組織は戦略にしたがう - 京都産業大学

経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
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Revised ed., 2010, 2011, 2013.
木:12月4日・11日
火:12月9・16日
Modern Management in Historical Perspective (Autumn Semester)
第3部 戦略と組織
第5章
組織は戦略にしたがう
──ジェネラル・モーターズ社の事例──
規模が大きくなった国は一つの国で
はない、いくつかの国々の集団だ。
── プラトン『国家』422E
わたしの財産は持っていっていい。しかしわた
しの組織は残しておいてくれ。そうすれば,5年ですべ
てを取り戻せる。 ── Alfred P. Sloan, Jr.
この章の目的:
- 企業のイメージをさらに豊かにするために、戦略と管理組織 (management structure) との関係について理
解を深める。そのために、ジェネラル・モーターズ社 (GM) の事例をとりあげる。
- 創業者デュラントの思想と行動に即してGMの成立過程を辿り、同社が直面することになった経営問題
を理解する。
- 問題解決策として導入された事業部制管理組織 (multi-divisional structure) とはなにか? その特徴を明ら
かにする。
GM略年表
1904
ウィリアム・C. デュラント、破産した Buick Motor Co. を買収する。
1908
9月8日、持株会社GM創設。デュラントはこの年の暮までに、ビュイック、オールズ、およびフリント
のボディー・メーカーの株式を買い取る。続く一年半のあいだに、キャディラック、オークランドその
他の自動車会社6社、トラック会社3社、部品・アクセサリー会社10社の株式を、全額あるいは相当
額、支配する。
1910
デュラント経営権失う。彼は経営そのものに関心がなく、この年の軽微な景気後退で、GMの経営から
放り出される破目になる。
1915
1916
James J. Storrow 去る。
8月、デュラント社長、ピエール・デュポン取締役会長。デュポンはデュポン社の戦時の拡張経営に忙し
く、GMはデュラントの思いのまま。
1919
ウォルター・クライスラー、デュラントと対立し退社。
F. Donaldson Brown (1885-1965) がチャートシステムを開発する。
1920
戦後不況
11月20日、デュラント辞任。
12月29日、ピエール・デュポン社長就任。
12月30日、スローン案、取締役会で承認される〈組織改革〉
1921
9月、事業部制を採用する。
1922
事業部間委員会
1924
春∼夏、自動車生産激減、全ディーラーから旬間販売報告
1925
新組織の完成
2009
6月1日、連邦破産法11条を申請。一時国有化で再建をめざす。
1
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
1.進路を模索する企業
a) 企業には生存領域がある──企業のドメイン(前回の復習と今日のテーマ)
b) 企業は自分自身を変えながら生存領域を広げる(多角化と多国籍化、戦略と組織)
c) どこでどのように生きていくかで企業の性格は決まる(企業のアイデンティティ)
d) 事業部制管理組織──本章で検討する「組織」は何か
e) 本章の課題
2.GMはどのようにして生まれ、いかなる問題をかかえたのか?
a) 「大きな弱点をもった偉人」デュラントによる創業 (1904-1910)
b) ストーローによる組織改革 (1910-1915)
c) デュラントの再登場──事業拡大・統合路線の再開 (1916-1920)
d) デュラントの失脚とピエール・デュポンの登場 (1920)
3.アルフレッド・スローンはどのような問題解決策を提示したのか?
a) アルフレッド・スローンの人となり
史料5
b) スローンが見出した問題と『組織研究』の動機
史料6
c) 『組織研究』の設計思想
史料7
4.事業部制管理組織の特徴
a) 組織は戦略に従う(アルフレッド・チャンドラー、 Jr. による定式化)
b) 事業部制管理組織 (multidivisional organization) の眼目
史料8
c) 組織と市場との関係から事業部制管理組織を考える
(1) 投資利益率による各事業部の業績評価
史料9
(2) 事業部間の取引は市場取引と少しも変わらない
史料10
5.事業部制管理組織のその後
a) GMの歴史的位置
資料11
b) 事業部制管理組織の広がり
c) 企業経営の専門職化とそれを支える制度
(1) 専門職化
資料12
(2) 経営大学院の発展
2
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
1.進路を模索する企業
a) 企業には生存領域がある──企業のドメイン(前回の復習と今日のテーマ)
企業という〈生きもの〉は、単に環境(=外部環境)に受動的に適応するだけではない、しばしば環境に対し
て創造的に働きかけて、それを部分的に作り替えていく存在である。こうした企業の性格は、究極的には、組織
の構成員、つまり人間という生物の特異性に起因している。つまり人間が、言葉をあやつる術を身につけ、「環
境を改変し管理していく、進化史上特異な生物である」ことに基づいている。1
それでは問うが、企業は自分の思いのままに環境を作りかえ、どこででも自由に生きていくことができるのだ
ろうか? 答えは諾であり、同時に、否である。企業は自然界の生物に比べればはるかに環境適応能力に恵まれ
ている、しかし、それにも自ずと限界がある。個々の企業にはそれぞれ生きていく場というものがあり、外部環
境のうち意識的に2 作り替えられる領域はある限られた範囲内においてでしかない。いわば企業には、生きてい
こうとしている場所、つまり生存領域や活動領域がある。これを( )(domain)という。企業
が現在および将来にわたって事業を営んでいこうとする領域や範囲のことである。
企業のドメインとは、別言するならば、「貴社の事業はなんですか」という問いに対して、あらかじめ用意し
ておくべき回答である。自己の社会的な存在理由なり存在意義だといってもよい。ドメインは、一般的には、次
の二つの要素で表現されることが多い。すなわち、(1) どのようなコア技術ならびに内部蓄積された経営資源を
つかって、(2) いかなる製品やサーヴィスを提供するか、である。たとえば、フォード自動車会社の場合は、単
一モデルの大量生産(フォード・システム)を通じて、消費者には良質で低価格の車を提供し、労働者には潤沢
な賃金収入を与えることによって社会に貢献することであった。またIBMは、「わが社の事業は機械を売るので
はなく、製品の機能を売る。したがって顧客の問題解決に奉仕することである」という。このように多くの企業
は、自社の得意な技術と社会への貢献の仕方で定義している。
b) 企業は自分自身を変えながら生存領域を広げる(多角化と多国籍化、戦略と組織)
企業と自然界の生物との違いはドメインの決定権の有無にある。自然界の生物は自己の生存領域を途中で変更
することはできない。自然界の生物にとって生存領域は同時に制約条件でもあり、生まれ育った環境を大切にす
る性格が遺伝子に組み込まれている。たとえば、マグロやカツオは暖流に乗って北上する。途中で寒流に乗り換
えることなどできない。北極熊が熱帯雨林で生活することはないし、鯨が湖で泳ぐなど考えられない。だが企業
はその点が違う。ある程度まで環境を変化させることができるし、事業の範囲、つまり生存領域を意識的に拡張
することもできる。(1) 新しい市場に新製品を投入して新しい顧客を創造する──既存の事業とは異なる市場分
野に事業を拡張する──( )、および (2) 海外に事業拠点を設ける( )と
いうかたちで生存領域を拡張している。実際、今日の大企業のほとんどは、多角化 (diversification) し、多国籍化
(mutinationalization) している。生物学的な比喩を使うなら、寒冷地と熱帯地方、あるいは海と淡水湖の両方で生
きられる存在へと企業は進化しているのである。
1
佐倉統『現代思想としての環境問題──脳と遺伝子の共生──』中公新書1075 (中央公論社, 1992), 112-14.
