飲食店舗賃貸事業における持続的経営に関する研究

Kochi University of Technology Academic Resource Repository
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飲食店舗賃貸事業における持続的経営に関する研究
吉川, 笛浦
高知工科大学, 博士論文.
2012-09
http://hdl.handle.net/10173/944
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Kochi, JAPAN
http://kutarr.lib.kochi-tech.ac.jp/dspace/
平成24年9月修了
博士(学術)学位論文
飲食店舗賃貸事業における持続的経営に関する研究
A study on stable effective managements of
buildings lease business for restaurants and bars
平成24年6月15日
高知工科大学大学院 工学研究科 基盤工学専攻(起業家コース)
学籍番号 1148011
吉川
Tekiho
笛浦
Yoshikawa
論文梗概
サービス提供ビジネスの一分野であり,広い地域で数多く展開されている飲食店舗賃貸
事業につき,その持続的健全経営の要件を明らかにすることは,同種事業の起業や地域活
性化に意義が大きい.
本研究は飲食店舗賃貸事業の持続可能な経営の要件を明確にすることを目的として行わ
れた.日本の飲食店舗賃貸事業の経営の持続年数を調査したが,一般に長期の健全経営は
困難である.本研究では,32 年以上に亘り健全経営を持続させてきた賃貸事業例を分析し,
先行する関連研究から該事業経営を考察した.結果として,飲食店舗賃貸事業の健全経営
を導く要件を明らかにした.特に,サービスビジネスにおける事業の持続可能経営の要因,
手法を明らかにした.
事例事業の経営手法を検討し,新たな創業および健全な持続経営手法のモデル化を行っ
た.その持続経営はイノベーションの連続からなる.この経営手法をサービス・プロフィ
ット・チェーンとして,事業に関わる三つの集団の関係性を分析するとともに,事業成長
過程の分析も併せて行った.持続経営に関しての様々な関係性の要因を抽出し,健全な持
続経営のモデル化を図った.
本論文の構成は以下の通りである.
第一章:序論
起業時の社会背景や飲食店舗展開と店舗賃貸事業の可能性など,飲食店舗の実態を調査
した結果を述べる.そして,本研究の目的や手法と研究の背景を示した.
第二章:先行研究とその評価
経営を持続させるための企業成長,事業継続,サービス事業,及び起業に関して先行研
究群を調査した.その上で,多くの先行研究群の相関性を考慮して,四つの視点から先行
研究群をまとめた.それらは起業の視点,事業成長の視点,事業継続の視点,顧客維持の
視点である.
第三章:高層ビルによる飲食店舗賃貸事業創業と経営事例
事例事業(佐賀市の S ビル,S2 ビル)による飲食店舗賃貸事業の経営履歴や起業時の特
徴,経営の持続努力などの調査・分析を行った.そして,事例事業を詳細に観察し,事象
の因果関係を考察した.
第四章:飲食店舗賃貸事業の持続的健全経営の分析
経営者の明確な目的意識を有しない経営イノベーションの連続.三者,すなわち,ビル
経営者,店舗経営者およびエンドカスタマーが関係する多重サービス・プロフィット・チ
i
ェーン.
「場」の関係性によるテナントの相談事解決支援のソリューション・プラットフォ
ーム.そして,ソリューションを繰り返し,経営の質の向上に繋がるクリエイティブ・ス
パイラル,事業成長から見えてくる持続的健全経営の四つの視点から論じた.事例の分析
と考察を行い,飲食店舗賃貸事業マネジメントの持続的健全経営の指針を示した.
第五章:飲食店舗賃貸事業の持続的健全経営モデル
研究事例を三層構造のカスタマー・ロイヤルティの循環サイクルと捉えた.サービス・
プロフィット・チェーン研究事例に当てはめ,三つの集団,すなわち,ビル経営者,テナ
ントおよび顧客の関係性を分析した.次に,飲食店舗賃貸事業を継続健全経営のプラット
フォーム「場」へ昇華させる努力を論じた.また賃貸ビル事業の飲食店舗テナントへの特
異性を分析した.また,スパイラル状のイノベーション連続モデルによるカスタマー・ロ
イヤルティの向上や維持を明らかにした.これらから,飲食店舗賃貸事業の持続的健全経
営モデルを示した.
第六章:結論
第六章までの研究内容をまとめた.併せて今後の持続的健全経営と,次の研究に繋がる
新たな課題を示した.
付表として,
「S ビル,S2 ビルに関する事業歴(1)~(9)」
,および「飲食店舗賃貸ビ
ルの継続的経営の実態に関する調査表」を付した.
ii
A study on stable effective managements of buildings lease business for
restaurants and bars
Abstract
This article clarifies the effective entrepreneur methods and the sustainable management
models of the building lease business for restaurants and drinking bars by way of the example
successive business example analysis. The business example is a building lease enterprise
located in Saga city, Japan.
It focuses the business planning at the business founding and the successive business
management for long term business operation with the sufficient benefits.
The building lease business studied was founded on the unique strategies. They were vertically
gathering of restaurants and bars distributed horizontally, creating the trophy building and
seeking the top among the district. And this entrepreneurship was also supported by good
considerations for diminishing the initial cost and the running cost of the building lease
business.
The sustainable management with a sufficient profit for over thirty two years had
continued by the continuous business innovations which covered the building facility
management, the tenants and also the end customers of the restaurants and bars.
The analysis for the example business and the comparison studies with the other business
managements carried out leads to the importance of three business model considerations. They
are the three layered service profit chains model among the building owner, the tenants and the
end customers of the tenants, the platform forming model for solving the tenants’ problems, and
the development model of the solution platform as a creative spiral.
The article also lists up the effective suggestions for the coming entrepreneurs of the building
lease business for restaurants and bars.
iii
目
次
論文梗概
目次
第一章:序論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1.1 研究の背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1.1.1 事例事業起業時の社会背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1.1.2 起業時の佐賀県佐賀市の経済状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・2
1.2 飲食店舗の実態
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
1.2.1 飲食事業と飲食店舗賃貸事業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
1.2.2
佐賀市の飲食店舗展開と店舗賃貸事業の可能性
・・・・・・・・・7
1.3 研究の目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
1.4 研究の手法と視点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
第二章:先行研究とその評価
2.1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
先行研究調査の枠組み
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
2.2 起業の視点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
2.3
事業成長の視点
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
2.4
事業継続の視点
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
2.4.1
リスクマネジメント
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
2.4.2
知識創造のプロセス
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
2.5
顧客維持の視点
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
2.5.1
顧客満足
2.5.2
カスタマー・リレーションシップ
2.5.3
サービス・マーケティング
2.6
まとめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
・・・・・・・・・・・・・・・24
・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
第三章:高層ビルによる飲食店舗賃貸事業創業と経営事例
3.1
事例事業とその経営履歴
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
3.1.1
研究対象の選択理由
3.1.2
経営の変遷,経営の事実
3.1.3
飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態
3.2
起業時の特徴
・・・・・・・・・・・・35
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
・・・・・・・・・・・・・42
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
3.2.1
起業に至る準備段階の特徴
3.2.2
起業時の重要課題
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
3.2.3
安定期までの施策
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
iv
・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
3.2.4
3.3
起業時の特徴のまとめ
経営の持続努力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
3.3.1
イノベーションに関連する持続努力
3.3.2
カスタマー・ロイヤルティに関連する持続努力
3.3.3
リスクマネジメントに関連する持続努力
3.4
経営事例に対する考察
3.4.1
・・・・・・・・・・・・・・55
・・・・・・・・・63
・・・・・・・・・・・・68
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
飲食店舗賃貸事業マネジメントの事例と分析
・・・・・・・・・・71
3.4.2 S ビル,S2 ビルの経営手法や内容の調査観察,および事象の
因果関係の考察
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
第四章:飲食店舗賃貸事業の持続的健全経営の分析
4.1
・・・・・・・・・・・・・・・74
三層構造のカスタマー・ロイヤルティの循環サイクル
4.1.1
カスタマー・ロイヤルティの循環サイクル
4.1.2
三種類の法人格
4.1.3
健全事業継続のための重構造の循環サイクル
・・・・・・・・・74
・・・・・・・・・・・74
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75
・・・・・・・・・・76
4.2 「場」
:貸しビル事業の継続健全経営のプラットフォーム ・・・・・・・・77
4.2.1
「場」の既存研究モデル
4.2.2
飲食店への貸しビル事業の特異性
4.2.3
持続健全経営のプラットフォームとしての昇華
4.3
・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
スパイラル状のイノベーション連続
・・・・・・・・・・・・・・・78
・・・・・・・・・79
・・・・・・・・・・・・・・・・・80
4.3.1
カスタマー・ロイヤルティの向上・維持
4.3.2
スパイラル状のイノベーション
4.3.3
動的なイノベーション連続モデル
・・・・・・・・・・・・80
・・・・・・・・・・・・・・・・82
・・・・・・・・・・・・・・・83
4.4
事業成長から見えてくる持続的健全経営モデル
4.5
店舗賃貸事業の持続的健全経営モデル
・・・・・・・・・・・・84
・・・・・・・・・・・・・・・・87
第五章:飲食店舗賃貸事業の持続経営要件検討のフレームワーク
5.1
明確な目的意識を有しない経営イノベーション
5.2
多重サービス・プロフィット・チェーン
・・・・・・・・・94
・・・・・・・・・・・・94
・・・・・・・・・・・・・・・95
5.3 ソリューション・プラットフォーム ・・・・・・・・・・・・・・・・・100
5.4 クリエイティブ・スパイラル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103
5.5 まとめ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106
第六章:結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・108
6.1 研究結果の要点
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・108
6.2 今後の研究課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111
v
謝 辞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113
付 表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・117
vi
図 目次
図1-1
日本の経済成長率の推移 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
図1-2
佐賀市の中心市街地飲食店舗立地の変遷(昭和 30 年代~現代) ・・・・8
図2-1
持続可能経営分析の視点
図2-2
起業家の特性
図2-3
起業スキルの向上と起業家の出現プロセス
・・・・・・・・・・・・・13
図2-4
成長の5段階
・・・・・・・・・・・・・16
図2-5
影響度と発生確立によるリスク分類
図2-6
時間と各リスク対策の関係
図2-7
SECI プロセス
図2-8
場の概念図
図2-9
サービス・プロフィット・チェーン
図2-10
逆ピラミッド型組織
図2-11
サービス・マーケティングの三つのタイプ
図2-12
無形性と経営問題とプロセスの関係
図3-1
S ビル,S2 ビルの入居率(入居坪数/全坪数%)の推移 ・・・・・・・・38
図3-2
ビル別店舗継続年数分布
図3-3
店舗継続年数割合
図3-4
S ビル,S2 ビルの利益率の推移 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
図3-5
S ビルの外観,内部景観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
図3-6
S2 ビルの外観,内部景観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
図3-7
ビルを中心にした産業クラスター
図4-1
三集団のサービス・プロフィット・チェーン
図4-2
ビル経営者と飲食店舗の間のチェーン
図4-3
飲食店舗とエンドカスタマーの間のチェーン
図4-4
ビル経営者とエンドカスタマーの間のチェーン
図4-5
顧客関係の密度と場の関係
図4-6
テナントに対するビル賃貸事業者サービスの方向性
図4-7
飲食店舗賃貸ビル事業の成長プロセス
図5-1
多重構造のサービス・プロフィット・チェーンの特徴
図5-2
ビル関係者,テナント関係者およびエンドカスタマーのマーケティングの
交差関係
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
ベンチャー企業成長モデル
・・・・・・・・・・・・・・・・18
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
・・・・・・・・・・・・・・・・23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
・・・・・・・・・・・・・29
・・・・・・・・・・・・・・・・30
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
・・・・・・・・・・・・・・・・・62
・・・・・・・・・・・・74
・・・・・・・・・・・・・・・75
・・・・・・・・・・・・75
・・・・・・・・・・・76
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
・・・・・・・・・82
・・・・・・・・・・・・・・・86
・・・・・・・・96
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
図5-3
サービス・マーケティングの多重構造
図5-4
場の拡大とビジネス実績の拡大の関係 ・・・・・・・・・・・・・・・101
図5-5
「ビジネス実績の拡大」と「顧客関係の密度」との相関図 ・・・・・・102
vii
・・・・・・・・・・・・・・・99
図5-6
持続的健全経営に繋がるソリューション・プラットフォームの拡大 ・・102
図5-7
スパイラルをたどるサービスの経緯モデル ・・・・・・・・・・・・・104
図5-8
クリエイティブ・スパイラルの概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・105
図5-9
飲食店舗賃貸事業持続経営のフレームワーク・・・・・・・・・・・・・106
viii
表 目次
表1-1
2005 年 佐賀市産業別就業者数 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
表1-2
佐賀市の主要商店街通行量調査 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
表1-3
佐賀市中心市街地の定住人口の推移 ・・・・・・・・・・・・・・・・・5
表1-4
佐賀市の中心商店街店舗数の推移 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
表2-1
会社設立 10 年以内に遭遇した経営の危機トップ 10 調査結果 ・・・・・15
表2-2
暗黙知と形式知の特性
表2-3
情報利用権を含む各財の分類
表2-4
サービス品質と満足概念の比較
表3-1
S ビル,S2 ビルに関する主な事業歴 ・・・・・・・・・・・・・・・・36
表3-2
店舗経営者単位の入居継続年数調査結果
表3-3
ビル経営継続年数調査結果
表4-1
カスタマー・ロイヤルティの助長要素
表4-2
四つの視点から見た飲食店舗賃貸ビル事業の持続的経営の要素
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
・・・・・・・・・・・・・・39
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
ix
・・・・・・・・・・・・・・・81
・・・・93
付表 目次
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(1) ・・・・・・・・・・・・・・118
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(2) ・・・・・・・・・・・・・・119
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(3) ・・・・・・・・・・・・・・120
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(4) ・・・・・・・・・・・・・・121
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(5) ・・・・・・・・・・・・・・122
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(6) ・・・・・・・・・・・・・・123
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(7) ・・・・・・・・・・・・・・124
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(8) ・・・・・・・・・・・・・・125
付表1-1
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(9) ・・・・・・・・・・・・・・126
付表2-1
飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態に関する調査表 ・・・・・・・127
x
第一章:序論
1.1 研究の背景
本研究では,飲食店舗賃貸事業では稀有な長期健全経営を続けてきている事例事業の調
査と分析から,その経営モデルや経営指針を抽出する手法を採る.この,事例事業は本研
究の目的である持続可能な経営要件の明確化に適う.
本節では,この事例事業も含めた研究の背景について述べる.
1.1.1 事例事業起業時の社会背景
当該飲食店舗賃貸ビル事業経営者が起業したのは,1978 年である.日本はこの時期,第
二次世界大戦後の荒廃から復興し,高度経済成長から安定成長へ向かっていた.日本の経
済成長率の推移を図1-1に示す.1956 年から 1973 年度の平均経済成長率が 9.1%であっ
た.
図1-1 日本の経済成長率の推移[1]
この時期は作れば売れる時代であり,日本列島改造論等が声高に謳われた.日本列島改
造論では新幹線,高速道路等の高速交通ネットワークの整備を進め,これと関連した工業
再配置や地方中核都市づくりにより,過密と過疎問題を同時に解決する構想があった.こ
の時期は日本全体が潤っていた時期であった.
この高度経済成長期には資本集約型産業,エネルギー型消費産業が強化された.また,
繊維や家電品,雑貨等の輸出産業,鉄鋼,化学等の基礎産業等が,国の指導による産業の
育成と強化により発展を遂げた.地方においては,地方拠点の工業化,新産業都市工業整
1
備特別地区の建設等を中心に,国土開発が手がけられていた.
1970 年代後半から安定成長期へ移行している.図1-1に示すように,
安定成長期は 1974
年から 1990 年度まで平均 4.2%の経済成長率であった.安定成長期を迎え,高度経済成長
期のように右肩上がりの経済成長は望めなくなった.第三次産業の比重が拡大し,経済の
サービス化が進展した.以前の軽薄短小型産業の成長等が産業構造の変化として表れた.
また,固定相場制から変動相場制への国際通貨危機に遭遇した.さらに 2 度の石油危機を
経験し,それにより省エネルギー型経済構造への変革がなされた.欧米との輸出摩擦,貿
易収支の黒字基調定着による経済の国際化を遂げた.
続いて 1980 年代の安定期には,行政改革による規制緩和等が行われた.民間活力の導入
による経済の建て直しがはかられた顕著な例として,日本国有鉄道と日本電信電話公社の
民営化が挙げられる.1980 年代後半から 1990 年の初頭にかけて,地価の高騰,株式市場の
過熱,過剰流動性による,いわゆるバブル経済の破綻が到来した.
1.1.2 起業時の佐賀県佐賀市の経済状況
佐賀県における経済は第二次世界戦後,農業を中心にして建て直しがはかられた.1960
年代には反当たりの米の収穫高日本一となり,1970 年頃まで米の生産額が県の農業生産額
全体の半分以上を占めていた.しかし,その後の減反政策の流れなどから,米を取り巻く
環境は一変した.大規模な耕地整備により効果がはかられたものの,米以外の作物への転
作と多品目化が進んだ.
農業以外の産業としては,石炭採掘が挙げられる.県西部の杵島炭鉱や三菱古賀山炭鉱,
唐津炭田の炭鉱に関しては,明治時代から本格的な石炭の採掘が始まった.埋蔵量の限界
による採炭量の減少,またエネルギー政策の転換により,規模は縮小したものの,佐賀県
の経済の牽引役として 1970 年代初頭まで採炭は続いた.起業時の 1978 年時点では極めて
小さい規模に転じていた.
次に,佐賀県の工業の概要を述べる.九州の交通の要所である県東部地区の鳥栖市や,
佐賀市周辺では現在,製造業を中心とした工業が盛んで,多くの企業の工場進出がみられ
る.また,伊万里湾を中心とした地区では,造船,半導体を軸として水産加工,食品,木
材などの工場が並ぶ臨海工業地帯が形成されている.また,この伊万里湾臨海工業地帯で
は近年,自動車部品,機械,半導体部品などの製造が盛んである.シリコン・ウエハーに
ついては大規模工業が立地する関係で,さらに佐賀県の西部地区では,江戸時代初期から
続く陶磁器関係の産業が特に盛んである.有田焼や伊万里焼,唐津焼などのブランドも多
く,海外にも輸出されている.
また,佐賀県のサービス産業と商業については,人口規模や県民所得から分かるように,
特に盛んというわけではなく,大きな特徴は見受けられない.観光業については,佐賀県
は観光資源に乏しいと言われることがある.その原因として観光資源の活用の仕方や,P
2
Rがうまく進んでいないことが挙げられる.
続いて,佐賀市の経済や産業について述べる.佐賀市を中心に,広い平野を利用した農
業が盛んで,地域の主要産業として維持されてきた.また,有明海周辺においては,漁業
や海苔の養殖業を中心に発展してきた.
佐賀市の工業においては,重工業よりも軽工業が発達していると言える.このことは 20
世紀前半に石炭を産地として栄えた県西部とは対称的である.炭鉱がなかったため,それ
らに付随した工業などが発展しなかったためだとも考えられる.一方,伝統的に食品産業
が根付いていたことから,食品工業や繊維産業が発達した経緯がある.食品産業は依然と
して強いが,繊維産業については 1970 年代に佐賀市の中心部にあった大和紡績佐賀工場が
撤退して以降,佐賀市の産業の主軸から外れた.
2005 年,佐賀市産業別就業者数を表1-1に示す.2005 年の佐賀市のサービス業の就業
者数は 38,053 人で,全体に占める割合が約 33.2%であることが示されている.第一次産業
は 8,756 人,第二次産業は 21,968 人,第三次産業は 83,092 人となっている.このように商
業において出荷額が同規模都市に比べて,とりわけ多いわけでもないが,産業別人口から
見ると第三次産業の割合が特に大きい.
表1-1 2005 年 佐賀市産業別就業者数[2]
佐賀市の中心市街地商店街に関して述べる.地方都市の中心市街地の商店街は衰退の一
歩をたどっている.商店街の衰退に歯止めをかけようと,様々な政策が試みられているも
のの,改善の兆しが見えてきていない.このことは佐賀市においても例外ではない.佐賀
市中心部から北へ約 6 キロメートル郊外に位置し,高速道路インターチェンジに隣接した
3
大和地区に,2000 年「イオンモール佐賀大和」が開業した.続いて 2003 年に,中心街から
東へ約 1.5 キロメートルの位置に「モラージュ佐賀」が開業されている.さらに 2006 年「ゆ
めタウン佐賀」の開業とともに,中心市街地の商店街の衰退が顕著になった.大型ショッ
ピングモールやロードサイド店の隆盛に反比例して,中心市街地商店街の衰退は大きく広
がっている.
佐賀市の主要商店街通行量調査を表1-2に示す.4 日間の通行量の合計が,昭和 60 年
の 349,807 人をピークに年々減少し,18 年後の平成 15 年には 4 日間の合計が 113,194 人と
なっている.通行量が3分の1に減少していることが分かる.
同じように夏の 7 月期を見るとそれも昭和 60 年に日曜日の 1 日の通行量が 103,405 人で
あったものが,平成 15 年の 7 月期には 23,593 人と約 23%にまで落ち込んでいる状況であ
る.
表1-2 佐賀市の主要商店街通行量調査[3]
調査要領:毎年,7 月の最終土日を挟む木曜日~日曜日の 4 日間を調査期間とし,
9 時~18 時の 9 時間で計測.カウント地点は 12 ヵ所.
佐賀市中心市街地の定住人口の推移を表1-3に示す.昭和 51 年度には 10,614 人であっ
たものが,平成 15 年度には 7,032 人と 33.7%も減少している.
4
表1-3 佐賀市中心市街地の定住人口の推移[4]
単位:人
駅前中央一丁目
昭和 51
昭和 55
昭和 60
平成 2
平成 7
平成 12
平成 13
平成 14
平成 15
平成 16
年度
年度
年度
年度
年度
年度
年度
年度
年度
年度
270
212
駅南本町
118
106
88
101
103
110
114
220
295
247
198
157
187
188
197
223
唐人一丁目
631
577
505
456
462
389
400
347
344
364
唐人二丁目
524
445
413
336
266
224
215
202
196
183
神野東一丁目
750
628
667
632
529
485
469
466
463
444
天神一丁目
515
427
364
344
288
219
213
224
332
407
天神二丁目
488
580
556
541
754
730
706
702
744
748
1,148
1,212
598
587
496
427
398
412
408
407
大財一丁目
617
578
557
472
472
393
397
423
403
407
大財三丁目
384
373
305
391
363
400
409
402
400
401
白山一丁目
954
857
738
649
550
542
613
625
619
629
白山二丁目
377
343
288
275
235
272
291
305
290
307
呉服元町
822
672
601
504
428
346
336
320
309
304
33
55
72
99
92
85
86
95
愛敬町
栄町
成章町
502
462
377
336
291
228
230
215
214
207
八幡小路
442
412
391
412
382
343
346
343
329
314
中央本町
491
426
321
283
232
196
194
182
180
179
中の小路
495
414
366
377
367
319
306
313
319
331
松原一丁目
129
93
79
78
83
64
71
72
64
66
松原二丁目
426
361
335
286
185
251
242
418
447
468
松原三丁目
339
278
229
193
161
143
142
136
129
131
堀川町
310
277
240
236
461
500
465
442
445
451
10,614
9,627
8,376
7,796
7,363
6,828
6,825
6,932
7,032
7,286
合計
佐賀市の中心商店街店舗数の推移を表1-4に示す.佐賀市中心市街地の商店街店舗数
の合計が平成 14 年 5 月には 756 店舗であり,空店舗数が 117 店舗あった.空店舗率が 15.5%
であったものが,平成 22 年度 8 月期には店舗数が 894 店舗と増加したものの,空店舗数に
ついては 205 店舗とさらに拡大して,空店舗率が 22.9%となっている.この数字は平成 14
年から平成 22 年の間で最も高い記録を示している.しかし空店舗自体が解体され空地とな
っている場所もあるため,数値上空店舗数としてカウントされていない場合などもある.
したがって実際は数値以上に中心市街地の商店街の空洞化が進行し,疲弊したシャッター
街になっていると考えられる.
5
表1-4 佐賀市の中心商店街店舗数の推移[5]
調査年月日
地区名
平成 14 年
平成 15 年
平成 16 年
平成 17 年
平成 18 年
平成 19 年
平成 20 年
平成 21 年
平成 22 年
5 月 11 日
6月7日
6 月 12 日
7月8日
6 月 30 日
8 月 31 日
8月4日
8 月 10 日
8 月 31 日
1.
店
数
189
185
186
193
192
187
183
183
181
唐人町商店街地区
空き店舗数
33
28
26
33
39
41
42
45
46
空き店舗率
舗
17.46%
15.14%
13.98%
17.10%
20.31%
21.93%
22.95%
24.59%
25.41%
2.
店
数
94
96
99
108
145
146
144
132
134
白山名店街地区
空き店舗数
11
17
19
26
23
22
24
32
26
空き店舗率
舗
11.70%
17.71%
19.19%
24.07%
15.86%
15.07%
16.67%
24.24%
19.40%
3.
店
数
25
32
38
46
50
51
51
49
62
白山いきいき地区
空き店舗数
10
17
11
18
22
12
11
11
14
空き店舗率
舗
40.00%
53.13%
28.95%
39.13%
44.00%
23.53%
21.57%
22.45%
22.58%
4.
店
数
62
62
60
55
61
57
55
52
55
呉服町名店街地区
空き店舗数
16
14
14
14
13
14
17
22
28
空き店舗率
舗
25.81%
22.58%
23.33%
25.45%
21.31%
24.56%
30.91%
42.31%
50.91%
5.
店
数
42
37
36
45
38
43
40
39
39
元町商店街地区
空き店舗数
6
4
10
16
8
9
10
7
3
空き店舗率
舗
14.29%
10.81%
27.78%
35.56%
21.05%
20.93%
25.00%
17.95%
7.69%
6.
店
数
15
15
15
15
15
15
15
16
16
中央マーケット地区
空き店舗数
1
3
3
3
4
4
4
4
5
空き店舗率
舗
6.67%
20.00%
20.00%
20.00%
26.67%
26.67%
26.67%
25.00%
31.25%
7.
店
数
147
146
148
146
165
161
158
156
163
中央本町地区
空き店舗数
8
10
13
9
19
19
15
15
23
空き店舗率
舗
5.44%
6.85%
8.78%
6.16%
11.52%
11.80%
9.49%
9.62%
14.11%
8.
店
数
80
86
82
84
96
96
92
93
96
県庁通り地区
空き店舗数
4
9
3
8
16
13
11
17
18
空き店舗率
舗
5.00%
10.47%
3.66%
9.52%
16.67%
13.54%
11.96%
18.28%
18.75%
9.
店
数
102
104
135
127
146
146
146
151
148
中央大通り地区
空き店舗数
28
34
45
48
46
34
38
46
42
空き店舗率
27.45%
32.69%
33.33%
37.80%
31.51%
23.29%
26.03%
30.46%
28.38%
数
756
763
799
819
908
902
884
871
894
空き店舗数
117
136
144
175
190
168
172
199
205
空き店舗率
15.48%
17.82%
18.02%
21.37%
20.93%
18.63%
19.46%
22.85%
22.93%
店
計
舗
舗
1.2 飲食店舗の実態
1.2.1 飲食事業と飲食店舗賃貸事業
本研究の対象とする飲食店舗賃貸事業とは,いわゆる「飲み屋ビル」のことである.
この事業の顧客は,主に酒類を提供する飲食店,すなわち,小料理屋,スナック,バー,
クラブといった種類の飲食店である.そして,これらの飲食業の大凡は,遊びの多様化,
嗜好の変化,若者の酒離れ,社用族の減少などにより,客数の減少や客単価の下落で厳し
い経営環境にある.同事業の経営者たちは,健全に事業を継続させることは,容易ではな
6
いと感じている.しかし,その経営実態に関する詳細な調査や研究は非常に少なく,内容
も限定的である.
例を挙げれば,佐賀市中心街の飲食店に関しては,商業統計調査結果が,佐賀市政要覧
に掲載されているが,これらのほとんどは「飲食業」という広範囲の項目のまとめとなっ
ている.
「酒場」「バー」
「サロンキャバレー」「バー・キャバレー」などの細かい分類で,
且つ「店舗数」
「従業者数」
「年間販売額」まで調査結果報告がなされているのは,1970 年
版,1972 年版,1974 年版,1976 年版のみであった.
飲食店舗賃貸ビルに関する佐賀市の調査報告書の類は,見出し得なかった.
そこで筆者は,佐賀市中心市街地と福岡市中洲地区,天神地区における,同種ビルの持
続年数に関する調査を行った.目的は,一人または一社のビル経営者が,同一ビルにおい
て経営を持続した期間の明確化であった.調査の手法は以下のとおりである.研究事例ビ
ルと同規模の飲食店舗賃貸ビル 18 物件を抽出し,①所有権に関する事項,②所有権以外の
権利に関する調査を行った.①所有権に関する事項は,調査対象ビルの土地および建物の
所有者の変遷,その原因,時期,所有者情報を調査した.②所有権以外の権利に関する事
項は,主に抵当権を調査した.株式会社東京商工リサーチに調査を依頼した.
調査結果を分析した結果,次のようなことがわかった.新築から現在まで一ビル経営者
で,事業が継続してきたビルは 4 例のみであった.長い順に示すと 39 年,29 年,27 年,8
年の継続期間であった.他の物件では,短期間での転売,差し押さえ後の競売,土地使用
用途変更のための解体,借入のための抵当権設定などが行われていた.
以上のように,佐賀市と福岡市の飲食店舗賃貸ビルの経営状態を観察した結果,持続的
健全経営が容易ではないことがわかった.これは,日本全体に言える傾向であると,事例
のビル経営者は語っている.
そのような状況下,飲食店舗賃貸事業においては,家賃の減額など様々な対策が取られ
ているが有効な手段が見つかっていないのが現状である.
1.2.2 佐賀市の飲食店舗展開と店舗賃貸事業の可能性
佐賀市は東西にのびる旧長崎街道を中心に,古い街並みの商店街が軒を連ねていた.そ
こを中心に商業が発展した町である.街道筋には町の区割りによって業態が違っていた.
例として呉服町,材木町などが挙げられる.その頃の飲食店は割烹料理屋などが主体で飲
食店舗の多くは柳町一帯に位置した.
佐賀市は,第二次世界大戦での空襲などの被害をあまり受けなかった.昭和 20 年の空爆
(焼夷弾)はあったものの,中心市街地はあまり被害を受けることはなかった.その理由
として一つには重工業が発展していなかった事や,戦略上重要な拠点ではなかったことが
挙げられる.終戦直後の佐賀市の街並みの特徴は,古い城下町に共通するものであった.
道幅は狭く,そのそばには水路が通っていた.住居や店舗の敷地は,間口が狭く奥へ細長
く伸びる形態であった.
7
飲食店舗も時代と共に,点在しながら広がりを見せた.戦前から昭和 30 年代前半までの
柳町周辺は活気にあふれていた.昭和 30 年代後半になると,高度経済成長の波も佐賀市に
押し寄せ,街中は活気にあふれていた.図1-2に佐賀市の中心市街地飲食店舗立地の変
遷(昭和 30 年代~現代)を示す.現在の中心市街地から南東の方向である片田江交差点を
中心に,水ケ江町通りの一部と大財通りから西地区の松原町一帯や中央本町の復興通りへ
広がりを見せた.しかし,その殆どが小さな長屋形式の木造モルタル造りや,戦前の古い
木造住宅を改修した飲食店舗であった.
図1-2 佐賀市の中心市街地飲食店舗立地の変遷(昭和 30 年代~現代)
昭和 40 年代に入るとさらに広がりをみせ,飲食店舗の街並みも北上する動きがあった.
その当時,佐賀市のマスタープランでは,都市の区画整理を行う動きがでていた.それは
商業地区,歓楽街地区などに,区分する計画であった.地権者の中にはこれに賛同し,地
域活性化のために街並みを見直す動きもあった.他方,中心商店街の地権者の一部には再
開発に反対する動きがあり,この案は計画倒れとなった.
その後,継続して地域経済の活性化のための施策が検討された.その一つの案として,
一般商店街の昼間ビジネスだけではなく,夜のビジネスがあってもよいのではないかとい
8
うものであった.夜のビジネスの創設とは,飲食店舗を中心とした歓楽街をつくり出すこ
とであった.
そのために,市街地の中心である白山地区にターゲットが絞られた.白山地区は中心商
店街の倉庫群などが多く密集している状態で,店舗としての利用はなされていなかった.
そこで倉庫群の敷地や裏路地を活用しての飲食店街化が検討された.それまで松原地区や
中央本町の復興通り,親不孝通り,呉服元町など,広範囲に点在していた飲食店舗を集積
させる形態となる.本研究の事例とした経営者は,飲食店舗を集積させることにより,店
舗賃貸事業を起業し,新たな飲食店街を構築することが可能であると判断した.
1.3 研究の目的
本研究の目的は持続可能な経営の要件を明確にすることである.特にサービスビジネス
における事業の持続可能経営の要因,手法を明らかにする.このため日本の一地方都市,
佐賀市にある飲食店舗ビル賃貸事業を事例としてとりあげ,その創業から現在に至る長期
の事業経営について詳細な調査・分析を行い,今後の持続的経営に繋がる効果的な経営手
法のフレームワークを構築する.
1.4 研究の手法と視点
S ビル・S2 ビルの飲食店舗賃貸ビル事業における,創業時からの実態と成功要因分析を
行う.持続的経営における課題と特性を示し,どのように持続的経営がなされたかを考察
を行う.
事例研究では起業時の特徴や課題,経営の持続努力,イノベーション,カスタマー・ロ
イヤルティやリスクマネジメントに関連する持続努力の実態と成功要因分析を行う.さら
に,得られた知見を基に,飲食店舗ビルの持続可能な経営モデルの議論を行い,新しいマ
ネジメントのフレームワークを示す.
9
第二章:先行研究とその評価
第一章序論の1.2.1で述べたように,一般的に飲食店舗賃貸ビルの賃貸ビジネスは
持続経営が非常に難しい.理由は,時代の変遷と共に,移り変わる経済環境の変化などで
ある.また,余暇や嗜好の多様化による飲食店舗への飲み客の減少化,そのような社会環
境の変化など様々な原因が考えられる.そこで,様々な環境変化の中,飲食店舗賃貸ビル
を持続経営するには多角的な視点での検討が必要である.具体的には起業,事業成長,事
業持続,顧客との関係を含めたトータルな視点から持続経営の要件を追及する必要性があ
る.
