美術教育における理想的教科性の構造モデル ー美術 - 兵庫教育大学

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美術教育における理想的教科性の構造モデル
-美術教育の正当化に見る教科性の構造高木厚子*
(昭和63年9月30E】受理)
学校教科の存立根拠と教科性
現在学校教科に含まれている各々の教科はいったいどのような理由から学校教科に含ま
れているのだろうか。多くの人から,あって当然だと思われている教科もあれば,そうで
はない教科もある。そのような判断は,その教科についてそれぞれの人がいだいている教
科性にもとづいておこなわれている。教科性は学校教科がそれぞれにもっている,その教
科の教科らしさであり,これは,その教科を学ぶ側の人と,教える側の人では異なるかも
しれないし,制度によって,時代によって,あるいは,他にどのような教科が学校教科に
含まれているかによっても異なる。いずれにせよ,われわれは,何らかの教科性をそれぞ
れの教科に付与し,それにもとづいて,その教科の具体的な内容について考え,学校教科
としての存在の根拠を判断し,説明している。このように,その教科が学校教育に含まれ
ていることの根拠は, (1)ある教科性の存在を前提として, (2)その教科性が学校教育
で教えるに足るほど人間にとって重要であるとすることにより説明されるものである。し
たがって,教科性のtp'fcをどこに求めるかによって,当然その正当性は変化するはずのも
のである。国語あるいは算数・数学のようにその教科について一般人が抱いている教科性
の中に重要性をたやすく兄い出すことのできる教科とは異なり,美術科・図画工作科(以
下,両者をあわせて単に美術科とよぶ)のごとく,その存立根拠に不審を立てられること
がしばしば生ずる教科にあっては,教科存立の正当性を確固たるものにするための合理的
な教科性の記述は切実な問題となる。
たしかに,これまで,美術科の存在の正当性の理論的根拠が,意義づけ,あるいは,理
念という形によって多く語られてきた。そこでは,一般人が美術科について考えている教
科性を越えようとする努力が常に求められてきたのであった。教科存在についての理論的
根拠がこれほどまでに必要とされることは, 3R's (reading, writing, reckoning)関連
の教科には少ないであろう。 3R'sの教育は,一般人が認める教科性の中に容易にその重
要性を兄い出すことができるからである。しかし,算数・数学にしても,教科の存立根拠
に疑問がさしはさまれるようなことはないにせよ,教科性についての同様の問題は抱えて
いるのである。
たとえば,算数ではいろいろな計算方法を学ぶが,数値計算においてあるひとつの正解
を出せるようになること,あるいは期待される記号操作をおこなえるようになることは,
必ずしも学習者にとって納得した形での理解を必要とはしない。算数が学校教科として存
在すること,あるいはそれに時間をかけることの正当性が広く認められているとしても,
それは,ある正解を出せるようにするという点において,なのであって,そのような教科
性のとらえ方にしたがえば,子どもが算数で歓びを兄いだすのは,普通「正解」とよばれ
*兵庫教育大学第4部(芸術系教育講座)
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ているものと「あっていた」という結果に関してと考えられる。しかし,教えられた順に
したがって数の操作方法をたどれるようになることのみが,算数教育の目的だとは考えら
れない。正解を出すことはたしかに目標ではあるが,そこに至るまで,いかに学習者が納
得し,発展性をもった過程を経ているかということが重要であり,そのような学習は子ど
もにとっても歓びとなり,結果的に「正解」にもつながっていくと考えたい。このように,
算数の学習についても,教授者と学習者の間でルールの定義がしやすく,客観的評価可能
な側面と,ルールを定義しにくい側面とが存在するのだが,現実には,後者よりも,前者
の側面についての教科性が広く認められている。
常識的教科性と理想的教科性
このように教科性には, (1)過去に自分がうけた教育内容から経験的に,常識として
共有されている性質と, (2)各教科の関係者が,それぞれに重要だと考え,その教科によっ
て子どもに提供できると考えている性質の二つのタイプがあり,美術科ばかりでなく,各
教科が両方の教科性をもっている。ここでは前者を「常識的教科性」,後者を「理想的教
科性」とよぽう。全教科がこのような二重の教科性をもつわけであるが,教育の場で学ぶ
者の援助をしていくためには,この二重の教科性のうち,常識的教科性ではなく,理想的
教科性にもとづいて教育内容あるいは技術を開発していくことが求められるのは当然であ
る。したがって,この理想的教科性に関して教科性を明らかにするための記述と,その理
