Kanazawa University 本会は、平成 13 年4月に「医学科における学生の教育事業 を後援するとともに、学生の課外活動の援助を通して、学生生 活を豊かにし、有意な人材の養成に寄与することを目的にす る。」という趣旨から、医学科に在学する学生の保護者等によ り金沢大学医学部医学科後援会として設立されました。 その後、「金沢大学医学部医学科後援会」は、平成 17 年4 月に「金沢大学医学部医学科医王保護者の会」に、平成 20 年 4月に学域再編による学部名称の変更に伴い「金沢大学医学部 医学科医王保護者の会」は「金沢大学医学類医王保護者の会」 に名称変更しました。 1 2 初代会長 川上 究 平成 13 年卒業 奥田 実穂 平成 14 年卒業 池田 篤平 平成 15 年卒業 北島 信治 平成 16 年卒業 加 藤 健一郎 平成 16 年卒業 山本 剛史 平成 17 年卒業 齋藤 順子 平成 18 年卒業 斉藤 千鶴 平成 19 年卒業 細川 晃平 平成 20 年卒業 飯塚 崇 平成 21 年卒業 樋口 貴史 平成 22 年卒業 武居 亮平 医学部医学科後援会 平成 23 年卒業 吉 村 かおり (黒田) 平成 24 年卒業 高辻 樹理 平成 25 年卒業 野田 昌生 平成 26 年卒業 岩元 香奈 平成 26 年卒業 水野 隆史 蒲田 敏文 医学類医王保護者の会 会長 3 医王保護者の会 発足 15 周年にあたって 初代会長 川 上 究 医王保護者の会発足 15 周年。立ち上げ時に関係したものの一人として大 変喜ばしく、心よりお祝いを申し上げます。 また、感慨深いものがあります。もう 15 年経ったのか?一方で、まだ 15 年しか?という思いが交錯しています。正直日常にあっては会のことを あまり思い出すことはありません。しかし、最初に会長にと声を掛けていただいた時に、どの部屋で 電話をとったのか、また困惑した気持ちをもったことなど、今回原稿依頼をいただいたときに、はっ きりと思い出しました。「金沢のマブチさんからお電話です」との連絡で、確かナースセンターの電 話をとりました。金沢のマブチさんといえば馬渕教授しか浮かばないが、何事だろう、まさか直接ゴ ルフのお誘いなどあり得ないし、などと軽い気持ちで電話をとりました。 お話の内容は全くの予想外で、学生後援会を立ち上げるので、会長を引き受けろ、というものでし た。親子三代お世話になっている大学でもあると思い、何をすれば良いかも判らないまま、非常に困 惑しながら引き受けてしまったことを思い出しました。 会立ち上げ後の最初の総会は大変緊張しました。総会には私が敦賀に帰るまで、大変お世話になっ た先生方が壇上に並んでおられ、その先生方の前で会長として挨拶をしなければならなかったので、 何を語ったか訳もわからず終わったように記憶しています。総会に出席された保護者の方も期待した ほど多くなく、これから会を認知していただくのは大変なことだなと感じたことを思い出します。 事業としてまず思い出されるのはB型肝炎ワクチンの接種と国家試験対策費を出すというもので、 保護者会に入会していなくても利用していただくことにしたと思います。その他図書館の方にもお願 いし、学生の勉強の励みになる何らかの賞を創設しようということも議論されました。また、会の名 前をつけようということになり、医王山からとってはどうかという意見を提案し、次の会長さんの代 に「医王」と命名されたということを聞き及んでいました。新しい病棟が完成した時に多くの代議士 の方がご挨拶の中で、新しく学生後援会が発足したことを紹介された後、非常に緊張して乾杯の発声 をしたことも懐かしく思い出されます。 私が最も望むところは、卒業生と大学の結びつきをさらに親密に強固にする活動ができないものか ということです。私立大学の保護者の会などは大学ともっと近い関係にあるように思われます。学生 の時はもちろん、卒業してからも一体感が強く、関係が親密・強固で、大学に対する愛着も強いよう に感じます。当保護者の会がこのような面でも力を発揮していただくことを希望いたします。 最後になりますが、医王保護者の会、金沢大学医学部の益々のご発展と、学生・卒業生の皆さんの ご活躍ご発展をご祈念申し上げ、保護者の会発足 15 周年のお祝いの言葉といたします。 4 平成 13 年卒業 奥 田 実 穂 はじめに寄稿のお話をいただいた時は、医王保護者の会??といった感じ でしたが、平成 13 年発足とのこと、私が学生時代にはまだ存在していなかっ たようです。今回縁あって寄稿の機会をいただきましたので、卒業後まだ短 いですが、今までの足跡を振り返ってみようと思います。 私は平成 13 年に金沢大学を卒業、画像診断と IVR(血管内治療)を志 し、金沢大学放射線科に入局、医師としての第一歩を踏み出しました。