KEIZAI SHIRYOKAN KIYO_041_045-058Z abe.pdf - 滋賀大学学術

︻研究ノート︼
伊直弼﹂︵滋賀大学経済学部舅。蒔ヨ。身勺巷臼Q。巴Φω乞9ゆ一、二〇〇七年七
直弼の銅像﹂︵﹃滋賀大学経済学部研究年報﹄第一四巻、二〇〇七年=
月︶と、﹁二代めの肖像と履歴一一九五四年開国百年の横浜における井伊
故井伊直弼﹁ 復 権 ﹂ の 文 脈
評である。本稿は、やがて直弼の没後一五〇年を迎えようとする現在、
ずれの論考も、井伊直弼没後におこなわれた、彼の顕彰をめぐる歴史批
歴史批評﹂︵﹃彦根論叢﹄第三七一号、二〇〇八年三月︶を書いた。い
号、二〇〇八年一月︶、﹁故井伊直弼を考課する。1直弼五十回忌までの
月︶、﹁直弼/象山/忠震−競争する記念碑﹂︵一︶︵﹃彦根論叢﹄第三七〇
阿 部 安 成
一二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機1
問いの始まり
検証のノートとなる。歴史が現在と深くかかわるとき、現在から歴史が
それにさきだつ祭典としておこなわれた四百年祭における、いわば現場
このノートを書き始めた二〇〇七年七月の時点で開催中だった、彦根
どのように組み立てられるのかを明らかにする試みである。
−開国カンファレンスの企画1
彦根転官〇〇年のなかの井伊直弼
の祭典︵以下、四百年祭とする︶は、﹁記念すべき彦根城築城四〇〇年に、
彦根城と城下町・彦根の歴史や文化を振り返り、それを貴重な財産とし
て次世代に引き継ぐとともに、新たな飛躍・発展を目指して﹁再発見と
新創造︵切Φ6一ω。o<Φ曙卿乞Φ華9Φ魯8ごを基本理念に﹃国宝・彦根城
さきに引用した祭典のいわば開催宣言は、このイヴェントのウエブ・
築城四〇〇年祭﹄を開催します﹂︵﹁国宝・彦根城築城四〇〇年祭基本構
想﹂第一回国宝・彦根城築城四〇〇年祭実行委員会設立会議、二〇〇五
サイトで常時みられた。そこには﹁ごあいさつ﹂として、実行委員会名
わたしは開国カンファレンス彦根ステージ︵第一日、六月一六日︶と
があらわしたものを検証することとしよう。
ファレンスにおける﹁再発見と新創造﹂、開国カンファレンスとその開催
あった。このノートでは、わたしも報告者としてかかわった開国カン
生涯﹂がTVで放送され、彦根市は全国から脚光を浴びました。多くの
いた彦根藩十三代藩主井伊直弼公の生涯を描いた舟橋聖一原作の﹁花の
でなくてはならないと考えております。/昭和三八年、日本を開国に導
言及がある。四〇〇年祭は﹁彦根の町衆︵市民︶が参画し楽しめるもの
をふまえた挨拶文を寄せている。この三つの挨拶文のなかに、直弼への
誉会長、実行委員会会長、実行委員会開催市長がそれぞれの立場と見識
滋賀大学経済学部ワークショップ↓Φ斡霞のロO巳ξ二一じd帥。犀︽鷲α目︵﹁歴
四五
観光客が彦根を訪れ、市内に活気がみなぎり、私も含めて、町衆の間に
故井伊直弼﹁復権﹂の文脈−二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機1
史としての井伊直弼﹂七月一二日︶での報告をもとに、﹁形像としての井
一大祭典となった。このイヴェントの一つに、﹁開国カンファレンス﹂が
ユ 年一〇月二六日︶との目的と展望をもって企画された、彦根にとっての
二
開国カンファレンス企画の経緯をかんたんにたどろう。四〇〇年祭開
ヨ の評価としての殿誉褒既が定まらない人物とみられてきたのだった。
である。いや、そうしなくてはならないのだ。しかし他方で直弼は、そ
ろく日本全国によびかける祭典とするには、直弼を登場させればよいの
いるとはいえない。四〇〇年祭を地元彦根のイヴェントに留めずに、ひ
くる藩主は直弼だけで、彼以外の井伊家の人びとは全国規模で知られて
場する舞台が設けられてはいる。けれども、高校日本史の教科書にでて
の﹁列伝井伊家十四代﹂がそれだ。こうして築城以来の彦根藩藩主が登
念館における特別展﹁井伊家十四代物語﹂の展示や、ウェブ・サイトで
主だった直政に始まる代々の藩主の事蹟も祭典では披露される。開国記
