15巻 6号 (1984年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

15巻
6号
昭和 59年 3月
東京 大 学理 学部
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次
表紙 の説 明 ………… …… … ……………………………………1
退官 にあた って …………………… … …鈴 木 秀 次 … 2
鈴木先生 を送 る……… … ……… ………二 宮 敏 行 … 2
“台湾小低気圧 "と 東京 の大雪 ………岸
岸保 さんの思 い出 ……………………… 松
どん底 か ら…………… ………… … …… 田
田丸先生 の御 退官 によせて …… … …… 内
丸
藤
勘二 郎 … 3
太 郎… 4
謙 二… 5
周 式… 6
大学 を去 るにあた って …………………花
生物学的古生物学 の事始 め ……………鎮
井
哲
西
清
結晶学 の流れ の 中 の 鉱物 学第 2講 座 …竹
竹 内慶夫先生 と鉱物 学 …………………武
前川 文夫先生 を追憶 して …… ・………古
内
田
慶
保
野
.
郎… 7
高… 7
夫… 8
弘… 9
樹 … 11
谷
…………………
田 上 多佳子 … 12
高橋一郎 さんを偲 んで
¨
…………………………………
…
…………・13
<学 部 消息 >¨
,。
雅
表
の
紙
説
明
多細胞生物で は,生 殖細胞 の受精 を出発点 とす る個 体発生 過程 の初期 に,遺 伝 的永
続性 をにな う生殖 細胞 と,個 体 をかたちづ くる体細胞 とがわかれ る。体細胞 は どれ も完
全遺伝子 セ ッ トを持 ちなが らも,そ れぞれ ちが った 分化 の過程 をた ど り組織 を構築 す
つ うは生殖細胞 の受精 によ って子孫 に あ らわれ る形質 を指標 と し
る。遺 伝学 は,お 、
,
その背 景 を解析 す るもの とされて いた。 しか し1970年 代 に入 ってか らは,体 細胞遺伝
学 とい う ことばで あ らわ され る,体 細胞 を使 った遺伝 学 的研究 が展 開 され は じめた。
●
体 細胞 は生 体外 で長 期 (場 合 によ って は半永久 的)に わた って培養 で きるが ,生 殖 細
胞 にお け る交配 のよ うな現象 を欠 く。 これ を克服 したのが,1958年 に阪大 の 岡 田善雄
博 士 によ って報告 された HVJ(セ
ンダイウイルス)に よ る細胞融 合現象 の発 見 で あ
る。培 養体細胞 は遺 伝学 的研究対象 とな り,体 細胞遺伝学 の礎 がで きた。 その後 の化
学物 質
(PEG)に
よ る細胞 融合法 の開発 ,染 色体識別法 ,雑 種細胞選別 法 の進歩等
によ り,細 胞 融合法 は遺伝 子地 図作成 や遺伝 的相補性解析 にひ ろ く利用 されて い る。
細胞 融合法 は,種 を こえて 種 間雑種細胞 の形成 を可能 にす る。 種 々の生物 現象 の
,
進化生物学 的研究 の見込 み も出て くる。表紙 の写真 は,HV」 によ る融 合処理 を した
ヒ ト培 養細胞
(X P20S)と サ カナ培養細胞 (RBCF-1)を
一 部 を示す。 中央 に ヒ ト (大 型 の核 )・ サカナ (小 型 の核
一 晩培養 した結果 の
;DNA量
に して前 者 は後
者 の約 3倍 )異 種融合細胞 が あ る。他 に未 融合細胞 ,同 種融合細胞 もあ る。 これ らの
混 合細胞集団か ら ヒ ト・ サ カナ雑種細胞 のみ を ク ロー ンと して選別 す る には,相 方 の
細胞 にた とえば薬剤耐性 とい う適 当 な 目印をつ け,選 択培地 での培養 を続 け る。得 ら
れ た雑種細胞 の子孫 を ,目 的 とす る研究 (私 の場合 は DNA修 復や恒温性・変温性 等 )
に用 い る。
動物学教 室
-1-
嶋
昭
紘
●
退 官 に あ た っ て
鈴
木
秀
次 (物 理 )
理 学部 に来 てか らすで に21年 にな りま した。 当
子 力講座 の 建物 の要求 が取 り止 め にな りま した。
初 は「原 子 力関係講座」 の一 つ で あ った放 射線物
普通 の学部所属 の講座 と して取扱 われ るよ うに
性学 の 担 当で した ので ,東 大 の原子 力教育研究 体
な ると,理 学部 は大変居心地 の良 い所 です。物理
制 の構想 と実態の食違 いに悩 ま され ま した。 とき
教室 の数 多 くの先輩 ,同 僚 の刺 激 を受 けなが ら若
どき「 原子 力講座 は預か り講座」 とい う言葉が教
い大学 院生達 と団体 ヘ リウムの研究 を進 め る こと
授会 で も出て ,理 学部 の正式 なメ ンバ ー と して認
がで きたの は,私 に とって最 も嬉 しか った ことの
め られて い るのか ど うか疑 わ しくな った り,原 子
一 つ で す。
力関係 講座 の建物 は弥生地区 キ ャ ンパ スに建 つ は
私 の停 年退官 も日前 にな りま した。 この21年 間
ずで あ るとい う ことで ,仮 住 いの実験室 の 引越 し
をおゝり返 って み ます と,理 学 部 の い ろ い ろな方 か
が続 いた り しま した。 しか し,そ の うち工学部附
ら大変 お世 話 にな った ことが想 い 出 され ,そ れ に
属 の原子 力教育施 設管理部 が 全学共 同利用 の原子
比 して理 学部 に対 して私 自身 はほ とん どなす こと
力研 究総 合 セ ンターに変 り, さ らに しば らくして
の なか った ことを心苦 しく思 って お ります。
原子力関連講座 ,協 力講座 の 名称 が な くな り,原
最 後 に理 学部 の皆様 の益 々の御発展 を 祈 ります
`
鈴 木 先 生 を 送 る
二
鈴木秀次先生は,本 年 3月 停年退官 され ること
宮
敏
行 (物 理 )
のパ イ エル スカ に対す る格 子構造 の役割 の発見 な
になりま した。髪の毛は うす くて も,ま だまだお
どは世 界的 に良 く知 られ ,こ れ らの貢 献 に対 し
若い姿を見 ると,還 暦 というはるか昔 につ くられ
松永賞 ,日 本金属学会功績賞 を受賞 され ま した。
,
た習慣 が今 に生 きて いるのが奇妙 に感 じられます。 また,低 温 セ ンター長 , 」 JAP(応 用物理学欧
鈴木先生 は,昭 和20年 北海道帝國大学を御卒業
にな り,東 北大学金属材料研究所 , 日本原子力研
文誌 )編 集委 員長 と して ,学 内外 で 活躍 され ま し
た。
究所 と南下 して,昭 和38年 本学 に移 って来 られま
開拓 的 な研究の中で は,楽 しい思 い 出 とともに
した。先生 は,我 が国 におけ る格子欠陥研究の草
いろいろ悩 む ことも多か った と思 いますが ,先 生
分けのお一人で,そ の独創性豊かな御研究のゆえ
の最大 の悩 みは鈴木秀次 とい う名前 にあ ったので
に,常 に,世 界 のこの方面 の研究 に指導的立場を
はないで しょうか。 Ho Suzukiと い う宛書 きは
果されま した。転位 と不純物原子 の化学的相互作
人 を特 定す るの にあま り役 に立 ちません。理学部
用 (鈴 木効果 )の 提唱,固 溶体硬化 の解明,転 位
だ けで も,鈴 木尚名誉 教授 ,鈴 木秀夫教授 ,鈴 木
-2-
,
,
秀穂助教授 がお られます。 identificationに つい
いつ もに こに こ と して お られ る ことにあ るよ うで
ては,外 国人 も大 いに悩 んだようで ,先 生 にあ る
す が , もち ろん ,敬 愛 の念 の表 われで しょう。
アメ リカ人がつ けた名前 は Happy Suzukiで あっ
先生 は,今 も,固 体 ヘ リウム中 の格子欠陥な ど
たと伺 ってお ります。あだ名 の 由来は,鈴 木先生
の新 しい問題 に,情 熱的 に取組 んでお られ ます。
を直接御存知 の方 は直ち にお分 りと思 いますが
Happy Suzukiで あ られ る ことをお祈 りします。
