心理的援助の本質と援助者の資質・役割 (61KB) - 名寄市立大学/名寄

心理的援助の本質と援助者の資質・役割
小山 充道
はじめに
心理的援助に関わる仕事は、教育、医療、福祉、産業領域など、数多くの分野に見られます。教師は子ど
もを教育する。医療援助者は患者に対して医療・心理・福祉的ケアを行う。施設職員は入所者と向き合い、
福祉援助を行う。また会社では職員の心身のケアに関わるスタッフがいます。現代では、人間が人間に対し
て可能な限りの心理的援助を行う、それが日常的な風景となっています。以下は、筆者が8年前の平成10年4
月28日、札幌教育文化会館で行った「第1回心理臨床講座∼カウンセリング入門」というテーマの講演録で
す。今回、本研究所年報に掲載するにあたって『心理的援助の本質と援助者の資質』というテーマに焦点を
絞り、その後の8年間のカウンセリングの変遷を考慮し、内容に修正を加えました。保健福祉領域における
カウンセリングを考える素材となれば幸いです。
・・・今日のテーマはむずかしいですね。心理的援助の本質と臨床に携わる援助者の資質、そして役割につ
いて・・・。普段こういう大きなテーマで話をしたことがないものですから、どんな話をすればよいのかと今
も悩んでおります。あまり考え込んでもよいお話はできないでしょうから、普段私がやっていることや感じ
ていることを素直にお話しさせていただくことにいたしまして、相談者、ここではクライエントと呼ばせて
いただきますが、さまざまな領域で何かしら困りごとを抱えておられる方と関わる際に、心理的援助者とし
てちょっと気をつけなければならない点や、クライエントのお話しをお聴きし、その内容をどのように理解
すればよいのか、つまりわかり方とか、どんな風にすれば援助者とクライエントとの信頼関係は深まって行
くのかとか、そんなことを思いつくままお話申し上げたいと思っております。話の流れについては、図1を
ご覧下さい。
1.相談で大切な4つのこと
相談を行うにあたって大切なことが4つあります。最初に相談場面を思い描いて見ましょう。カウンセリ
ングの多くは、相談に来られる人との対面から始まります。そのときに動き出すのがカウンセラー自身の感
性です。感性とは「人の心を感受する感度(適度な鋭さ)と質(純粋性、伝達された情報をそのまま通す力)
」
を言い、性能のよいアンテナにたとえることができそうです。テレビのアンテナでは電波が流れてきますが、
相談者からは話の内容と、困り具合が察知できる情動および感情が伝わります。因みに心理学では短期の情
緒的な反応を情動、長期にわたる情緒を感情として区別する場合があります。いずれにしても、相談者の困
りごとは、電波にたとえることができないほど複雑なメッセージ性をもっています。引き続いてカウンセラ
ーの受容力が問われます。受容力とは「受容できる容量(心の広さ)および力(忍耐力、多様な価値の受け
入れ、統制力など)」を言います。ここまでは誰でも毎日体験していることです。これからがカウンセリン
グの専門性と関わります。
カウンセリングが日常の会話と違うのは、面接における対話はすべてカウンセラーも相談に来られた方も
「自分自身および他者と関わる力と質」を試されるからです。これを共感力と呼びます。カウンセラーは相
談に来られたクライエントよりも共感力をもっているはずです。クライエントはカウンセリングをとおして、
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共感力を身につけていきます。養っていく、といったほうが現実に近いかも知れません。この心の作業はほ
んとうにむずかしい。相手の立場に立ってものを見たり、感じたり、考えたり… 日常はこの心の作業がと
くに求められないので楽に過ごせるのです。そしてこれら一連の心の作業をとおして人は「人間性」という
ものを自分の中に育てていきます。
以上のプロセスについて、少し詳しくお話させていただきます。
① 私の感性(人の心を感受する感度と質)
ところで、枯れ葉が1枚ハラハラッと落ちて天下の
クライエント
秋を知るとか、小皺ができて老いを知るという話はい
っぱいあります。こういうことは、私たちの心の中に
私の感性
(人の心を感受する感度と質)
受ける力(受け皿)、受けたものを感じる力(ふれる
心)、感じたものを整理する力(つかむ心)、そして整
理されたものを次に生かそうとする力(収める)とい
うものが育っていないと、なかなか感じられるもので
私の受容力
(受容できる容量および力)
はありません。これを“感性”と言いますが、アンテ
ナのような役割を果たす心です。感性はありすぎても
困ります。頭の先から足の先まで、感性、感性… 感
性過剰ですと、ご飯を食べるだけでもビッときますし、
自分自身および他者と関わる力と質
=共感力
テレビを見ていても興奮しますし、新聞の社説欄を読
むだけで身体が震えるということがあるかもしれませ
ん。これでは人間持ちません。ですから、適度に鈍さ
を散らしながら、心に対するその時々の感性を発揮で
人間性
きる態勢があれば日常生活を送るにはそれで充分、と
いう気がします。「普通でいる」というのは「適度に
散らす」という意味なのでしょう。
図1 カウンセラーの資質に関連する心の内容
一緒に歳をとり、感性も一緒に変化していく関係と
いうのはいいものですね。これは理想的な人間関係で
すね。二人とも感性はあまり変わらないまま関係を維持しているという人間関係はとても現実的で、案外、
その例はたくさんありそうです。人間関係が維持できるというのはふたりともあまり変わらない関係か、一
緒に変わっていく関係でしょう。二人でいても少しも発展しないけれど後退もしない、一見、何も起こって
いないように見える関係です。この関係は、人間関係を壊しません。発展はしない。ただ維持はできる。こ
んな関係も日常生活では大切です。
ただカウンセリングにおける人間関係は、「一緒に変わっていく」ことを目指しています。そう考えます
と、カウンセラーの資質として、カウンセラー自身も相談に来られた人と一緒に変わっていく。そういう、
変わっていく力が大切なように私は思います。子どもはのめり込む関係を通して人間関係というものを学ん
でいきます。具体例を挙げれば、観察学習もそうかもしれません。「お兄ちゃんがこうしたから、僕もこう
する」「先生がこう言ったから、僕もこう言う」とか。子どもは真似をしていろいろなことを覚えていきま
す。
真似をするときには、感性が強く働きます。何を真似るかを知らねば真似ができないからです。
ここでちょっと、一曲お聴かせしたいと思います。∼♪うさぎ追いしかの山『ふるさと』∼本当に良い曲
ですね。そんなに前ではありませんけれど、新聞に在日韓国人の方が、外国人としては初めて東大教授にな
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ったという記事がありまして,その方のコメントに、こういう文章がありました。
「ふるさとですか。場所じゃなくて、一世への記憶ですね。」この一節で私はずいぶん考えさせられまし
た。ふるさと、うさぎ追いしかの山… 多分ふるさとは、「かの山(特定の人・物・出来事)」ではなくて、
