﹁古事諸における 博承 Ⅹ / 事 古 つ て " " 絵事 俊 三條天皇令扶車井金物 歌事 後三條天皇賜實改銭別詩 番一中納言 頭基出家事 事 。 コム 鏡﹁ Lとの開係は ついて| ﹂、 向 古事談口説話の出典については、岡本保孝の﹁古放 事澄 談 鏡 今 つかさ の し たむけ の 矢野衣道の ﹁古事談私記﹂の研究についで、 勝益 貫田 、安藤菊二爾 先畢の研腫辮あるが、それ以後は私記の基礎的な研 か究 らあまり 進 んでいるとはいえない。 他面、﹁古事談 bが﹁宇治拾遺物語しや﹁発心 ヒ集 の典檬になっ ていることが指摘註 さ ⑧れ 中、 世の説話文豊史の上では、 資 料的にかな 今 古 「 ㈲若一もちつき 2n ㈹ 巻二 皮 目 げ て 話 談 鋳し 章 来っ てて いるが、 り重要な意味をもつ作品であることが明らかにな ヒ談 白鶴が、如何なる 博承系譜の上に立 それだげに今後は、﹁古事 登がありたか 杏か、文膣的 つものであるか博 、承の場合に創意的想 率にかかわ に見て、漢文膿の部分と候名交り文の部分との 、間 博に 段 る木質的差異がある杏 かか等の間題が簡明されなけれな ばらない ム ﹁ 小穂では、右のよう観 な難に立ちながら、和膿 文で書かれた﹁ 階にあると考えられる。 儲君 けは 合 指 (司令 巻 市ム「 弔巳は の 餅 " 餅 " ㈹巻末 ㎝拳玉 ゆめのかよひ ち ゆみの ね ゑあ は せ のうた こけのころも 巻二 待賢門院入内事 巻 三役三條天皇在藩蒔石盤智 治事 巻一 後白河荷受禅車 券大石田段車 経輔被行事 若一御遊 数通着手管事 " 信室家出家事 巻二 小野皇太后歓子遂往生結 車 券一成 十 ま た 捧 : "︶"( $ 藤 除 @ 原 目 善 果 " 着工 朕怨 州 木ァ 棉買 コ 成 蔵方 ャ 雀 人ノ 事 頭朽専 守 ㈹ 部分的に 右掲 のうち、備考欄に X印を付した、㈹、㈲、㈲、㈹、㈹、㈹ の 各條は、﹁古事談ヒの説話の一部分又はその要目のみ ﹁ ム控 ユの中に見られるもので、両者の博 承窩係若論ず Ⅰ Q場ムロに は、割愛して差支えない。 その他の條にあっては、一部分相違鮎を有するものを含めて、 一 ㈲中納言 顕基出家事 底両者の閣係る瞼訂してみる必要がある。 巻二倍 通不遇辞所帯事 のものと同様の説話を掲げるが、顕基 古来詔書に引用されて檜漿されるものである。﹁ム﹁ 鏡ヒ には、出 家の原因について﹁古事 諮 が日常白楽天の詩を好んで詠じた事、出家後の後日譚 などはこれを 源寛費藏 破壊 事 御 かどかくれさせて給 てむゆかといふに。かしらをろ して。山ふ 載せない。更に、顕基の出家がコム﹁鋳レでは " かくこもり給へりけり。 一セ と異同する。彼此、吉事 談ヒ のこの條は、草一の資 料 によ つたも となっている鮎は、﹁古事談口の ﹁セ 々聖忠之後。登夫台棚嚴院 。﹂ ︵ 傍貼筆者以下司︶ 源寛國碁療 数通痛事 國 農父 輔 追修泰山府君 祭報道貞冥途 館事 養二百 " 巻三覚行法親王 始事 息給事 巻末舞人 助忠被殺堀河天皇歎 若一役三條天皇政俊房絵事 巻六時 光授笠於武吉事 ・ ㈹ 巻セ に ゐ まくら 事 やゑのし はぢ 時りl 竹口l は 8 ムⅡのみこ 前 畝 筆 怪 農 特 献 Ⅱ か し , みのりのし ㈹巻尺 (( 巻 ⑫㈹ 4 Ⅱ ㈲ 巻三 6 Ⅱ の ね @ ㈲ 巻四 00 ) 9) @@ f み の 雪 め 朝 いの る しるし uf か は の ね た し れ る ㈹ 巻丸 0@ し ふ し む ら の の 一八 え 御覧つ本レ 円 古事談ヒ の集 とし 考も えも 申﹁ ム銃口 のでなく、幾典 つ掠 か にの よって顕要説話を編 た いはし水の行幸はじめてせさせ 給ける︵ 後 冷泉院末。