彦根城築城からの四〇〇年を祝うのだから当然のこと、築城当時の藩
たとなる。
ドラマの主人公としての直弼︵配役は尾上松緑︶が、人びとを彦根に誘っ
はなく、直弼を題材としたNHK大河ドラマ﹁花の生涯﹂が、あるいは
の彦根観光の活況を牽引したというわけだ。正確には、直弼そのひとで
国の英雄井伊直弼﹂︵彦根金亀公園の直弼銅像説明板︶であり、彼が現代
は彦根市民であることへの自信が感じられました﹂と、彦根といえば﹁開
構想がみえる。その構想は第七回実行委員会ではなくなり、同時に﹁シ
都圏で実施することにより、築城四〇〇年祭への誘客につなげる﹂との
第四回実行委員会資料﹁基本計画﹂には、﹁パブリシティイベントを首
た。
直弼の顕彰を﹁開国の意義などを様々な局面から分析﹂すると加えられ
四回、二〇〇六年五月一〇日︶。第七回実行委員会︵一一月二七日︶では、
等、井伊直弼の功績を顕彰するシンポジウム等を開催する﹂となった︵第
結によって.港”が開かれた都市と連携し、条約がもたらした波及効果
容は﹁井伊直弼が決断した﹁日米修好通商条約﹂調印を記念し、条約締
演、パネルディスカッション、アトラクション等︶﹂が予定され、その内
または横浜と、﹁滋賀大学講堂﹂とした二回の﹁シンポジウム。︵基調講
その後、名称は﹁開国カンファレンス﹂とあらためられ、会場を東京
か、なぜ﹁開国﹂と銘打てるのかはここで明確に述べられてはいない。
をおこなうサミットが企画されたのである。ただし自明ということなの
調印ととらえ、それによって開かれた港がある複数の都市との交流連携
う。短い趣旨説明ではあるがここでは、直弼の事蹟を日米修好通商条約
よって港が開かれた横浜や函館等の都市との交流連携を図る﹂こととい
﹁井伊直弼が決断した﹁日米修好通商条約﹂の調印を記念し、条約締結に
四六
催の二年目え二〇〇五年時点での基本構想︵前記︶には、﹁開国サミット﹂
ンポジウムを中心としたイベント﹂からアトラクションもはずされるこ
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
があがっていた。事業期間は﹁平成一九年六月一九日の前後﹂、会場は
ととなった。この委員会では、開国カンファレンスのPart1を横浜
開催﹂となると、学術や文化の催しだけでなく、観光客集めと消費の機
れるとの予定だ。その概要が﹁シンポジウム、講演会、観光物産会員の
約調印日である六月一九日ころに、市内の複数の会場でサミットが開か
ンファレンスの企画は、まるでその衣鉢を継ぐかのようだ。そして第八
の記念碑を東京市内に、ついで横浜市内に建てようと画策した。開国カ
六日・一七日に開催する予定となった。かつて旧彦根藩士有志は、直弼
市内公共施設で四月一=日に、Part2を彦根市内公共施設で六月一
﹁彦根城、文化プラザ、中心市街地嵐﹂。太陰太陽暦での日米修好通商条
会とするというのだろう。ではこうしたサミットの趣旨はなにか一
とおして直弼の功績を顕彰することが、四百年祭において目指されたの
それがもたらした︿その後﹀の事態の意義をも明らかにあらわすことを
弼の功績とは、﹁開国﹂と同義とされた修好通商条約締結であり、さらに
開国カンファレンスのねらいには、﹁直弼の功績の顕彰﹂があった。直
ほぼ確定したとわかる。
要請、講演者などとの調整の進みぐあいが報告され、この時点で内容が
根城博物館で﹁彦根ステージ﹂を開催するとなり、横浜市などへの協力
開港記念会館で﹁横浜ステージ﹂を、ついで滋賀大学経済学部講堂と彦
回実行委員会︵二〇〇七年二月一九日︶では、さきの日程でまず横浜市
ともうしわけないともいう。歴史の長さからすれば築城四〇〇年と開港
兄弟の関係﹂だと述べた︵ただし人ロの差が大きく兄弟というのはちょっ
彦根市長は、横浜と彦根はどちらも井伊家とつながりがある、=種の
も横浜ステージで配布されたパンフレットー−横浜パンフレットによる︶。
根城博物館学芸史料課史料係長︶が論議した︵パネラーの紹介はいずれ
授・元通産省課長︶、西川武臣︵横浜開港資料館調査研究員︶、渡辺恒一︵彦
力﹂の四つの話題を、八幡和郎︵作家・評論家・徳島文理大学大学院教