想的教科性と常識的教科性を一致させていく努力は,すべての教科についておこなわれて
いく必要のあるものであって,単に常識的教科性の中に合理的な.教科存立の根拠が兄いだ
されにくい美術科のような教科だけが教科存立の根拠を求めて,描いていく必要性をもっ
ているわけではないO
常識的教科性は,たとえば,一般的な教科分類に反映されている。一般的な分類のひと
つは, I (算数・数学,国語,英語), n (理科,社会), in (音楽,美術・図工), IV (技
術・家庭科,体育)であり,各々について用具教科,内容教科,表現教科,技術教科など
とよばれている。また,他に,知育,体育,美育,生産技術という分類がなされたり,ある
いは理科系教科,文科系教科,その他という分け方がなされる場合もあるOそして,その
分類によって,自分の教科の好き嫌いの傾向を表現したりすることが,日常生活では多い。
言語教育,科学教育,身体教育,芸術教育という分類で,科学教育の中に,自然科学,社会
科学,生活科学関連科目の理科,算数・数学,社会,技術・家庭科を入れて考える場合も
あるが,教科に関係するとみなされている学問分野についての素朴な分類方法に依拠して
いるという点からはこれも常識的教科性にもとづく分類のひとっとしてとらえることがで
きるだろう。さまざまな,分類が考えられる(e.g.伊藤, 1986;広岡, 1972)が,こ
のようにして各教科についての常識的教科性によっておこなわれる一般的分類から,各教
科間の位置関係をつかもうとしても,いったいそれらがどのように一人の子どもにとって
相互に関連づけられ,統一されうることを前提としているのかは理解しにくい。
これらの分類は歴史的に形成されてきた各教科の内容あるいは方法にもとづいており,
何に重点をおいて考えるかによってさまざまに変化する可能性をもっている。したがって
教科存立の根拠についての一定の説明をそこから導き出すことは難しい(e.g.大槻, 1986)c
たとえば国語においては,詩を扱う場合には芸術,報道文を扱う場合には社会,説明文を
扱う場合には理科も含むさらに広い範囲に直接かかわると考えられる。いわば各教科の初
期状態がひとっの核となり,そこに連想的に,その時代の心理学あるいは教育学などにお
ける人間の能力観からの影響をうけながら新しい内容がつけくわえられ,ボトムアップ的
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に形成されてきたものと考えることができる。
これまでにも,教科別に,各々の教科の関係者によって,その教科の目的の検討がなさ
れ,あるいは,文部省の学習指導要領においては各教科の目標として記載されてきており,
これらは一種の理想的教科性の記述を試みたものであると考えられる。しかし,常識的教
科性において形成されるボトムアップ的あるいは経験的な教科性と同様に,これらは各教
科から発想された教科性であり,他の教科との関連性は明らかではない。たとえば,理科
において自然を愛する豊かな心情が目的として考えられているとき,その心情は,図画工
作における豊かな情操とは,どのような関係にあるのだろうか。学校教科相互の関係に,
整合性をもたせていくような教科性の構造を考えてみるという,トップダウン的な方向か
らの教科性の検討と,これまでに豊富な内容を生み出してきたボトムアップ的な方向から
の教科性の検討が,同時におこなわれ,教育の理念,あるいは意義のように,具体的教科
内容とはかけはなれて展開されがちな議論と個別的に洗練されてきた教科内容のちょうど
中間にあたる部分で,その両者の媒介をしていく試みは実り多いものをもたらしてくれる
ように思われる。
教科性の構造のモデルをたて,そのモデルにしたがって各教科の教科性を記述し,それ
らを学校教科全体のひとつの構造としてまとめ,その中のどのような部分について,各教
科が担いうるのか,また,抜け落ちている重要なものは何か検討することによって,各個
人がもつ常識的教科性から,あるいは,教科別の発想では見つけにくかった,各教科がに
ないうる意味ある教育内容,教育目標を新たに発見できる可能性が生まれる。また,各教
科を起点として拡散的に増加する教育冒標を子どもがどのように一貫性をもって統一させ
るのかについて手がかりを得ることもできよう。
ここでは,美術科についての理想的教科性の構造のモデルをたて,美術科の意義づけ,
理念,あるいは,今後の展望などの形で,個々に,対立あるいは並立して記述されてきた
教科性を分類し,そこに位置づけた。このモデルは二つの軸と,それぞれについての三つ
のカテゴリーから成っている。まずモデルの二つの軸について説明しよう。
第一の軸(依拠する構造)
Eisner (1972)は美術教育の正当化の型として状況依存派(contextualist)と本質派
(essentialist)の二つをあげ,状況依存派は生徒や社会の要求といった,カリキュラムが
機能する状況に合わせた美術教育の目的を掲げようとするものであり,一方,本質派は美