引用句は114頁から。さらに説明を付け加えておくならば、環境を作り替えるという人間の営みが,ある時期を
起点にして突出してきたという歴史的事実も見逃してはならないだろう。ほぼ16世紀半ばから17世紀にかけての
近代ヨーロッパという時空間(宗教改革の時代)の中で、自然は人間(=主体)が支配し管理していく対象(=
客体)であるとみなすものの考え方が特異なまでに膨張し(=近代的自我の確立)、これがその後ヨーロッパに
よる世界侵略の歩みに即して全世界に広まっていったという事実、および技術史・経営史的には、18世紀末葉の
英国産業革命を契機とする産業技術の急速な発展と、19世紀後半の米国における大量生産体制の成立に助けられ
て、自然を支配し管理するためのテクノロジーが急速に力を得るようになったということも、ここで併せて確認
しておきたい。こうして人間は,生物一般の法則から徐々に自己を切り離してきたのであり、われわれ現代人は
そうした生物進化と歴史的変化の先端(あるいは末端)に生きているのである。
2
なぜ「意識的に」という表現を入れたかというと、人類はしばしば自覚することなく、あるいは意図せざる結
果として地球環境に甚大なる影響を及ぼし、自らコントロールしえない領域をも造りかえてきたからである。環
境を支配しコントロールするという他の生物に見られない特異な力能を授けられたがゆえに人類は繁栄したが、
しかし同時に自己の生存条件を危機に陥れてもいる。これが地球環境問題の特徴なのであり、このような人間と
自然との関係は企業と外部環境との関係にもそのまま当てはまる。企業が地球環境問題にどのように対応してい
くかに人類の将来がかかっているといっても過言ではないだろう。
3
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
事業範囲の拡張や変更は企業にとっておおきな決断である。人の生涯にたとえるなら、生きる道をさまざまに
模索し、複数の選択肢を考え抜いたうえで道を選択(=意思決定)することを意味している。「自分はどのよう
な人間になりたいのか」「どのような人生を送りたいのか」、これらの問いに悩みながら、自分で決断せざるを
得ない。企業も同様に、どのような方向へ事業を広げていくべきか、選択肢を見つけ出して、選びとることにな
る。その際、どこでどのように生きていくかという人生の指針に相当するものが、企業の戦略 (corporate strategy)
である。
企業が成長していくためには、自分自身を作り替えていく必要がある。新しいものごとに挑戦するために、人
は専門知識を身につけたり、経験を積んで、自分自身を鍛えなければならない。企業も同様である。自分自身
(=組織構造)を鍛え直すことによって、新規の事業開拓(多角化)も可能になる。したがって、事業の範囲を
拡大していく過程は、単に外部環境に働きかけるだけではない、自分の身体をも同時に作り替えていくプロセス
なのであり、もしもそれを怠ると寿命を縮め死期を早める結果(=企業破綻)にもなりかねない。
かくして戦略(人生目標)と組織(自分の身体)との間には相互に密接な関係がある。企業は戦略に合わせて
組織を作り替えていく必要があるし、逆にまた、すぐれた組織を編み出すならば、新しい地域に事業を展開した
り、異なる製品市場に進出するなど、事業の範囲を拡張する余裕も生まれてくる。戦略と組織との間にはこのよ
うにダイナミックな相互作用が働く。つまり、組織は戦略にしたがう、そしてひとたび組織が整うと、さらなる
多角化戦略を導くことになる。3
c) どこでどのように生きていくかで企業の性格は決まる(企業のアイデンティティ)
どこでどのようにして生きていくかによって企業の基本的な性格は形づくられる。このような基本性格のこと
を( ) (corporate identity = CI) という。英語のアイデンティティは訳しにくい
言葉である。その道の専門家がカタカナ表記で済ませたり、英語の頭文字をとって CI と略したりしているの
はそのためであり、単に格好をつけようとして英語やカタカナを使っているわけではない。この言葉を英和辞典
にあたってみると「自己同一性」とか「独自性」といった漢語表現が並んでおり、ますますわからなくなりそう
だ。それで私なりにかみ砕いて説明してみよう。たとえば、仲間うちの対話の中で、共通の友人について「あい
つは自分というものをもっている」とか「あいつは芯がぶれていない」こんな評言を耳にすることがある。その
ときの「自分というもの」や「芯」がアイデンティティである。あるものごとにとことん打ち込んでいるとか、
趣味やスポーツや学問に秀でているとか、何にせよ地道に積み上げてきた努力や知識や経験を土台にして、自信
をもって生きている人物に、このような言葉は使われる。これは企業経営にも当てはまる。「わが社はこんな得
意技をつかって、こんな分野で力を発揮したいと考えている」というふうに他者に対してしっかり説明できる、
自信に裏付けられた企業の基本性格なり特徴、これが企業のアイデンティティである。
ドメインが上手に設定されると、企業経営者や従業員の活力と自信の源泉になる。いま少し具体的に云えば、
経営目標を限定して組織構成員の集中力を高める効果を生み、どのような種類の経営資源を蓄積すべきかについ
て指針を与え、また企業に単一の組織体としての一体感を醸成する働きを有する。こうした諸々の効果が相まっ
て企業のアイデンティティは徐々に形づくられていく。それゆえ企業のドメインを限定するときには、そのよう
な効果を予感させる魅力的な言葉を案出することが重要な作業になってくる。たとえば東芝の“E & E”(Energy &
Electronics) といったキャッチ・フレーズは、技術の強みがどこにあり、どの分野で生きていくのかを簡潔に表現
して自信にあふれている。言葉の力は偉大だ。
ところが、中には自分がどこでどのように生きていくのかを明瞭に意識することなく(=ドメインを設定する
ことなく)過ごしている企業も少なくない。自然界の生命体は自分がどこで生存しているかなど意識していない
のだが、しかし企業という人の作った制度 (human institutions) の場合にはそれでは困る場合が必ず出てくる。と
りわけ今日のように経営環境が大きく変化しているときには、たえずドメインの再定義に向けて意識を開いてい
ないと、ある日突然に事業範囲を再検討せざるをえない事態に追い込まれ、途方に暮れてしまうことにもなりか
ねない。自分がどこでどのように生きて行くべきかが分からなくなると、ついにはアイデンティティの喪失とも