現在 義務化されている臨床研修制度はありませんでしたが、当時のカリキュラム に沿って、1 年目は放射線科と共に、内科系として救急 /ICU で2ヶ月、外 科系として産婦人科で2ヶ月、病院病理部に1ヶ月、ローテーションで研修を受けました。産婦人科 ローテーション時には金沢大学病院の新病棟移転もあり、入院患者さんに付き添っての引っ越しも経 験しました。この研修時、卵巣出血の緊急手術を終えて深夜医局に戻ってつけたテレビで 9・11 テ ロが報道されており、何かと記憶に残る研修でありました。1 年、2 年目は、金沢大学病院でエコー、 Xp、CT、MRI の読影、血管造影の様々な手技、学会発表などたくさんの事を学びました。3年目は 富山県立中央病院で、臨床の第一線でひたすら経験と知識の向上に邁進し、4、5、6 年目は大学に 戻り大学院生として研究と臨床を、6 年目に放射線科診断専門医試験に合格、7 年目から 9 年目にか けて福井県済生会病院で、再び臨床の第一線で診断および IVR に全力投球の日々を送りました。この 頃までに、放射線科医としての基本ができてきたように思います。 大学院は3年目に入学しました。研究は当時臨床で行われていた大動脈治療の一手段としてのステ ントグラフト治療と関連させて、ブタ大動脈に線維芽細胞増殖因子を含浸させたステントグラフトを 留置し、その生体反応を検討するという内容でした。研究目的から材料、方法から実験遂行にいたる まで、先輩方の助言を得ながらも自分で決めて行うという経験は非常に貴重で、論文発表、学位審査 を経て学位取得に至った時はかなりの達成感を感じました。 私ごとですが、6 年目に結婚、9 年目、11 年目、13 年目に出産、現在は 6 歳、4 歳、2 歳の子育て真っ 最中です。いずれも産後 4 〜 6 ヶ月でフルタイム勤務に復帰しましたが、復帰先は医局の配慮で院 内託児所のある病院であり、急な発熱などにも対応していただき、医局や病院、周囲の方々に温かく 見守っていただいたおかげで、なんとかやってこれることができました。現在は大学病院におります が、朝カンファレンスから 17 時半までは放射線科医、その後ダッシュで保育園にお迎え、帰宅して 食事をし、子供たちと少し遊んで、お風呂に入れて、寝かせて、夜にほんの少しホッとする、そんな 毎日を送っています。家族の協力を得て時折カンファレンスや研究会に参加し、なんとか社会につい ていこうと頑張っています。 後輩に対するアドバイス、なかなか立派なことは言えませんが、とにかく、若いうちになんでもやっ ておくことです。本、特に大作を読む、遠くに旅に出る、楽器の練習をする、時間がないとできない ことばかりです。時間は作るものではありますが、とにかく、人生楽しく忙しくなると時間はない、 どんな時も今を生きる!という貪欲さを失わず、熱く突き進んでいきたいと思います。 5 平成 14 年卒業 池 田 篤 平 私は 2002 年に金沢大学医学部を卒業しました。いわゆる旧研修制度で したので、卒業と同時に進路を決める必要があり、金沢大学の神経内科に入 局しました。 卒業 1 年目は金沢大学で 6 ヶ月神経内科、3 ヶ月循環器内科、3 ヶ月救急部・ ICU で研修を行いました。その後、2 年目から 4 年目は石川県立中央病院、 富山市民病院、金沢医療センターで救急診療に携わりました。旧研修制度 でしたので、現在の研修医とは違う扱いになっていたと思います。その後 5 年目から大学院に入学し、2 年間大学病院で臨床に携わり、7 年目からは研 究を主に行っていました。研究テーマはアルツハイマー病で、2 ヶ月のみですが、UCLA へ留学にも 行くことができました。卒業後は 3 年間、医王病院で障害者診療に従事しました。現在、金沢大学 病院で勤務し、外来・入院を含めた臨床、学生・研修医への教育、研究活動を行っています。 アドバイスとしては、研修病院に関しては、できるだけいろいろな病院を回った方が明らかに勉強 になります。ガイドラインが整備された現時点であっても、病院の文化によって医療の選択枝が違い、 各々の良いところを吸収することができます。科や病院を自由に選択できる現行の研修制度がうらや ましいと思います。また、大学院進学について、研究を続けるのかはともかく、一定期間大学院で研 究を行い、エビデンスと呼ばれるものなどを批判的に評価できる視野を身に付けることが可能になる と思います。 平成 15 年卒業 北 島 信 治 はやいもので、金沢大学医学部を卒業し、もうすぐ 13 年になろうとして います。13 年の月日は長いようで短く、この間に授かった長女と双子の次 女と三女はそれぞれ来春、中学校と小学校に入学します。