「うさぎ追いし(動きのイメージ)」にあるのだろう、と私は思うのです。この点はとても重要です。「あの
山にふるさとがある」というわけではなくて、『うさぎ追いし」という思い、私はここに“ふるさと”があ
るのではないかと思っています。高齢者の方々と面接をする際、ふるさとの話がいろいろ出ます。けれども、
病院の中で高齢者の方々が“ふるさとを持つ”というのはこういうことではないかと思います。
家に帰りたいけれど、帰れない。施設にいたくはないけれど、いなければならない。それに私たちはどう
関わればよいのかということです。「家に帰してあげたいね」というのは「うさぎ追いしかの山」ですね。
これも大切です。その上でカウンセラーとしましては、「うさぎ追いし」というところにふれていくのはす
ごく重たいことかもしれませんが、これも大切という思いで、今、この歌を聴いていただきました。
② 私の受容力(受容できる容量および力)
そしてふたつ目は〈受容力〉です。カウンセラーは普通の人が受け入れるのが苦痛と思うことでも、専門
的な視点でそれを受け入れるように力を注ぎます。カウンセラーは人の噂をばらまいたり、人をからかった
り怒らしたりしません。あたりまえのことですが、いかなる暴力も用いません。カウンセラーは非暴力主義
者というわけではありませんが、人を陥れようとするときに何が自分に起こっていて、相手に何が起こるか、
その関係性が普通の人よりは少しわかっているからこそ、より慎重になるのです。相談者が話す、常識とは
少し離れた話を、カウンセラーはクライエントの立場に立って考え、感じてみる。そうするとどんな世界が
見えるのか…
クライエントの悩みや抱えている課題は、普通に生活している人から見れば、常識からはずれているかも
しれません。いじめはよくないとわかっているけれどしゃくにさわってしようがない、Aさんに対する激し
い攻撃心が止まないという高校生の悩みや、夫がいるのに別に好きな人ができて、毎日その人が目に浮かび
その人から離れられないといった一見普通に生活している主婦の苦悩、無茶を押し付ける上司に対して激し
い嫌悪感を覚えるが、接待ではにこにこしている自分が嫌でたまらないという自己嫌悪に関わる中年の悩み、
誰も私に関心をもってくれない、寂しい・・・といった高齢者のつぶやきなど、悩みは年齢を選びません。ど
んなお金持ちにでも、どんな境遇にある人でもおかまいなしに悩みはついてまわります。より正確に言えば、
悩みはその人についてくるのではなくて、
「人間!」についてくるものだと考えるとスッと腑に落ちます。
このようにクライエントは一般常識に反するような話をすることがありますが、カウンセラーはクライエ
ントの立場に立ってクライエントの心に映っている世界を見る。そうすることでクライエント自身を受け入
れていくのです。簡単に言いますとカウンセラーとは、〈わかる=共感する〉という仕事ができる人ではな
いかと私は思います。今日のテーマ、『心理的な援助の本質』の結論を先にお話しますと、私自身は〈わか
るということのむずかしさに真摯に向き合う〉ということだと思っています。でもわかろうとする心の世界
は実に奥が深く、しかもその底はドロドロしていて、ふれるのもむずかしい・・・普通の人が受け入れるのが
苦痛と思うことでも、専門的な視点でもってそれを受け入れる。受容とは本当にむずかしい心の作業です
ね!
③ 自分自身および他者と関わる力と質=共感力
それからカウンセリングを深めるために必要な資質として〈共感力〉があります。クライエントは何か悩
みごとや、問題や、考えていることやイメージに関する話を私にします。それを聴いていて、私自身の中で
も何かが動きます。たとえば、幼いときの虐待体験などを語るクライエントがいたとしたら、自分の小さい
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頃はどうだっただろうかとか、お父さんにいじめられたと聴けば、自分の父親はどうだったかなぁとか…い
きなり振り返るというわけではありませんが、どこか自分自身の間題にふれる部分が必ずあるわけです。で
すから、カウンセリングではクライエントと対話しますが、そのクライエントとの対話を通して、クライエ
ントの感じをあたかも自分のことのように感じながらカウンセラー自身が自己内対話をする…。もしカウン
セラー自身が自分の中にその話を落とせなかった、落とさなかった、つまり共感が弱ければ、対話というも
のは深まりにくいのではないかと思います。「共感」の意味を凝縮させれば「わかる」ということにつなが
る。共感は、実はとてもむずかしい心の作業なのです。カウンセラーも人間ですから自分の個人的特質をも
っています。怒りっぽいとか、優しいとか、顔は優しいけれど心は鬼だとか、まぁいろいろありますね。昼
と夜、そして闇の世界の自分をも知っている。ここでは自分を「つかむ」という視点がとても大事ですね。
今述べたようなことにどの程度気づくか、おぼろげながらそんな世界にふれ始めたところからカウンセリン
グというものは始まるように思います。共感力とは人間であれば誰にでもあるはずの人間関係力を意味しま
すが、ひとたび心に迷いが生じたり、混乱したりすると途端に「感度が狂う」という性質をもっています。
事が落ち着けば「なぜ私はこんなことで血迷っていたのだろう…」と共感力が戻ります。そういう性質のも
のです。研修によって共感力を高めることはできるでしょうが、よほど自他に目覚めなければ生活に定着し
活きる共感とはなりにくいものです。
カウンセリングでは、カウンセラーもクライエントも〈自分と関わる〉という作業を行います。クライエ
ントはカウンセラーの“何気ない一言”で、自分というものに目覚めたりします。教えや助言でもなく提案
でもない。クライエントを動かすのはカウンセラーの何気ない一言である場合が多いように感じています。
カウンセラーからたくさんの言葉をもらうと、クライエントの心の中にカウンセラーが残り、そのカウンセ
ラーに頼ってしまいたくなる。カウンセリングの目的は“心理的な自立”にあります。一方、クライエント
の激しい言動につい動かされてしまうカウンセラーもいるでしょう。このときカウンセラーは「自分は激し
い言動に弱い。動かされやすい」という自分に気づきます。あるときはクライエントから好意をもたれるか
もしれません。個人的なお付き合いをしたあとでふたりの関係が深まったあとはもうカウンセリングにはな
らない…ということに気づくでしょう。
カウンセリングは“自分”を抜きに語ることはできません。実際のカウンセリング場面では、クライエン
トもカウンセラーも“自分”というものにふれていきます。カウンセラーは教育分析や教育カウンセリング
等で自己洞察を深め、さらにさまざまな自己研修を積み重ねながら、心の勉強と自分自身について勉強をし
ていきます。これは生涯にわたる修業で、終わりがありません。それがカウンセラーの仕事なのだと私は思
っています。自分と向き合う、人間というものに向き合う、そういうことが不断に必要な職種なのだろうと
感じています。
小学2年生の男の子が、初めてホットケーキ作りに挑戦しました。量は少なめですが出来上がり、ちょっ