術の固有性,独自性を強調するものであるとしている。前者の場合は,状況を理解してか
ら,それに応ずる形の教育目標,教育内容を考えることになるわけだが,この場合はその
状況をどのように把握するかが人によって異なり,同じ地域,同じ子どもについてでさえ
も,二人の人間が同じように理解することはない。このようなことがおきるのは,両者の
価値観が異なるためであり,この立場をとる限り,教科の目標や内容を決定するためには,
教育についての価値体系を誰かがあてはめなければならず,どの価値体系をあてはめるの
かが問題となる。これに対し,本質派では,美術を特殊で価値ある特質をもつ経験の-形
式であると認めるところから出発することにより,美術科が学校教科の中で欠くべからざ
る独自の一定した位置を占めることが保障されるのだとして,彼は本質派の立場にたち,
あわせて,このような美術の意義づけに合う目標内容を満たすカリキュラムの作成が可能
であることを示そうとした。
さらに彼は,美術教育についての考え方は,子ども中心,社会中心,教科中心の三つに
分けられるが,アメリカの美術教育の歴史においては教科中心の考え方は希薄であったと
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し,彼の立場が教科中心の考え方であることを示した。子ども中心の考え方と社会中心の
考え方は,前述の分類に対応づければ,状況依存派に含まれるものであり,教科中JLりま本
質派に相当すると考えられる。そして彼は美術教育が子どもの成長に与える効果は,人間
の経験において美術が果たす機能そのものであるとして,子ども中心の考え方で重視され
る発達段階や,社会中心の考え方で重視される文化的水準といった側面は,美術のカリキュ
ラムにおいて補助として考慮されていく必要はあるものの,美術教育の根拠は美術独自の
根拠に求められなければならないと主張した。
彼の示した,美術教育の正当化における二つの型,状況依存派と本質派は,アメリカ教
育における経験主義的流れと本質主義的流れに対応させて考えることができる。デューイ
思想を理論的背景に借り,子どもの経験を中心にすえ,日常生活を起点とする教育をめざ
すのだが,内容が体系化されにくく基礎学力の低下を招きやすいとされた経験主義にもと
づくカリキュラムの流れと,ブルーナ-理論を背景に借り,各学校教科の上位に関連づけ
られる学問,専門家などのもっている体系を生かすことを重視したが,子どもに過剰な負
担をかけ,学力不振児を発生しやすくしたとされる本質主義にもとづくカリキュラムの流
れである。日本においてもこの二つの流れは,問題解決学習,系統学習とよばれて存在し
たが,歴史的に見れば,経験主義の子ども中心カリキュラムから本質主義の学問教科中心
カリキュラムへの移行としてこれは図式化されている。
前者の立場は人間から出発して,教育の内容を考えているという点から,人間そのもの
についての探求からきりはなすことはできない。伝統的にみればこのような立場は形式陶
冶に属するものであろう。後者の立場は,これまでに人間がつくりあげてきた体系を生か
そうという試みであったが,むしろ,それが,上位学問体系において既に共有化されてい
る成果への過度の依存を招き,既存体系の修得をめざす方向ばかりが助長され,前記のよ
うな学力不振児の問題をおこしたわけであった。
さて,こうした教育全体の大きな流れがあったのであるが,美術教育の意義を主張する
場合に本質派の立場をとるということも,やはりこのような流れに対応づけて考えること
ができる。すなわち美学あるいは芸術関連分野においてこれまでに作り上げられてきた体
系から教育を発想していくということである。ここで注意しておかなければならないのは,
美術教育の意義についての本質派の主張は,芸術に関わる美的経験は人間にとって特殊な
唯一のものであるとしてその独自性を主張するわけなのであるが,しかし,その美的経験
あるいは芸術の内容や性質は,美学あるいは,芸術とよばれる分野の中での何らかの体系
化の範囲におさまって洗練されてきたものであったり,その体系にもとづいて展開されて
きた思想を起点としたものだということである。それは言語化されているにせよ,いない
にせよ,そういう何がしかの既成の枠の中で認められている美的経験を扱うということで
ある。素朴な意味で美的経験は人間にとって何か独特なものであることは多くの人にも納
得がいくことではないかと思われるが,その美的経験を教科で扱うために,美的経験につ
いて芸術あるいは美学の人々が何らかの体系を共有しているのだからと,そこに美的経験
に関する専門性を求めるのでは,結局,そこにあるのは,美学そして芸術とよばれる分野
内で考えられている美的経験の概念に関係するものだけである。こうした意味からすれば,
これもまた,芸術あるいは美学の状況,そこでの構造に依存しているということであり,
