二項対立以前のカミ(130914更新)pdf(約300kb) - 民族と考古の私的

終 章
終 章:二項対立以前のカミ
1.
「遠い祖先」の記憶‐「石」と「土偶」
日本列島に住む人びとの霊魂観には、死者の霊が身近にあるという思考と、万物に命や
霊がやどるという思考があります。
霊魂に対するこの二つの考えには深い関係があります。
この関係を狩猟採集民であった縄文時代の人びとの思考にさかのぼって考えてきました。
第 1、2 章にて縄文時代の事象から読み取り、第 3、4 章にて歴史的に概観し、第 5、6 章
にて狩猟採集民の特有の思考から、日本列島特有の霊魂観を考えてきました。以下にこれ
までの概要をまとめておきます。
はじめに、縄文人の死のあつかいを考古学的事象から検討しました。縄文人の死者の埋
葬には「かつての死者」や「遠い祖先」といった存在が関係しています。かつて墓地だっ
た場を選んで、あらたな埋葬がくりかえされ、死者の再生を願う再葬墓に祖先像が用いら
れました。古い墓地には「かつての死者」や「遠い祖先」の記憶が埋め込まれています。
その記憶をたよりにあらたな埋葬や配石が行われました。再葬墓の祖先像は死者像ではな
く、他界に再生した祖先が表現されました。他界に再生した祖先に抱かれることによって
死者が他界へ旅立ちました。
これらの根拠となった事象がつぎの二つの考古学的事例でした。ひとつは縄文時代終末
における長期にわたる墓地の造営(
「遺構更新」と称しました)
、もうひとつが、弥生時代
前半における再葬墓にともなう「土偶」です。
ひとつめの遺構更新にはつぎのような特徴があります。
・縄文時代終末、一定の範囲に墓と配石からなる墓地が長期にわたり造営される。数百年、
ときに千年以上つづく墓地がつくられた。
・長期にわたって営まれるといっても、ときどき、つかわれなくなることがあった。断絶
期間は数百年、ときに千年におよぶこともある。
・墓地が断絶するのは、集落が移動するように、墓地も移動するため。別な場所に墓地が
できても、ときおり思い出したかのようにかつての墓地に墓や配石遺構がつくられたため
に断続的に利用された。
・継続しても、断絶しても、墓や配石遺構以外に住居などといったほかの遺構がつくられ
ない。この場には墓や配石遺構だけがつくられる。
ここからわかることは、当時この場に埋葬の場といった意味や記憶があった、その媒体
となったのが石の配列であった、ということです。当時この地域で配石墓や配石遺構が盛
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んにつくられました。配石墓や配石遺構をつくったことがあれば、すでに地面にある石の
配列がどんな意味をもっていたか(
「かつての死者」
、
「祖先」
)を知っていたでしょう。
ここで注目すべきは、ここでいう「かつての死者」や「祖先」は、今日の祖先観と違う
という点です。今日的な意味でいう祖先は、父や母をさかのぼる人物です。連続した血縁
や系譜関係にある人をさしますが、遺構更新における「祖先」はかならずしも連続した系
譜関係にありません。墓地が長期にわたって断絶しているからです。そこに埋葬されてい
る人物は血縁も系譜も不明な「祖先」です。血縁や系譜関係をもたない、いうなれば、つ
ながりがあるのかどうかわからない、どのくらい昔なのかもわからない「遠い祖先」とい
った意味に近いでしょう。この「祖先」
、
「遠い祖先」の記憶が墓地の造営の鍵をにぎって
いたのです。
しかし、墓地としての意味や記憶があったというだけではふたたび墓地とする理由にな
りません。当時、
「かつての死者」=「祖先」のいる場に埋葬すること自体になんらかの意
味があったのでしょう。当時の人びとは、
「かつての死者」や「祖先」の目印=石の配列が
あるこの地をふたたび墓地として選んでいます。墓地がべつな場に移っているにもかかわ
らず、断絶した墓地でも、以前と同じように墓や配石遺構だけがつくられます。
「祖先」の
存在を知らせる石の配列を更新することで死者が更新されます。あらたな死者を埋葬する
にあたってかつての死者の存在が利用されたのです。
では、
「祖先」のいる場に墓と配石の構築をくりかえすことにどんな意味があったのでし
ょうか。これについて、遺構更新に付随する再葬行為から考えてみました。
墓と配石遺構の構築がくりかえされる遺構更新に、ときおり再葬(複葬)行為が挿入さ
れます。数と位置から見てこの場に意図的に再葬されています。当時、土葬が圧倒的多数
であるのに対し、再葬はごくわずかな数しかありません。ごくわずかな数であったにもか
かわらず、この遺構更新の場に再葬された骨がおさめられます。
多くの葬送儀礼もそうですが、再葬(複葬)は他界での再生をはかる行為です。再葬(複
葬)では、他界での再生にいたる段階的過程が表現されます。数次の葬送儀礼によって徐々
に他界での再生(祖先との同化)がはかられます。一般に、一次葬によって霊魂が肉体か
ら離れ、最終的な埋葬によって霊魂が他界での再生をはたすと考えられます。
埋葬と配石をくりかえす場に再葬するということは、最終的な埋葬の地として「遠い祖
先」のいる遺構更新の場を選んだということです。かつての死者、
「祖先」とともに葬られ
ることによって、他界での再生がはたされたのでしょう。つまり、この場は「遠い祖先」
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終 章
との同化をはかる象徴的な場であったといえます。
この時期の墓地は、特定の空間に「祖先」の居場所をつくることが目的だったようです。
「祖先」と同じ場に埋葬されることによって、
「祖先」との同化=他界での再生が果たされ
ます。現代の系譜観とは異なる、時間のへだたりをも飛びこえてしまう「遠い祖先」が死
者を再生へとみちびいたのでしょう。
つづいて話を縄文時代終末につづく弥生前半に移します。弥生時代前半の墓から出土す
る「土偶」にも他界での再生に「遠い祖先」が関係していました。
当時の「土偶」は形態的に三つのものからなります。中実土偶と土偶形容器、顔面付土
器です。この三つの「土偶」は形状がそれぞれ異なりますが、顔面表現、乳房表現の欠如、
半身立像もしくは無脚肥厚といった人間ばなれした形態的特徴(規格性)を共有します。
東北南部から関東東部に分布の中心がある顔面付土器は成人骨の蔵骨器として、関東西
部から中部地方に分布の中心がある土偶形容器は幼児骨の蔵骨器としてもちいられました。
中実土偶は副葬品として土坑墓から出土するようになります。これまでの縄文土偶とは異
なり、いずれも墓から出土します。出土情況からも、三つの形態の「土偶」に共通した意
味があったといえます。
では、墓から出土する「土偶」の意味とはなんでしょうか。
そこで注目したのが、三つの「土偶」に共通する人間ばなれした表現です。容器形状と
してはかたちの異なる三つの「土偶」ですが、顔面表現、乳房表現の欠如、半身立像もし
