中国語の発音を巡る二つの問題 - 福岡大学

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【研究ノート】
中国語文教学の周辺
中国語の発音を巡る二つの問題
―「華」の姓の二声化現象・「iong」の表記と四呼分類をめぐって―
甲 斐 勝 二
評のある《現代漢語詞典》第5版(2007)に、
「华(華)
はじめに
huá:…… ③姓(应读Huà ,近年也有读Huá的)
」とあり、
教学に携わる方々はどなたでも同じだと思われるが、
また「华(華)huà:…… ②姓(近年也有读Huá的)
」とあって、
教室での授業中、教えていて「おや?」とか「あれ?」
本来は四声だが近年では二声でよむ姓も出てきているとの
とふっと思うことがある。時には発せられる学生からの
指摘があった。
《現代漢語詞典》の過去の版を遡って調べ
素朴な質問に、「そう言われれば」とか「確かに」と思
てみると、この記述は、1973年版の試用本にすでに見える
うこともある。その多くの疑問は些細なもので、いつ
ので*3、この「近年」が、第5版の出版された21世紀では
の間にか忘れてしまう程度のものだけれども、中には自
なく、遅くとも1973年の時点で、
「近年そう読むものもある」
分なりにまとめてとりあえずの結論を出しておこうと思
と辞書に書かれて掲載される程度には流通していたことに
うものもある。以下に述べようとするのは、課外授業で
なる。いつ頃からそうなったのか、明確なことは分からな
教えられた「華」の姓の発音から導いてみた問題と、毎
いが、この映画の用例は、この映画の作られた1957年には
年教室で発音の説明のおり不思議に思いながら、どうも
すでに二声の呼称が使われており、映画の審査を通すほ
はっきりしない「iong」の発音分類の問題と実際の発音
どに認められていたことを示す実例となる。
との関係についての覚え書きである*1。
2 姓に関わる声調の変化と併存の現象について
(1)華(姓)の声調をめぐって
同様に近年読み方を変えた姓の例がないか、ついでに
1 問題の所在
調べてみると、
《現代漢語詞典》第5版(2007)では「纪」
以前ある学会で、ある質問者が発表者の資料文中の「華
に「jǐ 名 姓(近年也有读jì的)
」とあるのが見つかった。
先生」の華を二声でよみ、発表者から「姓は四声でよむ」
この「近年は四声で読むものもある」という記述は1973
と修正されたことがあった。確かに文革を終わらせた華国
年版の試用本及び1986年版にはなく、1996年修訂本では
峰や、三国時代の名医華佗の姓は四声で読む。ところが、
記載されているから、この数十年に目立ってきた状況だ
先日課外授業で取り上げている1957年代の《今天我休息》
ろう。
「纪」の文字には各種の意味があるけれども、第
という映画の中で、
「華」姓の人物を二声で呼ぶ状況にで
三声では姓のみをその意味とする。身近にこの姓の人物
あった*2。どう聞いても二声である。当然、これはおかし
がいなければ、この漢字を見て通常使う第四声として読
いのではないかという指摘がでた。映画というものは大衆
まれるようになってしまうことも起こるはずだから、そ
娯楽に適したもので、多くの人間への宣伝効果も高いため、
こから始まる「約定俗成」だろうかと考えて見たが、漢
当時の中国では映画の公開ではかなり厳しい審査があった
字の審音の問題とも絡むのかもしれず、簡単に結論は出
と聞いていたから、そのような状況で公開された映画であ
ない。それでも「華」に指摘された近年の「姓」読音の
れば、当時世間では「華」姓でも二声で呼ぶこともあった
変化の状況が「華」だけの例でないことはこれで分った。
のかしらんと、そのとき手元にあった工具書を調べてみる
これを簡単に図示すると以下のようになる。
と、常用の《新華字典》には見えなかったが、これも又定
*1 なお、文中の漢字表記については、 中国の書籍からの直接引用以外は日本の対応する漢字を使っている。
登場人物の名は「華占魁」。製鉄所で働く労働者である。
*3 実際に見たのは龍渓書舎出版による影印版(1977)
*2 ( 1 )
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福岡大学研究部論集 A 11(2)2011
1957 1976 1996年
「华」huà → →
これは姓の呼称の変化に、簡体字による統一が影響した、