状況依存的な性質をもっているのである。ここでは,初めに素朴に納得して受け入れられ
た美的経験の内容がいっのまにか芸術あるいは美学の体系の中で共有されている美的経験
の内容にすりかわっている。本質主義においても,社会の状況や,子どもの状況とい
美術教育における理想的教科性の構造モデル
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う現在の状況には依存していないものの,既存の体系の状況に依存しているのだというこ
とができよう。
経験主義と本質主義という二つの流れ,および,美術教育の正当性についての説明の二
つの型である状況依存派,本質派,そして,子ども中心,社会中心,教育中心の三つの立
場,これらはどれも教科の内容を発想する起点となる構造をどこに求めるかによる区別と
考えることができる。そこで,時間軸から見て,そのどこに中心となる構造を兄いだし,
教育の内容を発想するかにより,過去中心型・現在中心型・未来中心型という三つの型を
考えよう。
過去中心型は過去に作り上げられた構造の中に教科性を求める。過去の構造とは,各学
問領域あるいは芸術関連領域の内においてそれぞれに整合性を満たしている構造である。
それぞれの構造はその中における整合性を確保しているため,ばらばらな命題の集合体で
はない。その領域内で共有されている概念,用語,伝達の方法などのルールが,暗黙にせ
よ,存在し,そのルールにしたがって記録されたものは,その領域内で共有して相互利用
でき,その構造を共同で精緻化していくことができる。現在も新たな精緻化が進んでいる
わけだが,教育がおこなわれる現在を基準とすれば過去であるという意味から,ここでは,
過去の構造とよんでいる。
過去の構造を尊重するとなると学問tp'fr主義のカリキュラムであるが,あれは行き詰まっ
てしまったではないかということになる。また,いわゆる,知識偏重主義の弊害の根源で
あるかのようにも見える。しかし,過去の学問体系から教育内容を発想するという立場は,
学問体系が,人間の共通にもっているある種の傾向性,こっちがおもしろい,こっちの方
がきれい,こっちの方がうまくいく,こっちの方がつじつまが合う,などにしたがいっつ,
その学問分野に属する人間同士で了解されている何等かの共通性を満たしながら,できあ
がってきたものであることを考えれば,その構造化の過程にはすべての人間にとって普遍
的な面が含まれているとも考えることができる。このような側面を重視するならば,形式
陶冶的な役割を担っていくことが可能となろう。そうでない場合は,実質陶冶の傾向と問
題点を背負わざるをえない。本質主義,美術の意義づけにおける本質派,あるいは教科中
心の立場はここに含まれる。本質主義の美術では実質陶冶を目的とすることができないの
で,形式陶冶としての説明が必ず必要とされる。
現在中心型は教育がおこなわれるまさにそのときの子どもと社会の状況から教育内容の
発想を展開していく立場である。子どもがおかれている現在の社会的状況,子ども自身の
内面的状況を把握し,それに合った教育内容を探っていこうとする。その時代を子供がう
まく生きぬいていくための援助をするという点からは実質陶冶的特徴をもっが,将来,社
会の中で何らかの困難な状況などにあっても対処していけるような処理能力を身につける
という点に注目すれば,形式陶冶的である。
ひとりの人間が生きて行く過程で作り上げていく,その人問を申し、として形成される唯
一の構造が未来の構造である。未来の構造に依拠するということは,その構造を形成して
いく上で助けになるものは何かというところから発想していくことである。そして,それ
について美術科でおこなえそうなことは何かと過去の構造に関係づけて考えていく。この
場合,統一されたひとりの人間像をまず想定するので,学校教科で扱う全体の中のどのあ
たりを扱おうとしているのかという相対的な位置づけを明らかにしやすい。
第二の軸(認知系)
さて,いまひとつの教科性の構造を決定する大きな軸は,感情,身体状態も含む認知系
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を基準とするものである。教科の内容を(1)対象から発想するか, (2)対象とひとり
の人間の内部状態との間にあって,両者の間の関係を双方向から形成するインターフェイ
ス部分の表象方式から発想するか, (3)ひとりの人間の身体状態の変化から発想するか
ということである(1)対象には,いわゆる物理的対象,生物個体,社会,宇宙などと共
に,ひとりの人間にとっての他人はすべて含まれ,親しい人間,日本に属する人間,他国
の人間,ハンディキャップをもっている人間,世代の違う人間,過去に生きていた人間,
宇宙生物,アンドロイドなども同様に含まれる(2)表象方式には,伝達・記録のため
に身体によって表出される数式,言語,図,絵,身振り,声あるいはその複合と共に,対象
とひとりの人間の身体状態との間にあってその間を結ぶための個人独特の表象方式があり,
