と の 原因 複合過去 Venir de infinitif

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Venir de infinitif と原因の複合過去
―― 因果関係の二つの布置 ――
佐
0.
藤
正
明
はじめに
LEBAUD (p.165) によれば,次の venir de infinitif と複合過去は双方の意味を区別するのが難
しい:
(1) Tu parles si je suis creve
´, je viens de courir un marathon !
くたくたなのかって,もちろんさ.マラソンを走ったところなんだから.
(2) Tu parles si je suis creve
´, j'ai couru un marathon !
くたくたなのかって,もちろんさ.マラソンを走ったんだから.
つまり,これらの文では,共通して,疲れ切った状態ではないかという相手の疑問 Q i を受け,
その原因である過去の事態 P を述べることで,現在の結果状態を確定したものに変化 Q i → Q j
させている.このため,LEBAUD はこの2例のみの構成要素から因果関係の標示方法の違いを説明
するのは困難であるとしている.
また,文法書などが venir de infinitif に「近接過去」と名付けているものの,近接性は必ずし
もこの形の本領ではない1).これらの2例では,1) マラソンを走ったという過去の事態 P と 2)
発話時の状態 Q i-j との間の経過時間が,実際上は同様のものであり得る.V ETTERS (p.382) の
指摘でも,語用論的な理由があれば,発話時とは隔たりのある過去の時点の「近接性」をマークす
ることも可能であり,次の (3)は容認可能である:
(3) Je viens de courir un marathon il y a un mois.
1ヶ月前にマラソンを走ったところなんです.
(4)* Je viens de courir il y a deux semaines.
* 2週間前に走ったところなんです.
これを LEBAUD (p.172) の表現を借用して言い換えるならば,(3) はこの時点の事態と発話時の
状態との「必要不可欠な連結性」をマークしており,自然な使い方である.なお,(4) が容認不能
なのは「2週間前に走った」だけでは「疲れが残っている」に連結させ,性質付与された結果状態
を導き出すことができないためであろう.
以上のことから,一般に venir de infinitif と原因の複合過去とは競合する関係にあり,(1),
(2)はその格好の具体例であると言うことができる.
しかし,この場合も双方の形態の特性が失われている訳ではないと考えることができる.例えば,
( 1 )
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福岡大学研究部論集 A 6(3)2006
, 2) の対をなす例について「ある同じ結果が異なる起源に由来すること
LEBAUD (Ibid.) は (1)(
があり得る」ためだと説明している.
そこで,これら二つの形態が本来持っている特性の相違と共通点を対照してみることを本稿の課
題とする.それによって,それぞれを単独で扱うモノグラフとしての考察が,より実証性を持った
ものになるのではないかと期待している.
1.
1.1.
複合過去による完了の二つのタイプ
原因の複合過去
複合過去の類型に関しては,かつて BENVENISTE(pp.248-249) が時制の通時的・共時的研究に
基づいて 1)完了 accompli,2)先行性 anteriorite
´
´, 3)新たなアオリスト nouvel aoriste,また
は,ディスクールのアオリスト aoriste du discours の3種類を明らかにしてくれた.この中で
venir de infinitif の因果関係と比較できるのは,1) の完了 accompli の用法であろう.彼が挙げ
ているのは次の例である:
(5) J'ai mang ; je n'ai plus faim.
食事はしました.お腹はすいていません.
F RANCKEL (1986, 1989) はこの大きな枠組みの中で,特に 1) の完了を二つのタイプに区分す
る必要を説いている.一つは,前提の構築がない,本稿冒頭の用例(2) および BENVENISTE の例
(5) のような原因 P とその結果状態 Q の「二つの項目」があり,Q i (相手の「何か召し上がり
ます」などの発言)を出発点として P を提示し,結果 Q j を断定する因果関係を表す用法である.
この用法には,細かく見れば,同様に因果関係を断定するものではあるが,現在の状態 Q i か
ら P を推定判断し,P - Q j の関係を明白なものとして断定する用法もある.先の (2) の場合は
主語が1人称の je であり,因果関係そのものの提示に主眼がある.これに対して,次の (6) の
例では2人称の相手の言動が Q i に相当し,これを「酔い」の判断基準・標準原器として原因 P
を推定している.ただし,推論の結果としての因果関係は発話者の判断では明白であり,これを断
定 assertion している使い方である:
(6) Ma parole, tu as bu ! Tu dis n'importe quoi ! (FRANCKEL, 1989, p.96)
あれー,酒を飲んだな ( P ).見境のないことを言ってるよ ( Q ).
なお,この用法の原因推定とその断定を脱断定化 desassertion
することも可能であり,次がその
´
例である:
(7) Il a plu, dirait-on, la chaussee
´ est mouillee
´ . (FRANCKEL, 1986, p.44)
雨が降ったようだ,車道が濡れている.