と考えることができる例となるかもしれない。
顕在化( huá )→《今天我休息》huá →《現代漢語詞典》収録
以上の推測はほとんど妄想だが、このような妄想でも
成立するかもしれないとすると、次はその変化の原因を
「纪」jǐ → →
顕在化 (jì) →jì《現代漢語詞典》収録
考えることになる。もちろん、事はそう単純ではなく、そ
《現代漢語詞典》に見える変化の指摘が姓の呼称の
の考察には、社会生活の変化といった人文的な要素もさ
実際の変化を映し出すものだと考えてみると*4、同書
ることながら、漢字の持つ表音面での曖昧性や、方言間
に指摘される、「勾」gōu と「勾」gòuが、また「相」
の声調の違い、及びその漢字を簡体字化して異体字や同
xiāng と「相」xiàngとが、声調が異にしながら姓とし
音字の統一を進める言語政策などの多くの要素が絡んで
て用いられる現象について、これら二つの発音が現在で
きそうな気がする。また、 思いがけない姓の由来という
は別のものとして区分されても、
「华」
・
「纪」同様以前
ものもあるに違いなく、今は同じ漢字でも由来が違う可
は同じだったのではないかとの推測が可能に思われた。
能性もある。今回は、固有の姓にも辞書レベルで声調に
つまり本来は一つの声調だった姓が何らかの要因で他の
よる変更が起きていること、その現象は嘗ても起こって
声調の呼称を持つようになったものが、すでに定着して
いたのではないかと推測されることを覚え書きとして記
今では併存している状況ではないかと考えたのである。
し、固有に思われる姓の発音も変わる可能性を示したい。
その原因はどのようなものなのかについては、この想像
(2)「 iong」の音を巡って
の正しさも含めて再度ゆっくり考えてみたい。
おもしろいと思うもう一つの例として「宁」nìngと
1 問題の所在
「宁」níng の姓がある。
《新華字典》
(第10版)は、
「宁」
中国語漢字音の標準が示されている《新華字典》には、
nìng に姓の訓をつけ、
「宁」níng にはつけていない。
注音字母とローマ字を併用して発音を示す漢語拼音方案
これに対して《現代漢語詞典》第5版は「宁」nìngに
が付録として載せられている。その韻母表の部分は表①
は姓の訓をつけず、姓だけの場合は別に異体字の「甯」
nìngをたてて、新たに「宁」níngに姓の訓をつけている。
表①
《応用漢語詞典》
(商務院書館2000)では、
「宁」nìng及
び「宁」níng共に「姓」の訓をつけているので、二つの
姓は同一の簡体字を使用しつつ平行して当時行われてい
るのが分かる。ところが《現代漢語詞典》は、試行本か
ら第3版増訂本(2002)までは新華字典と同様に「宁」
níng には、姓の訓をつけていない。第4版は手元にな
かったが、この第3版増訂本とほぼ同じと思われる
*5
。
だとすると《現代漢語詞典》はこの第5版で姓の訓を第
二声に新たに付けたことになる。これは、
「甯」姓の甯
も現在では「宁」と簡体化されており、姓もそれに併せ
て「nìng」と呼ばれるものから、もう一つの発音「níng」
で呼ぶものがこの間に現れ始めたことを示すものではな
いか。
このような変化は一瞬で起こることではないから、
それ以前に一定期間顕在化にむかう二つの声調の併存期
があったと考えるべきである。それを示したのが《応用
漢語詞典》の記述なのだと考えてみた。だとすれば、
《現
代漢語詞典》5版の処理は、その平行利用のなかで第二
声の流れも強くなってきており、そうやってできあがっ
た「宁」níngに明確に姓の訓を与え、
第四声の方には「甯」
と名前に用いる漢字を与えてその地位を確保させてい
るのではないかと推測できそうである*6。だとすれば、
*4 a
ㄚ 啊
o
ㄛ 喔
e
ㄜ 鹅
ai
ㄞ 哀
ei
ㄟ 欸
ao
ㄠ 熬
ou
ㄡ 欧
an
ㄢ 安
en
ㄣ 恩
ang
ㄤ 昂
eng
ㄥ
ong
ㄨㄥ
i
ㄧ衣
ia
ㄧㄚ呀
u
ㄨ乌
ua
ㄨㄚ娃
uo
ㄨㄛ窝
ie
ㄧㄝ耶
ü
ㄩ 迂
üe
ㄩㄝ约
uai
ㄨㄞ歪
uei
ㄨㄟ威
iao
ㄧㄠ腰
iou
ㄧㄡ忧
ian
ㄧㄢ烟
in
ㄧㄣ因
iang
ㄧㄤ 央
ing
ㄧㄥ 英
iong
ㄩㄥ 雍
uan
ㄨㄢ
uen
ㄨㄣ
uang
ㄨㄤ汪
ueng
ㄨㄥ翁
üan
ㄩㄢ 冤
ün
ㄩㄣ晕
《現代漢語詞典》第5版説明による。