過差事 通 た れる。因みに、この條、 の 夙前 に半 野は 村八良捕 民さ がれ 指 9% 辞肩の﹁ 績本朝往生 ヒ博 に﹁袋草子しその他 をの 参資 酌料 して に。ものみぐるまのとかなものうちたる 外之間。至ニ上官車用目 條 譚。 の後 出日 所は明 を。御 こしとどめさせ給てぬかせきせ給付金物こ面 俊二一院 抄録したものと考営 えつ るて のい がるであろう 2時・留二 白でない。 いかひか藤訃か梼防いい。ひか恥いかい風姿。見物事 付金物 ヲ ㈹俊三條天賜 皇實 改銭 別詩歌 事 リ。中ノ 實政甲 が斐 守として赴任する時、東宮で天 あ皇 っよ たり 後三條 今 二所。用 ヒら に は と銭別の詩を賜わった由が、南曹ス に ﹁ 鏡 見 れるが、 なものぬきたるあとある車どもぞ。たち 也。賀茂行幸2時。外 ア ワス レズ バオ ナジ 空ト 八月 ワニョ八 程雲二 井メ グリア フマ@ 金物事無二一両@ 々。 ならびて侍ける。 ﹁随 古っ 事 し 談これ右 の和歌を賜わったことを掲げていないは 。 て ののみ ように一部分に異同が見られる。然し、傍 %を付 した部分は 裳の 詠﹁ ﹂につ いわゆる挿話として考えることのできるもので、院の御節倹を言わ 編者の添加とぅ もる 解が し更に右掲の詩の 甘後 に いての解説を付す 爾る 書 同こ じと でありながら容 、に そは の同 内一 んとする説話には不要と解されよう。﹁古事談レ ではナ﹂の條に引績 係は認めが き、院の節倹を示す簡略な説話を拳げた﹁俊三條天皇御倹約事﹂が あり、この條も、便宜的な標目に拘泥せずに考えれば、その要牡は たい。 同じく節倹を説くにあるのであって、その窟に不都合な挿話を削除 ㈲俊三條天皇令扶車井 事金物給 した 較 俊三條院の事蹟を述べる一群の説話 雨者 のを 一此 です あるが 、と考えることができる。字句の類同と、賀茂行幸の時の模様を 鏡L のこの部 ム﹁ 付加した鮎を併せ考えて、﹁古事談ヒ 0編者 は、 ﹁ ると、 分を参酌したものと考えてよいであろう。 ㈲俊三條天皇在藩蒔石金管絵事 法文を津いた事、長詩鬼 となって慈尊の下生に曾 いたいと語った事 い相違 鮎がある。後半の省略部分にあっては、薬智が、院の前にて がたい。薬智、盆智は、音韻博承の場ムロ には起こりうる異同である 等が南曹共に見えているが、夫々順序、構想において同一とは言い 勝 。 思 三葉今 生 真一テ兼 伸二千御持僧 勝範 座主 一 のみちをもふかくしろしめせりけり。 眞云 被且 昔 みこの宮におはしまし二時より。のり後三條 院在 藩 2% 。 範 ぎすといふ 人 まいり拾えづけるに。 と考えてよいが、遠かにこれを以て口唱説話を両者共に博廃 したも ぅ。執れにしても、両者が無関係であるとは手一口え共 ず通 、の何らか 外典 知 二具言 止観 っ洞二 勝範奉レ仰 文俊。山上 特定の典抜を持つのではないかということが、省略部分をも併せ考 言 止観かねまなびたらん僧の。ぞくのふ き 僧のおの づからたのみたるがなきにと 求レ文俊二。 令レ申云。 のであるとすることもできないので、なお後考を侯つ へきであろ 伸 られければ。顕密かねたるはつねの事 えることにより推定できるのではなかろうか。 みも応えたらん一人たてまつれ。きるべ亡者 可 Ⅰ選進 -也 一五々。 にてあまた侍り。からのふみの心しりた 已漫 二具仁っ是 西塔 益智 り簡略化されたもので、直接的闘係を認めうるか杏か疑間 である。 費目 に奉ったことが雨書 に見られるが、﹁古事談レのナ﹂の條はかな 泰憲民部卿の別業として作られた石田殿を、頼通 の求 めによって ㈹石田殿掌 智 といふ僧をこそたてまつられけるに。