この自分の表象方式のできぐあいを吟味するためにおこなわれる身体による表出は,それ
が広く共有されている伝達・記録の方式をそなえていれば,新たな対象となることもある。
(3)身体状態は感情などが含まれる個人的で根源的な部分であり,変化はゆるやかにし
かおこらない。
対象から教科性が決まることの多い教科は内容教科である。たとえば,理科,社会,家
庭科では,理科は自然を扱うもの,社会は歴史,政治,地理などに関係したことを扱うも
のと説明される場合がある。理科は生物,石,屋に関係する,家庭科は食べ物に関係する
というように,教科が依拠する学問領域の構造に関係の深い物,あるいは,その中での概
念に関連したものなどから教科内容を発想する。インターフェイスから教科性の説明をさ
れやすい代表的な教科は用具教科とよばれることのある算数・数学,英語,国語であり,
人間にとって必要な表象方式の訓練をするということが教科を特徴づけるものとされる場
合がある。身体状態の変化から教科性の説明をされやすい代表的な教科は体育で,身体能
力を高めるという点から特徴づけられることがある。
では,美術科の理念,意義づけ,展望に見られる美術科の教科性を,二つの軸を基準と
してまとめあげてみよう。この概要をTable lに示した。
過去の構造への依拠
美学・あるいは芸術関連の各専門領域は,それぞれの中で,共通に使用される用語,辛
続き,概念あるいは暗黙の了解をもっている。これらは,その領域の構造の形成にまつわ
る過去の全過程を基準とした相対的位置をそれぞれにもっている。過去中心型ではこれを
もとに,教科内容を発想する。美術教科の意義づけをこの立場からおこなおうとすると,
人間にとって芸術は欠くべからざるものであり,歴史的に見ても原始から常に人間ととも
にあった,あるいは芸術における美は他のものにかえられない人間にとって本質的なもの
である,のような論点で,展開されることになり,この場合,主として美学あるいは芸術
分野で共有されているところのものから助けを負うことになる。 80年代におけるアメリカ
美術教育で中心的潮流となったDBAE (Discipline-based Art Education)論は,他
の教科がその依拠する学問をもつのと同様に,美術関係の専門分野における探求者のモデ
ルを美学者,美術評論家,美術史家,作家と想定し,その活動に依拠したカリキュラムを
提唱し,創造的自己表現中心だったカリキュラムから批評的活動重視のカリキュラムへと
向かおうとした。そこでは,専門家が各分野において共有している内容概念と探求のプロ
セスを美術の学習プロセスにとりいれようとした(Greer, 1987;藤江, 1987a)。これ
は,探求のプロセスを重視するという点で, 60年代の学問中心カリキュラムが学問領域の
構造を完成された結果としてとらえる傾向をもっていたのとは性質を異にしているものの,
過去の構造に依拠しての発想だといえよう。
美術教育における理想的教科性の構造モデル
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Table 1
美術科の正当化に見る教科性〔理想的教科性構造モデルへの位置づけ〕
依拠する構造
過去の構 造
絵画
彫塑
構成
美術 史
美学
造形文化
建築
デザイン
現代芸術
社会 (否定 も含む)
科学中心
主知
資本主義
大量生産
機械化
専門化
対象
イ
ン
タ-フ
ェイ
ス
過去の構造に関係 製作技術
するもの
視覚 リチラシI
色彩体系
過去の構造を卿 等 造形要素
している人
非論弁的形式
質的思考
美的経験
イメージ .
工業製品
広告
手仕事
民芸
遊び
すべての他人
身体状態
創造性
慣性
感性
共通感覚
造形感覚
造 ることの歓び
JS fl
身体性
わざ
美的人間形成
直観力
想偉力
主義思潮
本質主義
学問中心主義
教科中心主義
系統学習
D BA E
(D is c ipl ine -Ba sed A rt
Edu ca tio n)
デザインプロセス 計画性
視覚 リテラシー
合理性
手の活動
人との協力
社会的ルール
手で逼 る歓び
手の器用さ
他人の受容
労働重視
生産重視
状況依存型 (社会 )
社会中心型
間断 央学 習
現在 の構造 ‥… 一一
l
パーソナ リテ ィ
劣等感
抑圧
社会への不適応
発達段階
日常生汚
子 ども
性の合 う他人
呂鮎
遊び
自己受容
子 どもに合 うもの
子 どもが好むもの
情緒 安定
身の まわりのもの
対 象との調和感
芸術軒 去
な じみのある関係 抑圧か らの解放
未来の構造
あらゆ るもの
ひ とりの人間を あらゆる人
中心 として形成
される調和の と
れた構造
( 過去 . 現在の
構造にはたらき
か けなが ら造 ら
れる )
経験中心主義
子 ども中心型
状況依存型 (子ども)
> 美術科では
身体表出され る
図的表現の方式
絵的表現の方式
( 伝達するため .