以上の用法が、前提の構築がない「二つの項目」の間の因果関係・推論の複合過去である.この
タイプの完了の用法は,BENVENISTE の用例もこれであり,FRANCKEL がその存在を初めて指摘し
た訳ではない.しかし,P = 理由 fondement,Q = 事実確認 constat および P 成立の判断基準
critere
etalon と規定 し ,双方 が 因果関係または 推論 によって 結びつけられる 「布置
` ・標準原器 ´
( 2 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 65 ―
configuration」になっているとする分析は独自のものである.それによって,この用法のモデル化
に先鞭をつけたと言うことができるであろう.
なお,本稿の次の項目 2. で見る venir de infinitif の原因 P およびその成立時点 t i の非自
立性と対比される形で,複合過去の 1)原因およびその成立時点は,対応する 2)結果状態および
発話時から自立している.言い換えれば,1) と 2) の項目は双方が対等なステータスを持ってい
る.この点は,かつて BENVENISTE がこのタイプを「完了 accompli」と命名し,独立節・自由節
での使用が可能な,複合形の自立的な価値,単純形一般との範列連関を取り結ぶことが可能な価値
とした 通 りである . そのことを 裏付 ける 現象 は , 自立 した 時間的 な 定位 を 行 なわない venir de
infinitif とは異なり,複合過去の原因 P は次のように時間的定位が可能である:
(8) Luc a casse
´ du bois, ce matin : la pile a bien monte
´. (Ibid., p.43)
リュックが今朝薪を割ったんだ.薪の山が確かに高くなっているもの.
つまり ,t i の 時点 または 時期 を 発話時 T 0 との 関係 で 限定 することが 可能 であり . このことが
venir de infinitif による因果関係との本質的な相違になっている.この因果関係・推論の複合過
去について FRANCKEL(Ibid., p.49)は「副詞による標識の存在,不在によって特徴付けられるが,
これは非テーマ位置でのことだ」と明記している.
いずれにしろ,venir de infinitif が示すものも,全体として一つの事態の「二つの側面」に関
するものとは言え,因果関係・推論である.したがって,これと比較すべき対象は,以上の「原因
の複合過去」だいうことになる.ただし,双方の詳しい異同については,本稿の項目 2.で venir
de infinitif の因果関係を概観した上で,項目 3.で扱うことにする.
1.2.
有効化確認・評価の複合過去
FRANCKEL の分析結果の文字通りの独自性は,次の前提の構築がある用法を,完了のもう一つの
サブクラスとして設定した点である.こちらは本稿の直接の考察対象ではないものの,簡潔に彼の
指摘を確認し,前項の完了との区別を立てておきたい.
この用法は,原因の複合過去と同様に結果状態を語る使い方である.しかし,内包されている変
数とその価値が先とは基本的に異なる:
(9) Enfin ! il a plu ! (Ibid., p.53)
とうとう,雨が降ったぞ ( P ).
(9) は,ごく短い文だが,enfin が前提の存在をマークしている.それによって,発話者は降雨を
期待し,これを照準・ねらい visee
´ としていたことが了解できる.この照準が,降雨 P の定位
localisation を通じて,発話時 T 0 において降雨らしい降雨が達成された状態 Q に至ったとする
完了 である . 発話理論 の 人達 が 使 うメタ 言語 で 言 い 換 えれば , 有効化可能 なもの (= validable)
を前提として構築し,この前提が事態 P が定位された (= localise
´) ことによって,有効化確認
された (= valide
´)状態に至ったことを語る文である.なお,この結果状態 Q は,期待されたこ
との成就・達成であり,前提 P vise
´ および事態 P から導き出すことが,一般に容易なのであろ
う.(9) を例にとれば「だから良かった・これは雨らしい雨だ」などの形で語彙化せず,含意させ
( 3 )
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ることで済ます可能性が高い用法である.
ただし,Q の語彙化を行なうこともあり,次の例ではこれが表明されている:
(10) J'ai bien mang . Je suis rassasie
´. (Ibid., p.54, p.56)
ちゃんといただきました ( P ).十分です ( Q ).
ここでは「ちゃんと・しっかり bien」があり,これによって目的追求に関わる前提とその高い程
度での成就・達成の構図ができている.他方,先の BENVENISTE の例(5) の方は,同じ動詞「食
べる manger」を使っているものの,前提とプラス評価の結果状態を想起させる要素がない.それ
によって,双方の節は客観的な因果関係の表明になっている.
目的追求の構図の中で照準とされた有効化可能な P を前提として持つということは,この段階
ではその否定命題 P' 成立の可能性を排除していないことになる.それが P 定位を通じて,P が
達成された状態 Q に達したということは,この Q は照準とされた P が, P' の可能性を排除し
て,P そのもの,求心化・典型化された P に至ったことを語っている.したがって,P に着目す
ると 次 のような循環的 な構図・布置 を 持 つと 考 えることができる :照準・ ねらいとされた P →
定位された P → 結果 Q = 求心化・典型化された P.これについて,FRANCKEL (1986, 1989),
L EBAUD は,前提と到達結果の「符号・一致 conformite
´」という表現を繰り返し用いて説明して
いる.