,
《
台湾小低気圧 "と 東京 の大 雪
岸
保
勘 二 郎 (地 球 物 理 )
Ol
昭和 45年 4月 に気象庁電子 計算室か ら当理学部
す ば らしさには 目をみ は つた。 (ち なみ に 日本 に
に移 り,少 し机 の前 で ばんや りと考 え ごとを しよ
は現在 で も研 究用 の専用気象観測機 は 1機 もな い
うと思 って いた ところ,早 速 これ まで全国 の大学
現状で あ る。)は
関係者 で 計画 されて いた東支那海 にお け る “気 団
10メ
変質観測実験 "の 計画 を手伝 って欲 しい といわれ
に低 空飛行 し,東 支那海一 帯 で の海面 附近 の乱流
,
ELECTRA"は
海 面 上 わ ずか
ー トル ,50メ ー トル とい った高度 を 自由 自在
観 演1を お こな った。 ま た その 時 み た 沖 縄 の 米 軍
雑用 の渦 に まき こまれて しま った。
"気 団変質観測実験 "の 計画 の 中 には “台湾小
基 地 の広大 さ,そ の基地 内 に あ る米軍 の気象 隊 の
低気圧 "の 発生 を解 明す ることが主 目標 の ひ とつ
規模 の大 き さな どに も驚 き,改 めて沖縄 の軍事 基
と して あげ られ,観 測 は 1月 もしくは 2月 に予定
地 と して の役割 をみせ つ け られ た思 いが した。
されて いた。 この “台湾小低 気圧 "は 冬 1月 ,2月
退官 の 際 の思 い出 と して ,研 究 の話 で はな く
頃 に台湾 の北 に発生 し, 1日 後 には関東南岸 まで
今 か ら10年 前 の 沖縄 で の 観 測 の 話 を もちだ した
東進 し,東 京 に大雪 を もた らす こと もあ る,ア ジ
ア特有 の気 象擾 乱で あ る。実際の観測 は昭和49年
が ,私 に と って は在職 中 の一 番思 い 出 の 多 い観測
く
で あ つたか らで あ る。 ひ とつ はその頃私 自身 台
と50年 の 2月 上旬 に,2回 に わ た り10日 間 沖 縄
湾小低気 圧 "の 発生 につ いての数値 シ ミュ レー シ
を中心 に して東支那海海域 でお こな われ た。 カナ
ョ ンをお こな って いた こと, もうひ とつ はデ ス ク
ダ,ア メ リカ,オ ース トラ リヤの研 究者 も参加 し
・ ワー ク中心 の私 に と って , この よ うな大規模 な
た観測で あ つたが ,残 念 なが ら, この両年 の観測
気象観 測 はは じめての経験で あ ったか らで あ る。
期間 中 に, “台湾小低気圧 "の 発生 はなか った。
机 の前 で はよ くわか らな い,自 然 の振舞 いの一 端
その代 りに,冬 の 暖か い東支那海 の海面上 で発生
をは じめて みせ つ け られたよ うな気 が した もので
す る小 さな対流渦 , シベ リヤか らの寒波 の吹 き出
あ る。
しによる済州 島 (朝 鮮 )か らの カルマ ン渦 の発生
,
,
観測後 10年 の 月 日が経過 したが ,今 で は
く
台湾
海面 か ら 1キ ロメ ー トル まで の大気 境界層 での乱
小低気 圧 "の 発生 ,発 生後関東南岸 へ の東進 とい
流混合 な ど,今 まで よ くわか らなか った ことが観
う大 まか な大 気擾乱 の変動 を,数 値予 報 の手 法で
測面 で い ろ い ろ と明 らか に され た。 この 時 アメ リ
2∼ 3日 前 に予測で きるよ うにな った。 この背景
カの大気科学研 究 セ ンター (NCAR)か ら観測
く
に参加 した ELECTRA"と い う気象観測機 の
には電子計算機 の急速 な進歩 が あ った こと,ま た
-3-
大気 の運動 の取扱 いで学問的 には大変 進歩 した こ
O
とが あげ られ る。 といって も,降 雨量 ,降 雪量 の
に学 問 は進 歩す るもので あ るとい う ことを痛感 じ
定量 的予報 につ いて は今後 の問題 と して残 されて
て い る。
い るが ・…。 さる 1月 19日 は東京 は "台 湾小低気
最後 に理学部 の先生方 ,職 1員 の み な さん に は大
圧 "に よ る大雪 に見舞 われ たが ,そ れ に して も10
変 お世話 にな った ことを改 めて 思 い 出 し,感 謝 の
年前 には “台湾小低気 圧 "に つ いて は未知 の部分
意 を表 しつつ この駄文 を閉 じた い。
;・
が沢 山あ った ことを思 い 出 し,つ くづ く時代 と共
岸 保 さん の思 い 出
松
野
太
郎 (地 球 物 理 )
岸保 さんの存在 をは じめて知 ったの は私 が学部
1959年 す なわ ち今か ら四半世 紀前 の 4月 に電子
学生 の 時 で あ る。 当時 ,岸 保 さん は地 球物 理 の助
計算機 によ る予報天気図 が初 めて 作 られ た。数値
手 で あ ったが ,気 象庁関係 を含 め た若手気象研究
予報 の実用化 は世界 で 3番 目で あ った。 この前後
者 のつ くる「数値 予報 グル ープJの 中心的指導者
の岸保 さんの活 動 ぶ りは物 す ご く,ま た颯 爽 と し
と して既 に有 名人であ った。 旧来 の勘 と経験 に頼
て いた。新 しい気象学 と気 象技 術 を学 び,研 究す
る天 気予報 に代 えて ,流 体力学方程 式 の数値解 に
る人 々の 中心 に存在す る輝 か しい ス ターであ り
よる天気 予報を 日本で も実現 しよ うとい う運動 の リ
その言説 の影響力 はカ リスマ 的 で あ った と言 って
ーダ ーだ ったので あ る。1950年 代 の初 め,温 帯低
も過言 で はない。 これ に多少 と も批判 的 だ ったの
気圧 の発達 に関 す る理 論で世界 の気 象学界 にデ ビ
は,他 な らぬ岸保 さんの後 輩達 ,す なわ ち東大地
ュー した岸保 さんは,そ の頃電子 計算機
AC)と
(ENI
,
球物 理 の気 象研 に巣 くう助手 。大学 院生で ,私 自
共 にプ リンス トンに生 まれ た数値 予報 プ
身 もその一 人であ った。私 の研 究 の 出発点 は, こ
ロ ジェ ク トに参加 し,そ の成果 を 日本 に持帰 られ
の 大 ス ターの所説 に とに角反対 し,何 とか誤謬 を
たので あ った。余談 なが ら, 日本人 で最初 に電子
発 見 して先輩大 学院生 と一 緒 に溜飲 を下 げ る こと
計算機 を使 った人 は岸保 さんで あ る と思 う。
で あ った。
あ いに く私 が 大学 院 に入 るの と入れか わ りに岸
十年余 りの後 ,電 子計算室か ら東大 に戻 られ た
保 さん は気 象研究所 に移 られ ,直 接教 えを受 ける
岸保 さん によば れて私 は九 大か ら東大 に移 った。
ことは出来 なか った。長年 の運動 が 実 を結 んで
偶然 の事情 もあ って ,気 象研究室 は教 授 。助教授
,
気象 庁 と して は大英 断 の,当 時世界最大 の電子計
と も入れ変 わ って再 出発 の 形 にに な った。私は教
算機 で あ る I BM 704の 導入 が 決定 し,岸 保 さん
育 と研 究 とい う大学 内 の仕事 に打 ち こめ ばよか っ
は数 値予報実行 の準備 にあた られ る ことに な った。
たが ,岸 保 さん はそれで はす まなか った。次第 に
その後 間 もな く,現 業体制 と して気 象庁本 庁 に電
日本 の気 象学界全体 の 中心 ,ま とめ役 とな ること
子 計算室 が 設 け られ ,再 びそ こに移 られ た。 その
を周囲か ら期待 され るよ うに な り,ご 自身 もその
頃 の公務 員給与体系 のせ いで ,ス カ ゥ トされ る度
責任 を感 じられて この大役 に取 り組 んで ゆかれ た。
に給料 が 下 が った そ うであ る。岸保 さんの仕事 に
気象学 は多 くの対象 を持 ち,手 法 もさまざまで あ
か け る熱意 と欲 のない人柄 を表す 話 と して仲 間 う
るが , 日本 の大学 は,そ れ ぞれが特 定の 分野 と手
