IRの本質とエクイティ・クレジット市場が求めるIR

EY Institute
IRの本質とエクイティ・クレジット市場が求めるIR
EY総合研究所(株) 客員研究員 伊藤敏憲
• Toshinori Ito
1984年から大和証券グループのシンクタンクで産業・企業の調査、上場企業調査の総括などを担当後、HSBC証券会社、UBS証券(株)で
(株)
エネルギー業界などの調査を担当。2012年1月に(株)伊藤リサーチ・アンド・アドバイザリーを設立。13年9月から、EY総合研究所
客員研究員。日本証券アナリスト協会 ディスクロージャー研究会 座長代理、企業会計研究会 委員。
Ⅰ はじめに
きれば、健全な企業は、妥当なコストで円滑に資金を
調達しやすくなり、敵対的買収のリスクを軽減できま
私は、セルサイドの証券アナリストの仕事に30年近
す。そのためには、企業は、エクイティ・クレジット
く従事してきました。また、1993年から日本証券ア
市場を正確に理解して、経営情報を迅速かつ十分に、
ナリスト協会のディスクロージャー研究会の委員とし
そして、分かりやすく提供し続けなくてはなりません。
て、企業の情報開示や、企業と財務諸表利用者のコミュ
上場・公開企業数の増加や、企業の情報開示の取り
ニケーション向上に取り組んできました。この間、数
組み強化などにより、膨大な企業情報がエクイティ・
多くの企業経営者に、投資家向け情報提供(IR)の重
クレジット市場に提供されています。このため、企業
要性を説き、IR組織の立ち上げや運営などを支援して
が発信した情報の中には、市場で十分に価値が認めら
きました。2012年にエクイティ・クレジット市場を離
れないケースや、存在すら認識されていないケースが
れてからは、中立的な立場で企業に接するようになり、
増えています。このような事情を考慮すると、企業は、
これまでとは違った立場で、経営者やIR担当者のIRに
情報を発信する際に、その情報が持つ意味を正確に伝
対する期待や不満を理解できるようになりました。
えるだけでなく、市場で注目されるように提供方法を
IRに積極的に取り組むかは、企業側の判断次第で
工夫することも必要と思われます。
す。積極的に取り組まなくても大きなデメリットは生
じないかもしれません。しかし、IRによって得られる
2. 有益な情報の取得
メリットを捨てることになります。本稿では、IRの本
経営に対して、投資家や証券アナリストから、問題
質、目的、メリット、エクイティ・クレジット市場から
点が指摘されたり、意見が出されたりすることがあり
みた望ましいIR活動などについて説明・提案します。
ます。それらの指摘や意見をうまく取り込めれば、経
営の質は向上します。IRの対象となる株主、投資家、
証券アナリストなどの中には、高い専門性や見識があ
Ⅱ IRの本質
り、豊富な人脈や情報ネットワークを持っているため、
企業側が入手困難な情報や、経営の向上に資する知識・
1. フェアバリューの実現
IRは、企業と株主・投資家との双方向のコミュニ
ノウハウを持っている方々がいます。企業は、IRを、
ケーション手段です。その目的の一つは、エクイティ・
きるのです。市場から有益な情報を得ることも、また
クレジット市場におけるフェアバリューの実現であり、
IRの本質であり、IRへの積極的な取り組みによって得
それがIRの本質の一つです。フェアバリューを実現で
られるメリットの一つと考えられます。
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情報、意見、ノウハウなどの収集の場としても活用で
Ⅲ IR活動
ます。対象者の属性や行動様式を理解した上で、日頃
から適切なコミュニケーションを図っておく必要があ
1. 企業のリレーション活動の中で最も専門性が高いIR
ります。そうすれば、間違った情報が流されたり、誤
企業が行っているリレーション活動は、その対象
解が生じたりするリスクを軽減でき、情報を正確に広
によって、IR(Investor Relations)、広報(Public
Relations)、政治家対応=ロビー活動(Government
Relations)、メディア対応(Media Relations)、行
政対応(Regulatory Relations)などに分類できま
す。これらの中では、IRの対象者が相対的に高い専門
性を備えていると思われます。
めやすくなります。
3. エクイティ市場とクレジット市場で異なるIR事情
(1)エクイティ市場におけるIR
エクイティ市場とクレジット市場では、IRの事情は
異なります。エクイティ市場では、さまざまな組織や
また、IR以外のリレーションは、フェアバリューの
人が多様な方法によって、株価などの市場価値の評価
実現を必ずしも目的としておらず、企業の経営環境や
を行っています。市場価値の評価は、一般に相対比較
事業環境をより良くする目的で行われることが多く
によってなされるので、絶対的な価値は存在しません。
なっています。従って、その内容はIRとは異なります。
株価などには、企業の個々の事情だけでなく、関連セ