と冷ましておくと言い残し、その子どもは遊びに出かけてしまった。そこへお兄ちゃんがやってきて、何も
考えずにパクパクと食べてしまった。その子が帰ってきたら、ホットケーキがない。怒るや怒る。「お兄ち
ゃんが食べたんだろう!」と、それはそれはすごい剣幕だったという話です。仲裁に入ったお母さんにも
「死んじまえ!」と言ったぐらいですから、よほどホットケーキが大事だったのでしょう。しかしもうホッ
トケーキはない。「それは僕が初めて作ったホットケーキなんだ!」という思いに沿うことが大切でしょう。
だから「それじゃ、お母さんが代わりを作ってあげる」ではその子は納得しないのでしょう。自分が初めて
作ったという思い、この動きのイメージにお母さんはふれるとよいと思います。「○○ちゃんが一生懸命に
作ったんだよね。けど、お兄ちゃんがそれを知らないで食べちゃった。ほんとうにがっかりだよね。じゃ、
お母さんと一緒にもう一度挑戦してみようか?」といい、一人で作ろうとすればそれを見守る。がっかりな
態度を見せれば、がっかりに付き合う。決して先を急がない。
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ここでカウンセリングの生みの親とされるカールロジャーズの声をお聞かせいたします。
『Being Yourself』
というカセットシリーズの頭の内容です。聴いていると彼は非常にゆっくりした、わかりやすい言葉でお話
をされる方だという感じがしますね。ロジャーズが紹介したカウンセリングはどんな本にも載っております
けれど、傾聴、純粋性、そして共感、この3つが人と接するときには大事だと言いました。1940年代の話で
す。私たちはこの70年間近く、ロジャーズの考え方を育ててきました。彼の考えは、今は心理的援助者の基
本的態度として定着しているように思います。彼の教えは技法、テクニックというものではなくて、カウン
セラーの基本的な態度、資質そういった内容ではないかという気がします。このうちどれがもっともむずか
しいのか、聴くこと?
自己一致?
共感?… ロジャーズに学んだ京都大学の東山紘久先生のお話では「自
己一致=純粋性」だということです。自己一致というのは、共感と関わります。ここを突破してこそ人間性
が養われます。人をわかろうとしながら、わかろうとしている自分自身に気づいていく。むずかしいことで
しょうが、とても大切なことだと思っています。
④ 人間性
カウンセラーの資質から、人間性と聞けば誰もがイメージするのはおそらく〈人間性豊かな人〉というこ
とでしょう。カウンセラーは個性が大事ということはそのとおりなのですが、人間を“モノ”ではなく“人”
として見ているかどうかはもっと重要でしょう。「豊かな人間性」という言葉はありますが、どのような人
が豊かな人間性を備えているのか、具体的な話となると途端とむずかしくなります。「人に親切な人? 優
しい人? 配慮ができる人?」など、理想的な人間像については話すことができるけれど、実際に誰がその
例となるのかと問われれば、「ウ∼ン・・・」となります。模範となる人と実際に目の前にいる人、つまり実像
とは、次元が違う話なのです。模範的な人というのは理想論の中で登場し、現実とはちょっと離れています。
一方、実像は現実の生活の場で見ることができる姿です。カウンセリングでは実際のその人と向き合い、そ
の人の心の中にある理想像、イメージといったものを扱います。カウンセリングはあくまでも「今という現
実」、そして目の前に存在する「実際のその人」に関心があります。「個性豊かで人間性を備えている人」、
それは理想像を言っているのであって、抽象的な人間像です。
個性は『個人の資質』と深く絡みます。「個性豊かで人間性を備えている人になりましょう」と誰かに言
われても、スッと心の中に入ってこないでしょう。課題があまりにもむずかしすぎるからです。しかし残念
といってよいのか、人間は理想だけを食料にして生きてはいけない生き物です。目の前にある現実とどのよ
うに向き合い、それにふれ、現実をどのようにつかみ収めるか、この一連のプロセスが重要です。
以上、相談に必要な能力はこのほかにもたくさんありますが、相談にあたる者に共通して必要な能力とい
う意味で、カウンセリングにおける基本的能力として4つの要素を取り上げました。相談は、まず4つの能
力について自分自身を振り返るところから始めたい、そう思っています。
2.信頼と疑い
① 信頼を留めるのがむずかしい
カウンセリング場面では、クライエントが抱えている問題にふれながら、カウンセラーはクライエントに
信頼を寄せ、クライエントはカウンセラーに対して信頼を深めていくという心の作業を同時に行います。し
かし“信頼”というのは、現実にはとても不安定な心の動きなのです。何がむずかしいかというと、「信頼
している、という心を落ち着かせるのがむずかしい」のです。つまり“信頼は留めるのがむずかしい”、長
く信頼関係を持ち続けることがむずかしいということです。仲の良い友人同士の間でも、ちょっとしたこと
で相手に疑いを持ち始めると、いきなり信頼心がひっくり返ってしまうこともあります。ちょっと遅刻をし
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ただけでも関係が崩れることがあります。心の病の世界では、強迫傾向のある人、猜疑心の強い人などはな
かなか信頼心が落ち着いてくれないので、あたふたとしがちです。
信頼ということについて、思いつくままにお話をさせていただきます。
私には仲の良い・・・と私が思っている中学校以来の友人がいます。もうお付き合いも30年以上になりまし
た。彼とは1年に一回は東京で会うことにしています。なぜこんなに彼とのつき合いが続くのだろうかと、
ふと思うんですね。でも考えても、特に何があるというわけでもないんです。たまたまお互い同じような年
頃の子どもが4人いる、田んぼや花畑があるところで子ども時代を過ごしたという共通点はありますが、学
校卒業後、ふたりは全く別の仕事をしています。彼は理系の仕事で、私には仕事の内容がむずかしくてさっ
ぱりわかりません。普段私は意識することはないのですが、振り返れば、何となく彼に人間的な魅力を感じ
ている自分がいるような気がします。30年たって彼がどう変わったかと尋ねられると、顔は多少変わったか
もしれませんが、変わったという点が見つけられないのです。あまり変わらないなぁ・・・というのが実感で
す。話し方も変わらないし、振る舞いも変わらない。彼の方でも、私がコンタクトをやめて眼鏡をかけたぐ
らいの変わりようで、あまり変わりがないなぁと思っているようです。私は彼自身に何の疑いも持っていな
いという自分に気づきます。彼が話していることは、そのまま私の中に入ってきます。別に何があるという
わけではない関係ですけれど、「何となく」気が合う。それが何年もただ続いている。それだけのことです。
しかし私はカウンセリングの勉強をするようになって、実はこのような関係こそが大事なんだと実感できる
ようになりました。人間性というのはお互いが自由に動けて、あまり互いを意識しない関係の中で育つのだ