政策をめぐって﹂﹁井伊直弼の政治路線﹂﹁横丁と近代日本﹂﹁彦根の魅
があり、﹁井伊直弼と開国・横濱開港﹂をテーマとした鼎談では、﹁開国
開国、ついで日米修好通商条約による開港場での貿易開始、つまり開港
寄附した銅像は戦時中の供出でなくなり、その後、横浜市民の醸金によ
か︶。横浜には直弼の立派な銅像がある、かつて旧彦根藩士が横浜市に
一五〇年とではずいぶんと差があるのだが、それはいわないということ
という展開で説かれる。幕府の大老直弼がかかわった国事は後者だ。こ
り銅像がつくられた、彦根の銅像は横浜よりはるかに小さい、横浜のみ
である。一九世紀中葉の日本史は教科書では、まず日米和親条約による
うした過去をみるとき彦根や横浜で、横浜開港こそが日本開国である、
なさんが直弼を愛していることに感謝する、二年後には彦根でも開港と
あるいは横浜開港の功労者大老直弼はその郷土彦根において日本国史上
開国のお祝いをしたい、といった内容の横浜への賛辞と謝辞を市長は述
た、横浜は開港なくしては語れない、直弼がこの開港の英断をくだした、
べた。これをうけて横浜市長は、寒村だった横浜は開港と同時に発展し
の偉人として讃えられる、というローカルとナショナルを重ねあわせた
ら り審級においてとらえたりする歴史意識があらわれる。これが直弼顕彰
の原案となった。
と開港を接点としてつながる、横浜の発展と直弼の英断をともに讃えた。
そして、さきに彦根市長がふれたとおり、横浜は二〇〇九年に横浜開港
を知り、土地に愛着をもつ機会としたい、と述べた。
三 井伊直弼のイメージをかえる1横浜ステージー
開国カンファレンス横浜ステージ︵四月二一日︶のプログラムは、﹁主
横浜パンフレットの表紙には、ハイネのよく知られた﹁ペリーの横浜
一五〇周年を迎えるので、それを﹁学びの機会﹂1この節目を、歴史
催者あいさつ﹂として四〇〇年祭実行委員会開催市長の彦根市長が初め
真をかかげ、﹁国宝・彦根城築城四〇〇年祭﹂と﹁横濱開港一五〇周年﹂
四七
上陸﹂の石版画と横浜掃部山公園の井伊直弼銅像︵斜め右からみた︶の写
に立ち、つぎに﹁来賓あいさつ﹂に会場となった横浜の市長が登壇し、
ママロ
基調講演には田原総一朗︵ジャーナリスト︶による﹁開国/横言と彦根﹂
故井伊直弼﹁復権﹂の文脈−二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機i
四八
最初の鉄道が敷設された﹂︶、神奈川台場︵﹁近代的な外交儀礼の制度が神
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
の文字とロゴマークを載せる。裏表紙には、開国カンファレンス彦根ス
奈川台場で整備された﹂︶があらためて意味づけられた︵ただしこれは、
﹁素人﹂である歴史研究者とはちがう﹁現場感覚﹂で直弼論が開陳された
ではの歴史の見方とわたしはみた︶1と評価されたり、政治も外交も
﹁横浜ものの始め﹂という歴史の書き方を得意とする横浜開港資料館なら
テージのプログラムと彦根の金亀公園にある井伊直弼銅像の正面写真。
表紙には、﹁直弼の没後一四七年の今年、横浜の開港一五〇周年を前に、
また国宝・彦根城築城四〇〇年祭の開催を記念して、シンポジウムを開
催します﹂とみえる。横浜ステージの主題は、﹁開国の﹁決断﹂直弼の
しての井伊直弼﹂の論題でコメントし、それらをふまえてさきの四つの
性﹂﹁井伊直弼と横浜開港−横浜の都市計画とインフラ整備﹂﹁政治家と
開されたとはいえなかった。パネリストの三業はそれぞれ、﹁直弼の個
い、との内容で、主題にかかげられた﹁開国/横濱と彦根﹂が充分に展
物であった、開国の英断は讃えられるだろう、安政の大獄はいたし方な
の評価、あるいはイメージの転換をはかろうとするといまもなお、条約
ジでも三者三様である、とまとめられた。だが議論をきくかぎり、直弼
るいは個人として直弼は﹁よくやった﹂、ただし、彼の評価はこのステー
た貿易システムは理にかなっていた、といい、そして、政権として、あ
る事態に直弼の積極性はなかった、井伊政権下で岩瀬忠震がつくりだし