」の目的追求の用法の他に,次の
なお,この有効化確認の用法では,以上の「受益型 benefactif
´´
」の,回避可能なものが回避されずにマイナス評価の結果状態に陥っ
ような「損益型 detrimental
´
てしまったことを表す用法もある:
(11) Il a r agi maladroitement. (FRANCKEL, 1986, p.54 : 1989, p.109)
彼が下手に対応してしまった.
この場合は,FRANCKEL は「有効化確認 validation」ではなく「評価 valuation」を用いることで,
このマイナス評価の用法を区別しているようである2).このため,本稿ではこの項目の見出しとし
たように,完了のこのタイプが問題となる場合は「有効化確認・評価の複合過去」と呼んでおくこ
とにする.
こうした全体として目的追求(あるいは,逆に,回避すべき結果)を構成する前提と結果との符
号の構図は venir de infinitif には存在しないものであり,直接の比較の対象からは除外する必要
がある.しかし,比較の対象とすべき因果関係・推論の完了と識別するために,このタイプの完了
を概観しておくことも必要であると考える.
2. Venir de infinitif の因果関係
2.1.
原因 P の非自立性
次の例(LEBAUD, p.172) は本稿冒頭で引用した (1) の場合と前半部分は同一である.相手の
質問は省略されているが,この部分が相手の発言の「取り直し reprise」になっており,これが必
然化・性質付与の対象となる偶発的な状態 Q i であると了解できる:
( 4 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 67 ―
(12) Tu parles si je suis creve
´! Je viens de faire 5 heures de cours ! ≒(1)
くたくたなのかって,もちろんさ( Q i-j ).5時間の授業をしたところなんだから( P ).
こうした Q i に関する原因 P を提示することによって,同じ Q i を必然的な,あるいは,性質規
定された結果状態 Q j に変化させている.以上のような構成要素の「布置」が venir de infinitif
が標示する因果関係であると考えておくことができる.
ただし,この場合の因果関係は,原因の複合過去の場合とは異なり,全体としては一つの事態の
「二つの側面」を語るものである.F RANCKEL et L EBAUD (p.176) によれば,venir de infinitif
は 「 ある 純粋種 の 結果状態 une forme pure d'etat
resultant
」 になっている . つまり , 原因 P
´
´
は結果 Q j を直接もたらすものであり,この P には自立性が欠けている.双方は,直接的原因と
それによって必然化された結果状態という対になった「二側面」をなすものに純化されている.ま
た,P と Q j の間には「ある必要不可欠な連結性 une necessaire
connexite
´
´」ができあがってい
るという LEBAUD(p.172)の表現も,ほぼ同様のことを意味するものと考える.
これに対して,本稿の項目 1.1.で見たように,原因の複合過去の方は自立した「二つの項目 P,
Q」の間に因果関係または推論関係を打ち立てるものであった.なお,venir de infinitif と原因の
複合過去の具体例の比較は後出の項目 3.で行なうことにする.
2.2. P の成立時点 t i の非自立性
venir de infinitif では,発話時の結果状態 Q j に対して原因 P が自立性を欠いている.このこ
とは,連動して,発話時 T0 と原因 P の成立時点 t i との間の時間的な関係に着目するならば,
t i 点が自立性を欠いていることになる.その証拠が,多くの指摘があるように,venir を複合過
去に置けないことである:
(13)[...]─ Je ne suis au courant de rien : je viens d’arriver. (F RANCKEL et L EBAUD,
pp.175-176)
[...]─ 僕は何も詳しいことが分からない.今着いたところなんです.
(14)[...]─ Je ne suis au courant de rien : ?? je suis venu d’arriver.
複合過去は,一回生起の過去の事態を問題にする用法では発話時 T 0 以前の,これとは識別され,
自立性を持つ基準点・定位主体 t i を想定し,これに事態 P を係留する形態である.したがって,
もっぱら発話時 T 0 での結果状態 Q j の必然化・性質付与に資するものであり,自立性を欠いた
t i 点を持つ venir de infinitif と矛盾することになる.
ただし,venir de infinitif でも t i をマークすること自体は可能である.本稿冒頭で引用した例
(3) では「1ヶ月前に il y a un mois」マラソンを走ったところなんです (→ だから疲れが抜け
ていない) としていた.しかし,この場合に標示された t i 点は,やはり自立性を欠いていると捉
えるべきであろう.P と Q j との間,あるいは,t i と T 0 との間の「必要不可欠な連結性」を表
すものが「1ヶ月前のマラソン」なのである.
t i 点の非自立性は次の疑問詞の場合を見ても確認することができる:
(15) ─ Tu n'as pas de chance ! Anne vient de partir.