くは無脚肥厚といった、人間ばなれした怪異的特徴を共有しています。
人間ばなれしているからこそ「土偶」は「祖先像」なのです。民族事例によると、墓に
関連したヒトガタの造形には、死者の形象的象徴である「死者像」とすでに他界での再生
をはたした「祖先像」があります。このうち怪異的表現をもちいるのは「祖先像」です。
この世での個性を失い、始祖と同化したことで神となった祖先に怪異的な表現が用いられ
ます。人間ばなれしているのは、この世との違いや他界での再生した様子を強調するため
です。この基準を適用すれば「土偶」は「祖先像」ということになります。
「祖先像」である「土偶」がもちいられたから、死者が他界で再生するわけではありま
せん。複葬(再葬行為)そのものが他界での再生を目指す行為です。この世でのかたちを
失うことで他界でのかたちをえるのです。この時期の「土偶」は他界での再生を表現した
「祖先像」であり、これを最終的な複葬の葬送儀礼でもちいること=再葬墓におさめるこ
とで他界での再生がはかられたのでしょう。
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縄文終末における遺構更新は、石が象徴する「遠い祖先」がいる場に埋葬されることに
よって、他界での再生をめざし祖先との同化をはかります。弥生前半の再葬墓は、最終的
埋葬で「遠い祖先」を表現する「土偶」に抱かれることによって、他界での再生を目指し
ます。
前後する二つの時期で、他界での再生に「遠い祖先」の象徴がもちいられました。縄文
時代終末から弥生前半にかけ「祖先」を象徴するものが石の配列であり、そして、
「土偶」
でした。それらは再生(祖先との同化)への道のりを表現する再葬で利用されました。い
ずれも再生に「遠い祖先」がかかわっています。
ここでひとつの疑問がわきます。縄文時代における「遠い祖先」
、当事者と直接系譜関係
をもたない「祖先」とはなんでしょうか。はたして、系譜関係不明な「遠い祖先」は今日
の霊魂観とつながりをもつのでしょうか。
つぎに歴史的変遷から縄文時代の霊魂観と現代のつながりを見ていくことにします
2.細分化される死と細分化されない霊の変遷
さきの考古学的事象の結果を受けて、歴史的、民俗誌的側面から日本列島に住む人びと
がもつ霊魂観の変遷を追います。歴史時代以降、列島に住む人びとは死や霊をどのように
考えてきたかということです。その結果、日本列島に住む人びとにとっての霊魂観には二
つの変遷がありました。細分化される死と細分化されない霊です。
まず、細分化される死についてみてみましょう。これはおおまかに言えば、死をこの世
から分離し、遠ざけ、生活に占める割合を減少させていく流れです。人の死についての観
念を歴史的変遷からとらえると、大きく三つの画期があります。平安時代後期(十世紀∼
十二世紀の変化)
、中世後期(十五、十六世紀の変化)
、そして、最近の戦後(二十世紀の
変化)です。変化の内容を概観すると、平安後期に他界の現世からの分離、中世後期では
死の個別化、戦後において死の隔離ということになります。
列島の史料でもっとも古い記紀神話や風土記に記された他界は、現世に存在する特定の
具体的な場でした。また、神話で語られるように他界へ行き来ができると考えられてきま
した。のちの浄土信仰などの抽象化された他界にくらべ、現世と他界とが未分化な状態で
す。
平安後期から中世前半にかけ、末法思想を背景に浄土信仰が広がりを見せます。他界は
極楽や地獄といった観念的で抽象的な世界で、現世から隔絶した世界として描かれるよう
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終 章
になります。極楽や地獄といった他界は、一度行けばふたたびもどることのできない遠く
の世界です。他界が現世から分離していきます。無常のこの世よりも極楽へたどりつくこ
とを重視する風潮が生じました。このような浄土へは、念仏を唱えることによって、そし
て、彼岸へみちびく垂迹を表象する供養塔の近くに埋葬されることによってたどりつくこ
とができます。誰でも極楽に行くことができるという意味で、一般民衆に広く開かれた信
仰でした。
中世後期以降、仏教教学において他界観念が縮小し、現世利益の傾向が生じます。死後
の救済以上に現世での安穏に関心が向けられるようになります。また、墓は個々人の供養
のためにつくられるようになり、イエを単位とする縁者がその墓を祈念します。子孫の追
善供養によって死者の霊魂救済がはたされ、祖先はイエの者を加護する存在としてその地
位を確立します。子孫による追善供養や霊魂救済は、イエの保護を目的とするという現世
利益の傾向をもちはじめます。他界は極楽浄土へおもむく死者の世界であるだけでなく、
現世の改善をもたらす支えと考えられるようになりました。これがイエを単位とする縁者
によっておこなわれることで、死者の供養は個別化され、墓標が一人一石という情況が生
じました。
このような個別化の傾向は、近代以降の「**家代々先祖之墓」とされる墓標で集団化
されたように思われますが、そうではありません。近代以降、宗教軽視と科学優先の風潮
から、他界観念はますます縮小し、死が物質化され、死を隠すべきものとする傾向が生ま
れます。死の隔離です。死が隠されることで、死への対面は個々人にまかせられるように
なりました。これまで以上に死が個別化しています。
他界と現世のあり方は、かつての現世と他界の融合した状態から、平安後期には他界の
現世からの分離、中世後期の死の個別化、戦後では死の隔離というように変遷しました。
現世と他界の対比でみた場合、他界を縮小、分化させ、死後の領域を次第にせばめていま
す。
一方で、細分化されない側面もあります。それは自然に対する霊魂観です。この世と隔
絶した他界とはべつに、人は死ぬと霊となり、ついには人格を失い、自然のいたるところ
に表出すると考える霊魂観があります。ときには、鳥や蝶になり、ときに霊は山に行くと
されます。この背後に、動植物をはじめとして岩や川など自然の無機物にまで霊があると
する霊魂観が関係しています。祖先はいつまでも人格をもった霊ではなく、自然と一体化
した存在になるというのです。
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自然と一体化した祖先の霊は特定の人格をもった存在ではありません。記紀神話などで
語られる人格神とは異なります。もともと自然のいたる所にいる霊や祖霊は、日本列島の
人びとにとってカミと同じ意味をもちます。
本来、霊もカミも特定の個人を指す存在ではありませんでした。
『古事記』や『日本書紀』
のなかで皇祖が人格をもった神(人格神)として登場する一方で、人格神と異なり姿やか
たちを変えるカミが数多く登場します。蛇や白鳥、鰐、松などの動植物や疾風や雷などの
自然現象、人がつくりだした刀や玉、鏡などの人工物、山や川、岩などの自然地形や自然