彼女たちの成長に、 感動と驚嘆の念を覚える一方で、自分はこの間にどのような道を歩み、何を 成してきたのだろうと考えてしまいます。 旧体制の卒後研修制度の最後の年に医師免許を取得した私は、卒業後すぐ に、恒常性制御学(旧第一内科)に入局しました。最初の 1 年間は金大病 院での研修でしたが、振り返れば、最も過酷で充実した 1 年間だったと思 います。当時は逃げ出したくなる場面も多々ありましたが、医師となって最 初の 1 年で指導頂き、経験したことは、自分にとって貴重な財産となり、現在まで、幾度となく自 分の背中を押して助けてくれたと思います。その後、基礎研究も開始し、金沢市内の基幹病院を中心 に勤務し、諸先生方に支えられながら診療と研究を続けさせて頂きました。9 年目より再び大学病院 勤務となり、臨床・研究に加え、学生や研修医の指導も担当させて頂いております。当初、私は臨床 を中心に頑張りたいと思っていましたが、研究や教育に携わる機会を頂きました。その中で年代や職 種を超えて、多くの方との交流を得ることができ、今でも大切な縁となっています。自分一人では決 して経験しえなかった事、やり遂げられなかった多くの事を思うとき、選り好みせず何事にも熱意を 持って取り組む姿勢の大切さと、関わって頂いた方への感謝の念を強く感じます。 みなさんも卒業後、転機となる機会に度々巡り合うと思います。時には自分にとって、辛く険しい 選択もあり、挫折を経験することもあるでしょう。しかし、日々、情熱と感謝の気持ちを忘れずに事 に臨んでいれば、たとえ挫けても誰かが救いの手を差し伸べてくれると思います。臆することなく、 情熱と感謝の気持ちを忘れずに、何事にも挑戦し続けてほしいと思います。 6 平成 16 年卒業 加 藤 健一郎 私は、2004 年 3 月に金沢大学医学類(旧医学部医学科)を卒業し、初 期臨床研修義務化初年度の学年として、同年 4 月から金沢大学附属病院で の研修医生活を開始しました。進路選択に関しては、当初は漠然と自分は内 科が向いているかな、程度で考えていましたが、大学病院・市中病院での研 修により様々な診療科・臨床現場を目の当たりにして、次第に内分泌代謝の 世界(ホルモンのネットワーク・身体調節機構 ) に引き込まれていきました。 2006 年 4 月に恒常性制御学(旧第一内科)に入局し、糖尿病・内分泌 代謝を専門とすべく、金子教授、篁教授をはじめとした指導医の先生方のご 指導のもと、日常臨床・臨床研究等に励み、各専門医・学位を取得させていただきました。内分泌・ 代謝の魅力は、①学問的な魅力に加え、②臨床では患者さんの背景・全体像も把握した上で個々に応 じた介入を検討できること(患者さんとよく話す、担当医のさじ加減)、③様々なライフスタイルの 中で活躍の場があること(ママさん Dr. など)、などであると思います。 現在は、内科(内分泌・代謝)医として富山県立中央病院に勤務し、地域の中核病院の一員として の責務を果たせるよう、努めています。忙しいながらもやりがいがあり、内科(内分泌・代謝)を選 んでよかったと感じています。 後輩のみなさん、進路選択に際しては、自分の興味・将来(20 年 30 年後)の自分の医師像など を考えてみてください。きっと、内科(内分泌・代謝)は、みなさんを明るい未来に導いてくれるも のと確信しています。 平成 16 年卒業 山 本 剛 史 金沢大学附属病院手術室で麻酔科医として勤務している山本と申します。 この度、記念すべき 15 周年記念号発刊に際し寄稿の機会をいただきました。 後輩の皆様へのアドバイスなどを含めて心に残っているエピソードを一つご 紹介させていただきます。 麻酔科の研修にもようやく慣れてきたころ、自分の担当症例が朝の時点で 延期となってしまいました。中止の知らせを聞いた私の口から「午前の仕事 が急に無くなってラッキーですね」という言葉がこぼれでるのを聞いた指導 医は、そっとこう言いました。 「先生、手術室にくる患者さんはね、たくさんのものを犠牲にして不安と恐怖を抱えながらやっと手 術にたどりついてきてるんですよ。手術が中止になって喜ぶような麻酔科医になってはいけません よ。」 医師の道は、経験の積み重ねや技術や知識の習得によって前進していくものですが、医療は決して 私達のためにあるのではない、患者さんのためのものでなければならないという根っこの部分をあの とき教えられました。大学で麻酔科医の仕事を始めて早 10 年、今では指導医として研修医の先生方 に麻酔を指導する立場になってしまいました。今でもときどき当時の私と同じような気持ちになって いる若手の先生を見つけたときは、同じ言葉を送っています(ただし、「これは僕の師匠の受け売り だけどね」と付け加えて…) 7 平成 17 年卒業 齋 藤 順 子 私は金沢大学を卒業後、金沢大学(1 年間はたすきがけで富山赤十字病院 にて研修)で初期臨床研修を終え、放射線科に入局しました。