と。そして関係の豊かさがお互いを暖かくするのでしょう。互いに利害が絡む関係は、ふたりが物理的に遠
ざかれば離れますし、一方的に迫る関係も、受ける側の人にとっては迷惑そのものです。残念ながら、この
ような人は気づきが浅く、人に迷惑をかけているという意識も薄く、深く傷ついているはずなのにそれを人
に見せず強がろうとします。人間の深いところではなんでも起こります。
② 紀元前からあった“人を疑う心”
紀元前3世紀のギリシャ時代、テオプラストスという人は『人さまざま』という本を書きました。岩波文
庫から出版され、2000年以上経った今でも読むことができます。疑い深さという節があり、その時代に生き
た疑い深い人とはどんな人かという記述がそこに書いてあります。それを紹介させていただきます。
一つは「召使いに食料品を買いにやると、その召使いがいくらで買ったかを調べてくるようにもう一人の
召使いを送り出す人」・・・召使いを信用できないのです。それから「召使いを連れて歩くときは自分の後ろ
ではなく、前を歩くように命じる。召使いが途中で逃げ出さないように彼を見張るのだ」という疑い深さで
す。さらにもう一つ,奥さんに対する疑い深さの話です。「夜寝るときに妻に箪笥は閉めたか、表の戸の閂は
おろしてあるかと尋ねる。妻が全部やりましたよと答えても、寝間着姿で靴も履かずにランプをともし、家
中を駆けめぐってそれを点検する。だから彼は夜、なかなか眠れない」と書いてあります。これがギリシャ
時代の話し?と思うような記述ですよね。今も通用するような話です。
自分しか頼れない人というのは、いったいどんな人なのか。外から見る限りは、自分のことでかなり忙し
く動き回っている人のような気がします。こういう人だと「仕事をお願いします」と、何でも任せて楽にな
れるからありがたいですが、カウンセラーとして見ると、「いやぁ、ずいぶん不自由をしているなぁ」とい
う感じがします。
人を信頼できる信頼できない、私は信頼できる人のどこを見ているのかということ。たぶん姿やら形では
なくて、その人の心と言っていいのでしょうか、形のない何かを見ています。困ったときには彼に電話をか
ければ何かホッとするような感じがするだろう。何か手がかりがもらえるのではないだろうかとか、そうい
う「何か」じゃないかなという対話が、私はカウンセリングでは非常に大事だなと思っています。その「何
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か」を「直観」と言っても良いでしょう。直観やインスピレーションというと学問から遠ざかるような気が
しますが、それに近いような感じが適度にあることが心理的援助者には必要かなという感じがします。
私の知人ですが、年中明るくて、悩みがひとつもないように見える、駅のプラットホームで多くの人がい
るのに歌を歌いながら列車を待っているような人がいます。自分のペースで適度に自分を表現できる、そう
いう人を見ますと、ああいう人間になりたいなぁといったちょっとした嫉妬心やら、彼はいったい周りの人
をどのように見ているのかと、彼をもっと知りたいという心の動きなどがわいてきます。彼がどのような人
であれ、彼は私にとって気になる人であることは確かです。カウンセリングの場では、そういう人を見て
「私は何に気になっているのか」
、そこにふれると何かがもっと見えてくるような気がします。
信頼と疑いは人間関係に相当の影響を及ぼします。いかに立派な仕事をしていても、人から信頼が得られ
なければ仕事は行き詰まっていくことでしょう。信頼は“自分”をかけないと得られるものではありません。
素の自分で毎日を過ごしているときは多分に無意識的で、自分をかけているという意識は薄いですが、イメ
ージ形成に与える影響は絶大です。意識的に自分をかけるという場では「無理する力」が必要となります。
3.“カウンセリング”という特別な場
① “わかる”という仕事
心理的援助の仕事というのは、クライエントの今の気持ちや心全体をどのくらいつかめるか、心の幅と深
さが関わっているように私は思います。わかるためには、そのときに「何を?」という疑問符を付けると良
いですね。砂浜に行って、砂を手でつかむ。そして手を広げると、砂は指の間からサラサラッと落ちていき
ます。でも、手のひらに残る砂がある。私たちはそのときどき、どの砂に目を向け、心を奪われるかという
話です。こぼれ落ちる砂の動きか、砂自体か、手のひらに残った砂か、それとも砂の感触か… たとえです
が、小銭を鷲掴みにして取ったら、手が小さくて手のひらから一部すべり落ちた。その瞬間、人はどこを見
るかという話です。砂であってもお金であっても何でもかまわないのですが、実験的にやってみますと、多
くの人は落ちたものを見ようとします。残っているものよりも落ちていくものに目がいく。落ちたものがた
とえ5円であっても、5円をジッと見つめる。たいていの人は皆そうします。自分の持っている財産よりも、
財産の目減りが気になる、これが人間の心だとしたら… その姿を見ますと、私は何とも臨床的な光景だな
と感じます。
② 何が見え、何が聴こえるか∼その奥
カウンセラーは相談にこられた人が流す涙を見て、事の重さにふれたりします。カウンセラーの仕事とい
うのは、わりと目でとらえることができるような姿・形を通して、その奥にある何かに触れようとするので、
言い換えれば姿・形はその奥をカモフラージュするような、奥を整えるための洋服のような感じがします。
その人らしさというのはたぶん、心のちょっと深いところまで降りたところで見えてくる…実感として感じ
られる…そんなものではないかという気がします。『個人の資質』というのも、たぶんそのあたりまで降り
てこないと感じられないのではないかという感じがします。
録音テープを持って参りましたので、音声を流します。ちょっと音を聞いてみて下さい。〔ドンドンドン
ドンという得体の知れない低音が聞こえてくる〕…もうおわかりでしょう。妊娠中の女性のお腹の中から聞
こえてくる音です。それに女性コーラスを重ね合わせでてきた音です。胎児の心拍音ですが、聞いていると
何となく気持ちが落ち着くので、よく音楽のリラクゼーションに用いられています。あるとき、私は心理臨
床を教わったA先生から次のような話をお聞きしました。
「70歳を過ぎてから孫と手をつないで外へ散歩に行ったときに気づいたことがある。大人は歩幅が大きい
ので歩き方が早くなる。孫は歩幅が小さいからどうしても大人に引きずられてしまう。でも最近、孫と一緒
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のテンポで散歩ができるようになって、私はとっても嬉しい」と。
私はA先生がおっしゃった“テンポ”というのが、心理的援助を行っているときはすごく大切な感じがし
ます。クライエントにあったテンポ。私はどちらかというとテンポがのろいので、ゆっくりやるのが得意で
すが、早いテンポで迫られると時々聞き逃したりします。そのときは、もう一度聞き直します。クライエン
トにテンポを合わせられるかというのは、A先生のお話では修練、鍛錬、外部研修、自己訓練といったもの
が必要だということです。その言葉が今も私の心に入っていて、クライエントによって、私自身がテンポを
