由比濱 省吾 - 福武教育文化振興財団

【平成19年度 地理学 研究助成】
マオリの神話と伝説
岡山大学 名誉教授 由比濱 省吾
Ⅰ.研究の目的 域の先住民の神話・伝説について詳細に知りたい人々の
ためには個別地域の伝承のまとまった紹介が必要であ
文字を持たず口承で伝えられてきたニュージーランド
先住民マオリの神話と伝説は、二度にわたって総督を勤
り、ニュージーランド先住民のマオリの神話・伝説につ
いては私の包括的な仕事が役に立つこととなる。
めたジョージ・グレイによって収録され、1854年にマオ
リ語で、1855年に英語で出版されて以来、現在に至るま
Ⅱ.研究の経過
で多くの人々がそれぞれの方針に従って各種のマオリ神
話・伝説の書物を英語で出版してきた。しかし各書物は
1996年の前著に収録した各出典に関してはすでに当時
いずれも多彩なマオリ神話・伝説の大部分をカバーする
翻訳許可を得ているので、今回追加集録すべき出典(主
ものではなく、最も幅広く収録しているグレイの著作に
としてアオテアロア伝説)を含んでいる書物の翻訳許可
おいても収録源が限られていたので、神話部分以外では
を得て、許可料を支払うことからスタートした。ただし
移住伝説その他の各種伝説にしても、他書に収録されて
提出物の巻末にまとめた解説に新しく加えたマオリ神話
いない説話がいくつか見られる半面、たとえ興味深い説
の神統等については、ドミニオン博物館紀要に掲載され
話であっても結果的には漏れているものが数多い。よく
た諸論考の版権期限が過ぎているので、翻訳許可を乞う
整理されているアントニー・アルパースの著作の邦訳と
手続きをせず、また一定部分の全訳ではなくて要点のみ
しては井上英明訳『マオリ神話』(1954、サイマル出版
の紹介であるから出典を示しておくことに留めた。本文
会)、改訂版『ニュージーランド神話』(1997、青土社)
に利用した書物それぞれの特徴については解説の中で簡
があるが、神話と移住伝説までを収録しているのみで、
単な説明を付した。
それ以外のジャンルの説話は全然入っていないから、私
の収集範囲と比較すればはるかに狭い。
全体構成は、私の見解に基づいて、前著をほぼ踏襲し
て、まずハワイキ神話として創造神話、マウイ神話、テ
私はできる限り幅広く神話・伝説を集め、それらの叙
ィニラウ神話・タファキ神話を置き、アオテアロア伝説
述の長所・短所を比較検討して翻訳編集をおこない、マ
として移住伝説、起源・到来伝説、超自然力伝説、冥界
オリの神話と伝説を包括的にわが国に紹介する必要があ
伝説、魔法伝説、怪人伝説、妖怪伝説、怪獣伝説、自然
ると考えた。そのために特定の 1 冊を対象にするのでは
伝説、部族伝説に分類整理して配列した。どの出典にも
なく、 6 種の著作に基づいてさきに『マオリの神話と伝
地図は全然付されていないので、ニュージーランドに馴
説』(1996、私家版)を作成した。このときアルパース
染みがない読者には物語の舞台がどのあたりか見当がつ
の著作は何度も熟読したけれども、翻訳許可条件が私の
かないであろうと考え、便宜のために地図を多数作成し
編集方針に全く合致しなかったので利用しなかった。し
て適当な箇所に挿入した。そして最後に写真も入れた長
かし、その後十年余に入手したいくつかの書物の中に非
い解説を付した。
常に興味深いかずかずの伝説・説話・資料を見出し、前
著を大幅に増補改訂する必要があると痛感したので、
『増補改訂 マオリの神話と伝説』の作成を計画した。
なお、後藤明『ハワイ・南太平洋の神話 海と太陽、
本文に関しては前著と同様に、蒐集した書物を全部精
読して比較検討・取捨選択しつつ、最善と考えられる訳
文を構成した。例えば創造神話では、天地分離、兄弟神
の闘争に続いて「マタアホのひっくり返し」、ルアモコ
そして虹のメッセージ』(1997、中公新書)は、オセア
神の存在があったことはアルパースの著作に書かれてい
ニア全体を展望して各地域の神話の共通性・類似性や差
たがグレイの著作では述べられておらず、アルパースの
異、特徴について民族学的に検討した好著であるが、比
著作を全く利用しない方針のために前著では触れること
較的紹介が精しいハワイ以外については、神話自体の引
ができなかったが、今回はマーガレット・オーベルの
用紹介はスペースの関係上必要最小限に抑えられてお
『図説マオリ神話・伝説百科事典』によって前著での欠
り、またそれぞれごく梗概に過ぎない。したがって各地
落部分を補うことができた。また、有名な「ヒネモアと
トゥタネカイ」の物語に匹敵する「トゥロンゴとマヒナ
ある。例えば超自然力伝説の「見えざる力アトゥア」
、「活
ランギ」のロマンを収録できたのは今回の大きな収穫の
力の貯蔵所マウリ」
、魔法伝説の「マナと魔力」
、妖怪伝説
一つであるが、リキハラ・ハイランドの著作を主体とし
の「パトゥパイアレヘ」、怪獣伝説の「各地のタニファ」、部
