バリの式典等における要人挨拶の際の「オーム」

総領事便り7月号:バリの式典等における要人挨拶の際の「オーム」とは
「唵(おん)の字音は一切を貫く、唵音は実にこの一切(宇宙)なり。」
Samavada
バリでは、式典等における要人等による挨拶の際、冒頭では、「オーム・ス
ワスティアストゥ」(Om Swastiastu)、そして、挨拶の締めとして、「オーム・
サンティ・サンティ・サンティ・オーム」(Om Shanti Shanti Shanti Om)と唱
えられています。
バリに赴任した直後、とある式典にて初めてこの挨拶を聞いた時は、ちょっ
驚き、「おー、バリにもオームという言葉があるんだ。流石バリ・ヒンドゥー
教、バリは、どこか一味違う。」との印象を持ちました。
その後、私自身も公的なスピーチでは、スピーチの冒頭と最後に、必ずこの
バリ式呪文を入れて挨拶しています。
通常、「オーム」をアルファベットで表記すると AUM となりますが、人間
が生まれて初めて発する言葉が A(あ)で、人間が亡くなる際は、口を閉じて M
(ん)となることから、始めから終わりを表しているともいわれています。
古代のバラモン教では、唵(おん)は梵の一次表現であると同時に A・U・M
を三ヴェーダに当て、ビシュヌ・シヴァ・ブラフマンの護持・破壊・創造を司
る三神に配しており、宇宙の形成を司るエネルギーを表す言葉ともされていま
す。
なお、向田邦子の小説の題名にもなっている阿吽「あ・うん」という言葉も、
インドから日本に伝わった由で、神社では狛犬が左右で「あ・うん」、お寺で
は仁王様が左右で「あ・うん」と対になっているとのことです。
キリスト教の「アーメン」、イスラム教の「アミーン」、そして、仏教の南無
阿弥陀仏の「南無」(ナーム)の語源も「オーム」とされている由です。
また、ヨガのレッスンの際にも、最初と最後に「オーム」を唱えるクラスが
たくさんあると聞いています。
個人的な体験からも、「オーム」という言葉を複式呼吸にてお腹の底から発
すると、心が少し落ち着いた様な気持ちになる様です。
インドネシアの今年の五月は公休日が多く、大変嬉しい月でした。お陰様で、
その休みを利用して普段読まないような本を数冊読むことが出来ました。
その数冊の中には、山折哲雄さんの『キーワードで読む
最新宗教学入門』
という本がありました。その本の中には、オームに関する興味深い記述があり、
刮目して読ませていただきました。その興味深い記述の中で、特に印象深い部
分を次の通り転記させていただきます。
「宮沢賢治のメルヘンの世界というのは、風とともにはじまり風とともに終
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わるようです。そういうわけで風の音は、彼の文学世界におけるきわめて重要
な記号と言ってもいいでしょう。それを、どう考えたらよいのか。宇宙を吹い
ている風の音と、宮沢賢治自身のからだの中を吹いている風の音がうまく共振
している状況を、私は思い描くわけです。
風の音が単にメルヘンのはじまりとなって物語が展開していくだけではな
く、賢治自身のからだの中をいつでも風が吹き抜けているという体験が、彼の
物語の前提になっているのではないかという気がするんです。
つまり、賢治の生命のサウンドと宇宙のサウンドの共振現象が起こったとき
に、彼の想像力がイキイキと動き出すのではないかというわけです。
人間のからだには、喉から上のサウンドと、腹の底からわきあがってくるサ
ウンドがあり、腹の底からわきあがってくるサウンドは、生命そのもののサウ
ンドなんですね、一方、この宇宙もさまざまなサウンドにみちみちているんで
す。
そして、からだの中のさまざまなサウンドと、宇宙のサウンドがなんらかの
方法によって一体化したときに、からだ全体がバイブレーションを起こして、
はじめて宇宙の彼方からくるサウンドと共振することができるということでは
ないか。
そういう意味で音に向かうというのは、からだの内部の音を聞くことである
と同時に、宇宙の彼方の音をきくということでもあるんですね。
たとえば「ナーム」という言葉をただ口で唱えていただけでは、宇宙のサウ
ンドと共振することはできないんです。ところが、腹の底から「ナーム」と発
すると、からだ全体がバイブレーションを起こして、宇宙の彼方からくるサウ
ンドと共振することができる。「南無妙法蓮華経」も、「南無阿弥陀仏」も同じ
です。
つまり、題目でも念仏でも、からだに共振を起こさせるところまでいかない