ちょっと狂わされるというか、ついていけないというようなときには、そのことを思い出しながら自分の中
で対話をするようにしています。
③ 口臭の事例
わかるということで、ある女性の話をさせていただきます。もう20年以上も前の出来事ですから、お話し
てもよいかなと思いますので…
この方は口臭を治したいということで来談され、『小さい頃、口臭はありました」と、そのひと言を言っ
て、それから黙りました。沈黙が55分。お約束の時間は1時間ですから、(そろそろ時間がきましたね)「そ
うですね」(じゃあ、今日はこれで終わりましょう)「ありがとうございました」と言ってお帰りになられま
した。いったいその間、何があったんだろうかと…。
この体験は今も鮮明に覚えています。そして、私にとって学ぶことが多かった面談でもあります。その次
来られたときに、私の方で「前に来られたときは、何も言葉でお話されませんでしたね」と話かけたら、
「いや、先生が私自身を試しているんだと思ったんですよ」と言ってくれたんですね。そうか、それも心理
的援助で、回復のために必要なんだと彼女は思っていたんですね。黙って沈黙に耐えるという課題を与えら
れたと思い、そして彼女は55分それを一生懸命にやっていたのです。私はそんな課題を与えたつもりはなか
った。私自身は本当のところ、とても苦しかった。クライエントにそう言われてみて、クライエントが感じ
る思いと、私自身がそのとき感じている思いとは違うんだなということを実感しました。普通に言えば、共
感できていなかったということでしょうけれど…。それを契機に、クライエントはいろいろなお話をしてく
れました。お母さんが心の問題をもっているというお話、お父さんがお母さんに巻き込まれやすく、家族が
すぐに壊れそうになってしまうという家族の問題。そして、
「本当は家から出たい」というお話…。
この方とは1年ぐらいお会いして、面談は終わりました。その後、ある勉強会がありまして、彼女はその
お手伝いを一生懸命やっていました。元気になられたなぁと思いました。初対面でいきなり1時間近く黙っ
てしまったという不思議な体験。1時間お互いに黙って個室で二人向かい会うというのは、ちょっと普通に
はない光景でしょう。カウンセリングに縁遠い人から見ますと、異様な光景として映るんじゃないかと思い
ます。
今、お話をさせていただいた方は、最初は口臭ということで来られたのですが、その後お元気になられて、
今では口臭は気にならなくなったとお話されました。
④ 差し歯が自分を変える?
もうひとつ、お話をさせていただきます。これも20年以上前の話です。もうお話してもよいかと思います
ので・・・
面談に来られた方は高校3年生女子で、お母さんとの2人暮らしです。小さい頃、両親が離婚されました。
お父さんは酒飲みで暴力を振るう人だったということですが、お父さんの性格についてはよく知らないと言
います。なんでもお母さんは、子どもにはこんなこと話さない方が良いと、父親については何も話さなかっ
たということです。お母さんは外に働きに出て、自分の力で彼女を育てましたが、彼女は小さい頃から一人
− 50 −
っ子で、寂しい思いをすることが多かったと言います。気づいたときにはお父さんはいない。それは普通の
ことなんだと思って育ちました。小学校の成績は振るわなかったのですが、中学校に入ってから頑張りまし
て、トップに近い成績をキープし続けました。でも友達ができないのです。それが彼女の悩みなのです。彼
女は潔癖性があり、なんとなく自分が友達やら人にへつらう、おべっかを使っている感じがしてならない、
そういう自分が嫌いだというようなことを言い、自己嫌悪に苦しんでいた方です。
彼女はある時、「先生、良いことに気がつきましたよ。私、差し歯をしていますが、これを変えると人生
が変わるかもしれないと、今感じました。歯医者に行って来ます」と言うのです。差し歯にはちょっと色が
ついている。この色が気になりだし、だんだん口を開けるのが怖くなった。ぐっと口を閉めている自分自身
の姿を見て、他の人から見れば自分はずいぶん緊張していなぁと思われるのではないかと。しかし、「差し
歯の色を変えて人生が変わらなければ、もう自分は終わりだと思いますよ」というようなこともおっしゃる
んです。そして差し歯を変えたわけですけれど、その後どうなったか・・・。差し歯を変えた次の日に人生が
変わった、という奇跡は起こらなかった。ただ、それを契機として彼女の緊張感が少し和らいだ、という感
じはします。思い込みが強い人なので、何でも一生懸命するんです。時折笑ったりするけれど、緊張感は漂
う。自分では緊張を解いて良いんだ、リラックスして良いんだということは頭ではよくわかるけれど、もし
緊張が解けたとき、自分は人を殺めるかもしれないというような強迫感にふれると、思い切って緊張を解く
ことができないという話をされます。押し寄せる衝動を、自分でコントロールするということがまだむずか
しいんだと言っておられるのだと思います。
そういう話にゆっくりとつき合いまして、とうとう卒業が近くなりました。最後にお会いしたとき、「い
ろいろなことがあったけれど、私は高校3年で学校を卒業したいと思います」と話された。この「3年で出
ます」という言葉は、心をぐるぐるぐるぐるまわして、まわしきったときに出た言葉なんだろうと私は感じ
ました。これは直観です。彼女の心がどうしてこう変わったのか・・・。彼女は予定通り卒業しましたが、卒
業を決意させた要因はいったい何なのかということは、探っても多分わからないだろうと思います。私は
「彼女自身をわかりたい」と思っていたし、「何がこんな話を彼女にさせるのか」、押し上げるものは何かと
いう視点で、いつも耳を傾けておりました。私自身がやっていたのはそれだけです。
その回で、彼女との面談が終わりました。最後の言葉はあっけなく聴こえるかもしれませんが、彼女の中
ではものすごい決断があったのだろうと思います。高校卒業に向けて、彼女は自分の育ち、人間関係、自分
の将来という大きな課題に向き合い、面接でこれにふれ、どのように乗り切っていくか彼女なりに考えたの
だろうと思います。差歯も、へつらい感も、自己嫌悪感も、緊張感も、ひとつひとつの課題は別々のもので
はなくて、すべてが彼女の「それでも生きる」という大きな課題を育てるための水脈のひとつになっている
…。Aが原因でBになった、という因果関係ではなくて、AもBもCもすべてひとつに収斂されていく、と
いうイメージです。カウンセラーの仕事は、それらがどこに収斂されていくのだろうか、それを察していく
ことでしょう。
⑤ 鏡に自分が映るとほっとする…
私が臨床を始めた頃に病院で出会ったある高校生男子のお話です。彼は地下鉄に乗るときに、いつも上着
の裏ポケットに忍ばせている物がありました。それは丸い鏡でした。女の子でしたら普通のことでしょうが、
その男の子は鏡が無いと地下鉄に乗ることができないと言う。なぜ乗れないのかということは後でわかった
ことです。
彼は次のようなお話をしました。地下鉄に乗っていると、窓ガラスに自分の顔が映る。なるほど地下鉄で
すから車外は暗いので、自分の姿が反射してガラスに映るのです。また、A駅にはものすごく大きな鏡があ