御坂 覧レ其鉢つ着二墨染 布 ㍉古事談 レ のこの條の前後には、高陽院、花山院等の記事があり、 たづ ねて 申 侍らんとて。返りのぼりて。 薬参 三東宮っ却百二御前 - わざとふりつくるめて。車などをもかさ 衣 狩袴等 っ思二葉今生之 数通着半管掌 し事を記し、日記にその時の模様が見られる由を指摘している鮎、 掲出を省略するが、爾者共に大二株殿が冬の束帯に半督を着用せ ㈹御遊 繭者の比較のみでは決定的窩係は明らかにしがたい。 同類の備忘的記録として、この條が記載されたものに違いないが、 却 百ニ れざりけるにや。かり は かまに む まにの事吉日 已見二其捧 。 わたる僧の。座主の房よりとてまいりた御簾 之 前 っ り ければ。 のしよせてみすこしにたいめ ん せさせ 結 えりけるに。 文飾にはかなりの異同が認められるばかりか、﹁ ム﹁鎮目0% 智を ﹁ ︵ 中Ⅱ 共通している。両者の間にほ直接的博承諾係があると認めてよい。 右掲の如く、この條は、説話の梗概に大なる差異はな いが、なお 事談ヒ では姦智としているなど、直接的書承の場 ムコ に は考えられな 一九 ㈹小野皇太后歌手遂往生結事 記すが、 この部 天 ﹁鋳ロのこの巻は、白河院の小野皇太后宮への御幸を その最後に、后宮往日の最勝王経書嶌 の 寮 験を述べて いて 市 拾遺往 重家出家事 ヰ@ ハ @ イ @ウ 殆 どそ れを 書 藤 この雨音 薦 康の 分が ﹁古事談﹂と共通するが、なおこの條は・三善 生侍 b ︵下︶の皇太后宮敏子の條に依った形跡が著しい を 照合するに、その一部の語句を省略するのみで、 ㎝威信 していると考えられるので、自今鏡口 とは 窩係 がないと 見 ヰす︶ 長保三年二月四日の威信、重家の出家について 宋 ﹁鏡山 @ @ 重家の出家の消息見えし事 ㈲威信、重 家 契約して 慶詐何 %梨の室にて出家せし事 ㈲行成大納言の夢に、 或説 には、陣の座にて四納言才孝吐露するを五間 き て、奉公 6車 ㈹発心の原因は年来の初志の上に 、 一の人の病臥を 見 たるにあ ㈲ 昇進せんとすることの恥多きを知った篤という いで 結 けるよは。富家の 二O 或 誠ニ 云。地面火三井 慶詐ノ 重ニ 往合 少将 何 をやの大臣 殿にいント 契タりケルニ 。中将 ハ トク往テ待 レバ。白酒 豫事ナ ドアルニ ャ トテ 。 先 とま申給 ける。お ほかた給 ケレド。 夜 フタルマ デニ くエザリケ とどめらるべきけしきも % ヌレテ来 タリケリ。中将新登 イカ 二 む かりけれ ば 。 えとどめ出家シテ 暁婦 ントスルトキ。 少将 は霜 たまはぎりけるともきこ ヤョベ ハ徳カネ 申 テナン。 先 遂侍 リニ バ。何時シニ。 昨 日 シモ 便 え侍き 。行成の大納言の う にぞ 侍るなる。これは不孝之曲率 日ヲ タガ ヘジトテ 。 ョベ髪ラ バ切侍 ナリ トゾ被 こと人のかたりはべりし 宣 アシキ掌侍 テ暮二 シカ なり。 答 ケル。 の如くであって 、殆ど直接的窩係 にあるものとは認めがたい。とり わ け ﹁古事談ヒ のこの條は 、㈲の部分のみが著しく仮 名の多い文章 になっていて、 全膿に幾條かの説話を書き繋いだ感が強 い事が注意 があったとしても、それは直接的開係 によるものでな く、 何らかの ﹁鋳ヒと の間に共通性 される。随って服りに㈲㈲㈲の條について 申ム の如き順序でこれを述べる。一万円古事談しのこの條 は、右の項目 記録類 に依って、両者が夫々に編集記載したものであると考えられ ㈹出家の夜富家、父の大臣に 暇 申されし 事 に随えば、㈲小円寺 ㈲ 妓㈲の構成をとり、けについては全 くその 記 るようである。 註① 因みにこの條に 窩 しては、安藤菊二氏が﹁古事談出典小考﹂の中 妻 がない。 