いうべき不安定な精神状況に陥るわけであり、これは単に人について言っているのではなく、企業にそのまま当
3
チャンドラーは戦略と組織とのダイナミックな相互作用を視野の中にちゃんと入れていた。ところが、彼が懸
念していたように、「組織は戦略にしたがう」structure follows strategyという命題が独り歩きしてしまい、日
本の経営学者の間に、的外れなチャンドラー批判が現れることになった。曳野孝「経営者企業、企業内能力、戦
略と組織、そして経済成果」『経営史学』第44巻第3号 (2000年12月): 60-70.
4
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
てはまることなのである。それゆえ理想を云えば、普段から企業ドメインの設定に気を配り、変化への適応力を
高める方向で経営資源の蓄積を進めていくのが望ましい。
d) 事業部制管理組織──本章で検討する「組織」は何か
組織にかかわる用語をここで整理しておこう。前章で述べたように、「組織」にはさまざまなレベルと種類が
ある。それゆえ、「組織」という言葉を使うときは、どのレベルのどのような組織について話しているのか、あ
らかじめ共通の理解を作っておかないと、大きな誤解の元になる。それゆえ、本節では、経営史家チャンドラー
の学説に基づき、経営史学の分野で広く用いられている概念について説明しておこう。なお、あらかじめ断って
おくが、チャンドラーの理論はアメリカ経営史上の出来事に依拠して構築されており、他国の経営史を分析する
際には比較の座標軸として役立てることができる。
本章で取り上げる「組織」は、近代企業の階層的管理組織である。これはさまざまな管理職能 (managerial
functions) を組み合わせて構成されており、それによって事業活動の調整がなされる。このような「管理職能の組
み合わせ」のことを管理組織 (management structure; management organization) という。
まずは第2章で学んだことを振り返っておこう。近代企業(複数事業単位制企業)が成長すると、その全体的
な組織構造 (corporate structure) は二つの方向で変化していく。(1) 管理階層が ピラミッド状に積み上がっていき
階層的管理組織 (managerial hierarchy) が現れるとともに、(2) 管理の専門職化 (professionalization of management)
が同時に進展する。まずはミドル・マネジメントの職能が細かく枝分かれして、購買、生産、財務、マーケティ
ング、労使関係などが固有の専門領域とみなされ、それぞれの領域において専門職化が進む。そして1920年代に
入ると、トップ・マネジメントの職能が専門職であるとの考えが広く共有されるようになり、所有と経営が分離
していく。ここでは、すでに学んだ以上の知識を前提にして、さらに二つの企業類型と二つの管理組織について
学ぶ。
近代企業は、階層的管理組織の発達度合いと管理の専門職化の進捗度に応じて、おおきく二つに分けることが
できる。すなわち、企業者企業 (entrepreneurial enterprise) と経営者企業 (managerial enterprise) である。近代企業
は多数のミドルの専門管理者を擁しているが、若干の企業においては、企業の創設者である企業家とその近しい
友人や家族が、株式の大半を所有しつづけ、経営意思決定に大きな発言力を保持していた。このような近代企業
を企業者企業という。これに対して、近代企業の多くでは、創業者一族はもとより大半の株主も管理上の知識や
実務経験に乏しいことから、彼らに代わって専門経営者 (professional manager) が長期的な政策決定(戦略的意思
決定)を担うようになった。つまり、所有と経営の分離がすすみ、俸給を得て働く経営管理者 (full-time salaried
executives) がミドルだけでなく、トップ・マネジメントをも支配するようになるのである。このような企業を経
営者企業と呼び、かかる企業が経済の主要部門を支配するようになった社会のことを経営者資本主義 (managerial
capitalism) という。4
階層的管理組織は、トップ・マネジメントの職能の集権化と分権化の度合いやそのかたちに応じて、おおきく
二つに分類される。すなわち、集権的な職能部制管理組織と分権的な事業部制管理組織であり、それぞれ職能部
制と事業部制というように簡略化して記されることも多い。大規模産業企業の管理に用いられた基本的な組織構
造はこの二種類だけであった。この二つについて敷衍しておこう。
まず、職能部制組織=U型組織 (unitary structure; U-form) について。企業は、事業の規模と複雑さが増大するに
つれ、小規模なときには経験しなかったような種類の管理上の問題に直面するようになる。そのような問題の解
決策として種々の管理組織が考案されてきた。19世紀末のアメリカで、単一製品の製造に特化し、多数の職能を
もつ近代企業(複数事業単位制企業)が台頭してきたとき、これらの企業は職能部制組織で運営されていた。食
肉という単一製品だけを大量に扱うスウィフト社、ミシンという単一製品を大量に販売していたシンガー社、モ
デルTという単一モデルを大量生産したフォード社などは、この管理組織でうまくやってゆくことができた。こ
4
企業者企業は、常勤の俸給管理者がミドル・マネジメントを支配している企業のことで、これに対して経営者
企業は、ミドルだけでなくトップ・マネジメントをも支配している企業のことをいう。伝統企業はこのような専
門管理者の支配を受けていない個人企業のことである。Chandler, Alfred D., Jr., The Visible Hand: The Managerial
Revolution in American Business (Cambridge: Harvard University Press, 1977), 8-10, 381-82, 411-18; チャンドラー『経
営者の時代──アメリカ産業における近代企業の成立──』鳥羽欽一郎, 小林袈裟治訳 (東洋経済新報社, 1979
& 1982), 720-21; 塩見治人「チャンドラー・モデルと調整様式」『名古屋外国語大学現代国際学部紀要』第5号
(2009年3月): 5-6, 11-21, 662. 720-22.