物まで神威をもったカミたちです。
そして、これらのカミは人間と相互的関係をもちます。人とカミとは対等で互いに影響
を与えあい、人がカミになる場合も、カミが人の姿になる場合もあります。善いカミもい
れば悪いカミもいる、優しいカミがいれば怖いカミもいる、人と結婚するカミもいます。
カミは超人的な力をもちますが、超人的な人がカミになることもあります。カミは人を超
えた力をもちながらも、人に似た性質もかねそなえています。
古代のカミに対し、近現代におけるカミはどうでしょうか。これについて『遠野物語』
から人と霊のあり方を見てみました。そこにはさまざまなカミが登場します。山の神には
じまり、山男と山女の話、家神(オクナイサマ、オシラサマ、座敷童)
、山の動物神(蛇、
鹿、狼、クマ、猿、狐など)
、天狗、河童、死霊の話、石や淵、森など自然物に関する話で
す。カミと人とが、互いにだましだまされ、悲しいことも楽しいことも、不幸や幸福を互
いにあたえあう身近な存在として登場します。
この物語でカミとの出会いについて特徴的なのは、具体的で身近な登場人物、場所、出
来事として語られる点です。身近に感じることによって、物語は聴者の感情に直接訴えか
けます。
物語の内容を事実か否かとして疑うことは可能でしょうが、
身近であるがために、
不思議な出来事とカミの存在を結びつける感覚を生み出します。そこには、身のまわりに
あるすべてのものに霊があり、人はその霊と相互に働きかけをもっているという感覚が生
きています。
日本列島における死のとらえ方、霊のとらえ方を歴史的変遷からみると、ここには二つ
の側面があります。人の死について、死後まもなくは死霊として人格をもった存在として
あつかう態度と、その後、人格を失い自然神と一体となった存在である霊(カミ)として
あつかう態度です。死霊へのあつかいは歴史的変遷でみたように、人格をもった死霊につ
いて死の領域が縮小し細分化する流れがあります。一方で、カミとしての霊のあり方は、
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終 章
古代以来、カミと人とが相互性をもつ(相互に同様の働きかけがある)と考えられている
点でほとんど変化がありません。
3.
「遠い祖先」とカミ
このとき、考古学的側面からとらえられた「遠い祖先」はどこに位置づけられるのでし
ょうか。縄文終末から弥生前半において「遠い祖先」を象徴するものは配列された石であ
り「土偶」でした。
「遠い祖先」とは、直接的系譜や血縁関係とは無関係な「祖先」であり、
他界に再生した「祖先」です。歴史的変遷における現世で人格をもたない自然神などの霊
(カミ)と同じです。
くわえて、遺構更新にみられるように、すでにある石の配列に「遠い祖先」を見いだす
のは、自然のなかに霊の存在を認識することと同じでしょう。また、
「遠い祖先」への同化
が他界への再生を意味することも、カミと人とが互いに影響をあたえあう関係にあるから
です。
弥生前半の「土偶」についても同様です。
「土偶」にも「遠い祖先」
、
「祖先神」としての
意味が付されていました。カミの表象が葬送にもちいられることによって人は他界に再生
するというように、カミと人との相互性が作用したのでしょう。
しかし、
「土偶」とそののちのカミには断絶があるようです。
「土偶」は具象として表現
された「遠い祖先」
、カミですが、歴史時代以降、カミは自然物そのものもしくはかたちの
ない霊的存在であって具象化の対象ではありません。これは、この弥生前半の「土偶」が
消滅することをもって、縄文土偶をはじめとする縄文土器にみられるようなさまざまな装
飾が消滅することとも関係しているように思われます。
「土偶」
が消滅する弥生時代後半は、
関東地方で本格的農耕社会として変容を迎える時期です。
なぜ、弥生時代に入って農耕社会が本格化するときにこれらの装飾性の強い具象的表現
が消滅してしまうのでしょうか。そこには狩猟採集社会と農耕社会の思考の違いが反映し
ていると予想されます。
4.融合する世界観
つぎに狩猟採集民における他界のとらえ方や霊のあり方
(カミと人との相互性のあり方)
について見ていきます。ここでは、狩猟採集民の霊魂観について、人の死や生に対する行
為や観念、獲物となる獣の死に対する行為や観念に焦点をあてました。
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狩猟採集民にとっての他界は、この世からおもむくばかりではありません。両世界を行
き来することが可能な世界と考えられています。彼らにとっての死後の世界は、現世と異
なるとはいえ、現世と鏡写しの世界であり、霊的存在としての人が住む世界です。実際に
この世にある特定の具体的な場所として、他界や他界への入口が語られます。
人間だけに現世と他界(死後の世界)があるわけではありません。動植物にも現世と他
界が存在し、動植物も死ぬと他界(カミの世界)で霊的存在となり人として生活すると考
えられています。人は霊的存在として、死後の世界のみならず動植物の霊との交流が可能
です。この霊的交流によって、人間と自然、現実世界と霊的世界の関係に影響をあたえま
す。
狩猟採集民にとって、人間と自然、現実世界と霊的世界といった四つの世界は対立して
いるのではなく、融合し、相互に働きかけをもつ関係にあります。狩猟採集民にとっての
人間と自然は、それぞれ別な世界であるといえども、行き来が可能であり、その境界は非
常にあいまいで、現実世界に霊的世界を感じとることができるほど身近な存在です。
空間的な広がりばかりでなく、時間的広がりのうえでも、これら四つの世界が作用しあ
っています。これは、現在が過去の反映であり、未来が現在の影響のもとにおこるという
考えに似ているように思えますが、彼らにとっての原因と結果、因果関係は時間的前後関
係にありません。呪術、予言、夢見などは、現在は過去の投影であり、未来が現在に写し
だされることのあらわれです。
そこに客観的な時間や因果を求めるのは意味がありません。
現在にいたる因果として、現実世界としての過去や未来ばかりでなく霊的存在としても語
られています。
現世における人と自然、霊的存在としての人と自然といった四つの世界は、我われから
見た世界であって、狩猟採集民である当事者から見た世界はどうもそうではありません。
すべてがひとつの現実世界に融合されています。
では彼ら(狩猟採集民)にとっての現世と他界の融合はなぜ生じるのでしょうか。その
要因として狩猟採集民特有の本質的な戦略があります。その戦略とは自然や他界に寄りそ
い同化することです。
狩猟採集民は最初から世界が制御できないことを知っています。自然はかならずしも彼
らの知識どおりになるとは限りません。彼らのおびただしい自然に対する知識をもってし
ても解決できないものがあることを知っています。それでも命をかけて判断しなければな
らない場面があります。これを彼らは多くの知識のほかに洞察や直感、夢などの想像の飛