又、㈲㈲㈲については内容に柏嘗 な類同性 があ るけれど も、 ㈲においては最も差異が甚しく、 で、行成卿の夢の件は、恐らく﹁中外抄﹂﹁富家請談﹂ に類する ㈹ 時光授生於武吉事 この條前半は、宗像が持光 より大食請人% を博捜されん として 極 殿に赴いた事を記し、後半、それに先だつ政吉の事を記すが、 の和歌贈答は雨者にかなりの相違がある。﹁古事談ヒは 日﹁ ム 現 杜し 接りながら﹁千載集ヒに依って改めたものかと疑われるが、﹁千 集ヒとも異同がある。伊通籠居の原因その他を、夫々何か他の記 類 によって記載した臆の類似であろうか。後考を侯つ。 ㈹ 源寛費藏破壊事 ㈹ 源寛園碁療数通痛事 この三傑はコ今鏡b では引績いた一つの説話として掲げられて るもので 司 古事談ヒ でも本来一つのものである。次竺 下す如く、 句の細部まで一致する鮎が多く、両者は直接的善承闘係を有する 末 依 本 金人 順 と に 録 載 語 い も のと考える。 源覚 祀林 寺の僧正ときこ ゑ結 けるが。宇治の禅林寺僧正。 宇治 殿へ おほ きをとどにや わほ しけん。ときの関板レ ニエ消息 一 云。 加二修理一国レぬ咀で々。一仏 實藏實藏 破壊 シ ア侍り。 のやぶれて 侍。すりして給はらむと持け 被 レニ エ村家司 白 のもとにせ う そ く たてまつりて。 ねば 。家のつかきなにのかみなどが ふ。 採二損色 -遣 三下家司 - 篇レ ぅけ給はりて 。しもけいしなどが ふ もの 示 二具由っ 由 っ石目御使 - ㌔ つぎが みぐして。僧正のば う にまうで ふ。 殿 よりほう ぎ うすりしっかりまつら ん とて。 ゃぶれたるところぐしるしに僧正閏ニ化 直 仰天。 イ カ二方 ク不 テハ君ノ御 後見イカ マ へには士 おリ はる 露見二八缶仰哉 山。 笠姉様 ニ なんまいりたると申 けれ ば 。僧正 よ びよ せ払栢て 。いかにか ノ人 ふか ノ ぞ 。お ほや けの 御 うしろみも。かくては 一ト云々。 有國農父舗道傍泰山府君 祭鋪道 自 冥途 婦事 いかどし 給と 申せと 侍 けれ ば 。 ㈹ この 條叉 両者殆ど全く同文である。南曹の書承開係 を認 めたい。 ㈹除目執筆怪異事 或説 として 一部分に省略はあるが、前段と同じく語句内容殆ど同じである。 後半 柏井が 聖天供を修せし由が見えるが、その條でも、 掲げる説話まで完全に一致する。直接的関係は否定できない。 一一一 ゆ 藤原農時献書任越前手事 ム﹁ めめし 諸善に見える著名な説話であるが、ョ 古事談レのこの條は ﹁ に比して著しく簡略であり、直接的閲係は明らかでない。按ずるに 門 古事談しのこの説話は刊績本朝往生博ロの、一條天皇條に掲出す るところの、臆時の説話と、語句構成共に殆ど完全といつてよい程 一致するので、右の資料は 、他の條の出典でもあり、本條もそれか ら書票したものと考えるべきであろう。 ㈹奥州アコ ヤノ松事 円 古事談L の﹁奥州アコヤの松事﹂は、實方 が阿古耶の松を尋ね ㈹ 實方怨木棉蔵人頭成雀事 た逸話に、陸奥にて菖蒲の代りに菰を葺かせたという話を付加した 極く簡略なものであるが、 因﹁ 鏡﹂では、この後半の話と、實方が 雀 になって殿上の台盤に来たという説話を、かなり詳しく記載して 一一一一 るが、繁簡自 何れにしても 天﹁鋳ロとの間に説話の共通は認められ ㈹、㈹。㈹ 、 さて、以上のように各條を検討してみると、㈲,㈹, ㈲、 8差があり、直接的閲係は認められないと思う。 @、 n ㈱n 。r ㈹の番係 は、直接的博承閲係を否定せざるをえず、残りの ㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹ の各條が、直接的停廃開係をもち、㈲ほ根%弱く保留ということに なる。 