ち に広 く知れ渡 った。
法を中心 と して 大学 問分業 とで も呼ぶ べ き体制 に
-4-
な って い る。 このよ うな状況で ,ま とめ役 を果 た
には,岸 保 さんの昔 の姿 を話 して も納得 がゆか ぬ
す の は容易 で はない。 最初 に手 が け られた協 同観
風 で あ る。
測計画 AMTEXは
,理 論的研究 を中心 と して来
岸保 さんが青春 の情熱 を傾 けて実現 され た数値
られ た岸保 さん には縁遠 い もので あ った。岸保 さ
予報 の精度 が , この 1∼ 2年 ,急 速 に向上 して い
ん は,自 己を主 張す ることを控 え,み んなの研究
る。 この 冬 は何度 も大雪 に見舞 われ たが ,予 報 は
が伸 び るよ うに と忍耐 強 く努力 され たcか つ て
「数
パ ー フェク トで あ った。先 日の大 雪 の前 の夕刊 で
値予報 の旗手」 だ った時代 に,そ れ に反 対す る保
は,観 測時 の天気 図上 に全 く見 え ない低 気圧 の発
守的 な勢力 に対 して果敢 な戦 を挑 んで 来 られ た事
生・ 発達 が大型 コンピュー ターの計算結果 に出て
を知 って いたので ,私 は岸保 さん の変貌 に驚 き
い ると解 説 して い た。岸保 さん は勝利 の 味 をかみ
その 自己犠牲 的努力 に頭 の下 が る思 い を した。一
じめて第一 線 を離れてゆかれ るに違 いな い。
,
方 , このよ うな一面 しか知 らな い最近 の学生 諸君
底
ん
プ
り
﹁
ど
{111111)}'
)ゝ
田
私 が 当時 の東京帝 国大学 を卒業 した の は終戦後
丸
謙
二 (化 学 )
ん底」 の 時代 で した。
一 年 ,ひ どい時で した。 イ ンフ レ,食 糧 難 ,住 宅
そ の よ うな時 ,大 変幸運 に も,戦 時 中 に設 け ら
難 ,就 職 難 ……虚脱 と絶望 ,そ れ に少 しばか りの
れ た「特 別研 究生」 の制度 が残 って いて ,卒 業 と
解放感 と希 望 が うず ま いて いた頃 で した。教室 に
同時 に,助 手 なみの給料 を頂戴 しなが ら,研 究 に
は空襲で焼 け出 され た職員 ,家 族 ,学 生達 が寝泊
専心す ることが 出来 ま した。確 か初任給が 400円
り して い ま した し,焼 跡 の 防空濠 の 中 に住 んで い
位 ,そ の後 イ ンフ レを追 いか けて ぐん ぐん上 が っ
る人 も少 くあ りませ んで した。食糧 事情 も底 をつ
て 行 きま した。
き,赤 旗 を押 したて「米 よ こせ 」運動 が皇居 にお
その後横 浜国立 大学 に赴任 し,程 な く米 国 の
しよせ た り しま した。 クラスの 3人 が結核 で死 ん
Princeton大 学 に留学す ることが 出来 ま した。
で い きま した。通学 の途 中 に通 る品川駅で は外地
渡米 して ,見 る もの聞 くもの驚 くことの 多 い時代
か ら引揚 げて 来 た人 々が ホ ームに溢 れて い ま した。
で したが ,と て も楽 しく実 り多 い留学 で した。横
ザ ンギ リ頭 に煤 けた顔 を した女 の人 が 唯茫然 とホ
浜国大 にいた拾数年 の経験 は,苦 しい事 も少 くな
ーム に座 り込 んで いたのが EΠ 象 的 で した。多 くの
か った とは い え,そ れだけ に今 とな って は とて も
先輩達 が ,職 が ないま ゝに続 々復員 して来 ま した。
貴重 な もので した。東京大学 に移 ったの は今か ら
我 々 は卒業 して もよい就 職 口な どあ ろ う筈 が あ り
20年 余 り前 で したが ,初 めての教授 会 で 同 じ「大
ませ ん。 とい って も,と て もブラブ ラで きる世 の
学」 とい って も こんなに も違 って い る ものか と強
中で もな い。財閥系 の会社 は賠 償 に あて られ ると
烈 な culturel shockを 受 けた ことを覚 えて いま
い う噂 が流 れて いた し,景 気 の よい会社 は ヤ ミで
す。 それ以来 ,本 当 に長 い間沢 山 の ことを教 えて
サ ッカ リンを作 った りして いる街工場だ った り し
て,一 体 どうした らよいのか,と に角 もぐりこめ
頂 きま した。研 究室 で も百 人近 い才能 に恵 まれた
人 々 と一 緒 に過 ごす ことが 出来 ま した。すべて「楽
「ど
る所にもぐりこまねばという時代で した。正に
しか った 」以上 の大 きな幸 せで した。
-5-
C'est le temps que tu as perdu pour
人 々が ,私 には もったいない位 ,よ い人 ばか りで
ta rosa qui fait ta rOsa si impOrtant。 (7]
とて もよ くして頂 い た とい う こ とです。研究室 の
のば らを育 て るために,君 が 多 くの 時間 を失 った
人 々 ,化 学教 室 の人 々,理 学部 の,さ らには大学
か らこそ,君 のば らは貴重 なんだ よ)。 失 ったの
の人 々に対 して心か ら有 難 く感 謝 して い ます。 こ
は時間 だ けで はあ りません で した。失 う こ とは と
の よ うな恵 まれ た思 い 出を持 ちなが ら,此 所 を去
りかえ しのつか ない ことで す が , しか しそれ を失
ることが 出来 る幸 せ を心 の宝 と して これ か らも頑
う こ とによ って ,失 わなか った ら到底 わか らなか
張 って行 きた い と思 い ます。本 当 に有難 うござい
った ことを沢 山教 え られ ま した。 殊 に私 と して こ
ま した。
,
の上 な く幸せ だ った ことは, これ まで一 緒 だ った
田丸先生 の御退官 によせ て
内
田丸 謙二 先生 は昭和 21年 に本学 理学部 化学科
を卒業 後 ,横 浜国立大学 に勤 め られ ま したが ,昭
藤
周
式 (分 光化学 )
もに,日 本化学会副会長を務 め られるなど,日 本
の化学 のために も尽力されま した。
和38年 に本学理学部化学教 室 に移 られ ま した。以
このよ うに非常 に忙 しい身 であ りなが ら,一 方
来 20年 間化 学 反 応 学 講 座 を担 当 され ,特 に固体
で学生 とテニスやサ ッカーを楽 しまれる気 さくさ
表面 での触媒反応 の研究 に幾多 の顕 著 な業績 をあ
も先生の大 きな魅力の一 つであ ります。御退官後
げて こ られ ま した。先生 が世界 に先 が けて提唱 さ
の先生は東京理科大学 において教鞭をとられます
れた「反 応 中 の吸着量測定法」 は,様 々 な表 面解
が,さ らにこの夏か らは国際触媒学会の会長を務
析手段 の発 展 と相 ま って ,ま す ます その応用範囲
め られることになってお り,ま すます の御活躍 が
を広 げ よ うと してお ります。 又 ,先 生 は教 室主任
うかがわれます。
・ 大学 院主任・ 評議員 ,学 部長 ,総 長補佐 な ど
御健康を心か らお祈 り申 し上げます。
,
行政面 で も本学 の運営 に多大 の貢 献 を され るとと
-6-
大 学 を 去 る に あ た って
花
井
哲
郎 (地 質 )
丁度 戦争 も終 りに近 く,東 京 の空襲 も もう時間
頃 ,60年 の安保 闘争が起 った。学生 は皆 デ モに出
の 問題 とな った頃 ,東 大 に入学 した。安 田講堂 で
か けて教 室 は空 にな った。 テ レビは国会議事堂 の
の 入学式 の 総長 のお話 しは何 も思 い 出せ ない。世
構 内 に突 入す るデモ隊を映 し出 した。 学生達 は機
の 中 は正義 の ために戦 わねばな らな い と信 じて い
動 隊 に こっぴ ど くな ぐられ ,翌 日頭 に包帯 を巻 い
たよ うだ。空襲で東京 が火 の海 にな るのを防 ぐに
て登校 して来 た。
は,町 家 を こわ して空地 を作 る しか なか った。私
高度 成長 の 時代 が続 き, 日本 はます ます豊か に
