YMN001202

﹁古事諸における 博承
Ⅹ
/
事
古
つ
て
"
"
絵事
俊 三條天皇令扶車井金物
歌事
後三條天皇賜實改銭別詩
番一中納言 頭基出家事
事
。 コム
鏡﹁
Lとの開係は ついて|
﹂、
向
古事談口説話の出典については、岡本保孝の﹁古放
事澄
談
鏡
今
つかさ の し
たむけ
の
矢野衣道の ﹁古事談私記﹂の研究についで、
勝益
貫田
、安藤菊二爾
先畢の研腫辮あるが、それ以後は私記の基礎的な研
か究
らあまり
進
んでいるとはいえない。
他面、﹁古事談
bが﹁宇治拾遺物語しや﹁発心
ヒ集
の典檬になっ
ていることが指摘註
さ
⑧れ
中、
世の説話文豊史の上では、
資 料的にかな
今
古
「
㈲若一もちつき
2n
㈹ 巻二
皮
目
げ
て
話
談
鋳し
章
来っ
てて
いるが、
り重要な意味をもつ作品であることが明らかにな
ヒ談
白鶴が、如何なる
博承系譜の上に立
それだげに今後は、﹁古事
登がありたか
杏か、文膣的
つものであるか博
、承の場合に創意的想
率にかかわ
に見て、漢文膿の部分と候名交り文の部分との
、間
博に
段
る木質的差異がある杏
かか等の間題が簡明されなけれな
ばらない
ム
﹁
小穂では、右のよう観
な難に立ちながら、和膿
文で書かれた﹁
階にあると考えられる。
儲君
けは
合
指
(司令
巻
市ム「
弔巳は
の
餅 "
餅 "
㈹巻末
㎝拳玉
ゆめのかよひ ち
ゆみの ね
ゑあ は せ のうた
こけのころも
巻二
待賢門院入内事
巻 三役三條天皇在藩蒔石盤智
治事
巻一 後白河荷受禅車
券大石田段車
経輔被行事
若一御遊 数通着手管事
"
信室家出家事
巻二 小野皇太后歓子遂往生結
車
券一成
十
ま た
捧
:
"︶"(
$ 藤 除
@ 原 目
善 果
"
着工
朕怨
州
木ァ
棉買
コ
成
蔵方
ャ
雀
人ノ
事
頭朽専
守
㈹
部分的に
右掲 のうち、備考欄に X印を付した、㈹、㈲、㈲、㈹、㈹、㈹ の
各條は、﹁古事談ヒの説話の一部分又はその要目のみ
﹁
ム控
ユの中に見られるもので、両者の博 承窩係若論ず Ⅰ
Q場ムロに
は、割愛して差支えない。
その他の條にあっては、一部分相違鮎を有するものを含めて、 一
㈲中納言 顕基出家事
底両者の閣係る瞼訂してみる必要がある。
巻二倍 通不遇辞所帯事
のものと同様の説話を掲げるが、顕基
古来詔書に引用されて檜漿されるものである。﹁ム﹁
鏡ヒ には、出
家の原因について﹁古事
諮
が日常白楽天の詩を好んで詠じた事、出家後の後日譚 などはこれを
源寛費藏 破壊 事
御 かどかくれさせて給 てむゆかといふに。かしらをろ して。山ふ
載せない。更に、顕基の出家がコム﹁鋳レでは
"
かくこもり給へりけり。
一セ
と異同する。彼此、吉事 談ヒ のこの條は、草一の資 料 によ つたも
となっている鮎は、﹁古事談口の ﹁セ 々聖忠之後。登夫台棚嚴院 。﹂
︵
傍貼筆者以下司︶
源寛國碁療 数通痛事
國 農父 輔 追修泰山府君
祭報道貞冥途 館事
養二百
"
巻三覚行法親王 始事
息給事
巻末舞人 助忠被殺堀河天皇歎
若一役三條天皇政俊房絵事
巻六時 光授笠於武吉事
・
㈹ 巻セ
に ゐ まくら
事
やゑのし はぢ
時りl
竹口l
は 8 ムⅡのみこ
前
畝
筆
怪
農
特
献
Ⅱ
か
し
,
みのりのし
㈹巻尺
((
巻
⑫㈹
4
Ⅱ
㈲ 巻三
6
Ⅱ
の
ね
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㈲ 巻四
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)
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め
朝