2.1 先行研究調査の枠組み
企業経営を持続するための一つの方法は企業を成長させることである.そのためには組
織を発展させ進化し続けることが重要である.このことに関してはグレイナーが議論して
いるが,起業時点での状況がその企業の将来の方向性を決めるため,持続経営要件を明確
化するためには起業そのものの分析が必要となる.そこで,起業,起業家の特性,起業機
会,起業リスク,経営危機などは重要な分析要因となる.これらのことに関してはティモ
ンズなどが議論している.
次に,事業を継続させることは持続経営にとって重要なことである.事業継続にはポジ
ティブとネガティブの二つの側面で議論が必要である.顧客にとっての新たな価値創造と
いう観点と事業を制約するリスクに対する対応という観点がある.顧客価値創造は知識創
造企業という視点で野中が議論している.
また,リスクマネジメントについては組織のリスク管理や各種対策が重要である.経営
者は優先的に検討するリスクを選ぶことになるが,その際,経営者の意思決定の質を高め
ることが肝要である,それらは榎本らが議論している.
そして,サービス事業に焦点をあてた顧客維持に関しては,顧客満足,顧客ロイヤルテ
ィなどの課題についてサッサーらが議論を行っている.
これらのことを考慮し,図2-1に示す持続経営を追求する上での要素となる,起業,
事業成長,事業継続,顧客維持の視点から先行研究の調査を行った.
10
図2-1 持続可能経営分析の視点
持続可能な経営は起業から企業成長,さらには事業継続へのプロセスを経るが,その過
程で重要な課題がある.起業の段階では起業機会や起業スキル,企業成長段階では組織成
長や経営危機などがあり,事業継続には知識創造やリスクマネジメントがある.そして,
それらの課題を乗り越え,顧客維持に進むがそこでの課題は顧客満足,サービス・マーケ
ティング,カスタマー・リレーションシップである.
2.2 起業の視点
1)起業および起業家の定義
アントレプレナーシップについてドラッカーは「企業家精神とは,すでに行っているこ
とをより上手に行うことよりも,まったく新しい事を行う事に価値を見出すことである.
企業家は変化を当然かつ健全なものとする.彼ら自身は,それらの変化を引き起こさない
かもしれない.しかし,変化を探し,変化に対応し,変化を機会として利用する」と定義
している.また,急ぎすぎる企業家は,必ず失敗する.失敗を運命づけられている.とも
述べている[6].
ジェフリー・ティモンズは,
「実際に何もないところから価値を創造する過程である.言
い換えれば起業機会を創り出すか適切に捉え資源の有無のいかんに関わらず,これを追求
するプロセスである」と定義している.また,本質的に人間の創造的プロセスでもあると
も述べている[7].
要約すると,アントレプレナーシップとは個々が持っているエネルギーを結集し,価値
11
の創造と分配のため事業を創造し,組織を創り上げることであると考えられる.また強い
意志のもとビジョンを確立し,コミットメント,熱き情熱,動機づけをして,経営パート
ナー,従業員,顧客,取引先,ステイクホルダーなどの利害関係者にビジョンを納得させ
るものである.そして経済的,個人的なリスクを負い最大限努力をすることである.また
経営チームを組織し,社会的変化に対応し変化を機会として捉え,起業機会を察知して様々
な経営資源を利活用し,自分が信じる起業機会を追求することであると考えられる.
また,ティモンズは最も起業家にとって重要なのは長期的な価値の創造と継続的なキャ
ッシュフローの形成能力であると述べている[8].
2)起業機会と起業家の特性
起業機会はアイデアや創造的起業活動から生み出され,高付加価値の製品やサービスを,
顧客やエンドユーザーに提供する行為に基づく,価値創造を構築するプロセスである.兆
候,狂騒や混沌,矛盾,競争的行為のタイムラグ,情報のギャップ,その他様々な状況を
起業家が適切に認識し,事業化することで起業機会が生まれる.また起業機会は状況に左
右されやすい.創業者とベンチャー経営チームの特性や競合他者の構成,当該起業機会の
潜在的可能性に左右されるということがある.この起業機会については,ティモンズの『新
規事業の立ち上げにとってタイミングが全てである』との見解[9]が妥当である.
また,起業家の特性についてティモンズは次のように述べている.「成功する起業家には
共通の姿勢と行動形態がある.強い責任感と強固な忍耐力が推進力となって,惜しみなく
動くことである.誠実さを追求し競争心に満ちて絶対勝つことができるという強い思いに
燃えている.失敗を学習の道具として利用し,完璧であることよりも効率を優先する.ま
た独創性や確信性の才能などに留まらず,経営能力,事業のノウハウ,十分な人脈をも兼
ね備えている」起業家の特性を,図2-2に示す.
図2-2 起業家の特性[10]
Inventor は,創造的能力やイノベーション能力が高いが経営能力や事業ノウハウが欠けて
いる場合が多い.Promoter は重要な部分での経営能力,事業能力はあるが,真の独創性が欠
12
けている.Manager と administrator の経営能力や事業ノウハウは効率的でレベルも高いが,
創造的能力やイノベーション能力はあまり要求されない.Manager と administrator と,起業
家の経営能力は重複する部分があるが,マネジャーは経営資源の保全を重要視するのに対
し,Entrepreneur の行動は起業機会に影響を受け起業機会に駆り立てられる[11].
3)起業家の出現プロセスと起業スキル
独立する起業家はある日突然現れるわけではない.人生のある時点で潜在的に起業意識
が生まれ,その意識が顕在化し,自己実現のために起業スキルを高めベンチャー企業を起
業する.松田は起業家の起業プロセスを要約し,図を用いて次のように述べている[12].松
田の起業スキルの向上と起業家の出現プロセスを図2-3に示す.
図2-3 起業スキルの向上と起業家の出現プロセス[13]
松田は図2-3の構図で以下のように論じている.
「最初のプロセスは地域や家庭環境の
影響を受けやすい.生まれ育った地域や家庭環境は将来の起業家の自立意識や起業意識を
潜在的に醸成する.最も影響を受けるのは家庭環境からである.特に,自活型の家庭での
親の言動は無意識的な起業意識の醸成に主として関係あると考えられる.
次に,起業や経営の教育過程では,家庭から経済社会に目を向け,具体的なビジネスを
インターンシップ,授業で学んだケーススタディーから経済社会を疑似体験する.特に技
術や経営,さらには自立性や独創性を育む起業教育から潜在的な起業意識が顕在化して,
直ぐに学生ベンチャーとなるか,起業スキルを蓄積するために次の段階を考慮することに
なる.
そして,企業勤務経験実務による起業実践体験では,多くの起業家は企業勤務経験を経
13
て,起業するサラリーマン起業家である.企業勤務は起業実践体験の宝庫である.大企業
出身で高い志と技術力の高い起業家の多くは,新規事業のプロジェクトや新製品開発プロ
ジェクトなどの経験者である.社内ベンチャーには最適である.しかし,少しでも内的・
外的刺激が加わり,自己実現の夢が社内では無理だと判断したら,起業スキルが高まって
いる起業予備群は起業家に変身する.
最後のプロセスのインキュベート機関であるが,本来ベンチャー企業はリスクに果敢に
挑戦する起業家に率いられなければならない.学んだ大学や勤務した企業で起業スキルを
向上させているが,いきなり厳しい経済社会に遭遇するには,起業家として総合的体力は
ない.そこで,一時的な避難場所が必要になる.それは地方自治体や民間が運営するイン
キュベート機関である.その施設で自己インキュベート能力を高めることが重要である.
そして,起業家となりベンチャー企業を興すことになる」
以上のことを要約すると,起業スキルの向上と起業家の出現プロセスでは,生まれ育っ
た地域や家庭,大学の起業プログラム,勤務した企業での経験,インキュベート機関の活
用などで起業スキルを向上させることで,潜在的にある起業意識を顕在化させ,少しの刺
激によっても具体的に起業をする.また起業の準備にむけて,どのように意識的に行動す
るかということを考えた時,もちろん起業のタイミングに幅があり,年齢的には若い学生
から定年を過ぎたシニアベンチャーまで年齢差があるため,それぞれの準備行動に相違が
あると考えられる.
4)起業リスクと経営危機
成長意欲の高い起業家は,成長する市場に対して自己や経営チームの能力を活かして製
品やサービスの開発から販売回収までのリスクを計算し,挑戦し続けるものである.しか
し,ベンチャー企業が通常の中小企業と異なるのはリスクに果敢に挑戦することにある.
松田は,リスクによる経営危機の要因を,外部要因三つと内部要因六つに区別して整理
している[14].「その外部要因による経営危機とは,①生産委託依存による危機,②顧客の
集中化による連鎖倒産の危機および,③環境激変による危機である.内部要因による経営
危機としては,①研究開発資金や期間の読み違いによる危機,②市場の読み違いによる危
機,③経営管理不在による経営暴走の危機,④過大な資金調達による放漫経営の危機,⑤
コミュニケーション不在による危機,および,⑥ユニークな経営システム採用による危機
がある.④の危機の原因は,資金市場の緩和期の過大資金調達,余剰資金の無駄遣いによ
る非効率経営,あるいは,対外的評価と実力との乖離にある.また,⑤のコミュニケーシ
ョン不在による危機の具体化は,経営幹部間の内紛や従業員の集団離脱と争議に至る.⑥
のユニークな経営システム採用による危機は二つの組織に目立つ.それらは,トップコン
トロール型組織あるいは自立・分散型組織であることが多い」
このように,様々な経営危機の要因が企業の内外に存在するなか,企業が成長する過程
で,起業家は常に経営リスクを最小限にとどめ,危機には頻繁に遭遇することを覚悟して
14
企業経営をするのが肝要である.その際,特に注意することは起業期と急成長期での金融
危機,さらには経済や社会などの急激な環境変化による経営危機が挙げられる.
起業後の経営危機については様々な原因が考えられるが,この実際については,先行調
査,早稲田大学アントレプレヌール研究会の,会社設立 10 年以内に遭遇した経営の危機ト
ップ 10 調査結果がある.会社設立 10 年以内に遭遇した経営の危機トップ 10 調査結果を表
2-1に示す.
表2-1 会社設立 10 年以内に遭遇した経営の危機トップ 10 調査結果[15]
(重大な危機・倒産覚悟の合計 会社の割合)
遭遇した危機
割合
1. 運転資金不足
22.2
2. 売り上げ不振
21.2
3. 顧客確保の困難
8.9
4. 従業員の確保困難
8.9
5. 新製品の開発不発
8.0
6. 設備資金の不足
7.7
7. 競合会社の出現
6.6
8. 中心的な従業員の退社
5.9
9. 不良債権の多発
4.9
10.経営陣の内紛
3.5
この経営の危機の原因調査結果から,「運転資金不足による危機」が 22.2%,「売上不振
による危機」が 21.2%であることが分かる.この二つが経営者の遭遇した危機の約 43%で,
財務的原因が占めることが分かる.その他,企業の内的リスク原因が挙げられる.そして,
最大の経営の危機が倒産であると考えるならば,起業して 5 年で 30%は倒産するといわれ
るベンチャーの世界で,特に経営者はこの二つの危機管理を行い,乗り越えることが重要
である.いかに,倒産を回避するかが持続経営の重要な課題であると考える.
2.3 事業成長の視点
企業の組織成長モデル
1)グレイナーの成長の5段階の組織発展のモデル
グレイナーは企業が成長する時,組織は五つの顕著な発展段階を経て発展し,それぞれ
の段階で進化と革命という特徴があるとしている[16].進化は組織活動において激変が起こ
らない長期にわたる成長期を示している.また,革命は組織という生命の本質的な変動期
を示すことに使われている.
15
グレイナーは組織発展のモデル作りに次の五つの次元を用いて述べている.
① 組織の年齢:基本的な次元
② 組織の規模:時間だけが組織構造を決定する要素ではなく,企業経営上の問題点やその
解決方法に変化を与える.
③ 進化の段階:危機を乗り越えた組織は,経済的失敗や内部的分裂もなく継続的に成長す
る.
④ 激動の期間を革命的な段階とみて:次の進化的成長期の経営基礎となる,組織活動体制
を探す理論を構築する.
⑤ 産業の成長率:組織が進化と革命の段階を経験するスピードは,その産業の市場環境と
密接な関係がある.
これらの五つの次元を念頭において,グレイナーは組織の規模や年齢を成長の5段階で
論じている.図2-4に成長の5段階 ベンチャー企業成長モデルを示す.
図2-4 成長の5段階 ベンチャー企業成長モデル[17]
グレイナーは,以下のようにベンチャー企業成長モデルを5段階で述べている.
第1段階「創造性」
:創造性による成長で創業者は,技術志向や企業家精神志向のため,
マネジメント活動より製品・サービスや市場創出を強調する.組織内ではリーダーシップ
の不在から統率の危機が生じる.そのため,経営上の問題を解決する豊富な知識と技術を
持ったマネジャーを用いて,この危機を乗り越える必要がある.
第2段階「指揮」:この段階では有能で指揮的リーダーシップのもとに成長期に入るが,
規模の拡大と複雑多様な組織を管理することに不適当なものになる.そこで,自主に対す
る要求が高まり,第二の危機が起こる.権限委譲による解決方法が取られるが混乱は避け
られない.
16
第3段階「委譲」
:この段階に進むと,権限委譲により分権化組織構造をうまく適用する
ことから進展する.現場マネジャーの自由が偏狭な態度を生むと,マネジャーの権限が強
くなりすぎる.トップマネジメントが統制力を取り戻そうとして,独自の調整技術を発揮
し,統制の危機を回避する.
第4段階「調整」
:この進化期は調整をうまく行うシステムの導入と,トップによるシス
テムの管理運用である.調整システムをベースに成長を達成しようとするが,組織が肥大
化することで形式偏重主義の危機が芽生える.その弊害を乗りこえるため最後の段階へ進
む.
第5段階「協働」
:この段階は形式偏重主義の危機を乗りこえる,個人相互間の協働であ
る.この段階の進化は経営にとって,柔軟で行動科学的なアプローチを中心に強化される.
しかし,さらに新たな危機が生まれるので解決策が急務である.
以上の,グレイナー理論では常に革命段階の危機を乗り越えることにより,企業成長が
段階的に行われる.この革命段階での解決策は,それぞれの段階で常に新しい特別な解決
策を駆使することが求められているとしている.以前使用された解決法では新しい展開が
望めないからである.したがって,企業の成長と発展は危機の段階で,将来を予測した,
常に新しい創造性豊かな発想が求められ,危機を乗り越えていくことが,企業成長にとっ
て重要であると考えられる.そのためには企業が成長する過程で経営者が交代した方がい
いとも考えられる.なぜなら,経営者が変わると発想も変わり,新たなマネジメント・ス
タイルが予感されるからである.
2.4 事業継続の視点
2.4.1 リスクマネジメント
1)リスク分類と対策
創業時や成長期に事業を継続する時点では,リスクをどのように回避するかが重要であ
る.つまり,リスクマネジメントを企業において如何にするかである.リスクの定義につ
いては,安全の確保を適用範囲にした面からのリスクは「危害の発生確率及びその危害の
程度の組み合わせ」とされている[18].
リスクには企業の存続と事業継続の視点から見ると 2 種類が考えられる.1 種類は予想や
予定されているものであり,2 種類目は予期しない事態における損失である.前者は合理的
に予想でき,計画の中で認識しているためあまり脅威にならない.しかし,後者は最悪の
事態における,通常の業務で見られる損失を,大きく超える規模の損失がある場合,企業
にとって最大の脅威となる.
黄野はリスクを分類する方法は法律面や現象面,つまり戦略リスク,市場リスクなどか
ら分類する方法が多数あり,企業が抱えるリスクの全体像をある程度把握し,影響度の高
いリスクと確率から予防,緊急時,継続,復旧対策を検討するために,影響度と発生確率
17
を考慮した分類が必要になると述べている[19].黄野による影響度と発生確立によるリスク
分類を図2-5に示す.
図2-5 影響度と発生確立によるリスク分類[20]
この図2-5は企業が抱えるリスクの全体像を把握するのに必要で,企業経営者が優先
的に検討するリスクを選ぶことになる.なお,企業を取り巻く環境の変化に対応するため
定期的に更新することが望ましいと考えられる.
リスクは突然やってくる,対策を練っていても理論通りはいかない.
発災前後の予防対策,緊急時対策,継続対策,復旧対策の各リスク対策と時間の関係を
図2-6に示す.
図2-6 時間と各リスク対策の関係[21]
リスクに対して常に危機管理や予防対策を取っていても実際に発災した場合は事故を必
18
要最小限度に抑え,速やかに事後処理をすることである.
また,黄野はリスクの把握と分析,および対策検討の方法について,選ばれた個別リス
クごとに思いつく各対策を書き出している.この場合,全般的に書き出すよりは,ヒト(体
制)
・モノ(設備,周辺環境)
・カネ(財務)・情報(一般,IT システム)に分けたほうが,
作業が容易になるとも述べている.さらに,リスクごとに書き出された各対策を整理する.
これを社内外の各対策の専門家と財務担当の専門家がチェックし,各対策に対して対策項
目集を作成する.そのために,リスク対策の監視運営チームを作り,各アプローチに対し
て企業経営者は,常にリスク対策を念頭に置きリスクマネジメントすることが肝要である
と述べている[22].
したがって,リスク対策を考える時,常に対応策を考え,実際に発災しても,速やか
にリスク処理ができ,安心で安全の確保に努めることが重要となる.
2)リスク管理の意思決定
榎本はリスクマネジメントの意思決定について次のように述べている[23].
「意思決定と
は複数の選択肢から最適なものを選択することである.そして,リスクマネジメントとは,
意思決定者に最適な判断を下すために必要となる未来情報を提供することである.したが
って,リスクマネジメントで得られる未来情報の質は,意思決定の質に影響を与えてしま
うのである.組織にとってリスクマネジメントが重要である理由がそこにある.意思決定
を人間が行う限り,ヒューリスティクスやバイアスなどから受ける影響を無視することは
できない.ヒューリスティクスとは,解決までのプロセスを省略して結論に至る問題解決
の一種であり,バイアスとは意思決定者の心情に影響して判断を遅らせる現象である」
ここで,人が判断を錯誤しやすい事例としてモンティ・ホール問題を取り上げる[24].
この確立論争は 1990 年 9 月にニュース雑誌「パレード誌」
宛に読者から投稿された質問に,
同誌コラムニストのマリリン・ヴォス・サバントが回答したことが発端である.論争は大
学の研究者や各分野の学識者を巻き込み一大論争へと発展した.そして,学者による検証
が実施されマリリンの回答が正しいことが立証された.しかし,論理的に説明されても納
得できない人が多くいたことから,直感と正解が乖離しやすい問題を「モンティホールジ
レンマ」と呼ぶようになった.
また,既成概念を変える事をパラダイムシフトと呼ぶ.意思決定者が自説に執着しすぎ
ると固定概念が障害になると判断を誤る.有効性を高めるためには頭の柔軟性を保つ必要
がある.意思決定の質は,パラダイムシフトにおいても変わるためである.人の先入観や
既成概念を変える事は容易ではない.したがって,リスクマネジメントが提供してくる情
報を正しく受け止めるためには,
「ショック療法」などで,パラダイムシフトする頭の柔軟
さが求められるのである[25].
したがって,経営者が意思決定を下す場合,既成概念にとらわれない,頭の柔軟性やパ
ラダイムシフトをして意思決定の質を高めるべきである.
19
2.4.2 知識創造のプロセス
1)暗黙知と形式知
一般的に知識は「個人的で主観的」と「社会的で客観的」という二つの側面で分類でき
る.マイケル・ポラニーは,我々が一般的に考える言語的,分析的な知に対して非言語的,
包括的な知を「暗黙の知」と述べている[26].これを暗黙知と形式知に当てはめることがで
きる.暗黙知と形式知の特性を表2-2に示す.
表2-2 暗黙知と形式知の特性[27]
野中等の主張は,
「二つの形態によって知識を有しているから能動的に生きることが私達
はできる.基本となるのは暗黙知であるが,暗黙知には最大の「問題」がある.それは知
識を持っている本人自身が,簡単には体系的に理解できないことである.
暗黙知は体験や訓練によって得られるコツやバランス感覚である.練習の過程で獲得し,
五感で体得していく.一方ではマニュアルの助けによって実践し,結果的に早く覚えるこ
とができる.その他に暗黙知は,日常的に組織の現場で行われている業務手続の方法,あ
るいは工場や研究所での熟練工や研修者の技能,市場や営業地域,顧客の動きに関する感
覚,製品の品質に関する知覚能力,製品開発に関する経験的方法論などが含まれる.した
がって,暗黙知が企業や組織にとって不可欠の強みであるという場合は少なくない.また,
暗黙知は部分的に形式知化されているだろうが,そうすることが可能である.例えば熟練
技能者の業務手順などはマニュアル,ガイドライン,プログラムなどに展開されるだろう.
また,市場や営業地域,顧客動向を把握するため論理的手順や方法も同様である.つまり,
言語化されたノウハウ,ドキュメントが形式知だといえるだろうし.製品仕様やデザイン
なども形式知である」[28]
この暗黙知と形式知による知識経営を,飲食店舗賃貸事業に,如何に適応させるかはそ
の持続経営に有効な観点になると考えられる.
20
2)知識創造プロセス
野中らは,知識創造のプロセスを SECI プロセスとして説明している.SECI プロセスを
図2-7に示す.
図2-7 SECI プロセス[29]
知識創造のプロセスが,知識変換の循環プロセスとして説明されている.まず,暗黙知
から暗黙知への流れがあり,これは共同化と呼ばれ,経験を共有することによって,メン
タル・モデルや技能などの暗黙知を創造するプロセスである.次に暗黙知から形式知への
流れがある.これは表出化と呼ばれ,暗黙知を明確なコンセプトに表すプロセスである.
また形式知から形式知への流れがあり,これは結合化と呼ばれる.これはコンセプトを組
み合わせて一つの知識体系を作り出すプロセスである.最後に,形式知から暗黙知への流
れがある.これは内面化と呼ばれ,形式知を暗黙知へ体化するプロセスである[30].
3)場
野中は場の概念について次のように述べている.創造する力としての知識は,個人の内
にあるのではなく,相互作用を通じて他者と文脈を共有するダイナミックな場から生まれ
る.ここでいう文脈とは,時間,場所,人との関係性である.つまり,特定の時間,空間
における人との相互作用の中で可視化されてくる.相互作用とは身振り,話法,行為,雰
囲気などである.そして,場とは相互作用を通じて他者と文脈を共有し,その文脈を変化
させることにより意味を創出する時空間である.場の概念図を図2-8に示す.
21
図2-8 場の概念図[31]
それぞれに個人の文脈があり,個人の文脈が中心に集まり共有される.そして,文脈を
お互いが共有しあいながら,その場で相互作用を通じて知識創造をしている.その際に,
知識創造の広がりとスパイラル化が起り,徐々に質が高まる.新しい知の創出を連続的に
発生させることができる.
場には物理的場・仮想的場・実存的場などがある.物理的場はオフィスや分散した業務
空間などを表し,仮想的場は電子メールや電子会議などがある.実存的場としては,主体
的な自己として関わっていく,プロジェクトチームなどがある.これらの,いずれの状態
の場もあり得,また他にも様々な場があり得る.
また,よい場の特徴としては,①固有の意図や方向性や使命をもち自己組織化されてい
る.②境界が閉ざされておらず開かれている.③多様な背景や視点を持った人達とそこで
感情の共有や対話ができる.④他者との相互作用の中で自分をより高い次元へと自己超越
していくことができる.
そして,場を作ることのできない組織は新しい知識を創出することができない[32].
この事業経営の環境を「場」として捉えて,環境の成長を企図していくとの考え方は,
本研究の対象事業にとっても重要で,かつ適合し得ると考えられる.
2.5 顧客維持の視点
2.5.1 顧客満足
1)カスタマー・ロイヤルティとサービス・プロフィット・チェーン
22
顧客ロイヤルティは,ビジネスシステムにおけるあらゆる要素に大きな影響を及ぼす.
それは企業の成功の原動力である.顧客の維持や離反を管理し,常に高い顧客維持率を確
保できれば,それは大きな競争優位につながり,従業員のモラルも上がる.生産性や成長
率の点でも改善が得られるし,資本コストも下がることになる.
また,顧客価値の創造は,あらゆるビジネスシステムの成功の基礎である.顧客価値を
創造できればロイヤルティが生まれる.さらに,ロイヤルティは成長と利益をもたらし,
さらに高い価値の創造に繋がる[33].
したがって,持続的な事業達成には顧客への価値創造とロイヤルティの持続的な改善を
達成することが重要であると考えられる.この価値創造とロイヤルティの改善に関する研
究としては,ジェームズ・ヘスケットの分析[34]に注目した.
ジェームス・へスケットがいう,サービス・プロフィット・チェーンを図2-9に示す.
図2-9 サービス・プロフィット・チェーン[35]
サービス・プロフィット・チェーンとは,サービスにおける売上や利益に関係する顧客
満足,顧客ロイヤルティ,従業員満足,従業員ロイヤルティ,企業利益の因果関係を示し
たフレームワークのことである.従業員満足度がサービスの価値を高め,それが顧客満足
23
度を高めることにつながり,企業の利益と成長が高まるとしている.そして高めた利益で
従業員満足度をさらに高めることで良い循環サイクルができあがる.従業員満足度が向上
すると,提供するサービス水準が向上する.サービス水準が向上すると,顧客満足度が高
くなる.顧客満足度が高くなると顧客ロイヤルティが高まる.つまり,顧客ロイヤルティ
は顧客満足による直接的な結果である.顧客満足は提供されたサービスの価値に強く影響
される.サービスの価値は有能な従業員によって創造され,その従業員ロイヤルティは高
い.そして,従業員満足は主としてクォリティの高い社内サービス,顧客サービスの提供
を実現させるための方策に影響されることになる[36].
ジェームス・へスケットはサービス・プロフィット・チェーンの概念を,チェーンのリ
ンクを形成する七つの基本命題についても述べている[37].「①顧客ロイヤルティは収益性
と成長性の原動力である.②顧客満足は顧客ロイヤルティの原動力である.③サービスの
価値が顧客満足の原動力である.④従業員の生産性を高めることで価値が創造される.⑤
従業員ロイヤルティが従業員の生産性の原動力である.⑥従業員満足が従業員ロイヤルテ
ィの原動力である.⑦社内サービスの質が従業員満足の原動力である」つまり,サービス・
プロフィット・チェーンを要約すると企業は,顧客満足と顧客ロイヤルティ,従業員満足
と従業員ロイヤルティの間にある,明確な関係性が要因で,企業の成長と収益性に影響を
受けている事が分かる.
2.5.2 カスタマー・リレーションシップ
企業にとって新規顧客の獲得は重要であるが,それ以上に既存顧客を継続的に満足させ
ることの重要性は多数の研究者によって支持されている.嶋口(2001)はリレーションシ
ップ・マーケティングを「既存顧客との長期継続的な満足と信頼の関係によって,再購買
を高め周辺顧客を累積的に呼び込むこと」と述べている[38].顧客とのリレーションシップ
を確立,維持,強化することは,マーケティングにおいて極めて重要な課題である.
コトラーはリレーションシップ・マーケティングには長期的な視野が必要であり,長期
間に亘り価値を顧客にもたらし,満足させ,繋ぎとめていればそれが成功の目安になる.
そのために,顧客と強い絆を結ぶには,高い価値と満足を常に提供し続けるだけでなく,
様々な マーケティング・ツールを使うこともできると述べている[39].
方法として,顧客との関係に①金銭的なベネフィットを付加して価値と満足を高める.
②社会的なベネフィットを付加する.③構造上の結びつきを強化する.としている.
結局,マーケティングとは利益に繋がる顧客を引き付けて離さないようにする技術と考え
られる.
1)顧客関係のパラダイム
嶋口は関係性パラダイムについて次のように述べている.従来の交換パラダイムが基本
的に単発合理型の取引交換によって価値を高めるのに対し,その基本枠を残しながらも,
24
長期的・継続的な取引関係という視点から,時に短期の単発不合理な交換をも容認し,長
期的な相互ベネフィットと持続的成長を目指すものである[40].
顧客との関係の創造と維持はマーケティングの中心的な課題である.顧客との関係が企
業の重要な資産としてクローズアップされるのは,顧客との関係を中心に考え,それを活
用するために新しい製品・サービスや技術を次々と導入していくという考え方の中から,
マーケティングを展開しようとする場合である.その際,顧客との関係を維持し,深化し
ていくためのマネジメントが欠かせなくなる.「顧客を資産」としてみると次のようなこと
が重要になってくる[41].
まず,「顧客との関係」を企業の重要な資産と捉え,交換に先立って売り手と買い手が一
体化した長期継続的な関係を作り上げてしまうことこそが,マーケティングの中心的な課
題だと考えられる.こうしたマーケティング・パラダイムを「関係性パラダイム」あるい
は「リレーションシップ・マーケティング」という.
関係性パラダイムにおける「顧客との関係」とは長期的に持続する相互依存的な関係にあ
るが,その関係を形成することのメリットとして,石井らは三つの点を挙げている[42].
そのメリットに関する結言は,以下の 3 点である.
① 取引先企業との長期継続的な関係を築くことができれば,長期的な取引によって得られ
た信頼関係を基に,新製品開発や合理化のための思い切った投資ができるようになる.
機械主義的な行動を防ぐため,特別に取引コストを負担する必要はなくなり,取引コス
トやリスクの低下となる.
② 顧客のニーズやその変化を長期継続的に捉えていくことで,「クロスセリング」や「ア
ップセリング」を行うことが可能となり販売機会の拡大となる.
③ 新規顧客の獲得には相当な経費がかかり,主要なコストは既存顧客の維持に必要なコス
トの数倍にものぼるといわれている.新規顧客に製品・サービスを販売するよりも,既
存顧客に販売するほうが,はるかにコストが低いからである.既存顧客からの口コミも
広がりが期待できる.そのため,製品・サービスの情報を幅広く告知し,新たな顧客を
勧誘するための顧客獲得コストを低減することができる.
今,なぜ顧客との関係が注目され始めたのか.そのことには関係性パラダイムが台頭し
てきた背景がある.主要先進国各国に共通するマーケティング環境の大きな変化である.
まず市場の成熟化である.市場の成熟化には,競争の問題と需要の中身の変化という二つ
がある.競争の問題については,市場が成熟し新規顧客を開拓する余地が乏しくなると,
さらに成長するためには競合他社の顧客を奪い取るしかなくなるということである.需要
の中身の変化については,買い替え購買が需要の中心となるが,成熟期に入ると新規顧客
を獲得する際のハードルが高くなり,市場シェアの高い企業にとっては,新規顧客獲得よ
りも既存顧客との関係を重視した方が賢明となるからである.
そして,アフターマーケットの拡大である.
「アフターマーケット」とは,製品・サービ
25
スの販売後,それに付随して生じる修理や部品交換といった保守・点検などの需要を対象
として形成される市場のことである.こうしたアフターマーケットは,製品が高度化・複
雑化するとともに拡大する傾向にあり,顧客との関係を継続させることが重要な課題とな
る.また,既存顧客との関係をうまく活用することができれば,マーケティングコストを
削減することができる.
さらに,情報技術の発展である.近年,関係パラダイムが急速に注目を集めるようにな
ったのは,顧客データベースを構築し,その分析を通じて顧客関係のマネジメントを高度
化していこうとするアイデアが,情報技術の発展によって現実味を帯びてきたからである.
情報技術を顧客関係のマネジメントに活用しようとするアイデアは,CRM(Customer
Relationship Management)と呼ばれている.
2) 顧客関係の識別と選択.
顧客関係は企業にとって重要な資産である.石井らは「顧客関係を育成しようとする時,
企業は三つの問題と関わる事になる」と述べている[43].その要点は以下の3点となる.
①買意思決定のキーパーソンは誰であるかということであるが,顧客という言葉には注
意が必要である.顧客と総称される人々を細かくみていくと,1 人 1 人の役割が異なってい
る場合が多いからである.そのことによっても購買意思決定のキーパーソンは違ってくる
からである.
②顧客生涯価値で優良顧客を識別することである.顧客生涯価値の算定にあたっては,
ある特定の顧客との取引を将来にわたって継続した場合,企業にもたらされる売上や利益
の推定が行われる.当初の販売額は小さくても,取引が継続することで販売額が大きく膨
らむことがある. 顧客生涯価値に基づいて行われたマーケティング活動の結果が,さらに
顧客生涯価値に影響を及ぼすのである.
③一般顧客にも納得のいくプログラムである.優良顧客を識別して特別なプロモーショ
ンやサービスプログラムを提供していく際には,次のような問題への配慮が必要となる.
特別なプログラムに対しては,他の顧客からの反発が生じやすいからである.優良顧客へ
の特別プログラムとよく似ているのが,販売価格帯によって製品・サービスの内容や品質
を変えるという対応である.例えば新幹線の指定席とグリーン席とではサービスの内容が
異なっている.この場合には顧客が不満を感じる恐れは少ない.なぜなら,支払っている
料金が大きく異なるからである.ところが,同じ指定席を購入した顧客でも,その重要性
や顧客生涯価値に則して違った対応をしようというのが,優良顧客に対する特別プログラ
ムである.この場合は対応の違いが生じる理由を,双方の顧客に分かりやすく提示する必
要がある.
3) 顧客関係の維持と修復.
顧客関係を維持するためには,三つのことに取り組むことが必要であると石井らは述べ
ている[44].
26
①スイッチング障害の形成:スイッチング障害にはどのようなものが具体的にあるかと
いえば,会員制・長期間割引・ポイントプログラム・移動コスト・経験・信頼関係である.
「スイッチング障壁の形成」はスイッチングコストを高めることによって,顧客の離脱を
防ぐというものである.
②顧客満足の実現:顧客満足の実現とは自社の製品・サービスに対する顧客の満足度を
高め,その購買の継続を促すことである.「顧客満足」については,事前の期待と実際に体
験したサービスへの評価の差によって規定される.つまり,事前の期待を大きく上回る体
験をすれば非常に満足し,逆に期待以下なら不満を覚えるということである.顧客満足の
レベルは客観的あるいは物理的な尺度で測った製品・サービスの性能や品質とは一致しな
いことがある.個々の顧客が製品・サービスの性能や品質を,期待という主観的な尺度に
照らし合わせて評価した結果が,満足あるいは不満足なのである.顧客満足を通じた関係
性の維持とは,単なる現状維持ではない.そのためには,マーケティング・ミックスの諸
要因をたえずブラッシュアップしていくことが欠かせない.