達学生 は家 の柱 をの こぎ りで ひき,屋 根 の棟木 に
な って 皆 がぶ、とって きた頃 ,今 度 は東 大紛争 が起
つ な をつ けて 家 を無我夢 中で 引 きず り倒 した。 そ
つた。学生 達 は狂 気 のよ うに石 を投 げ合 い,棒 で
れ で も東京 は皆 焼 けて しま った。
な ぐり合 った。安 田講堂 はめ ち ゃ くち ゃにされ 占
終戦の詔 勅 は理 学部 二 号館 の地質学教 室 の用務
拠 され た。 大学 の 中 の選 択圧 は急激 に変 って行 っ
員室で聞 いた。ラジオにガアーガアー と雑音 が入 っ
た。色 々 な先生 方 の御努力で何 とか紛争 もお さま
て あ ま りは っ き りとは聞 きとれなか ったが それで
り矢 内原三原則 は廃止 す る方向で停 止 した。
も日本が降伏 した ことはわか った。一 瞬 の精神 的
石油 シ ョック以来低成長期 に入 ったが平和 な大
に空 白な時期 を はさんで ,世 の 中 は急 に左 に旋 回
学 が続 いて い る。 だが き っ とまた何 かが起 る こと
をは じめた。 東京 は焼 け野原 で食 べ 物 もなか った
だ ろ う。 イギ リスの歴史家 の ことばだ とい うの を
のだか ら,人 々 は飢 えて心 は荒 れ はてて いた。今
思 い 出す 。「 the only thing man learns from
度 は戦前 とはちが う正義が 出て来 た。 食 べ 物 をよ
history is that man learns nothing,from
こせ と学生 達 はデ モ に出か けて 行 った。 そ して 宮
histOry」 。 しか しなが ら一 つ だ け一貫 して きた こ
城前 に駐車 され た進 駐軍 の 自動車 に次 々 と火 をつ
とが あ りそ うだ。 それ は世 の 中 が 右 に動 こ うが左
けて焼 いて さわ いだ。警察 に追 われ た学生 は友達
に動 こ うが 大学 は絶 えず学生 を守 りつづ けよ うと
の家 を頼 りに逃 げ回 った。新 聞 は入学 式や卒業式
して来 た ことだ。 この精神的 によ き時代 の大学 で
の総長 の訓辞 を第一 面 にのせ た。 しか し総長 は首
人生 の大半 を過 ごす ことが 出来て本 当 に しあわせ
相か ら「曲学 阿世 の徒」 とのの しられ た。
だ った と思 って い る。有難 う ござい ま した。
朝鮮戦 争 ,神 武景気 と日本 も豊 か にな って きた
生 物学 的古 生 物学 の事始 め
鎮
花井哲郎先生 が いよいよ御退官 で ,あ の ゆ った
り したお体 が教 室 を去 られ る時 が 近 づ きま した。
-7-
西
清
高 (地 質 )
花井先生 は,日 本 にお ける化石貝形虫
(カ
イ ミジ
ンコ)研 究 の創始者です。研究の始まりは一般に
探検 的性格 を もつ ものです が ,先 生 の研 究 も,ま
た ぐいの ものが 多 く,学 生 か らは不完全 な化石 で
ず ど こに どん な種類が いるか とい う調査 ,す なわ
どうや って生物学 的な研究 をす るか ,な どの疑 間
ち分類 学 か ら始 ま りま した。先生 一人 で始 ま った
が 出 る し,先 生方か らは,こ れ は古 い ものの単 な
研究 も今 で は多 くの弟子 が参加 して ,分 類や生態
│(llllll)
,
る破壊 だ けで新 しい体 系 が 出て い ない じゃないか
,
生物地理 ,発 生 ,殻 構造 ,進 化 とい うよ うな さま
とい う意見 がでて ,セ ミナ ー は 難 航 しま した。
ざまな生 物学 的 な問題 に発展 し,来 年 は 日本で貝
花井先生 は御 自分 が これ ぞ進 むべ き道 と思 った方
形虫の進化生物学を主 テーマとす る国際会議を開
向を,先 生 方 に “破壊 だ けで はないか "と 一言 の
くまでにな つて お ります。
もとに片付 け られ ,憤 態 や る方 ないけれ ど も,そ
ここで は, このような先生 のお仕事 が始ま った
れを じか に反論す るわ け にいか ず (こ こが いか に
頃の話を一 つ紹介 して,先 生をお くる ことばに代
も温厚 な花井先生 らしい と ころです ), 誰 もいな
えたいと思 います。先生が 4年 近 いアメ リカ留学
い と思 った トイ レで , “チ ク シ ョウ,チ ク シ ョウ"
をおえて帰国 された,お よそ30年 近 くも前 の話 で
と声 に 出 して ウ ップ ンば らしを した そ うです。 と
す。当時の古生物学は,地 層 の時代判定や古環境
ころが ,誰 もいない と思 った トイ レに耳 あ り,な
復元を主なテーマとしてお りま した。 しか し化石
ん と奥 にはい って いた人 が いて この声 を聞 いて し
はもともと生物ですか ら,化 石を生物学的 に研究
ま い,皆 に伝 わ って しま ったので した。
す る視点 が あ って 当然です。花井先生は早 くか ら
この 時不評 だ った生物学 的古生物学 は,今 で は
この ことを強調 した研究を進めていま したが,先
その 名 の 国際雑誌 も出版 され , 日本 で もこの立場
生が留学当時,ち ょうどアメ リカで も同 じ方向の
に立 つ シ ンポ ジウムや総研 が 数 多 く行 なわれ るま
研究が盛んにな り,先 生は帰国早々,張 切 って こ
で に な りま した。花井先生 が種 を播 き,苦 心 して
のよ うな生物学的古生物学 のセ ミナーを始め られ
育 てて こ られ た生 物学 的古生物学 は,今 で は立派
たわ けです。
な若 木 に育 って お ります。先生 の帰国直後 のチ ク
セ ミナーは私たち大学院生を中心に,先 生方ま
シ ョウ事件 は,今 お、りか え ると,こ の 分野 にお け
でまき込んで進め られま した。 しか し当時 セ ミナ
る蘭学事 始 めの よ うな ものだ った な と思 い当 るの
ーで紹介 した論文は,ま だ意識のみ先走 っている
であ ります。
結 晶学 の流 れ の 中 の鉱物学第 2講 座
竹
教授会 メ ンバ ーに加え させて いただいてか ら30
年近 くにな ります が ,そ の 間 ,鉱 物学教 室 に とっ
内
慶
夫 (鉱 物 )
の実現で あ った とい う点 にお いて も,そ の主宰 者
の責任 は可成 り重要 であ った と思 い ます。
て記念 す べ き出来 と して X線 結 晶学 を分担す る鉱
私 の 大学 院時代 も終 りに近 づ いた 1950年 頃 は
物学第 2講 座 の増設があ りま した。定永両一教授
結 晶の構 造 を決め ること 自身 が 非常 に大変 な仕事
(現 名誉教 授 ,日 本学士院会員 )を 始 め諸先輩 の
で した。今 ,振 り返 って み ると,そ れか ら不思 議
御 尽力 によ って 昭和48年 に実現 され た この新 しい
な程 約 10年 の ペ ースで X線 結 晶学 が新 しい発展 を
講座 は,そ もそ も講座増 が極 めて 困難 な実情下 で
見せて来 た ことに気付 きます。理論 の発展 を別 に
-8-
,
す ると,余 り認識 されて いない様 ですが ,1950年
術 の素 晴 らしさは素人 なが ら恐 嘆す るばか りです。
代 は回折 強度 潰1定 の 自動化 が一 部で熱心 に議論 さ
こ ゝに 申 し上 げた いの は,故 西川正 治先生 の お弟
れ ,検 討 されて いた期間で した。 1960年 代 に入 る
子 さん或 いは孫弟子達 が この放射光 施設建設推進
と, これが 花 を咲かせ ,単 結晶 自動 回折 計が普及
の中心 的 な役 割 を果 した こ とです。換言す れば
しは じめ ,や がて構造解析 の 自動化 へ の発 展 の兆
故西川先生 が培 われ た 日本 の結 晶学 の伝統 が あ っ
を見せて来 ま した。
て始 めて それが 実現 した と云 って も過言 で はな い
,
自動回折 計 の 進歩 は,一 方 において 回折強度測
か も知 れ ませ ん。放射光 の実現 によ って ,結 晶学