いの る しるし
uf
か
は
の
ね
た
し
れ
る
㈹ 巻丸
0@
し
ふ
し
む
ら
の
の
一八
え
御覧つ本レ
円
古事談ヒ
の集
とし
考も
えも
申﹁
ム銃口
のでなく、幾典
つ掠
か
にの
よって顕要説話を編
た
いはし水の行幸はじめてせさせ 給ける︵ 後 冷泉院末。過差事
通
た
れる。因みに、この條、
の
夙前
に半
野は
村八良捕
民さ
がれ
指
9%
辞肩の﹁
績本朝往生
ヒ博
に﹁袋草子しその他
をの
参資
酌料
して に。ものみぐるまのとかなものうちたる 外之間。至ニ上官車用目
條
譚。
の後
出日
所は明 を。御 こしとどめさせ給てぬかせきせ給付金物こ面 俊二一院
抄録したものと考営
えつ
るて
のい
がるであろう
2時・留二
白でない。
いかひか藤訃か梼防いい。ひか恥いかい風姿。見物事 付金物 ヲ
㈹俊三條天賜
皇實
改銭
別詩歌
事
リ。中ノ
實政甲
が斐
守として赴任する時、東宮で天
あ皇
っよ
たり
後三條
今 二所。用
ヒら
に
は
と銭別の詩を賜わった由が、南曹ス
に
﹁
鏡
見
れるが、
なものぬきたるあとある車どもぞ。たち 也。賀茂行幸2時。外
ア
ワス
レズ
バオ
ナジ
空ト
八月
ワニョ八
程雲二
井メ
グリア
フマ@
金物事無二一両@ 々。
ならびて侍ける。
﹁随
古っ
事
し
談これ右
の和歌を賜わったことを掲げていないは
。
て
ののみ
ように一部分に異同が見られる。然し、傍 %を付 した部分は
裳の
詠﹁
﹂につ いわゆる挿話として考えることのできるもので、院の御節倹を言わ
編者の添加とぅ
もる
解が
し更に右掲の詩の
甘後
に
いての解説を付す
爾る
書
同こ
じと
でありながら容
、に
そは
の同
内一 んとする説話には不要と解されよう。﹁古事談レ ではナ﹂の條に引績
係は認めが き、院の節倹を示す簡略な説話を拳げた﹁俊三條天皇御倹約事﹂が
あり、この條も、便宜的な標目に拘泥せずに考えれば、その要牡は
たい。
同じく節倹を説くにあるのであって、その窟に不都合な挿話を削除
㈲俊三條天皇令扶車井
事金物給
した
較
俊三條院の事蹟を述べる一群の説話
雨者
のを
一此
です
あるが
、と考えることができる。字句の類同と、賀茂行幸の時の模様を
鏡L のこの部
ム﹁
付加した鮎を併せ考えて、﹁古事談ヒ 0編者 は、 ﹁
ると、
分を参酌したものと考えてよいであろう。
㈲俊三條天皇在藩蒔石金管絵事
法文を津いた事、長詩鬼 となって慈尊の下生に曾 いたいと語った事
い相違 鮎がある。後半の省略部分にあっては、薬智が、院の前にて
がたい。薬智、盆智は、音韻博承の場ムロ
には起こりうる異同である
等が南曹共に見えているが、夫々順序、構想において同一とは言い
勝
。 思 三葉今 生 真一テ兼
伸二千御持僧 勝範 座主 一
のみちをもふかくしろしめせりけり。
眞云
被且
昔 みこの宮におはしまし二時より。のり後三條 院在 藩 2% 。
範 ぎすといふ 人 まいり拾えづけるに。
と考えてよいが、遠かにこれを以て口唱説話を両者共に博廃 したも
ぅ。執れにしても、両者が無関係であるとは手一口え共
ず通
、の何らか
外典 知 二具言 止観 っ洞二
勝範奉レ仰 文俊。山上
特定の典抜を持つのではないかということが、省略部分をも併せ考
言 止観かねまなびたらん僧の。ぞくのふ
き 僧のおの づからたのみたるがなきにと
求レ文俊二。 令レ申云。
のであるとすることもできないので、なお後考を侯つ へきであろ
伸 られければ。顕密かねたるはつねの事
えることにより推定できるのではなかろうか。
みも応えたらん一人たてまつれ。きるべ亡者 可 Ⅰ選進 -也 一五々。
にてあまた侍り。からのふみの心しりた 已漫 二具仁っ是 西塔 益智
り簡略化されたもので、直接的闘係を認めうるか杏か疑間 である。