第4版(2002)は手元にないので確認していない。第4版の説明は第5版に記載されていて、それによれば2002年に刊行しているが、
この第3版増訂本と同じ年月と同じ「説明」となっており、第4版はこの第3版増訂本のことかと思われる。
*6 この簡体字による漢字の統一も姓の発音の問題を考える上で、 今後考えるべき要素となるだろう。
*5 ( 2 )
中国語の発音を巡る二つの問題(甲斐) ― ―
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のように主にその介音i- u- ü-に注目した排列がなされて
書に付属する録音資料の聞こえを大切にさせて、先に進
いる(
《新華字典》商務院書館2004第10版)
。
む事になるが、文字通りに齊歯呼で発音してはいけない
一見して奇妙なのが、網掛けの部分、
「ong」「iong」
のかとか、どうしてこのずれが起こるのかに関しての納
の部分である。前者は注音字母で「ㄨㄥ」と書かれて本
得の行く答に巡りあうことがなく、本場の中国で出版さ
来uで始まる列の下(中国伝統音韻学における所謂合口
れる各種の解説書をみても、現象の指摘に終わり、では
呼)に置かれるはずだが、
介音なし(所謂開口呼)となり、
どちらで発音するのが正しいのかについては、その扱い
後者は「ㄩㄥ」と書かれてüで始まる列の下(所謂撮口
や説明にもそれぞれに違うようだ。
呼)に並べられるはずだがiで始まる列の下(所謂齊歯呼)
に並べられている。この問題は誰もが不思議に思うこと
2 各書籍の解説と付設の音節表について
で後に述べるようにこれに対する批判もいくつか見かけ
この「iong」と表記される発音をどのように分類するか、
る。通常この二音の所属問題は並べて触れられる事が多
それは中国で所謂《現代漢語》という名前で幾種類も出
いのだが、ここではまず「iong」に限って考えてみるこ
版されている現代漢語の概説書でも異なっている。
*7
とにしたい
例えば、つい最近修訂版がでた、邢福義主編の《現代
。
『岩波中国語辞典』
(1963・筆者が基づいたのは1983・
漢語》
(高等教育出版社2011)では齊歯呼に入れる。華
19刷・以後『岩波』と略称する)の序説「中国語の発音」
東師範大学出版の《現代漢語》(徐青主編修訂版2006)
では、先の表を引いて現代漢語の拼音方法を示した後、
では、発音の説明で「唇形略圆」とは説明するがこれも
この音を「ü」の系列に入れて実際の発音表をしめして
一貫して齊歯呼にいれており音節表もそう作る。上海教
いる。これは、
「iong」は実は「üong」だと理解するも
育出版社版の《現代漢語》
(胡裕樹主編1981)もまた齊
のでかつての注音字母の分類枠組みに沿うものだ。中国
歯呼に入れているが、発音は[ü]とするので、実際の
に伝統的な音韻学の四呼分類で言えば、
「üong」は介音
音は撮口呼と理解すべきものになっている。
に[y]を持つ撮口呼に入り「iong」は介音に「i」を持
一方甘粛人民出版社版《現代漢語》(黄伯栄・廖序東
つ齊歯呼に入るべき表記となる。
『岩波』では、これを
主編1985年)では、その音節表に表記「iong」のままで
撮口呼に含めているものの、
篇末に載せる音節総表では、
撮口呼の分類に入れている。商務院書館版《現代漢語》
(北
拼音方案を生かして「i」のグループに載せているので、
京大学中文系現代漢語教研室篇1993)の音節表も撮口呼
表記上は齊歯呼だが、実際の発音は撮口呼だ、という理
に分類していた。
解と見える。
以上の書籍に手元にある近年出版された数種のいわゆ
教学上、この表記と実際の発音の乖離の指摘は初学者
る《現代漢語》での取り扱いと、辞書や教科書など関係
に誤解を起こさせやすく、教室では経験上なるべく教科
書籍の扱いを表にしたものが以下の表②である。
表②
書籍名
出版社
出版年
主編
iongの分類
現代漢語
上海教育出版
1981
胡裕樹
齊歯呼
現代漢語
福建教育出版社
1983
上海教育学院
撮口呼
現代漢語
同上4版
甘粛人民出版
1985
2007
黄伯栄・廖序東
同上
撮口呼
撮口呼
現代漢語
同上修訂2版
華東師範大学出版社
1990
2006
徐青
同上
齊歯呼
齊歯呼
現代漢語
重排本
商務院書館
1993
2004
北京大学中文系
同上
撮口呼
撮口呼
現代漢語
人民教育出版社
2001
周建設
撮口呼
漢語通論
江蘇古籍出版社
2002
馬景侖
撮口呼
実用現代漢語