( 5 )
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福岡大学研究部論集 A 6(3) 2006
─ * Quand vient-elle de partir? (LEBAUD, p.168)
─ 運が悪いな!
アンヌは出掛けたところです.
─ * 出掛けたところっていつなんです?
LEBAUD は「事行の時点を特定することになる質問を発することは完全に不可能」だとしている.
言い換えれば,時の疑問副詞によって t i 点に「焦点 focus」を当て,自律的に扱うことができな
いのであろう.
ただし,これは単に疑問副詞だけの問題には還元できない可能性もある.西山はコーパスの観察
結果から疑問文が非常に希であり,収集できるのは相手の発言の「取り直し reprise」に限られる
と指摘している:
a Gisele
(16) ─ Si, je vais faire a `
` .
a quoi a sert de voir l'autre ?
─ Mais tu viens de dire que tu aimais Fran ois ? `
(Groult, B. et Fl., in 西山, pp.25-26)
─ そうね,ジゼルにそうしてみる.
─ だってフランソワが好きだって言ったところでしょう.もう一方の人と会って何に
なるの.
本稿では,西山の指摘に従って,偶発的な状態 Q i を必然的な結果状態 Q j に変化させるために
原因 P を提示しているのだから,これに疑問を発することが不自然になるのだと考えておきたい.
上記の例(15) は,焦点化により新情報として t i 点に自立性を与えることが難しいと解釈でき
た.これに対して,近接性を示す副詞句ではあるが,次のような形で t i 点に自立性を与えること
も不自然な文になるようである:
(17) ?Il y a quelques minutes
peine, nous venons d’apprendre la liberation
de deux otages
´
occidentaux au Liban. (LEBAUD, pp.166-167)
?ほんの数分前に,我々はレバノンでの二人の西側の人質の開放を知ったところです.
ここでは,通常,時間的テーマと了解される文頭に時点を示す副詞句を置いている.こうして,t i
点が時間的定位の準拠基準となり,後続するコメントの部分が準拠対象となっている.つまり,今
度は,時の副詞句のテーマ化によって t i 点が基準点として自立した解釈を受ける可能性の高い文
であり,やはり venir de infinitif と背反した性質のものと感じるのであろう.LEBAUD は多くの
人にとって「疑わしい douteux」文であるとしている3).
以上のことから,venir de infinitif は原因 P が結果状態 Q j に必要不可欠な形で連結された因
果関係を示す.それによって,原因 P およびその成立時点 t i は自立性がなく,結果 Q j および
発話時 T0 に直結された「布置」になっている.また,この点が原因の複合過去との基本的な違
いとなっていると考えておきたい.
( 6 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 69 ―
3. Venir de infinitif と原因の複合過去
3.1.
気付きの表現との共起
原因の複合過去の内で,推論を内包するタイプは結果から原因を推定判断していた.F RANCKEL
(1986, pp.49-51)は,この構図は一般に「気付き prise de conscience」を表すと指摘している:
(18) Il a plu, la chaussee
´ est mouillee
´.
雨が降ったんだ.車道が濡れている.
したがって,この推論の複合過去に気付きを示す間投詞 tiens (あれ) を添えると,さらにこの使
い方であることが了解しやすくなる:
(19) Tiens ! Il a plu : la chaussee
´ est mouillee
´.
また,この気付きの間投詞は発話状況をマークするものなので,発話時の結果状態 Q を必ずしも
必要としない:
(20) Tiens, il a plu ! (VET, p.41)
あれ,雨が降ったんだ.
この例は,VET が単独では語彙的にゴールへの到達とその結果への移行を想定しにくい動詞とし
た「雨が降る pleuvoir」を用いているものの,推定判断を表す完了に読みが確定している.この
場合,Q は眼前に存在しているからである.
また,先の
FRANCKEL からの引用例(6) では ma parole (あれー・何だ) が出ていた.これ
も驚きなどの表現であると同時に,気付きを表すと解釈できるであろう.(6) の場合は「見境のな
いことを言っているよ」が結果状態 Q も語彙的に表現していた.
次の通常は間投詞とされる chut (しっ)は相手に対する指示であり,文に相当する価値がある.
それが迂説形の偶発的・必然的結果 Q i-j に相当するのであろう.また,この例では,妙な音への
気付きの意味も含んでいるように見える.この chut が (21) では venir de infinitif による因果
関係にも適性があることを示している:
(21) Chut ! Je viens d’entendre un drole
^ de bruit. (LEBAUD, p.163)
しっ! 妙な音がしたところだ.
a l'instant. (安生, p.94)
(22) Chut ! J'ai entendu un drole
^ de bruit `
しっ! 今,妙な音がしたぞ.
複合過去による (22) は安生が (21) との比較のために容認可能性を調査してくれた例である.こ
ちらは文字通りの因果関係・推論の複合過去だということになる.
