澤昭裕氏の「原発事故から 5 年 福島復興のタブーに挑む」を読んで

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澤昭裕氏の「原発事故から 5 年
福島復興のタブーに挑む」を読んで
2015 年 12 月 24 日
齊藤 誠
澤昭裕氏(国際環境経済研究所)が『Wedge』2016 年 1 月号に寄稿した「原発事故から
5 年 福島復興のタブーに挑む」で提示した建設的な課題解決の方向性と,人々がタブー視
してあえて語ろうとしなかった重要な政策課題を取り組む勇気ある姿勢に,若干感ずるこ
とがあったので小文を書く。
その前に,1 つのお願いと1つのお詫びがある。お願いとは,拙文を読む前に,是非とも
澤氏の論考を直に読んでほしいということである。Amazon から電子版で簡単に入手する
ことができる(Kindle 価格 500 円)
。お詫びとは,本務を控えさせていただいている身にあ
りながら文章を公にすることをどうかお許しいただきたい。
澤氏の論考では,まず,除染目標を見直して,行き過ぎた除染作業を取りやめることを提
言している。正確にいうと,2013 年 11 月に与党が打ち出した「除染効果を個人線量レベル
で評価する」という方針を徹底すべきであることあらためて訴えている。また,除染からの
廃棄物についても,1 キロ当たり 8,000 ベクレルの土壌については,中間貯蔵施設に持ち込
むのではなく,一般廃棄物として処理するべきことも提言している。
澤氏の提言は(彼には「ニュアンスを取り違えている」と反論されるかもしれないが…)
,
除染作業が,確固たる財源の裏付けのないままに「公共事業」として肥大化している現状に
対する警鐘であると私は解釈した。現在,除染費用は,原賠廃炉機構が保有する株の売却益
2.5 兆円,中間貯蔵施設の建設費については,エネルギー特会に入る電源開発促進税の 1.1
兆円の振替が予定されている。
しかし,拙著『震災復興の政治経済学』
(2015 年,日本評論社)の第 2 章第 2 節で詳しく
述べているように,いくつかの想定のもとで試算した東電株価の理論値では,原賠廃炉機構
が手にすることができる売却益は,2.5 兆円から 0.4 兆円に激減する。もし,この 2.1 兆円
の不足分を電力料金値上げや増税でまかなうとすると,国民負担は激増する。現在の原賠廃
炉機構の返済フレームワークにおいても,電力利用者として,あるいは,納税者としての国
民負担は,実に 82%に達する。なお,この「82%」は,朝日新聞 2015 年 12 月 20 日付けで
拙著を評していただいた諸富徹氏が引いた数字である。もちろん,私は,自らが算出した東
電株価の理論値が絶対的に正しいと主張しているわけではない。ただ,除染費用の財源の根
拠がきわめて脆弱なものであることを示したかっただけである。
澤氏の第 2 の論点は,2016 年度をもって損害賠償問題に区切りをつけることを強く主張
している。澤氏の懸念は,現実の政治の動きが,それとはまったく反対の方向に動いている
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ことへの焦燥感から発しているのでないだろうか。
原賠紛争審査会は,2013 年 12 月に避難指示が解除された後の賠償対象期間について,
帰還タイミングを問わず 1 年間とした。そうした決定の結果,現在の帰還困難区域,居住制
限区域,避難指示解除準備区域の固定化を促し,避難指示が解除されて賠償金の支払いが 1
年で打ち切られないような政治的圧力が強く働いてきた。
ここで澤氏の言葉を引いてみたい(15 頁)。
もちろん,その期間までには現状問題として残っている損害問題についての一定
の解決策を政府が提示する必要はある。ただし,その際にも福島県以外の県での災害
支援との落差や,一般の損害賠償事案の判例とのバランスを十分とった解決策とす
べきである。政治的には楽だという理由だけで,最終的には電気料金という国民負担
の増額につながる決定を安易に行うことは,法の下の平等という観点に反する。
私を含めて読者は,元行政官の「法の下の平等という観点に反する」という言葉を,ある
重みをもって受け取ったのでないであろうか。
澤氏は,福島の放射線リスクをめぐるリスクコミュニケーションのあり方にも,いくつか
の問題点を鋭く指摘している。確かに,
「福島=絶対危険」という非科学的な判断を徒に流
布させて,福島に住む人々の不安をあおるような一部の政治的な運動には,私も,強く抗議
したい。
一方では,著者への批判にもなってしまうと思うが,私は,「福島は安全である」ことを
強調することにも違和感を持っている。なぜかというと,そもそも「福島は安全である」と
いう場合の「福島」は,無限定な内容しか持たないからである。いまなお,帰還困難区域と
指定されている地域と,福島第一原発から十分に離れた地域では,汚染の度合いも,その状
況も,量的にも,質的にも著しく違う。
澤氏は,西日本の人たちを中心に放射線リスクに対する理解度が低いとしているが,本当
にそうであろうか。私は,多くの日本人は,
「福島第一原発周辺の地域を除いた福島に対し