自分の表象方
式を吟味す る
ため)
具体的な依拠する構造は,芸術に関連があると思われる構造であり,絵画,彫塑,構成,
美術史,美学,造形文化,建築,デザインなどがある。現代芸術がとりあげられる場合も
ある。これらの構造のうちのひとつに関連づけられるもの,あるいは,その構造を獲得し
ている人が対象となり,これらの構造で使用されている表象方式に関連づけられる体系,
あるいは,製作に関係する技術体系が扱われる。表象方式として,視覚伝達(visual communication)のための図的表現に注目するものがある。図的表現は,数式表現,言語表現
に匹敵するような,多くの人に共有可能なルールをもっているとして,このルールについ
て扱えるのは学校教育の中では美術科だけであるから,読み書き算と視覚リテラシーとい
う位置づけで美術科の教科性の中心をそこに兄い出そうとするものである。また,進形要
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莱,色彩表現について体系的に扱うということは,製作のための技術として位置づけられ
ると同時に,この文脈の中に位置づけることもできる。これらは,発想の原点は過去の構
造にあり,内容はそこに負いながら,それを,現在の構造である社会におけるコミュニケー
ションの問題として,そこに意義づけを兄い出そうとしているものといえよう。
美学の構造の中で説明されてきた,芸術についての概念,非論弁的形式,特殊な経験の
-形式,質的思考,美的経験などもここに入れることができる。藤江(1987b)は美術教
育の基本は「美術すること」であり,その構成契機は「感性的認識(aesthetic cognition)」
と「技能(skill)」であるとしているが,美術分野という構造における専門家の活動から
発想し,その表象方式としての「感性的認識」,人間の身体状態の変化としての「技能」
に着目していると,位置づけることができるだろう。
過去中心型の場合,人間の身体状態の変化,たとえば,創造性の向上などが,意義づけ
としてあげられることが多いが,これは,あとづけとしての性格が強い。芸術関連分野の
構造への注目がまず最初にあり,その構造内での活動にはどのようなものが必要かを考え,
それを意義づけに使うことになるので,最初に依拠した構造を背負っている。芸術の場面
において創造性として考えられるものは何かが,あいまいなままに,場面を離れての一般
的能力としての創造性の存在を前提として,科学において必要だとされる創造性が美術科
において伸ばすことができる創造性とまったく同じ内容であるかのように理念としての創
造性という言葉だけがひとり歩きしてしまうことは避けねばならないだろう。
これまでに,創造性・個性・感性・共通感覚・造形感覚・造ることの歓び・感情・身体
性・わざ・美的人間形成・直感力・想像力などがあげられている。また,脳生理学の説明
水準における知見についての解釈を導入して,脳には芸術に関係が深いと考えられる特殊
領域があり,そこを育てるのが美術科であると説明される場合がある。
現在の構造への依拠
依拠する現在の構造としては(1)現在の社会の構造と(2)現在のひとりの子どもの
構造との二つがある。現在の構造として社会に注目する場合は,社会で必要とされること,
足りないことは何かというところから発想する。その場合に現状肯定的な方向と現状否定
的な方向という相反する二つの傾向が存在するのだが,どちらもその時点における社会の
趨勢を中心において考えているという点では共通しており,両者ともに現在の構造に依拠
しているものとしてとらえることができる。たとえば,美術科に関係して考えられてきた
現代社会の構造としては,産業中心,科学中心,主知,資本主義,大量生産,機械化,専門
化,主体の消失,平均寿命の延長などがある。現状肯定型は,個人の側が変化して,この
社会に適応していくための教育内容を考える。一方,現状否定型は,現在の社会に欠けて
いるが共通に人間がもつべきことは何かというところから発想する。
純粋な現状肯定型は現在ないが,過去には,明治期の小学校図学が,時代の要請たる西
欧化,あるいは,産業技術の発展に貢献することを目的とする実用的教育内容をもってい
た。日本で最初の図画教科書である1871年(明治4年)発行の「西画指南」前編巻頭で
は,図の実用性が説かれ1872年(明治5年)発行の図画教科書「図法階悌」巻頭には,
西欧の事物を知るためには解剖図,地図,機械の図など,図が必要であるから,その描き
方を学校で習得することが必要だと説かれていた(山形, 1967)。
ひとりの子どもについて,その子どもの現在の状態がどうであるかを中心に教育内容を
発想していく場合には,ひとりの子どもが現在もっている日常,表象方式,身体状態の構
造を発想の起点として,それに合った教育内容を考えていこうとする。そこで考えられる
美術教育における理想的教科性の構造モデル
293
ものは,子どもにとってなじみのある場面,噂好,発達段階,既成の構造(社会構造・知
識構造)に対する不適応または過剰適応,抑圧,劣等感などである。現在中心型における