また,顧客満足によって関係性を維持していくには,顧客満足度調査が必要である.自
社の製品・サービスに対する顧客満足度の実態を掌握し,顧客からどの程度の支持を得て
いるかを診断することが必要だ.その調査は一定期間にわたって繰り返せば,経時的な変
化から評価を導くことはできる.しかし,顧客満足度調査を評価に結び付けていくには,
何らかの形で意味のある比較を組み合わせることが必要となる.単一の製品・サービスに
対する,ワンショットの顧客満足度調査を行うだけでは,評価をどのようにして良いか分
からなくなりかねないので注意が必要である.満足度調査の結果を読みとくには,不満よ
りも満足の方にバイアスがかかる傾向があることに,注意する必要がある.消費者の多く
は自らが購買した製品やサービスを,高く評価しようとする傾向があるので,こうした点
からも相対評価を基にした分析が望ましいと言える.
③顧客関係の修復:顧客と良好な関係が築けても,いつまで続くとも限らない.
なんらかの不手際や不具合によって顧客が不満を抱いてしまうという事態を,完全に避け
ることは不可能である.こうした不満は「苦情」という形で顕在化する.苦情への対応は
顧客との関係を長期にわたって継続化していこうとする際に,避けて通れない課題となる.
苦情に対する対応の仕方では,顧客との絆を強めることができるし,逆に顧客を失うこと
にもなる.苦情への対応が的確であるならば,通常は半数以上の顧客が利用を継続してく
れると言われている.苦情にどう対応するかであるが,企業側の対応が遅れるほど顧客の
不満や不信感は高まり,関係の修復が難しくなる.一方,小さな苦情なら,迅速に対応す
ることで信頼感を高めることができる.そのためには不満を引き起こした原因について,
合理的な説明をすることで,その不満を解消することができる.つまり,迅速な対応で,
問題の原因について説明するということである.そこで,苦情処理には顧客と直接接する
現場の従業員に,できるだけ権限を委譲して対応することである.サービス業では,苦情
のあったその場で従業員がどこまで対応できるかかが,顧客の心象に大きな影響を及ぼす
27
からである.そして,権限委譲された従業員が正しい判断を行えるように,ガイドライン
の作成,教育が必要である.つまり,従業員に顧客満足の価値を会得してもらうことが肝
要である.
4)顧客維持と高める組織.
顧客との関係という資産を企業がマーケティングに活用するには,顧客関係の識別や選
択,あるいは,その意思や修復のための取り組みを継続していく必要がある[45].こうした
一連の取り組みを実践していくには,「逆ピラミッド型組織」が適しているといえる.逆ピ
ラミッド型組織を図2-10に示す.
図2-10 逆ピラミッド型組織[46]
顧客との関係を重視した経営のあり方を示す理念的な図式であり,顧客との関係を重視
すれば,顧客と直接接する従業員が組織の中で最上位に位置づけられるべきである.小売
店などで何か不具合があった場合,顧客は「責任者を出せ」と叫ぶことがある.なぜ責任
者による対応を求めるかといえば,多くの場合「話が早いから」である.責任者が権限を
持っているからである.顧客の不満を取り除くには,顧客と直接接するものが必要な権限
を持っていれば,このような問題は解決するはずである.しかし,現場に権限を委譲すれ
ば,全てがうまくいくとはいうわけではない.現場に権限を委譲するということは,現場
の従業員の意思決定や行動の範囲を広げることでしかないからである.それに合わせて,
現場の従業員が意思決定する際に,守るべき「規範」を作り上げていくことが必要である.
そのためには,
「行動の枠組みを規定する価値観」を共有することである.これは従業員の
行動に,一定の方向付けを与えるという方法である.価値観の共有による経営では,従業
員の熱意を引き出すことと,顧客関係を高めることが表裏一体の関係にある.そして高い
顧客満足度を実現している.顧客満足度の高い組織では,従業員の満足度も高いことが実
証研究でも支持されている.
28
2.5.3 サービス・マーケティング
グロンルースは,サービス・マーケティングには 4P(マーケティング・ミックス)だけで
は限界がありインターナル・マーケティングとインタラクティブ・マーケティングをあげ
ている[47].サービス・マーケティングの三つのタイプを図2-11に示す.
図2-11 サービス・マーケティングの三つのタイプ[48]
エクスタ―ナル・マーケティングは顧客にサービスを提供する一般の業務を指す.
インターナル・マーケティングとは顧客満足を提供するため,顧客と接触する従業員と
それを支援する総ての従業員を教育し,動機づけ,一体となって働くように機能させる業
務である.インタラクティブ・マーケティングは顧客と接触する従業員の技術を意味する.
サービスの知覚品質は顧客と提供者のインタラクションに大きく左右され,サービスを提
供した従業員と提供の仕方がサービスの質にかかわってくる.
1) サービスの特性
サービス・マーケティングにとって,サービスとは重要な要素である.コトラーはサー
ビスとは「一方が他方に対して与える,本質的に無形の活動またはベネフィットであり,
結果として何の所有権ももたらさないもの」としている[49].サービスの生産は,形ある製
品に結びつくこともあるし,結び付かないこともあると述べている.企業がマーケティン
グ・プログラムをデザインする際には,四つのサービスの特性を考慮しなくてはならない.
それは,サービスの無形性,不可分性,変動性,消滅性である[50].
①サービスの無形性とは,購入前にサービスを見たり味わったり触れたり匂いをかいだ
りできない.②サービスの不可分性とは,サービスは生産と消費が同時に行われ,提供者
が人間であれ機械であれ,その提供者と不可分である.③サービスの変動性とは,誰が,
いつ,どこで,どのように提供するかによって,サービスの質が変化する.④サービスの
29
消滅性とは,サービスは後の販売や使用のために保存することができない.
一方で,山本はサービス・クォリティの著書の中で,次のようにサービスというものを
論じている[51].サービスという言葉の範囲であるが,従来からのサービスは無体財,すな
わち,無形の財の総称として述べ,サービス財と人的サービス財を分類し,人間の活動が
直接市場で交換される客体として扱われた時に,その財を指してサービスと呼ぶようにし,
区別して論じている.無体財としての総称を「サービス」という言葉との混同を避けるた
めである.
レビットは無形財について次のように述べている[52].「無形財のマーケティングと有形
財のそれがどう違うのかを考えてみると,この分類の有用性がはっきりする.もちろん二
つの相違は歴然としているが,重要な共通点がある.すなわち,有形財と無形財のいずれ
にも無形性が含まれているのだ.要するにマーケティングとは顧客を獲得して,それを維
持するための活動である.顧客を獲得する上で決め手になるのが,無形性である」
Bateson は無体財の特徴である無形性を二重の無形性として整理し,心理的な無形性と不
可触性であるとしている[53].無形性と経営問題とプロセスの関係を図2-12に示す.
図2-12 無形性と経営問題とプロセスの関係[54]
二重の無形性は心理的なものと不可触性のものである.心理的無形性からは事前の品質
評価の問題が課題としてある.また,不可触性からは生産と消費の同時性において捉え,
さらにその特性から三つに分かれる.①サービスからの消費者の不可分性,
「顧客関与の問
題」である.そして,②顧客からのサービス提供と環境の不可分性について,「品質管理問
30
題」である.③生産・マーケティング・人事機能の不可分性は「組織内部における衝突の
問題」を課題として提示している.
2)有体財と無体財
山本は改めて情報利用権を含めて財の種類の関係を定義している[55].「財とは市場で交
換当事者にとって効用のある交換客体の構成物のことである.その財には大きく分けて二
つの種類があり一つが有体財(material goods)
,一方が無体財(immaterial goods)である」.
山本は有体財と無体財の新たな分類基準(情報利用権を含む)をもとに各財の分類を表
にしている.情報利用権を含む各財の分類を表2-3に示す.
表2-3 情報利用権を含む各財の分類[56]
有体財はいうまでもなく物質から構成される財であり,その取引においては所有権が移
転する.有体財利用権は,有体財を一定の時間や空間を借りて利用する権利が交換される.
例えば,新幹線や航空機の座席,各種レンタル物,賃貸ビル店舗,ホテルの客室など施設
の利用が行われる場合にはこの種の財の交換が行われる.情報は,媒体に記録された記号
や信号であり,媒体とともに所有権が移転する種類の財である.サービスは狭義のサービ
ス.労働の成果を市場で交換するもの.サービスが提供される対象は人や有体財であった
りする.顧客との間で直接に交換されなくても顧客の所有物に働きかけるサービスも含ま
れる.情報利用権は,二つあり媒体の問題と複写の問題である.情報利用権は効用を発生
する主体が非物質財で所有権が移転しない財ということになる.情報利用権にはその成立
に関して技術的,法的な基盤が整備される必要性がある[57].
3)顧客満足とサービス品質評価
サービス・マーケティングにおける顧客満足は,有体財の取引における顧客満足とは消
費者の購買行動における意味合いが少し異なっている.サービス品質の評価が購買後に確
定するという性格から,顧客がもつ交換客体に対する態度であると考えられる.これらか
ら,サービス品質と顧客満足は異なるものとして比較できる.サービス品質と満足概念の
比較を表2-4に示す.
31
表2-4 サービス品質と満足概念の比較[58]
サービス品質が形成されるためには,マーケティング主体とのコミュニケーションが必
要条件となる一方で,顧客満足ではその結果が誰の責任かといった帰属の問題などより幅
広いサービス製品の交換過程に必要な概念が挙げられる.
従来のサービス・マーケティングにおいて,顧客満足とサービス品質の関係が何度とな
く取り上げられているのは,計測上の問題だけではなく,顧客満足が再購買意図・行動と
密接に関連しているからである.さらに,サービス・マーケティングでは既存顧客の口コ
ミ行動が重視されてきたという背景がある.また,顧客満足が重視される理由には,不満
足の顧客と関連してリカバリー費用の削減という側面がある.サービス・オペレーション
に顧客が関与する場合,有体財利用権を消費している場面で,不満足な顧客は何らかの苦
情行動をとるか離脱を試みるだろう.このような顧客に対して対応行動をとり不満足を取
り除くことは,費用はかかったとしても行うべきである.なぜなら,口コミの効果を考慮
すると,サービス品質の向上が,顧客の再購買と家族や友人への推奨意図を高め,苦情行
動と離脱を減少させることが明らかであるからである[59].
2.6 まとめ
ここで,本研究が重要だと考えた視点からの先行研究群を俯瞰しておく.
起業視点から,ティモンズはベンチャー企業の創業期から軌道に乗せるまでに於いて,
起業家の特性や企業機会,創業経営者,必要資源,財務戦略など理論の体系化にとどまら
ず,ベンチャーの起業とその成長過程において,ベンチャー経営のパラダイムなど詳しく
論じている.ベンチャー論の基本としては参考に値する.しかし,ティモンズの起業家精
神の概念やノウハウはアメリカ型ベンチャー企業の典型だと思われる.そこで,日本独特
の日本型ベンチャー立ち上げの際は考えるべきか.例えば,中小規模のベンチャーの資金
集めの場合は日本では殆ど融資であるが,アメリカでは投資であると考えられる.したが
って,先行研究としては参考になるが日本の社会性に合わせた理解が肝要である.松田の
視点も日米の比較を基本的に考え日本型ベンチャー論としては評価できる.
事業成長の視点から,グレイナーは企業の成長を組織の規模として捉え,量的に発展や
拡大について論じている.しかし,企業の成長を質的に捉え成長による発展や進化は論じ
られていない.組織の規模も重要であるが,組織の質の高さと発展や進化は,経営資源の
32
乏しい中小企業に於いてより重要ではないかと考えられる.企業経営を持続させるには,
コアになる技術やサービスなどの質を高め,組織的規模拡大が望めなくとも,経営を維持
することにより企業を存続させることができると考えられる.とくに,中小企業に於いて
は経営資源が限られており企業の技術やサービスの質を高めることで,必ずしも組織拡大
をはかることなく持続経営が可能ではないか検証する.
事業継続の視点から,リスクマネジメントは企業の存続や事業継続の視点から見るとき
わめて重要である.リスクは予想や予定されているものであればあまり脅威にならない.
しかし,最悪の事態における,通常の業務で見られる損失を上回る想定外の損失がある場
合最大の脅威となる.したがって,主なリスクの全体像を分類してリスク対策を考える.
そして,常に対応策を考え,実際に発災しても速やかにリスク処理をして,企業の安心で
安全の確保に努めることが重要となる.その際,経営者がリスク対策に意思決定を下す場
合,バイアスにとらわれない,頭を柔軟にさせパラダイムシフトして意思決定の質を高め
るべきである.しかし,先行研究での参考文献では基本的に経営が安定し,存続が前提で
議論されており,経営状況が不安定な中小企業向けには参考になるか疑問が残る.また,
飲食店舗ビルのリスク管理には一部が参考になる.
組織的知識創造は新しい知識を創り出し,組織全体に広め,製品やサービスあるいは業
務システムに具体化するという組織全体の能力である.そこでの知識創造にとって重要に
なるのは相補的な関係にある暗黙知と形式知である.この二つの知の相互作用という「ダ
イナミクス」が知識創造のかぎとなる.そして,そのような相互作用が繰り返し起こるス
パイラル・プロセスが組織的知識創造といえる.その際に重要になるのは文脈と関係性の
「場」である. つまり,場とは時間・空間・人間の関係性において知識が共有され,創造さ
れ蓄積され,活用される.そして,知識資産の活用プロセスと知識創造プロセスをダイナ
ミックに結び付け,連動させるための媒介となる「プラットフォーム」のことである.こ
の「場」から,企業と顧客の関係性や企業の持続的経営を導き出すことができると考えた.
そして,野中のいう「場」には,立体的な「場」が無いようなので,これも併せて検証し
たい.
顧客維持の視点から,顧客ロイヤルティは,ビジネスシステムにおいてあらゆる要素に
大きな影響を与える.そして,企業成功の原動力となる.また,顧客価値の創造は,あら
ゆるビジネスシステムの成功の基礎である.顧客価値を創造できればロイヤルティが生ま
れる.さらに,ロイヤルティは成長と利益をもたらし,さらに高い価値の創造に繋がる.
したがって,持続的な事業達成には顧客への価値創造とロイヤルティの持続的な改善を達
成することが重要である.
へスケットが描くサービス・プロフィット・チェーンでは,企業成長を満足とロイヤル
ティについて,顧客と従業員の関係性で述べているが,多重の関係に於いては論じていな
33
い.しかし,一般的なビジネスは,決して単純と思えない複雑な関係性による構図がある
と考えられる.したがって,サービス・プロフィット・チェーンにも多重な関係性の構図
があると考えられる.そこで,多重の関係性を明らかにすると共に,サービス・プロフィ
ット・チェーンによる企業の売上や利益の因果関係と持続経営の関連について検証する.
その際,サービス・マーケティングの本質と,顧客満足や顧客ロイヤルティの関係を視野
に入れ,顧客との関係を企業の重要な資産と捉え,顧客との長期継続的な関係を作り上げ
る顧客関係のパラダイムを念頭において,顧客維持と持続経営の関連性についても併せて
調査する.
34
第三章:高層ビルによる 飲食店舗賃貸事業創業と経営事例
3.1 事例事業とその経営履歴
3.1.1 研究対象の選択理由
事例事業の飲食店舗賃貸事業経営者(以下,ビル経営者と言う)は,約 35 年間の経営体
験から,
「規模拡大のみが,事業または企業の目指す方向か」という疑問を抱き続けて来た
と言っている.このビル経営者は,取引額や要員数,設備の拡大にのみ注目する経営視点
からは見えてこない,事業または企業の「質」の重要性を体験し続けてきた.特に,地方
都市においては,量より質の強さを重要視すべきではないかという,このビル経営者独自
の視点で事業を健全持続させてきた.
飲食店舗ビルを店舗の入居率や経営状態で観察した時,長期的,且つ健全に経営が持続
されているという事例は,全国的に見てもあまりない.著者は,一つの経営研究事例とし
て飲食店舗賃貸事例事業を取り上げ,中期的な視野で経営状態の観察と経営手法の考察を
行うことが,今後の同類業種経営モデルの構築の一助となりえると判断した.
3.1.2 経営の変遷,経営の事実
研究事例の S ビル,S2 ビルについて,経営の変遷,経営の事実を以下に述べる.ビル経
営者の思考過程,行動,土地取得やビル建設工事の経過に関して,時間軸に沿って述べる.
S ビル,S2 ビルに関する主な事業歴を表3-1に,またその詳細を付表1-1(1)から
付表1-1(9)に示す.
35
表3-1 S ビル,S2 ビルに関する主な事業歴
年月
主な事業歴
1974 年
S ビル土地購入
1978 年 3 月
S ビル設計開始
1978 年 11 月
銀行借入れ(S ビル建設資金)
1979 年 2 月
S ビル建築確認許可
1979 年 3 月
S ビル施工開始
S ビル完成,落成 5 階建
1979 年 10 月
S ビル 1・2 階開業
1981 年 9 月
S ビル 3・4 階開業
1987 年 3 月
S2 ビル企画設計開始
1987 年 10 月
S2 ビル建築確認許可
1987 年 10 月
隣接ビルの増築として許可をとる(容積率の為)
1988 年 1 月
銀行借入れ(S2 ビル建設資金)
1988 年 3 月
S2 ビル施工開始
1988 年 10 月
S2 ビル 9 階建完成,落成
(現)AXS2 パーク(駐車場)用地取得 190 坪
1994 年 10 月
銀行より借り入れ
2006 年
S 駐車場を改装し,AXS(駐車場)と命名
2008 年 6 月
AXS2 パーク(駐車場)用地取得
80 坪(自己資金)
AXS パーク(駐車場)用地取得 220 坪(自己資金)
2008 年 10 月
(旧 FC 銀行跡用地取得)
2009 年 12 月
AXS パークオープン
2009 年 4 月
AXS2 パークオープン
1)S ビル
1973 年初頭,ビル経営者は,街づくりの中での歓楽街の位置づけの検討を開始した.既
存の歓楽街の街並みを変化させるため,中心になりうるエリアやポイントを熟慮し,構想
を練った.独自の調査を行い,人の流れや地元の人々の生活習慣,遊行文化,また酒文化
を考慮したうえでビル用地の選定を行い,購入を開始した.その際,特に土地の高度利用,
つまり建蔽率などの建築基準法を考慮し,「角地」の選定を重要視した.
ビル経営者は,1974 年 1 月に S ビル建設予定地等,複数ヶ所の土地の譲渡交渉に入った.
1974 年,S ビル建設予定地を購入完了した.1978 年 3 月に S ビルの設計を開始した.同年
11 月,S ビル建設の資金を銀行より借入した.1978 年 12 月に建築確認申請を行った.1979
年 2 月に S ビル建築確認許可が下りた.1979 年 3 月,S ビルの施工を開始した.同年 8 月
36
~9 月に,S ビルの飲食店舗内装施工を開始した.
1979 年 10 月に,S ビルは5階建として完成し,落成オープンした.但し,3・4階部は,
1・2階店舗の営業状態を判断してから店舗募集を行う計画に沿い,ビル躯体と外壁のみ
完了の状態,いわゆるスケルトンの状態で保持された.
1979 年 10 月,S ビルの1・2階飲食店舗の営業が開始された.1981 年 2 月に,ビル経営
者は S ビル3・4階の屋内改装の申請をした.1981 年 4 月~8 月,S ビル3階・4階が飲食
店舗用に屋内改装された.なお,S ビル3階は,隣接する S 立体駐車場と,ビル本体工事段
階で連結されていた.同 7 月~9 月に S ビル3階・4階の飲食店舗の内装工事を開始し,同
9 月末完了した.ビル経営者が当初計画していた 10 月のオープンに間に合った.
1981 年 10 月,S ビル3・4階が完成し,ビル全館飲食店舗営業の状態が開始された.約
3 年後の 1984 年,S ビルは全店舗満室の状態となった.
以降,営業を続けながら中小規模の改修工事と,法定および自主的定期メンテナンスを
行ってきた.法定メンテナンスは,年 2 回の専門業者による消防設備点検である.自主的
定期的なメンテナンスは,年 2 回の下水系統検査,洗浄作業である.
S ビルの大規模改修工事に関しては,2004 年 7 月に開始し,2007 年に完了した.内容は,
外壁塗装工事,屋上防水改修工事,通路改装工事であった.また,2011 から 2012 にかけ,
全面仮設足場を組み,外壁塗装,シーリング改修工事を行った.外壁塗装に関しては,建
設当初より約 7 年の間隔で改修を行っている.
2)S2 ビル
ビル経営者は,S2 ビル建設にあたり,1983 年ころから斬新な企画とアイデアを探求する
ために,国内外を広範囲に視察して回った.東京都区内の渋谷,新宿,池袋,六本木,赤
坂,銀座,五反田を視察した.また,大阪,名古屋,京都,横浜,神戸などの主だった大
都市や,札幌,仙台,広島,福岡,那覇などの地方の中核都市の歓楽街を中心に視察を行
った.
同時期に,S2 ビルの計画敷地内には,既存の7店舗が営業していたため,これらとの立
ち退きの話し合いを開始した.
ビル経営者は,1987 年 3 月,S2 ビルの実質的な設計を開始した.1987 年 8 月,S2 ビル
建築確認申請を行った.1987 年 10 月に S2 ビル建築確認許可が下りた.このビル経営者は,
申請にあたって関連機関と強い熱意を持って掛け合い,通常見られないような申請条件の
発案を行うなどした.1988 年1月,S2 ビル建設資金を銀行より借入れた.1988 年 3 月,S2
ビル施工を開始した.1988 年 7 月~9 月に,飲食店舗内装を開始した.1988 年 10 月,9階
建ての S2 ビルが完成し,落成オープンした.同月,S2 ビルの飲食店舗が営業を開始した.
S2 ビルの定期メンテナンスは,法定メンテナンスである専門業者による年 2 回の消防設
備点検のみであった.これが可能となったのは,S2 ビルが S ビル建設および運営の経験を
生かし,運営やメンテナンス上の問題点等を解決する方向で企画,設計されたためである.
37
S2 ビルの大規模改修工事に関しては,2004 年 7 月に開始し,2007 年に完了した.内容は,
外壁塗装工事,屋上防水改修工事,通路改装工事であった.また 2011 から 2012 にかけ,全
面仮設足場を組み,外壁塗装,シーリング改修工事を行った.外壁塗装に関しては,建設
当初より約7年の間隔で断続して改修を続けている.
また,1998 年と 2004 年に,雨仕まいの悪い部分に構造鉄骨の痛みが見つかり,営業を続
けながらの改修工事を行った.
3)S ビル,S2 ビルの入居率の推移
S ビル,S2 ビルの入居率(入居坪数/全坪数 %)の推移を図3-1に示す.図3-1の入
居率は,その時点での入居済み店舗床面積を賃貸可能な店舗全床面積で除したものである.
120.0%
100.0%
80.0%
60.0%
S ビル
40.0%
S2 ビル
20.0%
合計
2010
2009
2008
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1998
1997
1996
1995
1994
1993
1993
1992
1991
1990
1989
1988
1988
1987
1986
1985
1984
1983
1983
1982
1981
1980
1979
0.0%
図3-1 S ビル,S2 ビルの入居率(入居坪数/全坪数 %)の推移
S ビルは 1979 年の完成時は 1F,2Fのみの営業であり,入居率(対全床面積)は 62%だ
った.その後入居率は順調に上昇し,6 年後の 1985 年には 3F,4F をあわせ 100%になった.
ビル完成から現在までの 32 年間の平均入居率は 87%であった.
S2 ビルの 1988 年完成時の入居率 73%,入居確定テナントを含めると 100%であった.ビル
完成から現在までの 23 年間の平均入居率は 86%であった.
S ビル,S2 ビルの入居率の平均は,32 年間で 85%であった.
事例のビル経営者や,同地域の他のビル経営者に聞き取り調査を行った結果,一般的な
入居率は 55~70%であった.事例のビルの入居率は,一般的な飲食店舗ビルに比し,極め
て高い水準を維持してきたことになる.
4)S ビル,S2 ビルの入居店舗の継続について
S ビル,S2 ビルへの入居店舗の定着性に関して,入居から退出までの期間を継続年数と
し調査した.この調査の目的は,ビルの顧客である店舗経営者が,どの程度の定着性を持
っていたかを明らかにすることにある.そのため,同一経営者の経営する対象ビル内の店
38
舗については,その継続年数を積算して一本化し,店舗経営者単位にまとめた.同一の店
舗経営者がどの程度の期間,事例ビル内に入居し続け,店舗営業を継続したかを明らかに
した.このことにより,ビル経営者と顧客である店舗経営者の関係性を,より明確に把握
できた.
調査対象店舗は,S ビル,S2 ビルへ入居した全ての店舗とした.調査期間は,S ビルに関
しては 1979 年 10 月の1階,
2階部分開業から 2011 年 12 月末までの 32 年 2 ヶ月間とした.
S2 ビルに関しては 1988 年 10 月の全館一斉開業から 2011 年 12 月末までの 23 年 2 ヶ月間と
した.店舗経営者単位の入居継続年数調査結果を表3-2に示す.
表3-2 店舗経営者単位の入居継続年数調査結果
継続年数(経営者単位)
~3 年 3~5 年
5~10 年 10~20 年 20~30 年 30 年以上
S ビル
17
10
15
17
8
7
S2 ビル
10
7
12
13
5
1
(単位:人)
20 年以上の継続店舗経営者は,S ビルで 15 人,S2 ビルで 6 人であった.S ビルでの最
高積算継続年数は 41 年 6 ヶ月,S2 ビルでは 32 年 4 ヶ月であった.これらの継続年数は各
ビルの開業からの年数より長い.この理由は,先に述べたように,同一店舗経営者が複数
の店舗を並行して経営していたためである.複数店舗の並行経営事例が,合計で 7 例あり,
そのうちの 6 例が継続年数 19 年 4 ヶ月以上であった.またこの他にも,同一ビル内,また
は事例 2 ビル内で店舗の場所を移動しながら,継続営業したケースが 5 例あった.これら
の継続年数は 11 年ヶ月から 32 年 4 ヶ月であった
継続年数の全体像を把握するために,ビル別店舗継続年数分布を図3-2に,また,店
舗継続年数割合を図3-3に示す.
39
18
16
14
12
経
営
者 10
数
( 8
人
) 6
S ビル
S2 ビル
4
2
0
3~5年
~3年
5~10年 10~20年 20~30年 30年以上
継続年数(年)
図3-2 ビル別店舗継続年数分布
Sビル
S2ビル
~3年
3~5年
5~10年
~3年
3~5年
5~10年
10~20年
20~30年
30年以上
10~20年
20~30年
30年以上
2%
9%
10%
23%
11%
27%
14%
23%
21%
20%
15%
25%
図3-3 店舗継続年数割合
40
S ビル,S2 ビルとも,5~20 年継続の例が最も多いことが分かった.S ビルに 3 年未満
の例が多いが,これは S ビルが開業後 32 年経過し,店舗経営者の引退などの理由で,新規
店舗の入居が頻繁であることを示している.図3-3継続年数割合のグラフから,10 年以
上の継続事例の全体に占める割合が,S ビルで 43%,S2 ビルで 39%に達していることが分
かる.
事例のビル経営者や,同地域の他のビル経営者に聞き取り調査を行った結果,同一ビ
ルでの一般的な継続年数は約 5~6 年であった.最高継続年数としては 48 年という例があ
るが,この店舗は飲食店舗賃貸ビルには入らず,小規模雑居ビルで途中数回,場所を移動
している.また,純粋な「飲み屋」ではなく,レストラン事業を伴っているものであった.
これらのことから,事例の S ビル,S2 ビルの店舗継続年数は,一般的な飲食店舗ビルに
比し,極めて高い水準を維持してきたといえる.
5)S ビル,S2 ビルの利益率の推移
S ビル,S2 ビルの利益率の推移を図3-4に示す.
80%
70%
60%
50%
40%
系列16
利益率
30%
20%
10%
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
0%
図3-4 S ビル,S2 ビルの利益率の推移
S ビル,S2 ビルの利益率(粗利益)の推移を見ると,1981 年~2009 年の 29 年間の平均
は 55%であった.これまでにバブル期や長期的不況など,経済的な環境変化や様々な社会
的変化にも関わらず,これだけの利益率を確保することは困難である.投資対効果をみて
も長期的に質の高い利益を計上したことになる.
6)駐車場:AXS パーク,AXS2 パーク
同ビル経営者が経営する,駐車場事業の変遷を述べる.1994 年 10 月に S2 ビル隣接地の
用地を取得した.これは 190 坪の面積で,現在の AXS2 パークの一部となっている.同月
41
にビル経営者は,銀行より,前出の 190 坪の土地の購入資金を借入れた.2008 年 6 月に,
AXS2 パークの残りの用地を取得した.この用地は 80 坪の面積で,自己資金で取得した.
2008 年 10 月に,AXS パークの用地 220 坪を,自己資金で取得した.2008 年 12 月,AXS
パークをオープンした.続いて 2009 年 4 月に,AXS2 パークをオープンし,現在に至って
いる.
なお,S ビルに隣接した S 駐車場,およびその 1 階には賃貸店舗があるが,この物件は,
現在,主力の賃貸物件とはなっていない.
3.1.3 飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態
飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態を把握するために,佐賀市中心市街地と福岡市中
洲地区,天神地区における,同種ビルの持続年数に関する調査を行った.目的は,一人,
または一社のビル経営者が,同一ビルにおいて経営を持続した期間の明確化である.
調査の手法は以下のとおりである.飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態に関する調査
表を付表2-1に示す.研究事例ビルと同規模の飲食店舗賃貸ビルを18物件抽出し,①
所有権に関する事項,②所有権以外の権利に関する調査を行った.①所有権に関する事項
は,調査対象ビルの土地および建物の所有者の変遷,その原因,時期,所有者情報を調査
した.②所有権以外の権利に関する事項は,主に抵当権を調査した.株式会社東京商工リ
サーチに調査を依頼した.
ビル経営継続年数調査結果を表3-3に示す.
42
表3-3 ビル経営継続年数調査結果
所有者番号
ビル記号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
福岡-6
佐賀-2
福岡-1
福岡-2
佐賀-7
佐賀-4
佐賀-5
福岡-3
福岡-3
佐賀-3
佐賀-1
福岡-8
佐賀-6
福岡-9
佐賀-6
福岡-5
福岡-10
福岡-9
福岡-11
福岡-4
佐賀-5
福岡-8
福岡-4
福岡-7
佐賀-6
福岡-1
福岡-3
福岡-4
福岡-8
福岡-5
福岡-8
福岡-8
福岡-9
佐賀-6
福岡-11
福岡-11
福岡-10
福岡-11
福岡-1
福岡-11
福岡-3
福岡-11
福岡-11
福岡-11
福岡-11
福岡-11
福岡-11
福岡-11
福岡-11
所有年数
38 年 6 ヶ月
30 年 8 ヶ月
30 年 2 ヶ月
28 年 2 ヶ月
27 年
26 年
25 年
24 年 6 ヶ月
19 年 4 ヶ月
17 年 2 ヶ月
15 年 2 ヶ月
14 年 3 ヶ月
14 年
13 年 11 ヶ月
13 年 8 ヶ月
13 年 2 ヶ月
12 年 11 ヶ月
12 年 3 ヶ月
11 年 5 ヶ月
9 年 8 ヶ月
9 年 6 ヶ月
8 年 3 ヶ月
8年
7 年 5 ヶ月
7 年 1 ヶ月
5 年 8 ヶ月
5 年 6 ヶ月
5 年 2 ヶ月
5 年 1 ヶ月
5年
4 年 3 ヶ月
3 年 7 ヶ月
2 年 7 ヶ月
1 年 5 ヶ月
1 年 4 ヶ月
1 年 4 ヶ月
1 年 1 ヶ月
1 年 1 ヶ月
1年
11 ヶ月
8 ヶ月
7 ヶ月
6 ヶ月
5 ヶ月
4 ヶ月
0 ヶ月
0 ヶ月
0 ヶ月
0 ヶ月
1973/6/30~
所有期間
備考
新築より継続経営
1978/12/5~2009/1/8
差し押さえ後,解除,2012/5/31 に取壊し
1975/1/17~2005/3/30
2005 売却
新築より継続経営
2004 差押さえ
新築より継続経営
1986 売買後,継続経営
2005 売買
新築後継続経営,1981 売買
新築後,継続,2003 差押さえ
2010/12/31 ビル取壊し
福岡-8 ビル本館
土地売買後,継続経営
売買入手後,1999 年相続
売買入手後,1997 差押さえ
売買入手後,継続
競売入手後,継続
相続後,継続
新築後,2004 年売却
売買入手後,2005 年売却
新築後,1986 年売却
売買入手後,2001 年売却
新築後,1992 年差押さえ
新築後,継続
遺贈後,1977 年売却
売買入手後,2010 年売却
売買入手後,継続
売買入手後,継続
売買入手後,継続
新築後,1998 年売却
売買入手後,継続
相続後,1993 年売却
新築後,1985 年売却
新築後,1997 年遺贈
売買入手後,翌年年売却
売買入手後,2009 年差押え
新築後,翌年差し押さえ
受託者変更入手後,翌年差押さえ
売買入手後,継続
売買入手後,翌年売却
売買入手後,翌年売却
信託入手後,同年 9 月差押え
売買入手後,翌年売却
売買入手後,継続
売買入手後,同年 8 月売却
売買入手後,同月売却
売買入手後,同年 4 月売却
売買入手後,同年 9 月年売却
取下入手後,同日売却
1983/10/26~
1977/1/10~2004/1/22
1985/11/25~
1986/12/5~
1981/3/10~2005/9/16
1961/11/5~1981/3/10
1986/10/18~2003/12/26
1988/10/3~2003/12/26
1975/2/5~1989/8/29
1997/12/2~
1985/9/1~1999/8/28
1984/3/30~1997/12/1
1998/10/1~
1998/1/5~
1999/8/28~
1992/7/1~2004/5/26
1996/2/9~2005/10/17
1977/5/20~1986/12/4
1993/4/27~2001/8/17
1984/10/18~1992/10/30
2004/7/31~
1977/1/18~1984/3/30
2005/3/30~2010/12/27
2006/6/1~
2005/10/17~
2005/11/30~
1983/9/30~1998/10/1
2001/8/17~2005/11/30
1989/8/29~1993/4/27
1983/1/26~1985/9/1
1975/8/15~1977/1/17
2004/5/26~2005/10/20
2007/9/19~2009/1/20
1991/3/31~1992/5/8
2009/9/9~2010/10/13
2010/12/27~
2005/10/20~2006/9/29
2005/9/16~2006/6/1
2009/1/20~2009/8/31
2006/9/29~2007/4/20
2011/7/20~
2007/4/20~2007/8/31
2005/10/20~2005/10/20
2007/4/20~2007/4/20
2007/8/31~2007/9/19
2011/7/20~2011/7/20
43
表3-3において,同一ビル記号が複数回表示されているのは,所有者が変わった時点
で,新たな継続年数として計上しているためである.また,差押さえ後の競売期間等は,
実質的に経営しているとは見なせないため除外した.