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終 章
躍によってのりこえようとします。自然に限りなく寄りそい同化することで、皮相な事実
を迂回してもっとも重要な知識にたどりつこうとします。自然界は相対すべきものではな
く、寄りそうべき存在です。そこにある考えは対立ではなく、現世における人と自然、霊
的存在としての人と自然といった四つの世界の融合と相互性です。
一方、農耕民は、狩猟採集民と違い、食糧確保をさきのばしして、さきに土地や労働な
どの莫大な投資をおこない、このくわだてを妨げるものを排除し、周囲の環境から利用で
きる資源を選り分け、最大限の収穫をえることによって生活を保障しようとします。土地
や周囲の環境に手をくわえ、管理し、発見をかさね、技術を革新し、つぎつぎに土地を開
拓しなければなりません。農耕民にとっての世界は、その姿をたえず変えつづけなければ
ならないものなのです。とり入れるべきもの排除すべきもの、つくりかえることのできる
ものできないもの、征服できるものできないものなどといった、取捨選択をくりかえすこ
とによってたえず拡張を成しとげようとします。彼らにとっての自然は克服すべき対象な
のです。二項対立はこの拡張の原理にもとづく農耕民の意思表示です。
狩猟採集民の抱く死生観は、人間と自然といった両世界における融和と近縁性に支えら
れています。両者は対比や異質性が強調されるのではなく、融和と近縁性によって相互に
作用しながら霊的世界と現実世界が融合しています。一方、農耕民にとっての世界は対立
に満ちています。農耕民は世界を自己の責任において資源を選り分け、取捨選択すること
で自然と対峙します。この二項対立的思考、演繹的思考が、あの世とこの世、動植物(自
然)と人間といった分化、対立を生み出したのでしょう。
5.狩猟採集民としての縄文人の霊魂観
ここに考古学的側面や歴史的変遷からみた霊魂観をかさねてみましょう。
縄文時代の具体的な事象のなかで、あらたな死に対して、かつての死者を利用すること
でかつての死者との同化がはかられました。この象徴的な行為が遺構更新であり再葬行為
でした。このときのかつての死者とは、特定の具体的な死者ではありません。特定の誰々
もしくは誰々の祖先といった具体的な人物ではありません。血縁や系譜があるのかどうか
わからない、どのくらい遠い祖先なのかも不明な、いうなれば「遠い祖先」といった象徴
的な霊が利用され、同化の対象となったのです。
縄文の人びとにとってこの「遠い祖先」が、現世と他界のはざまを結ぶもしくは媒介す
る存在であったと想定されます。現世と他界が隣り合う、もしくは内包する象徴が集落内
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の墓地であり、石の配列でした。石の配列は「遠い祖先」を身近に感じさせ、
「生きた存在」
として記憶装置が作用します。
これを縄文時代の遺構更新以外のほかの墓地に広げて考えることも可能でしょう。なぜ
ある一定の場に墓を集中させるのか。それはそこに他界を創出するためであったと考える
ことができます。現世と他界が隣り合うもしくは内包する象徴が集落内につくられた墓地
の姿です。
「祖先」の眠る同じ場に埋葬することで同じ他界に生まれ変わったのでしょう。
「祖先神」が「土偶」として具象的表現をとる姿も、その姿が彼らにとって身近なもの
だったからでしょう。我われにとって怪異的に見えるのは、すでに我われにはその姿がカ
ミの姿として想像できなくなっているためです。彼らはそれを現世で表現することによっ
て、現世のなかに他界を創造していたと思われます。
縄文時代における現世のなかに他界をつくり出す装置は、石の配列や「土偶」だけでは
ありません。それを媒介するものとして火があります。火は土器をつくり「土偶」を生み
だし、遺骨を焼くことで他界へ送り出す、現世と他界を仲介する意味をになうものです。
この点で人の墓に焼人骨と焼獣骨がおさめられていることも重要です。この直接的な意味
を知ることはできませんが、異なるもの(人骨と獣骨)に対し同じ処理をおこなっています。
火をもちいた行為に共通した観念が存在したのでしょう。
縄文の人びとにとって現世と他界を隔てるものはそう大きいものではありません。現世
と他界のみならず、彼らには人と自然とを隔てるものもまた大きいものではありません。
ましてやそれらを対立としてとらえる二項対立的思考は狩猟採集民としての彼らにはふさ
わしくありません。狩猟採集民として自然に寄りそう思想原理が、現世と他界、人と自然
といった対立思考から生み出される四つの世界を結びつけ、それらが相互に作用するひと
つの世界を形成します。その象徴として「祖先」といった存在があるのでしょう。
ところが、稲作を中心とする農耕社会がはじまると四つの世界は分化し始めます。人間
と自然、他界と現世が離れはじめることによって、具体的な姿をもったカミの想像力は失
われ、かたちのない霊としての存在だけが残ったのでしょう。これ以降、怪異的偶像や日
常品の立体的装飾は影をひそめるようになります。
それはちょうど、平安末期における他界の現世からの分離に似ています。他界が現世に
入りこんでいた古代は、
他界が現世において具体的な特定の場所にありました。
ところが、
他界が抽象化するにつれて、極楽浄土として現世から遠ざけられるようになります。他界
が抽象化され、現世から隔離した世界として描かれるようになるにつれ、それまで現世に
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終 章
具体的な場所としてあった他界の姿が失われていきます。同様に農耕社会が本格化するこ
とで、それまで現世や隣接した場にあったカミの世界が遠ざけられることにより、カミの
姿が現世でのかたちを失い抽象化していったのです。
四つの世界の分離は徐々に進んでいったのでしょう。農耕社会にはいってただちに四つ
の世界が分離したわけではありません。古代には、まだ他界が現世の特定の場に存在して
いました。さきの想定によれば、まず具象化されたカミの姿が失われ、ついでカミの世界
や他界がこの世での姿を失ったことになります。ちょうど稲作社会に入りそれが広まる、
弥生時代から奈良・平安時代にかけ、段階的にこれら四つの世界が分離していったのでし
ょう。この分離の過程については今後の課題です。
こののち、死者の世界がますます細分化され、縮小していったことは歴史的変遷として
述べたとおりです。これは死者として人格をもった死霊がいる世界です。生前の人格をも
つがゆえに厭離穢土や欣求浄土といった遠くの他界に行くのです。この他界への想像力が
ますます抽象化するに従い、死霊の世界は細分化し縮小していきます。
一方で、人格を失った霊に対する考えは、自然と同化する霊やカミとして受けつがれま
した。記紀神話や風土記に語られるかつての草木がもの言う世界です。これらに登場する
