第五章 戦中 ~ 戦 後 に か け ての中野

第五章
戦中~戦後にかけての中野
〔1〕ステージ・ショー全盛期
戦前の中野の歌手として のレコード吹込みの最盛期は一九三八年四月頃までである。一九三
二年 のデビューから一九三八年 四月まで は、平均して 月に三曲ほど 歌を 吹き 込んでい たが 、一
九三八年五月以降は平均して月に一曲しか歌を吹き込まなくなっている。
( 三 十 七 )そ れ で も 一
九四〇年の中頃まではコンスタントに月に一曲は吹き込んでいるが、一九四〇年七月以降は、
一曲も歌を吹き込んで いない月も増えて くる。そして 一九四一年七月新譜の「男荒波」が 、中
野のコロムビ アで の最後のレコード 吹込みとなってい る。
この中野のレコード吹込みの減少はどうしてであろうか。戦争の影響でジャズ・ソングが歌
いにくくなってきたからだという理由は考えにくい。戦局が悪化してきた影響で、明るいメロ
ディーであるジャズ・ソングが次第に歌いづらくなってきたことは確かであろうが、日米開戦
の始まる一九四一年十二月まで は、笠置シズ子などのよう に、それでもジャズ・ソン グを 吹き
込む余地はあったからである。また、中野はデビュー初期の頃から軍歌の類も抵抗なく吹き込
んで いるので 、軍 歌や 戦時歌謡が主体の時代にも適応でき たはずで ある。
歌手業主体から作曲・作詞家業主体に移行したからで あるという理由も、統計上から は見受
けられない。作詞に関して は、一九三七年二月の「街の靴みがき」が最後で あるし、作曲に関
して も一九三五~一九三七年が一番多いからだ。
考えられる理由は、レコード の吹込みよりもステー ジ・ ショーや 松竹映画 への出演 に主 体を
置くよう にしたからだというもので ある。一九三五年 、アメリ カで はベニー ・グッド マン 率い
るバンドがハリウ ッド のステー ジで 大成功を おさ め、スイング・ジャズの時代が 幕を 明け た。
スイング・ジャズは、弾む ようなリズム、明るい サウンド、反復のフレーズが特徴のジャズの
スタイルの一 つで あるが、社交ダンスと 結び ついてブームとな った一九三〇年代には 、ジ ャズ
そのものを示すようになった。このスイング・ブームがアメリカに二年遅れて一九三七年に日
本 に 入 っ て き た こ と で 、一 九 三 七 年 か ら 一 九 四 一 年 末 の 日 米 開 戦 ま で の 期 間 、日 本 は ス テ ー ジ・
ショーの全盛 時代を迎えることとな ったので ある。
( 三 十 八 )こ の ス テ ー ジ・シ ョ ー 全 盛 時 代 に
中野とリズム・ボーイズ、リズム・シスターズもなくてはならない存在であり、全国 各地を巡
演 し て い た 。( 三 十 九 )
〔2〕戦中期のリ ズム・ボーイズとリズム・シスターズ
服部がコロムビアに入社してから、リズム・シスターズが服部の指導下の元になっ たと いう
こ と は 第 三 章 で 書 い た が 、リ ズ ム・ボ ー イ ズ も 次 第 に 中 野 の 影 響 下 を 離 れ て い っ た よ う で あ る 。
このことは、一九三九年十月新譜のレコードから、リズム・ボーイズとリズム・シスター ズの
呼称から“ナカノ”という語が消失したことから裏付けられる。実際一九三九年頃から、リズ
ム・ボー イズやリズム・シスターズはレコードで中野と組むことが少なくなってきたし、地方
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へ の 巡 演 で も 一 緒 に 行 動 す る こ と は 少 な く な っ て い っ た よ う で あ る 。( 四 十 )
