川上 合併 終止 符 - 中津川市

川上
合併 に終止符
との
無駄だった町の譲歩
発 行 所
坂 下 町 公 民 館
岐 阜 県 恵 那 郡 坂 下 町
新聞編集者 編 集 委 員 会
印 刷 所
岐 阜 県 恵 那 市 大 井 町
東濃出版印刷株式会社
定価 特別号十円 普通五円
村内事情の為延期申入れ
昨 年 か ら 長 期 に わ た り 折 衝 を 重 ね 知 事 の勧 告 ま で う け た
坂 下 町 と 川 上 村 の 合 併は 、 坂 下 町が 当 初 か ら の 川 上 村 の 主
張 を 全 面 的 に う け い れ る ま で に 決 意 を 固 め た に も か かわ ら
ず 、 川 上 村 側 か ら 村 内 事 情 な ど を 理 由 と して 一 年 延 期 さ れ
たい、旨の回答に接したことにより、事実上交渉は決 裂
し、合併問題はここに振り出しにもどることになった。
助 な ど の 関係も 考 えて 三月 中
早 く 云 って も ら い た か った 。
先 方 も それ なら そ う と も っと
今 後 の 方 針 に つ いて は 予算 町
も あ り 、 国 の 新 町 へ の 財 政援
の 合 併 に お いて こ そ 意 義 が あ
だ﹂と語っている。
新農村建設計画特別
助成に指定か
新農 村建 設 協議会 は三 月 十六
日 に開 かれ 農 委 事 務 局 が た て た
議会後篤と検討するつもり
農 山 村 振 興 基 本計 画 に つ い て 協
る の で あ って 、 一 年 後 の こ と
一方 注目 の 長野県 側は 、県 当
な ど 今 の とこ ろ 考 え て い な い
と 述 べ 、 さ ら に 解 し か ね る点
し 、 伊 藤県 議 と 共 に 、〃 坂 下 川
下 町 長 、桂 川 川 上 村 助 役 が 出県
議 した 。 ま た 十 四 日 に は 吉 村坂
村と吾 妻読書 の二ヵ 村の 案 に方
上特別助成地 域指 定〃方を 小島
か えて 神坂 、 山口 、 田 立 の 三 ヵ
針を変 え 近 く 知 事 勧 告を 行 うも
局 が 当 初の 蘇 南 五 ヵ 村合 併 案 に
して帰町した。
の と み ら れ て い る。 しか し 勧 告
検討の上最後的な回答を要請
ついで 三 月 六日高 原村 長 、原
が 多 い の で 再考 を 促 し 村会で
同村議 長、桂 川助役らは正式回
陳情 し た とこ ろ 本地 域の 計 画は
県 農 林 部 長 、 水野農 務 課 長 ら に
妥当なもので あると の話で 、指
中津川 市へ の 合 併を 議決 、 同 市
定 さ れ る公 算 が 大き い。 な お 振
に 先 だ ち 神 坂 村で は 去 る 十 八 日
も翌十 九日 に合併市 議会 を 開く
興 基 本 計 画 に 基き 重 点 的 に 四 百
回同 様 の も の で あ っ た の で 受 け
など微 妙な 動きを 続け問 題 は意
答に来町した が、内容は殆 ど前
入れ る まで に 至 ら な か っ た 。 吉
外 に 発 展 し そ う な 形 勢 に あ るわ
つ いで 十 九 日 吉 村 町 長 が 議会
が勧告 後四 ヵ 月以内 に川上 村の
こ の 場 合 考 え ら れ るこ と は 県
町 当 局で は 昭和三 十二 年 度 予
矢走橋が完成
田立駅下の鉄橋
視察した。
いて 県 顧 問 団 が 坂 下 川 上 地 域 を
なお二十 一日には 本問題 につ
る。
万 円 の 助 成 が な さ れ るこ と に な
して 横 山 県 地 方 課 長 に 経 過 を 報
町予算編成急ぐ
けである。
村 町 長 、 原 議 長 ら は 直ち に 出 県
告 、こ こ に 昨 年 来 も み 抜 い た 川
上村との合 併 交渉は 一応打切ら
三 月 中の 合 併 に 目 標を お いた
の 決 定 を 携 えて 川上 村を 訪 問 し
住 民 投 票を 行 う か 、 自 治 庁 と の
査定を 終り 十 八日に総務 委 員会
算 の 編 成 を 急 いで い る が 、 町 長
れる結果となった。
町 当局 で は 二 月 十 五 日合 併 審議
高 原村 長に そ の 旨を 申 し入れ た 。
連絡 の も と に 総 理 大 臣の 勧 告 に