費目 に奉ったことが雨書 に見られるが、﹁古事談レのナ﹂の條はかな
泰憲民部卿の別業として作られた石田殿を、頼通 の求 めによって
㈹石田殿掌
智 といふ僧をこそたてまつられけるに。御坂 覧レ其鉢つ着二墨染 布
㍉古事談
レ のこの條の前後には、高陽院、花山院等の記事があり、
たづ ねて 申 侍らんとて。返りのぼりて。 薬参 三東宮っ却百二御前 -
わざとふりつくるめて。車などをもかさ 衣 狩袴等 っ思二葉今生之
数通着半管掌
し事を記し、日記にその時の模様が見られる由を指摘している鮎、
掲出を省略するが、爾者共に大二株殿が冬の束帯に半督を着用せ
㈹御遊
繭者の比較のみでは決定的窩係は明らかにしがたい。
同類の備忘的記録として、この條が記載されたものに違いないが、
却 百ニ
れざりけるにや。かり は かまに む まにの事吉日 已見二其捧 。
わたる僧の。座主の房よりとてまいりた御簾 之 前 っ
り ければ。 のしよせてみすこしにたいめ
ん せさせ 結 えりけるに。
文飾にはかなりの異同が認められるばかりか、﹁
ム﹁鎮目0% 智を ﹁
︵
中Ⅱ
共通している。両者の間にほ直接的博承諾係があると認めてよい。
右掲の如く、この條は、説話の梗概に大なる差異はな いが、なお
事談ヒ では姦智としているなど、直接的書承の場 ムコ
に は考えられな
一九
㈹小野皇太后歌手遂往生結事
記すが、
この部
天 ﹁鋳ロのこの巻は、白河院の小野皇太后宮への御幸を
その最後に、后宮往日の最勝王経書嶌 の 寮 験を述べて いて
市
拾遺往
重家出家事
ヰ@
ハ
@
イ
@ウ
殆 どそ れを 書 藤
この雨音
薦 康の
分が ﹁古事談﹂と共通するが、なおこの條は・三善
生侍 b ︵下︶の皇太后宮敏子の條に依った形跡が著しい
を 照合するに、その一部の語句を省略するのみで、
㎝威信
していると考えられるので、自今鏡口 とは 窩係 がないと 見
ヰす︶
長保三年二月四日の威信、重家の出家について 宋 ﹁鏡山 @
@
重家の出家の消息見えし事
㈲威信、重 家 契約して 慶詐何 %梨の室にて出家せし事
㈲行成大納言の夢に、
或説 には、陣の座にて四納言才孝吐露するを五間 き て、奉公
6車
㈹発心の原因は年来の初志の上に 、 一の人の病臥を 見 たるにあ
㈲
昇進せんとすることの恥多きを知った篤という
いで 結 けるよは。富家の
二O
或 誠ニ 云。地面火三井 慶詐ノ 重ニ 往合
少将 何 をやの大臣 殿にいント 契タりケルニ 。中将 ハ トク往テ待
レバ。白酒 豫事ナ ドアルニ ャ トテ 。 先
とま申給 ける。お ほかた給 ケレド。 夜 フタルマ デニ くエザリケ
とどめらるべきけしきも
% ヌレテ来 タリケリ。中将新登 イカ 二
む かりけれ ば 。 えとどめ出家シテ 暁婦 ントスルトキ。 少将 は霜
たまはぎりけるともきこ
ヤョベ ハ徳カネ 申 テナン。 先 遂侍 リニ
バ。何時シニ。 昨 日 シモ 便
え侍き 。行成の大納言の
う にぞ 侍るなる。これは不孝之曲率
日ヲ タガ
ヘジトテ 。 ョベ髪ラ バ切侍 ナリ トゾ被
こと人のかたりはべりし 宣 アシキ掌侍 テ暮二 シカ
なり。
答 ケル。
の如くであって 、殆ど直接的窩係 にあるものとは認めがたい。とり
わ け ﹁古事談ヒ のこの條は 、㈲の部分のみが著しく仮 名の多い文章
になっていて、 全膿に幾條かの説話を書き繋いだ感が強 い事が注意
があったとしても、それは直接的開係 によるものでな く、 何らかの
﹁鋳ヒと の間に共通性
される。随って服りに㈲㈲㈲の條について 申ム
の如き順序でこれを述べる。一万円古事談しのこの條 は、右の項目
記録類 に依って、両者が夫々に編集記載したものであると考えられ
㈹出家の夜富家、父の大臣に 暇 申されし 事