りますが、鏡の前はインパクトが強く感じすぎてしまい、通り過ぎることができない。ですから自己防衛と
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して、自分で自分の顔を映すために、鏡を持っていると言うのです。自分の顔を見ることが防衛につなが
る・・・。
彼は鏡を見ることで、多分自分の存在と言いますか、自己存在、「ああ僕はここにいるんだ」、とそういう
ものを感じていたのではないだろうかという気がします。実際に、自分の手元の鏡と地下鉄A駅にある鏡と
いうのは違うもののようですね。つまり自分で操作して映るものと、操作されて映るものは、その内容がひ
どく違うということです。なかなかむずかしいところですね。そして、彼はこんなことも言ってくれました。
「僕はいつも、外で道化をやっています。家族で仲良くやるのは哀れ臭いし、気持ち悪い」「人の前にいると
何でも話せるけれど、ちょっと間隔を置くと、もう僕は人と話せません」「沈黙の状態もたまらない」「うち
の母さんは、お前は思春期だよと言うけれど、可能性があっても人とかけ離れているような感じがします。
今の僕は、真っ暗闇の中にいますよ」。彼の生きている世界がそれなのですから、真実はそこにあると思う
のです。こんなときに「高校何年生というのは、普通はこうなんだけれどねえ。君は変わっているねえ」な
んて対話はとてもできませんし、そんな対話をしますと心に沿えず、ずれていきます。ですから、私たちは
自分の顔が映るということが本人にとってどういう意味があるのだろうということに、一生懸命耳を傾けま
す。この方の話では、ホッとするということです。たぶん、私の感じでは自分というものがハッキリと映る
と、少し楽になるのではないかと。一時期、「透明」という言葉がマスコミでよく用いられましたが、透明
な存在やその苦しみを訴えている人は鏡を持ち歩いているかどうか、ちょっと確かめてみたいなと思います。
しかしここでいう「透明」は、ちょっと中身が、意味が違うかもしれません。
それから、先ほど人の心にふれると言いましたが、私はふれ方には3つほどあるように思います。その一
つは、〈隙間(すきま)をつなぐ〉ということです。今いろいろ問題になっていることのひとつは、この
『隙間』ではないかと思うのです。自分対自分、自分対相手の人、その間に存在する隙間です。今言いまし
た男の子は、一緒にいると話せるけれど、離れてしまうと話せないと言っています。友達同士ではじゃれあ
って喋ることができるけれど、公の場面となると自分の言いたいこともろくに言えず、自分の意見も言えな
い。何かしらしどろもどろしてしまう。よくある場面ですね。でもカウンセリング場面では自分のこと、人
のことをとてもよく話す。つまり、喋ることがないというわけではないんだと思います。ですから雰囲気づ
くり、クライエントが楽に話せる状況を、カウンセラーが一早く察知してつくるという配慮ができたら、本
当に良いなと思うのです。隙間、境界と言っていいのでしょうか、それをつなぐのが今、むずかしくなって
いると思います。地域のつながりが薄れたというのも隙間、境界の問題です。
これはある新聞に載っていた記事ですが・・・親子のやりとりです。「大学生になってもう大人なんだから、
自分のことは全部自分でやりなさいよと親は言う。もっと子どものことを心配しろと言いたくなるなぁ・・・」
。
大学生になったから、自分のことは自分でしなさいと言いながら、子どもが家に電話をかけて、「お母さん、
ちょっとお小遣いが足りないんだけれど」「教科書を買わなくちゃいけないし」「お米がもうないんだけ
ど・・・」、こういう風に言われますと、お母さん心配してすぐに仕送りをする。そんな場面がよくあります。
お父さんお母さんは一貫した態度がなかなかとれない。そうやって揺れ動きながら、親は成長していくので
しょう。また子どもは成人し、結婚し娘から妻となり、子どもを授かってお母さんになっていく。循環なの
でしょう。おそらくこれがうまくまわらないと人間は暮らしていけないのでしょう。
⑥ 飲酒で訴えたことは何?
今から10年前のアメリカで、ある事件が起こりました。高校生のB子さんが3年間アルコールを飲み続け
ていたことがわかり、大変な問題となりました。当時、アメリカではアルコールや麻薬・ドラッグが学校の
問題になっていました。当事者の多くは虐待を受けた子どもで、後に人格に問題を示すようになるケースが
多かったという事実があります。日本は10年遅れて、今、そのような問題が蔓延する事態となりました。
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人格障害という用語も新聞紙上に溢れ、
「もう一人の私が彼を殴ったんだ」
「いや、殴ったのは私ではない」
ですとか…そんな話を耳にしますと、それは海外の出来事だとひとごとのように思う気持ちにはなれません。
アメリカではアルコールに対する罰則が徹底していて、「未成年はアルコールを飲んではいけない!」と厳
しく法律で定められています。タバコも吸ってはいけない。顔が若く見える人には、身分証明書を提示して
もらう。確認してからでないと、タバコを売ってはいけないとか、そんな法律だそうです。日本でもこんな
ことが始まりましたね。
B子さんはアルコールを飲み続け、ある日警察に補導されました。それを知った両親は信じられないとい
う顔をした。「まさか家の娘がそんなことをするはずがない」と。しかし娘は「いやお母さん、私は3年間
アルコールを飲み続けていました」と告白しました。そうしたら両親の態度は一変し、『お前は私の子では
ない。そんな子どもをもって、私は恥じる」と言いました。B子さんがそのときに泣きじゃくって言ったこ
と、「どうしてお母さんお父さんには、私が通り過ぎようとしていることがわからないんだろう」この言葉
です。そして、悔しさで彼女はまた泣いた。
両親は非常に忙しい。アメリカでは女性の半数は働いています。スクールバスの運転手の多くは、家庭の
主婦の方が働いておられる。本当に女性が働いている国です。そのときにB子さんは、「お父さんお母さん
が言っていることが正しいことは私にもわかる。けれど私はそんなことは言っていない」。「私が通り過ぎよ
うとしていることがどうしてわからないんだ、と言っているだけなのに」・・・
その部分にお父さんお母さ
んが対応してくれない。そこでかみ合わなくなって対話ができない、というエピソードです。
最近は、子どもが主体となった事件が多発していますね。現実と非現実がわからないのだ、いや使い分け
ができないのだとか、10人いれば10個の話があるような気がします。ですから、それが正しいかどうかとい
うことは、私にはよくわかりません。ひとりひとりが話されることには、どれも信憑性があるように感じる
のです。ですから、残念ながらこれにも答えはない、と私は思います。ただ、私は心の仕事をしております
ので、そちらから見ますと、何となくこういう風にわかるのではないかということだけは言える感じはしま
す。
⑦ 心に添うということ
「あなたの言っていることはよくはわからないけれど、私はあなたのことをわかろうとしています」とい