5
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
のような組織の発達段階にある近代企業には企業者企業が多く見られた。単一製品を扱っている関係上トップ・
マネジメントの仕事量は限られたものであり、そのため創業者一族が実権を握り続けることも可能であったから
である。
次に、事業部制組織=M型組織 (multidivisional structure; M-form) について。U型の企業がさらに成長して、単
に規模が拡大するというのではなく、多角化や多国籍化を通じて事業の範囲と複雑さが増大していくと、管理上
の新たな困難に直面することとなる。もっとも大きな困難はトップレベルの管理者が抱えるようになった意思決
定の過重さであった。あまりにもたくさんの決定事項に忙殺されると、適切な判断ができなくなってしまう。そ
うした困難の克服策として考案されたのが事業部制組織であり、米国では1920年代以降、多くの基幹的な産業
分野で普及した。5 本章で詳しく検討する「管理組織」がこれである。このような組織の発達段階にいたった企
業の多くは、以下のジェネラル・モーターズ社の事例に見る通り、所有と経営の分離がすすみ、経営者企業へと
転換していくこととなった。
e) 本章の課題
この章では、戦略と管理組織との相互関係について理解を深めるために、米国の自動車メーカー、ジェネラ
ル・モーターズ社 (General Motors Corporation; GM) の草創期の経営史を繙いてみよう。同社が事業を拡大してい
く中で、いかなる問題に直面し、それに対してどのように自分を作りかえて(=管理組織を組み替えて)対応し
ようとしたのか、あるいはしなかったのかを観察することにより、企業という〈生きもの〉の性格をさらに探っ
ていきたい。
なお、草創期のGMを事例研究の対象に選んだのには、いくつか理由がある。もっとも重要な理由は、この企
業がアメリカ管理史上傑出した存在だからである。同社でなされた管理上の革新は、やがてアメリカ産業ばかり
か広く海外の企業によって模倣され、一時は大企業の標準的な組織とみなされるようになった。したがって、
GMが直面した困難、その克服の仕方、成功と失敗を学ぶことは、多くの企業に共通のことがらを学ぶことにな
るのである。6 そしていまひとつの理由は、一見すると上の理由と正反対のようだが、GMがきわめて個性的な
企業家によって創始されたために、企業の性格が傍目にも分かり易く、意思決定の中身や組織のありようを観察
するのにうってつけだからである。その創業者こそ、ウィリアム・C. デュラント (William C. Durant) その人であ
る。
2.GMはどのようにして生まれ、いかなる問題をかかえたのか?
a) 「大きな弱点をもった偉人」デュラントによる創業 (1904-1910)
GMはウィリアム・デュラントの野心の産物であった。ミシガン州フリントで保険の外交員をやっていたデュ
ラントは、知人を誘って馬車製造で大もうけし、その資金を使って自動車産業に進出した。破産したビュイッ
ク・モーター社を1904年に買収したが、その後の同社の急成長が彼の野心に油を注いだ。1920年までのGMの
歴史は、創立者デュラントが企業連合と垂直統合という手段で、事業範囲を拡張するという戦略の物語なのであ
る。1908年9月16日、デュラントはジェネラル・モーターズ社という持株会社を設立し、同年10月1日にビュイッ
ク社を、11月12日にはオルズ社を、さらに翌年にはオークランド、キャディラックの両社を吸収した。GMは、
全体としては一つの本社を中心に、それぞれ自主的経営を営むいくつかの子会社が衛星のように取り囲む形とな
5
O.E. ウィリアムソン『市場と企業組織』浅沼萬里、岩崎晃訳 (日本評論社, 1980), 223-56. 私と異なるチャン
ドラー理解は、安部悦生「チャンドラー・モデルの行く末」『経営史学』第44巻第3号(2009年12月): 45-46.