現在、卒後 11 年目になります。金沢大学、富山赤十字病院、黒部市民病院を経て、富 山県立中央病院で勤務しております。 さて、当院の放射線診断科の主な仕事は CT・MRI の読影と IVR ですが、 妊娠・出産を機に通常業務としての IVR のコマからは外れているので、もっ ぱら CT・MRI の読影をしています。他には技師さんの超音波検査のチェッ クを行っており、また週に 1 日マンモグラフィーの読影を担当しています。 たまに小児外科の医師から急性虫垂炎疑いや精巣捻転疑いなどの小児の超音波検査を直接依頼されま す。昼食時以外はモニタとにらめっこし、何かしらの仕事をしている忙しい病院です。時間外勤務と しては、4 週に 1 週の割合で電話待機当番があり、他科からの緊急読影、緊急 IVR の依頼に対応し ています。夜間・休日の急な呼び出し時は、母に子供を見てもらっており、私が常勤として働けるの は母のおかげだと感謝しています。 私が放射線科を選択したのは、全身くまなく診ることができるからですが、まさに現在「頭のてっ ぺんからつま先まで」読影しています。画像診断医としては未熟な点も多いですが、入局して 10 年、 全身を診ることはできるようになったかなと思います。後輩のみなさん、 「10 年後の自分」を想像し て日々研鑽を積んでください。 平成 18 年卒業 斉 藤 千 鶴 平成 18 年卒の斉藤千鶴です。現在、石川県立中央病院血液内科で勤務しています。 私は横浜栄共済病院で初期臨床研修を行い、血液内科を専門とするために金沢大学第三内科に入局 し現在に至ります。 学生時代は血液内科に対して難しい分野というイメージが強く苦手でした。しかし実習や研修医時 代に担当した血液疾患の患者さんが、最初は非常に悪い状態であったのに化学療法でみるみるうちに 元気になっていく過程を目の当たりにし、強く興味を持つようになりました。実際に血液内科では診 断から治療までの全てをコントロールしていきます。以前は不治の病であった領域ですが、今もそし て今後も治療方法がどんどん発展していくため救える患者さんも増えてきています。治療は辛いもの ではありますが、それを乗り越えて退院し、元気な笑顔で外来診察室に入ってくる姿を見ると言葉に ならない感動を毎回覚えます。これは私にとって大きなモチベーションとなっています。また血液内 科は臨床と基礎研究が一体となっていることも特徴的です。臨床医として研究者として日々の研究成 果がすぐに患者さんの治療につながることも実感でき、目覚ましい進歩を必死で追っかけながらも常 に新しい刺激を受けることができます。 こんな感じで医師になってからあっという間に 10 年が経ちましたが、チーム医療のリーダーであ る医師としては柔軟なバランス感覚がとても大切だと思っています。広い視野であらゆる側面から思 考できるよう、勉学はもちろんですが多くのことに興味を持って世界を広げることをぜひみなさんも 意識してみて下さい。 8 平成 19 年卒業 細 川 晃 平 私は 2007 年に本学医学部医学科を卒業し、虎の門病院にて 2 年間の初 期臨床研修を行いました。非常に忙しい研修でしたが、この 2 年間で医師 としての基本的な姿勢を身につける事ができました。学生時代から「内科で 癌を治したい」という思いがあった私は、内科的に治癒が可能な血液悪性腫 瘍の臨床・研究に興味を持ち、2009 年に金沢大学旧第 3 内科(血液・呼 吸器内科)に入局しました。入局後は血液内科医として化学療法や造血幹細 胞移植を中心とする血液内科診療を学びました。主治医として最新の文献を 取り入れながら新しい工夫を行う事で、難治性の血液疾患の患者を救命でき た時の喜びは何ものにも代えがたいものでした。一方で、現在の医療では救命し得ない患者との出会 いは、研究に対する情熱を湧き起こさせました。大学院(細胞移植学)では中尾眞二教授の御指導の 下、再生不良性貧血を代表とする造血不全の病態に関する研究を行い、2012 年に博士号を取得しま した。さらに研究者として研鑽を積むべく、2013 年 10 月よりアメリカ国立衛生研究所 (NIH) に客 員研究員として留学しております。造血不全研究の世界的権威である Dr. Young のもとで、世界中 から集まる優秀な研究者・医師らから刺激を受けながら、臨床に役立つ新たな知見を見出すべく日々 奮闘しております。在学中の皆様に対してアドバイスができるとすれば、在学中から様々な分野に興 味を持ち、将来これをやりたいというものを見つける事が重要かと思います。