事例の S ビル,S2 ビルと同条件,すなわち,同一ビル経営者で,新築から 2012 年 7 月末
まで,事業が継続してきたビルという条件で検索した場合,調査対象 18 ビル 49 所有者の
うち,4 例が該当した.長い順に示すと,所有者番号1福岡-6 ビルの 38 年 6 ヶ月,所有者
番号 4 福岡-2 ビルの 28 年 2 ヶ月,所有者番号 6 佐賀-4 ビルの 26 年,所有者番号 24 福岡-7
ビルの 7 年 5 ヶ月であった.差押さえがなされた例についてみると,継続年数は,概数で
表示すると 31 年,27 年,17 年,14 年,8 年,1 年,1 年,1 年,7 ヶ月であった.この 9
例中 4 例が佐賀市のビルであった.佐賀市の調査対象は 7 ビルであるので,調査対象の半
数以上のビルが差押さえに合っている.また,差押え前の継続年数の上位 4 例は全て佐賀
市のビルであり,継続年数は 17 年~31 年であった.福岡の差押え例の継続年数の 1 位は 8
年であった.これらのことから,佐賀市の飲食店ビルの経営履歴の傾向として,ビル経営
が困難な状況になっても,ビル経営者が限界まで手放そうとしないか,またはビル売買市
場が不活性状態のため売買の可能性が低く,差し押さえという状況にまで陥ってしまうと
推測される.ビル経営が不健全になったからと言って,売買処分もままならないという佐
賀市における飲食店舗賃貸ビル経営の困難な状況がうかがえる.
以上のように,佐賀市と福岡市の飲食店舗賃貸ビルの経営状態を観察した結果,事例ビ
ルと同等期間の持続的健全経営は,容易ではないことがわかった.
3.2 起業時の特徴
3.2.1 起業に至る準備段階の特徴
1)従来の家業からの脱却
この経営者が飲食店舗賃貸ビル経営で起業する以前の家業は,鉄工業であった.この事
業は先代の経営者である父親が,1946 年に始めたものであった.主要な製造物は農業機械
用の特殊車輪などのアタッチメント類であった.
農業県である佐賀県は 1970 年代初頭まで,
農業者個人での機械導入が盛んであり,前記のアタッチメント類も活況を呈した.しかし,
1970 年代後半には農業機械の共同購入による大型化などにより,アタッチメント類の数量
も減少の一途をたどった.また,メーカーによるアタッチメント類や付属部品の規格品化
も進み,ビル経営者の鉄工業が製造できるアイテムも減少していった.このように家業が
斜陽となっていき,ビル経営者は将来的にこの経営が困難になると予測し,何か新しい事
業を起こす必要があると考えた.
2)起業に至った理由
当時,この経営者は海外留学先であるアメリカ合衆国から帰った直後で,鉄工業以外の
44
新事業で起業したいと考えた.その際,アメリカに住んでいた当時注目を浴びていた,エ
ネルギー関連事業やトランスポーテーション関連事業,不動産関連事業を検討した.日本
も高度経済成長の波に乗り,当時の田中角栄首相が提言した日本列島改造論に象徴される
ように,東京を中心として日本の隅々まで,経済の恩恵が伝わってきた時期であった.こ
の経営者は物流コールドチェーンやコンビニエンスストアなど,種々調査検討した結果,
不動産関連事業で起業することを選んだ.
3)飲食店舗賃貸事業を選択した背景と理由
この経営者が起業を計画した時期,1.2.2で述べたとおり佐賀市には,南北に長く
中心商店街が展開していた.店舗の分布にばらつきはあったものの,比較的南の地区に商
店街が集中していた.
この店舗賃貸事業という不動産運営は,この経営者にとって興味のある分野でもあり,将
来性のある分野に思えた.この経営者は,地価が上昇するという状況下において建物の容
積率等を考慮してタテ方向に展開する,つまり垂直展開することによって集積がはかれる
のではないかと考えた.つまり飲食店舗を集積するという考えが,一つの背景としてあっ
た.また,街づくりの一環である地域経済の活性化を,この分野からはかることができな
いかと構想した.
3.2.2 起業時の重要課題
1)飲食業及び飲食店舗の形態
この経営者が起業を計画した 1970 年代中盤から後半当時の飲食店舗の形態は,一階建て
平屋木造および二階建てモルタル造りの一般店舗を改装したもの,あるいはトタン張りの
倉庫を改装したものが主流であった.これらの店舗が小さな通りに面して水平に拡がる歓
楽街を形成していた.この飲食店舗街は第二次世界大戦の被害を受けていなかったため,
1970 年代後半まで残る状況となったものである.
2)飲食店舗ビルの設計コンセプト設定
①
コンセプト設定に至る経緯
ビル経営者は,飲食業界に対する強い興味を若年時より持っていた.経営者自身の回想
として,将来自分が飲食ビル経営で起業するなどの自覚無しに,若年期からこの分野に興
味があったと語っている.客として通った地元の佐賀市の飲食店街や,隣接する地方都市
の福岡市中洲地区,また大学時代から社会人初期の東京地区歓楽街での経験が,無自覚で
あっても,内部に蓄積された知見として,起業ビルのコンセプトに反映されたようだと語
っている.このような経験的知見が,最初のビルである S ビルのコンセプト設定に至るに
つながったと思われる.
45
S2 ビルについては,最初のビルから 10 年経過しており,S ビルの建設および運営の経験
や反省が,新たなコンセプト設定に生かされた.このビル経営者は,S2 ビル建設にあたり,
1983 年ころから,斬新な企画とアイデアを探求するために,国内外の広範囲な視察を行っ
た.視察先の地元に詳しい人間の情報をもとに,その地域で一番繁盛しているビル,つま
り顧客が一番多い店舗が入居しているビルを中心に視察し,併せてそのビル経営者が行っ
ているマネジメントに関して質問した.本事例事業の経営者は,これらの視察から得られ
た情報を,S2 ビルの企画,設計へ活かした.
②
飲食店舗ビルの設計コンセプトの設定
(a) S ビルのコンセプト
S ビルの外観,内部景観を図3-5に示す.
図3-5 S ビルの外観,内部景観
「トロフィービル」を志向した外観,内部景観として建設した.
ビル経営者は,イニシャルコストを下げるためだけに,
「安っぽいビル」を建てるという
方針はとらなかった.この経営者は,安易なイメージのビルでは長くビル経営を持続でき
ないと考えていたからだ.彼は良いものを顧客に提供したいと考えた.良いものとは,ビ
ルが持つ雰囲気やイメージがステイタスとなる,高いクォリティとポテンシャルをもった
ビルおよび内部の店舗のことである.そのためには外観だけではなく,立地,インフラ,
店舗へのサービスなど,全ての内容が高水準のものにしたいと考えた.
S ビルの構想当時,中高層の飲食店舗ビルという形態,いわゆる飲み屋ビルが佐賀市には
なく,ほとんどが古い木造の平屋建て,またはモルタル造り2階建であった.それらの飲
食店舗が商店街を中心に南北に分散している状態だった.
46
これらの平面的に展開する飲食店舗を集積することによって,垂直に展開するという形
態を目指した.高額なビル建設用地を広く購入することなく,容積率を最大限に活用し,
イニシャルコストを下げるためには,中高層の飲食店舗ビルが良いという結論に達した.
S ビルのコンセプトを整理すると,
「高いステイタス性」,
「高い品質」,
「飲食店舗の集積
による垂直展開」
,になる.これらを実現するために,このビル経営者は様々アイデアを出
し,工夫を施した.それらについて述べる.
「高いステイタス性」のために,入居時に店舗オーナーに求める敷金に関しては,家賃
の 35 ヶ月分を設定した.1979 年当時としては他に例のないほど高額であった.資金面でハ
ードルを設けることにより,入居できる店舗オーナーを選択した.それでもビル完成時の
1,2階オープン時には満室状態となった.
「高い品質」のビルを実現するために,ハード部分でいくつかの工夫をした.ビルのア
プローチ部分を広くとり,解放感のあるビルに仕上げた.当時の中高層ビルは,通常正面
(ファサード)部分は壁構造であり,階段は建物の奥に向かって延びていた.少なくとも
歓楽街の飲食店舗ビルとして,他の地域の歓楽街のビルでは,階段は垂直でビル内部にあ
り,大きな開口部もなく,外部へ広がる開放性などなかった.この S ビルでは,階段部を
道路と平行にして設置し,開口部を広くとり,4階部までファサードの半分には壁面を設
けなかった.このことにより,階段部に佇み外景を楽しむ事も可能となり,ファッション
性,娯楽性を高めることにより,ビルの高級感を増すことに成功した.
このビル経営者は「高い品質」を構成する要素として,安全,安心を挙げている.これ
を具現化した例を述べる.まず,発注先を九州でナンバーワンの建設会社とした.工事技
術の信頼性,アフターサービスの充実,顧客の安心イメージを考慮してのことである.飲
食店舗ビルで重視される防火面の安全対策として,停電時の消火栓ポンプ専用発電設備,
自動防炎扉,熱煙感知の集中制御盤など,建設当時の最新設備を導入した.
当時,九州地域で問題となっていた渇水対策の為に,ビルの地下部に井戸を掘った.設
計段階で上水道の配管を二系統に増やし,飲用以外ではあるが,渇水時にはいつでも供給
できるようにした.これも当時の飲食店舗ビルとしては,画期的な渇水対策であり,安定
的営業の確保という意味で,ビルの品質を高めた.
(b) S2 ビルのコンセプト
S2 ビルの外観,内部景観を図3-6に示す.
47
図3-6 S2 ビルの外観,内部景観
ビル経営者は S2 ビルの設計コンセプト設定に際しても,S ビルと同様に「飲食店舗の集
積による垂直展開」
,
「高い品質」
,
「高いステイタス性」を念頭に置いた.そしてさらに,
「ト
ロフィービル」,「地域でナンバーワンのビル」,「サービスの充実」というコンセプトを加
え,これらの実現に特に留意した.
「飲食店舗の集積による垂直展開」に関しては,S ビル用地購入時の 1974 年に比べ,土
地が高騰していたため,容積率利用の方法をさらに検討し,店舗床面積当りの土地コスト
を抑える方法をとった.
ビル経営者は新しく建設する S2 ビルのコンセプトを設定するにあたり,最も意識を集中
したのは,「地域でナンバーワンのビル」とすることであった.例えば,「エレベーターは
当時の最高速の機種を採用する」
,「ビル全体を明るく地域で一番目立つようにするため,
どのように電照,光を利用してビル全体を浮かび上がらせるか工夫する」,「清潔感と安心
感などを考慮に入れてビルのベースカラーもホワイトにする」などが挙げられる.これら
のアイデアにより飲食店舗ビルの「地域でナンバーワンのビル」を目指した.
具体的な,ビル施工方法やデザインの施策を以下に述べる.
正面部の外壁材には,高価で美しいガラス系大型パネルを使用した.光のファンタジー
としてビルのライトアップを行った.時間ごとに照明のカクテル色を変化させた.例えば
当時午後 7 時から午前 12 時~1 時が飲食店舗の一般的な営業時間であったが,午後 7 時か
ら 9 時までは暖かく淡いピンク,午後 9 時から 11 時までは清潔感あふれる緑の光,午後 11
時から午前 1 時まではブルーにした.光の色を変えることで顧客同士の約束時刻のサイン,
帰宅時刻の目安など,一つの遊びとしての要素も考慮に入れながらビルを企画した.
48
エレベーターの選定にあたっては,その当時,分速 40 メートルでの上昇速度が速い部類
であったが,S2 ビルでは分速 60 メートルの最速エレベーターを導入し,ナンバーワンの話
題を提供した.
ビルの高さに関しては,屋上最高部が地上約 40 メートルであり,当時佐賀市内で一番高
い9階建ビルとなった.ビル経営者には,話題性を生み出すために 1 メートルでも高くし
たいという思いがあり,実際設計段階ではもっと高くすることを望んだ.しかし,当時の
佐賀市の消防はしご車の限界や建設用クレーン車の性能による高さ制限があり,これ以上
の高さを求めることは不可能であった.ただし,
「地域でナンバーワンのビル」を視覚的に
具現化するのには十分な,目立つビルとなった.
次に,コンセプトの具現化のための,ソフト面の施策について述べる.
S ビル同様,店舗の入居者にも資金面のハードルを課し,その地域でナンバーワン,もし
くはナンバーワンになれるであろうと思われる店舗オーナーを,種々の角度からチェック
し,入居させた.入居時の敷金は家賃の 27 ヶ月分を設定した.当時としては相場の 3~5
倍であった.S ビルの場合は家賃の 35 ヶ月分であったが,S2 ビルでは家賃自体を S ビルの
約 1.3 倍に設定したため,実質の敷金は S ビルと同等となった.それにもかかわらずビルオ
ープン時は,店舗全室契約完了となった.
3)資金調達
① S ビル
ビル経営者は融資を受けることができるという前提で,着工の 2 年ほど前からビル建設
計画を立てた.基本設計の段階で S ビルの建設資金として,約 3 億円が必要であることが
判明した.ビル経営者が金融機関の融資で資金調達を行うにあたっては,大きな困難を伴
った.当時,この地域の金融機関には,店舗を集積したビル建設というものへの,融資の
実績がなかった.しかも,この経営者が若年であるということもあり,返済能力の限界や
担保不足,経営能力の不安あるいは経営実績の無さなどを理由に,容易には融資の承諾を
得られなかった.そこで,この経営者は経営プランを書類としてまとめた.内容は資金調
達方法,成長プラン,継続経営プランが含まれていた.さらに,13 年で返済する計画を加
え,金融機関へ持ち込み交渉した.ほとんど連日のように金融機関を訪ね歩き,約 1 年後
の 1978 年 11 月に資金調達の目処が立った.
② S2 ビル
S2 ビルの建設資金は自己資金と,金融機関からの融資であった.S2 ビルの建設資金借り
入れは 1988 年 1 月であり,S ビル建設時の借り入れの 10 年後にあたる.今回は S ビルの時
と違い,複雑な計画書の作成や金融機関へ日参する努力は不要であった.金融機関は,既
に 10 年間実行された安定した返済実績と,ビル事業自体の営業実績を好材料として評価し
た.約 2.5 億円の資金を 7 年の返済計画で借り入れた.
49
4)ビル建設コスト管理
① S ビル
ビル経営者は,S ビル着工の 2 年ほど前からビル建設計画を立てた.融資を受けることが
できるという前提であったため,高額になるビル建設のイニシャルコストをいかに下げる
かを考えた.元来このビル経営者は,無借金経営を目指す者であったため,借入を最小限
に抑え,早期に完済することを常に念頭に置いた.
建設コストを可能な限り抑制するための検討の際,設計士のみならず,設備関連業者,
電気工事関連業者,鉄骨関連業者など各工事部門の専門家に直接相談をした.具体的な例
を次に挙げる.電気設備関係において,高圧受電設備は本来ビル側が費用を負担し,ビル
内に設置することが通常である.しかし,このビル経営者は電力会社と交渉の結果,高圧
受電設備の設置場所のみを貸与するというかたちをとり,設置費用,維持管理費用のすべ
てを電力会社に負担させている.
② S2 ビル
S2 ビルでは,S ビルの経験を生かして,設計の初期段階から具体的に仕様指定など行い,
建設コストを抑えることに成功した.また,建設技術の向上による建設期間の短縮や,バ
ブル崩壊寸前の時期であったため建設資材の値下がり,金融金利の低下といったことも,
S2 ビル建設コストを抑える要因となった.
また,S ビルでとりいれた高圧受電設備設置,維持の電力会社負担策は,このビルでも行
われた.
5)ランニングコストの設定
S ビルと S2 ビルのランニングコストの中には,借入金の元金および金利引当額のほか,
経費としてビルメンテナンス予算,共用部電灯や揚水ポンプ等の共用部電気料金などが含
まれ,それらを総合して算出した.
3.2.3 安定期までの施策
1)店舗入居者の募集
① S ビル
ビル経営者は,S ビルの基礎工事が 1979 年 3 月に開始され,同年 10 月にビルが完成する
間に話題を提供すべく,飲食店舗賃貸業で当時としては珍しいテレビCMによるオープン
告知,店舗募集告知を行った.また佐賀市に初めての飲食店舗専門ビルが誕生するとの喧
伝,いわゆる口コミによる周知,募集等の仕掛けをした.このビルに入居すれば店舗とし
てステイタスを得られると喧伝した.
このビル経営者は,店舗オーナーだけではなく,その店舗の顧客,また将来飲みに来る
だろう一般人も,募集の対象として考えていた.そのような一般人にも S ビルに対して興
50
味を持ってもらい,全くの素人にも入居してもらえるような募集方法を考えた.
歓楽街の事情に詳しい飲食店舗専門の不動産業者にも,入居仲介を依頼した.また,ビ
ル経営者自身が勧誘行動を行った.この経営者は,既存の飲食店へ行き,そこの経営者に 2
番目,3 番目の店舗を S ビルで開店するよう直接勧誘した.また,不動産業者以外の第三者
を介して得た情報をもとに,入居を勧誘した.
② S2 ビル
S2 ビルのイメージ流布,入居者募集活動に関しては,電波媒体などは使用せず,いわゆ
る口コミが主な手段であった.既に S ビルという前例があり,この経営者のビル建設や経
営に対する一定の評価とサービス水準の実績が,地域社会に定着していたため,伝聞,噂,
口コミだけで募集情報が伝播した.また,当時で最高層のビルであったため,建設途上,
日々鉄骨が組み上がっていく光景をみて,店舗側から入居を問い合わせてくるケースもあ
った.
2)持続的入居のための施策
ビル経営者は,店舗側との人間関係を重視した持続的入居のための施策をとった.ビジ
ネスに徹したドライな関係だけではなく,まず入居店舗の経営者や従業員と親密な人間関
係を構築することを心掛けた.リレーションシップができ上がると,店舗オーナーまたは
経営者の本音を聞く事ができ,ビル経営者にとって貴重な意見となった.また,ビル経営
者と店舗側が,お互いに長く経営を持続していくための意見交換を行うなどした.店舗経
営に関する問題や,店舗側が抱える問題を,共に考えた.例えばテナント店舗運営に伴う
借金問題,従業員との関係,店舗内のもめごと,反社会的組織などの介入問題などについ
て,解決の手助けをした.時には店舗経営とは直接関係のない,プライベートな相談事も
数多く持ちかけられた.それらは,家族間のコミュニケーション問題,子供の結婚や就職,
恋愛問題などであった.これらの諸問題に,丹念に対処することで,店舗側との関係を親
密にし,結果的に継続的な入居へ繋げた.
この経営者は利益還元策も取った.S ビルの建設資金返済が完了した時点で,ビル事業は
経営的に余裕が出ることが予測できた.S ビルオープン当初からの店舗は,約 12 年間継続
的に入居していることになる.また,この時期には,一人の店舗オーナーが複数の店舗を S
ビル,S2 ビルに構えるといった状況も見られた.これらビル側にとっての優良店舗に対し
ては,要望があれば家賃の値下げ交渉にも応じた.店舗改装時に,椅子やテーブルといっ
た什器備品類のプレゼントした例もあった.店舗のトイレ改修費用,クーラー新設費用を
ビル側が負担した例もあった.
3.2.4 起業時の特徴のまとめ
1)イノベーションに関する特徴
51
事例ビル事業の起業時におけるリスクマネジメントに関して,飲食店舗の水平展開から
垂直展開への移行,新たな飲食店集積地域の形成,ビル入居者との親密な人間関係の構築,
ビル入居者への利益還元策が挙げられる.
①水平展開から垂直展開への移行
起業時のイノベーションに関する,最も大きな特徴として,飲食店舗を平面的展開から
垂直的な展開へ移行させたことが挙げられる.この経営者は,いかにして土地を高度利用
するかを考えた.S ビルの構想から建設当時の 1970 年代後半は,地価は右肩上がりの傾向
だったため,平面的な土地の利用ではなく,容積率や建ぺい率などを考慮に入れた縦の展
開を行った.
②新たな集積地域の形成
事例の地域において,歓楽街・飲食街の新たな集積地域を形成したことが挙げられる.
有効に利用されていなかった中心市街地の倉庫群を開発し,そこへ歓楽街・飲食街を移動
させ,集積をはかった.この経営者は,店舗が個別に立地するより,集積することによっ
てエンドカスタマー,つまり飲み客も集まりやすく,人・物・金が集まってくると考え,
結果として新たに集積地域を形成できた.
③入居者との親密な人間関係の構築
顧客である店舗オーナーまたは経営者との間に関しては,ビジネスに徹したドライな関
係だけではなく,入居者と親密な人間関係を構築することによって,持続的入居を実現さ
せたことが,イノベーションとして挙げられる.
④利益還元策
利益還元策も,当時としては新規な施策であったと推測される.
2)リスクマネジメントに関する特徴
事例ビル事業の起業時におけるリスクマネジメントに関して,コスト管理と,ビルのハ
ード面の危機管理が大きな項目として挙げられる.また,経営のソフト面の危機管理も重
要項目として挙げられる.
① コスト管理
イニシャルコストとランニングコストの管理が,この経営者の最大のリスクマネジメン
トであったといえる.元来このビル経営者は,無借金経営を目指した.また帳簿上の利益
よりも現実のキャッシュフローを重んじ,運転資金面でも無借金経営を目指した.よって
借入は最小限に抑え,借入を起こさざるを得ない状態であるとしても,早期にこれを完済
52
することを常に念頭に置いた.またランニングコストにおいても,ビルのメンテナンスな
ど,安全で安心な店舗営業に必要不可欠なものには,十分な予算を充当し,緊急を要しな
い事案に対しては,慎重な態度をとった.
具体的な例は,前者としてはビル建設コストの圧縮,後者としては必要以上の設備や機
材買い替えの回避などが挙げられる.後者に関しては,そのために定期的なメンテナンス,
補修工事をこまめに行い,使用期間を最大限に伸ばした.
② ビルのハード面の危機管理
ビル経営者は,全社的にビルのハード面の危機管理体制をとり,ビルのメンテナンスに
関わる業者とも密に連携をとり,常にビルや店舗が安全で,安心して使えるように心掛け
た.具体例として,水回り関係がある.特に下水の雑排水とトイレは店舗の営業上,非常
に重要なインフラであるが,頻繁にトラブルが発生しやすい.事例ビルの店舗は,おおむ
ね 19 時から深夜 2 時の間の営業であるが,特に深夜帯の緊急メンテナンスは,対応できる
業者が限定される.また,ビル内の集合店舗のため,不具合の原因個所が症状の出ている
店舗ではなく,階上階下である場合がある.このような場合は,各店舗だけでの対応では
解決せず,ビル管理側に責任がかかってくる.日頃の定期点検に加え,深夜等緊急時の対
応体制を構築しておくことが必要であった.
③ビルと店舗の経営のソフト側面の危機管理
ビルと店舗の経営のソフト側面の危機管理として,ビル経営者が重視したことは,ビル
と店舗のイメージを良好な状態に保つことであった.ビルの設計コンセプトに掲げられて
いる,
「高い品質」
,
「高いステイタス性」という良好なイメージを維持するために,大きく
二つの施策が講じられた.それは,プラスイメージを増大させる方向と,マイナスイメー
ジを可能な限り発生させない方向の施策であった.
プラスイメージの増大施策については「高い品質」,「高いステイタス性」の告知や喧伝
を,電波媒体の使用と口コミ,直接面談で行った.
もう一つの施策は,ビルと店舗にとって不利益な風評やマイナスイメージの発生や,流
布がおこらないように努めたことである.具体的には,反社会的組織などが,いわゆるみ
かじめ料の要求や半強制的な物販により,ビルや店舗と関係を持とうとする場合があり,
これをいかにして抑え込むかであった.一度,関係を認めてしまうと,ビル内の他の店舗
にみかじめ料要求が連鎖し,反社会的組織の構成員の出入りが頻繁になるなどの状況が発
生してくる.結果的に,ビルや店舗に対するイメージが悪化し,一般のエンドカスタマー,
つまり飲み客が遠退いてしまう.このような状況を回避するために,ビル経営者は,ビル
オープン後間もない時期に頻繁に訪れた反社会的組織の要求を,一切受け付けなかった.
また,ビル入居希望者に対しても,反社会的組織もしくは類似組織との関連がないか,慎
重に審査した.ビル経営者は地元警察の市民応援団的組織に入会するなどの施策もとって
53
いる.
また,反社会的組織に限らず,店舗仲間や業界の中で,誹謗中傷や流言蜚語が発生しな
いように,関係者,関係団体との交流に留意した.
このようにして,ビルや店舗のマイナスイメージの発生や,流布を防いだことは,重要
な危機管理の施策と言える.
3)マーケティングに関する特徴
起業時のマーケティングに関する特徴としては,新しいコンセプトのビル建設そのもの
と,入居店舗を集める手法が挙げられる.
① 新しいコンセプトのビル建設
このビル経営者は,事例地域で初めての垂直展開型飲食店舗集積ビルをつくり上げた.S
ビル,S2 ビルの設計コンセプトは「飲食店舗の集積による垂直展開」,
「高い品質」,「高い
ステイタス性」
「トロフィービル」
,
「地域でナンバーワンのビル」,
「サービスの充実」であ
った.これらを具現化した種々のアイデアを持つ S ビル,S2 ビルは,建設途上や完成後も
十分な話題性を提供し,飲食店舗経営者の興味の対象となり,入居願望の発生を促した.
地域の飲食店舗経営者たちに,このビルに入りたい,自分もこのビルで新しいタイプの飲
食店舗を経営したい,という願望を持たせた.ビル経営者は,自分の構想した飲食店舗ビ
ルを,コンセプトとして具現化し,S ビル,S2 ビルというハードを通して,飲食店舗経営
者という顧客へ伝えた.
② 垂直展開型飲食店舗集積ビルへの入居店舗募集の手法
既存の飲食店舗が分散し水平展開している状態が通常である時代に,垂直展開型飲食店
舗集積ビルへ入居させるには,どのような方法で呼び込むかが課題であった.結論として
は電波媒体の使用と口コミによるものであった.
1970 年代末に,地方では十分な影響力を持ったテレビ CM を使用した.当時稀であった,
テレビ CM を打つということ自体のインパクトと,その内容が新しいタイプの飲食店舗ビ
ルオープン告知であるという,二重の強い印象は,十分な訴求力を有していた.
並行して口コミで情報を広げた.ビル経営者が入居希望者と直接面談し入居勧誘を行っ
た.ビルのクォリティの高さ,充実した良質のサービスを前面に出し,訴求した.将来的
にこのビルに入居し,店舗経営者となる可能性のある人達に,いかにして満足感を感じ取
ってもらうか,というマーケティングを展開した.
4)起業段階のマネジメント意図
起業段階での,ビル経営者のマネジメント意図は,次のようにまとめられる.
① ビル設計の斬新なコンセプト設定とビル建設による具現化というマーケティング.
54
② 斬新なコンセプトの告知,喧伝,店舗募集というマーケティング.
③ コスト管理とイメージ管理によるリスクマネジメント
④ ソフト・ハード両面最良のビルの提供というマーケティング
3.3 経営の持続努力
S ビルと S2 ビルの建設,起業段階を終え,経営の持続段階,つまりサステイナブル・マ
ネジメント段階で,ビル経営者が行った経営行為を,イノベーション,カスタマー・ロイ
ヤルティ,リスクマネジメントの三つの側面から観察し,以下に詳細に述べる.
3.3.1 イノベーションに関連する持続努力
1)高級感の演出を重視
ビル経営者は事例の二つのビルの建設時には「高い品質」,「高いステイタス性」という
コンセプト設定のもと,高級感の演出に努めた.経営の持続段階においても,事例地域で
他に類をみない,高級感と清潔感あふれ,好感のもてる雰囲気の演出に努めた.
具体的な例をいくつか挙げる.ガラス系大型新素材と新塗料で覆われた,外壁の美しさを
保つために,定期的に洗浄,塗り替えメンテナンスを行った.外壁塗料の塗り替えは,約
7年ごとに行った.また,飲食店舗ビルとしては,この地域では他では見られない,3色
のカクテルライトによる夜間の外壁ライトアップを毎夜行い,高級感を演出した.
また,店舗店内についても,高級感あふれる雰囲気を創り出すために,店舗経営者に提言
や助言を行った.当時としては最先端の店舗内装デザインや素材,照明装置,カラオケ設
備などを紹介し推奨などした.
階段,通路などの共用部分を清潔に保つために,専門業者と契約し,毎日の清掃を委託
した.また,年に 1 回ビル全体の大規模な清掃工事を行った.S2 ビルは 9 階建てで,7 階
から 9 階に展望用のガラス窓がある.これを年 1 回清掃することによって,美しい眺望を
保ち,当該の店舗群の高級感を保った.各店舗からは共益費を徴収し,これにあてた.
ビル経営者として自身で実行できること,店舗に助言して,実行してもらうこと,様々
な施策を用いて高級感あふれる雰囲気づくりを行った.
2)ステイタス性の追及
ビル経営者はまず,ビルに高級感を持たせることによって,入居を希望し集まってくる
店舗経営者を増やした.その上でビルの高級な雰囲気にあう店舗経営者を審査,選択した.
この作業により,ビルのステイタス性を一層演出することができた.店舗審査時の一つの
条件として,クォリティの高いサービス提供が可能であることが挙げられる.ビル経営者
は,店舗経営者と従業員の職業的意識が高く,他にないサービスを提供するというプロ意
識とプライドが,店舗の固定客を増やし,店舗の経営を向上させていくと考えた.さらに,
店舗がエンドユーザーにクォリティの高いサービスを提供することで,ビル自体の高級感,
55
ステイタス性も高まり,ビルの経営に良い影響をもたらすと考えていた.事実,好業績の
店舗経営者や店舗運営責任者,店舗副運営責任者(いわゆるママやチーママ)
,そして従業
員たちは,仕事に前向きでプロ意識に富み,客離れを起こさせない例が多い.ビル経営者
は,このようなステイタス性の向上へむかう好循環をつくり出すべく,高級感のあるビル
づくりに意を注いだ.
またビル経営者は,ステイタス性のあるビルであるという情報を,友人知人に依頼し口
コミで流布させた.事例のビルが,地域の歓楽街の中で一番のビルである,最高級のビル
であるということを,周知させる努力を行った.
3)店舗の指導
ビル経営者は,ビルや店舗の高級感はステイタス性を演出,追求するものであるため,
それに見合ったランクのエンドカスタマー,飲み客の来店を目指した.エンドカスタマー
への「おもてなし」のサービスを重要視し,高いクォリティのサービスを提供できる店舗
への,様々な指導を行った.また,店舗経営者らにも協力をしてもらうことにより,相互
に連携を保ちながら,さらに高いクォリティのサービス提供を目指した.
以下に,例を挙げる.
①
店舗自治会の組織化と指導
事例ビルには,店舗自治会がある.店舗同士が,ビル使用の利便性の追求や店舗経営の
向上のために,相談を重ねていく内に,自治会組織が作られた.最初はゴミ出しなどの小
さいことの打合せから始まり,現在ではビル全体の店舗間の取り決めや,ビル経営側への
ハード面の問題,改修要望なども議題とされている.ビル経営者は,S ビル店舗自治会が店
舗らの自立意識,経営意識を高めるものとして捉え,その発足については,友好的な態度
で臨んだ.
S ビル店舗自治会の活動として,以下に例を挙げる.ゴミ出しに関しては,店舗ら自身が
回収業者,集積場所を決め,専用のごみ箱の資金を出し合い設置した.ゴミ箱設置場所に
関しては,ビル経営者に対して用地を提供するように要望があり,ビル経営者はこれに応
じて無償でスペースを貸与している.
また,店舗自治会は,親睦活動や対外的な活動の中心ともなっている.ビルに入居する
店舗を対象としたイベントを開催し,また地域のイベントへ参加するなどしている.ビル
に入居する店舗自体が地域との密接な関係にあるため,地域の祭り等や,商店街のイベン
トに参加する場合などは,ビル店舗自治会は有効にその力を発揮している.
ビル経営者がビル全体に係る事項の伝達等の場合は,自治会または自治会役員を通した
方が簡便且つ確実である.例えば,全館大規模工事や防火訓練などの説明通達,ビル経営
者から店舗への接客レベルアップなどの要望などを行う場合には,個々の店舗に伝達する
より,全店舗と密接な繋りができている.また,自治会の役員に話を通す方が円滑に事が
運ぶ場合が多い.このような側面で,ビル店舗自治会はビル経営者にとって便利な組織で
56
ある.
一方,自治会があるゆえにビル経営者にとって不都合な状況が発生する場合もある.過
去に一度あった例として,家賃の件での自治会による団体交渉が挙げられる.その際ビル
経営者は,家賃は非常にナーバスな案件であるため,個別に対応すべきだとし,団体交渉
を回避した.ビル経営者は,店舗自治会組織が権利要求の手段に使われることを良しとし
なかった.本来,ビル全体や各店舗の経営状態向上や良好な経営状態の維持のために活動
すべきとの持論を述べ,自治会側に承諾させた.それ以降は,店舗とビルの経営状態の維
持向上という共通の認識のもとに,ビルと店舗との懸け橋的な存在として活動がなされて
いる.今ではゴミ出しなど日常のことから,店舗同士のコミュニケーションの場としての
活動まで,幅広くビル全体の店舗のための組織となっている.