対象としては,現在の構造に関連づけられるものが用いられる。社会生活との関わりに重
点をおいて,工業製品や広告を対象として扱った,イギリスにおけるデザイン教育(Green,
1974)には,日常の社会消費生活での問題点を対象として出発しているものがある。また,
民芸(cf.宮脇, 1985),手仕事が,大量生産品との対比においてとりあげられる場合,
あるいは,美術教育の対象としての遊びが,反管理社会,反近代の文脈で語られる場合
(e.g.小林, 1985)は,現在中心型だといえる。子どもの現在の状態から発想する場合は,
社会への不適応状態や抑圧状態を解消するため,あるいは,発達段階,パーソナリティを
生かすのに,絵画が有効であると説明されることがあるが,子どもに合うもの,子どもが
好むもの,あるいは,子どもの身近にあってなじみのあるものを対象にしているというこ
とができよう。
デザイン分野における,計画をたて,それを実行するという一連のプロセスは現在どの
領域においても存在するということを強調する場合(e.g. Green, 1974),あるいは,対
象をすべての他人として,現在の社会生活で実現されるべきルール,たとえば,共有施設
の美化,環境美化が,美術科関連であげられる場合,教科性の中心は現在中心型にあると
いえよう。杜全構造に依拠する立場からは,デザインプロセスに関連して計画性・合理性
の錬磨,また,手仕事に関連して,手の器用さ・手で造る歓びがあげられる。また,子ど
もの構造に依拠する立場からは,情緒安定,社会的秩序との調和感や,抑圧からの解放な
どがとりあげられる。
未来の構造への依拠
ひとりの人間が生きていく間には,学校では接しなかった過去の構造との新たな出会い,
時代の変遷にともなって変化する新たな現在の構造との出会いがあるが,それらに対して
はたらきかけつつ,自分の状態に結びつけ,調和のとれた構造をたもっていくことが期待
される。そのような構造を豊かにしていくことのできる力を伸ばすため美術科で援助でき
ることは何かという方向から教科内容を考えるのが未来中心型である0
ひとりの人間にとっての未来の構造の中における対象は特定することができない。した
がって教育内容について考える場合には,既成の何かの分野に関係する対象から始める必
要はなく,さまざまなものが考えられる。それを,過去の構造のうちのひとつにおけるイ
ンターフェイス・身体状態に関係づけながら内容を決めていくことになろう。未来の構造
における表象方式は,すべてのものを含むが,このうち美術科では,身体表出される表象
の方式として,平面のみならず,立体も含めた図表現,絵的表現が扱われてきた。伝達の
ための図的表現,あるいは一種の伝達ともいえる見せるための絵的表現はもちろん多くと
りあげられてきているが,一方,幼児・低学年児童では,自分の内部状態と対象の間を結
ぶ表象方式を確かめ直しながら構築していくための身体表出が活発におこなわれ,このう
ち,大人から見て,絵と呼ばれる形式に属するものが,美術科の分担として扱われてきた。
この身体表出は児童画として,子どもの発達に伴う変化が数多く報告されてきた
(e.g. Kellogg. 1969)けれども,伝達が目的というよりも,自分の内部状態と対象との
間を結ぶ独自の表象方式をつくりあげていくことが最終的な目的となっており,伝達がお
こなわれる場合にも,それは相互伝達によって,自分の表象方式を確かめ直してみること
が目的だと考えられるので,前述の伝達のための図的表現,見せるための絵的表現とはか
なり異なった性質のものといえよう。
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過去中心型でとりあげられた身体状態はそのまま全部ここに位置づけることもできるか
と思われるが,同じ能力名をあげていても,ある過去の構造から発想して,その内容を考
える場合と未来の構造から考える場合では,必ずしも,その内容に関して対応がつくもの
ではない。両方向から考えることが,その能力名によって示しているものの内容を明らか
にしていくためには必要であろう。実践との結びつきを考えてみても,たとえば,ある能
力Aの内容について慎重に吟味せず,その言葉から連想される教材を考えても,本当にそ
の教材が能力Aの育成に役にたっているかどうかについて検討することは不可能であり,
能力Aは目新しい教材を導入するためのスローガン的なものとしての,意味しか果たさな
くなる。単なるスローガンに終わらせないためには,能力Aのさし示す内容についての吟
味が重要となる。能力Aについての吟味とは,心理学や生理学の分野において実証的に記
述されたことを能力Aの実在の証明とみなし,それを,前提として全面的にうけいれ,そ
こから,出発して実践へという方向に進むことではなく,能力Aについて美術教育の場面
ではどのようにして共有化可能な形の説明をすることができるかについて他の分野の記述
との整合性を確保しながら徹底的に追究することであろう。このような場合には美術教育
の実践の側から,能力Aの内容について他の分野と共有化しうる事実を提出していくこと