また、何事に対しても 納得のいくまで自分の頭で考えて答えを出すように心がけて下さい。本学を卒業される皆様のご活躍 をお祈りしております。 平成 20 年卒業 飯 塚 崇 2008 年卒業の金沢大学附属病院産婦人科の飯塚崇といいます。この度は、 この金沢大学医学類保護者会発足 15 周年記念号の保護者会だよりに寄稿さ せていただけることを大変光栄に思っております。 私のこれまでの経歴ですが、卒後臨床研修は金沢大学附属病院とのたす きがけで、1 年目を七尾の恵寿総合病院、2 年目を附属病院で行いました。 研修医の時は、救急や集中治療に興味があり2年目は集中治療部で半年近 く研修し、重症疾患の管理や、学会での発表などでとても充実した研修を 行いました。その後、3 年目より金沢大学附属病院産婦人科に入局しまし た。3 年目以降は北陸 3 県の関連病院の産婦人科に勤務し、産婦人科医としての修練を積み、2014 年の 4 月より大学院博士課程入学のため大学に戻ってきています。久しぶりに BSL や医学展などで 学生と触れ合えて、学生時代のことをとても懐かしく感じています。現在は大学院 2 年目で、研究 が中心ですが、臨床では主に周産期、特に出生前診断を専門としています。 大学生活を満喫されている学生さんは、是非今興味があることを頑張って欲しいと思います。私は バドミントン部で 6 年生の 3 月までしていましたし、当時は産婦人科医育成のサークル活動で宮崎 県まで研修に行ったりしました。学生時代に培ったことが、果たして将来役に立つかどうかは誰にも 分かりません。今、皆さんが頑張っていること、それがバイトでも勉強でもサークル活動、その他趣 味でもいいですから、それを医学生の忙しい合間でも続けていくことが、最終的には自信に繋がると 思います。 今後の皆さんのご活躍を心よりお祈り申し上げます。 9 平成 21 年卒業 樋 口 貴 史 平成 21 年卒業の樋口貴史と申します。私は金沢で生まれ、金沢泉丘高校、 金沢大学医学部医学科を卒業し、初期研修修了後に金沢大学整形外科に入局 しました。入局後は福井、高岡の関連病院で働き、今現在は附属病院の医員 として日々の診療を行いながら、片や大学院生として研究を行うなど、毎日 忙しく過ごしております。若い医師の大学離れが叫ばれるようになり久しく なりましたが、医局に入り、大学院生として学位取得の道を選択したのは、 やはり最先端に身を置きたいという気持ちがあったからだと思います。医療 の世界では、どの分野も細分化されるにつれ、高い専門性が求められるようになっています。そのた めにも、最新の情報や知見についていくことが必須になりますが、医学が日々、進歩・変化する中で それは簡単なことではありません。大学院生になり、研究はもちろん国内や海外の学会発表も幾度と 行いました。そんな中で最新の知識を得るための方法や習慣が自然と身についたように思いますし、 今後の自分の人生の中で必ずや役に立つと思っています。もちろん診療しながら大学院生をするのは 大変なことですが、そこは大学や医局の先輩方にご指導頂き、助けてもらうことで続けることができ ています。日ごろ、面倒見ていただけていることに感謝するとともに、卒業生として、医療の最先端 に身を置くべく後輩たちにも自信もって、この環境(金沢大学)をお勧めしたいと思います。 平成 22 年卒業 武 居 亮 平 私は 2010 年度に金沢大学医学部を卒業しました。卒業後は消化器外科 専門プログラムで 2 年間の初期研修を終え、消化器・腫瘍・再生外科学(旧 第二外科)教室に入局しました。その後 3 年間は大学病院を中心とした地 域の中核病院で臨床医として日常診療、手術、周術期管理について学び、現 在は外来医として診療を行う傍らで、大学院に入学し発癌に関する基礎研究 を行っています。 これから卒業され、初期研修医として活躍される後輩の方は卒後の進路に ついて悩まれている事と思いますし、私も悩んだ経験があります。振り返っ てみて思う事は、研修病院選びや専門とする診療科の選択も大事ですが、充実した初期研修生活を送 るためには、どんなことにでも一生懸命取り組む姿勢、問題解決のために学び続ける姿勢が最も重要 であり、そうした姿勢を初期研修で培っていく事がその後の医師としての飛躍の礎となるのだと思い ます。また研修先で悩みや問題を共有し、切磋琢磨出来る仲間がいれば自分の経験が何倍も価値のあ るものになると思います。実りある初期研修となり、患者様・医療スタッフから信頼される医師とな れるよう願っていますし、私もまだまだ未熟ですので先生方の努力に負けないように頑張っていけた らと思っています。 10 平成 23 年卒業 吉 村 かおり (黒田) 私は、平成 23 年 3 月に金沢大学医学部を卒業しました。