さらに, a y est (そうか・ほらね) も (23) ではオーケーとされる.LEBAUD (p.165) はこれ
を「相手の態度の理由についての突然の気付き」を表すとしており,成功・成就の a y est (やっ
た) ではないようだ:
(23)
a y est, je viens de comprendre pourquoi tu as refuse
.
´ de me repondre
´
そうか,何故君が返事を拒んだか分かったところだよ.
(24)
a y est, je r alise pourquoi ...
( 7 )
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福岡大学研究部論集 A 6(3) 2006
そうか,何故...かに気がついたよ.
なお,L EBAUD はこの場合は「きちんとしたフランス語では en bon fran ais」(24) のように現
在形の動詞 realiser
を用いるべきだとしている.この現在形は「過去に膨張した現在」などと呼
´
ばれてきたものである.これは,使用上の制約が強いとは言え,venir de infinitif と重なる競合
形であり,(25) の複合過去以上に類似性を持っている可能性がある.これも課題としている迂説
形にとって重要な比較対象なので,詳細については,稿を改めて検討してみたい.
そして,この文を複合過去に置いた (25) は純然たる「答えの発見」とその断定の文である.ま
た,論文末尾の LEBAUD (p.174) のまとめでは,複合過去は結果状態が「安定化」された状態に
なっている:
(25)
.
a y est, j'ai compris pourquoi tu as refuse
´ de me repondre
´
そうか,何故君が返事を拒んだか分かったよ.
これに対して,直前の (23) および (24) は「あたかも話し手は,いまだ完全には話の内容を我が
物としていないような,不安定な意味効果」があるとしている (p.165).なお, a y est で見た
venir de infinitif と原因の複合過去とのこうしたニュアンスの差異は,先の (21)(
, 22) の双方
にも適用できるものであろう.
以上のような「気付き」の表現との共起に関する観察から,因果関係・推論の複合過去だけでは
なく,迂説形の方もこれに親和性を示す可能性があると考える.後者の例は言及した僅かな例しか
確認しておらず,具体例が少ないものの,気付きの表現と双方が共起できる場合は,それぞれの価
値の決定的な相違を示唆しているように見える.これは先の項目 1.1. および 2. で触れた双方の
原因 P,および,その成立時点 t i の自立性(複合過去) / 非自立性(迂説形) と連動した現象で
あろう.その背景にある言語的な操作の全体像については,LEBAUD の理論的な考察を参照しなが
ら次の項目で考えてみたい.
3.2.1.
原因 P の時間内での出現と時間的定位
迂説形の原因 P の特性は,L EBAUD による論文末尾(p.173) の定義では,次のようなもので
ある:
Avec venir de infinitif, le passage de l'ordre de la contingence `
a celui de la necessite
´
´
va s'etablir
a partir de la manifestation dans le temps d'un ´´
evenement, qu'un ´
enonciateur
´
`
specifiera
ensuite.
´
venir de infinitif による場合は,偶発性の領域( Q i ) から必然性の領域( Q j ) への移
行が,時間内でのある事態( P ) の出現を出発点として打ち立てられ,発話者がこの移行を
続いて特定化することになる.
つまり,原因となる事態 P は現象として時間内に「出現」するものであるとしている.したがっ
て,P は無前提で初出の事態になっている必要があるということであろう.これを出発点として,
偶発的な Q i の必然化・特定化を行なおうとするのがこの迂説形だとしている.
また,P が無前提で初出の事態であることについて,西山(p.25) は本来的な否定文が迂説形
( 8 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 71 ―
にはない理由としてこの点を確認している4).それによれば,否定形の不在は「P があらかじめ対
話者との間で問題になっていてはならない」からである.否定文は関係主体の間で概念的に (p,
p') の双方の可能性のスキャニングを前提として持っている.こうして,発話者が p' を有効化す
るのだから,p があらかじめ問題になっている.したがって,迂説形と背反するという趣旨の説
明を行なっている.
さらに, 小熊, (p.167) は venir de infinitif は「P の実現によって別の事態 Q を説明する
ものなのだから,説明を与える P は Q を事後的に補足する新しい要素でなければならない」と
している.ところで,間投詞 a y est (やった) は「P が期待として」前提とされている.した
がって,迂説形とは相性が悪いとしている.この場合は,本稿で「有効化確認の複合過去」とした
ものを用いる必要がある.
以上のような原因の「時間内での出現」をキーワードとする指摘は,原因とその成立時点の非自
立性にまつわる先の本稿 2.で触れた解釈(純粋種の結果状態・必要不可欠な連結性の一側面とし
ての原因) や統語現象(時間的定位の排除) を理論的にまとめた形になっている.こうした venir
de infinitif での原因 P の「出現」に対して,複合過去の方は,本稿 1.1.および 2.で見たように,
原因の「時間的定位」を行なうことができる.それと同時に,原因 P は結果 Q と範列連関をな
し,Q と統語上のステータスとしては対等であり,自立性を持つものであった.そのことの具体
的な証拠が先の例(8) のように実際に時の副詞を添えることができることである.ただし,原因
の複合過去での時間的定位は非テーマ位置で行われるものに限られていた.文頭のテーマ位置を時
間上の準拠基準とする用法は「ディスクールのアオリスト」を準拠対象とすることになるからであ
る.