うと総括した。安政大獄により近代化が遅れたのではない、違勅をめぐ
司会者は、この鼎談で﹁直弼のイメージの転換﹂がおこなわれただろ
り、という構成の鼎談だった。
こ
話題をめぐる鼎談がおこなわれた。
一期一会﹂だ。基調講演は、直弼は﹁近代百年﹂において抹殺された人
この鼎談をとおして、芸能をふまえた多様なひととしての直弼の再評
勅許と安政大獄が争点となるという論じ方のかわらなさが明らかになつ
てしまったのである。
価、直弼個人の資質や井伊家の家政と幕末政治史との再構成、井伊政権
と都市計画という新視点が、開示されようとしたといえるだろう。条約
もとづき横浜の市街地は造られた。江戸時代に半農半漁の村にすぎな
いう主題﹁井伊直弼と横浜開港﹂にそって、﹁井伊政権による都市計画に
﹃井伊直弼﹄が明らかにしたこと︶。また、横浜で初めてかかげられたと
きの直弼の悔恨や落胆が示された︵ただしこれは、すでに前掲母利美和
されている﹂と書かれている。横浜で地元と直弼をつなぐのは、その銅像
には、台座も含めて一一メートルの銅像が横浜港をみつめるように建立
のかみ︶直弼の名にちなんだ掃部山︵かもんやま︶公園︵西区紅葉ケ丘︶
﹁条約締結時の徳川幕府大老で彦根藩第十三代藩主。井伊掃弓頭︵かもん
コハマ経済新聞﹄の記事は、田原の写真とともにこのステージを紹介し、
さて、四月一九日付でウェブ・サイトに掲載されたとおもわれる﹃ヨ
かった横浜は短期間に日本を代表する近代都市になった。また、その後
なのである。
調印をめぐる﹁英断﹂や﹁果断﹂という従来の評価にかわって、そのと
の横浜の発展を支えた都市基盤は、井伊政権の下で整備されたと言って
も過言ではない。さらに、そこで造られたさまざまなものが日本の近代
化に与えた影響は大きい﹂1たとえば、横浜道︵このルートに﹁日本
という。それらをどう関連させるのかが説かれれば、歴史批評の格好の
二年後に開港一五〇周年を迎える横浜を直弼がつくった、彦根は今年
編さん室係長︶、阿部の三斜。
鈴木栄樹︵京都薬科大学准教授︶、小林隆︵彦根市教育委員会事務局市史
題で田原総一朗、鼎談﹁井伊直弼と近代横浜・近代彦根﹂のパネリストが、
で、﹁主催者あいさつ﹂に彦根市長、基調講演が﹁開国/井伊直弼﹂の論
第一日︵六月一六日︶の主題は﹁世界に開かれた扉一井伊直弼の遺産﹂
が示されている。
を記念して、井伊直弼をめぐるシンポジウムを開催します﹂とその目的
年、横浜の開港一五〇周年を前に、国宝・彦根城築城四〇〇年祭の開催
において、どのように評価されたのでしょうか。/井伊直弼没後一五〇
の扉を世界に開きました。︹⋮⋮︺井伊直弼の開国政策は、その後の日本
代に、彦根藩主井伊直弼は、徳川幕府の大老として開国を決断し、日本
日本に来航しました。﹁開国か﹂それとも﹁導引か﹂で混乱する激動の時
よそ一五〇年前、アメリカをはじめとする諸外国の船が、開国を求めて
同時に、横浜との均衡に配慮したデザインだ。その表紙には、﹁今からお
横浜のそれがいくらか暗い。彦根パンフレットなのだから彦根を強調し、
の直弼銅像が配置されたコラージュ写真となった。彦根の銅像が明るく、
彦根パンフレットの表紙は、彦根城天守閣を挟んで彦根と横浜の二つ
︵一︶﹁その後﹂というフィールドー第一日−
回復の展開を明らかにした。しかし、﹁その後﹂を議論することは直弼、
なりながらもいくらかべつの様相をあらわす直弼の顕彰、再評価、名誉
張した︵前掲母利美和﹃井伊直弼﹄︶。わたしたちの鼎談では、それと重
彼の分裂した評価を﹁捉え直す﹂こと、直弼の﹁実像探し﹂にあると主
があった﹂と示し、史料の公開が進展したいま直弼を議論する意義は、
料的制約﹂をふまえて、﹁直弼の伝記的研究は、大きく分けて四つの画期
浜のそれぞれでたどられた。幽翠はその著書で、﹁研究者の視点﹂と﹁史
が没後にどのように想起されたのか評価されたのか、それらが彦根と横
パンフレットの文言を用いれば、﹁その後﹂の評価である。直弼そのひと
の批判﹂︵鈴木︶の順で議論された。ここでの直弼をめぐる観点は、彦根
史1その後の横浜﹂︵阿部︶、﹁4国定教科書に描かれた井伊直弼評価へ