今年出産した ため現在主婦生活をしています。参考になるか分かりませんが、自分の卒後 を振り返りました。 私は 2 年間の初期研修を終え、金大の内科の医局に入局しました。一年間、 大学病院で内科全般の後期研修を行い、結婚について考え始めたのは、市中 病院へ赴任した卒後 4 年目の春でした。秋に結婚することが決まり、結婚 後すぐに妊娠がわかりました。妊娠中は体調が優れないこともあり、当直を 外していただくなど業務変更をお願いしたりしました。翌春に退職しましたが、妊娠しながらも市中 病院で 1 年間なんとか働き続けられたのは、周りの先生方にたくさんご配慮いただけたおかげだと 本当に感謝しています。 学生時代は自分がまさか 20 代で結婚、まして出産するなど考えていませんでしたが、タイミング よく夫と出会い、かわいい子供が自分たちの元に来てくれたことをとても幸運に思います。夫は医療 関係ではありませんが、仕事に対する理解もあり、家のことなど積極的に協力してくれます。今は仕 事と離れた生活をしていますが、いずれ自分に合った形で復帰したいと思っています。実習中に担当 患者さんに言われた、『病気ではなく人をみる医者になってね』という言葉がずっと自分の中にあり ます。それは今、医療を受ける側になって改めて感じます。経験したことを無駄にせず、仕事と家庭 を両立していけたらと思います。 平成 24 年卒業 高 辻 樹 理 平成 24 年 3 月に卒業し、医師として働き始めて 3 年半が経ちました。 富山県立中央病院で 2 年間の初期研修をした後、金沢大学眼科に入局し、 今年の春からは市立砺波総合病院で働かせて頂いています。今でも時々、宝 町キャンパスの講義棟で授業を受けていたことをふと思い出して懐かしくな ることがあります。 現在の仕事内容としては、毎日午前中の外来診療が主な仕事です。外来は 部長の大田先生と、乳児からお年寄りまで、2 人で一日 40 ~ 60 人ほどの 患者さんを診察しています。白内障や緑内障、糖尿病網膜症、加齢黄斑変性 症、斜視弱視など患者さんの疾患はさまざまです。月曜日、水曜日の午後からは手術の助手をしてい ます。手術は主に白内障手術ですが、翼状片、涙道疾患、斜視、緑内障や網膜硝子体疾患の手術も行っ ています。火曜日、木曜日の午後は糖尿病網膜症などのレーザー治療や硝子体注射をしています。最 近外来をしていて感じるのは、同じ疾患名でも患者さん一人ひとり違っていて、年齢や生活環境、全 身状態などを総合的に考えて治療をすることが大切だということです。目の状態だけではなく、患者 さん全体を見るように心がけています。なかなか視力などの状態が良くならず、これでいいのかと迷 うこともよくありますが、治療が上手くいって以前よりも見やすくなったと患者さんに喜んで頂けた ときはとても嬉しく励みになります。臨床医として少しずつでも成長していけるよう、日々精進した いと思います。 11 平成 25 年卒業 野 田 昌 生 卒業後、数年しか経過していないので恐縮ですが、今回後輩にむけてのア ドバイスを簡単にということで書かせていただきます。 『学生のうちにやりたいことを全部やったほうがいいよ。』と入学時、先輩 方からの言葉を胸に私は6年間の大学生活を終えました。勉学に関しては特 に優秀なわけでもなく、時には合格点スレスレの低空飛行も経験しましたが、 なんとか徹夜で乗り越えてきました。 特に印象的なことは部活動や課外活動のことです。部活動では初心者なが ら、医学部の水泳部を数十年ぶりに再開させました。やっとリレーに出られる4人で西医体に出場し、 勝てないと分かっていても悔しいと感じたのを覚えています。現在は 4,50 人の部員がいて、入賞者 まで出ていると聞いており、日々の仕事の癒やしとなっています。 また課外活動では Live Aid というサークルで一般向けに一次救命処置の講習を行ったり、ハモら 内科という名前でアカペラをやっていました。アカペラでは病院やケアセンターなど多くの施設を訪 問し、 「医師と患者」とは違った形で接することができ、多くの経験をすることができました。今で も患者さんから話しかけられることがあり、今後もそのような活動ができたらと思っています。 私は今、医師として一人前になるために勉強しています。日々新しい治療法や病態が報告され、学 んだ教科書の知識すら間違っていることさえあります。そのためには多くの形にとらわれない経験が 必要と考え、これから活かせられればと思っています。また、このような経験をすることができたの も医王保護者会のご支援があったことが大きく、この場を借りて再度御礼を申し上げます。 後輩の先生方には少し無理をしてでも、多くの挑戦をしてみてはどうかと思います。私は今まで決 して良い経験だけでなく、失敗や人に迷惑をかけることもたくさんしてきたので、偉そうなことは言 えません。