連作小説 山女日記 5 白馬岳 じ たい 夫 に 離 婚 を 切 り 出 さ れ、 自 分 と 対 峙 す る た め 向 か っ た 白 馬 岳。 同 行 の 妹 と 娘 は 元 気 に 登 る が、 私 は 思 う よ う に 足 が 動 か ず、 幼 い 娘 の 負 担になっていると感じてしまう。 湊かなえ 「まさに、奇跡!」 はくば じり 両手を広げて空を仰ぎながら、妹が声を張り上げた。深い山間にひっそりとたたずむ白馬尻小屋。 その一帯を包み込む、しんと澄んだ空気の膜を震わせるような大声だ。午前五時からの朝食のため に、寝室棟から食堂前に集まっている登山者たちの中には、眠そうに目をこすっている人もちらほ ら見えるというのに。 たしな 「朝っぱらから大声出さないでよ。迷惑でしょ」 ななか 声をひそめて窘めた。 「山の朝五時は地上の八時と同じだって、昨日の夜、お姉ちゃんが言ったんじゃない。ねえ、なっ ちゃん」 妹が私の隣に立つ七花に同意を求める。小学生を取り込もうとするとは、情けない。妹は昔から こういう性格だ。三五歳になっても独身なうえに、趣味程度の仕事をしながら年金暮らしの父親に 養ってもらっているのだから、気持ちは子どものままなのだろう。とかく、誰かを味方につけたが る。 「ねえ、お姉ちゃん」が「ねえ、なっちゃん」に変わっただけだ。 しかし、私は妹に加勢してやったことがあるだろうか。 い つ 「のんちゃんの声は何時でもうるさいよ」 って。あれは迷惑じゃない フリースのポケットに両手を突っ込んだまま、七花が返す。八月の第一週、山の朝は背中を丸め てしまうほど肌寒いが、食堂はまだ開いていない。 「それを言うなら、なっちゃんの声もでしょ。のんちゃん、起きて! の?」 「だって、朝ごはんの時間に遅れたら困るもん。それに、ほとんどの人がもっと早くから起きてた し、七花が声をかけたのは、のんちゃんのケータイアラームが鳴り終わってからだったんだから ね」 私もこんなふうだった。大声は近所迷惑、五分前厳守、宿題と時間割を済ませてから遊びにいく。 当たり前の行為を、妹ができないことの方が不思議だった。味方になってくれない姉に、妹が反論 することはない。頬をぷくっと膨らませて、おもしろくなさそうにそっぽを向くだけだったが……。 妹は私と七花を交互に見て、ニッと笑った。 「それはどうも失礼しました。ホント、親子そっくりなんだから。でも、なっちゃん。あんたはマ マより運がいい」 変わらず大きな声だったが、これでもいいのかもしれない、とも思えてくる。私たちが立ってい あさもや るのは広大な北アルプスの一点で、小さな点から発せられる音など、太陽の光が朝靄と一緒に消し 去ってくれるのではないか、と。 「のんちゃん、昨日も同じこと言ってたよね。なんで?」 妹は白馬駅へと向かう特急列車の中でも、窓越しに空を見上げては、奇跡の予感、と口にしてい さる くら たし、猿倉の登山口から白馬尻小屋までの一時間を歩くあいだにも、奇跡が起きたんじゃない? と連呼していた。曇り空が広がっていただけなのに。それでも、夜が明ければいつもの空が待って いるのでは、と心のどこかで思っていたはずだ。 084 山女日記 085
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