②
店舗のクォリティ向上のための指導
店舗とビルの共通目標は,経営状態向上と良好な経営状態の維持である.店舗とビルが
運命共同体として共感性を持ち,ともに日々の運営や,経営の努力をすることが必要であ
ると,ビル経営者は店舗経営者らへ訴えた.いかにしてエンドカスタマーをビル内の店舗
へ呼び込むか,また固定化させリピーターとなすかが課題であることを説き,さらにビル
経営者と店舗らが維持している,質の高いサービス空間という特別な関係の中に,エンド
カスタマーを位置させなければならないと指導した.ビル経営者は,エンドカスタマーか
ら発せられた要望や忠告を,店舗経営者らに対して貴重なアドバイスとして伝えていくこ
とで,ビル経営者,店舗経営者,エンドカスタマーという三者の間に,個循環が生成され
たと考えている.そして,その結果 30 年以上という長期間のビル経営が可能になったと考
えている.
③
店舗経営者の世代交代に関する指導と問題点
S ビルは初期オープンから 32 年,全館オープンから 31 年,S2 ビルは全館一括オープン
から 24 年が経過している.これからの問題として,店舗の経営者や店舗運営責任者が,高
齢化することである.さらに,馴染みのエンドカスタマーも高齢化し,数の減少もみられ
る.将来的には主客とも高齢化による減少で,店舗の存続自体が危うい.
対処策としては,ビル全体の若返りが必要であると,ビル経営者は考える.既に,店舗
経営者や店舗運営責任者の子息が,2代目として店を継承している例がある.その他に,
以前,事例ビルの店舗で働いていた経営者の子息や従業員が,新たな別の店をオープンさ
せている例もある.これらの世代交代のいくつかの例に対して,ビル経営者は,融資の切
り替え,税務処理,店舗運営,エンドカスタマーの入れ替わり等の側面から,助言を与え
た.
しかし,
ビルオープン時入居の初代の経営者が運営している店舗が全体の約 7 割を占め,
そのほとんどについて未だ後継問題は解決されていない.ビル経営者自身,この問題に関
57
しては,これからの大きな課題であると考えている.
4)高いコストパフォーマンスの追求
ビル経営者は以下に述べる,高い家賃設定,コスト対効果を考慮した費用投入,ランニ
ングコスト抑制,の3側面において高いコストパフォーマンスの特徴を維持すべく,経営
を行ってきた.
① 高い家賃設定を可能にした施策
高級感のあるビルと店舗のイメージを定着させることによって,事例地域内で最も高
い価格帯の家賃設定が可能であった.S ビル,S2 ビルのオープン時の家賃坪単価は,同地
域内の他の店舗と比較した場合,
約 1.2 倍から 1.4 倍であった.ハイクォリティイメージは,
立地,ビル自体のイメージ,入居店舗の質がつくりあげるものである.立地,ビル自体の
イメージの醸成は,ビル経営者の起業時,ビル建設時の施策の結果であった.入居店舗の
質については,その後の持続的経営上の施策であった.これらが,リンクして収益に大き
く影響する家賃設定の競争力を増大させた.特に,入居店舗の質の向上,高いレベルでの
維持は,前項までに述べたように,経営の持続努力の一つの要素であるといえる.
② コスト対効果を考慮した費用投入
ビル経営者は,単にコストの削減だけではなく,効果を考慮したうえで費用を投入して
いる.その目的は,店舗へのエンドカスタマーの誘因,ハイクォリティイメージの維持や,
店舗のサービスクォリティ向上である.
最も頻繁に行った行為は,店舗へのエンドカスタマーの誘因であり,ビル経営者の友人,
知人をビル内の店舗へ招待したことである.また,ビル経営者が所属する団体や組織の親
睦会などを,事例ビルの店舗で開催するように働きかけるなどした.ビル経営者が誘因し
た顧客のうちの,約 3 割はリピーターとなったと,この経営者は語っている.また,そこ
から発展して店舗単位の飲食同好会的な団体の形成や,ゴルフコンペなどを開催し,積極
的にその店舗の応援団的存在になった例もある.
ビル経営者は,事例ビルに入居する店舗の責任者を,同ビルの他店舗や,別のビル店舗
へ連れて行くこともあった.目的は他店の接客サービスの良い部分を吸収させることであ
る.同じビルに入居していても,お互いに相手が運営する店舗の状況や,接客サービスの
内容については,把握していない場合が多い.ビル経営者は経営,運営の良い例と判断す
る店舗へ,改善が必要な店舗の責任者を連れていき,その実際を体験させた.そして,自
分の店舗の接客サービスの改善に役立てるように誘導した.このような交流の副次的な効
果として,店舗責任者同士が親密な関係を構築することがある.例えば自分の店舗が満席
で,顧客が入りきれない場合,単に断るのではなく,親密な関係にある店舗へ誘導すると
いうような行為が見られる.
58
ビル経営者のこれらの行為は,費用を必要とするが,結果的に店舗のエンドカスタマー
の増加,ハイクォリティイメージの維持,店舗のサービスクォリティ向上がもたらされ,
高いコストパフォーマンスを追求した施策と言える.
③ ビル建設時の施策の余波効果としての,ランニングコスト抑制
店舗をビル形式にすることで垂直型集積がなされ,ビルオープンから現在まで,維持管
理費や共益費が軽減されたと考えられる.また,電気設備関係において,高圧受電設備設
置,維持の電力会社負担策をとったことにより,現在もその維持管理・運用は電力会社が
行っており,ビル側にとって継続的な負担軽減となっている.
5)事前調査
ビル経営者は,入居者探しの側面と,入居店舗の安全で安心な運営の側面において,入
念な事前調査と,その結果を反映した経営,施策を行った.
① 入居者探しの側面
ビル経営者は入居希望者の情報を得るために,頻繁に歓楽街へ出かけた.入居希望者や
勧誘対象者は,ビル経営者自身が探すことを基本とした.稀に,信頼できる知人に紹介し
てもらうこともあった.早い時期に,入居希望者や勧誘対象者の属性や性格などの個人的
情報を収集し,店舗に入居させる以前に人間関係を構築した.これらの情報や親密さを,
店舗内覧時の話し合いや契約時の交渉ごとに役立てるなどした.また,入居後は,個別の
相談を受ける場合などの対応に役立てた.このようにして,店舗経営者,運営者との関係
を,さらに親密にしていった.
② 安全,安心運営の側面
日常のビル運営においては,ビル全体の雰囲気,明るさや清潔感などの視点で,他ビル
との比較観察を行った.他のビルにない良い雰囲気を維持し,店舗のエンドカスタマーが
心地よくビルと店舗へ来ることができることに留意した.
また,安全で安心にビル経営や店舗経営ができるよう,関連の情報を収集し対策をとっ
た.一般的なビル管理だけではなく,反社会的組織などの介入の防止対策や,風評被害の
防止対策のための周辺調査や情報収集に留意した.特に反社会的組織などへの対策として
は,店舗との連絡や面談を密にし,類似組織介入の兆候がないかなど,細かく気を配った.
周辺地区の同業他社からの情報も有効なものであった.また警察との連携を深め,反社会
的組織などの動きなどの事前情報を収集し,対策に生かした.
6)2次,3次の店舗入居者の促進策-空き店舗充足策
ビル経営者は主に,ビル店舗内での候補者探し,店舗経営者および運営者の継承的交代,
59
入居条件の考慮という視点で,2次,3次の店舗入居者の促進策を行った.
①
ビル店舗内での候補者探し
ビル経営者は,店舗で働く従業員たちが,新たに店舗を借りる予備軍であると考えた.
店舗運営の副責任者などは特にその可能性が高い.このような,将来店舗を借りる可能性
の高い候補者と,親密な関係を構築し大切に扱った.
また,店舗経営者とのコミュニケーションを取ることにより,社内起業を志す者を探し
出した.ビル経営者はこれらの自分で新たに店舗を出す意思のある者らを育てることも行
った.資金調達の方法から始め,エンドカスタマーの集め方,固定客化の方法,経理,店
舗内の人事運営,に至るまで教えた.この場合の,ビル経営者のスタンスは,皆平等に扱
うというよりも,努力する者には一層援助するというものであった.
またビル経営者は,ビル内の店舗で従業員に対して,次のような独自の考えを持ってい
た.彼らはビルに入居している店舗で働いており,ビル経営者とは直接の雇用関係はない.
しかし,視点を変えビル全体を一つの会社と見なせば,店舗経営者が会社の課長,そこで
働いている女性従業員やスタッフは課員に相当するとの考えである.このような考えに基
づき,ビル経営者は自分の社員と接する感覚で,真剣で親密なコミュニケーションを取り,
次期の店舗入居者を探索し,また育成した.
②
店舗経営者および運営者の継承的交代
S ビルはオープン後 32 年,S2 ビルは 24 年が経過し,当初からの店舗経営者や運営者の
高齢化も見られる.高齢とは言え,店舗運営責任者の中にはエンドカスタマーを数多く持
つ者もいる.特に,店舗運営責任者らと同世代の団塊の世代のエンドカスタマーを多く持
ち,固定客化し,安定的店舗経営を行っている例もある.ビル経営者は,これらの固定的
なエンドカスタマーを店舗の財産とみなし,可能な限り次世代経営者・運営者へ継承すべ
きだという考えを持っている.地方都市における飲食店舗の継承に関して,最も受け入れ
られる形態は,親子での継承や,馴染みのある従業員による継承である.つまり娘や店舗
運営副責任者が継承すれば,固定客も大きく減少せずに店舗を継続できる.但し,エンド
カスタマー自身も高齢化していくため,新経営者・新運営者は自分自身の新たな顧客を開
拓していく必要がある.ビル経営者は新たな店舗経営者・運営者に対して3.3.1,3)
および4)で述べた内容の指導と援助を行い,新しいエンドカスタマー獲得に協力した.
③
入居条件の考慮
ビル経営者は,空店舗への新規入居者や,継承問題で放置すれば空き店舗になると予測
される店舗に対して,資金面を中心に方策をとった.資金面の主な問題として,敷金や家
賃の改定,さらには店舗の改装の水準,資金調達先の選定などが挙げられる.敷金や家賃
については個別に相談に応じ,標準額から下げる場合もあった.資金調達方法に関しては,
60
ビル経営者が銀行融資や商工会議所等の融資策を調査し,入居希望者にその情報を与え,
これらの制度を利活用しながら,店舗の継承または空店舗への入居を促した.店舗の工事
内容については,いわゆる「居抜き入居」といわれるような,必要最小限の改装工事にと
どめるなどの方策を提案した.場合によっては,その工事費用の一部をビル経営者側が負
担し,店舗の継承または空店舗への入居を容易にした.
7)相手に合わせた個別の指導
ビルに入居している店舗においては,個々に問題や課題を抱えている.それらの問題や
課題に対して家賃納入時の面談,定期的な店舗訪問時の面談を通して,個別指導を行った.
その内容は,店舗経営自体に関する事柄はもちろんのこと,店舗内の小さな出来事やもめ
事,店舗経営者や従業員のプライベートな相談事も含まれていた.
ビル経営者は,彼自身の日常の業務上,また,他地域や海外への出張時に感じ取ったこ
とや入手した情報を,家賃納入時の面談,定期的な店舗訪問時の面談を通して伝授した.
可能な限り時間を取り,十分なコミュニケーションを図った.店舗経営者・運営者が,こ
れらの情報に興味がある場合,店舗の業務時間以外にビル経営者の会社を訪問し,さらに
詳しく聞くこともあった.ビル経営者はこれに応じ,相手の興味の対象,理解のレベル,
性格などに合わせ,個別に面談を行った.その際,ビル経営者が知っている情報は教え,
店舗経営者らの新しいサービス方法開拓などのための事柄を指導した.また逆に店舗経営
者らから,飲食業界の新たな情報を受けることもあった.これはビル経営者にとっては貴
重な情報源となった.例えば,他のビルの店舗の経営状態に関する情報や,飲食業界全般
の経営状況や見通しなどに関する情報であった.
8)入居店舗との密接な関係構築及び維持の状況下での施策
ビル経営者は,入居店舗との密接な関係を構築し維持することで,店舗の個別事情に合
わせた施策を行ってきた.前項までに述べてきた,テナントの指導,店舗のエンドカスタ
マーの増加策,2次,3次のテナント入居者の促進策,相手に合わせた個別の指導などが,
それに該当する.
さらに加えて,家賃回収業務に関して,この密接な関係ゆえに可能となった特徴を,以
下に述べる.
店舗からの家賃は,ビル経営会社の唯一の収入である.ビル経営者は家賃回収および管
理業務には最大限の注意を払った.社会の経済状態が良好な時期は,問題なく家賃が回収
出来てきた.しかし,いわゆる景気が悪いと感じられる時期には,家賃回収が滞ることが
多い.その場合は,店舗経営者・運営者に直接の声かけや,電話で連絡を取り支払いを促
した.その際,相手の経営状況などを考慮しながら,分割納入など相手が支払いを行いや
すい方策を提案した.ビル経営会社としてビジネスライクに処理しなければならない部分
と,顧客である店舗を支援し活性化させるという,二つの側面を考慮しながら,店舗と密
61
に連絡を取り集金業務を行った.
9)ビル周辺の地域経済との関連
ビル経営者は,意識して飲食店街向けの周辺事業を独占する方向へは進まなかった.飲
食店業界は小規模ではあるが,数多くの業種で成り立っている.周辺商店が全体で支えあ
って成り立って状態である.周辺商店街のためには,これらの業種を独占しないことが重
要であるという考えに基づくものである.
関連業種を具体的に挙げる.酒屋,おしぼり屋,おつまみ屋,花屋,各種デリバリー,
カラオケ業者,運転代行業者,ラーメン屋,スイーツショップ,店舗工事業者などがある.
事例ビルを見てみると,おしぼり屋もカラオケ業者も,ビル経営会社関連で行うことはな
く,また一社指定もしない.各業者が店舗とのつながりで出入りするか,自由営業で仕事
を取っている.ビル経営者は,共存共栄の雰囲気づくりを店舗に指導している.
周辺業種を自由に展開されることで,店舗側や納入業者ともうまくバランスが取れ,ビ
ル経営者側の要望も通り易い.例えば,出入りのカラオケ業者は4社あり,店舗の自由選
択にしている.ビル経営側はカラオケ業者と直接の関係は持たないが,何かあった時に要
望をビルとして出せる.勝手な配線を行った場合など,きちんと工事をするよう指導する.
このように,納入業者とも良好な関係を保っている.
駐車場に関しては自社営業の部分がある.ビル経営者は,ビル周辺の駐車場だけは不足
しており,ビル経営に必要不可欠だと考えたからだ.土地を購入し立体駐車場や平面駐車
場を建設して,長期間のものでは約 40 年間経営を続けている.
事例ビルでは,ビルを中心にして周辺に飲食店が集積されている.そこには飲食店はじ
め産業クラスターが形成され,人・物・金が集まってきている.ビルを中心にした産業ク
ラスターを図3-7に示す.
図3-7 ビルを中心にした産業クラスター[60]
これは,地域経済の活性化に寄与していると見ることができる.
62
10)種々のイノベーションによる持続的健全経営手法の実施のまとめ
ビル経営者は,健全経営の具体的な手法を模索し,実施しながら改善してきた.これら
をイノベーション側面から観察し,高級感の演出とステイタス性の追求によるビルと店舗
の差別化策,入居店舗との密接な関係構築及び維持による個別経営指導,ビル経営者自身
による店舗のエンドカスタマー増加策などについて述べてきた.
そしてそれらは,高い入居率の維持,店舗の長期間にわたる入居の実現,店舗のエンド
カスタマーの定着と高い評価,家賃回収率の向上などにつながってきたと見ることができ
る.
ビル経営者は次のように述べている.今後時代の変遷とともに,地域経済や中心市街地
の環境が,さらに変化していくと予想され,それに対応した経営が必要となってくる.ビ
ル側と店舗側ともに,共通の認識である持続健全経営のため,クリエイティブなイノベー
ションを模索し,知恵を出して,共に創意工夫しながら経営すべきである.
3.3.2 カスタマー・ロイヤルティに関連する持続努力
1)サービスに関するビル経営者の基本姿勢
ビル経営者は,ビジネスの基本はサービスだと考えている.ビル経営者の持論であるが,
「数は力,質は強さ」とも語っている.サービスの数を増加させることも重要だが,サー
ビスの質の向上が,さらに重要であるとの考えを持っている.これは,サービスのコア化
ともいえる経営理念である.製造業に当てはめれば,技術的なコアを持つことの強みと同
様のことである.他と比較して,高いクォリティのサービスをエンドカスタマーに提供す
ることによって,潜在的な価値が生まれてくると,ビル経営者は考えている.起業当初は,
ビル経営者自身自覚していなかったが,経営を続けていくうちに,サービスのクォリティ
を高めることが,事業存続に非常に重要な要素だと確信したと語っている.ビル経営者は,
競争優位を確保する中で,サービスの質とは何かを考えざるを得なかった.例えば,ビル
側から店舗側へ対するサービスとして,事故が発生した時の迅速な対応や,問題解決など,
店舗が安心して経営ができるためのサービス体制である.また,飲食店舗側からエンドカ
スタマーへのサービスの質とは,楽しさ,安らぎ,癒し,コスト感に見合う充実感などで
ある.
2)入念な事前調査と,その結果の反映
ビル経営者は,ビル内外で入念な事前調査をすることで,問題解決や新しい経営手法を
生み出してきた.
① エンドカスタマーと店舗従業員のニーズ
事例ビルでは,店舗経営者がエンドカスタマーのニーズや一般的な流行に合わせて,店
63
舗の改装や店内設備,カラオケ設備の入れ替えを行う場合は多い.一方,従業員のニーズ
を満たすことによって,良い結果が生み出されることもある.
一例を挙げれば,トイレの仕様である.事例の S ビルでは 1979 年の建設当時,便器仕様
の和洋比率は約6対4,S2 ビルでは 1988 年当時約9対1であった.その中でも,若い女性
が働く店舗では,和式から洋式,洋式から自動洗浄装置付き洋式という改装を早い時期に
行った.これは,エンドカスタマーのニーズや世間の流行もあったが,店舗の女性従業員
が,和式トイレだと働きたがらないということが大きな理由であった.しかも,この問題
は店舗経営者・運営者が,女性従業員から直接聞いたものではなく,ビル経営者を通して
店舗経営者・運営者へ伝わった経緯がある.従業員である女性たちは,面と向かって店舗
経営者・運営者へトイレ改装の願いを申し出ることを躊躇した.また,申し出があったと
ころで,店舗経営者・運営者は経費の問題から,改装には容易に着手しない傾向にあった.
このような場合,情報を入手したビル経営者が,店舗経営者・運営者を説得し改装を進
めさせた.説得の材料として,資金面での応援も申し出た.ただし,一定期間以上ビル内
で営業を継続していることや,家賃滞納がないことなどを条件とした.さらに,改装すれ
ば女性従業員の士気も上がると説得した.事実,集まってくる女性従業員の質が向上し,
既存の従業員たちの業務態度は改善され,店の雰囲気とサービスの質の向上といった効果
が見られる店舗もあった.トイレの改修に限らず,エンドカスタマーのために店内の改装
をする場合,前出の条件付きで費用の一部を負担するなどの資金援助も行った.
このように,ビル経営者は日頃から,店舗経営者・運営者や従業員,エンドカスタマー
に対して,入念な事前調査による情報収集を心がけ,その結果をビル経営へ反映させた.
3)店舗との濃密なコミュニケーション
① ノウハウの提供
ビル経営者は,店舗経営者や店舗運営責任者などと頻繁に会い,店舗内の種々の問題か
ら,プライベートなことに至るまで相談を受け,問題解決のための手助けを行った.店舗
経営者や店舗運営責任者,従業員があまり得意としてない分野を支援することにより,濃
密なコミュニケーションの構築をはかった.彼らが得意としない分野とは,金融機関との
交渉や税務対策など財務関係全般である場合が多い.また,店内での従業員の扱いなどの
人事関係も弱い分野である.経営上,人材の入れ替えが必要であっても,長年の付き合い
が障害となり,店舗経営者が運営責任者や副責任者の入れ替えを実行できない例などがあ
った.
このように,濃密な関係を構築し,ノウハウを提供することが,店舗への一種のサービ
スであり,サービスの質を向上させることがカスタマー・ロイヤルティの形成に繋がると,
ビル経営者は考えた.
② 細かい心配り
64
ビル経営者は,自分では自覚しなかったものの,結果的に,まんべんなく入居店舗との
親密な関係を作った,と言っている.不公平感を生み出さないように,定期的に殆どの店
舗に顧客として訪問した.その際,経営者から要望の聞きとりなどを行った.
事例ビルのオープン後しばらくは,店舗が営業を開始する時間帯に,ビルの前に立って
出勤してくる,店舗経営者や店舗運営責任者,従業員らの顔色や様子を観察した.店舗経
営者の顔色を見て,彼らのその日の体調や,店舗の経営状態等が,分かるまでになったと,
ビル経営者は言っている.その際に,彼らが何事でも気軽に相談できるように,
「人間目安
箱」になったつもりで,よろず相談を受け付けた.
また,店舗経営者や女性従業員の誕生日に,花などを贈るという,細かい心配り,サー
ビスを心がけた.
③ 店舗との信用の維持
ビル経営者が店舗を訪問し,面談のためやエンドカスタマーを紹介するために飲食する
場合は,一般の顧客と同様に,基本的には現金決済で支払いを済ませた.ビル経営者は店
舗と濃密なコミュニケーションを構築する場合でも,支払いごとのように店舗との信用に
かかわる事案については,どのような小さなことでも重要に扱った.
④ 店舗との接触機会,面談機会の確保
ビル経営者は店舗との接触機会,面談機会の確保するために,毎月の家賃回収機会を有
効に活用した.当初,不動産業者に家賃集金業務を委託することを検討していた.しかし
この場合,ビル経営者側が店舗へ行かない限り,相手との接触が持てず良い状態とはいえ
ない.この解決のために,意図的に会う機会を増やす策を検討した.最低でもひと月に1
回は会えるという状況をつくるために,家賃支払い時にビル管理事務所まで持参してもら
う方法を考えついた.毎月の家賃回収時に,可能な限りビル経営者自身が在社し,店舗経
営者と直接顔を合わせる状況をつくった.
当初は,支払う側がなぜ出向かなければならないのか,といった店舗側の不満も出てい
た.しかし,その効用が店舗経営者に理解されてくると,苦情はなくなった.つまり,出
向いて行くことの煩わしさより,面談し,様々な相談をすることの効用の方が,店舗経営
者にとって大きいということである.もちろん,全ての店舗経営者が,面談で十分な満足
した結果を得られたわけではないが,少なくとも,このビル経営者は話を聞いてくれると
いう,安心感や期待は感じ取った.
ビル経営者側からみると,店舗経営者の顔が見える状態で話をすることにより,その店
の経営状態を直接聞き出すことや,会話の内容から察知することが可能であった.立ち話
等では話し合えない事案,例えば,店舗経営者が入院で店を一時休む場合の経営をどのよ
うにするのかなどについて,守秘の保たれた環境で,十分話し合うことができた.
ビル経営側にとっては,ビル経営者以外の社員が,店舗経営者と親密になる効用もあっ
65
た.社員が全ての店舗へ出向く機会はめったになく,全ての店舗経営者と面識ができるま
でには多くの時間を要す.毎月の家賃回収時に,社員が店舗経営者もしくは代理者と面談
することによって,店舗側と面識ができ,種々の事柄を聞きだし情報を得ることができ.
面識ができていれば,ビル経営者が不在時に,社員が円滑な対応をできるようになる.会
話することにより,社員も店舗経営者や店舗運営責任者と親密な関係を構築し,毎月,回
を重ねていくとこにより,より親密度を増していく傾向にある.ビル経営者と社員,そし
て店舗経営者,店舗運営責任者との間で,ビルや店舗に関する情報を共有することが可能
となる.
ビル経営者は,この方法を高く評価し,ビルオープン後間もない時期から,長く継続し
ている.
⑤ プライベートな部分にも及ぶ,親密な関係の構築
ビル経営者は,業務上のことだけではなく,店舗経営者のプライベートな部分にまで及
ぶ親密な関係を構築した.これは,ビル経営者が意図して実行したことというより,親身
な相談事を繰り返す間に,自然にその部分まで及んだと,ビル経営者自身が語っている.
ビル経営者は個人レベルで親密な関係を築き,店舗経営者の家族との付き合いまでも大
切にしている.例えば,店舗を継承している 2 代目の店舗経営者に子供が産まれた場合な
ど,個人的なお祝いを送るなどしている.また,子供の節句や家庭的な行事に呼ばれたり
する場合もある.店舗経営者の子供たちが成長する過程を,先方の家族と一緒になって見
届ける.店舗経営者の子息の婚礼仲人を引き受ける場合もある.もちろん,お悔やみごと
にも積極的に出席している.そのようにして,友人関係と呼べるようなレベルの,より親
密な関係性が構築されていく.
結果的に,店舗の継承率の向上にもつながってきた.親の店舗を継ごうとする場合,そ
のまま事例ビル内で継承するケースがある.
4)店舗のエンドカスタマーを増加させる策の実施
① 店舗に顧客を送り込むという直接行動
ビル経営者の個人的な繋がりや,入会している各種団体,組織を活用した.それらは,
経済団体,任意団体,同好会,さらには単なる仲間内の懇親会なども含まれていた.そこ
に集まる人々に,ビル店舗のエンドカスタマーとして来てもらえるように喧伝,同行を行
った.また,顧客がビルのどの店舗に行っても,素晴らしい,質の高いサービスが受けら
れることを喧伝した.さらには,そこに行くことによってステイタス性を得られ,高級感
あふれる雰囲気を味わうことができるということを喧伝した.このように,ビル経営者自
身が,店舗に顧客を送り込むという直接行動策をとった.その結果,誘導した顧客が該当
店舗で同好会や酒を飲む会を開催し,現在まで約 20 年も続いているというような店舗もみ
られる.
66
② 紹介という間接行動
ビル経営者は,自分の関連する団体などの活動を通して,その有力メンバーに店舗経営
者や従業員を紹介した.店舗経営者や従業員をゴルフコンペや,親睦会に同行させるなど
した.ここで,店舗経営者や従業員と各種団体の有力メンバーが親しくなり,来店のチャ
ンスができた.
③ 各種イベント,会の開催
ビル経営者は事例ビルオープン当初,ビル経営者と店舗経営者,店舗のエンドカスタマ
ーがコミュニケーションを取る手段として,大規模なゴルフコンペやボーリング大会,ビ
ヤガーデンなど各種イベントを数多く開催した.ビヤガーデン大会では500~600人
を駐車場に集め,大規模に開催した.地元のマスコミなどにも手伝ってもらい,大変な盛
り上がりと,反響を生み出した.
また,店舗のエンドカスタマー同志の頼母子講や三夜待など小規模の親睦会を開き,定期
的にエンドカスタマーが店舗に来る仕掛を作った.活気あるビルにして店舗が潤い,ひい
てはビル経営が持続するような施策を取った.
④ 情報源,支援者としてのエンドカスタマー
ビル経営者は,店舗のエンドカスタマーに対し,お金を支払ってくれる単なる客として
だけではなく,重要な情報源として,また,ビルと店舗を繁栄させてくれる支援者として
捉えてきた.
エンドカスタマーには,店舗の状況が客観的に見えている場合が多いと,ビル経営者は
考えている.エンドカスタマーは自分が懇意にしている店舗の雰囲気や客扱いのレベル,
料金システム等を,他の店舗と比較して,自分の情報として持っている.あの店はこうし
たら良いとか,この店のサービスがどうだとか,それらは苦情・要望であったり,サービ
スのクォリティを高めるための方法などのアドバイスであったりする.
エンドカスタマーは,自分行きつけの店舗の悪口や苦情を,その場であまり言わない.
エンドカスタマーは,楽しくなくなったら,何も言わずにその店から離れていく.この状
況は,店舗にとって危機的な事であり,エンドカスタマーが減る大きな要因かもしれない
と,ビル経営者は考えている.
ビル経営者は,エンドカスタマーを通して得た店舗の情報を,今度は家賃回収時の面談
などを通して,店舗経営者へ伝え,サービスの質の向上や設備の改善に役立てた.
エンドカスタマーが支援者であるという考えは,エンドカスタマーが,次のエンドカス
タマーを連れてくることに関して,ビル経営者が感じていることである.店舗のためにな
る,ひいてはビル経営のためになることから,そのように言っているのである.
またビル経営者は,この業種を「不特定多数の友人連鎖ビジネス」とも言っている.最
67
初にビル経営者が店舗へエンドカスタマーを誘導する.次に,そのエンドカスタマーが友
人・知人,または仕事関係の接待で自分の御客様を連れてきてくれる,という図式が成り
立つからである.そして,その要因になるのは,エンドカスタマーの店舗に対する満足度
であると,ビル経営者は考えている.ビル経営者がどのようにエンドカスタマーを誘導し
ても,そのエンドカスタマーが満足しなければ固定客とはなりえないし,次のエンドカス
タマーを紹介することもない.
3.3.3 リスクマネジメントに関連する持続努力
1)資金調達(無借金経営)
ビル経営者は,地方において中小企業が信用を獲得し,事業を継続させるためには,無
借金経営が重要であると考えた.また,運転資金などのキャッシュフローがスムーズであ
るためにも,無借金経営は重要な要素であると考え,これを目標にしてきた.ビル経営者
は,無借金経営を経営上の大きなリスクマネジメント要素であると捉えている.
S ビル建設資金に関しては 13 年で借入金を返済する計画を立て,
実際は 12 年で返済した.
S2 ビルにおいては8年の返済計画を立て,予定通り返済した.7~8年に1回の割合で発
生するメンテナンス工事資金については,当初は,ビル建設資金に加え銀行から借入れす
る状態だった.しかし,1998 年ころより基本的には銀行からの資金調達をせず,自己資金
だけで運営をしてきた.その後も将来のための用地購入や,駐車場建設などを行なったが,
全て自己資本である.
2)安全,安心感の追及
①.ビルのハード面の危機管理
ビル経営者は,全社的にビルのハード面の危機管理体制をとり,ビルのメンテナンスに
関わる業者とも密に連携をとり,常にビルや店舗が安全で,安心して使えるように心掛け
た.具体例として,水回り関係がある.特に下水の雑排水とトイレは店舗の営業上,非常
に重要なインフラであるが,頻繁にトラブルが発生しやすい.事例ビルの店舗は,おおむ
ね 19 時から深夜 2 時の間の営業であるが,特に深夜帯の緊急メンテナンスは,対応できる
業者が限定される.また,ビル内の集合店舗のため,不具合の原因個所が症状の出ている
店舗ではなく,階上階下である場合がある.このような場合は,各店舗だけでの対応では
解決せず,ビル管理側に責任がかかってくる.日頃の定期点検に加え,深夜等緊急時の対
応体制を構築しておくことが必要になる.
②.ビルと店舗の経営のソフト側面の危機管理
ビルと店舗の経営のソフト側面の危機管理として,ビル経営者が重視したことは,ビル
と店舗のイメージを良好な状態に保つことであった.ビルのコンセプトに掲げられている
「高い品質」,
「高いステイタス性」という良好なイメージを維持するために,マイナスイ
68
メージを可能な限り発生させないことを重視した.
ビルと店舗にとって不利益な風評やマイナスイメージの発生や,流布がおこらないよう
に努めた.具体的には,反社会的組織などが,いわゆるみかじめ料の要求や半強制的な物
販により,ビルや店舗と関係を持とうとする場合があり,これをいかにして抑え込むかで
あった.一度,関係を認めてしまうと,ビル内の他の店舗にみかじめ料要求が連鎖し,反
社会的組織の構成員の出入りが頻繁になるなどの状況が発生してくる.結果的に,ビルや
店舗に対するイメージが悪化し,一般のエンドカスタマー,つまり飲み客が遠退いてしま
う.このような状況を回避するために,ビル経営者は,ビルオープン後間もない時期に頻
繁に訪れた,反社会的組織の要求を一切受け付けなかった.また,ビル入居希望者に対し
ても,反社会的組織もしくは類似組織との関連がないか,慎重に審査した.ビル経営者は
地元警察の市民応援団的組織に入会するなどの施策もとっている.
また,反社会的組織に限らず,店舗仲間や業界の中で,誹謗中傷や流言蜚語が発生しな
いように,関係者,関係団体との交流に留意した.
このようにして,ビルや店舗のマイナスイメージの発生や,流布を防いだことは,重要
な危機管理の施策と言える.
3)ビルメンテナンスの徹底
ビル経営者は,常に店舗が安全で安心して経営できるよう,ビルメンテナンスを徹底し
た.これは,ビルを物理的に安全なものに保っておくという目的と,ビルのコンセプトに
掲げられている,
「高い品質」
,
「高いステイタス性」という良好なイメージを維持するため
である.
後者は,特に外観,通路など店舗経営者や従業員,エンドカスタマー,さらには一般の
人々の目に触れる部分に係ることである.エンドカスタマーは,綺麗で清潔なビル,店舗
を選ぼうとする傾向があり,また,店舗経営者や従業員も,手入れの行き届いたビルであ
れば,業務の士気も上がる傾向にあると,ビル経営者は経験的に感じ取っている.従業員
募集の際の好材料にもなり,エンドカスタマーを多く抱える女性従業員が応募してくる傾
向もある.さらに,ビル経営者側がビルを安全,安心,綺麗で清潔に保とうとする気持ち
が,店舗経営者,従業員に伝わり,さらに綺麗に使用したいという気持ちが生まれてくる,
とビル経営者は言っている.
具体的には,業者による共用部の毎日清掃,常時のビル内外の照明点検,電照看板や電
照店舗案内看板の点検,年 4 回の大規模清掃,年 2 回の下水配管洗浄,7~8年に1回の
外壁全面塗装および防水箇所点検(屋上防水膜,笠木部,壁面シーリング部)などが挙げ
られる.
4)店舗との濃密なコミュニケーション-リスク情報の収集
ビル経営者が構築した,店舗の濃密なコミュニケーションは,ビルや店舗の経営上注意
69
しなければならないリスク情報の収集にも役立った.
例えば,何らかの事故で店舗が営業できないという場合に,日頃からビル側と店舗側が
濃密なコミュニケーションを保っているため,問題解決には両者が協力し,迅速に解決策
を見い出し対処してきた.日常的に店舗側から,共有部分の設備の不備に関する情報など
があがってくる.これによりビル側は予防策を取ることが可能になる.また,S ビルにおい
ては,店舗自治会が存在し,この組織と防火,防犯,反社会的組織などの対策を協力して
行ってきた.
ビル側から見た店舗のリスクとして,移転や閉店があるが,日常的なコミュニケーショ
ンの中から,これらを察知することも可能であり,ビル経営者にとってのリスク管理に有
用である.