超人的性格をもったカミは現代にまでその痕跡が認められます。自然物に感じる霊的存在
として、またその霊的存在が現世に影響をもたらすという感覚としてそれらが保存されて
います。
縄文人にとっての死とは、配石の更新に象徴されるように、
「祖先」との同化=死者の更
新を意味します。配石を更新することによって他界が更新されます。現世での終わりを意
味する一方で他界での再生を意味します。
彼らにとっての死は他界での誕生です。
他界は、
縁者、友人が、
「遠い祖先」の霊とともに暮らす世界であり、動植物、自然物が人の姿をし
て暮らすカミの世界ととなりあわせでした。他界に暮らす霊やカミは、自然のいたるとこ
ろにあらわれ、霊的存在として現世と共にありました。現世の生活は霊的存在としての他
界に支えられ、
他界も現世から支えられるという相互性にもとづく社会であったはずです。
狩猟採集民である縄文人にとって、死者の霊は、万物に宿る霊やカミと共に、自然の隙
間なるさまざまな場所にある他界に再生しながら、現世を生きる当時の人びとと共に暮ら
す存在であったと思われます。
人と自然、現世と他界といった四つの世界の相互性を支えるものは、人間以外の動植物
や自然界への真摯なまなざしと想像力です。自然はけっして人間の思い通りになるもので
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はありません。狩猟採集民は思い通りにしようという思考ももちあわせてはいません。彼
らは自然の一部としての自らをわきまえている人びとです。
農耕はこれら自然や動物のなかで人間に有益なものを選びだし、自然から切り離し、そ
の一部を改変することで成り立ちますが、狩猟採集はそうではありません。狩猟採集民の
たよるべき、食料や建材、道具の一部となる自然は、自然の一部かもしれませんが、自然
から切り離すことはできないことを彼らは知っています。これら有益なものは人間のかか
わりとは別にほかの自然との関係のうえにあること、自然がその一部たりとも欠くことは
できないということを知っているのです。そして、その一部として人間がいることを知っ
ています。自然に対し人間としての自己を投影する想像力こそが彼らの人間たるゆえんで
した。
人間の命をかけた自然とのやりとり、自然とのかけひきで生じる感情によって、人は自
然に対し無意識のうちに自己投影をしようとします。これによって人は自然と相互性をも
ち、互酬性が成り立ちます。本来的な人間同士の助けあいや相互性、互酬性が、自然に投
影されることで、自然との信頼関係を勝ちとり、自己の存在を確かにすることが約束され
るのです。
本稿においてこれまで、自然との同化や相互性に支えられた思考と、自然対人間および
現世対他界の対立として描き出す思考を対照的に描いてきました。しかし、現在、日本列
島に住む人びとの思考にはこの融合と対立の思考が共存しています。これらの信仰をアニ
ミズムとして片づけるのは短絡的すぎます。一見、この二つの相容れない思考を私たちは
難なくのりこえています。たとえるなら糊とハサミを両方もっているようなものです。そ
れぞれの共通性を結びつけあう思考と細かく切り分けていく思考です。この両方の思考を
対立させることなく、さらに融合させ、共存させています。対立の思考を、さらに、融合
の思考で覆っているともいえるでしょう。
約二〇万年前に現生人類が誕生し、農耕社会が開始されたのはわずかここ一万年ほどで
す。人類史で九五%以上を狩猟採集民として適応してきた人類の思考が、わずか五%たら
ずのうちに大きく入れかわってしまったように見えます。そんななかで、日本列島の人び
とは、狩猟採集民であった思考を知らず知らずのうちに引きつぎ、土台として融合させて
いるのです。
6.互酬性のウラにある利他性
156
終 章
本来、自然との結びつきや自然との一体感は、かつて全世界に暮らしていた狩猟採集民
に共通するものだったでしょう。そのひとつとして日本列島に住む人びとの霊魂観をテー
マに述べてきました。
最後に、自然との結びつきによる現世と他界、人と自然が同化する世界観がなぜ狩猟採
集民に生み出されたのかについてふれておきたいと思います。
さきに見たように、縄文社会を含めた狩猟採集社会の霊魂観には人の現世と他界のあり
方が自然に投影され、自然(身のまわりの動植物やもの)が擬人化されています。つまり、
自然にもこの世とあの世があり、それらの世界はちょうど人の生死と鏡写しのような関係
にあります。たとえば、アイヌのクマ送りでは、クマをわが子のように育て、数年後にカ
ミの国に多くのお土産とともに送り出します。カミの国にお土産と共にもどった霊は、宴
会を開きアイヌモシリでの出来事や多くのもてなしを受けたことをほかのカミたちに話し
ます。ほかのカミたちもこれを聞いてアイヌモシリを尋ねてみたくなり、ふたたびカミが
クマの姿となってアイヌモシリを訪れる、と考えます(久保寺 2004、p29~35)
。動植物や
自然は人と同じように霊をもち、あの世とこの世を行き来します。まるで自然と人間は対
等の存在です。
なぜこのような投影がなされたのでしょうか。
狩猟採集社会において人と自然は互酬的関係にあります。自然のなかにある獣や植物な
どを採取しそれを生活の糧としていました。そのかわり人は自然を愛おしみ敬わねばなり
ません。そして、ときに人は命をかけて自然に立ち向かわねばならないことがあります。
自然と人とが相互に命のやりとりをおこなっているという関係にあることを狩猟採集民自
らが自覚しています。
なぜ互酬的関係にあると考える自然に対し自らを投影するのでしょうか。
ひるがえって、
なぜ自らを投影することによって人は自然と互酬性を結ぼうとするのでしょうか。
これについて互酬的関係にある自然に対する認識という点から考えていきます。それに
はやや話がとびますが、人の利他行動からみた共感の視点をもちいます。
なぜ人は人間たりえるのかという問題について、最近、動物行動学、心理学、脳科学の
分野で非常に興味ある議論がなされています。人は人と分かちあうために人間たりうると
いう考えです。他者の喜びをわが喜びとし、自発的に分けあい、助けあおうとする利他行
動が人間に共通する特徴だというのです。たとえば、ものは分けあうものだと教わってい
ないにもかかわらず、幼児はさかんに親(とくに母親)にものをあげる仕草をします。幼
157
児はその行為によってなにかをえようなどとは考えていません。自発的にまるでその行為
は当たり前であるかのようにおこないます。このような自発的利他行動は、人にもっとも
近い類人猿にもそう多くみられるものではないようです。
これについて面白い実験がおこなわれました。チンパンジーの利他行動についての実験
です。京都大学霊長類研究所、山本真也らは、隣りあう透明な二つの実験室にチンパンジ
ーをそれぞれ一個体ずつ入れて実験をおこないました(小田 2011、p170、171)
。両方の