一九三七年から一九四〇年の前半にかけてリズム・ボーイズとリズム・シスターズは、服部
が作編曲した日本古来の俗曲や 童謡、民謡を 題材 にしたジャズ・コーラスを歌ってい たが 、一
九 四 〇 年 の 後 半 頃 か ら「 ス パ イ は 躍 る 」
「つもりつもりだ」
「 頼む と言われりゃ 」
「荒鷲さんだよ」
と い っ た 、い か に も 軍 国 調 を 表 し た よ う な 勇 壮 な タ イ ト ル の も の が 増 え て き て 、歌 の 呼 称 も“ ジ
ャ ズ・コ ー ラ ス ”と い う 語 を 使 わ ず に“ 歌 謡 曲 ”と 表 記 す る よ う に な っ た 。し か し 、
「中味は相
変らずのジャズ・コーラスであり、リズム・ボーイズ四人のハーモニーも、伴奏のオーケスト
ラの演奏技巧も益々向上していったのは皮肉といわざるを得な」
( 瀬 川 、一 九 八 二 a 、 p.24
)か
った。
「 こ の 頃 は 、ま だ 米 英 と 戦 争 し て い な か っ た の で 、曲 の 旋 律 や 演 奏 の 内 容 よ り も 、歌 詞 の
言葉の方がきびしく検閲された」
( 瀬 川 、一 九 八 二 a 、 p.24
)た め で あ る 。こ の 頃 に リ ズ ム・ ボ
ーイズ自身が作詞して 服部が作曲した「タリナイ・ソング」は、戦争で物資が足りな くな って
きたことをユーモアをもってリズム・ボーイズが歌ったが、国策への不満を助長すると受け取
られ、発売禁止になるという逸話が残されている。
日米戦争が始まってから発売されたリズム・ボーイズの唯一のレコード、一九四二年九 月新
譜 の 「 祖 国 の 祈 り 誓/ い の 港 」 に な る と 、 曲 の 旋 律 自 体 が 軍 国 調 で あ り 、 と て も “ ジ ャ ズ ”・ コ
ーラスと呼べるものではなくなってしまっている。このレコードを最後にリズム・ボーイズや
リ ズ ム ・ シ ス タ ー ズ は 資 料 上 か ら 名 前 を 消 し て し ま っ た 。( 四 十 一 )
〔3〕戦中~戦後の中野
一九三七年から続いたステージ・ショーの全盛時代は、一九四一年十二月の日米開戦を 期に
終焉に向かった。アメリカのジャズ曲やポピュラー・ソングの類は公式上一切演奏することを
禁止されてしまったからで ある。この結果、中野もレコード吹込み業に戻ったのかと いうと、
そうではない。中野は一九四二年五月~一九四四年五月までコ ロムビアと最後の契約を結 んで
いるが、この間のレコード吹込みの仕事は皆無で あった。一九四四年五月に中野は召 集令 状が
届いて戦地へ赴くに至ったこと は判明されているが、ステージ・ショー の仕事もなくなっ た中
野がこの時期に何をやっていたかは不明である。
も っ と も 、こ の 時 期 に な る と 中 野 に 限 ら ず 、ど こ の レ コ ー ド 会 社 で も 新 譜 で レ コ ー ド を 制 作 、
発売することは少なくなっていた。この時期、音楽家や芸能人は頻繁に軍隊慰問として国内を
巡演して まわったり、戦線慰問団として中国大陸や東南アジアに派遣されていたので 、中 野も
例外なく軍隊の慰問活動に専念していたのかもしれない。
そんな中野にも一九四四年五月、召集令状が届いて 、一兵士二等兵として 戦地に赴くこと に
なった。中野が赴いたのは、本土決戦の捨て 石とされた沖縄高知の土佐、中部第八十四部隊で
あった。一九四五年三月二十三日から始まる沖縄戦に巻き込まれていたら、中野は確 実に戦死
していたかもしれない。幸運なことに、中野の上司であった部隊長が中野の大ファンであり、
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中野だけでも生き残って皆のために歌を歌い続けてほしいと特別に除隊を許可されたため、一