さえ可能になる。
美術科の理恵的教科性の構築をめざして
前述のように,教科性の中心をどこに求めるかは,学校教科の各々について考えられて
きた問題であるわけだが,各教科の範囲内でその教科性を考える限り,過去の構造に依拠
することが多くなる。しかし,ある教科で獲得させようとする構造と別の教科で獲得させ
ようとする構造との間の関係を学習者であるひとりの人間が作りあげていくことができな
ければ,それらの構造はそれぞれに自分の内的な状態とは独立なままバラバラに併存する
か,あるいは,ある一つの構造のみを自分の依拠する構造としてとりこむ結果となるだろ
う。各教科の独自性にこだわりすぎる場合,こうした傾向を助長し,科学的なものの見方
と美術的なものの見方はどちらかの見方をすると,もう一方の見方ができなくなるという
二者択一的,選択的な関係にあり,相容れないものとみなすようなことがおこりがちである。
きた,現在の社会の構造あるいは現在の子どもの構造に依拠する場合,将来新しく出会
う現在の構造との折り合いをっけていけるよう配慮しているわけだが,自分を中心とした
構造と,多くの人に支持されている構造との対応関係をつけ,それに合わせていくか,あ
るいは,それを拒否していくことに終始していくだけになる可能性も高い。過去の構造,
環在の構造の両者を生かし,それにはたらきかけながら整合性のある形でまとめあげ,自
分を中心とした構造を新しく作りあげていくのがひとりの人間であるといえよう。したがっ
て,過去の構造からの発想,現在の構造からの発想,未来の構造からの発想は,対立的あ
るいは選択的なものでなく,相補的なものである。三者の問をいきつもどりつしながら教
科性を豊かにしていくことが,美術教育にとって実り多い方向であると考えられる。
合理的な美術科の教科性の記述をわれわれが求めるのは,納得して,美術科を教え,美
術科を学び,美術科の新しい内容や,方法を開発したいからである。さまざまな立場から
美術科の意義づけが考えられ,理念が語られてきたが,意義づけとか,理念という名のも
とに語られるとき,教科の具体的内容は,あたかも,理念から一方向的に導き出されるも
のであるかのように,理念のレベルの内で,ある概念についての重要性の説明のみが独自
に展開されていくことになりやすい。しかし最終的に何を重要と考えるかは,教育に関わ
るひとりの人間が,経験との相互作用のなかで,生涯にわたって,作り上げていく可変的
美術教育における理想的教科性の構造モデル
295
な部分であって,それぞれの意義づけ,理念が,前提として考えている教科性の方が,実
践活動についての作業仮設を提供してくれるという点で美術教育の実践にとって意味があ
る。理想的な美術科の姿は理念のレベルで語られてきた記述を洗練させた結果としてでは
なく,各々の中で個別に語られ,あるいは,実践されてきたものを重ねあわせ,その間で
の整合性を追究していく作業の中からうかびあがってくるものだと思われる。ここでは,
人間の認知系と関連づけて,教科性の構造のモデルをたてることにより,これまで考えら
れてきた美術科の意義づけを総合的にとらえることができることを示した。モデルによっ
て相対的に位置づけられた各々の内容の吟味と,実践活動の中から生まれてきたものとの
重ね播きは今後の課題である。
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山形寛1967日本美術教育史賛明書房
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Toward a Structural Model of an Ideal Art Education : Subject
Structures in Rationalizations of Art Education
Atsuko Takagi
The Purpose of this study was to develop a model structure based on rationales
in art education. The theoretical basis for this study was presented to provide a
two-axial model. Two axes consist of 1 ) organizational axis of time factors:
past, present, and future 2 ) cognitive axis which includes object, interface, and
physical conditions. The model is considered to be integrated as an ideal subject
scheme when nine possible phases from above intercrossing factors are addressed
in the existing rationales in art education.