部屋をへだてる壁には手が通るくらいの穴があけられ、チンパンジーはそこから腕が出せ
る仕組みになっています。そこに片方の部屋にはストローがないと飲めないジュース入り
の容器があり、もう片方にはステッキをつかわなければ届かないような部屋から少し離れ
た場所にジュース入りの容器が用意されています。しかも、それぞれの部屋には相手が必
要とするストローとステッキがあります。つまり、ストローが必要な部屋にはステッキが
あり、ステッキが必要な部屋にはストローがあります。二つの部屋をへだてる壁には穴が
あいているので、お互いに道具を交換することができ、お互いに道具を交換すれば両方と
もジュースにありつくことができます。
透明な部屋なので相手がなにを必要としているか、
人間であれば分かってしまうでしょう。これを類人猿であるチンパンジーに対しおこなっ
たのです。
この実験の結果、チンパンジーでも相手に道具をわたす行為が多くみられました。しか
し、相手に道具をわたす場合の七〇%強が、相手が壁の穴から腕を伸ばしたり、声をあげ
たりといった要求に応じてのものでした。自発的に道具をわたしたのはわずか一五%程度
しかなかったというのです。
似たような実験で、片方の部屋だけに道具を必要とする状況でも実験がおこなわれまし
た(小田 2011、p171、172)
。この場合、道具をわたす方にはなんの利益もありません。
これを母子のペアだけで二四回おこないました。母子関係にあるのだから、自発的利他行
動が多いと思われるかもしれません。しかし、相手に道具をわたす行為は認められるもの
の、やはりここでも自発的な手渡しはほとんどなく、相手の要求に応えてわたすことが多
かったといいます。
透明な壁越しであっても相手の必要とする道具を理解していることに類人猿としての親
近感がわきますが、理解していてもそれを自発的にわたすことはほとんどないということ
に違和感を覚えます。人の場合、利他行動はかなり自発的なもので、たとえ頼まれなくて
も相手を助けようとすることはよくあることだからです。チンパンジーの場合、相手がな
158
終 章
にを必要としているのか理解はできるのですが、相手の要求によってはじめて利他行動が
可能になるのです。チンパンジーからすれば、人間はお節介な猿といえそうです。
人間の利他行動の実験を見てみましょう。小田 亮により紹介された「独裁者ゲーム」
です(小田 2011、p52 54)
。この実験ではまず実験者からあなたに七百円がわたされま
す。この七百円をほかのもう一人の参加者と分けあわねばなりません。全額自分でとって
もいいし、一部をとり、残りを相手にわたしてもかまいません。相手はまったく知らない
赤の他人で、自分も相手も顔も名前もわからない状況でおこなわれます。これを小田の研
究室の大学生三一人におこないました(この場合でも相手がそれぞれわからない工夫がさ
れています)
。その結果、全額自分のものにしてしまうのは二人だけで、もっとも多かった
のは四百円を自分がとって、残りの三百円を相手にわたすというパターンだったというの
です。この結果は先進国といわれる日本で、研究室という特定の集団でおこなわれたから
ではなさそうです。小田は、ブリティッシュ・コロンビア大学のジョセフ・ヘンリックら
による、世界中に散らばる生業を異とする一五の集団を対象とした同様の実験を紹介して
います(小田 2011、p54 56)
。世界の狩猟採集、焼畑農耕、漁労、牧畜など多様な生業
をもつ人びとを対象に、同じ「独裁者ゲーム」をもちいて実験がおこなわれました。この
実験でわたされる報酬は、それぞれの社会における一日労働収入をもとに算出されていま
す。この結果、それぞれの社会で相手に分配した額の割合の平均をみると、二五 四五%
のあいだに散らばっていました。人間はどうも、文化や生活習慣、生業に関係なく、全額
自分のものにせずいくらか相手に分ける傾向がある、利他性をもつという結果がしめされ
ました。
でも実際の社会でこんな単純なことはありませんし、実験なのであらかじめ実験者から
お金があたえられている(余力がある)という状況が用意されています。現実には、公共
の電車やバスで席を譲るにしても、金銭的に困っている人を助けるにしても、それぞれの
状況によってかならずしも利他行動が生じるわけではありません。席を譲りたくても譲れ
ない、お金をあげたくてもあげられない状況があります。しかし、小田によれば、この独
裁者ゲームは単純であるがゆえに本来人間に備わった利他性をはかることができるといい
ます(小田 2011、p56)
。
7.利他性の強化
なぜ人は自発的に、まったく利害関係がないような人物に対しても利他行動をとろうと
159
するのでしょうか。
類人猿には自発的利他性があまりみられないのに対し、人間には共通して自発的な利他
性が認められる、となると、それは人間のこれまでの歩み(進化)によって強化されたと
考えることができます。利他性は人類が生き残るための手段としてとられた戦術だという
のです。では、利他性を強化する要因となったのはなんでしょうか。最近の研究でこれら
の要因についての追求がなされています。これまでの研究によると、利他性を発達させた
要因として、他人からの評価(特に他人の目と異性からの評価)による強化と、裏切り者
の排除にあることがわかってきました(小田 2011、p56 84)
。いずれも心理学的な実験
によってそれらがしめされています。
たとえば、他人の目に関する実験では、ニューカッスル大学のメリッサ・ベイトソンら
がおこなった「正直者の箱」という実験があります。大学に置いてあるドリンクサーバー
で紅茶、コーヒー、ミルクを自由に入れることができるという状況でこの実験はおこなわ
れました。ただしそこには注意書きでそれぞれの代金が書いてあり、それを正直者の箱の
なかに入れることになっています。このドリンクサーバーは物陰にあり、ほかの人と顔を
あわせることなく飲み物を利用することができ、学生もそのシステムに慣れ親しんでいま
す。その注意書きのところにこちらを見ている目の写真と花の写真を、一週間おきに交互
に配置させたのです。これによると、目の写真が貼り出された週に「正直者の箱」に入れ
られた金額が高く、花の写真の週は低いという結果がえられました。貼り出される写真に
よって週毎に変動し、
目の写真がおかれたときは花の写真の二・七六倍の金額が箱に入れら
れていたというのです(小田 2011、p61、62)
。人は他人からの評価、とくに目によく反
応するようです。目の写真によって他人からの評価を無意識のうちに感じとっているので
す。
異性からの評価では、ケント大学のウェンディ・アイデールらがおこなった実験が紹介
されています。参加者が慈善団体に報酬の一部を寄付するというもので、参加者が一緒に
立ち会う人によって寄付する金額に影響があるかを見る実験です。実験は、参加者が一人
でおこなう場合、男性が傍観者として立ち会う場合、女性が傍観者として立ち会う場合に