九四五年 の初頭には本土に三ヶ 月で 帰って来られ たようで ある。
戦後の中野はすぐには音楽の世界に復帰しなかった。
「 軍 属 士 官 と し て シ ン ガ ポ ー ル 、北 京 な
どで 宣撫(―ぶ)活動をしているうちに終戦。駐留米軍向け放送で 二、三年歌ってい たが 、キ
ン グ の 新 人 江 利 チ エ ミ の 作 曲 の た め に キ ン グ レ コ ー ド 入 社 。」( 愛 媛 新 聞 、 一 九 六 九 )、「 武 藏 野
一昨年暮引退するまでずつと同社專属(中略)引退
中 野 ト レ ー デ イ ン グ サ ー ビ ス 社 々 長 と し て 實 業 界 入 り 」( ア
音樂學校を卒業後直にコロムビアに入社
後は銀座で大和企業株式會社常務
サ ヒ グ ラ フ 、 一 九 四 九 、 p.15
)という記事があるが、中野忠彦氏のお話やコ ロムビアに残って
いる資料を見る限りで は、実際は、駐留米軍 向け 放送や米軍キャンプへ行って歌うこ と も 、戦
後コロムビアと契約することもなかったようである。
当時はジャズ・ソングを歌える歌手やジャズメンたち は進駐軍 の所へ行って 歌を歌っ たり ジ
ャズを演奏して生計を立てていた。
( 四 十 二 )戦 争 中 に 抑 圧 さ れ て い た ジ ャ ズ を 大 っ ぴ ら に 演 奏
でき る上に、米軍 から貰え るギャラ 、チョコ レートや タバコなどの贈り物も豊富で、 食糧 ・物
資不足にも事を欠かなかったからで ある。中野にもジャズ・ソングを歌える技術があった にも
関わらず、これに参加することはなかったようである。
中野忠彦氏の説明 によると 、戦後の中野は、郷里の後 輩で ある毛利松平(後の代議士)と 手
を組んで 「ブギウ ギ・スリー」という清涼飲料水 の事業を立ち 上げたと の事である。 会社 のネ
)
p.15
歌 は一 時や めて いるが生 活を 確立 したらい い樂團を 組 織 し た
ー ミ ン グ は 、時 の ブ ギ の 流 行 を 引 っ 掛 け た も の で あ り 、宣 伝 に は 笠 置 シ ズ 子 を 使 っ た り も し た 。
喰うための音樂ではだめだ
い(アサヒグラフ、一九四九、
中 野は、進駐軍 の所で歌って 細々と生計を立てていくことよりも、事業で 一山当て ようとい
う こ と を 企 ん で い た に 違 い な い 。( 四 十 三 ) し か し 、「 ブ ギ ウ ギ ・ ス リ ー 」 は 着 色 染 料 の 調 子 が
おかしくなって 事業は失敗、一山稼ぐどころ か逆に借金が 膨らんで しまった。こ の事 業は あき
らめて、借金を返すために、一九五二年初頭にキングレコードに入社して音楽の世界に復帰し
たものと 考えられる。
( 四 十 四 )中 野 忠 彦 氏 の 説 明 に よ る と 、戦 後 中 野 が コ ロ ム ビ ア に 復 帰 し な
かった理由は、戦前コ ロムビア全盛の頃の中野の、周囲への態度が我侭であったために、皆か
ら 煙 た が ら れ て 復 帰 を 反 対 さ れ た か ら で は な い か( 四 十 五 )、ま た 、全 盛 期 と 比 べ て 声 の 質 が 落
ちていたために、歌手として評価されなかったからという側面もあるかもしれないとのことで
あった。ともかく中野は一九五二年に歌手兼作曲家として キングレコードと 契約した。
戦後の中野は、歌手をやめて作曲家となったことが知られているが、実際当初は歌手として
の夢も捨ててはいなかったようである。戦後の中野の歌手としてのレコードは、一九五二年六