高等教育出版社
2006
袁彩云
齊歯呼
現代漢語
江蘇教育出版社
2008
銭乃栄
撮口呼
*7 以前学生用の発音教材を作成した折(《体会漢語》2005)、東北師範大ご出身の講師の先生は「o」の発音を明快に「uo」と発音され、従
来の教科書の発音とはいささか異なるように聞こえたので、その理由を尋ねると、
「そのように教えられた」と答えられた。音韻論的には「uo」
とすると発音の整理が進むのだが、すると今度は別の問題が起きるので(『新訂中国語概説』藤堂明保/相原茂 大修館1985)ここでは触れ
ない。
( 3 )
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福岡大学研究部論集 A 11(2)2011
書籍名
出版社
出版年
主編
iongの分類
現代漢語
南京大学出版社
以後付表
2009
卜玉平
撮口呼
現代漢語
高等教育出版社
(修訂版)
2011
邢福義
齊歯呼
上海教育出版社
1984
周殿福
撮口呼
簡明漢日詞典
商務院書館
1985
北京語言学院
齊歯呼
実用音韻学
齊魯書社出版
1990
殷煥先 董紹克
齊歯呼
世界漢語教学百科事典
漢語大辞典出版社
1990
王国安主編
齊歯呼
普通話水平測試
指要
華東師範出版社
1995
顔逸明
齊歯呼
普通話訓練教程
西南師範大学出版社
1996
任崇芬
齊歯呼
上海教育出版社
付録音節表
1998
王国安主編
齊歯呼
現代漢語自考測試
華東師範大学出版社
2000
常洋
齊歯呼
普通話水平測試実施綱要
商務院書館
2009
国家言語文字工作
委員会普通話培訓
測試中心
撮口呼
他参考
声母和韻母
(漢語知識講話)
標準漢語教程
(入門)
表②のうち、銭乃栄主編の《現代漢語》では、「iong」
入れたが、もし音韻体系全体から考えると、撮口呼に入
を撮口呼に分類してのち、この二音について、「漢語拼
れるべきである」とのべていた。
音方案の綴り方にそうならば、ong は開口呼に属させ、
しかしながら、近年漢語普及のために「普通話水平測
iongは齊歯呼に属さねばならないが、実際の発音からみ
試」が実施されはじめ、その折の模擬試験問題のなかに
て、それぞれ合口呼、撮口呼であり、それもこの韻母の
は、その問題制作の基づく視点によって正答が異なると
歴史的来源にそうものである。ローマ字の書き方が言語
いう状況も起きている。管見によれば、華東師範大学出
音の実際の音を反映していない時もあることは、指摘し
版の《普通話水平測試》(1995)では、これが齊歯呼で
ておく必要がある」
(p76)と述べ、この部分実際の音
あることを正答としていたが、商務韻書館の《普通話水
と表記の乖離を説いて、注意を呼びかけている。同様の
性測試実施綱要》
(2009・以後《綱要》と略称)ではこ
視点は馬景侖主編《漢語通論》でもみえる。馬氏は「ong」
れを撮口呼としている。どちらが正答なのだろうか。お
を合口呼に「iong」を撮口呼に並べた自分の音韻表を掲
そらく後者の《普通話水平測試実施綱要》は管見の及ぶ
げ、
《漢語拼音方案》
の韻母表との違いは
「
《漢語拼音方案》
ところ最新のものであり、国家言語文字工作委員会が作
はongを開口呼に、iongを齊歯呼に入れているところ」
成し、教育部の審訂を経たものであるので権威性も高く、
にあると述べる。そして馬氏の排列は「実際の発音に基
おそらく今後の試験の解答は「撮口呼」が正解になるの
づいて、ongは合口呼に、iongは撮口呼に入れた」(p152)
だろう*8。
ものだという。以上の二種の指摘は、実際の発音と《漢
もし、撮口呼の音が先に指摘されたようにその実際の
語拼音方案》の表記との乖離を指摘するものだが、この
音だとすると、現在ほとんどの辞書に見られる先の表①
発言は『岩波』と同様の認識に基づくものと思われる。
も、今後は教学上撮口呼に書き換えられて行く可能性が
或いは、
「iong」が表記する実際の発音は、当事者で
ある。なぜならば、表①は明らかに齊歯呼だと認定して
ある話者にとっては聞こえの差程度に収まるもので、実
並べているからである。もちろんローマ字表記自体は変
は目くじらを立てるほどのものではないものかもしれな
更の必要はないとしても、少なくとも撮口呼を示す「ü」
い。
《現代漢語》
(北京大学中国語言文系現代漢語教室編
のグループに置かれねば、教学上も困るはずだ。さら
商務院書館1993-7 p59)では、
