ち んめう らん くわい 珍猫 百覧会 か みかんば ん 明治 十一 年︵一 八七 八︶ 七月二 十一日 ︵ 仮名 垣 魯文 の書 画会 ︶ 久保 田彦 作 の記 事 め じるし かた か 於 両 国中 村楼 す ゑつ ﹁ 本日︵ 七月廿 一日︶ 会場 中村楼 の門口 には、 紙招牌 へ 珍猫百覧 会云々と筆 太に記載 うゑ いはく して縦 覧の目 標 と し、右 の方 芝山に 在来す る樹 木をか たどり、 彼の猫塚の 石猫を据 付 かいえ ん もくと け たる は 、 後 日 浅 草 公園 花 屋 敷 植 六 の 庭 中 に建 つ る と ︵ 編 者 曰 、 この 猫 塚 は 今谷 中 天 ひ か こ うち ちが 王 寺墓 地 に在 り ︶ 本日 の 開筵 を 併 せた る 目途 に して 、正 面の 玄 関先 の額 面 は、 新小 判 べう めん いう いん を以 て造 りたる 珍猫 百覧会 の五 文字 、額縁 は緋 鹿の子 の首 玉に真 鍮の 鈴を装 飾す 、打違 に ほひ ふ くいく じ やうざ せ いがく くん だい を 置き大 花 テ ーブル へ の 旗 は 白 地 へ 赤 色 に て 会 主 が 猫 面 の 遊 印 を 染 出 し 、 数 十 の 紅 燈 を 掲 げ 、 楼 上 には 会 はさ 主 縦覧の 賓客 を迎へ、 広間 の上座 は清 楽 合 奏者の一 席とす、此 前に卓 瓶には秋草 を挿 み香炉 の香 は馥郁 として座中 に薫 ず、百覧会 陳列場の一区は南 の廊 とこ 下を隔てたる座 敷教室にして、入口より数間の間左右に配列す、猫塚の碑銘は仮に表装 ここ し て同 広 間 の床 に 掲 げ 、会 場 縦 覧の 前 後 は 此碑 銘 を第 一 部分 と し、 順 次に 東の 方 壁を 隔 ふく て た る一 席 を 第二 部 分 とし 、 爰 に は本 日 開 筵の 為 め に当 日 有名 の諸 文 人よ り 寄贈 せ られ じ やう わか しか つ た る 書 画の 幅 を 掲 ぐ、 是 よ り第 三 部 分の 入 口 に沿 ひ 右の 方 を書 画 幅と し 左の 方を 器 物の 陳 列場 と し 、第 四第 五と 分 ち 而 して 出口 の帰 路に 就か しむ 。 列品殆 ど 六百 余種 、出 口 の 扁額を 掲げ 之を縦 覧の婦 女子に 呈して 余興と す、御 前八 時三十分場 中 は なかん ざし の上に 花簪 たいそ よしと し りうさ い ひろし げ たけだ こくさ い かく げんだう とり や 伯 円 、 三遊亭 円朝、 武蔵 まつば やし はくゑ ん の陳列全く整ひ 同九時より開場し午後八時閉場と定む。本会の周旋補助は新聞各社を始 はぎわ ら おとひ こ ねこ め萩 原 乙 彦 、 大蘇 芳年 、立斎 広 重 、 武田谷 斎 、 松林 しん に こぞ とう し 屋 猫 七 の 諸 氏 に し て 、 清 楽 合 奏 者 は 鶴 原 堂 鳥 屋 氏 の 周 旋 に て 、 音 律 整 々 た る 合奏 に 衆 か し ゅくじ これ 客 の 心 耳に 澄 ま さし む 。 詩文 人 の 揮毫 す る や衆 客 挙 つて 唐 紙扇 面 に其 の 筆跡 を 乞ふ 、又 ほり りうた べう/\ 清楽の 洋々た る間彼 の開化 講談松 林伯円 、席の 中央 に進み恭 しく祝詞 を朗読 す、之 に ばいそ げんぎ よ かわた け きすい せがわ ぢよか う つゞ い て 演説 家 の 隊長 堀 竜 太 先生 進 ん で 猫々 論 を演 説 せり 、 喝采 の 声は 拍 手と 共 に満 場 れん さえん かうえ ん じくせ ん に響 き 渡 れり 、 会主 の旧 知己 た る梅 素玄 魚 、 河竹 其 水、 瀬 川如 皐 の三 翁は 、 共に 会 せい だ よし まつ あさ くま きた にわつく ば わ かな て いじ い わとこ くわ はな わよし の ば いけい のう ら ゆ うき み つあき いづ 鶴甫、 し ょうな んだう か くほ 、若菜貞爾、野崎左文、八木梅桂 、結城光昭 、 た めなが し ゆんこう 、五姓田芳松 、写真家は二見朝隈 、北庭 筑波、塙芳野 、浜町の和田氏等 かつ がわしゆ んてい 主 の 後 見 と な り て 此 会 の 隆盛 を 補 は れ 、 六 二 連 に は 砂 筵 、 高 筵 、 染 谷 竺 仙 の 諸 氏 、 勝川 春亭 は なのや ゆ かり 二十八名、且新聞投書家には為永 春江 ふ うやば う どうだ せんせい 風也坊 、花廼舎由縁、松崎徳造、花川戸岩床 、膝小僧、鍬 の屋一農 、賞楠堂 伊藤文 二郎、 西村 賢八郎、 中坂 まとき 、道堕 賤生 、芙蓉 堂の諸 先生にして 孰 れも 祝文 きた の玉章を増ら れたり。新富座の俳優連には尾上菊五郎、市川小団次、其他門弟二三名を おほ でんま ぶね ゑぼ うし すは う へさ き 引連 れ、当 日打 出し後 より縦 覧に来 られ たり。此 日最も遺 憾なりし は午後九 時頃、 こ ぎよ げ んつ ゞみ し らべ 大 伝 馬船 に数 人 の楽 人 孰れ も烏 帽 子素 袍 にて 、舳 に猫 塚 供養 と 記し たる 紅 燈を 掲 げ、 は やしか た 桟 橋 に 漕 寄 る す と き 、 三 絃 鼓 の 調 を 正 し て 、 供 養 塚 と いふ 新 曲 を 奏 す 、 此 催し 主 は ほか 新富 座 狂 言 作 者 竹 柴進 三 に し て 、 彼 の 楽人 は 同 座 の 囃 子 方 の連 中 な りし が 、 時已 に 閉 場 後に して会 員の 外 聞 く者無 かり しは惜 むべ し﹂ ﹃私の見た明治文壇﹄﹁明治初期の新聞小説﹂1p46所収 ︵野崎左文著・底本2007年︹平凡社・東洋文庫本︺︶ -1-
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