月 新 譜 の「 山 小 舎 に 月 が 登 れ ば / ア リ ゾ ナ の バ ン ジ ョ ー 弾 き 」
( 四 十 六 )が 、芸 名 ヤ ン グ 中 野 と
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して 唯一残されているだけである。
( 四 十 七 )こ の 二 曲 は 和 製 ジ ャ ズ・ソ ン グ で あ り 、戦 前 同 様
にジャズ・ソングを歌っていこうという中野の気持ちが伝わってくる。しかし、このレコ ード
がヒットすることはなかった。
中野のこのレコードがヒットしなかった原因を、流行歌界の流れに沿って考えてみる。戦前
に デ ビ ュ ー し て ヒ ッ ト を 飛 ば し 戦 前 の う ち か ら 第 一 線 で 活 躍 し て い た 歌 手 群 を A( 、) 戦 前 に 歌
手 デ ビ ュ ー は し た も の の 第 一 線 で 活 躍 す る よ う に な っ た の は 戦 後 だ と い う 歌 手 群 を B( 、) 戦 後
デ ビ ュ ー し た 歌 手 群 を C( と) す る 。 A( の) 歌 手 の う ち 、松 平 晃 や 楠 木 繁 夫 、東 海 林 太 郎 と い っ た
人 物 は 戦 後 ヒ ッ ト 作 に 恵 ま れ な か っ た が 、 大 半 の A( の) 歌 手 は 一 九 五 一 、 二 年 く ら い ま で ヒ ッ
ト 作 に 恵 ま れ 、 第 一 線 で 活 躍 し て い た 。 B( に) は 岡 晴 夫 、 笠 置 シ ズ 子 、 奈 良 光 江 、 池 真 理 子 、
近 江 俊 郎 、 並 木 路 子 、 竹 山 逸 郎 な ど が い る 。 B( の) 歌 手 も 一 九 五 一 、 二 年 く ら い ま で は 次 々 と
ヒット曲を出し、第一線で活躍していた。しかし、一九五二、三年くらいからは美空ひば り、
江 利 チ エ ミ 、 鶴 田 浩 二 、 春 日 八 郎 ら C( の) 歌 手 の 台 頭 に よ り 、 戦 前 デ ビ ュ ー の A( B
)( の) 歌 手 達
は 新 作 が な か な か ヒ ッ ト し な く な り 、一 九 五 〇 年 代 後 半 と も な る と 、 A( B
)( の) 歌 手 の 多 く が 新
作の本数自体を減らして 第一線からは退き、地方巡業など に専念す るようになった。
中野が戦後流行歌界に復帰したのは一九五二年という、戦前派と戦後派の歌手の過渡期にあ
っ た 。 A( の) 群 に 入 る 中 野 が こ の 時 期 に 歌 手 と し て ヒ ッ ト を 出 す の は 至 難 の 業 で あ っ た と い え
る。しかも、中野はレコードの吹き込みに十一年ものブランクがあり、人々の意識か ら忘れ去
られつつあったことも、ヒットしなかった大きな要因となったであろう。
あと二、三年復帰が早ければ「山小舎に月が登れば/アリゾナのバンジョー弾き」もヒット
したかもしれない。
「 山 小 舎 に 月 が 登 れ ば / ア リ ゾ ナ の バ ン ジ ョ ー 弾 き 」が ヒ ッ ト し な か っ た こ
とを受けて、歌手兼作曲家として契約していた中 野は、以降は作曲家業だけ に専念す るよう に
なった。戦前派の歌手の多くが一九五〇年代後半以降に第一線で活躍できなくなって しまった
のに対して、作曲家・作詞家は、自分の作品を戦後派の歌手に歌わせることでヒットを量産し
続け、一九五〇年代後半以降も第一線で活躍することができた。このように作曲家と いう 職業
は歌手と 違って、年をとっても長く第一線で 活躍して いくことができるという側面を 持って い
たので、この点に中野は着目して、歌手業には早々と 見切りを つけ 、作曲家として生活してい