5)店舗事情に関する「よろず相談」・「サービス供給」
店舗に関する諸問題や事故などが発生した場合に,迅速な対処をすることは当然である.
それ以外に,店舗が如何にして質の高いサービスを供給し,エンドカスタマーを如何に誘
引するかについて,ビル経営側として日常的に支援する体制をとってきた.さらに,取る
に足りないような些細な問題まで,細やかに相談にのってきた.ビル経営者は,この飲食
店舗賃貸業は,ビル建設後は,いわば「よろず相談業」,「よろずサービス供給業」に徹し
ざるを得ない,と語っている.
「よろず相談業」
,「よろずサービス供給業」に徹しざるを得ない理由を,ビル経営者側
のリスクマネジメント側面で観察すると,「入居店舗のつなぎとめ」に帰着する.ビル側か
らの店舗側へ細やかなサービスを提供し,店舗の経営を安定的に繁栄させ,満足感を持っ
てもらい,継続的な入居を実現していく.このことでビル側も継続的に収益を上げていく
ことが可能となる.店舗側に満足感を持ってもらうため,つまり店舗の営業成績が良好な
状態を保てるために,ビル側は「よろず相談業」,「よろずサービス供給業」に徹するとい
うことが,ビル経営者の持論である.
例を挙げれば,入居店舗のつなぎとめの支障となる問題として,典型的なものは家賃問
題である.ビルの家賃が高いという理由で,事実,他ビルへ移転した店舗もある.ビル経
営者はこれらの経験から,事前にリスク情報として家賃に対する不満を収集し,店舗の経
営実情に合わせ家賃を調整する方法を取り入れた.
6)長期のコスト管理によるリスクマネジメント
ビル経営者は,用地取得資金やビル建設資金などの借入金を圧縮し,返済を確実に,ま
た可能な限り早期に完了させ,日常的なランコストを圧縮することにより,長期のコスト
管理を行ってきた.ビル経営者は,このことが財務面におけるリスクマネジメントの大き
な要素であると考えてきた.これは,3.3.3,1)で述べた,無借金経営を目指すこ
とへ繋がるものである.
70
ビル経営者は,企業努力により返済計画期間内であっても,可能な限り早期に返済を行
った.事実,S ビルの建設資金は 13 年返済計画に対して,12 年で完済した.ランニングコ
ストについては可能な限り経費削減を行い,いかに支出を抑え利益を出していくかという
ことに努力を集中した.
具体的には,電気料金を抑えるために,共用部の照明器具を省電力型に交換するなど,
ランニングコストパフォーマンスが上がるような努力を行った.また,上下水道を例にと
れば,50 年間供用させることを目標に上下水道インフラの保守管理を行ってきた.ビル経
営者の考えでは,50 年が経過すればビルおよび設備の償却も終了しているため,以降は利
益体質に持ち込むことができる,というものである.つまり,ビル本体や設備の設計段階
で,長期間供用が可能となる工夫を施すことにより,全体期間での初期投資の比率とラン
ニングコストを低く抑えることができる,というものである.
3.4 経営事例に対する考察
3.4.1 飲食店舗賃貸事業マネジメントの事例と分析
事例のビル経営者は,起業的には地域のトロフィービルを目指し,設計段階から様々な
アイデアを取り入れた.建築のイニシャルコスト,上下水道設備,電気設備,鉄骨など,
あらゆる建築に関する事項を,事前に関連業者と打ち合わせし,経費を削減することによ
って良好な結果となったと考えられる.
そして,ビルのコンセプトである清潔感,開放感,高級感,さらに店舗の安心と安全な
どを,実現,維持することができたことにより,長期の良好な店舗経営が可能となり,ビ
ルの持続的健全経営が可能となったと考えられる.
その他,マスコミと,いわゆる口コミを利用し,ビルのステイタスを伝えた結果,ビル
オープン時の店舗入居希望者が多数あり,満室に近い状態であった.
また,ランニングコストをできるだけ抑えるため,省エネ・省力化・人員削減が可能と
なる方法を考えた.例えば,共用電灯の電力を多く消費する部分の設備に関して,省エネ
タイプの電球に変更し,タイマーを付けるなど効率の良さを追求した.その結果,この部
分のランニングコストを,約 30%削減した.
省力化・人員削減などの件については,代わりになるサプライヤーをできるだけ使うこ
とによって,大きなコストダウンにつながったと考えられる.
ビル運営上の危機管理では水回りの汚水雑排を関連による定期的な清掃などの管理,防
火による管理,防犯も実際危機が起こった時に有効に使えるマニュアルを作成しておき,
サプライヤーや店舗との連携を強化して機能をいかんなく発揮することによってリスクを
減らし,ビル管理費のコストダウンに繋がっていると考えられる.
反社会的組織などの対策についても事前に店舗や警察の連携をとり風評被害対策,反社
会的組織などが介入した場合の対応,予防策も十分に行えた.
ビルの改修,メンテナンスについても7~8年に1回大規模なリニューアルを行い,ビ
71
ルの防水や点検・修理し塗装は1回につき3度の塗り重ねをし,内・外観とも綺麗に蘇り
結果として店舗からは評価され,ビルを長く使えるようにしている.税務上の償却残より
も長く使用できるということで,コストダウンにつながっていると言える.
顧客維持の観点から考えると入居者である店舗について,サービスの充実により経営が
安定され,店舗も顧客への満足度を高めるためにサービスクォリティを高くしている.会
社や経営者は店舗の入居者と本音で話し合えるタイトな関係を作ることによって本音の部
分での相談を受けた.
その際,家賃を支払う時は振込や不動産会社の集金によるものではなく,面談して家賃
をいただき,公私ともに浪花節的なものもあるが,親身になって相談にのり信頼と信用を
得ることができた.
店舗からは,他のビルやビル内の管理運営上の問題などの貴重な情報をもらい,ビルの
運営に反映させることができたと考えられる.また,他のビルの飲食店並びに業界の関連
の経営状態・管理状態を聞くこともできた.
関係が密になってくると,財務的なアドバイスについて,店舗を確実に経営するために
はどうしたら良いのか等の相談がよくある.そのような場合は,長期の健全経営の店舗に
ついて改装の相談があった場合など,資金の一部の援助や,借入金を銀行にかけあう等の
相談,また店舗改装や従業員の人心一新をはかり,店舗の顧客拡大に繋がる方向性を模索
した.
自分の代で終わることなく自分の子供に継続させる形もとられているが,今風な若い人
達にステイタス感を持たせることによって,ビルの価値観がまた高くなっている.
3.4.2 S ビル,S2 ビルの経営手法や内容の調査観察,および事象の因果関係の
考察
明確な目的意識を有せず行われてきたよろず相談は,店舗経営に関する事項や店舗経営
者のプライベートに関する事項の相談事に対応することにより,親密な信頼関係が調整さ
れ,良好な人間環境が形成されていった.
よってお互いにビルのコンセプトや共通の課題を文脈として共有し,諸問題に対処でき
る環境を作ることによって持続的経営がお互いに可能になっていると考えられる.
現在でもその関係は変わらずお互いに有益な結果がでてきている.このことは持続経営
に繋がっていると考えられる.
店舗のハイクォリティのサービスの信頼性や安定的供給の努力により,店舗顧客との良
好な人間関係が出来上がり,調整されることによって店舗顧客の長期的・安定的入店によ
り店舗経営が持続されていると考えられその持続は家賃収入につながり,長期的かつビル
の家賃が安定的に入っている.
S ビル・S2 ビルとも入居率がオープン以来,高位で推移している.業界では 60%が収支
バランスの分岐点であり,高い位置を示していると思われる.高級な店舗が長期的に営業
72
してきたため,ビルに対する高級なイメージが定着している.
事例ビルの立地地域は歓楽街の中心地として,近隣の市町村からの顧客に対しては認知
度が高い.タクシーに乗る客は S ビル前より乗車し,県内外の観光客が夜の街を散策する
時は S ビル前で車を降りている状態である.
S ビル・S2 ビルにおいても長期にわたり持続的健全ができているのは店舗顧客の長期的・
安定的な入居による店舗経営が持続されていることや,ビルの入居率の高位での推移によ
り高収益でビルの計画より早期に銀行の負債に対する借入金の返済をすることができた.
その結果,無借金経営ができたことが最大の要因だと考えられる.
73
第四章:飲食店舗賃貸事業の持続的健全経営の分析
4.1 三層構造のカスタマー・ロイヤルティの循環サイクル
4.1.1 カスタマー・ロイヤルティの循環サイクル
対象とした飲食店舗賃貸事業は 30 年に亘り健全経営を持続させられてきた.この持続的健
全経営は,事業関係者間の良好な相互ロイヤルティによって支えられてきたと分析できる.
図4-1に示すとおり,このサービス・プロフィット・チェーンを構成している関係者
は,ビル経営者,飲食店舗,エンドカスタマーの三集団である.当該事業にあってはサー
ビス提供事業者とサービス受給者間のチェーンとは異なる特異な構成にあったと分析でき
る.
エンドカスタマーにとっての
サービス・プロフィット
・チェーン
飲食店舗
図4-1 三集団のサービス・プロフィット・チェーン[61]
図4-1では,多重構造のサービス・プロフィット・チェーンを,ビル経営者,飲食店
舗,エンドカスタマー間の三つのサブ・チェーンによって記述している.すなわち,ビル
経営者とビルの入居者である飲食店舗間の<テナントにとってのサービス・プロフィッ
ト・チェーン>,飲食店舗とエンドカスタマー間の<エンドカスタマーにとってのサービ
ス・プロフィット・チェーン>およびビル経営者とエンドカスタマー間の三番目のサービ
ス・プロフィット・チェーンの三サブ・チェーンである.三番目のサブ・チェーンは陽に
は考慮されない隠れたサービス・プロフィット・チェーンとなっている.
これらはそれぞれがソリューション・サービスのチェーンとしても機能してきた.
三者は,ビル事業・飲食事業のマネジメント能力のスキルアップや,自分がおかれた社
会環境の中での対人関係の向上や評価の向上という,自分自身の価値を高めたいと願って
いた.それらの価値は,彼らが得る様々な経験を通して高められた.さらに,経験と価値
の向上を繰り返すことにより,新たな価値観が生み出される場合もあった.
筆者はソリューション・サービスのチェーンの議論にあたり,このソリューション・サ
ービスが三者に新たな経験の機会を提供していることに着目した.ここで提案した多重構
造のサービス・プロフィット・チェーンは,
「飲食店舗とエンドカスタマー」
,「ビル経営者
74
と飲食店舗」
,そして通常は陽に意識されない「ビル経営者とエンドカスタマー」という新
しいチェーンという三つのサブ・チェーンから構成される.
以下,これらのサブ・チェーンについて分析する.
4.1.2 3種類の法人格
ビル経営者と飲食店舗の間のチェーンを,詳細化して図4-2に示す.
飲食店舗
図4-2 ビル経営者と飲食店舗の間のチェーン[62]
ビル側と飲食店舗側の間には,
「収益を上げ,経営を持続させる」という共有される目標
が存在した.また,この二者の関係は,マネーを媒介した価値の交換や,様々なコミュニ
ケーション,様々なノウハウ提供などのサービスが行われる「場」と見ることができた.
もっとも単純な場内の交絡として「賃貸契約」の関係がある.次に「単純なサービスを
提供する場」
,さらには「全体的なサービスを提供する場」と発展した場を相互が認識して
いたと分析できた.
飲食店舗とエンドカスタマーの間のサブ・チェーンを図4-3に示す.
飲食店舗
図4-3 飲食店舗とエンドカスタマーの間のチェーン[62]
飲食店舗のエンドカスタマーは,飲食店舗から質の高いサービス(接客)を受けること
により,顧客満足度が高くなりロイヤルティを得ることになった.そのことがエンドカス
75
タマーの行動に価値を生み,さらにサービス(接客)を受けることを繰り返すことで飲食
店舗へのロイヤルティが増し,エンドカスタマーにとっての価値が高まることになった.
飲食店舗はエンドカスタマーへ質の高い接客サービスを提供することにより,飲食店舗
の経営者や一般に女性スタッフである従業員は,エンドカスタマーの満足した反応を感じ,
士気が上がり満足感を得る.そのことでエンドカスタマーからロイヤルティを得ることが
でき,店舗運営責任者や女性スタッフの実力が発揮できる場を創造することが可能となっ
た.この創造されたものは接客上のアメニティあるいは上質のホスピタリティである.こ
の場を通じて,サービスのさらなる向上が望め,接客サービスを繰り返すことにより飲食
店舗の価値が高まることとなった.
両者の価値が高まることは善良な人間関係を構築することである.信頼関係で価値を認
識したエンドカスタマーが,他のエンドカスタマーを飲食店に紹介することで飲食店舗エ
ンドカスタマーは増加することとなった.
このサブ・チェーンは飲食店舗の経営を安定させ持続することに繋がった.
4.1.3 健全事業継続のための重構造の循環サイクル
新しい発見の隠れたサブ・チェーンは事例の持続可能な経営モデルを説明するための重
要な分析結果であった.それはビル経営者とエンドカスタマーとの間の隠された相互関係
であった.
ビル経営者とエンドカスタマーの間のチェーンを図4-4に示す.
飲食店舗
図4-4 ビル経営者とエンドカスタマーの間のチェーン[62]
ビル経営者は自身の個人あるいは所属組織のネットワークを活かし,知り合いをエンド
カスタマーとして,飲食店舗の宣伝や飲食店舗へ誘導を行い,彼らをリピート客とする努
力を継続した.飲食店舗へ地域の顔役や著名人を連れていくことで,店のサービス水準の
76
印象を向上させた.さらに,飲食店舗の既存客から,また高水準のサービスに通暁した新
規紹介顧客から,飲食店の改善点を聞き出し,店舗の経営改善に反映させるよう勧告を行
った.
関係者の行動を観察した結果,ヘスケットの言う「直接的に利害関係にある事業者とエ
ンドカスタマーの間のサービス・プロフィット・チェーン」[34]に留まらず,間接的な関係
にあるはずのこの二者の間に,隠れた第三チェーンの交絡を見出した.このサブ・チェー
ンの存在が持続的健全経営に,良い効果を与えたと考えられる.
4.2 「場」
:貸しビル事業の継続健全経営のプラットフォーム
4.2.1 「場」の既存研究モデル
ビル経営者側と飲食店舗側の関係は野中の指摘する「場」の概念[32]で説明することがで
きる.この両者の間には,
「収益を上げ,経営を持続させる」という共有する目標が存在し,
この二者の関係は,金銭を媒介した価値の交換や,様々なコミュニケーション,様々なノ
ウハウ提供などのサービスが行われる「場」の上になりたっていることを前節で述べた.
ビル経営者と飲食店舗との間には,「賃貸契約関係」や「単純なサービスを提供する場」
の単純な場が存在する.ただ,これらの場に留まらず,さらに「全体的なサービスを提供
する場」へと発展した場も認識できた.最後の,
「全体的なサービスを提供する場」は「ソ
リューション提供の場」と見ることもできる.この「場」への発展は,経営目標の共有度,
賃貸のビジネス実績の累計額の2項と強い相関を持つ.経営目標の共有度はサービス提供
事業にあっては,サービスの需給関係にある「顧客関係の密度」と捉えるのが簡明である.
この顧客関係の密度が高まるに応じて,
「場」が発展する.顧客関係の密度と場の拡大を図
4-5に示す.
図4-5 顧客関係の密度と場の関係
顧客関係の密度が高くないサービスの需給関係の成立直後は,図4-5の段階Iであっ
て,両者に「基本的な賃貸契約」が成立したのみでソリューションの「場」も大きな機能
77
は発揮できていない.しかしながら,サービス需給の関係が続くのに応じて,顧客関係の
密度は次第に高くなる.結果として,ソリューションの「場」として機能する機会や効能
が増大し,図4-5の段階Ⅱに達する.この段階Ⅱはソリューションの場が形成され,機
能を発揮している状態である.この顧客関係の密度と場の形成度合は
明らかに正の相関があり,サービスの需給関係が長く継続あるいは安定するに至って図4
-5の段階Ⅲに達する.この段階Ⅲの状況は サービスの需給者間に「日本的心情にまで
踏み込むソリューション・プラットフォーム」が形成されている.
事例ビル経営上の典型的な需給サービス群は,今では数多くの具体的なサービス群と
して,実質メニューとして出来上がっている.これは 30 年以上に渡って,ソリューション・
プラットフォームとなる「場」を形成するとの維持思想に根差して有形無形の様々なサー
ビスの追加がなされた結果である.個別の需給サービスの改善を続け,有効なものにして
きた.後になって追加されたソリューションとしては,よりプライベートな内容の相談事
に対応するようになってきたことが挙げられる.具体的には店舗オーナーの子どもの就職
や結婚に関する相談事等である.これらのソリューション・サービスの提供は正に日本文
化の中で,双方の心情の共感にまで踏み込んで行われてきた.但し,このようなプライベ
ートな相談事は,ほとんどが 10 年以上入居し,濃密になった店舗であった.
ビル経営者としては,さらに親密な関係を構築し,
「場」の拡大をはかるために,ビジネ
スに直接関係のない事柄についても相談を引き受けた.その具体事例としては,料金設定
の柔軟な対応の例が挙げられる.当初は,ブランドイメージを高めるために,同地区の一
般的なビルと比較すると,敷金は約 3.5 倍,家賃は約 1.4 倍と高く設定してきた.しかし,
5~10 年と店舗顧客が営業を継続してきた過程では,経営的に厳しくなる店舗も現れた.こ
のような場合に,
「営業を継続してもらう」ことを最重要課題にし,それまでの高い料金設
定を下方修正するなど,柔軟に飲食店舗テナントに応接した.この条件は,店舗が少なく
とも 5 年以上営業を継続していること,また以降も 5 年以上営業を継続してくれる見込み
のあることであった.
4.2.2 飲食店への貸しビル事業の特異性
飲食店への貸しビル事業には特異な点がある.普通の貸しビル業の場合にあっては,単
なるスペース貸しが基本である.しかし,一般に歓楽街に位置する飲食店舗ビルは単なる
スペース貸しとは異なる.その違いは以下の点にある.
まず,飲食店舗入居者をある条件を設定して選定する必要がある.店舗経営者となる入
居責任者のパーソナリティは重要な選定要件である.明るく・ポジティブな性格,好感の
持てる雰囲気の入居者の比率を高めることが重要である.また,財務的裏づけとして自己
資金を十分準備できる入居者であることが望ましい.この入居者の資金は店舗内装費,電
気設備および什器備品などに充てられる.この資金が不十分では,「トロフィービルで高水
78
準のサービスを提供する」との本事業ビルの比較優位を実現できない.入居交渉の際には,
入居希望者に銀行への借入れなどがある場合は返済計画と,その返済計画の根拠となる飲
食店事業のビジネスプランを提出してもらった.入居希望者が持続的に飲食店舗経営がで
きるかを判断して,入居者選定を行った.勿論,入居希望者のビジネス・モチベーション
も確認した上で契約を交わした.
また,別の特異な事項も挙げられる.
入居する飲食店舗群の相互関係について考慮が必要な点である.店舗賃貸を行うビル経
営者にとっては,財務裏付けが十分で,店舗ビジネスプランが妥当な入居者を多く集めた
い.しかし,単に賃貸スペースの契約充足の高さだけを求めてはいけない点である.飲食
店舗群は基本的に競争関係におかれる.賃貸契約者として安心できても,同じようなビジ
ネス特色を目指す入居者群だけを集めてしまっては,店舗ビジネスの勝敗が顕著になって
いき店舗賃貸ビル全体としてのエンドカスタマーによる活性化が損なわれる.入居者群と
して飲食店ビジネスに特色や個性の拡がりを希求しなければならない点である.加えて,
品質の高いサービスとおもてなしができるトロフィービルを目指す以上,他のビルとの比
較をしながら,ビルの各飲食店舗に入店するエンド顧客の動向にも注視し,調査と分析に
基づく方策を実施し,競争優位を勝ち取らねばならない.飲食店ビルの競争優位に繋がる
情報交換と情報共有を続けるマインドを賃貸事業の需給関係者双方が持ち続ける必要があ
る.
4.2.3 持続健全経営のプラットフォームとしての昇華
ビル賃貸事業経営は単に賃借関係でプロパティを貸すというだけではなく,飲食店舗を
パートナーとして考えて共生していく事が重要である.
ビル経営と飲食店舗側には,
「収益を上げ,経営を持続していく」という共有される目標
が存在する.共に持続経営を目指すことは飲食店舗賃貸契約時に説明をして合意を得てい
る.
ビル賃貸事業者の飲食店舗へのサービスは,入居・開店相談時より始める.例えば,店
舗設計・内装業者の斡旋・看板・カラオケ・飲食品のサプライヤー紹介など,一般的な相
談を受けることから始まる.
次に,持続経営のために帳簿整理・確定申告・銀行融資などの財務問題,リスクマネジ
メント,店舗スタッフや女性従業員などの人材紹介,加えて,可能な限りのプライベート
な相談に応じる. したがって,サービスの質が段階的に向上していき,革新的サービスへ
と繋がるので昇華していると考えられる.そのことは,飲食店舗への総合的なソリューシ
ヨン・サービスを行っていることでうかがい知れる.また,その中には地域あるいは地方
独特の文化的要素や日本人特有の心情に根差した浪花節的要素も含まれる.
お互いが持続的経営を前提にして,ビル側が飲食店舗と目標を共有し常に濃密な関係を
維持する.そして,経営に対しての問題点を早く相談できる間柄になり,迅速に解決する
79
など創意工夫ができる関係をつくる.
4.3 スパイラル状のイノベーション連続
4.3.1 カスタマー・ロイヤルティの向上・維持
事例ビル事業に関するカスタマー・ロイヤルティの属性について述べる.飲食店舗賃貸
事業の基本のカスタマー・ロイヤルティは貸しビルに入居するテナントに対する事項が第
一義に重要である.そのカスタマー・ロイヤルティの助長要素を表4-1に示す.
80
表4-1 カスタマー・ロイヤルティの助長要素
ビルへの評価(ハード面)
属性
事象・内容
性
カ
ス
タ
マ
ー
・
ロ
イ
ヤ
ル
テ
ィ
の
助
長
要
素
優性
位
信性
頼
持性
続
関連する経営要素
密性
着
有性
効
即
効
コ
ス
ト
歓楽街での立地条件
○
○
ブランド性(ビルのネームバリュー)
○
○
社会的評価・風評など
○
安
全
○
安
心
信
用
○
機能・定期点検など
○
○
設備・防火など
○
○
危機管理
○
○
防犯対策
○
○
ビル周辺への地域参加
○
○
定期的なビル改修
○
○
○
ビル周辺の自社駐車場
○
家賃
○
○
○
即
効
コ
ス
ト
テナントへのサービス(ソフト面)
属性
事象・内容
性
カ
ス
タ
マ
ー
・
ロ
イ
ヤ
ル
テ
ィ
の
助
長
要
素
優性
位
信性
頼
持性
続
関連する経営要素
密性
着
有性
効
安
全
安
心
品質
○
○
入居店舗からの相談
○
○
入居店舗へのアドバイス
○
信
用
○
○
入居店舗への援助
○
○
○
入居店舗からの要望
○
○
プライベートな相談
○
○
入居店舗からの経営相談
○
○
○
入居店舗への顧客誘導
各種イベントの開催
○
○
○
○
○
○
これらのカスタマー・ロイヤルティには貸しビルそのもののハードウェアの面に関する
事項と,テナントに対するサービス,すなわち,ソフトウェア面の事項がある.
表4-1では,これらテナントとのサービス・ロイヤルティに寄与度の大きい事項につ
いて属性と関連する経営要素とを示した.
ビルへの評価は信頼性が多く,続いて優位性と有効性が多かった.また,関連する経営
要素としては安全と安心が多く,コストと信用があまり変わらない.そして,サービスへ
81
の評価は信頼性が最も多く,ほかに有効性などがあった.さらに,関連する経営要素とし
ては信用が最も多く,安全と安心が続きコストもあった.
店舗の賃貸契約を締結した後,顧客である店舗は,高いサービス水準の設備および環境
を利用しながら,併せてソフトウェア面の高いサービスを受ける.提供されるハード・ソ
フト両面のサービスに満足し結果として,ロイヤルティを得る事になる.ロイヤルティを
得ることで価値が分かり,さらに付加価値の高い経験をすることによって,一連の循環サ
イクルが成り立つわけである.その経験とは,ビル全体の事でなく,実際は個々の店舗の
問題として起きた場合でも,サービスの一環として,例えば,店舗より急に汚水管が詰ま
って営業が出来ない,また,電気が通じ無いなど連絡がある.そこで,汚水雑排の処理や
電気系統の処置などは緊急を要するわけである.汚水雑排の処理は真夜中であろうと緊急
に処理をする.電気系統は特に台風時や梅雨時期に多く発生するが素早く対処する.店舗
は安心で安全に営業ができることが一番であり,危機管理等が質の高い重要なサービスと
なってくる.
カスタマー・ロイヤルティの経営の要素としては,ビルとサービスとも安心で安全な信
頼性が重要であることが明らかになった.
4.3.2 スパイラル状のイノベーション
本研究の事例である飲食店舗賃貸事業においては,32 年間健全な経営が持続されてきた
事実が認められた.これは前節のテナントのサービス・ロイヤルティに繋がるビル賃貸側
のサービス群を継続して,各テナントに提供し続けてきたことがその要因となっている.
これらのテナントに対するビル賃貸事業者サービスの方向性を図4-6に示す.サービス
はハード面もソフト面にも亘り,個別のサービス実施事例はその方向性がそれぞれ異なっ
ていることを示している.
図4-6 テナントに対するビル賃貸事業者サービスの方向性
82
これらのテナントに対するサービス群は必ずしも当初から提供を予定していたことでは
ない.ビル賃貸事業の継続のなかで発生・拡大させてきた事項が多い.すなわち,これら
のサービス群は経営継続の中の経営イノベーションとして実施されてきた事項群である.
具体的な店舗経営者に対してのソリューション支援実施事例を挙げてみる.
古くなった店舗の改装支援は持続的にサービスの質発展に寄与させた改装のソリューシ
ョン支援例である.店舗内のトイレ改装実施があった.飲食店経営ではエンドカスタマー
を接客する女性従業員の満足も重要である.小さいことではあるがトイレの設備は女性従
業員にとって重要である.そこで,和風式から洋風への改装や,最新の自動化されたウォ
シュレット型トイレに変更するなどの改善勧告を店舗にだして改善してもらったことが数
例あった.それらの際は,ビル経営者側から全額ではないが資金援助を行った.この改装
は
店舗の女性従業員の満足だけではなく,エンドカスタマーとして来る女性の満足も獲
得することになる.その結果,この店舗は綺麗で清潔であり,良好な職場環境であるとい
う評判が口コミで広がり,優秀な女性従業員が集まる.これによりサービスが向上し,顧
客満足に繋がる.さらに,女性従業員たちも気持ちよく接客をしてくれることにより,店
舗のオーナーや店舗運営責任者は,ビル経営者からの改善勧告や助言に対して信頼感を増
していく.これらのことを積み重ねていくことにより,その店舗にエンドカスタマーが多
数入ってくることになり,さらに双方の信頼感を増す.この信頼関係はスパイラル化して
広がっていき,この効果は現在も続いている.
また,店舗の後継者を探したいとの相談があった場合は,ビル経営者は,店舗が満足す
るような方策を考えて助言を行ってきた.例えば,次の店舗運営責任者を探すことへの協
力,もしくは店舗経営している店舗運営責任者の子供が入居するなどの手助けを行い,親
子二代にわたって店舗経営をしてもらった例が数件ある.こういうソリューション支援は,
ビル経営者に対する店舗経営者からの信頼があり,彼らからの信頼が増すことによって相
談がさらに増えた,物理的あるいは金銭的な援助をすると共に精神的なサポートにも留意
しながら,お互いの信頼感が増していくことができてきた.
このように,ビル経営者が経営上のイノベーションを断続的に継続させ,同時に,店舗
経営者に対するソリューション支援を長きに亘って繰り返した.イノベーションをスパイ
ラル状に展開することで,ビル側と店舗側の双方の,経営の質の向上がはかられてきた.
4.3.3 動的なイノベーション連続モデル
飲食店舗の賃貸契約が成立し入店時に普通の相談を受けることになる.その後第2段階
としてタイトな関係になることにより身近な存在になり,店舗経営の相談を受けることに
なる.さらに次の段階としてよりタイトな関係になると,プライベートな一切の相談にの
り問題解決に尽力する.そのプロセスでイノベーションが行われる.
例えば,入店時は開業までの資金の手当や内装・設備・従業員探しなど相談を受ける.
その後,店舗が開店すると店舗を継続するための相談を受ける.その中には顧客をいかに
83
取り込むか,あるいは増加させるかの相談もある.また,接客をする女性従業員を探して
ほしいとの要望もある.その際,ビル経営者とテナント関係者が共同して,顧客ロイヤル
ティに富み,サービスやおもてなしの能力のある女性従業員が探された.
店舗の内装は定期的に改装される.その際には可能な限りのコストダウン策を提案する.
また,知り得ているビルの内外店舗情報を知らせたりもした.プライベートな相談事や店
舗経営には直接関係のない事項も含めて相談にのった.また後継者の推挙や,店舗経営者
の子供の結婚問題の相談にも応じた.良好なテナントとのサービス・ロイヤルティが維持
できて,子供さんの結婚式の媒酌人を務めたこともある.
誠意を持って問題解決をはかることにより,店舗が持続的に維持されていく.可能な限
り負担のかからない店舗経営が助言され,ビル経営者とテナント関係者が共同して問題解
決のための努力を行い,常にイノベーションの連続がはかられてきた.
4.4 事業成長から見えてくる持続的健全経営モデル
研究事例の事業成長を事業の節目を段階的に捉えてその事業経緯を考察する.
該事業の経営の質と収益性の拡大の度合から事業経緯を俯瞰すると五段階を経て,経営を
持続させてきたと捉えることができる.
第一段階の創業期.(1974 年~1979 年) S ビルの1・2階オープンまで
建設用地の調査と評価分析を行った.建蔽率や容積率などの建築基準法による土地の高
度利用(水平展開から垂直展開への飲食店舗の集積化)を念頭において計画・企画・設計
をした.その際,ビルのコンセプトは,白を基調にした清潔感あふれる,ステイタス性を
重要視した.次にテナント入居者の選定を行った.続いてビル建設の資金調達.イニシャ
ルコストの削減を最大に考えた.経営理念に基づいた,最小コストで最大の利益を上げる
ことに基づいたものである.
この段階の最大の課題は,ビル建設の資金調達と入居者の選定及びイニシャルコストの
削減であった.
第二段階.(1980 年~1981 年) S ビル全階オープンまで
S ビルが全階オープンしておらず,ホテルにするか飲食店舗するか決めかねていた.そこ
で,中心歓楽街の飲食店舗の状況を分析して市場調査をした.その結果,市場の拡大が望
めるためビルの全階を飲食店舗にすることに決定した.その際,ビルのコンセプトに開放
感を追加した.そのために,ビルのエントランスの間取りを広くして,ビル前面部と階段
部を 4 階までを吹き抜けにした.そして,安心してテナント経営ができ,防犯・防火・反
社会的組織対策が整った,危機管理が整備された安全で安心なビルを標榜しテナントの募
集を行った.
テナント入居者に対しては,濃密なコミュニケーションをはかり,店舗の新装資金・人
84
材・経営・プライベートなど多岐にわたり相談を受ける.またテナント入居者に,ビルの
ステイタスに対する自負心と,顧客(飲み客)に最高のおもてなしやサービスを提供する
よう要請し指導をした.
そのほか,常に地区の自治会と連携を取り合い,地域の防犯・防火に積極的に取り組み,
地域にとって安全で安心なビルとして認識してもらう.
ここでの課題は,明るく,清潔な雰囲気創りと安全で安心なビルづくりのために,テナ
ントに対して何でも相談できる濃密な関係づくりをすることだった.
第三段階.(1982 年~1988 年)S2 ビルオープンまで
事例ビル内の飲食店舗の満足度調査を行う.檀家まわりと称して各テナントを顧客とし
て訪問し,聞き込み調査を行った.その結果,テナントへの上質なサービスの維持,ビル
管理運営や危機管理の徹底などを行う.また,ビルとテナント群のコミュニケーションに
役立つような自治会を組織してもらう.そして,各種イベントを開催して,自治会との連
携をはかり成功に導く.そのほか,異業種間交流会や同好会の発足である.このことは,
エンドカスタマー増加へ繋がり,ビルへの安定的なエンドカスタマー供給源としての役割
を果たす.そのほか,ビルのランニングコスト削減の徹底,高い入居率の維持などが挙げ
られる.
また,S2 ビルの構想を練った.コンセプトとしては,何でも一番のトロフィービルを目
指す事にした.白を基調にした清潔感・開放感・高級感のあふれる企画を念頭に設計・施
工した.そして,トロフィービルにふさわしいテナント入居者の選定を行った.
ここでの課題は,テナントとより濃密な関係を作ること.上質なサービスの維持と高い
入居率の維持.そして,トロフィービルにふさわしいテナント入居者の選定が挙げられる.
第四段階.(1989 年~2009 年) AXS パーク・AXS2 パーク(駐車場)オープンまで
収入の安定化をはかるために,更なるテナントとの濃密化によるコミュニケーションの
維持に努める.テナントがロイヤルティを感じると,関係性(リレーションシップ)が持
続できるので,ビルにとって好結果を出すからである.そのためにも質の高いサービス,
危機管理の徹底や上質なビル管理・運営をした.
さらに,ランニングコストの削減と収入の安定化を最大の目標としていた.そのために
も高い入居率の維持が肝要であった.
課題としては無借金化を目指し経営の安定化と持続的健全経営をすることであった.
グレイナーの成長の5段階モデル[17]を引用し,筆者が加筆した飲食店舗賃貸ビル事業の
成長プロセスを図4-7に示す.
85
図4-7 飲食店舗賃貸ビル事業の成長プロセス
縦軸に経営の質と収益性,横軸に時間軸をとっている.それぞれの段階で時間をフェー
ズごとに区切っている.段階ごとにキーワードを入れていくと,そこから知見できるのは,
他のビルにない質の高いカスタマー・ロイヤルティや,関係性パラダイムなどのコアの部
分の優位性である.また,テナントへのサービスの信頼性.そのほかに利益率の高さやラ
ンニングコストの削減,高位のテナント入居率維持などから飲食店舗ビルの事業成長がみ
えてくる.これらのことから,安定的な持続性を持った飲食店舗ビル経営の姿がみえてく
る.このことは持続的健全経営とみることができる.