う暗黙のメッセージを送り続ける。このような態度がカウンセラーとしての資質を養っていくのだと思いま
す。こういう態度をとり続けるというのは、本当に忍耐がいることですね。日常生活では、「合格おめでと
う。頑張ったね」と声をかけ、そして別れるときには「さよなら」ですむ。しかし、カウンセリングでは
「うまくやったね」とか、「失敗だったね」とかは言わない。「自分では、やったー!という思いがあるんで
すね」とか、卒業するときには、「思えばいろいろなことがあったけれど、卒業できた。自分の中では何か
ひとつ区切りがついたような感じがするんですね」という言葉を伝えます。
心の過程に添っていくということは大変な心の作業だと思います。カウンセリングでは毎週1回くらいの
ペースでお会いすることが多いようですが、私も、スーパービジョンや教育カウンセリングという形でお会
いするときは、だいたい週に1度です。このペースが自分には合っているなと思います。2回ぐらい会った
方が良いという方がおられるかもしれませんが、私がお会いする人は、これくらいがちょうど良いペースだ
とおっしゃいます。1週間に1時間程度お会いして、そしてまた翌週の同じ時問に会う。これで“つなが
る”・・・
これは不思議なことだと思いませんか? その間、カウンセラーもクライエントも家庭での暮らし、そし
て社会生活をしているわけです。何かしら悩みをもち始め、誰かに相談をする。相談して見通しがつけば日
常生活に戻りますが、むずかしい問題を抱えたとき、自分で考えなければならないようなことを考え始めた
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ときには、日常生活をこなしながら、その問題を気にしながら生活をしているのではないかと思います。お
茶碗を洗っているときも、ご飯を食べているときも、テレビを見ているときも、本人は気づいていないかも
しれないけれど、どこかで気にしているんじゃないかと思うのです。テレビを見ていて、自分が抱えている
問題と関係がある場面に接したとき、そのエピソードをカウンセリングの場で話します。たとえば、「この
前テレビを見ていて思ったんですけど、主人公の生い立ちや感じ方が自分にとても似ていて、涙がぼろぼろ
出ました」という話をされる。偶然そのドラマを見ていて、自分の中に引っかかったことがあった。“自分
の中で引っかかる”という部分が重要です。今例として上げたのは小さな体験かもしれませんが、人はむず
かしい問題に向かうとき、こういう「引っかかる体験=直観という感性が働く」を積み重ねているのではな
いかと思うのです。カウンセリングはそのような体験を生み出す場でもあります。
過程を見るということに関連して、少し話を加えます。面接開始時点と、終結時点を見て過程を探るとい
うのは、推察力(理性を働かせて演繹的に探る力)があればある程度できるかもしれません。これに対して、
面接開始時点、次に起こったこと、その次に起こったこと、それから次々に起こって終結という流れで面接
を深めていく、つまり『過程を見る』というのはものすごく力がいります。勘と言ってよいのか、直感を働
かせて帰納法的に探る力が重要となります。沿いながらついていくので、目が話せないわけです。
心をとらえるアプローチには大別するとこの2つがあります。カウンセリングの場で「事例をみる」とい
うときは、後者のアプローチになります。
その中で感性を働かせながら、しかも自分が体験していないような話を聞くというのは、何とも大変な仕
事だろうかと思います。わかるということよりも、わからないということを持ち続けるエネルギー、これを
持ち続けないと、わかるに至らないということが、私なりにこの頃少しわかってきました。
「あなたの言っていることは、私の定規にはない。てんでわからない」… すると私たちはすぐにその話
から降りたくなりがちですが、(わからないんです。教えて下さい。それはどういうことでしょうか…)「こ
れは実はこういうことなんですよ」(なるほどそれはそういうことなんですね。ではあれはどうなんでしょ
う…)
「あれはああいうことなんですよ」(ああ、なるほど。それとそれがそうで、あなたはそういう風に感
じるんですね。あなたのおっしゃったことが少し感じられるようになりました)…
面倒くさい会話のように思われるかもしれませんが、これを持ちこたえるエネルギーがカウンセラーには
いるということです。日常生活は簡略で成り立っています。主語がなくても通じます。「行ってきます」「気
をつけてね」、「そう思う?」「思う」とか、どこへ行くのか、何を考えているのかがお互いわかっているか
ら、言わなくて済む。しかし面接では、そうはいかない。クライエントはどこへ行こうと考えているのか、
本当に行きたいと思って行くのか、迷いがあるとすればどのような迷いなのかとか、いろいろその辺りをふ
たりで埋めていく。その手伝いをするのが、カウンセラーの仕事です。
沿う中で、とりわけ感情にふれる力、そして変化を見分ける力、それから変化に影響力を与える力、たぶ
んこういう力がカウンセラーの資質として必要なのだろうと思います。
笑った人が急に涙を出して泣いた。こんなのは誰だってわかりますよね。その泣いている人にふれる力。
そっとハンカチかティッシュ箱を差し出すとか…。
みなさん良くご存じのエンデの『モモ』の話が思い浮かびます。時間泥棒の灰色の紳士が、生きている人
みんなの時間を盗む。彼らは死んだ人なので、生きた人の時間をもらわなければ生きられない。ですから、
盛んにいろいろな人に接近してその時間を泥棒していきます。けれど、主人公のモモだけはどうも上手くい
かないのです。生きてはいるが時間を奪われた人に、モモが手をふれたり話しかけたりすると、その人たち
が生き返るから泥棒は困るのです。やむなくモモ自身の時間を奪おうとモモに接近し、完全無欠のお人形ビ
ビガールをあげて釣ろうとするのですけど、全然効果がない。そのときモモが言ったひと言が思い出されま
す。
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「いろいろ聞いたけれど、それじゃあ、あなたのことを好いてくれる人は一人もいないの?」
このひと言で、泥棒はガタガタガタッと崩れてしまったのです。そして吸っていたタバコも落とし、恐れ
慄いてそこを立ち去ってしまった。その節が私にはとても印象的でした。人に好かれていないということ、
これは人間の心の根元を揺さぶることです。「私は人に好かれていない」と思っている人は、「私には友達も
いない、親とも上手くいかない、誰にも相談できない、私は寂しい…」というようなお話をされます。人か
ら「頼られる」、その人と一緒にいるとホッとする。何となくその人といると気が楽になって、何を話すと
いうわけじゃないけれども、心が少し落ち着く、そういう友達がひとりでもいれば、きっと孤独にはならな
いだろうと思います。蛇足ですが、カウンセラーは「裸の王様」にならないように、「頼られている自分は
すごいんだ」などと思い違いしないように、いつも謙虚に人の声に心を寄せ、自己研修を深めていくことが
大事でしょう。
4.よい援助者とは?