「実際の発音ではしばし
に、日本の辞書や漢語教科書の音節表のほとんどは「i」
ば始めに円唇の要素が現れるので、齊歯呼でも撮口呼で
つまり齊歯呼の列に「iong」を入れている。そこには発
もかまわない。 漢語拼音方案は字母の形式から齊歯呼に
音記号がないものもあって、発音指導は教員に任せたよ
*8 ところがその《普通話水平測試実施綱要》の該当音の発音は[iuŋ]を標準としていて矛盾するように見えるが、これについては後に述べる。
( 4 )
中国語の発音を巡る二つの問題(甲斐) ― ―
31
うに見えるものがかなりある。これは「授業で勉強する
学拼音》(上海翻訳出版公司1987・4)である。ここでも
ように」と言うことでもあろうけれども、発音記号や但
同様の例文をのせており、それに添付する録音テープの
し書きがついていなければ誤解も起ころう。もし撮口呼
発音は、それぞれ一つずつの音をまず読み、その後つな
だというならば、いっそこれを撮口呼の部分に入れてし
げた発音がある。これを聞いてみるとやはり齊歯呼に発
まったほうが使用者を誤らせないのでよい。華東師範大
音しようとの姿勢が聞き取れるからである*11。
学出版社の《基礎漢語二十五課》
(1985)は、配列は「i」
の列においておきながら、そこに付せられた発音表記で
表④
撮口呼で有ることを示す。それよりも上海教育出版社の
ong
《標準漢語教程(入門)
》
(1998)に付録する音節表が「iong」
  s - ōng → sōng j - i - ōng → jiōng
のまま撮口呼に入れている方法をとる方が一層わかりや
zh - ōng → zhōng q - i - óng → qióng
すいだろう。かかる認識が進めば、表①も改められるこ
  l - òng → lòng x - i - ōng → xiōng
とになるのではないか。
では、もし「iong」の実際の発音が撮口呼に属す音だ
とすると、そもそも漢語拼音方案の作成の時期に、なぜ
もし、かかる指導が北京音を方言音とする場所から離れ
注音字母ですでに撮口呼と認められていた「ㄩㄥ」と記
た地方ですすめられると、その学習によりその場所の普
された音に、ローマ字綴り「iong」をわざわざえらび、
通には強く齊歯呼化した「ㄩㄥ」が確立し、それが北京
かつそれを齊歯呼に属すものと考えてたのだろうか
*9
。
これは考えて良い問題である。くどいようだが、発音が
以外の「普通話」の特徴となっている可能性もある。既
に調査がされているとすれば御教示を願う。
似ていて他との混乱がなければ、使用上は同じ音の発音
の幅の中に収まる。しかしながら、齊歯呼に分類された
3 漢語拼音方案の成立時の状況
ことは、齊歯呼性を前面に出して教学する状況を過去に
現在の漢語拼音方案は1955年・1956年と示された試案
導いていたように見える。例えば《文字改革》
(1958年6
を修正し、1958年に国務院によって批准され発布された
月)には、
《小学一年级汉语拼音字母教材》
(人民教育出
ものである。それは、それまで中国で試みられてきた各
版社小学语文编缉室)が掲載され、i - ong → iong
種表音文字の結論とも言うべきものであって、それ以来
と組み合わせて発音する表がある。これは「i」と「ong」
今に至るまで修正法案は公開されていない。
を順番に組み合わせで発音せよということである。この
この漢語拼音方案の説明である《関于漢語拼音方案草
教学法は1978年に第一版が出た《全日制十年制学校小学
案的説明・三関于草案内容的一些説明》7)において、
課本(試用本)課本》第一冊(人民教育出版社 中小学
1956年の旧草案からの変更を示してこう述べる。
「原案
通用教材小学語文編写組編 1978第一版。使用したのは
中のung・yng は、新草案ではong・iongにあらため、
1981第三版p19)でもみえ(表③)
、その教え方が継続
わかりやすい表記にする。iongのほうがyngに比べて実
されていた事が推察させる。
際の語音に符合している」
(
《中国語文》1957-11 総65期
p 9)
。これは旧案の撮口呼所属を新草案では齊歯呼へ
表③
の移行するという説明である。この新草案の「iong」が
齊歯呼と見なされていることについては、黎錦熙《漢
d ― eng → deng b ― ing → bing
語拼音字母的科学体系》
(