定 の精度 向上 を伴 って い るため,1970年 代 に入 る
は波長 の制約 か ら解 放 され るとともに,構 造 の動
と,結 合電子 , d電 子 の密度 分布 が 議論 され るよ
的状態 の解析 が可能 にな りま した。 この よ うな 巨
うにな りま した。鉱 物学 の分野 で高温下 ,高 圧下
大施設 を生 かす も殺す もユ ーザ次第 とい う面 もあ
の構 造研 究 が始 め られ るよ うにな ったの も この 時
りますが ,構 造研究 の分野 に質 的 な発展が 見 られ
代です。 日下 ,精 密構造解析 の面 で は,高 温 にお
る準備 が 出来 た ことには変 りな いと思 い ます。
ける非調和熱振動 の解析 が ホ ッ トな注 目を浴 びて
この様 に,鉱 物学第 2講 座創 設以来 の 10年 間 は
,
いる と云 って も良 いで しょう。
結 晶学 の次 の発展 へ の準備期 間で もあ りま した。
ここで特筆 した い ことは,1970年 代 の 当初 には
今 ,東 大 を去 るに当 って ,そ の準備 が と ヽの った
日本 の結晶学者 の 間で ,結 晶学 の将来計画 が真剣
の を見 とどけ る ことが 出来 たの は私 の幸 で あ りま
に討議 されて いた ことで す。 その結果 ,結 晶学 の
す。本来 な らば,鉱 物学第 2講 座 の成果 をよ り具
発展 のためには強力 な X線 源 が必要 で あ り,そ の
体 的 に ご報告す る義 務 が あ ると存 じます が ,ま た
為 には電 子軌道 放射光 の施 設 を持 つ ことが最適 と
表題 に照 らす と龍頭蛇尾 に終 る感 が あ りますが
の結論 に達 したわ けです。 やがて , 日本学術会議
この小 文 にて ご挨拶 に代 え させて いただ きます。
内 に その準備委 員会 が発足す る と,反 対 論や ,他
理学部 の今後 の一 層 の ご発展 を祈 り,併 せて今 ま
の批判 が 耳 に入 るよ うにな りま した。然 し,建 設
が 始 り,予 定通 リー 昨年 に光 が 出は じめ ま したが
,
,
で長年 の御厚情 に対 し心か ら御礼 申 し上 げ る次第
,
です。
現在 その安 定 な稼働状況 を見て い ると,加 速器技
竹 内慶 夫 先生 と鉱 物 学
武
田
弘 (鉱 物 )
竹 内先生 は故 東京 大学 名誉教授伊藤貞市先生 の
その 頃発展 しつつ あ ったパ タソ ン関数 や X線 の異
御指導 の もとに鉱物 の結晶構造解析 の道 に入 られ
常散 乱 を利用す る構造解析 の手 法 を駆使 して ,数
ま した。私 が 先生 を存知 上 げ るよ うにな った時 は
々の複雑 な結 晶構 造の解析 を精力的 にや って お ら
先生 が アメ リカか ら帰国 され た直後 で ,新 進 の講
れ ま した。
,
師 と して御 活躍 で した。 昭和 27年 か ら昭和31年 ま
特 に先生 の結晶構造 に関す る立体幾何 学的 な洞
で ,当 時 の世 界 の結 晶構造解析 の 中心 で あ った ペ
察力 は鋭 く,他 者 の追隋を許 さぬ もので ,そ れ ま
ンシル バニ ア州立大 ペ ピンス キ ー教 授 ,MITの
で決定困難 で あ った構造 をたち ど ころに解 かれ る
バ ー ガ ー教授 の もとで過 された御経 験 を もとに
とい う ことは度 々で した。 それ もただ単 に構造 を
,
-9-
解 くとい う ことで な く,そ の意 味す るところを見
ものが 多 く,そ れ も先 の話 に あ ったよ ぅに,た だ
ぬかれ ,結 晶化学 や構造原理 な どの ス トー リーを
の構 造決定 だ けで な く,新 しい構造 タイプや構造
うま く語 られ るので結晶学 的 ロマ ンチ ス トとい う
原理 ,結 晶化学 的解釈 の面 白 いス トー リー にま と
評 もあ る位 です。
め られ た もので した。 その結果 先生 の予言 された
当時 は原子 配列 の荒 い骨組 みの未 決定 な ものが
未知 の 積層 順序 が,そ の後 の高解像度 電子顕微鏡
多 く,現 在 の よ うな精密構 造解析 は ほど遠 い時代
によ る構 造像 によ り発見確認 され ,先 生 のお名前
で したが ,フ イル ム法 を改良 して ゼ ィ ゥ ンモの精
を とって ,「 竹 内石」 と命 名 されて います。
密解析 をす で に この頃始 め られ たの は,ま さに時
│
●
昭和48年 11月
,鉱 物学教 室 に新 しく設置 された
代 を先取 りす る もので した。 これが それ に続 く造
鉱物学第 二 講座 の初代教 授 お よび教室主任 とな ら
岩 ケ イ酸塩 鉱物 の単結晶 自動 回析 計 と高速電 子計
れ ,ま た 日本結晶学会会長 ,日 本鉱物学会会長 な
算機 によ る結晶構造精密化 の嵐 を起す 引 き金 と も
どと して ,公 務 に多忙 な 日々を過 して こ られ ま し
な ったお仕事 で した。 その後 これ らの精密化 の た
た。一 方研 究面で は,無 機材料物質 か ら地球深部・
めの装置 の導 入 に蓋 力 され ,現 在 の精密構造解析
惑星物質 までの 巾広 い無機化 合物 につ いて ,化 学
の発展 の基礎 をつ くられ ま した。
組成 ,温 度圧 力 の変化 によ る構 造変化 ,相 転移 を
昭和 34年 に助教授 に昇進 され ,当 時教授 で あ っ
扱 われ ,高 温高圧での構 造変化決定 を軌道 にのせ
た定永両一 先生 と共 に,鉱 物 の 多形 ,双 晶 ,相 転
溶融点近 くの 1600℃ 付 近 ,高 圧 で は 100 kb以 上
移 の構造 的原理 につ いて も新 しい考 えを導 入 され
,
最近 の トロポケ ミカル双晶 とい う概念 に至 る道 を
の高圧 での構造精密化 な どを達成 され ま した。
結晶学 ,鉱 物学研連委員幹事 と して ,ま た筑波
(SOR)利
始 め られ ま した。 特 に ウ ンモの 双晶 の複合回 折図
の高 エ ネ ル ギ ー研 につ くられ た放射光
形 の解釈 に関す る理論 は,そ の後 の複雑 な ウ ンモ
用施設 につ いて は,そ の発案 当時か ら関与 され
ポ リタイプの発見 と積層順序決定 を可能 にす る基
実現 に向 けて多大 の努力 を傾 けて こ られ ま した。
礎 を与 え ま した。 昭和38年 か ら昭和39年 にか けて
誰 が見 て も退官 され るよ うなお年 には見 えな い若
ス イ ス国 ベ ル ン大学 の ノ ワ ッキ ー教授 の ところで
,
,
さを保 って お られ るので ,後 進 の ため先生 の 達成
その頃未 知構造 の 多 い鉱物 グル ー プで あ る硫塩 鉱
され た多 くの成果 を もとに,鉱 物 の結晶構造原理
物 の構 造 解析 を手 が け られ ,多 くの未知構 造の決
につ いて 系統 的 にま とめ られ た結 晶化学 の本 をお
定を され ただけで な く,そ の構造 の 系統化 をな し
書 き にな られ る ことをお願 い して一 文 を終 えた い
とげ られ ま した。
と思 い ます。
日本産新 鉱物 の結晶構造決定 も先生 の手 によ る
-10-
,
前 川 文 夫 先 生 を 追 憶 して
古
谷
雅
樹 (植 物 )
残念 な事 で御 座居 ま した。
前川先生 は,旧 制府立 四中か ら第八高等学校 を
を経て ,昭 和 4年 4月 に東京帝 国大学理学部植物
学科 へ 入学 され ま した。 それ以来 ,昭 和 44年 に停
││1降
年 で御 退官 な され ます迄 ,四 十年 の長 い期間を
,
この理学 部 で ,学 生 ,助 手 ,講 師 ,助 教授 ,そ し
て 昭和31年 以来教授 (植 物学第 二 講座担 当)と し
て過 され ま した。 また,昭 和31年 か ら 3年 間 は
,
理 学部 附属植物 園長 に併任 され ま した。
植物学 を学 ぶ者 の 中で も,前 川先生 ほ ど沢 山の
植物 に深 く接 し,植 物 に情熱 を注 がれ た方 は希で