に随えば、㈲小円寺 ㈲ 妓㈲の構成をとり、けについては全 くその 記
るようである。
註①
因みにこの條に 窩 しては、安藤菊二氏が﹁古事談出典小考﹂の中
妻 がない。 又、㈲㈲㈲については内容に柏嘗 な類同性 があ るけれど
も、 ㈲においては最も差異が甚しく、
で、行成卿の夢の件は、恐らく﹁中外抄﹂﹁富家請談﹂ に類する
㈹ 時光授生於武吉事
この條前半は、宗像が持光 より大食請人% を博捜されん として
極 殿に赴いた事を記し、後半、それに先だつ政吉の事を記すが、
の和歌贈答は雨者にかなりの相違がある。﹁古事談ヒは 日﹁
ム
現
杜し
接りながら﹁千載集ヒに依って改めたものかと疑われるが、﹁千
集ヒとも異同がある。伊通籠居の原因その他を、夫々何か他の記
類 によって記載した臆の類似であろうか。後考を侯つ。
㈹ 源寛費藏破壊事
㈹ 源寛園碁療数通痛事
この三傑はコ今鏡b では引績いた一つの説話として掲げられて
るもので 司
古事談ヒ でも本来一つのものである。次竺 下す如く、
句の細部まで一致する鮎が多く、両者は直接的善承闘係を有する
末
依 本 金人
順
と
に
録 載
語 い
も
のと考える。
源覚
祀林 寺の僧正ときこ ゑ結 けるが。宇治の禅林寺僧正。
宇治 殿へ
おほ きをとどにや わほ しけん。ときの関板レ ニエ消息 一
云。
加二修理一国レぬ咀で々。一仏
實藏實藏 破壊 シ ア侍り。
のやぶれて 侍。すりして給はらむと持け
被 レニ エ村家司
白 のもとにせ う そ く たてまつりて。
ねば 。家のつかきなにのかみなどが ふ。
採二損色 -遣 三下家司 -
篇レ
ぅけ給はりて 。しもけいしなどが ふ もの
示 二具由っ
由 っ石目御使 -
㌔
つぎが みぐして。僧正のば う にまうで
ふ。 殿 よりほう ぎ うすりしっかりまつら
ん とて。 ゃぶれたるところぐしるしに僧正閏ニ化
直 仰天。 イ カ二方 ク不
テハ君ノ御 後見イカ マ
へには士
おリ
はる 露見二八缶仰哉
山。
笠姉様 ニ
なんまいりたると申 けれ ば 。僧正 よ びよ
せ払栢て
。いかにか ノ人
ふか ノ
ぞ 。お ほや けの 御 うしろみも。かくては
一ト云々。
有國農父舗道傍泰山府君 祭鋪道 自 冥途 婦事
いかどし 給と 申せと 侍 けれ ば 。
㈹
この 條叉 両者殆ど全く同文である。南曹の書承開係 を認 めたい。
㈹除目執筆怪異事
或説 として
一部分に省略はあるが、前段と同じく語句内容殆ど同じである。
後半 柏井が 聖天供を修せし由が見えるが、その條でも、
掲げる説話まで完全に一致する。直接的関係は否定できない。
一一一
ゆ 藤原農時献書任越前手事
ム﹁
めめし
諸善に見える著名な説話であるが、ョ
古事談レのこの條は ﹁
に比して著しく簡略であり、直接的閲係は明らかでない。按ずるに
門
古事談しのこの説話は刊績本朝往生博ロの、一條天皇條に掲出す
るところの、臆時の説話と、語句構成共に殆ど完全といつてよい程
一致するので、右の資料は
、他の條の出典でもあり、本條もそれか
ら書票したものと考えるべきであろう。
㈹奥州アコ ヤノ松事
円
古事談L の﹁奥州アコヤの松事﹂は、實方 が阿古耶の松を尋ね
㈹ 實方怨木棉蔵人頭成雀事
た逸話に、陸奥にて菖蒲の代りに菰を葺かせたという話を付加した
極く簡略なものであるが、 因﹁
鏡﹂では、この後半の話と、實方が
雀 になって殿上の台盤に来たという説話を、かなり詳しく記載して
一一一一
るが、繁簡自
何れにしても 天﹁鋳ロとの間に説話の共通は認められ
㈹、㈹。㈹
、
さて、以上のように各條を検討してみると、㈲,㈹,
㈲、
8差があり、直接的閲係は認められないと思う。
@、
n
㈱n
。r
㈹の番係
は、直接的博承閲係を否定せざるをえず、残りの
㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹
の各條が、直接的停廃開係をもち、㈲ほ根%弱く保留ということに
なる。
の資料乃至
現在までの﹁古事ヒ
談の出典研究にあっては、漢胆
文
、和文
は、仮名交り漢文調の資類
料が、その出典として指摘ね
さ
の鏡ものふ如きは
織れられることがなかつたのであ、
る右
がのよう
に検討して来たところに随い
セ、
ケ條は他に明白な
典抜が指摘でき
ム
﹁
鏡
ず、直接的交渉を無視できれ類同性をもつところ﹁
か
らしとの
古事談の著者は、原典から説話を抄出するにあた
っど
て原典
、殆
随って、従来の研究において例えば、
とた
思う。
へき
。であることが明白になっ
いる。然して﹁古事談ヒの 阿古耶の松の事は円平家 物華府㎏養二ハリ 間に書啓開係を想定す
﹁阿古
耶松﹂に述べられる實万の逸話と酷似しているので、両者に
る。
量的にも、更に質的にも同一であるといふことが
出
来
﹁宇治拾遺物語と古事談係
の﹂
瞬矢吹重政
③註
の上に愛
改が加へられなかつたことは明かで、先述
にへ
もた如く
少る
く。
とも、文叢
のままといつてよい程度に採録したことが分
ヒ
何らかの闘係があったと想定されるが、﹁平家物語Lが ﹁古事談
に掠ったか、或は爾者が共通の未知の資料に披 つたかは明白にでき
ない。日吉事談しは實万の逸話として阿古耶松の件を記したあと、
更に實万に窩する説話を思出して、菖蒲の代りに菰を葺かせた事、
雀 になったという博説などを簡軍に併せ記したものと考えられる。
従来指摘されている、往生博類、公卿日記、記録頽る 出
という風 にきとめられた概括的見方とは相容れない鮎が生じて来
のである
典 とする 説話についての 博承形式 は 、 右掲の結論に抜れるとし
も 、 更に それらのみでなく﹁古事談目の中には、編者が和文膿め 資
料を参 閲 しながら、適宜それを準漢文 調 の文購 、乃至は嵌名 交り 文
﹁古事談Ⅰの編者が、庶族 に依って説話を書 啓 する 場
。
に 改めて 行ったものがあることを認めなければならないと思,フ
更に 又
ムロ、その
原窩に勤して質的改愛を加えていることは、小穂 の 瞼討範
里にあっ ても殆ど見られなかつたとしても、量的には、或る程度
説話の内容、或はそれを取上げる目的に蕪 じた、抄略や添加が なさ
れたので はないかという何 % が、 右の検討にとりあげた㈹、 ㈹ 、 ⑳
等の各 係を見ることによって指摘できると考えるのである。尤もそ
れらの場ムロ
における省略なり添加なりが、いわかる創意的登想 と如
議し
何に 窩係するものであるかということは、別の資料をも併せて改め
て瞼記 す 。へき問題であるのでこ二では籠れない。
そして 、以上のようなことが認められるとするならば、﹁古事
における 、漢文 魁 、候名交り文 膿 というものは、必ずしも雨域の原
典の文 胆 にそのま ふ閲係 しない、便宜的なものが交っているのであ
博率法の相違から費ら
つて、 例 えば、漢文調 のものはその説話が書承的であり、候名 父り
丈 に近い もの種井書承 的であるという風な、
しとも明白に
された相違であるとは、必ずしも考えられないというナ
なって来ると思うのである。
係﹂國串焼雑誌 昭Ⅱ・ 9
右損益田氏論文、矢吹重政 ﹁宇治拾遺物語と古事談 の 蕗
安藤菊二﹁古事談出典小考﹂日本文事研究田打・ 2
究 5號
註①益田勝美﹁古事談と宇治拾遺物語との 窩係﹂ 日本文学史研
註②
註③野村八良﹁鎌倉時代文革新論﹂一八六頁
註②前掲矢吹反論文
註④ 註①所掲 安藤氏論文
註⑥
なお、資料不足のため益田氏の右掲論文は未見である。氏 の御講
に抵鯛する粘があればど批正を賜わりたい。