の井伊直弼−一九〇九年横浜﹂︵阿部︶、﹁3 ﹁井伊直弼銅像﹂という歴
れ、そして﹁1井伊直弼の再評価﹂︵鈴木︶、﹁2 ﹁開国の恩人﹂として
第一日の鼎談では、まず﹁井伊直弼名誉回復の歩み﹂︵小林︶が概観さ
現在の年金問題などが議論され、さながら時事放談の様相となった。
点や結論がなにかわからない報告となった。しかも講演後の質疑応答で
が、しかし、だんだんと直弼の名を口にすることもなくなり、主題の論
九三〇年代から一九四〇年代の戦争に話題を展開したつもりなのだろう
評価を二分し、それをもとに、近代から現代の中央集権体制と経済、一
田原の基調報告は、直弼を﹁現実的﹂、水戸と朝廷を﹁理念、理想的﹂と
四 井伊直弼を組み直すために 1彦根ステージー
市制施行七〇年の年でもある、と市長は記念の仕方を披露した。彦根で
材料となったのだが、それらが列挙されただけで市長挨拶はおわった。
は今年が彦根城築城四〇〇年、市制施行七〇年の年であり、すぐに直弼
四九
直弼像、直弼研究のなにを明らかにすることとなるのか、それは﹁実像
り 探し﹂とどのようにかかわるのか、は充分に論じられなかった。
の功績という横浜開港から一五〇年と彼の没後一五〇年のときがくる、
故井伊直弼﹁復権﹂の文脈−二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機1
五〇
また、コメントでは、従来の見解とは異なる視角から、井伊直弼の人物
ている手利美和氏に、直弼に関する最新の研究を話していただきます。
通商修好条約調印時の態度などについて基礎史料を読み直し再検討され
ジに大きく影響しています。/そこで、基調講演として井伊直弼の日米
二者択一でとらえる見方など、直弼に対して現在の私たちが抱くイメー
は思えませんが、たとえば、直弼を﹁善い人﹂か﹁悪い人﹂かといった
おこなった﹁国賊﹂。このような評価の仕方が、現在そのまま通用すると
剛毅果断な判断を下した﹁開国の元勲﹂。一方で独断専行で﹁違勅調印﹂を
えられました。安政五年︵一八五八︶の日米修好通商条約調印に際し、
このステージの趣旨は、﹁井伊直弼には、かつて相反する二つの評価が与
の評価をめぐって﹂︵この三つがコメント︶というプログラムとなった。
②西川武臣﹁井伊政権とさまざまな商人の活躍﹂、③渡辺恒一﹁井伊直弼
①羽賀祥二︵名古屋大学大学院教授︶﹁井伊直弼の歴史的評価について﹂、
和︵京都女子大学准教授︶、四名によるパネルディスカッションは母利と、
基調講演︵レジュメタイトルは﹁井伊直弼と開国の﹁決断﹂﹂︶が母利美
第二日目六月一七日︶は、﹁井伊直弼鎖国を解いた﹃決断﹄﹂の主題で、
︵二︶﹁二者択一﹂を超える評価軸−第二日1
く変わったのである。実証研究としての歴史学の成果とひとまずはいっ
と﹁原本に忠実な写本﹂を確認したことで、直弼についての考えが大き
利が、史料﹁公用方秘録﹂の﹁改窟﹂を指摘し、かつその﹁原本の一部﹂
人物を考える大きな転機となったのは、平成九年のこと﹂と書いた。母
尊重﹂したと修正されたのである。母利はその著書に﹁井伊直弼という
専行﹂との批判は﹁藩主・大老政治に際して一貫目て藩・幕府の衆議を
との弾劾は﹁独断ではなく幕府の総意﹂をふまえた大老と正され、﹁独断
﹁開国の元勲﹂との賞賛は﹁消極的開国論者﹂と抑制され、﹁違勅の国賊﹂
﹁直弼の虚像と実像﹂という議論とつながる。母利によって直弼をめぐる、
がなんだったのかがわからなくなる、と渡辺は主張した。これが母利の
直弼と評価される彼とを分ける必要があり、そうしないといったい直弼
価がどのように変遷してきたかを整理して紹介﹂した。そして、実際の
調印批判から、﹁明治時代末の維新史観形成時﹂まで、﹁直弼に対する評
彼らの活躍を紹介﹂した。渡辺は、徳川斉昭などの反対勢力による条約
かで、貿易発展の基盤をつくりあげていった﹁幕府の役人と商人の関係、
かと問うた。西川は、開港直後の井伊政権時の貿易研究があまりないな
比較対象として直弼を考えると、藩政や幕政をどのように再評価できる
三者のコメントをかんたんに記そう。羽賀は、松平定信と徳川慶喜を
