博士(医学) 井手 佳美 論文題目 Human breast cancer tissues contain abundant phosphatidylcholine(36:1) with high stearoyl-CoA desaturase-1 expression (ヒト乳癌組織内の癌部におけるホスファチジルコリン (36:1) と SCD1 の高集積) 論文の内容の要旨 [はじめに] 乳癌は女性の悪性腫瘍で最も罹患率の高い疾患であり、死亡原因としても上位に位置する疾患で ある。脂質合成にかかわる酵素が乳癌組織内で高発現しているという報告が複数見られていること からもわかるとおり、脂質合成と癌の進行には密接な関係があると考えられているものの、乳癌組 織内の脂質分布についてはいまだ報告がない。 我々が解析に用いた質量顕微鏡法は、組織切片上における分子の局在を探知および可視化する ことができるものである。以下に質量顕微鏡法の手法を簡単に述べる。標本となる組織切片上に細 径でレーザー照射を行い、照射部分に含まれる分子がイオン化する。すると、イオン化した分子は 装置内の真空空間中に放出され、Time of Flight 法によって質量数が計測される。これを組織切片 上にまんべんなく繰り返すことによって組織切片上に含まれる分子の網羅的測定が可能となるの である。 今回、我々は質量顕微鏡法を用いた乳腺組織内のホスファチジルコリン (PC) とリゾホスファチジ ルコリン (LPC) との検出および可視化を行うところから、研究を開始した。 [材料ならびに方法] (標本) 当院で乳房手術を施行した日本人女性患者 29 人より標本を採取した。事前に浜松医科大学医の 倫理委員会に研究内容を提出し承認されたうえで、個々の患者からは事前に説明し文書による同 意を得たうえで検体を採取した。1 人が非乳癌担癌者であり、そのほかの 28 人は乳癌患者であっ た。28 人の乳癌患者から採取した標本のうち 1 標本中には癌細胞が含まれていなかった。その他 の 27 標本のうち、3 標本は非浸潤性乳管癌のみが残りの 24 標本中には浸潤性乳癌が見られた。 27 標本中の 1 患者は術前に乳癌に対する薬物療法を受けていた。手術標本を用いてホルマリン 固定パラフィン包埋切片を用いて行われた免疫組織学的検査によるサブタイプ分けによるとエスト ロゲンレセプター (ER) もしくはプロゲステロンレセプター (PgR) が陽性かつヒト上皮増殖因子受 容体 2 型 (HER2) が陰性のものが 17 標本、ER もしくは PgR が陽性かつ HER2 が陽性のものが 3 標本、ER かつ PgR が陰性で HER2 が陽性のものが 3 標本、ER、PgR、HER2 がいずれも陰性のも のが 4 標本であった。手術標本から採取した検体を瞬時に凍結し-80 度で冷凍保存しておいて、10 µm の厚さに薄切し専用の indium tin oxide ガラスにのせたプレパラートを作製した。 (質量顕微鏡法による解析) 組織を薄切し、専用のスライドグラスにのせてイオン化補助剤を塗布したのちに装置に入れると、 細径のレーザーが切片上に照射され、照射部分に含まれる分子がイオン化する。 マトリックスと呼ばれるイオン化補助剤に 2,5-dihydroxybenzoic acid を選択し、標本となるプレパラ ートに蒸着によって噴霧した。質量顕微鏡法による測定は Ultraflex Ⅱを用いて行った。ポジティ ブイオンモードで、質量電荷比が 400-1000 の間のシグナルの測定を行った。既存のマスライブラリ ーを用いて、得られたスペクトルの質量電荷比から分子イオンの同定を行い、そのシグナル強度を 分子の相対量として乳腺組織内に含まれる分子の種類と量とを同定した。 (乳腺組織内の脂質解析) PC 内の 2 か所のアシル基の炭素数の和が 32,34,36 で、1 価不飽和脂肪酸および飽和脂肪酸か らなるもの (MUFA-PC) および 2 つとも飽和脂肪酸からなるもの(SFA-PC) に着目し癌部と非癌部 とにおける局在を調べた。また、1 価不飽和脂肪酸の合成に関与する酵素である stearoyl-CoA desaturase-1 (SCD1) の免疫染色を行い、癌部と非癌部とで比較した。さらに、乳癌癌部における MUFA-PC の相対値を ER、HER2 および Ki67 の発現別に比較した。 [結果] 3 種の MUFA-PC[PC (32:1)、PC (34:1) 、PC (36:1) ]および 1 種の SFA-PC[PC (34:0) ]が癌部 で高度に集積していた。一方、LPC は特徴的な偏在を示さなかった。癌部における PC (36:1) の 集積は、同じ炭素数の SFA-PC である PC (36:0) に比しても有意に高度であった。 飽和脂肪酸を不飽和化することで 1 価不飽和脂肪酸を合成する酵素である SCD1 の発現を免疫 組織学的染色にて調べたところ、SCD1 染色強度も癌部で有意に高値であった。SCD1 の染色強 度と PC (36:1) / PC (36:0) の値との間には正の相関関係が見られたため、乳癌癌部における 1 価 不飽和脂肪酸を含む PC の集積には SCD1 の関与が示唆された。 ER、HER2、Ki67 の発現別に PC (32:1) / PC (32:0) 、PC (34:1) / PC (34:0) 、PC (36:1) / PC (36:0) 、PC (32:1) / LPC (14:0) 、PC (34:1) / LPC (16:0) 、PC (36:1) / LPC (18:0) の値および SCD1 免疫染色強度を比較したところ、ER 陽性乳癌と ER 陰性乳癌の間で SCD1 染色強度には 差が見られなかったものの、PC (34:1) / PC (34:0) の値が有意に高い結果であった。 [考察] 乳癌癌部における 1 価不飽和脂肪酸を含む PC の集積に SCD1 以外の調節因子が関与している ことが考えられるとともに、MUFA-PC の合成系をターゲットとするような抗腫瘍薬が開発される場合、 ER の発現が効果予測因子となることが示唆された。
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