3.2.2.
結果状態 Q j の一時性と安定化
原因 P の相違に加えて,L EBAUD は,さらに,論文末尾のまとめの部分(p.174) で,双方の
形態による結果状態の特性を定義している.まず,迂説形については,次のように述べている:
─ avec la periphrase
, l'etat
´
´ conserve les traces de son instabilite
´ premiere
` : rappelons
qu'il resulte
de la mise en relation d'un ´
etat contingent, donc non stabilise
a un proces
´
´, `
`
qui en fonde l'origine.
Cela expliquerait le sentiment[...]d'une relative instabilite
etat plus ou moins
´, d'un ´
transitoire.
─ 迂説形による場合は,状態( Q j ) が当初の不安定性の痕跡を保っている.この状態は
ある偶発的な,つまり,安定化されていない状態( Q i ) とこの状態の起源を設定する事行
( P )との関係付けの所産であることを思い起こそう.
このことが,相対的な不安定さ,大なり小なり一時的な状態( Q j ) の印象を明らかにし
ているであろう.
」を基調とした規定は,先の引用例(23) に関する「あたかも話し手
この「メタ言語 metalangue
´
はいまだ完全には話の内容を我が物としていないような,不安定な意味効果」があるとした「比喩
( 9 )
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福岡大学研究部論集 A 6(3) 2006
」を添えた指摘(p.165) の理論的なまとめになっている.特に比喩的な説明の方は,
metaphore
´
ここでの指摘がネイティヴとしての LEBAUD の直感にも合致していることを示している.いずれ
にしろ,これらは内容としては同じことを述べており,説明の位相が異なるだけであろう.
こうした「結果状態 Q j の一時性」も,原因 P および成立時点 t i の非自立性,P の時間的定
位の欠如・時間内での「出現」を要因として生じるものであろう.それによって,偶発的な状態
Q i は,次の複合過去のように「安定化」された結果状態 Q j と比べるならば,相対的な不安定さ
を示す,一時的なあるいは束の間のものである結果状態 Q j に留まっているというのが L EBAUD
の指摘である.
他方,複合過去の結果状態については,簡潔に次のように述べている:
. Ibid.)
─ avec le passe
est un ´
etat stabilise
´ compose
´, l'etat
´ resultant
´
´[...](
─ 複合過去による場合は,結果状態は安定化された状態である[...]5).
因果関係・推論の複合過去では,いずれの使い方でも,結果状態が発話時の「事実確認 constat」
になっており,安定化されていた.推論を示す用法では,さらにこれが「判断基準・標準原器」と
しての価値を持ち,これを出発点として結果状態の「理由 fondement」を推定し,因果関係に置
かれた2項目の双方を断定していた.そうした「回顧運動の構造」(Ibid.) を持つ断定文であり,
結果状態に着目しても,安定化済みであると言うことができる.
以上のことから,迂説形および複合過去の結果状態は,順に「一時性」および「安定化」を示す
としておきたい.それが,これ迄に見てきた原因とその成立時点の非自立性/自立性,原因の時間
内での出現/時間的定位と重なりあって,それぞれの結果状態の特性を形作っているのであろう.
3.3.
その他の価値の間投詞との共起
先の項目 3.1.で見た「気付き」の間投詞 a y est は単に「そうか」だけではなく「やった」
の意味でも用いる.後者の場合は,期待の成就の意味が生じ,有効化確認の複合過去のみが使用可
能となる.
煩瑣になりそうなので,3.1.では触れなかったものの,他にも用法に幅がある幾つかの間投詞が
見受けられる.例えば zut (ちぇ,しまった)は,第1に,気付きおよび期待に反するマイナス評
価の結果の成立を表す用法がある.これもプラス評価の反転例としての「損益型」の複合過去を用
いる必要がある:
(26) Zut, il a plu ! Le jardin est encore tout detrempe
´
´! (Ibid., pp.164-165)
しまった,雨が降ったんだ.庭がまたすっかり水浸しだ.
ここで ,venir de infinitif にすることは 不自然 とされる . その 理由 は ,L EBAUD によれば ,zut
の存在が後続する二つの節を「一つの同一の発話行為の中に総合的に導き入れる」ためである.つ
まり,これら二つの節 P - Q i-j の「乖離 dissociation」がなくなっており,「必要不可欠な連結性」
を語るための P の「時間内での出現」が措定できないのであろう.venir de infinitif は全体とし
て一つの事態の二つの側面を問題とするのだから,発話者の評価が事態全体に及ぶことは納得でき
る.ただし,筆者は回避すべき前提の成立確認を行なうマイナス評価の構図を迂説形が標示できな
( 10 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 73 ―
いことももう一つの要因として関与的であり,言及しておくことができると考える.
