのようになってい
るかに注目し、叙述することで、生きられた経験を正確に明らかにすることができる。
・ 先行する質的研究者は多いが(ジェームズ,バートレット,ピアジェ他)
、それらはすべて生
データに対する解釈を提示しただけで、分析と解釈の過程で何が行われたのかという方法論
的説明はなされていない。
(※ジオルジの考えでは、ノエシス=ノエマ相関に着目し、生きら
れた経験の意味を叙述し、経験の構造を抽出するというステップが重要であるということ)。
<一般的研究図式の人間科学的解釈>
・ 次に、心理学的現象を研究する過程で現象学的アプローチがどのように影響するかを示す。
研究可能な問題
・ 研究者自身の関心すべてを単一の研究で網羅することはできないので、いくつかの部分に分
割する必要がある。また、研究にまつわる初期の意思決定のひとつひとつが、研究全体に波
及しうることもあらかじめ知っておくべきである(例えば、質的研究にするかどうか、病理
を扱うかどうか、等々)
。研究の初期段階は非常に重要である。
・ 現象学的心理学で研究されるのは、研究参加者の経験的世界であるが、この世界に直接的に
接近することは不可能である。そこで、
「ある形態の表現を通して、間接的に接近しなければ
ならない」
(124)
。他者の行動、言葉、芸術作品まで、さまざまな表現がある。これらを通じ
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て、他者の経験に関してある種の洞察を得ることができ、他者の経験的世界について何かを
学ぶことができる(例:旅行記を読むことで、自分は行ったことがない場所について何らか
の洞察を得る)
。
・ 心理学の正確な定義は未だに存在しない。意識、無意識、経験、行動など、定義のキーワー
ドになってきた用語は過去に存在したが、それらが統合されたわけでもない。ただし、[現象
学的な観点から]意識をキーワードにすると、
「無意識」は意識のひとつの次元、
「経験」は意
識の様相、
「行動」は意識の表現、という考え方で、やや包括的に見ることもできる。それで
も、
「心理学的」という言葉が正確にどのような範囲を指すのか、定義することは難しい。
・ 心理学的であることについての著者(ジオルジ)の考えの出発点は、
「心理学的なものは、個
人経験の現象的世界の中に与えられている」
(126)ということにある。
「その世界では、物事
がある人にどのように現前しているかということと相関している諸々の意味が支配的である
が、そのような意味は客観的現実との調和を保証はしない」
(126)。個人の主観的関心に応じ
て出現する世界があり、それは理性的過程や他者との相互作用を通じて客観的現実へともた
らされるが、その場合も、心理学的なものが完全になくなるわけではない。
・ したがって、心理学では、個々人の生きる現象的世界が明らかにされねばならない。個々人
が、それぞれの状況のなかで生み出した具体的な表現を叙述し、それをもとに、人々によっ
て生きられているさまざまな主観的意味をとらえることになる。
・ 自然科学では、物と、物が相互作用する過程が研究対象である。心理学では、それが、人間
と人間関係に置き換わる。自然科学の理論、実践、規範がそのまま適用できるわけではない。
・ 自然科学にも、心理学(人間の科学)にも当てはまるような科学的知識とは、(1)一般的 general
(その知識が獲得された状況以外でも適用可能である)、(2)組織的 systematic(異なる種類
の知識が互いに関係しあい、知識を発展させてゆく)、(3)批判的 critical(訂正可能性に開か
れている)
、(4)方法的 methodical(他の研究者が用いることのできる方法を備えている)で
あることである。
・ 以上を踏まえると、人間科学としての現象学的心理学は、
「ある限られた状況における心理学
的現象に関する、他者の現象世界の一側面の意味についての安定的知識」(129)を求める営
みであることになる。
・ これは、現象学的・心理学的・科学的、それぞれの観点を満たす。現象学的分析は、他者の
経験にも適用可能である。他者による表現に寄り添い、その経験に身代わり的に現前するの
である(※いわゆる「共感」empathy によって理解するということ)。また、他者の主観的
な方向づけを際立たせる点で心理学的である。開かれた一般的な知識である点で科学的であ
る。
・ 例えば、反復性記憶 recurrent memories を研究するとしよう。第一に、その種の経験を持つ
参加者から、具体的で詳細な経験の表現を得ることになる。第二に、その現象が生起する生
活世界の状況について考慮せねばならない。この点は、研究状況を具体的にすることとも関