総 理 勧 告 か 村 民 投 票
会 にひ き 続 い て 町 議 会 全 員 協 議
とこ ろ が 意 外 に も 同 村 長 は 、
三千四百万前後
会を開き 慎 重審議の結果 、事態
を開いて 審議 し、さらに二 十二
矢走橋 〃が 立 派な鉄 橋 に 生れ変
持ち 込 む か い ず れ か の 方 法 が と
日には総務 委員と各常任 委員長
られ るわ け だ が、今 後の 県 の 出
の 合 同 会 議 を 開 いて 検 討 を 加 え 、
り 、二 月二 十 二 日 盛 大な 竣 功式
森 林 組合 合同事 務 所 の 建築、
方が注目されている。
二 十 七 日 に 町 議 会 を 開 催 して 可
多 年の 懸案で あ る役 場 、 農 協 、
今 度 の 問 題 につ いて 吉 村 町 長
的 な見 地 に た ち 、財 産処 分 の 問
二 十 八 年 水害の た め に 膨脹し
は ﹁ 町 と して は こ の 際 少 々 の
を 収 拾 す る た め に も こ の 際 大局
題 に つ いて は 川 上 村 が 当 初 か ら
か り 正常 な村財 政 の 確 立、お
た 人件 費 等経常 費 の 節 減をは
が 行わ れ た 。 同 橋 は 坂 下 発 電 所
田 立 駅下 の 木 曽川 に架 か る〃
面積の 山林 提供の案をの み 、さ
主 張す る 人 口 比によ り算 出 す る
決する予定。
工 事 に 関 連 して つく られ た も の
犠 牲 は 覚 悟の上で 最 終 的には
一般 会計 予算 は前 年度 に 比し
よび その 他村内 に残 る諸問題
で 施 行 は東 京 の 松尾橋 梁 工 費 二
らにその上にたって山林提供な
約百万 円 増 の 三千 四 百万 円 前 後
川 上 村 の 条 件 を め ば 合 併 はで
千三百 万円 、 幅員四 米 五十のパ
き る と 考 えて 進 め て き た がこ
となるもよう。
期してほしいと提案した。
判 断 が 甘 か った わ け だ 。 一面
の 結 果 と なり 、 つ ま り は情 勢
解 決 を 理 由 に合 併 を 一 年間延
席上 吉村 町 長はそ うした 懸案
作する なり の 両様の 線を 打ち 出
は 合 併 条 件 に う た え る こ とで
り、組合役場 に準じて 金銭で 操
す まで に 踏 み 切 る に 至 っ た わ け
リッとしたもの。
である。
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昭和 32 年 3 月 25 日(1・15 日発行)
聞
新
下
坂
第 115 号
(1)
期 的 に みて 事 実 上 生 徒 募 集 がで
ので あ るが 設 置を 決 定 して も 時
日から盛大に
〃第三回林産まつり〃
4月
動 に よ って 、 那 加 、 高 田 及 び 坂
で 来る 四 月 二 十 一日 か ら 二 十 四
木工 協 および 東 部林 産の 各 後援
は町主催、坂 下営 林署、商工会 、
〃 第 三 回 坂 下 町 林 産 ま つ り〃
下の三 校が 明 年度に おいて 認め
しか し町 当 局で はこ の 度 の運
みられている。
き な い と の 見 解 に 達 した も の と
なお同橋 の 完成に 伴い〃 おん
を 経て 坂 下 駅 に 至 る 路 線 の バス
している。
運転を 計画し現在陸運局 に請願
られ る公算 が 大き く なった のが、
ポンプ は 第 一 分団が 優勝 し た。
四 月 一 日 中 津 川 市で 開 催 さ れ る
恵 北消 防 協 会 主 催の 競技 会 には
な お県 競 技 会 は 四 月 二 十 九 日 に
同 分団 と 第 三 分団 が 参 加 す る。
開かれる。
下外農道など完成
下外 から 握 に至る 懸案 の 巡 環
完成。 去る 二 月二十 六日 竣 功式
道路は工費 八 十万円でこ の ほど
日までの予定で開催される。
今 度 の 〃 林 産 ま つ り〃 は 木工
七日、下島 道 路は三 月十 五日そ
を行った。また上外農道は二十
れ ぞれ 本 年 度 分の 工 事 が 竣 功 し
などの 向上 を はかろ うと い うも
の。二 十四 日 には展 示品 の 即売
民 材三 千 石 の 市 売会 も同 時 に開