分けておこなわれました。その結果、ほかの条件ではせいぜい寄付金額が報酬の三 四割
程度であったのに、女性を傍観者として男性が参加する場合、寄付金額が報酬の六割近く
に跳ねあがったのです。男性は、女性が見ているとき見栄を張ってでも利他行動をとると
いう傾向があるようです(小田 2011、p80、81)
。
160
終 章
裏切り者の排除については非常に興味深い実験が数多く紹介されています。人は利他的
傾向がある一方で、非利他行動を強く拒絶するというのです。それは利他的でない人物に
対する罰というかたちで生じます。チューリッヒ大学のエルンスト・フェアらがおこなっ
た実験は、
「独裁者ゲーム」を変形したもので、参加する人がひとりの分配者と複数の参加
者に分かれます。分配者は実験者からあたえられた金額を複数の参加者に分配します。参
加者は分配者がおこなう分配に不公平を感じた場合、ある金額を払うと分配者に罰をあた
える(分配者の持ち金から三倍の金額が引かれる)ことができるようになっています。こ
のゲームは一度限りですので、罰をあたえても罰することになんの利益もありません。そ
れでも、半分強の人たちがコストを払ってでも分配者を罰したのです(小田 2011、p66、
67)
。
また、小田がおこなった委任ゲームという実験もあります(小田 2011、p115、116)
。
利他行動の記憶に関する実験です。この委任ゲームでは、顔写真の人物に三十円の分配を
委任する(顔写真の人物が実験者に〇円、十円、二十円、三十円を渡すことを決める)か、
委任せずに十円だけもらうかを実験参加者が決めます。これを複数の顔写真の人物に対し
順におこない、二回くりかえします。二回おこなうことで一回目の分配に対する記憶が試
されます。一回目は顔写真によって利他的人物かどうか判断し、参加者は委任するか委任
しないかを決め分配を受けます。一巡したところで、さきの結果を受け二度目に委任する
かしないかを決めることで利他的人物がどのように記憶されているかを知ることができま
す。これによると、利他的人物の顔は忘れがちであるという結果がでました。二回目で利
他的人物に委任する回数は増えません。その一方で、一回目に非利他的であった人物(実
験者にまったく配分しない顔写真の人物)に対して二回目では委任する回数が減るという
結果がでました。つまり非利他的人物の顔はよく記憶されていたことになります。気前の
よい人の顔は忘れられやすい一方で、けちな人の顔はよく覚えられるというのです。
他人からの評価や非利他行為を排除する背後には共感があります。自己を他者におきか
えることで自己がどのように他人から見られているかを意識します。人は他者に対し、自
己を投影することによって、
自己の善い面を投影しようとします
(この場合の善悪は倫理、
哲学的な意味ではありません)
。それは、直接利害関係にある人に限りませんし、またすぐ
にその見返りを期待しておこなっているわけでもありません。その一方で、その意識が否
定されるとそのおきかえを排除しようとします。その自己の投影が裏切られた場合、その
排除に向けた行為もまた利害とは結びついていません。むしろ利害を超えて、自己の損失
161
をも顧みずその人物を罰しようとする傾向があります。これが人間特有の進化における戦
略であったというのが、心理学、動物行動学、脳科学から出された議論です。
非利他的人物の排除は個人に限りません。その最たるものが国家もしくは民族間の戦争
でしょう。利他行動が人に共通する行為の特徴であり、それに反する行為を排除しようと
することもまた人間に共通する特徴です(まず利他行動があるために裏切るという行動が
あります)
。
「独裁者ゲーム」でコストをかえりみず分配者を罰する傾向があることはこの
ことを物語っています。
8.手段と情緒
罰する手段も重要です。直接自ら手をくだすことによってより強い感情を生み出し、間
接的手段では感情が薄れるという傾向があります。この手段について興味深い実験があり
ます。手段が自らの手を離れるとその効果に対する感情が薄れることをしめす実験です。
たとえば、
「トロッコ問題」というものがあります(ガザニガ 2010)
。さて、以下の問題
についてあなただったらどうするでしょうか。
「トロッコが五人の作業員に向かって暴走している。このままだと、五人は死ぬ運命にあ
る。彼らを助ける唯一の方法は、スイッチを押してポイントを切り替え、トロッコの進路
を変えることだ。だが、スイッチを押すと、五人は助かるが別の一人が犠牲になる。この
人を犠牲にしても五人を救うべきだろうか」という問題です(ガザニガ前掲、p180)
。
この問題について、あなたは「イエス」
(スイッチを押す)でしょうか、それとも「ノー」
(スイッチを押さない)でしょうか。
これに対し、もうひとつの問題、解決の手段を自ら手をくだす直接的なものに変えてみ
るとどうでしょう。
「今度もトロッコが暴走し、作業員五人の命は風前の灯火だ。あなたはトロッコと五人の
間で線路の上に渡された橋の上に立ち、隣には見ず知らずの太った人がいる。その人を線
路に突き落とせばトロッコは止まる。その人は死ぬけど、五人の命は助かる。さて、あな
たはその見知らぬ人を線路に落として五人を助けるべきだろうか」
(ガザニガ前掲、p181)
。
今度はどうでしょうか。
隣にいる見ず知らずの人を線路に落とすでしょうか
(
「イエス」
)
、
それとも落とさないでしょうか(
「ノー」
)
。
さきの問題とあとの問題、関係する人数は同じなのに、さきの問題は「イエス」と答え
る人が多く、あとの問題では「ノー」と答える人が多いという結果が出ています。二つの
162
終 章
問題では、前者がスイッチを押すだけで実際誰かにふれるわけでもないのに、後者は、赤
の他人とはいえ直接人を橋から突き落とさねばなりません。
しかも、この問題について脳の活動領域をはかる機能的磁気共鳴画像法(fMRI)をつか
って脳の領域を観察したところ、自ら手をくだす個人的なジレンマの場合、情緒や社会的
認知をつかさどる脳の部位に活動の増加がみられました。一方で、間接的な手段である非
個人的ジレンマの場合、抽象的推理や問題解決にかかわる脳の領域の活動が増加するとい
うことがわかりました。前者の「トロッコ問題」に対してはあまり情緒がかかわらないの
に対し、
後者の問題は情緒にかかわる脳の部位が活性化するというのです
(ガザニガ 2010、
p182)
。手段が間接的な場合と直接的な場合では脳の活動領域が異なる結果となりました。
これは最新兵器をもちいた戦争に対する恐怖と同じです。人と人との争いは、敵を目の
前にして自らの手による戦いでした。ところが現在の戦争は、直接自ら手をくだすことな
く、また直接目にすることのない遠く離れた敵が相手です。スイッチを押せばミサイルが
飛んでいき、敵の誰かを攻撃します。さきの「トロッコ問題」におきかえると、直接目の
当たりにする敵とモニターをつうじた遠くの敵、自ら手による戦いととスイッチによって