係して、何が研究可能であるかを決めることになる。
生活世界状況の類比物としての研究状況
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・ 自然科学は、外的要因を最大限排除するために実験室を用いる。音、光、刺激の大きさと強
度、刺激の継続時間、刺激の質などを制御することで、自然界とは異なる抽象的な場面を設
定できる。
・ しかし人間の経験では、その経験の文脈が重要であり、その現象が生じている日常生活の状
況をできる限り近似するよう試みることが重要である。
「その現象が際立った仕方で現われる
ような生活世界の状況を探さなければならない」
(132)。意識に現われる経験はそれ自体で独
立したものではない。その経験が再生できないとしても、追想的な叙述によってその経験が
生じた状況への接近を試みなければならない。
自発的活動あるいは表現に同時発生する記録としての制御
・ 自然科学では、生命のない事物を扱うほうが多く、独立した事物どうしの外在的な関係を研
究すればよい。そのため、環境を人工的に制御することで、現象を観察したり、理論化を進
めたりすることが容易である。
・ 人間科学でも、コントロール・グループを用いて実験を行うことはできるが、経験に影響し
ているのが外在的な要因である場合しか望ましい結果は得られない。人間の経験にとっては、
主観的要因のほうが支配的であることが多い。実験を通じてある現象を起こそうとするより
も、その現象が生きられたままに把握しようと努めるほうがよい。
・ 例えば、反復性記憶を取り上げるのなら、研究者は、研究参加者に、その経験についての叙
述を求めることになる。説明も解釈ももとめず、まさに叙述を求める。参加者が提供してく
れる追想的叙述が研究の生データとなる。
・ 追想を用いることについて、主流の心理学から批判がありうるだろう。すなわち、追想は忘
却や歪曲を含むもので、現実に生じたことを再生できない、という批判である。
・ この批判は正しいが、だからといって追想を用いてはならない理由にはならない。実験室で
反復性記憶を誘発できたとしても、それは本人にとって何の関心もない種類の経験の記憶か
もしれない(※生活世界の文脈から遊離してしまう)。また、現在進行中の経験でも、それが
報告されるときにはつねにずれてしまう可能性を含んでいる。
・ むしろ、追想の持つ制約に注意深くあることで、これを方法として用いることができる。現
象学的に見ると、追想は、現前しないものに対して接近することを意味する。現在の意識に
は、直近の過去と直近の未来(把持と予持)が含まれ、現在から遠ざかる事象であるほど、
気づきから離れてゆく。現在の気づきに含まれない事象を気づきにもたらすには、回想(※
想起 recollection)や期待(※予期 expectation)が必要になる。そもそも、あらゆる経験が
時間的構造を持っており、そこには回想や期待も含まれている。このように考えれば、追想
もまた正当な経験の一部であり、それを叙述に用いることを禁じる必要はない。
・ なお、現在の経験でさえそれを完全に叙述することは不可能である。叙述にとって重要なの
は、反省以前の経験の流れを完全にとらえることではなく、適切にとらえることである(適
切性 adequacy)
。適切性は、
「研究されている現象に関して、新しく洞察に満ちた知識が獲得
されるほど十分に明瞭な叙述であること」(135-136)と定義される。
・ もうひとつ留意すべき点は還元に関することで、叙述の対象が実際に存在したかどうかは問
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題ではない、ということである。
「現象学者にとって問題となるのは対象が叙述者にどのよう
に現前したかということなのである」
(136)
。追想的な叙述が不完全だとしても、それは、あ
る経験がどのように出来事や対象を組織化したり、客観化したりしようとするかを明らかに
することはできる。
・ 心理学的には、誤った記憶、歪曲された記憶は、むしろその人の主観性の働きを現わすもの
として非常に興味深い。客観的事実との対応関係を知ることで、歪曲のあり方を対比的に理
解することもできる。また、仮に客観的事実が分からなくても、その経験が本人にとってど
のように取り上げられているか、という点は十分に理解することができる。
・ 一度に全側面を見ることができなくても、意識に現われる個別の局面は相互に関係しており、
それらが単一の対象の知覚の各局面であることは理解できる。それゆえ、
「把握する必要があ
るのは、経験の統合的な結節点である」(137)。志向的対象は意味とともに提示されるので、