の資料乃至 現在までの﹁古事ヒ 談の出典研究にあっては、漢胆 文 、和文 は、仮名交り漢文調の資類 料が、その出典として指摘ね さ の鏡ものふ如きは 織れられることがなかつたのであ、 る右 がのよう に検討して来たところに随い セ、 ケ條は他に明白な 典抜が指摘でき ム ﹁ 鏡 ず、直接的交渉を無視できれ類同性をもつところ﹁ か らしとの 古事談の著者は、原典から説話を抄出するにあた っど て原典 、殆 随って、従来の研究において例えば、 とた 思う。 へき 。であることが明白になっ いる。然して﹁古事談ヒの 阿古耶の松の事は円平家 物華府㎏養二ハリ 間に書啓開係を想定す ﹁阿古 耶松﹂に述べられる實万の逸話と酷似しているので、両者に る。 量的にも、更に質的にも同一であるといふことが 出 来 ﹁宇治拾遺物語と古事談係 の﹂ 瞬矢吹重政 ③註 の上に愛 改が加へられなかつたことは明かで、先述 にへ もた如く 少る く。 とも、文叢 のままといつてよい程度に採録したことが分 ヒ 何らかの闘係があったと想定されるが、﹁平家物語Lが ﹁古事談 に掠ったか、或は爾者が共通の未知の資料に披 つたかは明白にでき ない。日吉事談しは實万の逸話として阿古耶松の件を記したあと、 更に實万に窩する説話を思出して、菖蒲の代りに菰を葺かせた事、 雀 になったという博説などを簡軍に併せ記したものと考えられる。 従来指摘されている、往生博類、公卿日記、記録頽る 出 という風 にきとめられた概括的見方とは相容れない鮎が生じて来 のである 典 とする 説話についての 博承形式 は 、 右掲の結論に抜れるとし も 、 更に それらのみでなく﹁古事談目の中には、編者が和文膿め 資 料を参 閲 しながら、適宜それを準漢文 調 の文購 、乃至は嵌名 交り 文 ﹁古事談Ⅰの編者が、庶族 に依って説話を書 啓 する 場 。 に 改めて 行ったものがあることを認めなければならないと思,フ 更に 又 ムロ、その 原窩に勤して質的改愛を加えていることは、小穂 の 瞼討範 里にあっ ても殆ど見られなかつたとしても、量的には、或る程度 説話の内容、或はそれを取上げる目的に蕪 じた、抄略や添加が なさ れたので はないかという何 % が、 右の検討にとりあげた㈹、 ㈹ 、 ⑳ 等の各 係を見ることによって指摘できると考えるのである。尤もそ れらの場ムロ における省略なり添加なりが、いわかる創意的登想 と如 議し 何に 窩係するものであるかということは、別の資料をも併せて改め て瞼記 す 。へき問題であるのでこ二では籠れない。 そして 、以上のようなことが認められるとするならば、﹁古事 における 、漢文 魁 、候名交り文 膿 というものは、必ずしも雨域の原 典の文 胆 にそのま ふ閲係 しない、便宜的なものが交っているのであ 博率法の相違から費ら つて、 例 えば、漢文調 のものはその説話が書承的であり、候名 父り 丈 に近い もの種井書承 的であるという風な、 しとも明白に された相違であるとは、必ずしも考えられないというナ なって来ると思うのである。 係﹂國串焼雑誌 昭Ⅱ・ 9 右損益田氏論文、矢吹重政 ﹁宇治拾遺物語と古事談 の 蕗 安藤菊二﹁古事談出典小考﹂日本文事研究田打・ 2 究 5號 註①益田勝美﹁古事談と宇治拾遺物語との 窩係﹂ 日本文学史研 註② 註③野村八良﹁鎌倉時代文革新論﹂一八六頁 註②前掲矢吹反論文 註④ 註①所掲 安藤氏論文 註⑥ なお、資料不足のため益田氏の右掲論文は未見である。氏 の御講 に抵鯛する粘があればど批正を賜わりたい。
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