ただし、IRの対象者は、マスメディアを通じて間接
クターの状況、経済・金融情勢、投資市場の環境など
的に情報を収集しており、マスメディアは、証券アナ
が影響を及ぼしているからです。
リストから企業や産業の情報を収集することがあるの
で、メディア対応は、IR活動の一環とも捉えられます。
エクイティ市場では、当該企業の過去の実績や、類
似企業、関連業界、市場全体などとの相対比較によっ
て、株価などの市場価値が評価されます。このため、
2. IRの対象
IRの対象は、機関投資家、証券会社、銀行、保険会
評価基準は変化し続けています。
社、格付け会社、事業会社などに所属するファンドマ
方向性が大きな影響を及ぼしますが、市場環境が良い
ネジャーや証券アナリスト、個人株主・投資家などで
と、業績や株主還元などとは無関係に株価が上昇する
す。情報の伝達に関わるマスメディアも対象となりま
ことがあります。市場で注目されているテーマに関わ
す。それぞれの対象の属性や特徴を理解しなければ、
りがあるだけで、株価が押し上げられることもありま
質が高いIRを行うことは難しいと思われます。
す。このような場合には、市場価値がフェアバリュー
例えば、投資判断を提供している証券アナリストは、
株価には、業績、財務内容、株主還元などの水準や
を上回ることがあります。逆に、市場環境が厳しい
証券会社などに所属するセルサイドアナリストと、運
と、株価はフェアバリューに対して割安に評価される
用側に所属するバイサイドアナリストに大別されます。
ことが多くなります。業績が好調で、高い水準の株主
証券アナリストの業務は、企業・産業に関わる情報を
還元を実施していても、市場で注目されているテーマ
収集・分析・評価し、社内外の顧客に評価の結果や投
に沿っていないなど、さまざまな理由によって株価が
資判断を提供することですが、セルサイドアナリスト
低迷することもあります。
とバイサイドアナリストでは、重要な情報を入手した
企業の将来の成長を左右する経営戦略も、評価に大
後の行動が全く違ってきます。セルサイドアナリスト
きな影響を及ぼします。経営戦略が的確で、かつ、そ
は、重要な情報を入手した場合、その情報や情報に基
の内容が株主や投資家に正確に理解されていれば、株
づいた評価結果を、できるだけ多くの顧客に速やかに
価は上昇しやすくなり、戦略に問題があると判断され
提供しようとします。バイサイドアナリストは、所属
ると、株価が下落することがあります。
先の利益を確保するため、重要であればあるほど、そ
の情報を社外に漏らさないようにします。
投資家、ファンドマネジャーは、産業界や企業から
評価者によって、見方、考え方、評価方法なども異
なるので、結果的に全く異なった評価が市場で混在す
ることもあります。
直接、情報を入手することも、セルサイドから間接的
よって、エクイティ市場では、普遍的なフェアバ
に入手することもあります。重要な情報を入手した場
リューは存在しないと考えられます。そのため、企業
合、バイサイドアナリストと同様の行動を取ります。
と市場の双方が納得できる市場価値を実現し、維持す
情報を発信する場合は、公平性の確保が重要となり
るのは容易ではありません。
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これらの事情を考慮すると、企業は、エクイティ市
トップと密なコミュニケーションを取り、経営トップ
場でフェアバリューを実現し有益な情報を得るために、
の考えを常に正確に把握している必要があります。経
経営の成果だけでなく経営戦略を説明し、経営に関わ
営の内容や状況を正確に理解していることも重要です。
りがある、さまざまな情報を提供する必要があると考
そのためには、担当者自らが自社および関連産業の事
えられます。
情に精通しているか、質問や要望に迅速に対応できる
ネットワークを持つ必要があります。投資家や証券ア
ナリストに対応するために、ある程度の財務知識を備
(2)クレジット市場におけるIR
クレジット市場における評価は、金利の水準、金利
えている必要もあります。
の支払い、借入金の返済、債券の償還などの確実性に
基づいて行われています。市場価値の算定方法が限ら
かい り
れているので、通常、評価者によって大きな乖離が生
じることはありません。
5. 情報の発信は適時かつ十分に
経営情報は、市場に適時かつ十分に提供されていな
ければなりません。企業から市場に提供される資料や
クレジット市場における評価の差は、主に返済およ
情報には、決算短信および補足説明資料、有価証券報
び支払いに影響を及ぼす可能性があるリスクに対する
告書、アニュアルレポート、CSRレポート、知財レポー
評価によって、もたらされます。このため、クレジッ
ト、会社案内、株主通信、ファクトブック、ウェブサ
ト市場では、リスクに対する評価がエクイティ市場よ
イトによる公表情報などがあります。これらの情報を
り厳しく、かつ、重要視されます。リスクは、実現す
公平かつ分かりやすく発信するためには、工夫が必要
る確率が低くても、リスクとして認識される限り、評