① 良い援助者とはどのような人?
この辺りでまとめに入ります。ではいったいどういう人が良い援助者なのでしょうか。私は今、臨床心理
士として面接をしています。平成18年9月現在、臨床心理士資格保持者は全国で14,393名います。臨床心理
士には倫理規定というものがあります。その中で、「臨床業務は、職業的関係の中でのみこれを行い、来談
者または関係者との間に、私的関係を持たないこと」と記されています。つまり、臨床心理士はクライエン
トと私的関係を持ってはいけないということです。この点はものすごく大切です。現在、公私混同がさまざ
まなトラブルを起こしていることも確かなことです。権力を傘に、弱いものを支配下に置こうとする行為、
アカデミックハラスメント、セクシャルハラスメント、いじめなどもめずらしい出来事ではありません。小
中高大に関わらず問題を起こす教師の存在は、教育現場がもつ悩みの種でもあります。これらの背景には
「強い弱いという力関係、区別をつける力や境界を保つ力の弱さ(必然的に規範意識が薄れる)、心の病との
関連では強すぎる自己愛的な関わり」などが背景に横たわっています。人格的なものも絡み、とてもむずか
しい課題です。教えてわかるレベルではないかもしれません。
教育現場で、学校の先生自身が臨床心理士と同じ仕事をするというのはむずかしい…。と言いますのは、
先生は子どもに毎日接しておられるし、子どもの心の問題から、部活や体育を通して子どもの身体にもふれ
る機会がある。さらに家庭訪問で家族とも会う。全部にふれる機会をもっています。心の専門家というのは、
心を中心に面接しますから、全部にふれるということはあまりない。ですからものすごく片手落ちです。し
かし心だけでふれあう仕事というのにも、それなりに意味がある。その方がよい場合もある。そして、心も
ふれるけれど、対象者の全部にふれていくという仕事も意味がある。心理的な援助者としての自分はどの程
度、相手の人、そして自分の心にふれればよいのかということがわかっていて、どのくらいのことができる
かということをつかんでいることが大事なのです。どんな職業にも枠(つまり限界)と可能性というものが
あります。理想は文字通り理想であって、現実とは異なります。両者をしっかりと区別することが大切です。
最初にお話しましたが、感性、受容、共感、人間性を養い、わかるという心の作業を深めていく、自己研
修に励む、面接という場は特殊な場で、このような場も必要だという意識をしっかりともつ、その中で職業
意識をしっかりともつ、そのようなことができる人はよい援助者だと言えるでしょう。
② 「向き合う」と「つなぐ」ということ
最後に「人と向かい合う」ということについて少しだけお話させていただきます。人の心がわからなくて
も、向かい合うことはできます。大事なのは「誰と向き合う」かです。
子どもの夢は、だいたいいつも目の前にある現実から出発します。幼児は常々「自分と向き合う」存在で
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す。人は自分と向き合ってこそ他者の存在に気づき、他者と向き合えるようになるのです。ですから小さい
頃は、飛行機を見ると「スチュワーデスさん格好良いなあ。スチュワーデスさんになりたいな」、看護師さ
んの姿・活躍を見ると「ああ、人助けできて良いな。看護師さんになりたいな」
、学校の先生を見て、
「ああ、
学校の先生になりたいな」と自分と向き合う話をよくします。
こういうありふれた夢はものすごく大切です。純粋な目で捉えた自分が出ているからです。何事も夢中にな
れる心というのは、持続力の証ですから、それは大事に育てるべきですね。
だいぶんお疲れになったでしょう。ここらで、体操をやってみようと思うのです。ちょっと手をゆるめま
して、お立ち下さい。2時間もじっとしておりますと、やはり身体もなまるかと思います。どうぞご自由に
手を上げて背伸びをしてみて下さい。楽ですね。こういう時間というのはすごく大事ですよね。それでは、
せっかくここで皆さんお会いしましたので、お隣の方と手をつないでいただきたいのです。〔全員、隣の人
と手をつなぐ〕では、全員で両手をうんと上げてみましょう。気持ちいいですね。おろしてみましょう。そ
れでは今度は、私の言うとおりにやって欲しいのです。右手だけを上げて下さい。〔全員が右手を上げよう
とする〕おや、左手が上がっている人がいますね。じゃあ、今度は、左手だけを手をつないだまま上げてみ
て下さい。どうですか、上がりますか。〔両手が上がってしまう〕それじゃあもう一度、両手を上げてみて
下さい。はい、ありがとうございました。両手を上げて万歳をするときは、声もバンザーイと、何となく心
がひとつになった感じになるかもしれません。こういう風に、皆が同じことをするというのはわりと楽なん
ですね。でも、「全員右を上げて下さい」と言われると、実は両手をつないで仲良くしていると上手くいか
ない。実生活では、仲のよい人が10人ぐらいいて、「さあ、賛成の方は手を上げて下さい」と言うと、必ず
手を上げない人がいます。3人で一緒に旅行をしようと言うと、誰かひとりが違うことを言い、なかなかま
とまらない。多数決の原理で、ふたりの提案を採択しようとするならひとりはしぶしぶ顔となる、という風
に・・・。皆が満足してやるというのはむずかしいですね。この話で思い出されるのが金子みすずさんという
人の詩です。皆さんもよくご存じでしょう。
『わたしと小鳥と鈴と』
わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)
をはやくは走れない。わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴る鈴はわたしのよう
にたくさんなうたは知らないよ。鈴と、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」・・・。
「みんなちがって、みんないい」…、この部分がとてもいいですね。残念ながら人間関係はそうならない
からこそ、この言葉が染みてくる。そして言葉にはできない金子みすずさんの思いが同時に伝わってきます。
私が3年間面接していたある女子中学生がこの詩をとても大切にしていました。彼女の力となった詩です。
地下鉄に乗っているときも、大通りを歩いているときでも、何かしら良いことがあるとうきうきした気分
になりますね。満員電車でニコニコしていたら、他の人から見れば「変な人」と映るかもしれませんが、
「入試に合格したんです」とその人から聴いたら、聴いた自分までもがニコニコするでしょう。人は思いの
中で生きているんですね、きっと… 「向き合える力」と「つなぐ力」を養うこと、しかし「つなぐ」といってもそれは思ったほど単純なこと
ではない、ということ。そして最後に「思いは外から眺めて見えるものではない」という言葉の意味をしっ
かりとかみしめながら、この講演を終わらせていただくことにします。長い時間、ご清聴ありがとうござい
ました。
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