こ れ を 記 念 して 官 材 千 五 百 石 、
完 成 し た 下 外 道 路
た。
会で 坂 下小 学 校 講堂 建築 準 備委
く予定。
る 市 売会 が 三 十 回を 迎 え る ので 、
を 行う 他 、 東 林が 毎 月 行 って い
の 木工 品の デ ザ イ ン 、加 工 技 術
製 品 の 展 示 に 主 体 を おき 、 今 後
せ めて も の 収 穫で あ っ た と みて
いる。
坂小講堂建築工費
七百万程度か
町議 会で は 関係者 の要 望 もあ
員 に 次 の 五 氏 を 選 任 、同 委 員 会
って 去 る 二 月 十 五 日 の 全 員 協 議
は二月 二十 一日に第 一回の会合
の 確 保 がで き る か ど う か で 難 航
設置 問 題 は 既 報 の と おり 生 徒 数
坂下 高校 の 全日制 女子 家 庭科
局で も 吉村 町 長、原議長 、 吉村
と まで 申 し 入 れ た ほ どで 、 町 当
れば 文教予算 の審議 に応じ ない
委 に 対 して 本 問 題 解 決 後 で な け
て 具 体 的 な 相 談を し た 。 今 まで
三 月 四 日 に は 玉田 建 築 士 を 招 い
選定に ついて 協議した。 さらに
建築財 源、 講 堂の規 模、 敷 地の
魚 川 時 一の 両 氏 を 選 任 し た ほ か
を 再選 し副 団 長に曽 我正 雄 、前
日役員会を 開 き 、団 長に村 瀬氏
坂 下 町 消 防 団で は 二 月 二 十 二
町議会議 員 一行十 四名 の 国会
消防団長に
して い た が 、 最 終 的 に 十 六 日 の
教 委 長 、古 谷 PT A 会 長 、 水野
審議さ れ た とこ ろ に よる と 大体
田 源弥 の 両 氏 、 本部 長に 水 野 次
視察旅 行は 三 月十二 日か ら 十四
を 開 き 正副 委 員 長 に 森利 一 、糸
県教育 委員会で 可決 に至らず、
校 長ら が 連 日 にわ た り 陳 情 を つ
敷地は 第一校 舎跡が 予定 され 建
男氏 の 本団 役 員を そ れ ぞ れ 選 任
係 者 の 間で 惜 し ま れ て い る 。 と
かたむ いた だ けに捨てて も おけ
はじめ県政社会党まで が設置に
当 の 県 教 委 と して は 松 野 議 長
員の送別会を開いた。
した 。 三 月 五 日 に は 役場 で 各 役
日まで二泊三日の旅程で実施。
可搬ポ ンプ は 第五分団、 自 動車
団 対 抗 消 防 操 法競 技 会 を 挙 行 、
なお十七 日 には中学校で 各分
せば 三 十二 年 度 中の 建築 が 希 望
才賀豊一、吉村薫
森利一、糸 魚川時一、楯 敏市、
されている。
村瀬氏が再選
今 年度 内の 実 現 は つ いに 不 可能
坪 は 約 百 八 十 坪 前 後 、財 源 が 許
町議国会視察
となった。
教 委で 終 止 符 が う た れ た も の で
し か しこ の 問 題 は 一 時 設 置 寸
く に 松 野 議 長 を は じ め伊 藤 県 議
ず 、 慎 重 に 検 討 を 進 めて い た も
前 まで こ ぎ つ けて い た だ け に 関
委員会は設置の線が強く、県教
ある。
づ け た とこ ろ 、結 局 十 六 日 の 県
全日制女子家庭科は今年度実現できず
21
た け 交 通〃 で は同 橋 か ら 田 立村
矢 走 橋 の 渡 橋 式 左 は 旧 矢 走 橋
や 坂 井 文教 委 員 長ら 県 議 会 文教
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(2)
準軍属の弔慰金
三万円を支払か
町 厚 生係 で は 終 戦 当 時 外 地で
の 請 求 事務 を 始 めた 。 支 払 い の
死亡した準軍 属に対する弔慰金
対 照 は 一 般 邦 人で 引 揚 途 中 国 府
戦没者慰霊祭
恒例の戦没者春季慰霊祭 二十
五日午 後一 時から直会 殿で 挙行
する。
遺族会の東京行
遺 族 会 主 催 の 靖 国 神社 参 拝 旅
日から四日間
使役を させ られて 死 亡した もの
行は三 月二 十 六日午 後五 時 中央
軍 、ソ 連軍 な ど に 抑 留 さ れ 軍 の
に限ら れ 、 年 令も 当 時十 八 才以