争われる戦いに相当します。それぞれに脳の活性化する部位が異なります。敵を目の前に
することなく、スイッチによって処理される戦いは、敵を目の前にして自ら手をくだす争
いにくらべ情緒の関与が少ないと予想されます。本来、人びとの争いには嫌悪感がともな
うはずです。その嫌悪感を回避した争いに一種の「ゲーム」のようなイメージをいだいて
しまうのは私だけではないでしょう。そのことにより一層の恐怖を感じます。
9.自然との互酬性=自然との共生
話がどんどん狩猟採集社会から離れてしまいました。話をもどしましょう。
さきの実験から人の人らしさのひとつに利他行動があることがわかります。この利他行
動は直接利害関係にない人物にさえ、
自発的に利他行動をとる傾向があることが重要です。
人には助けあうことがあらかじめ自発的行動として埋めこまれています。助けあう行動に
よって直接自らに利益がもたらされるわけではありません。めぐりめぐってついには自ら
にも恵みがあたえられるといった程度です。そのような効果にもかかわらず、人の行動に
は自発的、積極的な利他行動という類人猿にさえ見いだしがたい傾向を共有しています。
利他行動は自己の他者への投影といった共感によって引き起こされます。自ら利するこ
とを独占せずに他人と分かちあおうとする感情が利他行動としてあらわれます。それによ
163
っていずれ自らに利がもたらされることを無意識のうちに感じとっているのです。人類の
歴史において、利他行動を誘発する共感による仲間意識=共生こそが人類の生き残りをか
けた戦略であったといえるでしょう。
人は利他行動によって直接利益をえようとはしません。利他行動によっていずれ自らに
訪れるであろう恵に期待をよせるのです。この未来への期待は共感によって支えられてい
ます。相手にとってなにが利することなのか、自己を相手に投影することによって利他行
動が生じます。目の前の人が貧困により困っているのではないかという思いは、貧困とい
う自らのうちなる思いを相手に反映させることによって生じます。腹が減っているのでは
ないか、
お互いのものを分かちあうのがよいのではないか・・・いずれも自らの思いを相手に
投影し、共感し助けあおうとすることで利他行動が生じ、共生がはかられます。共生をは
かることで自らに利益がもたらされることに期待します。
狩猟採集社会にとっての互酬的相手は人間だけではありません。人間をとりかこむ自然
も重要な相手です。身のまわりにある生き物に直接手をくだし、ときには自らの命を代償
にしなければならない状況もあります。自然に自らを投影させ、共感し、同化することは
狩猟採集民に欠かせない思考の根幹をなしています。狩猟採集民にとっての自然は人と共
生関係にあります。
狩猟採集民にとって、現世と他界、動植物や身の回りにある自然とそれらの他界である
カミの世界といった四つの世界は、人間における現世を投影したものです。それぞれ四つ
の世界がこの投影によって相互に関係しあい、
行き来ができる世界として描きだされます。
この他界や自然に対する自己の投影は、自然との共感によって生じています。自然との互
酬的関係を維持するためにとられるのが自然に対する利他行動です。利他行動のうらにあ
る人びとの共感によって人びとは共生をくわだて、人のみならず自然へも自らを投影し、
自然に共感することで自然との共生がはかられるのです。
さらに、さきの心理学的実験などから、人の行為で直接的な手段、自ら手をくだす手段
ほど情緒に訴えるものがあり、間接的な手段では抽象的判断に頼ろうとする傾向があるこ
とも分かりました。直接的な手段と間接的な手段に情緒の関与の濃淡があることは普段の
生活でも経験することでしょう。たとえば生きた魚をさばく場合、直接それをおこなうの
と、機械で処理するとではその経験に大きな違いがあります。暴れる魚に包丁を入れる際
の手の感触、流れ出る血、におい・・・、そのすべてを目のあたりにするときの思いは、直接、
情緒に訴えかけるものがあります。その魚の命を奪いそれを食べ物として人は生きていく
164
終 章
ということに、ある種の感情が生じます。大量の魚を相手にすればその感情も薄れていく
でしょうが、まったく見えないところで機械によって処理される場合とはまったく異なり
ます。それは魚に限りません。すべての食料はもともと生きています。直接手を加える際
に生じる感情と、まったく見ず知らずのところで食用として加工されるのでは情緒に大き
な差があります。
ここに、現在日本列島に住む人びとと狩猟採集民であった祖先が身の回りの生き物に対
して抱く感情に大きな違いがあることは容易に想像できるでしょう。
生き物に対して直接、
自らの手で死をあたえることを生活のなりわいにしていた当時、彼らにとっての生き物に
対する思いは、身近で生活に直結する深い感情を生じさせていたはずです。
また、自然との共感は、自然との直接的な関係をもつがゆえに情緒に訴えかけるもので
もあります。彼らにとっての四つの世界は具体的で現実的なイメージをもちつつ情緒豊か
な世界でもあります。それにゆえに人間の現世に対する感情が豊かに自然や他界へ反映さ
れるのです。
現在でも本来自然とのかかわりは同じはずです。農耕社会では食料となる動植物を人の
方へかこいこむことで自然から隔離しようとしますが、依然として自然から脱しきれませ
ん。自然を人間の思いどおりにすることはできません。産業化した現在、自然と人間の関
係は直接的なつながりから、ますます間接的なものへと変化しているように思われます。
そのため、自然に対する関心や情緒も薄れていったのでしょう。人間自らが自然とは別な
存在として認識するようになった、自然を操作の対象としてみるようになったこともその
傾向のひとつでしょう。はたして、現在、人は自然を操作できる存在になっているのでし
ょうか。そして、自然から独立した存在になっているのでしょうか。
日本列島に住む人びとのなかには、昨今の自然災害で多くの犠牲を強いられた方々がい
ます。これらの人びとは、自然と対峙できないもしくは自然から離れられないことを身を
もって知っています。だから利他行動を充実すべきことを直感的に感じとっています。こ
の直感こそが、狩猟採集時代から培われた大きな人類史のなかに位置づけられる思考であ
るように思われます。
終章引用文献
小田 亮 2011『利他学』新潮選書
ガザニガ,マイケル・S、柴田裕之訳 2010『人間らしさとは何か?−人間のユニークさを明かす科学の最前線』
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インターシフト
久保寺逸彦編訳、佐々木利和編集 2004『アイヌの神謡』草風館
ナダスディ,ポール、近藤祉秋訳 2012「動物にひそむ贈与 人と動物の社会性と狩猟の存在論」奥野克巳・
山口未花子・近藤祉秋編『シリーズ来るべき人類学 5 人と動物の人類学』春風社
2013.9.14. apefuchi.web.fc2.com
166