これらのことから,本研究事例は,組織的・規模的(量的)拡大よりも質的(コアな優
位性)拡大と変革を,より重要視した経営の一例であると考えられる.そして,それらを
30 年以上継続させた手法が大きな特徴といえる.このことは,持続的健全経営にあたると
考えられる.
86
4.5 店舗賃貸事業の持続的健全経営モデル
グレイナーが企業の成長を組織拡大に見ているように[16],ほとんどの企業は組織拡大や
規模拡大を目指して経営している.確かに,数や量的拡大は重要な事である.しかし,コ
アとなる質の高い技術やサービスを持っていれば,企業にとって強力な武器となる.その
技術やサービスの質的拡大や継続によって,企業は安定して持続経営ができることになる.
本研究事例は,飲食店舗賃貸事業を組織や規模の拡大という視点ではなく,質,すなわ
ちコアとなる優位性事項の拡大と変革という視点でとらえた場合,飲食店舗ビルを対象と
する独特の事業経営といえる.その経営手法は,イノベーションの連続からなるサービス・
プロフィット・チェーンとして,事業に関わる三つの集団の関係性を分析した事にある.
そして,その経営手法が持続的健全経営にあたると考えられる.そこで,持続的経営の過
程において,経営を持続可能にした要因を列挙する.
まず,経営者の経営理念の中には組織や規模などの量的拡大でなく,質的な拡大と変革
を遂げながら会社を持続させるということが,重要であるという考え方があった.
(1)経営理念
ビルのイメージとしては安全で安心して飲食店舗が経営できるようなビルを目指し,ビ
ルのコンセプトは清潔感,開放感,高級感のあるビルであること.そしてトロフィービル
を目指した点にある.
また,ビルの経営を全国展開するなど,組織や規模を大きくするのではなく,高いサー
ビスの質的拡大と変革をしながら,ビルの経営を維持させるということであった.そして,
何よりも,可能な限り早期に借入金の返済をし,無借金経営をして会社を健全に持続させ
る事であった.
実際 2001 年から企業努力により無借金経営に転じることができ,持続的健全経営がなさ
れている.
(2)コア・コンピタンス
ビルは一度建設してしまうと移動することができない固定資産である.したがって,飲
食店舗賃貸ビルの立地条件としては,その街の歓楽街の中心となりうる場所を特定して建
てることである.このことは非常に重要である.
例えば東京では銀座・赤坂,札幌ではススキノ,大阪ではミナミや北新地,福岡では東
中州などである.さらに,その中でも歓楽街通りの,中心的なポイントは数が少なく,一
点に集中していることである.
そのことを念頭に置き,佐賀でのポイントを S ビル建設予定地に特定した.そして,そ
こを中心に佐賀の歓楽街が発展するように仕掛けた.それは水平展開している飲み屋街を
垂直展開して集積することであった.
87
S ビルは,タクシー客の昇降の主要地点であり,ビル名の知名度は高い.このように,現
在でも歓楽街の中心は S ビルであり,そのことが最大のコアとなる部分であると言える.
二つ目はビルの形状や使い方である.一度建設してしまうと形状や雰囲気は変えること
が容易ではない.そこで,顧客が好んで入りやすいような雰囲気のエントランス造り,「闇
の世界」の臭いがしないビルを考慮して建設することであった.そして,ステイタスのあ
るトロフィービルを建設した結果,いまでも歓楽街の中心であり,存在感のある飲食ビル
として,人気が長く続いている.そのことがビルのコア・コンピタンスと言えると考えら
れる.それらのコア・コンピタンスにより,今でもビルの価値が継続しており,ビル事業
の持続的経営に繋がっていると考えられる.
(3)関係性パラダイムの確立と維持
関係性パラダイムはただ単に飲食店舗のスペース貸しではなく,より長期的・継続的な
契約関係を維持する事で,長期的な相互ベネフィットを得る事であるから,信頼関係と相
互理解が重要である.そこで,ビル経営者は店舗経営者と何でも相談できる濃密な関係を
構築し,維持してきた.
当初は月に一度,月末に家賃を払う際に,一般的な相談事や店舗の経営上の問題などの
相談から始まった.その後,ビジネスに直接関係のないプライベートなことも相談がある
ようになり引き受けた.
具体的には飲食店舗経営者や店舗運営責任者,従業員のプライベートな相談である.子
息の就職や結婚に関する相談事,家庭内のもめごとや離婚話などである.さらに濃密な関
係を構築するために,ビジネスに直接関係のない事柄についても相談を引き受けた.そし
て,人間目安箱になってよろず相談などをした.
したがって,これらの事で濃密な関係ができ,信頼され関係性パラダイムが構築され維
持されていると考えられる.このことが,ビルの持続経営に繋がっていると考えられる.
(4)ロイヤルティの確立
顧客満足は高い水準の価値を実現することにより発生し,高くなり,顧客の忠誠が形成
される.また,価値は顧客と良好な関係を持った,忠誠心のある,生産性の高い従業員に
よって作られる.そして,従業員満足の向上に繋がり顧客ロイヤルティの高さに好影響を
与える.
飲食店舗側と顧客との間で,飲食店舗が他のビルの店舗にはない,素晴らしいおもてな
しを顧客に提供することにより,顧客はクォリティの高いサービスの価値を経験するわけ
である.経験をすることによって満足度が高められロイヤルティを得る.ロイヤルティを
得ることによってさらにクォリティが高まる.そして,更なる価値をうみ,満足度が高ま
り,ロイヤルティを得て,サイクルが循環する.
飲食店舗に対してのロイヤルティに繋がれば,従業員もサービスの提供に励み,顧客が
88
満足する.満足している状態を認知し,経験することにより従業員も満足する.従業員が
満足した後に,店舗経営者自身もロイヤルティを得る.店舗経営者自身がロイヤルティを
得ることによって,さらに知識を蓄え,経験を重ねることによって,サービスの向上がは
かられる.
これらの循環が回を重ねるごとに,ロイヤルティを形成する上でより高まることになる.
そのことで飲食店舗との関係が上手くいき,持続経営に繋がっていると考えられる.
(5)高いサービス・クォリティ
飲食店舗へ質の高いサービスを供給する事により信用と信頼を得る事が重要である.
そして,店舗は安全で安心して営業ができることが一番重要である.
例えば,各店舗の責任に於いて処理をしなければいけない問題が起きたとしても,サー
ビスの一環として適切に対処する.具体的には,店舗より急に汚水管が詰まって営業が出
来ない,電気が通じ無いといった連絡がある.そこで,汚水雑排の処理や電気系統の処置
などは緊急を要するわけである.汚水雑排の処理は真夜中であろうと緊急に処理をする.
電気系統は特に台風時や梅雨時期に多く発生するが迅速に対処する.
そのように,質の高いサービスを供給すると,安全で安心して店舗営業ができることに
なる.そして,信用と信頼を得る事になりその結果,ビルの持続経営に繋がったと考えら
れる.
(6)ビル経営者とエンドカスタマーの関係
ビル経営者は自身の個人的な繋がりや,入会している各種団体,組織を活用している.
それらは,経済団体,任意団体,異業種間交流会,同好会,さらには単なる仲間内の飲み
会なども含まれていた.そこに集まる人々に,ビル飲食店舗のエンドカスタマーとして,
来てもらえるように喧伝をした.また,自身のネットワーク(個人・組織)を活かして,
知人をエンドカスタマーとして,飲食店舗の宣伝や飲食店舗へ誘導を行い,リピート客と
なした.さらに,飲食店舗へ地域の顔役・著名人を連れていくことで,店舗のイメージを
アップさせた.
そして,ビルへ来訪したエンドカスタマーには,どの店舗に行っても,素晴らしい,質
の高いサービスが受けられることを体験して貰った.さらにそこでは,ステイタスな気分
を得られることもでき,高級感あふれる雰囲気を味わうことを体感することができた.そ
のためにビル経営者自身が,飲食店舗に顧客を送り込むという直接行動策をとった.その
結果,誘導したエンドカスタマーが該当飲食店舗で同好会や懇親会を開催している.
さらに,現在まで同好会や懇親会が約 20 年以上も続いている飲食店舗も数多くみられる.
また,飲食店舗の既存客から,店舗の改善点を聞き出し,飲食店舗の経営改善に反映させ
たこともある.これらのことが持続経営に繋がっていると考えられる.
(7)共通の目標共有と場の関係性
89
ビル経営者と飲食店舗との間には,もっとも単純な場として「賃貸契約関係」がある.
次に「単純なサービスを提供する場」,さらには「全体的なサービスを提供する場」と発展
した場を認識することができた.最後の,「全体的なサービスを提供する場」というものは
「ソリューション提供の場」とみることができた.
事例のビル経営者の場合は,飲食店舗との関係を,ソリューション・プラットフォーム
として十分に機能させ,飲食店舗にソリューションを提供するとともに,自身の経営の質
も向上させてきた.そのことが持続経営に繋がっていると考えられる.
(8)飲食店舗入居者の選定
パーソナリティはきわめて重要である.明るく・ポジティブな性格,好感の持てる雰囲
気の人を重要視した.また,財務的裏づけとして自己資金がどれくらいあるのか.これは
店舗内装費及び電気設備・什器備品などに充てられるものである.また,銀行への借入れ
などがある場合は返済計画(ビジネスプラン)を提出してもらい,持続的に飲食店舗経営
が可能か判断材料とする.勿論,モチベーションも重要なので意思を確認した後に契約を
交わした.
その結果現在までに,S ビルの落成時より営業している飲食店舗は,30 年以上が 7
店舗,20 年以上 4 店舗,10 年以上 5 店舗であった.
S2 ビルの落成時より営業している飲食店舗は 20 年以上が 7 店舗,10 年以上 6 店舗であ
った.
以上の結果を考えると,持続経営にはビル入居者の選定はきわめて重要なことだといえ
る.
そして,これらのことが持続経営に繋がっていると考えられる.
(9)危機管理の徹底
ビル経営者は,安全と安心感の追究については,危機管理が最重要課題であると考えた.
飲食店舗及びビルのハード面に関して,上下水道,電気,ガス,等のインフラのトラブル
に対しては,迅速に対応することを心がけた.例えば,店舗内の下水配管が詰まった場合
や,ガス器具などの機器が故障した場合は,契約上は飲食店舗側の責任領域ではあるが,
すぐに対応をする体制をとり,飲食店舗の営業に支障が出ないように努力した.対応の体
制とは,各種工事の業者と日頃から連携をとり,夜間でも緊急工事に対応してもらえるよ
うな関係を構築したことなどが挙げられる.
またソフト面では,ビル経営者や飲食店舗経営者に対する反社会的組織の脅しや,いわ
ゆる「みかじめ料」の取り立てなどについてである.対策については事前に飲食店舗や警
察との連携をとり,風評被害対策なども含めて基本的にビル経営者側の方で対応した.そ
の結果実質的な被害はなかった.
その他,防火管理,防犯管理をはじめ安全で安心のためのビル管理を行ってきた.
90
そのような危機管理が店舗の安全と安心を保障し,ビルの持続経営に繋がってきたと考え
られる.
(10)高位の飲食店舗入居率
規模の大小はあるが,一般的にスペースレンタルの賃貸ビルでは入居率が 60%あれば経
営が成り立つと言われている.そのような中で S ビルは 1979 年の完成時は 1F,2Fのみの
営業であり,入居率(対全床面積)は 62%だった.その後入居率は順調に上昇し,6 年後
の 1985 年には 3F,4F をあわせ 100%になった.ビル完成から現在までの 32 年間の平均入
居率は 87%であった.
S2 ビルの 1988 年完成時の入居率 73%,入居確定飲食店舗を含めると 100%であった.ビ
ル完成から現在までの 23 年間の平均入居率は 86%であった.
S ビル,S2 ビルの入居率の平均は,32 年間で 85%であった.
したがって,長期的にきわめて高い入居率を維持することができており,利益を長年得
ることができ,持続経営に繋がっていると考えられる.
(11)高い利益率
S ビル,S2 ビルの利益率の推移を見ると,1981 年~2009 年の 29 年間の平均は 55%であ
った.これまでにバブル期や長期的不況など,経済的な環境変化や様々な社会的変化にも
関わらず,これだけの利益率を確保することは,投資対効果をみても質の高い利益を計上
したことになる.
このことは長期的に高位の収益が確保でき,持続経営に繋がっていると考えられる.
(12)イニシャルコストの削減
賃貸ビル事業においてイニシャルコストは非常に重要なことである.そのコストから収
支計算をして,金融機関への返済や経営の長期的計画を考えるからである.
研究事例ビルについては,着工の 2 年ほど前からビル建設計画を立案している.その際,
設計段階でいかに建設費を抑え,ビルの建設をするか考えている.
そして,設計士のみならず設備関連業者,電気工事関連業者,鉄骨関連業者に相談をし
ながら,ビル経営者はビルの建設コストを可能な限り抑制する努力をした.
例えば,電気設備関係において,キュービクル(変電施設,高圧受電施設)は本来ビル
側(電力消費が単体の場合)が費用を負担し,ビル内に設置するのが常である.そこで電
力会社と交渉(電力消費ケ所が個別に数十あり)を行い,設置場所を貸与し,キュービク
ル(変電施設,高圧受電施設)設置費用を電力会社に負担させた.したがって,電気工事
関係は必要最小限のイニシャルコストで済ませることができた.現在でも維持管理・運用
は電力会社が行っておりビル側の負担軽減に大きく寄与している.
また,鉄骨関連については,過去に小規模の鉄工業関連の事業経験があり,その専門的
91
知識を活かすと共に,人間関係を駆使して大きなコストダウンに成功した.したがって,
イニシャルコストを削減したことで持続的経営がより可能になったと考えられる.
(13)ランニングコストの削減
企業努力により,返済計画期間内であったが,金利負担も有り可能な限り早期に金融機
関への返済を行った.また,ビルのメンテナンスや保守管理コストを可能な限り低く抑え
経費削減を行った.
そこで,省エネ・省力化・人員削減のできる方法を考えた.具体的には,電気料金を抑
えるために,共用部の照明器具を省電力型にすることやタイマーを取り付けるなど,効率
の良い省エネ策を講じた.その結果コスト削減に大きく寄与した.付け加えておくと,キ
ュービクル(変電施設)は現在でも維持管理・運用は電力会社が行っており,ビル側にと
って大きな負担軽減に繋がっている.
また,省力化・人員削減などの件については,代わりになるサプライヤーをできるだけ
使うことによって,コストダウンを行いコストパフォーマンスが上がる努力を行った.そ
の結果大きな削減になり,ビルの持続経営に貢献していると考えられる.
(14)自治会組織
飲食店舗の相談事を受け続けているうちに飲食店舗個々の問題ではなく,ビル全体の共
通問題や相談,地元町内会の依頼事などが複数寄せられるようになった.
例えば,各飲食店舗のゴミ処理の問題,通路清掃問題(現在は共益費で処理,以前はな
かった)
,防虫駆除などの問題や各種イベントの相談事,そして,ビル周辺の地元町内会の
お祭りや行事等,ビル関係以外での依頼事や相談事である.
そこで,ビル全体のことを考え何か秘策はないか,組織的に問題解決をはかろうと考え
た.それはビルの全飲食店舗で自治会を作ってもらい,自治会の組織活動によって自主的
にビルの維持・管理がスムーズに行くようにする事であった.また,ビル周辺の地元町内
会とも密接な関係を築き,様々な事に協力をするビルの体制づくりでもあった.
そして,誠意ある話し合いを重ねた結果,ビルの全飲食店舗による自治会組織ができた.
それ以来自治会は,S ビル・S2 ビルの為に有機的に活発な活動をしてもらっている.この
ことは,長期的に継続しており,ビル運営に大きく寄与している.
従って,ビルの持続経営に貢献していると考えられる.
以上のような様々な要因によって持続的経営がなされてきたと考えられる.特に,これ
からは,リスクマネジメントやリレーションシップ・マーケティングによるロイヤルティ
の確保などが挙げられる.具体的には,さらなる維持管理コスト削減や危機管理の徹底.
また,関係性パラダイムの継続・維持によるロイヤルティの経営が重要であると考えられ
る.勿論,その際,高位の飲食店舗入居率を維持して高い利益率を確保することも忘れて
はならない.
92
以上のような様々な要因によって,持続的経営がなされてきたと考えられる.それらの
要因を分析して,飲食店舗賃貸ビル事業の持続的経営の要素を抽質すると,以下の結論を
得た.四つの視点から見た飲食店舗賃貸ビル事業の持続的経営の要素を表4-2に示す.
表4-2 四つの視点から見た飲食店舗賃貸ビル事業の持続的経営の要素
視点
起業の視点
事業成長の視点
事業継続の視点
顧客維持の視点
持続的経営の要素
経営手法領域
経営理念
起業
場所とビルのコア化
イノベーション
組織や規模の拡大よりも質の拡大と変革
組織成長モデル
コストダウン(イニシャルとランニング)
リスクマネジメント
高位の入居率と利益率
リスクマネジメント
文脈と場の関係性
イノベーション
危機管理
リスクマネジメント
入居者の選定
リスクマネジメント
サービス・プロフィット・チェーン
マーケティング
カスタマー・ロイヤルティの経営
マーケティング
質の高いサービスの提供
マーケティング
関係性のパラダイム
マーケティング
店舗の組織化
イノベーション
持続的経営の要素を四つの視点から整理した.その視点群とは,起業,事業成長,事業
継続および顧客維持である.それぞれの持続的経営要素は,先行研究における経営手法領
域群から評価を行うことができる.
飲食店舗賃貸ビル事業の持続的経営には,リスクマネジメントやイノベーション,マー
ケティングによるロイヤルティの確保などが挙げられる.具体的には,維持管理コスト削
減や危機管理の徹底,また,関係性パラダイムの継続・維持によるロイヤルティの経営が
重要であると考えられる.その際,高位の飲食店舗入居率維持により,高い利益率による
確保も忘れてはならない.
93
第五章:飲食店舗賃貸事業の持続経営要件検討のフレームワーク
5.1 明確な目的意識を有しない経営イノベーション
研究事例のビル経営者は,結果として多くの経営上の変革および改革を実施してきた.
これらは,実施に際して,ビル経営者が必ずしも明確な目的を意識しないで経営のイノベ
ーションを図ってきた.このような無意識で行ってきた経営イノベーション行為の中で持
続健全経営に有効であったと評価できる事項について述べる.
1)定期的な面談機会を得るために,ビル管理事務所へ家賃を持参してもらう.店舗の経
営状況などの情報が入手でき,かつイントラクションがある.(相互交流が生成される)
2)ビル経営者は,檀家まわりと称し,ビル内の全飲食店舗を月に複数回定期的に訪問し
た.ビル経営者と入居店舗の関係から,飲食店と顧客の関係に転身することにより,飲酒
の効果も有り,普段は話せない本音の心情や相談事などを受けた.その結果,店舗への細
やかなサービスが可能となった.その際,他のビルや飲食店舗の情報など,歓楽街の貴重
な情報も得ることもできた.
3)ビル経営者は,様々な相談事を受け続けている中で,店舗の個別の問題だけではなく,
ビル全体に共通的の問題や相談を,複数受け付けた.例えば,ゴミ処理の問題,清掃問題,
地元町内会のお祭りや行事などである.ビル経営者は,ビル全体で組織的に問題解決をは
かるために,入居全店舗からなる自治会を組織させた.自治会の組織活動によって,自主
的にビルの維持・管理がスムーズに行われ,ビル全体の為の,有機的に活発な活動が展開
されている.
次に,ビル経営者が無意識に変革を続けてきた点について述べる.
事例ビル経営上の典型的なソリューション・サービス群は,今では数多くのサービスメ
ニューが他にも出来上がっている.これは 30 年以上に渡って,ソリューション・プラット
フォーム形成という根本思想の維持の課程で無意識に追加され,個別サービスの変更を続
けて,有効なものにしてきた.後になって追加されたソリューションとしては,よりプラ
イベートな内容の相談事に対応するようになってきたことが挙げられる.具体的には店舗
オーナーの子息の就職や結婚に関する相談事等である.但し,このようなプライベートな
相談事は,ほとんどが 10 年以上入居し,濃密になった店舗であり,ビル経営者としては,
さらに親密な関係を構築するために,ビジネスに直接関係のない事柄についても相談を引
き受けた.
サービスの変更を行ってきた例としては,料金設定の柔軟な対応の例が挙げられる.当
初は,ブランドイメージを高めるため,同地区の一般的なビルに比べ,敷金は約 3.5 倍,家
賃は約 1.4 倍と高く設定した.しかし,5 年から 10 年間程度営業を継続してきた時点で,
94
経営的に厳しい店舗も現れた.このような場合は「営業を継続してもらう」ことを最重要
課題に,それまでの高い料金設定を見直し,柔軟に対応した.この場合の条件は,店舗が
少なくとも 5 年以上営業を継続していること,また以降も 5 年以上営業を継続してくれる
見込みのあることであった.
このように,ビル経営者が意識せず行っていた活動が,実は持続的健全経営に貢献して
いる要因であることが明らかになった.
5.2 多重サービス・プロフィット・チェーン
ヘスケットはサービス・プロフィット・チェーンの中で次のように述べている[63].『サ
ービス・プロフィット・チェーンは組織化され,関連づけられた一連の現象からなってい
る.それらは,①顧客の忠誠とコミットメントは,成長と収益性の主要な駆動因である.
②顧客の忠誠とコミットメントは,競争よりもむしろ顧客満足によって引き起こされる.
③顧客満足は,競争相手よりも高い水準の価値を実現することによって発生する.④価値
は,満足し,関係を持ち,生産性の高い従業員によって作り出される.
(組織内外の)顧客,
供給業者,他の重要な組織の構成員の知覚は,それらの構成員と直に接する従業員の満足
度に大きく影響される.⑤従業員満足はいくつかの要因から成り立っている.その要因と
は「上司の公平さ」
,職場での同僚との関係の質,職務における個人の成長機会,能力,顧
客に結果を提供するために与えられた権限の自由度,顧客と直に接する職務において達成
される満足度(いわゆるミラー効果)金銭的報酬である.数多くの研究によるとこの順序
が重要であることがしばしば指摘されている.従業員満足は,高い価値と低費用を実現す
る組織能力を作り上げる努力の中核となる.
』と言及している.
つまり,顧客満足は高い水準の価値を実現することにより発生し,高くなり,顧客の忠
誠が形成される.また,価値は顧客と良好な関係を持った,忠誠心のある,生産性の高い
従業員によって作られる.そして,従業員満足の向上に繋がり顧客ロイヤルティの高さに
好影響を与えると考えられる.
ヘスケットのサービス・プロフィット・チェーン[35]を引用し,筆者が加筆した多重構造
のサービス・プロフィット・チェーンの特徴を図5-1に示す.
95
図5-1 多重構造のサービス・プロフィット・チェーンの特徴
4.1節で分析対象とした三つの法人格,賃貸事業者,テナントおよびエンドユーザー
のそれぞれのサービス・プロフィット・チェーンにおけるロイヤルティサークルの要点を
示した.
店舗経営者及び賃貸事業者の間には次のことが言える.まず,両者には価値が接点とな
っている.店舗にとっての価値はサービス等を経験するということになる.また,賃貸事
業者からみるとサービス等の提供を経験するということになる.
店舗の賃貸契約を締結した後,顧客である店舗は質の高いサービスを受けることで,サ
ービスに満足し,満足した結果ロイヤルティを得る事になる.ロイヤルティを得ることで
価値が分かり,さらに付加価値の高い経験をすることによって,一連の循環サイクルが成
り立つ.
また,店舗に対してロイヤルティに繋がれば社員も,そのサービスを遂行することによ
って顧客が満足する.満足している事を見たり聞いたり経験することによって社員も満足
する.社員が満足した後は自身もロイヤルティを得る.ロイヤルティを得ることによって
さらに勉強を重ねて知識を蓄え,経験を重ねることによってサービスの向上がはかられる.
社員も店舗も図のような循環をしているわけだが,そこに共通の社員にとっての価値,ビ
ルにとっての価値が出てくる.このサイクルが二者間にある.
店舗とエンドカスタマーとの間であるが,店舗が他のビルの飲食店舗にないような素晴
らしいおもてなしをエンドカスタマーに提供することにより,エンドカスタマーはクォリ
ティの高いサービスの価値を経験する.経験をすることによって満足度が高められロイヤ
96
ルティを得る.ロイヤルティを得ることによってさらにクォリティが高まる.そして,更
なる価値を生み出し,満足度が高まり,ロイヤルティを得て,サイクルが循環する.
店舗の顧客が価値を経験することによって,店舗の店舗運営責任者や働く従業員が,自
分達の満足度が上がりロイヤルティを得る.つまり,接客に対して実力が発揮できるサー
ビスを行う.例えば,悩み事などを聞くなどのサービスを行い,サービスの向上に繋げる.
エンドカスタマーが次の機会に店舗に訪れた時は,それに対する,的確なレスポンスをす
ることによって価値が高まっていき,従業員の価値サイクルが上がっていく.
店舗側のサービスの向上によるサイクルと,エンドカスタマーのロイヤルティのサイク
ルがうまく回るということである.
ビル経営者や従業員とエンドカスタマーとの関係では,ビル経営者個人的な繋がりや入
会している各種団体,組織を活用して(経済団体・同好会・仲間内の飲み会なども含む),
そこに集まる人々に店舗の顧客として来てもらい,ビルや店舗の素晴らしさを宣伝する.
そして,実際に来てもらって,質の高いサービスの良さを体感や経験をしてもらい,価値
を分かってもらう.そこで,店舗の店舗運営責任者や女性従業員のサービスやおもてなし
が良いという評判になり,顧客満足度が高くなり,ロイヤルティを得る事ができ価値を生
む.そして,経験を重ねることによって店舗顧客のロイヤルティのサイクルができる.ビ
ル経営者としても,紹介する顧客の満足度が上がることによって,自身も満足度が上がり
ロイヤルティを得る事になる.また,紹介した顧客より質の高いサービスに繋がるアドバ
イスをもらい,店舗へのアドバイスとサービスを行う.そして,店舗ロイヤルティを高め
ていき,ビル経営者はサービスの向上に努めることになる.そのことで価値が高まり,店
舗へのサービスがさらに向上し店舗満足,つまり,ロイヤルティを得ることになる.
その結果,実力が発揮できる可能性を持った,店舗のロイヤルティサイクルが出来上が
る.
この三者の関係は非常に重要な関係であり,その三者間にはコミュニケーションがあり
イノベーションが作用しロイヤルティのサイクルが循環している.
そこで,ヘスケットの言う,直接的に利害関係にある事業者と顧客の間のサービス・プ
ロフィット・チェーンだけではなく,間接的な関係にあるはずの二者間に,隠れた第三チ
ェーンが観察できた.このチェーンの存在が持続的健全経営に,影響していると考えられ
る.
また,店舗の繁栄はビルの相対的繁栄である.他のビルと比較しながら,ビルの各飲食
店舗に入店する顧客動向に注視し,調査・分析を行い,方策を考え,持続的経営をするう
えで,競争優位を勝ち取る.そのためにも,新しい情報を共有する関係が重要である.
エンドカスタマーとの関係についても特異性がある.飲食店舗にとって顧客への個々の
サービスは,クォリティを高くし,ロイヤルティを高いものにして,常連客になってもら
うためのきめ細かい配慮が肝要である.ビルも常に清潔で,安全で安心して飲食できる,
楽しい空間を演出できるように心がける.そして,品質の高いサービスとおもてなしがで
97
きるトロフィービルとして,ビルの全飲食店舗の顧客にロイヤルティをもってもらう.こ
のような特異性がある.
この三者の法人格はマーケティングの新しい関係を構築していると捉えることができる.
コトラーのサービス・マーケティングの三つのタイプ[48]を引用し,筆者が加筆した,ビ
ル関係者,テナント関係者およびエンドカスタマーのマーケティングの交差関係を図5-
2に示す.
図5-2 ビル関係者,テナント関係者およびエンドカスタマーのマーケティングの交差
関係
ビル関係者とテナント関係者との関係は,本来はエクスターナル・マーケティング関係
にあるが,当該事業種においては仮想のインターナル・マーケティング関係として機能す
る.ビル関係者は同時にテナントの顧客であるエンドカスタマーともマーケティング関係
にある.この関係は,本来直接的な関係性は無いが,仮想のエクスターナル・マーケティ
ング関係として交流する.この交流が,飲食店舗経営者へビル賃貸を行う事業にとっては
重要であり,持続的な健全経営をもたらす.
このサービス・マーケティングの関係を俯瞰すれば,三つの法人格は二者の交流インタ
フェースを多重に繰り返す構造となっている.このサービス・マーケティングの多重構造
98
を図5-3に示す.
図5-3 サービス・マーケティングの多重構造
該事業種における三つの関係者,すなわち,ビル関係者,テナント関係者およびエンド
カスタマーをヘスケットのマーケティング関係構成員に倣って,展開している.ビル関係
者は,ビル経営者とビル会社従業員に,テナント関係者は,テナント経営者とテナント従
業員とに展開している.
3関係者の関係は図5-2と同じであり,いずれの関係者も他の二つの関係者と交流イ
ンターフェースを持っている.図5-3に示した交流インターフェースを表現した破線矢
印の色は,図5-2のビル関係者,テナント関係者およびエンドカスタマーのマーケティ
ングの交差関係の色と対応させている.先のコトラーのマーケティング分析での企業経営
者とその従業員のインターナル・マーケティングは,本研究の関係分析にあっても,ビル
関係者およびテナント関係者に適用できる.これらの関係者事業体の経営者とその従業員
99
とはインターナル・マーケティング関係として説明できる.しかし,本研究の対象事業に
あっては,ミクロには,関係する法人格は5者存在し,その5者の間に多重サービス・プ
ロフィット・チェーンの構造をもつ顧客関係性に配意することが重要になる.
5.3 ソリューション・プラットフォーム
ビル経営者と店舗との間には,単純な場として賃貸契約関係がある.つまり単なるスペ
ース貸しである.
次に,単純なサービスを提供する場として一般的な相談事がある.それは,店舗に関す
る営業的なことや簡単な経営的なことなどである.
さらに,ビル経営者と店舗の関係性が濃密になると,全体的なサービスを提供する場が
出現する.両者の関係が濃密になることで,様々な相談事がでてくる.店舗の経営的なこ
とであれば複雑な財務や人事のことなど多岐にわたる.そして,店舗に関係のないプライ
ベート的な相談もあり,速やかに問題解決の支援を行ってきた.
それは,ビル経営者と店舗の間の「場」を,
「ソリューション・プラットフォーム」と捉
える事ができる.
その他に,S ビル・S2 ビルの単なる設備,店舗空間にとどまらず,社会的な交流の輪が
構築できたということである.例えば,他のビルには見られない店舗自治会はその好例で
ある.
最初はゴミ出しや掃除の相談があった.ビル経営者と各店舗だけの話だけではなく,ビ
ルに共通する相談事である.ビル経営者に若干の意図的なものがあったが,相談を重ねて
いくうちに組織が形づくられるようになった.
その組織は,最初はビル全体への店舗群の相談事や意見を集約することであった.その
後,相談事や依頼事が増えていき,組織とビルとの交渉が活発になり自治会となった.そ
の後,自治会活動は対外的にも,ビル周辺の地域・地区・商店街のイベントにも参加し,
自治会組織が有効にその力を発揮している.また,対内的には各店舗やビルの架け橋とし
てプラスに作用している.そして,ビル全体のクォリティを自治会がビルと一緒に,高め
ていくための努力をしてくれている.
持続的経営と言う共通の認識のもとに,ビルが流行れば店舗経営だけではなく,ビル経
営も順調に推移することになる.そして,顧客をいかに呼び込むことができるのか,どの
様な対策をとる事が有効な手段なのか,共に協議を重ね,ビル全体に関する事項も話し合
いを持つことができている.そして,現在でも信頼関係が持続して,30 年以上もビル側と
自治会側の関係がうまく循環させてきた.
これらのことも,ビル経営者と店舗の間の「場」として,
「ソリューション・プラットフ
ォーム」と捉えることができると考えられる.そのことが持続可能な経営に繋がったと推
定した.
100
持続可能な事業経営とは,店舗にとって,また,エンドカスタマーにとって効果的なソ
リューション・プラットフォームを形成すると考えられる.
このソリューション・プラットフォームは,創造性を連続して発揮し,ビル経営者と飲
食店舗経営者が共有する目標を達成するための場として成長を続けてきた.
この成長する場で,ビル経営者がハード面およびソフト面に多様なサービスを提供した
ことは小節4.3.2に述べた.しかし,この場の成長は他の視点も考え合わせれば,こ
のプラットフォームは経営時間軸のなかでスパイラル状に発展してきたと捉えることがで
きる.
小節4.3.2では経営イノベーションの場の発展段階を顧客関係の密度の増大との相
関で捉えた.しかし,本節での考察を考慮すれば,この「場の発展段階」はビジネス実績
の拡大の中で発展できたことが明らかである.従って,場の拡大とビジネス実績も正の相
関を持つ.場の拡大とビジネス実績の拡大の関係を図5-4に示す.
図5-4 場の拡大とビジネス実績の拡大の関係
プラットフォームは,I:基本的な賃貸契約,Ⅱ:ソリューションの場の形成状態,Ⅲ:
日本的心情にまで踏み込むソリューション・プラットフォームへと段階を追って発展する
が,これはビジネス実績の増大に応じている.
図5-4における場の拡大の説明変数「ビジネス実績の拡大」は同時に,小節4.2.
1での説明変数「顧客関係の密度」とも正の相関関係にある.この「ビジネス実績の拡大」
と「顧客関係の密度」との相関図を図5-5に示す.
101
図5-5 「ビジネス実績の拡大」と「顧客関係の密度」との相関図
本図5-5に説明される二説明変数の正の相関関係を,図5-4および図4-5と合わ
せて説明すれば,顧客関係の密度は,同時に二つの変数軸と共に拡大すると捉えられる.
この顧客関係の密度を増大させ,持続的健全経営に繋がるソリューション・プラットフ
ォームの拡大を図5-6に示す.
図5-6 持続的健全経営に繋がるソリューション・プラットフォームの拡大
102
図5-6に示すように,飲食店舗ビル賃貸事業は,ビル経営者と店舗経営者の間の顧客
関係の密度,ビジネス実績の規模および場の拡大が,惑星のマントル殻が拡大するような
モデルで発展を遂げる関係にできた際に持続的に健全な経営を続けることができる.