て,深刻な放射線リスクがいまだに存在している」と考えていないのでないかと思う。
一方,事故後 1 ヶ月以上経過してやっと避難指示が出された計画的避難区域(飯館村な
ど)の人々への影響や,現在も帰還困難区域や居住制限区域に指定されている地域の生態系
への影響などについて,科学的な知見に接したいという思いが,多くの日本人には強いので
ないだろうか。
私自身に偏見があるのかもしれないが,
「福島は安全である」と主張する人たちの中には,
放射線リスクの兆候を示唆する科学的な知見に対して,時として攻撃的とさえ見えるよう
な姿勢を示すことがある。しかし,科学的な知見の正しさは,きわめて時間を要する厳密な
科学的手続きによってのみ明らかにされるのであるから,「福島は危険である」と主張する
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人も,
「福島は安全である」と主張する人も,せっかちな態度や拙速な判断はひかえるべき
でないだろうか。
おそらくは,澤氏の論考でもっともラジカルな部分は,
「広域的な復興政策」の提言であ
ろう。澤氏の提言は,慎重に言葉を選んでいるが,
「帰還困難区域を中心に国の直轄行政区
に編入すること」を示唆しているように思う。
国土の津々浦々までも,市町村という基礎自治体で覆い尽くすという地方自治体制度を
有するわが国において,国が直轄する行政区というのは,あまりに超越的な主張になってし
まうかもしれない。
しかし,私が澤氏の心中を勝手に推し測るに,福島第一原発の廃炉の現実の深刻さは,そ
のようなラジカルな制度改革を必要とするところまで来ているのでないかという思いが,
澤氏の側にあるのでないだろうか。
たとえば,近い将来の問題としては,汚染水問題においても,諸対策に失敗する可能性が
決して低いとはいえず,トリチウムのみを含む汚染水の海洋放出にも高いハードルがある
状況を踏まえると,地上タンクの追加設置も,福島第一原発の施設周辺に求めざるをえなく
なるかもしれない。
また,遠い将来の問題としては,福島第一原発の著しく汚染されたデブリや破損施設の処
分や,仮に溶融核燃料の取り出しに成功したとして,その貯蔵や処理のことを考えると,福
島第一原発施設の周辺に広大な土地が必要となってくるであろう。
澤氏は,損害賠償の財源との関連で東電の財務問題にも触れている。おそらく,著者とし
ては,
「たとえば」というつもりだと思うが,東電の財務改善方法の 1 つとして,福島第二
原発の再稼働をあげている。私は,この提案は,きわめてマージナルだと思う。4 つの機の
復水器の常用ポンプは,大津波で壊滅的被害を受けたが,それを修復するだけでも途轍もな
い費用がかかるであろう。それに加えて,高い新規制基準を満たすような追加投資をして再
稼働させても,費用対効果に見合うとは到底思えない。再稼働については,柏崎刈羽原発に
注力すべきであろう。
私自身,
『震災復興の政治経済学』の第 10 章第 2 節で詳しく議論したので,ここでは繰
り返さないが,損害賠償や廃炉の問題を東電のバランスシートから切り離すことができた
としても,東電はきわめてきびしい財務問題に直面すると考えている。具体的な形を言及す
るのは控えるべきでないかと思うが,東電債権者への負担が生じる局面もあるのでないか
とおもうほどに深刻に考えている
私は,澤氏の主張に 100%賛成はしていない。
論考の最後には,
「
『責任追及と補償』というある意味で他者への依存構造を招きかねない
ネガティブな推進力から転換し,
『日常に戻し,未来を築く』ために構築すべき政策体系の
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再検討」とあるが,
「ネガティブな推進力からの転換」のために,現在の程度の関係者への
「責任追及」で,これから莫大な負担を強いられる国民が納得するのかどうか,私は大いに
疑問としている。
しかし,その前の段落の主張には大賛成である(18 頁)
。
16 年度は根本的な課題について,
「全てのタブーなく」議論する時期だ。政治や
行政,そして社会がタブーに逃げ込めば,福島で自立しようと考えている人たちの
行き場や頼り所がなくなり,復興を遅らせてしまう。
先にも述べたように,私は,澤氏の主張に 100%賛成しているわけではない。しかし,こ
れほど重要な社会課題に対して,すべての人が完全に賛成できるような政策提言など存在
しない方が当然だと思う。澤氏と私の間に主張の違いがある方が,政策議論として健全な姿
であろう。
しかし,澤氏が主張するように,今が,何事もタブー視することなく,政策の再検討の時
期に差し掛かっていることだけは確かであり,その課題解決を先延ばししたときに将来世
代が被る損失はとんでもないものになるであろう。
そのためにこそ,異なる議論がぶつかり合って,前向きな妥協を積み重ねながら,誰もが
根本的なところでは賛成しないが,次善の政策として多くの人々が納得しコンセンサスを
形成できるものを見つけ出すことについて,私は,私たちの社会の可能性に,いぜんとして
希望を持ちたい。というか,希望を持っている。
澤氏の論考にある勇気ある提言は,そうした私の希望が幻でないことを雄弁に語ってい
るのでないだろうか。