あ ると存 じます。 どの よ うな契機 で前川先生 が植
物学 に志 を立て られたのか ,ま たいつ 頃か ら植物
に興 味 を抱 かれ たのか ,御 家族 や前川先生 と同 じ
前川 先生 は東大 に まだ在職 中か ら糖尿 に悩 ま さ
世代 の諸先輩 にお うかが い致 しま したが ,御 答 え
れて おいでで ,毎 日毎 日,一 日も欠 か さず御 自分
は得 られ ませ んで した。前川先生 に直接 お尋 ねす
で イ ンシュ リンの注射 をな さ りなが ら,常 人で は
る機会 を永遠 に失 って しま った こ とを ,本 当 に残
出来 ないよ うな御活躍 を長 い年 月 にわた って な さ
念 に思 い ます。八 高時代 に は園芸 部 で活躍 され
れて い らっ しゃいま した ことは,ま だ御記憶 の方
東大 へ 入学 され た頃 には既 に 日本各地 の天然記念
もあ ろ うか と存 じます。 この糖尿病 が原 因 で数年
物 につ いて 深 い造詣 をお持 ちで あ った と聞いて お
前 に,丸 善 で 本 を御 覧 にな って い る折 に,軽 い脳
ります ので ,か な りお若 い時代 か ら次第 に植物 に
血栓 を生 じて ,突 然会話が 出来 な くな り,さ らに
対す る関心 を深 め られたので はないで しょうか。
帰 りの電車 で 片足 が不 自由 にな られ たため ,一 ケ
前川先生 が理 学部 の学生 で あ った頃 は,ま だ植
月 ほ ど慈恵 医大 の病 院 に入 られ て おいでで した。
物学教室 は小石川植物 園 にあ りま した。 ク ラスメ
幸 い最近 で は再 び海 外 へ植物 採集 へ 出か け られ る
ー トの亘理俊次先生か ら承 ります と,当 時か ら先
ほど回復 され ,周 囲 の者 も一安心 致 して お りま し
生 は植 物 の形 を丹念 に黙 々 と,同 じ資料 を上 か ら
た。 ところが昨年 9月 に山形 県月 山へ 御家族 と植
下 か ら,そ して右か ら左 か ら,画 に描 かれて い た
物 を見 に行 かれ大変楽 しまれ たそ うです が ,帰 京
のが ,大 変 印象的で あ った とい う話 しで した。 こ
され た夜 に腹 痛 をお こされて入院 され ま した。雨
の精密 で且 ,鋭 い観察 の畜積 が ,前 川先生 の学問
来 ,ず っと療 養 を続 け られ ま したが ,結 局 1月 13
の 出発点 で あ った ことは疑 う余地 が あ りませ ん。
日に 胃がんの ため御 亡 りにな りま した。 先生 は明
先生 の御研 究 は極 めて 多岐 にわ た って お られ ます
治41年 のお生 れで したか ら,ま だ75才 で ,本 当 に
が ,そ れ らは いづ れ も植物 の形 に基 くもので あ り
―
H一
,
●i〕
ます。 そ の御仕事 の進め方 は他 に類 をみ な い独 自
た,先 生は自然 の現象に非常 に広 い御関心をお も
の ものであ り,そ れ は御 自身 の 眼 を通 した余人 の
ちで したので,幾 つ もの構想が先生 の中 に平行 し
追随 し難 い洞察力 による観察 に加 えて ,天 賦 の感
て育 っていたよ うに見えます。 この ことと多少関
性 と詩人 の魂 か ら発す る一種 の「 ひ らめ き」 に依
係が あるか も知 れませんが,前 川先生 の門下生は
る理 論 であ った と申せ ま しょう。前 川学説 の特徴
現在随分広い様々な専門分野で活躍 されておられ
は,托 葉起 源論 ,古 赤道 分布論 , ライ フワー クで
ます。
あ った「 ギ ボ シの系 統 論」 な どいづ れ も考えて考
前川先生は大へん心のやさしい思いや りのある
え ぬいた思考 の深 さにあ りま したが ,そ の よ うな
方 で した。そ して,今 は死語になって しまいま し
考 えぬ く習慣 は,昭 和 14年 か ら18年 まで ,本 も資
たが,非 常 に親孝行な方であ って,学 生時代 には
料 も何一 つ 無 い中支 の戦場で銃 を担 ぎなが ら養 っ
病床 の母君 の療法 に必要 な食事分量を毎 日測 って
た ものだ と,先 生 自 ら語 られ た とい う事 です。
か ら登校 なされたと言 うことで した。
前 川先 生 は植物 分類学者 と して の卓抜 な知 見 に
前川先生 の想 い出は,私 共 の 心に蓋 きることな
加 えて ,御 父君 の影響 も受 けて ,漢 字 や民俗 学 に
く浮 んで参 りますが, ここに先生 の御遺徳を しの
つ いて も深 い造詣 を御持 ち にな り, 日本 の植物名
びつつ,謹 んで御冥福を祈 りた い と存 じます。
(和 名 )の 考証 に大 きな業績 を残 され ま したё ま
高 橋 一 郎 さん を 偲 ん で
田
上
多 佳 子 (化 学 )
の お元気 な姿 ,そ して入院前後 の様子 などが走 馬
燈 の よ うに 目の前 に浮 んで来 ま した。
入院 されてか らは教 室主任 の高橋教授 を始 め理
学部 ,化 学 の 職員 の方 ,他 教室 の 親 しい方 々が度
々小石川 の東 大分院へ お見舞 に ゆ き,頑 張れ ,頑
張 って下 さい と皆 で励 ま して参 りま した丈 に,そ
の御 訃報 は余 りに も空 しく中々信 じる こ とが出来
ませ んで した。
高橋技官 は昭和49年 5月 に化学教 室 に勤務 され
,
その勤 務 の傍 ら電機大学 に通学 し昭和55年 に卒 業
しま した。 教 室で は電 気担 当者 と して教 室内 の電
気 設備 の保 守 ,管 理 をつ とめてお りま した。 その
報 に接 しま した の は昭
高橋一 郎技官 の突然 の言卜
中で も老朽化 した旧館の電 気 工 事 には随分苦労 し
たので はないか と思 い ます し,又 ,新 館 の建築 に
和59年 1月 3日 早朝 の ことで した。
思 え ば昨年 11月 に身体 の不調 を訴 え られ ,11月
際 して も本部及 び理学部 との パ イプ役 とな って細
か い こ と迄 配慮 して ,黙 々 と仕 事 を進 めて お られ
24日 に入 院 されてか ら41日 目の ことで す。
折 か らの霙 の 中を御通夜 の路 に急 ぐ途 中 ,生 前
ま した。
―-12-
29歳
また水銀廃棄物 の回収 な ど,電 気係以 外 の化学
の 若 さは何 と伝 って も無念 の一 言 につ きま
す が ,高 橋 さんを知 る多 くの人 々の胸 にその温 い
教 室特有 の業務 に も携 って お られ ま した。
これ らの仕事 はす べ て表 に 出な い,い わば裏方
人柄 が いつ迄 も生 きつづ けて ゆ くことと思 います。
的な もので したが ,ど んな仕事 に もイヤな顔一 つ
最後 に教 室職員 の小 さな句会 に投句 され た句 を
せ ず に笑顔 で 引 き受 けて くれ た高橋 さん は化学教
御紹介 して ,高 橋一郎 さんの御冥福 を心か らお祈
室の 日常業務 を とど こお りな く行 う上で貴重 な存
りした い と思 い ます。
在 で あ りま した。
高橋 さん はその童 顔 のため か 又呼 びやす いお名
蟷 螂 の 庭 に 傾 く網 戸 か な
前 の ためか教官 に も職員 に も「一郎 さん」 と呼 ば
水 の 色 静 か に動 き秋 の 湖
れ親 しまれて お りま した。
レ ー ス 編 む 若 き人 の 手 想 いだ し
御 殿 山球 追 いつづ け油 照 り
ギ タ ーの名手で職員懇親会 や送男1会 で は一 郎 さ
ん の ギ タ ー伴 奏 で一 段 と会 が盛 り上 り全員大合唱
池
に 落 つ 夢 物 語 水 扉
と云 う場面 も しば しばで した。又 ,カ メ ラマ ンと
して活 躍 され ,現 在 アルバ ム には高橋 さんの写 し
た写 真 が沢 山残 って お ります。
≪学部消息>
教
授
会
1月 18日 (水 )定 例教 授 会
17)会 計委員会報告
18)教 務委員会報告
理学部化学教室本館 5階 講堂
議 題
(J
19)企 画委員会報告
前回議事録承認
12)人 事異動等報告
0
モ