その意味を明らかにするには、志向的対象に関する反省が必要になる。
<この方法のステップ>
・ ここまで述べてきた方法の実際のステップについて以下で説明する。
・ その前に、質的方法は量的方法と同様に、客観性を確保できるか、また、どの程度まで客観
的でありうるか、という点が問題であることを知っておかねばならない。
・ 統計、確率、論理学規則(※因果的規則)が量的方法の客観性を支えている。対して、フッ
サール現象学は、
「質的な性質の経験的発見を支える形相的科学を提供する」
(139)
。
(※形相
的還元を通じて、経験の叙述からその意味を明らかにすることができ、そこには一定の客観
性を確保できる)
。
データ収集の局面
・ 研究は、獲得すべきデータとそれにまつわる研究状況を特定することから始まる。基本的に
は、研究者が明らかにしようとする特定の経験を重ねて来た人々から、経験の詳細な叙述を
得ることになる。本人による叙述は詳細さを欠くことがあるため、インタビューを用いるこ
とが多い。
・ インタビューで念頭に置くべき基準は、参加者が生きた当の経験について、可能な限り完全
な叙述が得られているかどうかである。ただし、インタビューは、経験を話すことへの遠慮
と、主題からそれたおしゃべりまで、幅広い範囲を揺れ動く。
・ そこで、研究上の関心に向かって、
「参加者を方向づけること directing the participant」を
心がけておく必要がある。これは、
「参加者を誘導すること leading the participant」ではな
い。後者は、研究者が求めている特定のことを参加者に言わせる試みであり、データを歪曲
させる。現象学的心理学で求められるのは、
「仮説・検証アプローチ」ではなく「発見的アプ
ローチ discovery approach」であ。参加者を誘導して語らせることに意味はなく、参加者が
語るにまかせ、生きられた経験を真に明らかにすることに意味がある。
・ 参加者とラポールを確立することは重要である。参加者に対して距離を置き過ぎてもいけな
いし、親しい人々のみを参加者にしてもいけない。一般的には、通常の社会文化的実践のあ
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り方が尊重されるべきである。
・ 研究テーマによってはそれ以上の親しさが求められることもあるので、インタビューする側
に心理学的感受性が求められる。病理学的な現象を扱う場合にはインタビュー上の困難は最
大になるので、心理学的感受性だけでなく臨床的な技能も求められる。
・ どの程度の長さのインタビューが適切かということを、事前に心に留めておく必要もある。
データが多ければ多いほど良いわけではない。短すぎても経験の構造は明らかにならない。
研究している現象にとって、相対的に必要なインタビューの長さを見極めるバランス感覚が
求められる。
・ データは、抽象的すぎたり一般的すぎたりすることがある。また、経験そのものの具体的で
詳細な叙述よりも、経験したことへの意見や態度が多くなることもある。そのため、参加者
が現実に何かを経験した特定の状況に集中するよう、参加者を方向づけることが必要である。
基本的な問いは次のような形式を取る。
「どうぞ、あなたが学習を(あるいは、その他何であ
れ)経験した状況について述べてください」
(143)
。
・ 生きられた出来事のあらゆる局面が正確に叙述されるということはありえない。ここには「図
と地」の関係があって、生きられた経験が「図」だとすると、それが埋め込まれている「地」
がかならずあり、
「地」のすべてが本人によってすべて表現されることは決してない。
・ ただし、完全な叙述が不可能だとしても、適切な叙述というものはある。適切な叙述は、そ
の現象について新しい心理学的知識をもたらし、その現象の構造の叙述を可能にする。
叙述の分析
・ インタビューの録音と文字化が済むと、分析に移ることになる。
・ 文字化されたデータは、基本的には「叙述」ととらえるべきで、解釈が必要な「テクスト」
と呼ぶべきではない。そのテクストが解釈されるべき地平についての問いが潜在的に含まれ
ているものを「テクスト」と呼ぶべきであろう(例:著者の意図が明確に反映されているか,
語りの相手は誰か,著者が暗黙に前提している視点はどのようなものか,等)。これに対して、
叙述は、明確な研究目的と、特定の方向づけのもとで得られたデータであり、地平的要因の
多くは欠落していない。
・ 叙述分析と解釈のあいだには、データに向かう態度の違いもある。分析は「データに提示さ
れていることのみに基づいて、叙述の意味を理解しようと試みる」
(146)。曖昧な点があって