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
像や、当時の井伊政権の具体像を再検討します﹂と示された。この趣旨
てよいだろう。そして一〇年を経て、開国カンファレンスが開かれた。
めぐっておこなっているのではないか、ということである。
文で重要なことがらは、おそらく執筆者は気づいていないだろうが、直
もっとも、自費出版の﹃彦根藩公用方秘録﹄は一九七五年に刊行されて
イメ ジ
弼の評価は像︵人物像、具体像︶にある、といっているところなのだ。
いたのだが。
この日は前日とちがって、プログラムの運営に時間のゆとりがあった
ここで開国カンファレンス全体につうじる、わたしにとっての、論点を
示しておくと、わたしたちが直弼を想起したり考察したり、あるいは顕
ようにみえた。その時間を活用して鼎談のなかで出された、岩瀬忠震の
イメヨジ
製したり賞讃したり、また既視したり弾劾したりするとき、それは像を
屋が桜田門外直弼暗殺に使われた鉄砲を提供した︶論点が示されたり議
評価について、中居屋重兵衛にまつわる伝説について︵横浜商人の中居
百年祭はまるでそのプレ・イヴェントのようにみえてしまう。二〇一〇
記念事業とは、これこそが﹁直弼公を顕彰﹂する本格始動であって、四
直弼研究の展開が彼の復権を果たしたのだろうか。見つけ出すというこ
年の直弼没後一五〇年までに完全復権を果たそうというのだろう。
とであれば、すでに、いくつもの直弼関係史料が彦根城博物館や彦根市
論の展望が述べられたりした。ただ、一つわたしにとっておどろきだっ
前になんの打ちあわせもなく、また前日の議論にふれることなく展開し
史編集委員会の作業により公開されてきた。それをうけて、﹁基礎史料
直弼﹁復権﹂は、直弼研究になにをもたらしたのだろうか。あるいは、
ディスカヴァリ
たコメント③は、わたしには不意打ちのように感じられた。時間に余裕
を読み直し﹂、直弼の﹁実像﹂、あるいは﹁等身大﹂の直弼を明らかにし
たのは、コメント③が初日の鼎談全体にかかわる内容だったことだ。事
があったのだから直弼の﹁その後﹂について、両日の鼎談者と暴利の七
たと主張されているのである。史料の発掘とその読解が重要だ、といえ
ば、ひとまずそれは実証歴史学の要諦となる。直弼そのひとは、消極の
お 最後の﹁あいさつ﹂は、四〇〇年祭実行委員会会長が述べた。四〇〇
名で議論してもよかっただろう。初日の三人もフロアにいたのだから。
年祭の企画の始まりに、﹁直弼の復権﹂があったという。直弼の﹁功績を
開国論、幕府の総意をふまえた判断、藩と幕府の衆議を尊重した人物と
という確固とした直聖像を、史料によって造形したとなろう。開国カン
︵創造には﹁あたらしく﹂の意が本来ある︶、﹁開国の偉人﹂︵矢部寛こ
本を開国に導いた﹂と讃えられ得るのである。創り出すということでは
クリエイシヨン
して表現された。そのうえで、二者択一を超えた一義の評価として﹁日
顕彰﹂することで、たんに資格や権利ではなく、ことば本来の意味でい
う、直弼の尊厳の回復をはかる企画が、開国カンファレンスであり、国
宝・彦根城築城四〇〇年祭だったと、主催者によって明示されたのだ。
五 わたしたちの問い1年後にむけての論点1
ファレンスで発言したものはだれも、直弼が開国を主導していない、と
が否定されたりする、その仕組みを問おうとした。それは未完だが、直
はいわなかったのだから。だが、直弼の﹁その後﹂を議論したわたした
ヨ
を来年夏に開き、ひごにゃんも使うことを決めた﹂と発表した。ここで
弼の実像と虚像を峻別したり、彼の﹁等身大﹂をとらえたりするのでは
四百年祭の会期が残り二週間ほどとなった=月九日に、彦根市は
なぜひごにゃんなのかというと、おなじ九日にその﹁無制限の使用は許
なく、生きられた直弼をたずね、直弼の横領︵8胃。買§①︶のされ方を
ちのステージでは、開港や開国と直弼が結びつけられてしまったりそれ
せないとして、考案者側が市側に使用制限を求めた裁判所への民事調停
叙述する歴史学となる。そうでないと、肖像彫刻としての銅像という像
﹁大老・井伊直弼にちなむ﹁日米修好通商条約一五〇周年記念事業︵仮称︶﹂