メ
10
中間子科学実験施設規程 の一部改正 につ
いて
人事委員会報告
14)教 務委員会報告
1'
6)学 部長候補者 の選出について
G)評 議員 の改選 につ いて
椰)そ の 他
は
, 地殻化学実験施設長 の選 出について
中間子科学実験施設長 の選 出 につ いて
は
3 人事委員 及 び会計委員 の半数 改選 につい
て
任
J 理学部 防災規則制 定 につ いて
任
3 植物 園利用規則 の一 部 改正 につ いて
2月 15日 (水 )定 例 教 授 会
〔
0 昭和 59年 度政府予算 案 につ いて
理学部 4号 館 1320号 室
議
題
l171
l181
(1)前 回議事録承認
12)人 事異動等報告
素粒子物理国際 セ ンタ ー につ いて
そ
(次
G)理 学部規則 の一 部改正 につ いて
14)転 学部 につ いて
の
回予定
よ り)
15)昭 和 59年度 受託研究員 の受入れ につ
いて
16)人 事委員会報告
-13-
他
:3月 21日
(水 )13時 30分
O
昭和59年 度
1.開
催
理 学部定例教授会予定 日表
日
開 催 年 月 日
昭 和 59年 4月 18日
日
曜
第
3水
間
時
曜 日
午後
1時 30分
よ り
5 月 16日
6月 20日
月 18日
8月
会
休
9月 12日
第
2水
曜 日
10月 17日
第
3水
曜 日
午 後
1時 30分
よ り
11月 21日
12月 19日
昭 和 60年 1月 16日
2月 20日
3月 20日
開催 場所
理学部 4号 館 3階 1320号 室 (物 理学会議室 )
理 学 部 長 と理 職 と の 交 渉
学部 長 と理職 との定例 交渉 は,12月 19日 及 び 1
で 努力す ると回答 した。
3.行
月23日 に理 学部会議室で行 われ た。主 な内容 は
,
(二 )の 調査 につ いて
12月 に人事課が行 った調査 に対 して ,理 職 は
以下 の とお りであ る。
,
1.職 員 の待遇改善 問題 について
理職 は,今 回教務職員 (1名 )の 助手 へ 振替
え,事 務職員 (3名 )及 び技術職員 (1名 )の
昇格 が 実 現 した ことに,当 局 の 努力 を多 と し
更 に,今 後 の努力 を求 めた。学部 長 は,今 後 も
,
更 に努 力 した い と述 べ た。
2.定 員外職 員問題 について
現在 の ポス トは全員補充 が必要 で あ ると主張 し
た。学部長 は,基 本的 には全員 補充 を希望 して
い きた い と表 明 した。
4.教 職員 の健 康管理 について
今春 ,若 い職員 が亡 くな った ことにかんがみ
理職 は,教 職員 の健康管理及 び保健 セ ンタ ーの
あ り方等 の諸 問題 につ いて ,具 体例 を交 えつつ
,
,
前 回 の交 渉結果 (理 学部広報 15巻 5号 )を お、
学部 長 にその改善 を要望 した。学部 長は,「 関係
まえ ,学 部 長 は,教 室か らも定員化 の要 望が あ
機 関 に要望 を伝 え,ま た,健 康管理 の 改善 につ い
ったので ,再 採用 を求 めなが ら,定 員化 の 方 向
て も考 えたい。」 と回答 した。
-14-
5,軍 事研究 問題 について
とにつ いて は教 授会 で も説 明 した。 また,理 学
学部 長 は,『 軍 事 研 究 は 行 わない 』 とい う
部広報 に も掲載 したい。」 と述 べ た。
確 認書 の 内容 は本 学 の基 本方 針 で あ り,こ の こ
人
事
異
動
報
告
手)
(助
所属
官
職
氏
名
洋 三
地
理
助
手
浜 野
物
理
助
手
豊
師
高 橋
発令年月 日
異動内容
近
59.1.1
59.116
令
幸
59.131
辞
子
59.12.31
58112.31
勧奨退職
島
昇
任
採
用
職
備
考
東大震研助教授ヘ
(講 師以上 )
物 理
講
住友重機 KKヘ
員)
(職
事
務
給与掛主任
鈴 木
雪
物
理
技
吉
博 介
地
質
教務職員
市 り
‖ 健
雄
化
学
技
官
高
橋 一
郎
情
報
技
官
池
田 俊
春
情
報
技
官
佐
藤
紀
官
川
安
辞
59 1.1
昇
59.1.3 死
59.1.31辞
592.16 採
職
地質助手ヘ
任
亡
職
用
理 学博士 の学位 授 与者
25日 付 理 学 博 士 の 学 位 授 与 者
〔昭 和 58年 4月 ‐
専 門課程
論
文
博
氏
士
同
名
論
文 博
士
相 関 理 化 学
文
題
目
佐
野
有
司
に お けるヘ リウム同位 体比 の分布 と地 質構 造
日
と否 ⑮景
福
原
真
ニ
ホモ ロ ジー・ レンズ空間 の或 る不変量 につ いて
〔
昭和 58年 5月 23日 付理 学博 士 の 学位 授 与者
論
(2名 )〕
北 川
相
原
正
(5名 )〕
円
大腸菌 の リボゾームタ ンパ ク質 に関す る遺伝学的研究
博
連続発情および連続非発情動物 の子宮 におけるエス ト
ロジェン受容機構
-15-
専 門課程
名
氏
文
題
目
修
転写活性 な ク ロマ チ ンに おけ る ヒス トン分子 の アセ チ
ル化機構
毅
海岸砂丘 にお け るオオ マ ツ ヨイグサの個体群動態 と生
活史戦略
秋 山 伸 一
飛弾変成帯の地質構造 と神岡を中心とす る鉛・亜鉛鉱
床の鉱化作用について
生
物
化
学
越
尾
論
文
博
士
可
知
同
論
直
〔昭和 58年 6月 27日 付理学博 士 の学位授与者 (9名 )〕
論文博士 大門 寛
1見
同
住
篤
子
繁
喬
覇ヾ
量
][:撼 碁
李
誓
詭
瑾
繁
雪著
婁
¥蒼
:菫
自
励起 子 の共 鳴 2次 光学 スペ ク ト
ル得 畠塀暑彊皐 詫緋 臭
│
同
曽
根
同
邑
田
同
佐 野
同
坂
牧
同
水
同
同
純
一
超伝導微粒 子 の核磁気共 鳴 の研 究
仁
日本産 テ ンナ ンシ ョウ属 (サ トイモ科 )の 分類学 的研
究
茂
GL(n,
c)/GL(n,R)上 の不変帯球超関数と
ー
フ
リェ逆 変換公式
夫
異常散乱 因子 の測定 と位相決定 へ の応用
谷
明
逆 Sturm― Liouvillo問 題 につ いて
大
島
治
榛 名火 山 の地質 。岩石・ 鉱物学 的研 究
宮
島
紀
ア モル フ ァス相希土類鉄 合金 薄膜 の 磁気 的性質
俊
英
昭 和 58年 7月 18日 付 理 学 博 士 の 学 位 授 与 者
〔
論
平
低原子価 スズ を用 い る選択 的合成反 応 の研 究
邦
嗣
溶液中 に あ る自然状態 DNAの 動 的光散 乱特性
本
博
司
体電解質濃淡電池 を用 いた 白金上 の CO酸 化反応 の
昇究
原
貞
次
吸着斉1を 用 いた有機化学 反応
繁
信
田
裕
一
州・ 四国 。九州産 トリカ ブ ト属 トリカブ ト亜属植物
食 キ ンポ ウゲ科 )の 分類学 的研究
加
瀬
友
喜
本邦前期 白亜紀 海生 及 び汽 水 の腹足類
上
田
芳
文
レーザ ー シュ タル ク分光学―-14NH3 ν2基 本帯 にお
け る一 事例研究
原
田
同
曽
田
同
岡
同
千
同
林
同
門
同
向
文
博
士
(8名 )〕
NMRに
よ る金 属水素化物 の研 究
〔昭 和 58年 9月 26日 付 理 学 博 士 の 学 位 授 与 者 (11名 )〕
論
文
博
士
大
西
弘
ピン 1お よび 3/2の 粒 子 の 弾性 散 乱 に おける偏 極
査
量 とス ピン依存 力 との関係
―
-16-―
専門課程
植
論
物
文
博
文
博
名
論
文
題
目
田
雅
孝
水銀 トラ ンスポゾ ン Tn 501を 用 いた緑膿菌 の遺伝解 析
士
先 砥
庸
治
ピロ リジ ′誘導体 を用 いるァル デ ヒ ドの不斉 合成 および
光学活性天然有機化合物 の 合成 の研 究
学
崎
山
雅
行
有 限領域 内 にお ける二 次元偶糸群 の平衡状態
士
山
本
明
大強度低 エ ネル ギ ー K中 間子 ビームに関す る研 究
夫
セイ ヨウ トコブシ Haliotis tuberculataの 繁殖生態
津
理
物
論
氏
同
林
同
大
田
同
中
西
育
同
秀
和
栄
郎
輝
同
月ヽ 川