《中国語文》1958-4総第70期
zh ― u ― ang j ― i ― ong
p180)に示される「漢語拼音字母科学体系表」におい
ch ― u ― ang q ― i ― ong
て齊歯呼におかれていることから明らかである。
sh ― u ― ang x ― i ― ong
この齊歯呼と考える態度について、周有光は《漢語
拼音方案的争論問題及圓満解決》
(
《中国語文》1958-4
この表は左に並べられたものが合口呼で「u」を強調
総第70期p177)で、ㄩㄥの実際の読音は[iuŋ]だとし
したものとなっているので、右の「i-ong」の発音も齊
て、かつての国語ローマ字表記に「iong」と書いていた
歯呼としての発音練習を導く事になるはずだ*10。これ
ことを示し、それを受け継ぐことで「閲読と書写がより
と同様の教え方をするのが、表④の児童用の教材《児童
明確になる」と評価し、漢語拼音方案も「実用の便利さ
*9 《文字改革》1958-9 p17では、読者の質問にはっきりiongは齊歯呼だと答えている。
手元にある最近の小学校教科書では上海教育出版社版および人民教育出版社版ともにこのような齊歯呼性を明快に表記する部分が消え
ている。これは、この齊歯呼・撮口呼問題が微妙なものであることを伺わせるものだと推測している。
*11 勤務校の外国語講師の先生に録音テープでこの《児童学拼音》の「jiong /qiong/xiong」部分を聴いていただいたところ、jテープの話
者の教員側と学生側では、教員の方に齊歯呼で発音しようという姿勢が見られ、後に続く学生側ははじめは齊歯呼に聞こえるが、発音を繰
り返している内に撮口呼に聞こえてくるとのことであった。
*10 ( 5 )
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32
福岡大学研究部論集 A 11(2)2011
のために、この方法を使っている」とのべていた。つま
の表⑤は、新方案といくつかの代表的なローマ字表記を
り、この齊歯呼に入れるべし、という視点はこの新草案
注音字母に対応させて並べたものだが、漢語拼音方案が
からではなく、かつての国語ローマ字案にまでさかのぼ
この部分国語ローマ字の考え方の影響を受けていること
るというわけだ。こうやってわざわざ「国語ローマ字」
がわかる。旧方案、北方ラテン化新文字などが撮口呼と
を踏まえたものだと説明するところを見ると、やはりそ
しての表記で統一しているのに対して、国語ローマ字と
の扱いに疑問が呈せられる状況があったのだろう。以下
ウェード式に違いが見られる。
表⑤
注音字母
漢語拼音旧方案
新方案
北方語ラテン化新文字
国語ローマ字
ウェード式
ㄩ
y
yu
y(-jy)
iu(yu)
yü
ㄩㄝ
ye
yue
ye
iue
yüeh
ㄩㄢ
yan
yuan
yan
iuan
yüan
ㄩㄣ
yn
yun
yn
iun
yün
yng
yong
yng
iong
yung
ㄩㄥ
(《汉语拼音方案和过去四种方案的音节对照表》に基づく《文字改革》1958-3 p49)
国語ローマ字派が、この音を当初から齊歯呼と見る立
とされたローマ字案が「iong」を齊歯呼に並べていた事
場であることは、
1928年に交付された「国語字母第二式」
から分かる(表⑥参照)。
*12
表⑥(
《国語ローマ字簡介》付表参照 《趙元任語言学論文集》商務院書館2002p462 付録)
韻母 (基本形式)
开
y
a
o
齐
i
ia
io
合
u
ua
uo
撮
iu
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uai
uei
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au
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iau
iou
an
en
ang
eng
ong
iong
ian
in
iang
ing
uan
uen
uang
ueng
iuan
iun
(波線は筆者)
どうやら国語ローマ字系に連なる人々は「ㄩㄥ」で示
代漢語》
(北京大学)の指摘のように類似する発音なら
された音を齊歯呼と見なすべしとし、漢語拼音方案の修
音韻論の全体から見れば正しいとされる撮口呼に入れて
正案は最終的にはその主張に従ったらしい。
おくような表記をとっても良かったはずだ。ではわざわ