6
経営思想家ピーター・ドラッカーは述べている。「なぜジェネラル・モーターズがアメリカ大企業の代表的な
事例として最適なのか,これにはいくつか理由がある。まず第一に,わが国最大の産業企業だからである。戦前
には25万人を雇用しており,第二次大戦期のピーク時にはその倍も雇用していた。また自動車産業の最大手であ
り,現代の大量生産産業のパイオニアもである。ということは現代産業社会がかかえている問題状況をもっとも
よく表現しているということだ。しかし最大の理由は,アメリカ大企業の中でジェネラル・モーターズこそは,
私の知る限り,四半世紀にわたって経営政策上の基本問題に強い自覚をもって取り組んできた唯一の企業であ
り,現代企業が社会制度だという考えに立って経営方針を計画的に定めてきた唯一の企業だということである。
かくしてジェネラル・モーターズ社の意思決定,つまり同社の成功や困難や失敗は,すべてのアメリカ産業にと
って意味がある。」Peter F. Drucker, Concept of the Corporation, 2d rev. ed. (New York: Harper & Row, 1983), 23.
6
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
った。1908年から1910年までのわずか3年間に、株の交換を主とするさまざまの手段によって、25の会社をGM
の傘下に編入した。このうち11社は自動車会社、2社は電灯会社、残りは自動車部品および付属品のメーカーだ
った。7
デュラントはビュイックや馬車会社で効果をあげた大量生産と垂直統合の戦略を踏襲していったが、経営その
ものにはほとんど注意を払わなかった。需要の減少に備えるでもなく、組織を作って事業を統括するでもなく、
それによって企業合同の経済効果をあげるでもなかった。そのために、1908∼10年の売上のほとんどを構成し
ていたビュイックが不振に陥るや、部品納入業者や労働者への支払に困り、ボストンおよびニュー・ヨークの個
人銀行のシンジケートからの融資と引き替えに、5年間の議決権信託協定 (voting trust-agreement) を受け入れざ
るを得なくなる。のちにGMの社長となるアルフレッド・スローン (Alfred P. Sloan, Jr.) はデュラントその人と当
時のGM車の実力を次のように評している。
【史料1】デュラント氏は、大きな弱点をかかえた偉人であった。彼は創造しても管理できなかったから
だ。彼は、最初は馬車、ついで自動車業界で、四半世紀以上にわたり創始者としての栄光の座にあった
が、失脚した。……
こうしたデュラント氏のやり方[合併戦略]は、長い目で見た場合の最終的効果はさておき、当座の結
果としては氏の失脚をもたらした。それというのも、本来GMに備わった実体といえば、ビュイックとキ
ャディラック──とりわけ質と量の両面を総合したビュイックの実力だけだったからである。GM車の生
産の大半はもっぱらこの両車種に依存し、それだけで1910年にはアメリカの自動車生産の約20パーセント
を占めた。8
b) ストーローによる組織改革 (1910-1915)
第一に、GM傘下の企業を整理統合し、第二に、これらの企業を統括するための本社を設立した。この第二の
問題について、銀行家グループと、そのスポークスマンであるGM財務委員会審議長のジェームズ・ストーロー
(James J. Storrow) は、全事業活動を集権的な組織にまとめようとの意図はなかった。しかし、自立的な傘下会社
間の協力をもっと推し進め、子会社に対する管理を強化しようと考えていたことは事実である。その第一歩とし
て、本社機構をニューヨークからデトロイトに移した。さらに、[ビュイックの社長であった]チャールズ・ナ
ッシュ (Charles W. Nash)をフリントからデトロイトに呼んで、GMの社長にした。また、全社的な方針を定
め、傘下会社間の調整と評価に手をつけるために、主要傘下会社の社長で構成する幹部連絡会議 (Board of
Managers) を設立し、ナッシュ社長とストーローが定期的にこれと会合を持った。
ストーローとナッシュは、たくさんの傘下会社間の連絡と調整を密にするために、連絡委員会や連絡会議
(interdivisional committees or boards) を設けた。しかし、全社的な管理体制を強めるという面では、たいした役に
は立たなかった。とりわけ会計制度の統一については、傘下自動車製造会社が「独立の侵害」として強力に反対
した。ビュイック社のW. P. クライスラー (Walter P. Chrysler) も、キャディラック社のヘンリー・リーランド
(Henry Leland) も、このほかの幹部たちも、素直に命令を聞くような人間ではなかった。とくにクライスラーや
リーランドの場合、GMの売上のほとんどがこの両社からであったからなおさらであった。9
c) デュラントの再登場──事業拡大・統合路線の再開 (1916-1920)
デュラントはGMの支配権を失った後、もう一度、自動車産業の分野における起業を成し遂げた。当時軽自動
車の実験をしていたルイス・シボレー (Louis Chevrolet) を後援し、二人でシボレー自動車会社 (Chevrolet Motor
Co.) を興した。そして4年足らずのうちに、米国とカナダにいくつかの組立工場と卸売組織を持つ全国的な会社
7
Alfred D. Chandler, Jr., Strategy and Structure: Chapters in the History of the Industrial Enterprise (Cambridge,
Massachusetts Institute of Technology, 1962), 114-20; チャンドラー『経営戦略と組織̶̶米国企業の事業制成立史』
三菱経済研究所訳 (実業之日本社, 1967), 124-29; Alfred P. Sloan, Jr., My Years with General Motors, ed. John
McDonald with Catharine Stevens (New York: Doubleday & Co., 1964), 4-5;『GMとともに』田中融二、狩野貞子、石
川博友訳 (ダイヤモンド社, 1967), 7-8.
8
Sloan, Jr., My Years, 4 and 7; スローン『GMとともに』7 and 11.
9
Chandler, Strategy and Structure, 120-22; チャンドラー『経営戦略と組織』129-31.