他方,複合過去は損益となる価値の成立に適性を持っている.また,この (26) の例では並置さ
れた2番目の節に「また encore」と「すっかり tout」があり,発話者がうんざりする結果にまた
しても到達したことを語っているのであろう.それがここでの高い程度のマイナス評価の内容であ
る.したがって,(26)は問題がないものの,推論の複合過去とは別の用法である6).
以上のように間投詞による発話者の評価が後続の述語を直接修飾する場合に対して,項目 3.1.
の chut (しっ) と同様に,前後関係・文脈に応じて一つの文のような価値を帯びる時がある.小
熊(pp.166-167) は次のような zut と迂説形との共起が可能な例を挙げている:
(27) ─ Est-ce que tu peux me donner ton texte ?
─ Zut (= je ne peux pas te donner mon texte), je viens de l’effacer.
─ あなたの原稿を見せて貰えますか.
─ だめなんだ (= 私の原稿は見せてあげられないんだ),それを消したところなんで
す.
ここでは,小熊の注記では zut が括弧内のような文の価値を持っている.そして,後続する迂説
形は,間投詞によって表された発話者が「望ましくない」とする判断に関する「事後的な説明」を
行なっている.したがって,容認可能なのだとしている.
また,大久保(p.120)の調査でも,次の作例はオーケーだとのことである:
(28)[En regardant son veston]Zut ! On vient de peindre ce mur ! J'ai sali mon veston.
[自分の上着を見ながら]しまった.この塀にペンキを塗ったところなんだ.上着を汚
してしまったよ.
この例も,筆者の目には zut に自立した文のような含意があるように見える.状況内でのしぐさ
がそれを示唆し,さらに,ここでは文末の「上着を汚してしまったよ」が間投詞の内容を語彙化し
て,後述している.
以上のことから,zut は一貫して発話者のマイナス評価のマーカーであるものの,統語的な価値
は一様ではない.それによって,迂説形との共起の可否が分かれることが確認できる.
次の (29) の regarde は発話者の気付きであると同時に,例えば共発話者の共感を求める表現
と解釈することができる.これと後続の「宝くじに当たる」が合わさって,前提としての期待と結
果状態との符号を表す有効化確認の意味が生じている.したがって,迂説形は除外される:
a la loterie. C'est mon numero
(29) ??Regarde ! Je viens de gagner `
´ . (西山, p.22)
??ほら見て.宝くじに当たったところだ.これは自分の番号だ.
a la loterie. C'est mon numero
(30) Je viens de gagner `
´ .
a la loterie. C'est mon numero
(31) Regarde ! J'ai gagn `
´ .
ほら見て,宝くじに当たってしまったよ.これは自分の番号だ.
ただし,(30) のように regarde を取り去れば,客観的な原因の出現と,それによる結果の必
然化を行なっており,オーケーとなる.この場合の必然化とは,例えば「お金をどうするかって
( 11 )
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福岡大学研究部論集 A 6(3) 2006
Q i」と連結させれば,「宝くじの賞金で何とでもなるさ Q j」が含意されることになる.
(31) の場合は,regarde と「宝くじに当たる」の組み合わせによって生じる有効化すべきもの
の有効化確認であり,これを本領の一つとする複合過去になっている.ここでの結果状態とは「だ
から有頂天なんだ」などの受益型のプラス評価であり,自明だと判断すれば言外に込めておくこと
ができるものであった.これに対して,(29) の迂説形はこの有効化確認の構図を標示するのが不
可能であり,常に排除されることになる.
続いて,西山(p.23) は,上記の3例と同じパターンで chic (やった,よし) との関係がどの
ようであるかを検討している.この間投詞はより簡潔なはずで,上記のように述語との組み合わせ
なしでプラス評価の結果の実現を表す.その点が異なるのみで,当然,容認可能性の振り分けは
(29 - 31)と同一になる.
なお,これ迄に言及してきた気付きではなく,成功・成就の意味の a y est (やった) と共起
する場合も迂説形が容認不能,有効化確認の複合過去のみが使用可能であり,先の chic と同様な
振る舞いになるはずである.
4.
結び
以上の venir de infinitif および原因の複合過去の検討から,本稿で最初に挙げた具体例の (1)
および (2) のように結果的に同一の意味効果を示す場合も,本来の機能は保たれていると考えて
おきたい.すなわち,迂説形は原因 P とその成立時点 t i の非自立性,原因 P の時間内での出現,
結果状態 Q j の一時性を特性とする.原因の複合過去の方は原因とその結果の自立性,原因の時
間的定位,結果状態の安定化によって特徴付けられる.
その裏付けとなりそうな現象と指摘を本稿の各項目で見てきたが,特に間投詞が気付きを表す場
合,および,文としての価値を持つ場合は双方の振り分けに関与的であると言うことができる.な
お,間投詞がプラス・マイナスの評価を表し,後続の述語に係る場合は,迂説形は排除され,複合
過去は有効化確認・評価の用法となるのが原則である.