ここで問題になるのは、なぜこの国語ローマ字表記の
ざ齊歯呼に入れ直したのはいったいなぜなのだろう。
時点で、「iong」として以前の撮口呼説から齊歯呼説に
変わったのかということ、そして漢語拼音方案がそれに
4 実際の発音は[iuŋ]
(齊歯呼)か[yŋ]
(撮口呼)か。
従った理由である。漢語拼音方案の説明を参考にする限
念のため、その実際の音の聞こえについて確認してお
り、その理由は「表記の問題」
「実際の発音への近似性」
きたい。管見の及ぶところ、近年この国語ローマ字の判
にある。だとすると、拼音方案は北京音のその音は撮口
断を妥当だとするのが王理嘉であった。彼は「ㄩㄥ」の
呼の音ではなく国語ローマ字派が主張するように齊歯呼
音を持つ漢字は伝統音韻学ではそもそも齊歯呼に入るも
の音だという説を認めて改変したと考えねばならない。
のだとし*13、かつ「iong」と記すならば現代北京語の実
そうだとすれば、この「iong」の音は、元来齊歯呼に
際の発音に近いという(《漢語拼音運動与漢民族標準語》
近い音であって、注音字母作成の時点で撮口呼に入れら
王理嘉 語文出版社2003 p85)
。しかしながら、王力
れたことがそもそも問題だった、ということになりはし
の《漢語史考》(上冊 中華書局1980 p57 ~8)で示
ないか。しかし、例えば先に見た岩波中国語辞典での北
されるように、伝統的音韻学ではㄩㄥの発音を持つ漢字
京語の音韻論や先掲のいくつかの音韻解説の書籍を見る
の概ねが属す合口三等韻は撮口呼であり、齊歯呼は開口
限り、これを撮口呼としてとらえることには決して無理
二等韻に当たるのが一般的なので、王理嘉氏のいう伝統
があるものとも思われない。また新案でも先に見た《現
齊歯呼説はにわかには納得しがたい。ただし、そう記し
*12 なおこの辺の事情は『漢字の運命』倉石武四郎・岩波新書p92 ~参照。表⑥が基づいた本来の表が該書p98に掲載。
この伝統的音韻学では齊歯呼に入るという判断は、おそらく撮口呼の来源となるようなかなり以前の状況を念頭に置いているのではな
いかと思われる(王力《漢語史稿》参照)。現状では《現代漢語》(江蘇教育出版)の、「撮口呼にそもそも入る」という主張のほうが正し
いように思われる。
*13 ( 6 )
中国語の発音を巡る二つの問題(甲斐) ― ―
33
た方が現代北京語に近いものだとする視点は、先にあげ
だろう。だとすると、先に見たように、齊歯呼と撮口呼
た周有光の発言にも有るし、王力もこの合口三等韻の音
とは、その聞こえ方で、[i]の現れに重きを置くか[ü]の現
に「yŋ」をあてながら、実際には「iuŋ」と読むと述べ
れに重きを置くかという選択の違いにしかすぎなくなっ
ているように(同上書p190)
、決してよりどころがない
てくる。ただし、ここで注意しておかねばならないのは、
わけではないようだ。これを一般の人々に明快に説明し
この《綱要》では標準音を[iuŋ]としており、もしこれに
たのが、
《文字改革》
(1958年7月)の《信箱・拼音字母
沿うとすると、教学においては、こちらが優先されるこ
问答》にのせられた読者の質問に対する以下の問答であ
とになり、撮口呼的な発音は許容に含まれるという理解
だということだ。この理解は、先に挙げた銭乃栄主編の
る。
《現代漢語》や馬景侖主編《漢語通論》が表記と正しい
問:なぜㄩㄥをiongとするのが実際の発音に近
発音が異なるという指摘の発言とはまったく逆になって
いとするのか? üng と書いてはいけないのか。
いる。それは、漢語拼音方案の齊歯呼分類を公認しなが
答:ㄩㄥの実際の発音はㄩにㄥを加えたもので
ら、撮口呼の可能性を取り込もうとするものに思われる。
はなく、iongである。よって方案ではiongと書くよ
この説明は、漢語拼音方案の顔を立てると共に、伝統的
うに決め、üng とは書かない。実際に北京の語音
な音韻学にも配慮したやり方になっており、そこには折
を調べてみればわかるはずだ。
衷の苦労があるのだろう。誠に国家教育部の審訂を経た
にふさわしいものと言わねばならない。というのは、伝
この答では「iong」が齊歯呼であり、実際の音もそう
統音韻学の「呼」の考え方で分類する限り、結局はどこ
なっているはずだと述べる。とはいうものの、これまで
かに入れねばならず、入れてしまえばその「呼」性を重
見たようにこの音を実際は撮口呼だと聴く主張も根強く