ているものの、副女主人公の後日談についてはマーガレ
族伝説の「古い先祖たち」の大部分などである。これら
ット・オーベルから補うことによって、物語全体を完結
は説話に比較すれば話としての面白さはないが、もろも
させることができた。これも編訳の効果である。
ろの説話を理解する上で十分意味があると考えるので編
各説話の末尾には訳文に直接利用したものを「出典」
として掲げ、同巧異曲のものないしは使用文献よりも簡
集・収録した。神話・伝説をただ楽しむ読者のほかに、マ
オリ説話の背景をより精しく知りたい人々のためである。
略なものを「参考」として示しておいた。「出典」を一
マオリ神話には、日本神話、ギリシア神話、ローマ神
つしか挙げていないものはその説話がその書物にしか見
話、北欧神話と同様に、壮大な神々のパンテオンが登場
出せない場合であって、これらはできる限りそれを忠実
し、神々は愛、憎悪、嫉妬、策略、復讐などで多彩な活
に訳出した。そういうものには移住伝説、起源・到来伝
動をする。そして他の国々の神話にも共通する要素(例
説、超自然力伝説、怪獣伝説、部族伝説などに多く見ら
えば国引き神話、洪水伝説、羽衣伝説など)がある一方、
れ、マーガレット・オーベルに負うところがかなり多い。
ポリネシア神話に共通する観念、伝統が明瞭に認められ
また訳文にして 1 頁程度の短編もかなり多く集録した。
る。そして神話は、祖先たちの功業を伝える伝説ととも
このプロセスで全体の分量は前著と比較すれば 2 倍近く
に重要な集会で語り継がれ、マオリ各部族の精神的支柱
にふくらんだ。なお、前著で独立の説話であったものを
を果たした。彼らがキリスト教化した現在においてもそ
新しく採用した説話群の中の 1 項としたもの、説話名を
れを無視することはできない。現在のニュージーランド
変更し配置場所を変更したもの、配列位置を変更したも
のパケハ(白人)とマオリという二文化システム(マオ
のなどがあるが、それぞれそうした方が適切だと考えた
リ語は英語と並んで公用語である)の一方の担い手であ
からである。
るマオリの文化、精神、プライド等々を理解しようとす
れば、マオリの伝統文化を濃厚に表現している神話と伝
Ⅲ.研究の成果
説を逸することはできない。その意味で、本研究成果は、
マオリ理解のためにも、また文芸的、神話学的、文化人
本研究の成果は原稿の複写を製本した『増補改訂 マ
オリの神話と伝説』にまとめた。これまでに出版された
類学的、社会学的にも、有用な材料を提供するものと自
負する次第である。
英語版のマオリ神話・伝説の書物は、前述したように、
最も集録ジャンルの広かったグレイのものでも限度があ
Ⅳ.今後の課題
った。それに対して、私の前著(1996)は極力幅広く収
録し、かつ体系的に配列しようとし、欧文・和文のいず
前著『マオリの神話と伝説』は少部数の私家版である
れの類書よりも詳細になったのであるが、それでも材料
ので、特定の公共図書館、公民館、若干の個人に献呈し
蒐集が不充分であったことは否めない。
たほか、若干の希望者に実費頒布することしかできなか
ニュージーランドで出版されたマオリ神話・伝説を収
った。今回まとめた『増補改訂 マオリの神話と伝説』
めた書物は多く、未見のものもいろいろある。しかし新
は質量ともに前著を大きく凌ぐものであるが、現今の出
しく入手した書物を加えた今回の研究成果『増補改訂
版事情からして著者が多額の負担をしなければ商業出版
マオリの神話と伝説』によって、 1 冊にまとめたものと
は不可能である。私にはそのような巨額の費用を負担す
しては、収録内容の量とそのヴァラェティではこれまで
る力がないので、提出成果を全部でわずか30部の複写本
にイギリス、ニュージーランド、日本で出されたものす
とし、福武学術文化振興財団、国立国会図書館、東京大
べてを遙かに凌ぎ、しかもそれらの収録説話全体が体系
学・京都大学・岡山大学・国立民族学博物館等の図書
的に分類整理されている点では、前著とともに世界に類
館、ニュージーランドの各国立大学の図書館、翻訳許可
例がないといえよう。かりに洩れた説話がいくつかあっ
を出していただいた出版社、貴重な資料の提供者など、
たとしても、今回の成果に大きな傷となるほどのもので
特定の範囲に献呈するに留めざるを得なかった。したが
はないと考える。訳注をつけるとすれば限りなく多くな
って、このままでは折角の成果がほとんど世に知られな
るが、あえてそうせず、話を話として楽しんでもらえる
いままに終わることになるであろうことが残念である。
ようにし、概括的な説明は巻末の解説にまわした。
もし幸いにして出版資金が得られたならば、そのときに
本成果には純然たる説話のほかに説明的記述の部分が
はぜひ公刊したいと考える。
【成果物】
『増補改訂 マオリの神話と伝説』(B 5 判348頁+vi頁、2008年) 30部複写をとり製本したもの