ただ、思いっきり部活やバイトに打ち込んで後悔のない学生生活を送ってください。 まとまらない長文になりましたが、読んで頂きありがとうございました。 12 平成 26 年卒業 岩 元 香 奈 私は金沢大学を卒業後、埼玉県済生会川口総合病院にて初期臨床研修をさ せていただいています。研修先を決めた理由としては、地元であること、幅 広く common disease を診れること、病院の温かい雰囲気が気に入ったか らでした。 働き始めてみると、国試の知識だけでは太刀打ちできないことも多く、日々 勉強の毎日で、上級医の先生方にご指導いただきながら、充実した研修生活 を送っています。私は将来的に外科系を考えているため、外科系診療科を 多くローテートし、先生方の指導のもと、多くの症例で執刀させて頂きました。どの診療科でもそう だと思いますが、研修医の時期は一番何でも質問でき、かつ教えてもらえる立場なので、何でも積極 的に経験していくことが大切だと思います。 埼玉県、特に川口市は人口の多いベッドタウンであるため、夜間当直における救急搬送・受診数も 多く、色々な経験が出来ます。多くの研修病院同様、私の病院でも救急のファーストタッチをさせて 頂いていますが、医療現場では知識は勿論のこと、コミュニケーション力も大事だと改めて感じまし た。患者さんの訴え・情報を隈なく引き出すことが出来るかどうかも、正しい診断に至り治療を行え るか、誤診で帰してしまうかに影響を与えます。非常に忙しい時、また慣れてきた時など、どうして も忘れてしまいがちですが、そういった時こそ、初心に帰り診療を行いたいと思います。 平成 26 年卒業 水 野 隆 史 平成 26 年 4 月に医学類を卒業し、本年 4 月から青森県の十和田市立中 央病院に初期研修医として勤務しています。4 月から 2 ヶ月ごとに、麻酔科、 消化器内科、呼吸器内科、循環器内科、外科、メンタルヘルス科を回ること となっており、連日、先輩医師の方々から優しく(?)ご指導を受けています。 私は、平成 27 年国試(第 109 回)の最高齢合格者であったことから、 「還 暦の研修医」などと呼ばれ新聞、ラジオ、テレビで取り上げられたため、一 時は、外来などで患者さんから「○○新聞見ました。頑張ってください。」 などと逆に励まされるような事態にもなりました。また「お医者さんと話そ う」という一般市民の方々との会合に呼ばれて行った時には、終了後老若男女に囲まれ、かつ、若い 女性からは「握手してください」などと言われ、アイドルにでもなったような錯覚を感じました。ア イドルとはこんな風に作られるんだなと納得するような状況でした。 しかし、職場では、全く立場は異なり、先輩医師や看護師さんから叱責の嵐です(特に看護師さん は厳しい)。「こんなことも知らないの。」、「何やってんですか。」、「しっかりして下さい。」 ・・・。『あー あ、学生時代もっと勉強や手技の練習をしっかりやっておけば良かった』、と悔やんでも後の祭りと いうやつです。ありきたりですが、後輩諸君にアドバイスできるとしたらこのことだけです。敢えて もうひとつ付け加えるとしたら、『アイドルは儚い』ということでしょうか。 13 医王保護者の会 会長退任の挨拶 蒲 田 敏 文 医王保護者の会の会員の皆様、いつも暖かいご支援を頂きありがとうござ います。私は、二人の息子が金沢大学医学部(医学類)に入学を契機に平成 19 年に保護者会の理事となり、副会長を経て、平成 21 年 4 月より 4 代目 の保護者の会の会長を務めてまいりました。今年で、会長職は 7 年目を迎えています。来年 3 月に は次男も医学類を卒業しますので、私も会長を退任する予定です。退任にあったて、会長を務めさせ て頂いた 7 年間を振り返ってみたいと思います。 会長になってまず行ったのは、事業活動内容の見直しでした。当時の保護者の会はどちらかという と医学部(医学類)の後援会という感じでしたが、どこの大学でも似たような状況だと思います。私 は大学の教員(放射線科准教授)でもありましたので、大学の協力も得られやすいという環境を利用 して、学生の支援を最大の目的とする会に変えていきたいと思いました。低学年から高学年までまん べんなく支援をしようという基本方針で、学生代表からの要望も取り入れて、この 7 年間で徐々に 学生支援事業を充実させてきました。 現在までに新たに追加した支援内容は、2 年生の解剖実習セットの支給、6 年生の医師国家試験対 策(ビデオ講座)の支援増額(100 万円から 400 万円)、医師国会試験対策用の模擬試験(春、冬 2 回) の費用負担、4 年生の CBT 試験対策用模擬試験の費用負担、5 年生に病院臨床実習で着用するネー ム入り白衣(上下)などがあります。