図5-6では三つの段階のソリューション・プラットフォーム,I,Ⅱ,Ⅲをスフェア
表面として示している.スフェアは,ソリューション場としての規模,ビル経営者と店舗
経営者とが共有する文脈量,ビル賃貸ビジネスの取引累計額に相当する3軸の三次元空間
の曲面表面としてモデル化される.
ソリューション・プラットフォームIは,店舗の基本賃貸契約を交わす時点のソリュー
ション・プラットフォームである.ビル経営者は賃貸ビルのテナントとなる店舗経営者と
契約前から十分なコミュニケーションを図り,店舗経営者に応じて適切な入居相談を持つ
努力を怠らなかった.流石に,基本の賃貸契約時点では共有する文脈量も少なく,ビジネ
ス取引額も,敷金の預かり額の比率が大きい段階でしかない.
ソリューション・プラットフォームⅡは,賃貸契約期間がある程度実績を重ね,店舗経
営に関する情報交換が進み,店舗経営にビル経営者が支援実績を積み上げてきたソリュー
ションの場の形成状態と言える.事例のビル経営者の場合は,飲食店舗との関係を,ソリ
ューション・プラットフォームとして十分に機能させ,飲食店舗にソリューションを提供
するとともに,自分の経営の質も向上させて共有文脈を増やす信頼を築いてきた.このⅡ
の状況では,ビル経営者は店舗経営者と十分な文脈の共有を果たしている.
ソリューション・プラットフォームⅢは,
「日本人的心情にまで踏み込んだ」ソリューシ
ョン・プラットフォームの段階を示している.共有する文脈の量はさらに拡大し,店舗経
営者側の発信情報に留まらず,ビル経営者の情報や状況に関する情報まで共有が進んでい
る.多年に亘る賃貸支払いの実績額も大きく,ソリューションの相談や支援も親密な案件
にまで踏み込み,ソリューションに至る確率も格段に高い状態にある.このⅢの状態にあ
っては,小節4.1で取り上げた他に類を見ないエンドユーザー,つまり,飲み客との新
しい関係の構築も効果的に機能する.ビル経営者はこの新しい関係から得られた情報や経
験を,飲食店舗とのソリューション・プラットフォームに持ち込むことで,より良いソリ
ューションの提供と,更なる親密な関係を築き続けてきた.
賃貸ビルには多くの数の店舗賃貸契約者が居る.ビル経営者が彼らの多くをⅡあるいは
Ⅲのソリューション・プラットフォームへと移行させる努力をしてきた.このことが持続
的な健全経営のモデル化表現である.
5.4 クリエイティブ・スパイラル
ビル経営者は経営上のイノベーションを連続して行い,同時に,店舗経営者に対するソ
リューション支援を繰り返して,ビル側と店舗側の双方の経営の質の向上を図ってきた.
このソリューション・プラットフォームは,スパイラル状に且つ持続的に発展させられ,
効果がより発揮できる場として成長を遂げてきたと考えられる.
103
ビル経営者は,経営上様々なイノベーションを実施してきた.その多くは無意識に行わ
れてきた.この具体的な革新と変革の具体事象の事例は節4.1に述べた.
これらのイノベーションには,経営の連続の中で断続的にその変革の水準を上げてきた
ものがある.例えば,店舗経営者のテナント料の月次支払を原則,面談としてきたが,こ
の際のビル経営者側と店舗経営者のコミュニケーションの質は繰り返しの下でその内容や
理解度が発展的に上質なものに昇華してきた.この断続した相談の中で行われるビル経営
者からのテナントに対するハード面およびソフト面のサービスは,相談の度にテナントに
とっての支援の質を向上させてきた.檀家回りと称する経営中の店舗群との相談の場は
個々の店舗からの情報交換の場に加え,共有するビル空間全体の問題解決に繋げるテナン
トの方々の自治会も発足させることに拡げたのはその例である.
このような経営経緯を,質の発展も加えてサービスの種類を考えれば,これらのサービ
ス支援経緯はスパイラルを辿って断続的に継続をしてきたと捉えることができる.このス
パイラルをたどるサービスの経緯モデルを図5-7に示す.
図5-7 スパイラルをたどるサービスの経緯モデル
スパイラル曲線は,相談の中で行われるビル経営者からのテナントに対するハード面お
よびソフト面のサービス実施の経緯である.個々のサービスは顧客であるテナントにとっ
ては断続して提供されるものもある.従って,個々のサービスはこのスパイラル曲線上の
点 Si としてモデル表現される.この Si は(r, θ)座標で特定できる.この際のθはプラッ
104
トフォームで実施される具体的なサービスの方向性を表し,r の絶対値は該サービスの大き
さ,すなわち,ビル経営者の支援サービスの質の高さや支援の大きさを表すことに相当す
る.
図5-7としてモデル化できるソリューションは,時間の経過とともに外縁方向に拡が
りを見せる.時間軸まで考慮すると,このソリューションの提供の連続の関係はクリエイ
ティブ・スパイラルの成長としてモデル化できる.このクリエイティブ・スパイラルの概
念を図5-8に示す.
図5-8 クリエイティブ・スパイラルの概念
このスパイラル状の成長を<t, r, θ>の三次元空間で表現している.次元tは時間で
あって,原点を起業時として捉え,事業経営の時間をtの正方向として表現している.r
の絶対値は飲食店舗のビルおよびサービスの品質の水準を意味し,その絶対値の大きさが
サービス品質水準の高さを表す.θは三次元空間の方向であり,これはイノベーションの
目指した方向あるいはビル経営者が支援した店舗経営者に対するソリューション支援の種
類を意味する.
図5-8にはスパイラル曲線上に S1,S2,S3および S4の4点をプロットしてある.
これは,時刻t1,t2,t3およびt4に,何らかの経営上のイノベーションが実施さ
れた,あるいは,店舗経営者にソリューション支援が行われたことを示している.この4
点のθ値はいずれも異なっている.この異なりは,これら4回のイノベーション実施また
はソリューション支援が別の内容であった例示として捉えることができる.各時刻ti に対
応するr1,r2,r3およびr4の絶対値は,指数とともに単調増加している.これは,
105
時間的な経過に沿って実施されたイノベーションあるいはソリューション支援によって,
次第に飲食店舗のビルおよびサービス品質が向上した例示として表現されている.
実際の経営の中では,複数回のイノベーションやソリューション支援が断続して行われ
てきた.従って,経営履歴の本モデル表現は図5-8のスパイラル曲線上の不連続点の集
合として捉えられるとのモデルである.本事例事業の 32 年に亘る経営実績はまさにこのス
パイラル上でのr値の単調拡大であった.
つまり,このスパイラル状のソリューションの継続こそが,この事例における「持続的
経営」そのものと言える.
5.5 まとめ
事例事業の経営経緯を分析した結果は以下のとおり要約できる.すなわち,持続経営の
要件として,顧客価値提案に関する3項目をそれぞれ静的,量的,動的の三つの軸に対応
させたフレームワークとして提言した.
その3項目とは,
1)多重サービス・プロフィット・チェーンのコンセプトによる顧客関係性の構築,
2)顧客関係の密度,関係構築の場の両面における関係性の量的拡大,および,
3)多様なサービス品質を提供するための連続するイノベーション・スパイラル
である.
これらは,いずれも事例事業の持続経営のフレームワークを,整理,統合を図ったもの
である.
この持続経営のフレームワークを図5-9に示す.
図5-9 飲食店舗賃貸事業持続経営のフレームワーク
106
小節5.2で論じた,1)三層の多重サービス・プロフィット・チェーンの説明モデル
は,事例事業の持続経営のプレイヤーとの交流構築の特徴に着目し,該事業の持続経営の
静的な表現である.小節5.3で論じた2)のソリューション・プラットフォームとして
の殻表面の膨張モデルは,
「場」の量的拡大を示している.また,小節5.4で論じた,3)
イノベーションのスパイラル・チェーン表現は,該事業におけるサービス品質の動的改良
を示している.
これらは,いずれも同じ事業の持続経営を Static, Quantity, Dynamic な面から示している.
107
第六章:結論
6.1 研究結果の要点
中小企業は,産業界に重要な位置を占めているが,多くの課題を抱えており,持続でき
ない企業が増えている.昨今の中小企業は,廃業や倒産率の高さが大きな課題である.そ
のような状況下で,本論文は持続的健全経営を論じたものである.経営者の経営理念にあ
った,事業の成長を組織や規模の拡大よりも質(コアな優位性)の拡大や変革と考え,30
年以上継続してきた特殊な事業形態である.飲食店舗ビル事業の経営手法を,イノベーシ
ョンの連続からなるサービス・プロフィット・チェーンとして,事業に関わる三つの集団
の関係性を分析し,考察した結果の過程で,実証し,明らかになったこと,わかったこと
を,以下の通り列挙する.
飲食店舗ビル経営者が目指した持続経営とは,結果として,長期に亘り高い飲食店舗入
居率の水準を維持すること,高い利益率を持続することにあった.そして,次のことが言
える.
(1)結果としての経営持続性
①高位の飲食店舗入居率
一般的にスペースレンタルの賃貸ビルでは入居率が 60%あればビル経営が成立するとい
われている.そのような中で S ビル,S2 ビルの入居率の平均は,32 年間で 85%であった.
長期的に高い入居率を維持することは,利益も長期間継続することになりビルの持続経
営にとって重要なことが明らかになった.
②高い利益率
利益率の推移を見ると,29 年間の平均は 55%であった.これまでにバブル期や長期的不
況など,経済的な環境変化や様々な社会的変化にも関わらず,これだけの利益率を確保す
ることは困難である.投資対効果をみても長期的に質の高い利益を計上していたことにな
る.このことは高位の収益が確保でき持続経営にとって重要であることが明らかになった.
以上のように,飲食店舗ビル経営者は飲食店舗入居率の水準を維持すること,高い利益
率を持続することにあった.そのために,ビル経営者は二つの堅持した経営手法を長期的
に実践してきた.
前者は,サービス・プロフィット・チェーンとして,事業に関わる三つの集団の良好な
関係プラットフォームの構築である.そして,導き出されたことは二つの視点からのビジ
ネスモデルとして整理できる.それは三層のサービス・プロフィット・チェーンとソリュ
ーション・プラットフォームのクリエイティブ・スパイラルを昇華させたことである.
108
後者は量的拡大ではなく,イノベーションの連続による質的な拡大と持続努力である.
そして,これらを実現できた主たる要因は 3 群に整理できると考えられる.それらは独自
の経営理念とその堅持,適正な投資,ソリューション・プラットフォームの確立と維持で
ある.それらを整理すると次のようにまとめられる.
(2) 独自の経営理念とその堅持
①コア・コンピタンス
一般的に,成長している製造メーカーなどは独自の技術開発により,他社にないコアな
製品を持っており,持ち続けている.そして,それが強力な武器となり企業の持続経営を
可能にしている.
ビル自体をコアにすることは可能であると考えられる.しかし,ビル経営者は場所もビ
ルも同時に,しかも,意図的にコア(ハード面とソフト面)にすることに成功している.
このことは,あまり例がなく特質すべきことだといえる.ビル事業に於いてもコアを創造
し,持ち続けることは企業を持続させる方法であることが明らかになった.
②高いサービス・クォリティ
飲食店舗へ質の高いサービスを供給し続ける事により,長期的に信用と信頼を得る事が
できている.そして,安全で安心して長期的に店舗営業ができている.つまり,高いサー
ビスを供給し続ける事は,ビル事業を持続させる手段として,きわめて有効であることが
明らかになった.
③飲食店舗入居者の選定
ビル経営者は飲食店舗入居者のパーソナリティについては重要視していた.特に,明る
く・ポジティブな性格,好感の持てる雰囲気の人を重要視していた.また,モチベーショ
ンも重要なので意思を確認した後に契約を交わしている.その結果契約期間が,S ビルと S
2ビルの合計で 30 年以上が 7 店舗,20 年以上が 11 店舗,10 年以上が 11 店舗である.ビル
の持続経営にはビル入居者の選定はきわめて重要なことが明らかになった.
(3)適正な投資
①イニシャルコストの削減
賃貸ビル事業においてイニシャルコストは非常に重要なことである.そのコストから収
支計算をして,金融機関への返済や経営の長期的計画を考えるからである.
ビル経営者は知恵を絞り,建設費を当初の計画時より低額にして,イニシャルコストの削
減に成功している.イニシャルコストの削減はビルの持続経営にとって有効であることが
明らかになった.
②ランニングコストの削減
ビル経営者はビルのメンテナンスや保守管理コストを可能な限り低く抑え常に経費削減
を行った.その結果,予定より収益が計上でき返済計画期間内であったが,早期に金融機
109
関への返済を行っている.したがって,長期のランニングコストの削減は,収益増加に繋
がり,借入金返済に有効な手段である.そのことはビルの持続経営にとって重要であるこ
とが明らかになった.
③危機管理の徹底
ビル経営者は飲食店舗及びビルのハード面に関して,上下水道,電気,ガス等のインフ
ラのトラブルに対しては,迅速に対応することを心がけていた.
その他,防火管理をはじめ,安全で安心のためのビル管理を徹底して行ってきている.そ
して,継続する事で飲食店舗の信用と信頼を得ることができている.危機管理での信用と
信頼はビルの持続経営にとって重要なことが明らかになった.
(4) ソリューション・プラットフォームの確立と維持
①共通の文脈と場の関係性
ビル経営者は,飲食店舗と文脈を共有した場を通して情報を交換した.そして,問題解
決にはソリューション・プラットフォームを十分に機能させ,飲食店舗にソリューション
を提供するとともに,自分の経営の質も向上させてきた.その関係性がビル事業を持続さ
せることに有効であることが明らかになった.
ビル経営者とエンドカスタマーの関係
②経営者自身のネットワーク(個人・組織)を生かして,知人を顧客として,飲食店舗の
宣伝や飲食店舗へ誘導を行い,リピート客となした.
さらに,飲食店舗へ地域の顔役や著名人を連れていくことにより,店舗のイメージをア
ップさせた.そして,誘導した顧客が該当飲食店舗で同好会や懇親会を開催している.現
在まで同好会や懇親会が約 20 年以上も続いている飲食店舗も数多くみられる.
したがって,ビル経営者とエンドカスタマーの関係性はビル事業を持続させることに有
効であることが明らかになった.
③テナント自治会の組織
自治会の組織活動によって自主的にビルの維持・管理がスムーズに行くようになった.
また,ビル周辺の地元町内会とも密接な関係を築き,様々なことに協力をするビルの体制
ができている.自治会組織は,ビルの運営に貢献していることだけではなく,ビルの持続
経営にとって重要な組織であることが明らかになった.
④危機管理の徹底
ビル経営者は飲食店舗及びビルのソフト面に関して,ビル経営者や店舗経営者に対する
反社会団体の脅しや,いわゆる「みかじめ料」の取り立てなどについてである.対策につ
いては事前に飲食店舗や警察との連携をとり,風評被害対策なども含めて基本的にビル経
営者側の方で対応していた.
その他,防犯管理をはじめ,安全で安心のためのビル管理を徹底して行ってきている.
そして,継続する事で飲食店舗の信用と信頼を得ることができている.危機管理での信用
110
と信頼はビルの持続経営にとって重要なことが明らかになった.
以上のようなことから,飲食店舗ビル経営者が目指した持続経営とは,長期に亘り高い
飲食店舗入居率の水準を維持すること,高い利益率を持続することにあった.これらのこ
とから店舗賃貸事業の持続的健全経営モデルが明らかにできた.
6.2 今後の研究課題
飲食店舗ビルは様々な価値観や意思を有する「飲み客」の集合体である.店舗を対象と
する飲食店舗ビルへの飲食店舗ニーズは,防犯,防火,防災に対する安全性の確保・維持
等,根本的な要求への充足はもとより,ハード面としての提供設備や,ソフトであるサー
ビスやオペレーションに対して,より機能の充実やサービスの品質向上を求めてくるもの
と考えられる.
したがって,このような飲食店舗ニーズに応えていくために,ランニングコストである
ビルの維持管理コストは,時代の変遷とともに全体として上昇傾向をたどると考えられる.
ここに賃貸ビルの維持管理面におけるコスト的な特徴があると考えられる.
そして,店舗を対象とする飲食店舗賃貸事業において,店舗に対する安心や安全とビル
設備インフラへの拡充などの飲食店舗ニーズは,より多様化し,かつ高品質なものを求め
てくると考えられる.これらに要するランニングコストは,今後,さらに増加すると考え
られる.
したがって,質の高いサービス供給と,維持管理コストのより一層の削減努力と効率化
など,合理化をはかることである.そして,建築費の圧縮工夫とともにこれからの飲食店
舗賃貸ビル経営において必須の検討課題であり,眼目であると考える.
他方,現下の飲食店舗賃貸ビル市況を眺めてみた場合,遊びの多様化,嗜好の変化,酒
離れ,社用族の減少などにより客足が遠のいている.その結果,歯抜きの飲食店舗賃貸ビ
ルが,歓楽街の中心でも多数存在している状況にある.そのような状況下,家賃の減額な
ど様々な対策が取られているが有効な手段が見つかっていない.
そこでこれからの飲食店舗ビルは,店舗や顧客にとってより安全で安心なビルであるこ
と.そして,顧客ニーズに合ったコアな優位性を持った,差別化した競争優位のビル創り
が肝要である.
余談であるが,昨今の経済情勢を背景とした,今日的な話題でもある「不動産の所有と
経営の分離論」との関連を不動産業界でよく取上げられている.そして,現実味を帯びて
きている「不動産(ビル)の証券化」の動きなどである.各企業の構造改革動向や経済の
国際化の影響は着実に不動産業界にも及んできており,業界の意識と構造の改革が強く求
められようとしている.一考に値する問題である.
111
謝
辞
本研究は高知工科大学大学院起業家コース,指導教官である冨澤治教授のご指導のもと,
調査,検討,分析を遂行し,論文にまとめることができました.冨澤治教授には浅学非才
な筆者に,当初荒削りだった論述に参考文献・図書のご紹介から始まり,分析・結論に対す
る丁寧なご指導をいただきました.心より感謝申し上げます.そして,機会あるごとにご
指導頂きました末包厚喜教授,那須清吾教授,生島淳講師,平野真客員教授はじめ,多く
の先生方に心より感謝申し上げます.
また,本論文作成にご支援いただきました,吉川綜合開発の井田良則氏はじめ,会社の
皆様と地元の関係各位に,心より御礼申し上げます.
最後に,陰で応援してくれていた両親や子どもたち,兼朝,奈都,宗甫には深く感謝し
ます.
112
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116
付
表
本研究を遂行するにあたり,参考にした情報を付表として,本論に付す.
それらは,
1)事例事業である飲食店舗,佐賀市の「S ビル,および,S2 ビル」の事業歴
および,
2)飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態に関する調査
である.
1)については,時系列に付表1-1(1)から付表1-1(9)として,事実経過を
記した.2)は,東京商工リサーチに研究者が委託して行った調査の結果である.付表2
-1として示した.調査時点は 2012 年 7 月で,調査した飲食店舗ビルは,福岡市中州地区,
天神地区の 11 例と,佐賀市中心市街地の 7 例である.
117
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(1)
年月
1974 年
事業歴
S ビル土地購入
1977 年
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
◇町づくりの中での歓楽街の位置づけと,既存(歓楽街)の街並を変化させ
る為,中心になりうる地点を中心に購入し始める.
(独自の調査を行い)人の流れや,地元の人の習慣(佐賀時間,よかやっこ
の世界(あいまいさ等))や酒文化に対しての考え方等.
◇コンセプト:ビルに入場するためのアプローチをどうするか.
◇清潔(白色を基調),解放感,高級感.明り(光)をモチーフに出来ないか検
討した.
◇地域・地区で一番高いビルを目指す.(当時,4 階建が最高)
◇設計時,ビルの階段部を道路と平行にし,ビル前面の開口部を広くして 4
階部まで吹き抜けにした.
1978 年
3月
S ビル設計開始
1978 年
11 月
銀行借入れ(S ビル
建設資金)
設計段階で S ビルテナントの広さを決定.(4階建,一部5階)
a.1~2 階は1区画を 8.5 坪とする.
b.3~4 階は1区画を 10 坪とする.
小 8.5 坪 中 10 坪 大 8.5 坪×2~3 区画 10 坪×2~3 区画
(例)店舗の仕様
小…カウンターと 0~1 のボックス席 収容人数 10~13 人
中…カウンターと1~2のボックス席 収容人数 12~20 人
大…カウンターと 4~5 のボックス席 収容人数 25~50 人
◎理由
1978 年の設計当時,市内の飲食店舗より聞き取り調査した結果,テナント
の広さや収容人数の条件などを考え,多く需要が見込まれたため.結果,オ
ープン時満室となる.
◇①徐々に土地の値上がりが町の中心部から始まる.
◇②容積率を利用し,それまで低層階で使っていた土地を垂直(高層階)展
開にして建物を考え,設計に反映させる.
118
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(2)
年月
1979 年
2月
事業歴
S ビル建築確認許
可
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
◇S ビル 1・2 階テナント募集開始.
◇ステイタスをビルにもたせる為,入居条件のハードルを高くする.
(例えば今迄〔低層階ビル〕より敷金や家賃を高くする)平均 6 ヶ月を 35 ヶ月
程度に.
同時にサービス・ロイヤルティーの質を高めるため,店舗のオーナーに,従
業員,顧客の選定を依頼する.
1979 年
3月
S ビル施工開始
1979 年
10 月
S ビル完成,落成
5 階建
1979 年 8 月 S ビルの飲食店舗内装施工開始.
◇S ビルほぼ予約で満室. 1・2 階(2 月~7 月の入居申込みで)
S ビルの 1・2 階全飲食店舗営業開始.
◇S ビル落成時テナント満室. 1・2 階オープン.
S ビル 1・2 階開業
反社会的組織の排除運動:みかじめ料強要防止の為やテナント及び客の質
向上と安心感.
防火訓練の実施:他の飲食ビルでは実施していない訓練も実施し,安全・安
心感を出した. (以降継続的に対処)
◇S ビルの 3 階有効利活用の為に,隣接した S 駐車場と橋で連結(公有水面
上)し,3 階を駐車場として使用.
もしうまくいかなかった(納得できる成果が出なかった)場合は 3・4 階をホテル
に考えていた.
テナント運営の相談にのりアドバイスを行う.(以降継続的に対処)
(店舗新装および改装,資金,人材,経営,プライベートな面等多岐にわた
る)
(常に家主は親も同然棚後は子も同然)(以降継続的に対処)
家族的な繋がりや絆を大切に,テナントとのコミュニケーションを取りながら
経営している.
定期的に各テナントを訪問(飲食しながら)し,相談事や歓楽街の情報収集
の為,コミュニケーションを図っている.(以降継続的に対処)
119
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(3)
年月
事業歴
1980 年
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
ビル景観にも留意し,ステイタス化を目指した.(クーラー室外機を並べる等)
1980 年
1月
常にテナント入居者に対して,ビルのステイタスに対する自負を持たせ,顧客
に最高のおもてなしやサービスを提供するよう要請する.(以降継続的に対
処)
ビルと地域の協力関係.
中心歓楽街のビルなので常に地区の自治会等と連携を取り合い,地域との
防犯・防火など積極的に取り組み,地域にとって安心なビルとして認識しても
らう.(以降継続的に対処)
1981 年
4月
1981 年
9月
S ビルの 3・4 階改装.(4 月~7 月)
◇リサーチした結果,テナントの需要が感じられ,3・4 階のテナント募集を 2
月~6 月まで行った.同時に S ビルの 3・4 階を改装して,1・2 階を一体にした
飲食店舗ビルに生まれ変わる.
S ビル 3・4 階開業
ビヤガーデン大会(500 人規模)を開催.(話題提供のため意図的に)
各種大イベントを開催するために,ビル自治会を組織してもらう.(若干意図
的に)
ビルの自治会は,その後ビルの管理・運営上当社にとって有効な組織とな
る.
店舗顧客を増加させるべく策を練る.(家賃収入安定の為)
ビル全体のイベントを実施.(ゴルフ大会,ボウリング大会,釣り大会)
4~5 年継続させて,歓楽街の注意を引く.その後,各店舗で任意に倶楽部と
して続行.(金銭的な物も含め物理的な援助をする)
口コミでステイタス感が飲食店舗経営者や顧客に広まる.
◇S ビルテナント 3・4 階オープン.(ほぼ満室)
120
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(4)
年月
事業歴
1983 年
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
◇S2 ビル建築構想開始.
◇東京(澁谷・新宿・池袋・六本木・赤坂・銀座・五反田)・大阪等 6 大都市(名
古屋・京都・横浜・神戸・)の歓楽街を中心に,地方の中核都市(札幌・仙台・
広島・福岡・那覇)を視察する.
1984 年
◇S ビル全店舗満室.
1985 年
◇S2 ビル建替えの為,既存敷地内の7店舗と話し合い開始.
1985 年
立ち退き料を減額するため,新ビル入居の際に家賃及び敷金を一般の入居
者より減額をするとの交渉を持ちかける.
立ち退きに際しての様々な相談に乗り,相手のことを第一に考え,移転先と
の交渉等も手助けする.
◇話し合いの中で老朽化した建物だから,早く建て替えしようと打診.
建物を老朽化させる為の秘策を練る.
1987 年
3月
S2 ビル企画設計開
始
設計段階で S2 ビルテナントの広さを決定.
(9 階建てで 1 フロア賃貸 38 坪)
小(8.5 坪) 中(14.5 坪) 大(小・中の組合せ)
◎理由
S ビル同様,調査の結果で決定する.結果,オープン時満室となる.
◇コンセプト:なんでも一番.(すべてにおいて一番)
佐賀で一番高いビルを目指す.(当時,7 階建が最高)
他にエレベーター速度(当時佐賀県で最速の 60m/分),佐賀県一など,一番
をキーワードとした.
◇コンセプト:清潔(ビルのカラーを白に),解放感,高級感.
ビルのライトアップ(当時,飲食ビルでは珍しい),時間ごとに光の色(白・青・
黄)が変化.
高層階に窓を作り,佐賀の夜景が一望できる.
アプローチのオープンスペースを広くして,ゆったり感を持たせる.
ビルの壁面にガラス材を使用し高級感を持たせる.
露出している金属部は総てステンレスにして高級感を持たせる.
121
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(5)
年月
事業歴
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
1987 年
10 月
S2 ビル建築確認許
可
◇土地が高騰し垂直に建物を求め,容積率を利用し面積当りの単価を安くす
る方法をとる.
土地に対してビルの容積率を適用しても,S2 ビル建設予定の延べ床面積が
足りず,隣接地の土地所有者に頼み,土地をレンタルしてもらい容積を確
保.(当時,土地を実際に使用しないで,容積率の為だけに土地をレンタルし
てもらう事は画期的な手法)
◇レンタル料は迷惑料として支払う.またこの土地を他人に譲渡するときに
は我が社に売ってくれるように交渉した.
1987 年
10 月
隣接ビルの増築と
して許可をとる(容
積率の為)
◇隣接ビルの増築と,建築物斜き(斜角)について面する水路を通路とみな
すよう説得.
1988 年
1月
銀行借入れ(S2 ビ
ル建設資金)
◇S2 ビル,テナント募集開始.
1988 年
3月
S2 ビル施工開始
建物不動産価値の長期の為にコンクリート打設の時期を調整.(真夏・真冬
を避ける)
◇店舗に対して銀行借入や商工会議所などより,好条件の融資等,また店
舗(内装工事)作り等ではアドバイスを広く,深くした.
1988 年
10 月
S2 ビル 9 階建完
成,落成
◇S2 ビル完成時,テナント満室.オープン.
オープン後 1 ヶ月は「御祝儀」的に繁盛するという根拠.
その後の 12 月~1 月は忘年会・新年会で繁盛するという根拠.→安定した家
賃収入.
バブル崩壊の匂いを感じ始める.(地価の高さに違和感)
1989 年
1月7日
昭和天皇 崩御
122
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(6)
年月
事業歴
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
1989 年
S2 ビルの入居者(店舗)に対してよろず相談を手掛け始める.
1990 年
土地の高騰が異常で,試算してみると投資費用対効果が無く,土地購入の
考え方を改める.
1994 年
10 月
S2 ビルの隣接地,K 氏移転の為,譲渡交渉あり.若干高値だと判断したが用
地を取得した.その理由は,隣接地を既存の土地との合算で考える事によ
り,幅広く用途が考えられるからであった.
(現)AXS2 パーク
(駐車場)用地取得
190 坪
◇第 3S ビル(ツインタワービル)構想により用地取得.
銀行より借り入れ
2001 年
2005 年
防火訓練等でビルの安全をアピール.
ビルのテナント全員に呼びかけ春の防火デーなどに消防署の署員を招聘し
訓練をしている.時にははしご車や消防車などを使い,道路を封鎖して大規
模な訓練を実施している.
(2001 年 9 月 1 日の東京都新宿区歌舞伎町雑居ビル火災が社会的な注目も
浴びた)
(歓楽街のビルとしては最初に実施し,現在も続いている.他のビルでは未
だに実施されていない)
家賃の値下げ : ビルの店舗歯抜防止.入居率向上の為.(以降継続的に
対処)
◇中心商店街に位置し,S ビルや S2 ビルに近い FC 銀行佐賀支店が,他行
と合併の為無くなる可能性を察知.
用地取得に向け銀行と協議開始.
2005 年
1月
敷金(預り金)を低額にする:ハードルを低くすることにより入居希望者を多く
募るため.(例えば S ビルで以前は最大 37 ヶ月分,S2 ビルでは 27 ヶ月程度
であった)(以降継続的に対処)
具体例を挙げれば,経営努力を行っているテナントには 6 ヶ月にするなど,思
い切った施策をした,などがある.
以前は敷金(預り金)を多額に受取っていたが,テナントの個々の実情にか
んがみ,返済をして,その資金を店舗改装や経営に役立ててもらうべく方策
を取る.(以降継続的に対処)
123
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(7)
年月
事業歴
2006 年
S 駐車場を改装し,
AXS(駐車場)と命名
した.
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
反社会的組織排除運動:みかじめ料強要防止の為やテナント及び客の質向
上と安心感.
(継続的に対処)
テナント運営の相談にのりアドバイスを行う.(継続的に対処)
(店舗改装,資金,人材,経営,プライベートな面等多岐にわたる)
2007 年
(常に家主は親も同然棚子は子も同然)(継続的に対処)
家族的な繋がりや絆を大切にテナントとのコミュニケーションを取りながら経
営している.
2008 年
6月
2008 年
10 月
AXS2 パーク(駐車
場)用地取得 80 坪
(自己資金)
AXS パーク(駐車
場)用地取得 220
坪(自己資金)
定期的に各テナントを訪問(飲食しながら)し,相談事や歓楽街の情報収集
の為,コミュニケーションを取っている.
定期的にテナントを巡回し,飲みにケーションをしている.その際ビル内外の
情報を収集し,ビル運営や会社運営に役立てている.(時には本音での思わ
ぬ情報などが収集できる)
(継続的に対処)
◇既に取得の用地(S2 ビル隣 190 坪)の隣接地(80 坪)を取得し駐車場を計
画.
AXS パーク(駐車場)は,商店街の中心に位置し,歓楽街からも目と鼻の先
である.以前は銀行の跡地で一等地でもある.
料金体系は,通常の時間制とした.理由は,利便性の高い場所 (時間帯に
よっては両通行)に位置し,需要が見込まれたため.
(旧 FC 銀行跡用地
取得)
AXS パーク(駐車
場)オープン
124
付表1-1 S ビル,S2 ビルに関する事業歴(8)
年月
事業歴
2009 年
AXS2 パークオープ
ン
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
以前より,S ビルの隣接地に立体駐車場(駐車台数 40 台)を保有するも,入
居店舗や顧客のニーズに応え,駐車場を増設し,(駐車台数 37 台,26 台の 2
ヶ所)現在での入庫台数は 103 台になる.
時間決めと,料金の上限を設け,テナント従業員,アルバイト,飲食客へ利便
性を持たせる.
AXS2 パークでは,夜間の月極をせず(中心地にあるが,隣接している道路
が一方通行の為)一定時の時間設定をし,安くしてできるだけ満車にするよう
にした.
結果,売上も伸び週末は,ほぼ満車状態である.
両駐車場とも,昼間(9:00~19:00)は近隣(50m程度)にある再開発複合ビ
ルの月極駐車契約を設定している.
2010 年
2011 年
S ビルのオープンから 30 年が経ち,テナントが世代交代の時期を迎えてい
る.
親から子への継承,または高齢者から若年齢者への継承が,課題である.
空テナントの為,独自のネットワーク(口コミや人間関係の縁等を駆使)やチ
ャンネル(飲食関係の業界筋はもちろんのこと各種団体等)を使い,テナント
オーナーを募集している. (継続的に対処)
テナント運営の初期~現在 コンサルティング. (継続的に対処)
2 次,3 次のテナント入居者に対して,店内改装の費用一部を負担.例えば空
調設備や水回り(トイレ)等.(継続的に対処 )
125
付表1-1
年月
2011 年
事業歴
S ビル,S2 ビルに関する事業歴(9)
ビル経営者の思考過程,および事業の実際
善良で情熱もあり,やる気のある人には,商工会議所や行政の支援を受
けるべく全面的に応援するも,敷金やテナント内装及び改装資金が不足
する時などは,会社や個人レベルで無利子で貸与.(継続的に対処)
テナントの経営が難しい場合は,家賃の交渉に応じる.(解約時に敷金で
相殺することもある) (継続的に対処)
テナントの方に安全で安心して営業してもらうため,ビルの保守管理の徹
底.
例えば,電照用ランプの切れや,その他,下水メンテなど,いくつものチェッ
クリストを作り,定期的に管理している.(継続的に対処)
126
付表2-1
飲食店舗賃貸ビルの継続的経営の実態に関する調査表
TSRレポート(指定事項調査)シート1
ビル名
調査番号
佐賀-1 ~ 福岡-11
所在地
面積・土地/建物
地番・底地/建物
土地地目
建物種類/構造
1.所有権に関する事項
変遷(土地/建物)
①
土地/建物
原因
年月日
所有者情報
新築/増築/売買/相続/差押/取壊し/
等
②
③
④
⑤
⑥
⑦
2.所有権以外の権利に関する事項(抵当権等)
符
登記年月日
登記目的
号
金額
金利
A
B
C
D
E
概
要
127
債務者
債権者