7
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
に仕立て上げた。この間にデュラントは、折をみてシボレー社の株数を増やし、それと引き替えにGM株を集め
はじめる。つまり、シボレーを通じてGMの支配権の奪回を図ったのである。
1916年デュラントの返り咲きによって、再び「派手なショー」the big show がはじまり、組織のことは忘れ去
られてしまう。せっかくストーローの作り上げた本社資材部をはじめ、幹部連絡会議や資材連絡会議も廃止さ
れ、個人事務所と会社の小規模な財務部門をニューヨークに移してしまった。1916年の春、まだナッシュやス
トーローが辞めないあいだに、デュラントは持株会社ユナイテッド・モーターズ (United Motors Corporation) を設
立して、大手の部品・アクセサリー会社を買収しはじめた。ある歴史家はデュラントを次のように評している。
【史料2】デュラントの電話は株式市場につながっているだけで、自動車市場にはつながっていなかった。
……自動車を求める移り気の大衆をとりこにするのはなにか、それを誰が知っていたであろうか。デュラ
ントは、消費者が求めるものを探し出そうとしなかったので、当然のことながら、彼にはそれがわからな
かった。10
d) デュラントの失脚とピエール・デュポンの登場 (1920)
1920年の戦後不況は、デュラントおよびラスコブの拡張戦略を、完全に打ち砕いてしまった。過剰在庫が借
入金の7割を占めるに至る。自動車市場は崩壊し、9月21日にフォード社は2∼3割の価格引き下げを断行して
いた。1920年末からの不況時におけるGMの絶望的な状況について、スローンは次のように語っている。
【史料3:戦後不況下のGM】自動車市場は消え失せたも同然で、それによってわが社の収入も途絶え
た。……われわれは割高な在庫と、インフレ時代の旧価格水準に基づく債務を抱え込んでいた。現金は不
足し、製品ラインは混乱していた。事業面でも財務面でも統制が欠け、これを収拾する方法もみあたら
ず、何事につけても適切な情報が不足していた。一口にいって、かりに、もっと苦難を与えたまえと神に
祈っても聞き届けられそうにない、ありったけの内憂外患が一時に降りかかった感じだった。11
デュラントは、急落しつつあるGM株の買い支えという破滅的な手法に打って出たために、金詰まりに追い込
まれ、ついに1920年11月20日に彼は社長を辞任することとなる。GMの窮地を救うためにデュポン家が介入
し、資金提供の見返りに、デュラントの保有するGMの株式250万株を受け取ることとなる。こうしてデュラント
は去り、GMの歴史にひと区切りがついた。12
その10日後ピエール・デュポン (Pierre S. du Pont) が社長に就任することとなった。デュラントの退任によっ
て、GM全体を引っ張るリーダーシップに空白が出来ることを畏れた財務委員会の銀行家たちの要請を彼が引き
受けた結果であった。彼はデュポン社の社長を退いてからは、当初ペンシルヴェニアのロングウッドにある自分
の農場で楽隠居のごとく、悠々自適の生活にはいるのを夢見ていた。彼は後に当時のことを次のように振り返っ
ている。
【史料4】私はその地位[GMの社長]に就くのがいやでたまらなかった。つい最近ビジネスから足を引
いたばかりだったが、とにかくこうするのが最善だとみんなが思うことなら何でもしようと伝え、そし
て、もっと適当な人物が見つかるまでの間だけだということを、はっきり念を押した上で、私は社長に祭
り上げられた。 13
いやいや就任したピエール・デュポンではあるが、就任の翌日には、迅速かつ毅然と行動を開始した。会社の
置かれている状況を的確に把握すべく系統的な調査を開始し、そして1920年12月30日、アルフレッド・スロー
10
Arthur J. Kuhn, GM Passes Ford, 1918-1938: Designing the General Motors Performance-Control System (University
Park, Pa.: Pennsylvania State University Press, 1986), 42.
11
Sloan, My Years, 42; 邦訳, 57. Quoted in テドロー『マス・マーケティング史』175.
12
Alfred P. Sloan, Jr., in collaboration with Boyden Sparkes, Adventure of a White-Collar Man (New York: Doubleday,
Doran & Co., 1941), 125-26.
13
Sloan, My Years, 44; 邦訳, 60.
8
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
ン (Alfred P. Sloan、 1875-1966) の手になるGMの組織改革案を取締役会に提出して承認を受けた。この改革
案の基になったのは、そのおよそ一年前に彼が起草し、デュラントに検討するよう勧めていた『組織研
究』"Organization Study"というタイトルの文章であった。14
〈資料編〉
【史料5:スローンの人柄】デュラントとスローンのふたりの考え方には、個性や教育や経歴の違いが、対照
的に現われていた。デュラントは小柄で、活力に充ちた、心の温かい人物で、誰もが彼をビリーと愛称で呼ん
だ。これに対して、スローン氏は長身で、物静かで、冷静な人であり、誰もが彼をミスター・スローンと呼ん
だ。親しい友人でさえ、彼をめったに「アル」とか「アルフ」とはいわなかった。……ピエール・デュポンやそ
の一族と同じくMITに入学し、電気工学の課程を終了した。15
【史料6:スローンの見出した問題とその改善提案】 わたしが『組織研究』を起草した動機は、第一次大戦後の拡張によってGMに生じた諸問題を、それによって
解決したいと考えたからだ。……この研究は、……私の経験から生まれたものであった。
ユナイテッド・モーターズの社長となって、初めて私は、個別の事業部がそれぞれ違った製品を作っている複
数単位組織の経営という問題にぶつかった。
……私は、投資利益率 (return on investment) という基準を設けることにより、ユナイテッド・モーターズ社の
経営目的の統一を図ることに成功した。私は各事業部を利益責任単位とすることによって、それら個々の事業部
の全体に対する貢献の度合いを、本社が測定できるようにした。
GMに合併される前のユナイテッド・モーターズ社では、外部の一般顧客あいての場合も、内部の事業部相互
の間でも、取引はすべて市場価格によっていた。ところが当時のGMでは、各事業間の内部取引は、コスト、あ
るいはコスト・プラス一定率の利益という方式をとっていた。
……真の価格を決定するのは外部の市場であり、市場価格で好ましい利益をあげることができるとき、はじめ
てその事業は拡張する資格があるとみてよい。 16
【史料7:スローンの『組織研究』の設計思想】 この研究の目的は、つぎのようなGMの組織改革案を提出しようとするにある。すなわち、業務全般にわたっ
て権限の系統を明確にし、また各部門間を調整するが、それと同時に、従来発揮されていた能率を損なわないよ
うにすることである。
この研究は次の2大原則に基礎をおいている。すなわち:
1 各現業部(each operation)の最高責任者に与えられた責任は、いかなる場合にも制約されてはならない。
当該責任者の指揮する各現業部の組織は、必要な職能をすべて備え、完全なイニシアティヴ (full initiative)
を有し、しかも理にかなった発展を目指すことができる。
2 会社の活動の理に適った発展と適切な統制 (proper control) のためには一定の本社組織 (central organization)
の機能が絶対になくてはならない。17
【史料8:事業部制管理組織の眼目】
(1) 事業部の独立性(分権化)──独立こそ自主性と革新の源泉──
スローンは、GMの組織を考えるにあたり、現業事業部は自立性 (autonomy) を保つべしという前提からはじ
めた。事業部の独立こそ、自主性と新機軸を生み出すと固く信じていた。同時に、これらの事業部の活動を、全
14
Sloan, My Years, 45.