です。
価に大きな影響を及ぼすことが多くあります。従って、
法定開示が求められる情報や重要事項以外にも、重
クレジット市場に対して、リスク情報を正確に提供す
要な情報は数多く存在します。これらは、プレス発表
る必要があります。
するだけでなく、ウェブサイトを用いるなど、さまざ
まな形で、同時かつ公平に、そして正確に伝達される
(3)エクイティ市場とクレジット市場で異なる
財務情報の評価基準
財務情報はいずれの市場においても重要ですが、エ
ように工夫する必要があります。また、説明会などで
使用した説明資料についても、全ての投資家が閲覧で
きるようにする必要があります。その際、理解しやす
クイティ市場とクレジット市場では評価の基準が異な
いように情報の提供方法を工夫することも重要です。
ります。エクイティ市場では、成長性や将来価値が重
サマリーを付けたり、図表を活用したり、FAQを付記
視されるので、利益や株主還元の予想が注目されます。
したりするのは、有効な方法と思われます。
一方、クレジット市場では、金利の支払いや債務の返
済の確度が主な評価対象なので、将来価値より現在価
値の方が重視され、担保価値や財務収支が、より注目
Ⅳ 業績予想と投資判断
されます。
4. 質が高いIRを実現するための要件
質が高いIRを実現するためには、まずは、経営トッ
プがIRの重要性を理解し、自らの考えを積極的に発信
1. 業績予想と投資判断の方法
IR情報を利用している証券アナリストやファンドマ
ネジャーは、主に次のような方法で業績を予想し、投
資判断を行っています。
し続ける必要があります。経営成績が良くても悪くて
も、好ましい情報でも厳しい情報でも、自ら説明し続
けなければ、市場関係者の理解を得ることは難しくな
ります。
(1)業績予想
独自に業績を予想している証券アナリストなどは、
日頃から、関連する業界、製商品、企業などの情報を
IR担当部門に十分な経営資源が投入され、経営情報
収集し、分析しています。分析に用いる情報やデータ
などが常に十分に集積されていることも重要です。IR
は、独自に収集・加工して、データベース化している
担当者は、市場では企業の顔であり、経営トップの代
場合もあれば、企業や情報サービス会社のものを利用
弁者でもあります。その役割を果たすために、経営
する場合もあります。情報やデータは企業からだけで
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なく、公的刊行物、官公庁、業界団体、マスメディア
Ⅴ おわりに
などからも幅広く収集しています。業界および企業情
報の収集・分析は常時行っており、企業が決算を公表
双方向のコミュニケーション手段であるIRは、出し
したり、業績予想を修正したりした場合には、その内
手と受け手の双方が工夫と努力を重ねることによって
容を分析し、事業環境の想定、経営成果、前提条件な
高い成果が得られます。IRが、エクイティ・クレジッ
どを改定して業績を予想あるいは修正します。そし
ト市場におけるフェアバリューの実現、有益な情報の
て、公表情報や業績予想を基に、配当などの株主還元
取得・意見交換の場として、有効に活用されることを
を予想し、予想財務諸表を作成します。
期待しています。
企業の予想をそのまま用いたり、前提条件などを修
正したりして業績を予想する証券アナリストやファン
ドマネジャーもいます。バイサイドでは、セルサイド
の予想を平均するなどして業績予想を作成するケース
もあります。人数的には、独自に予想を行わない後者
が多数派を占めますが、市場への影響度は、独自に業績
お問い合わせ先
EY総合研究所(株)
E-mail:[email protected]
を予想している証券アナリストほど大きくありません。
(2)投資判断
投資判断は、予想財務諸表、配当などの株主還元に
よって算定した投資指標を、当該企業の過去の実績、
同業他社、関連セクター、市場平均などと比較すると
ともに、経営戦略、市場環境などを考慮して、総合的
に行われています。
従って、企業は、業績や株主還元の予想を発表・修
正する際には、それらがどのような前提条件や事業環
境想定の下に策定されたのかを併せて説明する必要が
あります。
2. IRの受け手側の取り組みも重要
もちろん、企業側だけでなく、IRの受け手側である
投資家や証券アナリストなども、工夫と努力が必要で
す。IRは双方向のコミュニケーションが図れてこそ、
高い成果が発揮されるものだからです。
具体的には、投資家や証券アナリストは、評価・分
けんさん
析に必要な知識・ノウハウの習得・研鑽に努めること、
企業や関連産業の情報やデータを常日頃から、きめ細
かく収集・分析・評価しておくこと、企業などから提
供された情報を正確に理解することなどが必要です。
これらを怠ると、誤った判断を行いやすくなるからで
す。近年、受け手側の努力不足が指摘されるケースが
増えており、とても残念に思います。
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