こうと考えたのかもしれない。
戦後の作曲家としての中野は、ジャズ・ソングを捨てて歌謡曲(=演歌)しか作曲しなかっ
たというイメージが付きまとっているが、実状はそうではない。戦後のジャズ・ブー ムに乗っ
て登場した、
“ 三 人 娘 ”の 一 人 で あ る 新 鋭 の 江 利 チ エ ミ に は「 情 熱 の ト ラ ン ペ ッ ト 」と「 愉 快 な
ドラム/トランペット・ラ グ」を、戦前からの歌手である松島詩子には「マロニエの並木路」
「私のアルベール」
「 喫 茶 店 の 片 隅 で 」な ど の シ ャ ン ソ ン 風 の 歌 を 、と い っ た 具 合 に 、一 九 五 五
年前半くらい まで の中 野は和製ジャズ・ソン グを中心 に作曲家業を繰り広げていった。
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二十九年二月にレコーディングした『私のアルベール』は、前記の通り、矢野・中野コ
ンビ によるものですが、こ の曲に到って 初めて私 流のシャンソンが 開花した、と いって よ
い も の だ と 思 い ま す 。( 中 略 ) こ の “ 和 製 シ ャ ン ソ ン ” と い う 、 そ れ ま で 日 本 に な か っ た 、
新たなジャンルの開始を実現させて下ださったのが『私のアルベール』の矢野・中野コン
)
pp.186-187
ビ で あ り 、『 さ よ な ら も 言 わ な い で 』 の 作 曲 家 ・ 吉 田 矢 健 治 さ ん た ち な の で す 。( 松 島 、 一
九八八、
その後、彼と のコ ムビで二、三十篇の詩を書いたが、コロムビア時代の延長のやうな外
國曲の模倣じみた作曲が多く、ヒットにつながるものはなかった。だが、たゞ一つ、江利
チ エ ミ 唄 で 映 畫 主 題 歌 の『 情 熱 の ト ラ ム ペ ッ ト 』
( 大 映『 猛 獣 使 い の 少 女 』主 題 歌 、昭 2 7 ・
6 、C 八 一 九 、片 面・
『 サ ー カ ス の 少 女 』飯 田 三 郎 曲 、江 利 チ エ ミ 唄 )だ け が 今 日 ま で 印 税
)
pp.2-3
や使用料がはいる程度。この曲は大ヒットこそしなかったけれども、今でも良い作品だと
思 っ て ゐ る 。( 松 村 、 一 九 七 七 、
このよう に中 野の作曲は技術的には優れ たもので あったが、レコードがヒットす るこ と はな
かった。なぜなら、あくまでも昭和十年代の水準のジャズ・ソングでしかなかったからだ。戦
後でも、進駐軍のジャズがまだ軍のキャンプ内に閉じ込められていた一九五〇年くらいまでだ
ったら、それでもヒットしたかもしれない。しかし、中野が復帰した一九五二年はち ょうど日
本の占領体制に終止符が打たれ、進駐軍 のキャンプに閉じ込められていたジャズが一 気に 噴出
して、日本全国で空前のジャズ・ブームが巻き起こった年である。中野の作曲する「昭和十年
代のジャズ・ソング」がヒットするはずはなかった。
中野の作曲する和製ジャズ・ソングはなかなかヒットしないため、会社から“作曲のジャン
ル を 広 げ て 売 れ る 曲 を 作 っ て く れ 。”と 頼 ま れ 、中 野 は 歌 謡 曲 に も 手 を 広 げ る に 至 っ た 。中 野 の
最初の歌謡曲のヒット は、一九五五年五月新譜で 春日八郎が歌った「妻恋峠」で ある。 そ の後
も中野は和製ジャズ・ソングを作曲することもあったが、歌謡曲しかヒットしなかったため、
作 曲 に 占 め る 歌 謡 曲 の 割 合 が 増 し て い っ た 。春 日 八 郎 の「 妻 恋 峠 」
「男の舞台」
「 東 京 の 蟻 」、三