15
Chandler, Strategy and Structure, 130; チャンドラー『経営戦略と組織』139.
16
Sloan, My Years, 47-50; 邦訳, 63-68.
17
"General Motors Corporation─Organization Study," DE-GM1, quoted in Sloan, My Years, 52-53; Alfred D. Chandler, Jr.,
Strategy and Structure: Chapters in the History of the Industrial Enterprise (Cambridge, Massachusetts Institute of
Technology, 1962), 133-34; チャンドラー『経営戦略と組織̶̶米国企業の事業制成立史』三菱経済研究所訳 (実業
之日本社, 1967), 142.
9
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
社的な観点から調整し、統制する必要があることも認めていた。デュラントのような無政府状態に近い分権化
は、中央集権よりも始末が悪いと考えた。
(2) 全体を調整する本社(集権化)──全体としての一体感が必要──
スローンの基本目標は、総合本社 (general office)、彼の言葉では本社幹部 (general officers) とスタッフ幹部
(staff executives) から成る「本社組織 (central organization)」をつくり、この新しい総合本社と各事業部門の間の権
限と、コミュニケーションの系統を明確化し、その系統の上に正確で有用なデータを流すことにあった。スロー
ンの目標は、ストーローやデュポン家の人々が意図していたよりも、もっと大規模で、積極的な総合本社を設立
することにあった。彼のおこなった主な革新は、きわめて広汎なスタッフ組織をつくったことと、もうひとつは
グループ別に別れた事業部を監督するため、助言はしても命令はできない本社幹部を任命したことである。18
【史料9:投資利益率による各事業部の業績評価】 いかなる事業においても、ただたんにそれから生じる
利益の額のみをもって、事業としての価値を計る真の尺度とすることはできない。年間10万ドルの利益しかあげ
ていない事業でも、場合によっては、消化できる限りの追加投資と拡張を行ってしかるべき、きわめて有利な事
業たりうる。逆に年間1千万ドルの利益をあげる事業でも有望とはいえず、さらなる拡張が認められないばかり
か、もっと利益をあげるのでない限り、整理してしまった方がよいこともある。つまり、肝心なのは利益の絶対
額ではなくて、その利益と実際の投資額との関係である。いかなる計画においても、この原則が十分に認識され
ない限り、不合理かつ不安定な結果と数字の生じることは避けられない。19
【史料10:スローンの提言──内部取引に外部の市場価格を用いる】 外部の顧客との取引について、私は
次のように報告書に認めた。真の価格を決定するのは外部の市場であり、市場価格で好ましい利益をあげること
ができるとき、はじめてその事業は拡張する資格があるとみてよい、と。純然たる内部取引に属する事業部間の
取引については、次のように勧告した。コストに一定率の利益を加算したものを、取引価格の出発点にすべきで
あるが、これはあくまでも指針のひとつに過ぎない。割高な生産を行っているような部品供給事業部[独立企業
ならばサプライヤーに相当する──上野]を保護するようなことのないように、各事業部の分析ならびに、可能
ならば、外部の競合他社と比較を含む一連の手続きを推奨した。20
【資料11:戦略が組織に従うようになる】 事業部制組織は、ゼネラル・モーターズ、デュポン、そして後に
はユナイテッド・ステーツ・ラバー、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイルの各社およびその他技術的
に進んだ産業に属する企業で採用されたため、多角化戦略は制度化されるに至った。21
【資料12:第二次大戦後における経営者の専門職化】「専門経営者 (professional manager) は、自分に託され
た企業を運営するにあたって、あたかも病院の医師のように、科学的に最良の、あるいは少なくとも広く認めら
れている手法を追求しようとの動機を持つようになった。……事業を営むための優れた方法があるとの信念、一
流の企業経営者の務めはそのような方法を発見し、修得し、応用することだとの信念が広がっており、これ以上
に社会的重要性を有する企業者役割の変化はこれまでのアメリカにはなかった。」 22
18
Chandler, Strategy and Structure, 133; チャンドラー『経営戦略と組織』141.
19
Sloan, My Years, 49; 邦訳, 66.
20
Sloan, My Years, 49-50; 邦訳, 66-67.
21
Chandler, Visible Hand, 475-76; 邦訳, 812.
22
Arthur H. Cole, Business Enterprise in Its Social Setting (Cambridge: Harvard University Press, 1959), 59-60; コール
『企業と社会──企業者史学序説』中川敬一郎訳 (ダイヤモンド社, 1965), 57.