なお, venir de infinitif は,本稿で比較の対象とした原因の複合過去以上に「過去に膨張した
現在」と類似性を持っている可能性がある.迂説形とこの現在とは,一回生起および循環性の因果
関係によって区別されるのではないかというのが,現時点での筆者の仮説である.ただし,この点
については改めて考察を加えてみたい.
[注]
1) venir de infinitif が示唆する「近接」過去の観念については,IMBS(p.82)が,動詞 venir
が前提として持っている出発点と現在時の到達点との間に媒介する事行が不在であり,直結されて
いることによるものだとしている.また,D AMOURETTE et PICHON は「過去が,現在が当然の継
続の形で流れ出てくる源のように着想されている」とし,複合過去によるより自立性のある過去の
事態と区別している.F LYDAL にとっては,venir de infinitif は「近接した出来事に後続して出
( 12 )
Venir de infinitif と原因の複合過去(佐藤) ― 75 ―
現したある状態としての現在」を表すとしており,やはり媒介項の不在に着目している.
FRANCKEL et LEBAUD (p.176) の表現では,venir de infinitif は「純粋種の結果状態」を標示
するもので,原因 P は結果状態 Q j を直接もたらすものであり,P の時点 t i には自立性がない.
こうして,P と Q j は全体として一つの事態を語るものであり,その二つの側面,直接的原因と
必然的結果を標示する形態となっている.
2) さらに,FRANCKEL(1986, p.53 ; 1989, p.99)は「マイナス評価」の結果と「成功・成就」
a rater son train (あの人,見事に電車
のマーカーが加算された用法にも触れている:Il a r ussi `
に乗り遅れてしまったんだ), a y est ! Il a cass mon vase ! (やった,[例えば,子供が]私
の花瓶,壊しちゃったよ).この場合は,FRANCKEL によれば,P の定位あるいは有効化確認から
「遡行して retropspectivement
」有効化可能なものが構築されている.また,上記第2例では文
´
主語の意地の悪さを読み取ることができるかもしれないが,一般には意図性を参照している訳では
ない.1986 のこの箇所では発話者の「皮肉 ironie」にも触れているが,引用した第1例では常に
そうとは限らないように見える.ただし,用例数は僅かだが,FRANCKEL が挙げている例の全てに
「成功・成就」のマーカーが付帯しており,それが同情・落胆であれ,皮肉であれ,この種の完了
の解釈が成立する要件になっているのであろう.
3) L EBAUD は , 引用 した 例 (17) に 併記 して 複合過去 の 例 を 挙 げている : Il y a quelques
minutes
de deux otages occidentaux au Liban.複合
peine, nous avons appris la liberation
´
過去の方は.テーマとしての時間限定にも親和性があり,容認可能性には問題がない.しかし,彼
自身が明言しているように,この複合過去は「ディスクールのアオリスト」であり,テーマとして
の準拠基準に後続の準拠対象を純粋に時間的に定位する用法である.これを原因とし,結果を導入
するためには何か付帯する要素を付け加える必要があるように見える.例えば,FRANCKEL (1989,
p.110) は,連結詞「だから,その後で」を挿入し,推論関係を語彙的に標示する必要を説いてい
る:Ce matin, j'ai cass du bois, ce qui fait qu’ensuite j'ai bien mang . (今朝は薪割りをした.
だから,その後でちゃんと食べることになったんだ).ただし,この例も原因と現在の結果状態そ
のものにはなっていない.
4) 相手の発言を「取り直し reprise」て否定することは可能である:Je ne viens pas de le dire,
je vais le dire(それを言ったところではなく,言おうとしているところなんです;FLYDAL, p.107).
ただし,取り直しでは,ある形態が持つ本来の機能的な価値から逸脱する使用法が可能になること
が広く確認されている.先の例(16) で例外的に迂説形の疑問文が可能となる場合も同様である.
5) この箇所では,複合過去の結果状態について,本稿で「有効化確認・評価」を表すとした用
法も一括して規定している.このため,さらに5行にわたって記述が続いている.しかし,焦点を
「原因」の複合過去に絞るならば,基本的な特性は引用した部分だけでよいはずである.
6) 先に筆者は佐藤(2002, p.52) で (26) と同一の例について,複合過去は元来「マイナス
評価」の表現にも「気付き」の表現にも適性があるとして,二つの価値がリレーされた形で加算さ
れているという解釈をしてしまった.しかし,再検討の結果,本稿のこの箇所で述べた理由から,
( 13 )
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この例はマイナス評価の複合過去に純化された例であろう.したがって,例えば本稿 3.1. の引用
例(18)「雨が降ったんだ.車道が濡れている」のように推論を示し,発話者の主観的評価が込め
られていない場合とは区別しておく必要があると判断している.
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