桂一郎
同
柳
正
澤
久
生
響
競滑
是
量Z後 蒸品
慾燿奪ア
ツ璧
言
墨書
雰
黒杏
裂
曇生
おける
物に
分
相
互作
子内
用
亮
撃
萬苺まか
ガ
尭挙品
砦臭
に
よっ
て れる
奎
唇寡;女 ソ
了型
房
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蒼
腔
基熱源 励起さ
よ環
塩に
1)で ワ
告涙施誓
要
≦
星晨
ag笠 藤
差
量露
馨 る
MAGSATデ ー
タ
から
地
殻
磁気
異常を
求める
方法
:
〔昭和 58年 10月 24日 付理学博士 の学位授与者 (4名 )〕
論
文
小
安
重
夫
同
加
藤 信
一
ン
・イ
ル
群のKazhdan_Lusztig多 項式につい
モフィ ヮ
同
加須栄
篤
ラプ ラ シア ン及 び ヘ ッシア ンの比較定理 の応用
同
佐
博
士
藤
文 廣
ニ ラ ;づ 各 6基 臼響
胞分裂・ 細胞周期 に伴 う形態成 とペ
概均質 ベ ク トル空 間 に付 随す る多変数 ゼ ー タ関数
〔昭和 58年 ‖ 月 2:日 付理学博士の学位授与者 (7名 )〕
文
博
同
原
正
小
山
晃
信
.同
朝
倉
弘
清
田
正
伊
達
野
原
文
博
同
星間電離 水素領域 にお け る水素原子 の準位停在数
生す
閻
た S02の 霜 の反射 S"dね ―
Lの
表
有機 分子性結晶 の物性
墨二塁墜重 Theobald幼 虫 の浸
逸奎畠晶だ畠手 ぞ務 菱号
夫
郎 人
山
子 修
若
一
一
日日
同
数
論
篠
雄 一
論
倍警
9の 基本可換ディフェク ト群を もつ 3-ブ ロックにつ
秋 田県深沢黒鉱鉱床周辺 の変質 に関す る研究
平洋地域 マ ンガ ンノジュール と随伴堆積の地球化学研
発
-17-
〔昭和 58年 12月 19日 付理 学博 士 の 学位 授与者
専門課程
氏
名
文
論
(9名 )〕
題
目
学
甲 斐: 直
行
深
衝突 における大質量軽
g辟 孟
粒輩寿跡警舌受
罪辱塚こ
士
肥
後
―
ボソ ム タ ンパ ク質 の分子進化 に関する生化
細
学配群奥
学
伊
藤
敦
真空紫外線の酵母細胞 に対す る作用の研究
地 球 物 理 学
藤
部
文
昭
関東地方の海陸風 に関す る研究
論
秋
山 孝
子
梅雨前線 の構造 と維持 についての観測的研究
同
谷
川
隆
制限三 体問題 における逆行衛星捕獲 の不可能性
同
徳
山 英 一
物
理
論 文 博
理
物
文
博
士
健
清
落晨亀義属進
海の四国海盆と大東海嶺域 の海洋地質 と
同
藤
岡
換太郎
日 海溝域の火山性堆積物 と東北 日本孤新第二 紀噴火
活藝
同
水
野
浩
地
化 の変動 にみ られる間欠性 と,急 速な変
動雰尋沓鍛奮
雄
〔昭和 59年 1月 23日 付 理 学博 士 の 学位授 与者
(5名 )〕
日本人にお ける補体系成分 C2,C4,C6お よび BFの
遺伝的多型現象に関す る研究
人
類
学
徳
永
物
理
学
片
岡 良 一
士
井 上
雅
夫
相模湾の堆積物中 に含まれる海綿骨片の供給過程 の研
究
同
中 川
憲
夫
超対称性 の ある素粒子模型 と径数に対す る制限
同
枡
田 幹
也
論 文 博
勝 士
二価陽イオ ンと筋小胞体の相互作用
コ
イ ↑素
海
渡
外
(i
所属
官職
氏
名
航
渡航先国
物
理
助教 授
堀
田
凱
樹
アメ リカ合衆 国
物
理
助
白木原
康
雄
連
物
理
助教授
徹
イ
江
口
合
王
ン
者
月)
化 学 助教授 奈良坂 紘 ― メ
子ノ4食秀ヮ1・
手
ロ ジ 複 素射影空間上の トー ラス作用 の整 ウェ
渡航期間
1∼ 1.13
1 8∼ 1.15
渡
航
目 的
花挙だ菖了Z群 羹辱番ど富雷兌
云
日米科学協力事業 セ ミナ ー「視興
奮 の分子機構 」 に 出席 のため
国 :♀ Ь∼ ♀l.6 生物物理学 に関す る研 究 のため
ド
1.3.∼ 1.24高 エ ネル ギ ー物理学理論 に関す る
調査・ 研 究 の ため
18-―
所属
官職
氏
名
渡航先国
渡航期 間
物
理
教
授
小
柴
昌
俊
アメ リカ合 衆国
1 3∼
情
報
教
授
國
井
利
泰
アメ リカ合 衆国
1 6∼ 112
1.21
渡
航
目
的
素粒子物理学 に関す る研 究及 び I
C O B A N1984会 議 出席 のため
IEEE(米 国電気電子学会 )コ
ンピュー タグ ラフィ ックス &ア プ
多
票単
幾
;ズ 英
桑老
♀零
呑貪葬
夢
るため
'
物 理
教
植物園 教
馬 朗
人
イ ス ラエ ル
1.6ん
岩 槻 邦
男
マ レ ー シ ァ
1.8∼
授 有
授
1.23
“高 いス ピンを持 つ核準位 の電磁
気 的性質 "の 研 究会 出席 のため
1.16
調査 のため
物
理 助教 授
小 林
孝
嘉
1.9∼
アメ リカ合衆国
に お ける学術 の現状
1.16
助 教
学 報
数 情
醤な球学機羅〒青 占鳥 ム 死」
手
小
澤
授
山
田
尚
真
ア メ リカ合衆 国
1.12^‐
勇
アメ リカ合衆 国
1.11- 4.22
6 25
ラ ンダ ム媒質 の数理 の研 究 のため
写ξ 磁 墨鐙ど合尭智
物
理
地
質 教
助教授
授
正
治
アメ リカ合 衆国
115∼ 123
久 城 育
夫
オ ース トラ リア
1 22- 1.29
永
宮
理
教
授
宮
本
健
郎
オ ー ス ト リア
1.14∼ 1.29
遺伝子
実験施
設
講
師
米
田
好
文
アメ リカ合 衆国
1.28^ψ 3 11
地物研
助教 授
業会議 出席 の ため
斎易換虎晶基授惨兵 喬屏勇寿警客
せ のため
国
分
征
1.29- 2 10 OPEN・ 科学 ワー キ ンググル ー
アメ リカ合衆 国
(2
質
地球化 学国 際研 究集会
INTOR作
f倉
地
能 の研究 に関
ベバ ラックにお ける高 エ ネル ギ ー
重 イオ ン反応 の共 同実験 のため
膏辱 ぁ更縁
物
視興
助
手
伊
藤
谷
生
実
験
予定
者
普ぎに
惚同
島雪
暮
月)
ニュージランド
2.5∼ 3.6聾
に
奏
含
言
孟
】F突認
貫
菫
需
[昔
化
地
学
質
助
教
手
授
小
飯
杉
山
信
敏
博
道
連
フ
合
王
ラ
ン
国
2.2∼ 3.16分 子計算化学 にお け る スーパ ー コ
ス
2.21∼
ンピュー タ利 用 の研究 の ため
3.5変
痣蜃房
素粒子
助教授
戸
塚
洋
ニ
ドイッ連邦共和国
精度 観測 に関す る調査研
2.22∼ 3.17国 際協 同実験電子・ 陽電子衝突実
験 のため
物
理
素粒子
教
助
授
手
猪
佐
木
藤
慶
朝
治
男
ラ ン ス
ス
イ
2.26∼ 3.21第 19回 モ リオ ン ド会 議 出席及 び高
ドイツi蓼 隣 沐口
国
2.26∼ 3.21国 際協 同実験電子・ 陽電子衝突実
フ
ス
エ ネル ギ ー物理学 に関す る研究連
絡 の ため
験 のため
物
理
助教授
釜
江
常
好
アメ リカ合衆 国
2.24∼ 3.17 日米科学技術協 力事業 「電 子・ 陽
電子衝突型加速器 によ る新 粒子検
出実験 」 に参加 のため
-19-
・
「
名
渡航先国
渡航期間
数 学 助 手 真 島 秀‐行 フ ラ ン ス
228∼ 3.27斃
化 学 教 授 朽 津 耕 三 ァ
カ
国 225∼ 卸
警
1リ
糧
撃
言
I冒
婁
参
発
量
方程式の特異点の研究連絡の
雀
度協 議 覇 勇
7奨 』:勇層
編 集 後 記
今号は恒例に従い,停年ご退官の先生方の記事、
を中心に編集 しました。これにて,私 も編集担当
の任務を終え,い ささかほっとしております。随
分 と無理なお願いもしましたが,快 く原稿をお書
きいただいた方々に厚く御礼‐
申 し上げます(尾 本)。
―-20-―
よる
およ
子に
連合王国2年 ∼33曇
航 目 的
渡 ‐
動
生
三
隅
化 学 教 授
田 ,
官職
氏 所属
あな│た ですノ
火事 を出‐
すの も
矢
崎
松 野
露
木
1酬
尾
本
紘 太 孝 篤 恵
壌詐肇::│
一
(物 理)
1線
内
4123‐
郎 婉効 )
4‐
彦 (lLり
4357
平
4544
(鉱 物)
市 ひ鋤
2‐ 991
4482