橋 美 智 也 の 「 あ ゝ 新 撰 組 」「 お さ ら ば 東 京 」「 達 者 で ナ 」、 若 原 一 郎 の 「 お ー い 中 村 君 」「 と ん び
平 に 歌 が わ く」 な ど 、 戦 後 デ ビ ュ ー し た 歌 手 に 歌 わ せ た 歌 謡 曲 が ヒ ッ ト し た 。 特 に 若 原 の 「 お
ーい中村君」は当時二十三万枚売れるほどの大ヒットとなり、若原の代表作と呼べるものであ
った。
和製ジャズ・ソングをあまり作曲しなくなったからといって、中野がジャズ・ソングの世界
か ら 離 れ て い っ た わ け で は な か っ た 。中 野 は 歌 謡 曲 の メ ロ デ ィ ー の 中 に 、隠 し 味 と し て ジ ャ ズ・
ソングのリズムを使っていたのである。三橋の「おさらば東京」は、中野が沢山持ってい るエ
ルヴィス・プレスリーのレコードを作詞家の横井弘と一緒にいろいろ聞いているうち に出会っ
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た、
「 ハ ー ト ブ レ イ ク・ホ テ ル 」と い う 歌 の メ ロ デ ィ ー を ヒ ン ト に 作 ら れ た も の で あ っ た 。プ レ
スリーのジャズ・ソングをヒントに作られたこの曲はしかし、民謡出身で鍛えた三橋の高音な
美声を生かすべく、民謡調の歌謡曲となって完成した。また、同じく三橋の「達者でナ」も民
謡 調 の も の で あ る が 、ル ン バ の リ ズ ム を 隠 し 味 と し て 使 っ て い た 。
( 四 十 八 )ま た 、中 野 の 自 宅
には、アメリ カの有名なジャズ・シンガーで あるルイ・アームスト ロン グの写 真が終 生飾 られ
ていたというエピソードも残っている。
レコード業界八社の競争ははげしい。キングでも月に五-六十曲作って 二十曲くらい 残
し、その中の一位から三位くらいの曲だけが宣伝費をかけ市場に出てゆく。中野が一年間
に作る曲は約五十曲。このうち中ヒットでもいいから三本出れば上々というから作曲家商
売も楽でない。歌い手を決め絵を描きタイトルを決めリズムを選び楽器編成が決 まって 最
後に作曲にと りかかる。こ のすべて がう まくかみ合わないとヒットはおぼつかな い。 いき
お い 同 じ 社 内 で も チ ー ム 同 士 で 企 画 の 奪 い 合 い な ど 激 し い 対 抗 意 識 が あ る 。『 孤 独 な も ん で
すよ』ぼそりともらした口調に実感があった。十万枚以上レコードが売れた曲には社から
トロフィーが出る。中野の自宅にはこのトロフィーがピアノの上の飾りダナにいっぱい。
き び し い 業 界 の 中 で 、 息 の 長 い 活 動 を 続 け る 人 で あ る 。( 愛 媛 新 聞 、 一 九 六 九 )
このように「妻恋峠」がヒットしてからの中野は、歌謡曲を中心にヒット作を堅実に作り続
けた。自分の作る和製ジャズ・ソングは戦後の流行歌界ではヒットしないと見切りをつけ、ジ
ャンルを歌謡曲に転換したこと は、ヒットを続けていく上で、また流行歌の世界で作 曲家とし
て生きていく為には賢明な判断だったといえる。
中野は一九七〇年二月十九日、肺ガンのため東京の自宅で死去、六十歳だった。新聞には、
翌日の在京各誌に訃報記事として二百~三百字程度で 、戦前の歌手時代と戦後の作曲家時代の
ことが触れられつつ載った。
( 四 十 九 )葬 儀 は 雑 司 ヶ 谷 崇 拝 堂 で キ ン グ レ コ ー ド 文 芸 部 葬 と し て
行われた。
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