とだめなんです。それが、「ナーム」という言葉というか音声に象徴されてい
ると思うんです。
人間の体内のエネルギーが充実して燃焼するときに、激しい音を伴う。それ
が、腹の底からのサウンドです。
そういう生命そのもののサウンドが、最終的に宇宙からのサウンドと合体す
る。そのとき体験されるエクスタシーのうちに、神の声、仏の声を聞くのでは
ないかと思うんです。
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サウンドの世界で国際的なイベントを数多く手がけてきた J・E・ベーレン
ト『世界は音ーナーダ・ブラフマー』によると、インドであみだされた聖音
(OM))は、やがて西方世界に広まるにつれ、聖なるアーメン(AMEN))に
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変化したのではないか、という意表をつく仮説がでてきます。
オームというのは、祈祷の開始や挨拶のときに用いられる聖句とされ、すで
にヴェーダ神話に登場する言葉です。以後インド哲学の伝統では、この聖句に
関しては様々な神秘的解釈がほどこされてきましたが、音声的にいえばこのオ
ーム OM はアウム AUM の合成音です。それにたいしてアーメンがキリスト教
徒の祈りにさいして唱えられる聖句であることはいうまでもありません。もと
もと「かくあれかし」を意味し、同意、唱和をあらわす言葉でした。
ベーレントがこのふたつの聖音を比較して主張しようとしているのは、もと
もと単音節のサウンドであったオームが、イスラエルやヨーロッパに伝わる途
上で、O 音と M 音の二つに分解され、それにさらに手が加えられてアーメン
という二音節に再編成されたのではないか、ということです。チベット僧やイ
ンド僧の唱えるオームが中世のグレゴリオ聖歌のアーメンあたりを中間駅にし
て、近代のヘンデルによる「救世主」のアーメンへと変容の過程をたどったの
ではないかというのです。
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ここですぐにも念頭に思い浮かぶのが、さきにふれた春日若宮祭のことです。
その遷幸・還幸の儀において発せられる、あの鈍い警蹕(けいひつ)の音です。
それは夜の闇を切り裂くようにして発せられる、「オー」という原始的な感情
をそそる叫びでした。ベーレントによれば、アーメンという祈祷音は、聖音オ
ームにおける O 音と M 音が分解したもの解釈されていますが、もしそうだと
すれば、若宮祭のおいて発せられる「オー」は、まさにその聖音オームから M
音を消し去った声音であるといわなければなりません。あるいはその M 音は、
O 音の深い淵の奥に呑みこまれてしまっていると考えることができるかもしれ
ません。」
なんという卓説、「オーム」という言葉に関する私の理解はかなり深まった
のではないかなとの気がしております。
最近、日本財団の笹川陽平会長のブログ、「日本財団
これからの50年」
ー職員の皆さん、共に奮起しましょうーが、私どもにも送付されてきました。
その中で、笹川会長は、「時代の風雪に耐えた名著といわれる本を、少し努
力して読んでほしいのです。ハウツー本のようには日常的には役に立たない、
また興味をそそられない本を積極的に読んでほしいのです。そのことによって
今まで気づくことのなかった視点から物事が見られるようになったり、新たな
感慨や発想が生まれてくるからです。一冊でも二冊でも読んでいただければ、
それは魂の、あるいは心の栄養になります。敢えて75歳後期高齢者になった
私から皆さんに苦言を呈するとすれば、皆さんは頭で考えている。心で考える
ようにならないといけません。心で考えるようになるには、心に栄養分を与え
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るような本を読まないといけません。」何とまあ、読書に関する箴言ではない
でしょうか。
いぜれにせよ、一つの言葉があり、その言葉の意味そしてそれに関連した思
想を、人生の先達が該博なる知識に裏打ちしながら、分かりやすい言葉で解説
してくれる本が世の中には存在している様です。
上記笹川会長の教えではありませんが、役に立たない読書、つまり、一見遠
回りに見える読書こそが、畢竟、思いの外、役に立ってくれるのではないかと
思いました。
参考文献
『梵字手帳』
徳山暉純
木耳社
『キーワードで読み解く最新宗教学入門」』
-4-
山折哲雄
たま出版