10
経営史入門
第5章 組織は戦略にしたがう
Keywords
経営戦略 (strategy; corporate strategy) さまざまな定義があるが、この章とのかかわりでは、加護野らの定
義が参考になる。すなわち、「経営戦略とは、簡潔に定義すれば、企業の経営資源を環境の生み出す機
会や脅威にマッチさせることであり、企業環境との間で展開する相互作用のパターンの決定を意味して
いる。具体的には、企業戦略(全社レベルの戦略)と事業戦略(競争戦略)を相互に関連づけて決定す
ることである。経営戦略の主な構成要素は(1)ドメインの定義、(2)必要な経営資源(独自能力)の
蓄積、(3)蓄積した経営資源の競争優位的な展開である。」参考文献:加護野忠男、中野郁次郎、榊
原清則、奥村昭博『日米企業の経営比較──戦略的環境適応の理論』(日本経済新聞社, 1983), 63.
持株会社 (holding company) 複数の企業の株式を保有して傘下に持つ会社のこと。ここで検討する初期の
GMのように、みずから事業をおこなわず、他の会社の支配だけを目的とする場合、純粋持株会社とい
う。これに対して、親会社自身も事業をおこなう場合は事業持株会社という。
投資利益率 (return on investment、 ROI) 経営分析指標のひとつ。
Bibliography
Sloan, Alfred P., Jr. My Years with General Motors. Ed. by John McDonald with Catharine Stevens. New York: Doubleday &
Co., 1964. スローン『GMとともに』田中融二、 狩野貞子, 石川博友訳. ダイヤモンド社, 1967. 本書は
わが国の経営者に大きな影響を及ぼした。新しい訳者で新訳もでているが、学術利用に向いていませ
ん。田中らの旧訳の方が読みやすい。
Drucker, Peter F. The Concept of the Corporation. New York: John Day Co., 1946. ドラッカー『会社という概念』岩根
忠訳、『ドラッカー全集 第1巻』ダイヤモンド社、 1972. チャンドラーの作品
Chandler, Alfred D., Jr. Strategy and Structure: Chapters in the History of the Industrial Enterprise. Cambridge,
Massachusetts Institute of Technology, 1962. Chapter 3. チャンドラー『経営戦略と組織̶̶米国企業の事業
制成立史』三菱経済研究所訳. 実業之日本社, 1967. 経営戦略と組織との対応関係を米国の主要企業に
即して考察した画期的な研究。新しい訳者で新訳もでているが、こちらの方が読みやすい。
Chandler, Alfred D., Jr.、 comp. & ed. Giant Enterprise: Ford, General Motors and Automobile Industry. New York:
Harcourt, Brace & World, 1964. チャンドラー『競争の戦略、GMとフォード──栄光への足跡──』内田
忠男, 風間禎三郎訳. ダイヤモンド社, 1970.
曳野孝「経営者企業、企業内能力、戦略と組織、そして経済成果」『経営史学』第44巻第3号 (2009年12月):
60-70.
チャンドラー・モデルの批判的検討
塩見治人「チャンドラー・モデルと調整様式」『名古屋外国語大学現代国際学部紀要』第5号 (2009年3月): 1-30.
安部悦生「チャンドラー・モデルの行く末」『経営史学』44巻3号 (2009.12): 44-59.
安部悦生「チャンドラーモデルと日本型企業システム」『講座・日本経営史6:グローバル化と日本型企業シス
テムの変容, 1985∼2008』橘川武郎、久保文克編, 279-92. ミネルヴァ書房, 2010.
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経営史入門
5
第5章 組織は戦略にしたがう
火 木
講義の理解とコミュニケーションのために
2014 経営史入門 5 組織は戦略にしたがう
学 年
学 部
フリガナ 経営
名 前
提出日
整理番号
月 日
整理番号をウェッブページで確認して、必ず記入してください。
1.キーワードを学ぶ 括弧内に適切な言葉を入れて文章を完成させなさい。
(1) 企業が現在および将来にわたって事業を展開していこうとする領域や範囲のことを( )という。新しい製品を投入して事業範囲を拡張していくことを( )という。
(2) 企業がどこでどのようにして生きていくかによって( )は形づくられ
る。この言葉は日本語に訳しにくいが、実は普段私たちが口にする日常語の中にはそれを的確に表現して
いる言葉がある。
(3) 企業は生存領域を拡張していくために自分自身、つまり組織を鍛え直さなければならない。このプロセス
をチャンドラーは「( )は( )にしたがう」という簡明な定式にまとめた。
2.文章で説明する アルフレッド・スローンは事業部制の採用を提案したが、これによってどのような問題を
どのように解決しようとしたのか? 専門用語を使って説明しなさい。
〔回答の指針〕 何度も述べていることですが、(1) 重要だと思う語句に下線を引きなさ
い。しっかりとした文章を作成して、記入スペースを満たすこと。(2)成績は序章のハ
ンドアウトに添付した「文章の書き方」に即して評価いたします。(3)「簡潔な文章」
と「内容の貧しい文章」とを混同しないように。
〔回答のヒント〕 回答に際しては、設問の文章を分析することから始めなければなりませ
ん。この設問に二つの疑問文が含まれているのはいうまでもありません。(1) スロー
ンはGM経営のどのようなところに、いかなる問題を発見したのか?(2)その問題をど
のように解決しようとしたのか? この二つです。そしてこれらの問いは、スローンの
処方箋の特徴を訊ねる設問だということが推測できなければなりません。つまり事業部
制管理組織にはどのような特徴があるのか? というひとつの疑問文に要約することが
できます。[ついでに言えば、ここに記した最後の疑問文が設問であったならば、それ
を複数の疑問文に分節化して回答するのがよいでしょう。]
これらの疑問文に対する回答を、それぞれ段落を分けてまとめたなら、少なくとも文
章の流れという面では、読者にとって読みやすい文章になるでしょう。第三者に説明で
きるようになったとき、はじめて「理解した」ことになると考えられますが、そのため
には自分で疑問文をつくり、みずからそれに回答してみるとよいです。
3.今日の講義でわかったこと・わからなかったこと
4.講義に対する感想(質問・コメント・批判・改善提案など、なんでも)
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