視した発音となってしまうので、分類は伝統に従って撮
みられる。同様の現象に面して別の解釈が成立するとす
口呼に入れながらも、こうやって標準音を決めておく必
れば、問題となる発音の実際の音はどちらにも聞こえて
要があるという折衷案にならざるを得ないと思われるか
よいような音なのではないか、あるいはどちらで発音
らである。
されても類似の音になって、聞き間違われることはない
実際にはどちらで聞いてもよい音を、齊歯呼で聞こう
音なのである、という先に見た《現代漢語》
(北京大学)
とするか撮口呼で聞こうとするか、そこには二つの現象
の説のように理解せざるを得ないのだろう。
に対する視点の対立が推測可能である。齊歯呼派の視点
これに権威性を持って答えるのが、先掲の教育部審訂
は実際の聞こえに近づけるという立場であり実際の音を
による《漢語普通話水平測試実施綱要》の中での記述で
記すという国語ローマ字の目指した方向に立つものであ
ある。これは「普通話」の試験に用いられるものである
り、一方撮口呼派は伝統音韻学の枠組みの延長で考える
から、 その権威性はかなり高いものと思われる。そこで
という立場である。こうなると分類は視点の違いを反映
は、以下のように書かれている(p27)
。
したものとも言えるので、教学上は、うるさいことは言
わずにローマ字表記そのままに[iong]で指導しても問題
はなさそうである。
iong [iuŋ]
発音するときは、前高母音iからはじまり、舌は
しかしながら、 この議論は一つのおもしろい問題を次
後ろやや下方に向かって動き、後次高母音の[u]の
に導くのではないか。もし、王力や周有光或いは黎錦熙
位置に来て、それから舌の位置が上がり、鼻音の
などのように北京語のこの音を齊歯呼とするのが実際の
-ng に続く。後続の円唇母音の影響を受けて、始め
音に沿うものだとするならば、普通話が基づいた北京音
の前高母音iも円唇的になりü[y]に近似するので、
で、注音字母が「ㄩㄥ」と記した音は国語ローマ字作
[yuŋ]と表現してもよいし、[yŋ]としてもよい。伝統
成の時点で従来に言われるように撮口呼ではなく齊歯呼
漢語音韻学では撮口呼に帰属する。
として聞こえる状況があったということだろう。それに
従って撮口呼から齊歯呼に置き換えたのは、銭玄同の視
つまり、普通話の発音においては、[iuŋ]が標準だが、
点に見られるような伝統の音韻学理論への盲従を拒み実
実際に聞こえる発音は [yuŋ] でもよく[yŋ]でもかまわな
際の音に基づこうとしたものといえよう*14。当時口語
いという視点である。結局のところ、
この音は齊歯呼系・
ローマ字を考えていた趙元仁もその実際の発音が齊歯呼
撮口呼系どちらの発音に聞こえてもよい音だということ
に近いことをほのめかす発言をしている*15ので、齊歯
*14
国語ローマ字を提唱した銭玄同は、注音字母の表記にはふさわしくないものがあると考えている。ここで問題にしている音を銭玄同は
撮口呼ではないとし「ㄩㄥ」で表記するべきではないといい、またそのような考えが起こるのは伝統的な四呼分類にとらわれているからだ
と考えていたらしい。王理嘉《漢語拼音運動与漢民族標準語》(語文出版社2003 p34)参照。
*15
趙元任《国語ローマ字研究》《趙元任語言学論文集》商務院書館2002 原載《故国学月刊》第1巻第7期 1922-23)、ただし趙元任自身
は撮口呼に入るべきと考えていたようだ。後の著書《漢語通字方案》では撮口呼に入れている。
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福岡大学研究部論集 A 11(2)2011
呼の聞こえもあったことは確かだ。この音が実際は齊歯
かしながら、このような問題は幅の広い調査を必要と
呼に聞こえるという現象の指摘を撮口呼派に立つ研究者
し、もとより筆者の手には負えるものではない。今回は
はどのように説明するのだろうか。これはこの音が撮口
「iong」の発音は、表記通りでもよいし「üng」でもよい、
呼から齊歯呼化する変化の過程にあるということなの
と学生に答えてかまわないのではないか、というところ
か、またはその逆なのか、あるいは話者の階層の反映
まででこの問題は終わりにしたい。
があるのかなど、いろいろな説明が考えられそうだ。し
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