6 年生の国試対策、4 年生の CBT 対策の模擬試験は低学年の 国試対策委員に試験監督などの世話をお願いしています。また、国試本番での試験会場までと CBT 試験会場(角間の大学本部)までのバスの手配と費用負担も保護者の会で負担することにしました。 金沢大学名と個人の姓が刺繍されたネーム入りケーシー型白衣は大変好評です。大学病院以外での 病院実習でも着用しますので、金沢大学の学生であることを誇りにして学生たちは実習に励んでくれ ています。また、国試対策(ビデオ講座と模擬試験)の効果も上がってきています。過去 5 年間で 現役生の国試合格率 98% 以上を3回達成していますが、この合格率は私の知り得る範囲では、金沢 大学医学部(医学類)の歴史で最高の成績です。特に本年(平成 26 年度)の医師国家試験では初め て現役生の合格率 100% を達成できました。これは、もちろん受験生全員がほんとうに頑張ったお かげだと思いますが、医王保護者の会の支援も大いに貢献したのではないかと考えております。改め て、保護者の皆様の多大な支援に感謝申しあげます。来年も今年の卒業生と同様に現役生が全員合格 できるように支援をしていきたいと思います。 医王保護者の会は私が副会長の時代は加入率が 85% 〜 90% を推移しており、残念ながら未加入 の学生もかなりいたために、未加入者の学生には自己負担をお願いしなければならないことも多く ありました。会長に就任後、加入率 100% を目指した取り組みを開始しました。加入率が低いのは 14 医王保護者の会の活動が正しく理解されていないのが一番の原因だと思いました。そこで、従来 4 月の入学式のあとに医王保護者の会の総会を行っていたのを止めて、保護者の会の入会説明会に変 えました。説明会では医学類長と学生支援委員長の先生方に入学後の生活や勉強についてのお話し て頂いたあとに、会長である私から保護者の会の意義と実績を説明し、保護者の会への入会をお願 いしました。それ以降は保護者の会の入会率は年々高くなり、平成 27 年度では加入率は 6 学年平 均で 98% となっています。また、平成 25 年度入学生(現 3 年生)で初めて入会率 100%(120 名全員)を達成しました。今後も入学者全員が加入して頂けるように PR を続けていく必要があると 思っています。 以前は医王保護者の会の総会は 11 月の医学展に合わせて開催してきましたが、これも平成 24 年 度から 5 月末開催に変更しました。当初は医学展と別に開催することで参加者の減少が懸念されま したが、年々総会、懇談会、懇親会に参加される保護者の方が増加し、今年は 300 名を超える保護 者の方に出席して頂きました。特に懇親会では、毎年参加される方も見られ、アットホームな雰囲気 のなかで保護者同士の連帯感も高まってきているように思われます。副会長ならび理事の方々にも毎 年の理事会、入会説明会、総会に参加して頂き、保護者の会を支えて頂いております。紙面を借りて 感謝申し上げます。 大学では、医学展も終わり、6 年生の統合卒業試験も終了しました。これから、医師国家試験と CBT, OSCE の試験が控えています。医学類のキャンパスや実習室では、試験に備えてグループで学 習する学生たちでの熱気が感じられ、遠い昔に自分がこの金沢大学医学部で学んでいた当時を懐かし く思い出しました。学生たち全員ががんばって試験を突破して欲しいと願っています。 私は、平成 24 年 12 月の医王保護者の会のだより (No.24) の会長としての挨拶文の最後に、 “私の最初の目標は保護者の会の入会率 100% ならびに医師国家試験合格率 100% です。この目標 に向かって、もう少しがんばってみようと思っています。”と書かせて頂きました。はからずも、保 護者の会の入会率 100% と医師国家試験合格率 100% を達成することができました。この 9 年間(会 長として 7 年間)を振り返ってみますと、いろいろな難題があり苦労することもありましたが、多 くの方々からご支援を頂きなんとか無事に会長職を終えることができそうです。保護者の会の活動を 通じて、自分も大きく成長することができたように感じています。 来年 4 月からは新しい会長にバトンタッチします。私は会長を退任しますが、教員(放射線科教授) として大学には残りますので、今後は保護者の会の応援団として新会長を支えていきたいと思ってい ます。 保護者の皆様におかれましても、今後とも医王保護者の会に対し暖かいご支援を宜しくお願い申し 挙げます。 15 16
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