申し入れの書面が九日、市などに届いた﹂からだった︵﹃朝日新聞﹄二〇
をあつかえなくなるし、直弼について書かれた膨大なテキストが読めな
五一
くなってしまうのだ。島田三郎の﹃開国始末﹄︵一八八八年︶や中村吉蔵
な 〇七年越月一〇日朝刊︶。ひごにゃんをめぐっては、なんともお粗末
な市の対応が露呈してしまったわけだし、日米修好通商条約一五〇周年
故井伊直弼﹁復権﹂の文脈一二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機1
五二
直弼﹄幕末維新の個性六︵吉川弘文館、二〇〇六年︶もこれまで
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
の﹃史劇井伊大老の死﹄︵一九二〇年︶、そして横浜の直弼銅像すらもが
﹁開国の元勲﹂か﹁独断専行﹂かと二分法でとらえられてきた直弼の
︵4︶ただし教科書においても、﹁開国の影響 開国による貿易は、神奈川
虚像を指摘する。
人びとを動かしてしまう、そうした歴史を書くことわたしは構想してい
る。
にかえて開港場にあてられた横浜を中心にすすめられた﹂のように
開国と開港をほぼ同時の出来事ととらえる記述もある︵田中彰ほか
付記 本稿は二〇〇七年度滋賀大学経済学部学術後援基金をうけた研究
題目﹁表象としての井伊直弼﹂の研究成果の一つである。なお、本稿冒
﹃日本史A 現代からの歴史﹄東京書籍、二〇〇二年︶。
における井伊直弼名誉回復のあゆみ﹂、阿部が﹁記念碑としての井伊
して前記の滋賀大学経済学部ワークショップを開き、小林が﹁彦根
︵10︶この鼎談は時間がたりず予定した議論は未了となった。その続きと
和を謀る井伊大老とハリス﹄近江人協会、一九三四年︶。
を関連させて考える仕方は過去にもあった︵北村三四郎﹃世界の平
いえない。それはともかく現時のテロと直弼にかかわる粛清や暗殺
るといった趣旨の応答をした。だが直弼襲撃勢は持たざるものとは
に対して、田原は持たざるものによる必要悪としてのテロはありう
せて安政大獄から桜田門外暗殺までをどのように考えるかとの質問
︵9︶基調講演後の質疑応答で会場から出された九・一一テロとかかわら
︵8︶前掲阿部安成﹁始原の歴史学を批評する﹂参照。
本一﹂と述べたくらいしかふれられなかった。
︵7︶﹁彦根の魅力﹂についてはパネリストのひとりが﹁城下町としては日
海外事情研究所、第三号、二〇〇一年三月、を参照︶。
る一想起される横浜の過去について﹂﹃O轟引き叶Φ﹄東京外国語大学
歴史記述がある︵注︵5︶の論文や阿部安成﹁始原の歴史学を批評す
︵6︶開港を横浜の始まりとしてその時点からの発展を言挙げする定型の
たちーコメモレイションの文化史﹄柏書房、一九九九年︶で論じた。
年七月︶、同﹁横浜歴史という履歴の書法﹂︵阿部ほか編﹃記憶のか
文化−都市祭典と歴史意識﹂︵﹃歴史学研究﹄第六九九号、一九九七
︵5︶こうした歴史意識については、阿部安成﹁横浜開港五十年前の政治
頭でふれ、前掲阿部安成﹁直弼/象山/忠震﹂︵一︶で論及した彦根の金
亀公園にある直弼銅像説明書は、その校了後に︵二〇〇八年二月一四日︶
につけかえられたことがわかった。
︵3︶吉田常吉﹃井伊直弼﹄︵吉川弘文館、]九六三年︶。母利美和﹃井伊
歴史年表と異なる﹁物語﹂がなにかもわからない。
と現在をつなぐ﹁失われた環﹂がなにかよくわからず、また精緻な
ありません。彦根城を象る物語なのです﹂と紹介されている。過去
くことができるようになるでしょう。/これは精緻な歴史年表では
ング・リンクを浮き彫りにすることで、より鮮明な彦根城の姿を描
を振り返り、歴史を紐解いていきます。過去と現在をつなぐミッシ
れた︶。このコーナーは﹁時代を創造してきた様々な先人たちの視座
近代への礎石を築いた人物。一三人目の彦根藩主である﹂と閉じら
弼﹂となった。第二〇回では直弼暗殺までを記したうえで﹁国を開き、
直亮﹂まで︵その後証一八回から第二〇回は﹁開国の大老∼井伊直
に始まり二〇〇七年七月二七日時点で﹁第一七回時代の狭間∼井伊