も、叙述そのもののなかにそれを解決する証拠がない限り、それを解決しようとはしない。
所与でない要因を持ち込んでまで明らかにする必要はない。解釈は、データの曖昧を解決す
るため、所与でない想定や理論や枠組みを用いて、筋の通った「良い」解釈を提示しようと
する。解釈は理論的にエレガントで統合的でありうる。しかし科学的視点からすると、現前
しているものを越えて、理論的思弁に頼るべきではない。叙述を分析した結果は二次的な叙
述(second-order description)であり、他者による批判的な検証に開かれている。
この方法の具体的なステップ
・ (1) 全体の意味を求めて読む:科学的現象学的還元の態度と、心理学的視点、データへの感受
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性をもって、叙述を読み進める。この段階では、
「叙述が何についてのものであるかの一般的
な感じ」
(147)をつかむ。現象学的な質的研究では、研究参加者の体験において「何が志向
されているか」を重視することになる。
・ (2) 意味単位の決定:分析の目標は、経験の意味を見出すことにある。分析に当たっては、デ
ータ全体を「意味単位(units of meaning)
」に沿って正当な部分に分割する必要がある。還
元の内部にいること、心理学的な感受性を備えていること、研究対象の経験(学習や不安な
ど)に留意していること、を基本的な態度として、データを再読する。
「叙述を再読し始めた
ら、重要な意味の転換を経験するたびごとに、データに適当な印を付ける」
(149)。こうして
分割された部分が、意味単位の系列である。意味単位を決定するためのアプリオリな基準は
ないし、叙述そのものに意味単位がもともと備わっているわけでもない。意味単位の確立に
は、研究者ごとにある程度の恣意性がともなう。重要なのは、これらの意味単位がどのよう
に変換されうるか、という点である。
・ (3) 参加者の自然的態度の表現の、現象学的心理学的に感受性のある表現への転換:個々の意
味単位を吟味し、そこで展開されている生活世界の叙述に含まれる心理学的な意味を取り出
す。この過程では想像変容(※想像的変更)の手続も用いられる。所与のデータが現実とは
異なる場合を想像し、ばらつきのある意味のなかから、あるレベルの不変性を取り出すため
である。経験の文脈や叙述が異なっていることは当然起こりうるが、そこに含まれる心理学
的意味は同一でありうる。この過程はデータのなかに住むことで初めて可能になるもので、
時間がかかる。
・ 第三段階の分析において参考にすべきこと。フッサールによると、意識は意味付与の作用を
しているが、その作用は、その意味が正確に充足され、意味が同定されるまで続く。生活世
界における経験の意味を心理学的表現に変換する時にも、同じ過程が生じる(意味付与→正
確な充足→同定)
。想像的変更は、不十分にしか充足しない対象と、そうでない対象とを区別
するうえで役立つ。
・ データを扱っている時点では、研究者は自分が探しもとめている経験の不変の意味について、
漠然とした感覚は持っていても、正確には特定できない。ただし、
「正しいその不変な意味の
発見がこの過程の成果なのであり、それは、それが自ら現前する時、即座に正しいと認めら
れる」
(152)
。この過程は、すべての意味単位が変換されるまで繰り返される。
・ なお、意味単位を変換する過程でも、経験の文脈は重視せねばならない。図と地の関係で言
うと、意味単位は図であり、経験の文脈は地である。経験の心理学的次元を正確に明らかに
するには、地にも配慮する必要がある。
・ 「心理学的視点」という言葉で意味しているのは、一般的で、特定の理論にもとづかない心
理学的態度のことである。個人の主観性を大切にし、現象が現われる仕方において役割を演
じている種々の心理学的な意味を明らかにするということである。
・ 心理学は、個々人がどのように現前する世界を知覚し、その世界で行為しているかを明らか
にする。ただし、主体の全世界を把握することは困難なので、特定の状況における経験に焦
点を当てることになる。
・ 心理学的分析は、他者の提供するデータにもとづき、研究者本人の意識にもとづいてなされ
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る。ただし、他の研究者の検証にも耐えうる間主観的態度で分析はなされる。こうした方法
のいくつかはデネットのヘテロ現象学に似ているように見えるかもしれない。しかし、ここ
での方法は、データを分析し、そのデータを通じて、他者が叙述したのと同じ状況に想像的
に現前することを目標とする点で、ヘテロ現象学とは異なっている。