︵2︶﹁第一回井伊氏の黎明から受難の時代へ1初代∼二十四代直政以前﹂
て原文の表記をかえた。
〇〇七年七月二七日時点︶。以下、引用にあたって縦書きにあわせ
員会のホームページを参照した︵耳ε“\\妻妻ヨ﹃畔。ロΦムOO費甘\。二
︵1︶国宝・彦根城築城四〇〇年祭の企画や運営については、その実行委
注
直弼﹂を報告したが、それもまた時間不足となってしまった。直弼
文庫﹂がある。この年は﹁大正天皇即位大礼記念事業として、井伊
彦根市立図書館には一九一五年に開設された﹁御大典記念彦根開国
て収録されている﹃滋賀県彦根町立彦根図書館第二年報﹄には開国
直弼生誕百年祭が挙行され、また彦根図書館内に開国文庫が開設さ
文庫のことが記されている。その全文をみようと彦根市立図書館で
の﹁その後﹂については、﹃彦根市史﹄と彦根市史編集委員会編﹃新
女子学院大学論集﹄第五一巻第二号、二〇〇四年一二月︶を知った。
出庫をもとめたところ﹁昔のことがいろいろと書いてある﹂との理
修彦根市史﹄第八巻史料編近代一︵彦根市、二〇〇三年間に関連史
これは彦根での直弼銅像の建立年を﹁明治四四年﹂としたり横浜の
由で閲覧不可といいわたされた。のちに同年報は国立国会図書館の
れていた﹂︵彦根市史編集委員会編﹃新修彦根市史﹄第九巻史料編近
銅像再建を﹁開港]○○年記念﹂としたりするなど誤りが多く、ま
近代デジタルライブラリーで全文みられることがわかった。築城四
代二・現代、彦根市、二〇〇五年︶。﹃新修彦根市史﹄に後略となつ
た予告された続編が発表されていない未完の習作である。一九九〇
料が載っている。また前記の乏。蒔冒αq℃昌2脱稿後に、小松秀雄
年代に発表したわたしの直叢論との論点のちがいもよくわからない。
百年を祝うのもよいが、この四〇〇年の歴史を知るための史料を彦
﹁大老井伊直弼のコメモレイションの文化社会史︵その一︶﹂︵﹃神戸
この日の彦根では複数のイヴェントがあり、たちばな会︵彦根藩家
︵11︶
根市は適切に管理し公開しているのだろうか。
の生涯﹄のような著名な文献は省略した。
五三
︵14︶わたしにとっての直弼論に必要な文献リストをうしろに掲げた。﹃花
臣の子孫︶が直弼銅像脇に建立した井伊文子︵元彦根市長妻︶の歌
碑の除幕式をおこなったり、論題﹁文化人井伊直弼と開国の偉人井
〇〇七年六月︸六日朝刊、滋賀版︶。﹃朝日新聞﹄の記事見出し﹁﹁主
伊大老﹂の講演が彦根城博物館講堂で催されたりした︵﹃朝日新聞﹄二
役﹂は大老・井伊直弼﹂は、一九〇九年の横浜開港五十年祭のとき
に﹃横浜貿易新報﹄︵七月二日︶に掲載された﹁あの世では掃部頭が
わたしは初めて﹁安政小獄﹂という表現を知った。
会主なり﹂の川柳を髪髭とさせる。彦根城博物館の講演会を聴いて
シ称︶日米修好通商条約締結一五〇周年記念事業実行委員会規約
︵案︶﹂の第一章総則第二条目的で﹁実行委員会は、江戸時代の鎖国
故井伊直弼﹁復権﹂の文脈−二〇〇七年彦根城築城四百年祭の投機1
︵13︶
なにより市民に馴染みのあるはずの市立図書館はどうであろうか。
なった︵﹃朝日新聞﹄二〇〇八年一二月二八日朝刊、滋賀版︶
九日︶。その後この事業の名称は﹁井伊直弼と開国一五〇年祭﹂と
ることを目的とする﹂となっている︵第一〇回実行委員会、一一月
当て、記念事業を関係の都市や機関等との連携を図りながら開催す
その大きな要因となった日米修好通商条約締結一五〇周年に焦点を
制度を打破し、日本を開国に導いた井伊直弼公を顕彰するとともに、
︵12︶
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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号
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鰍鼻聾晦曹欝
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#強冴鰍㊦車詣 硲邊爵
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