行わ れ る。 コ ース は 東 京 ︱ 熱 海
︱伊豆伊東、二十七日東京 泊り、
線経 由で 二 十 六日まで の 予 定で
二 十 八 日 は 熱 海で 一 泊 す る 。 費
上 の 人 々で あ る。 弔 慰 金 は 三 万
町で の 該 当 者 は 約六 十 人 と みら
用 は 約 三 千 円 で 、現 在 百 四 十 人
が参加する予定、
係 員 が 来町 し 打合 せを 行 っ た が 、
手続きは今月一杯。
4月10日まで
主 唱の 〃 黄 色 い 羽 根 〃 募 金運 動
アジ ア善 隣 国民運 動中 央 本部
限 は 四 月 十 日 まで 税 額 は 約 四 百
資産 税 の 縦 覧 を 行 って い る 。 期
町税務係で は三十二年度固定
固定資産税縦覧
は 一 億 五 千 万 円 の 目 標で 進 め ら
町民税をお忘れなく
◇今月の納税◇
六十万円
目標約一万円
〃黄色い羽根〃
れ る。 去 る 十 四 日県 世 話 課 太田
円 の 国 債で 支 給 さ れ る が 、 坂 下
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れて い るが 当 町の目 標額 は 九千
四 百 万 円で 期 日 は 今 月 一 杯 。こ
の 募 金 はた と えば フ ィ リ ピ ン に
対 し戦 災復 興 用 のセ メ ン ト を 贈
物資贈 呈、 サービスを 通じ 友好
呈 す る など 東 南 アジ ア諸 国 へ の
を深めようというものである。
坂下旅行会
第四回会員募集
コース
高野山︵諸堂伽藍参拝︶坊泊
新和歌浦、紀三井寺参拝
費
風光明眉白浜温泉郷泊
会
金四、五〇〇円︵申込金三 五
つ積立︶明年春旅行
〇〇円、以下 毎月三五〇円 づ
申込所
員
坂下町商工会 恵那信用金庫
坂下支店
定
申込〆切日
二五〇名
昭和三十二年三月末日
今こそ考え実行
は社会 本位 に 物を 考 え る と 言 っ
た 様 に 、同 じ 事を 考 え 、 同 じ 事
い ず れ の 問 題 に し ろ 、﹁ 時 ﹂
解決して欲しいものである。
を あや ま るこ と なく 、実 現 せ ね
なさねばならぬ
を す る にも 起 点 の 相 違が 、 結 論
なせばなり
ばならぬ問題である。
なさぬ人の
最近の坂下 町のトピッ ク は、
なにごとも
の相違となる。
先ず坂 下高 校 の全日制家 庭科設
この柳歌にもはげまされて、
挙町一体化の線で、多角的に考
なさぬはなりけり
察して解決せねばならぬことを
堂建設の問題で ある。次に町村
合 併 の 問題 が あ る。 か よ う に し
痛感している。大いに考え、大
置 の 問 題で あ り 、 次 に 小 学 校 講
必 要 と す る 問 題 が 湧 出 して い る 。
らぬ大切な時であると思う。
いに語り、大いに実行せねばな
て 次々 と 、 吾 々の公 正な 判 断を
と あろ う が 、 何れ も 坂 下 町 に 住
誰 だ って 、 人 に は い え な い コ
︵藤原孝寛︶
身 近 な 問題 と 比較的 縁 遠 い 問題
う人々 に取 って は身 にふ り かか
る 無 関 心で 居 ら れ な いこ と 許 り
である。
高校 の全 日制と小 学校 の 講堂
は 実 現 に 時 を あ や ま るこ と な く 、
併 話 も それ が 原 因で つ い に オ ジ
トガラ は 持 って い る。今 度 の合
様で ま こ と に 喜 ば し い 。 こ の 上
の 問題 は 明 る い見 透 しが つ いた
当事者 諸兄 の 実 行力 に期 待 する
は 、 正 しく 当 然 な 事 も 、 時 と 環
と 思 想 のこ と で あ る 。 或 る 時 代
何時 も思 うこ とは 、時 の 流れ
と思う 。 時 は 過ぎ、 事態 は 刻々
賢明な判断を 下すべき時で ある
未 来 へ の 見 透 し を 立て て 、 公 正 、
去の経 過を 究 明し、現在に 即し、
講 堂 建 設 話 進む 、 ボレ た 校 舎
いたいのは六千町民一同。
よか った と 町 長嘆く 。 そ う いい
で き ん な ら で き ん 、と い えば
ャン。
着々と実行に うつすべきで ある。
ものである。
境 と 思 想 の 変 遷で 、 正 反 対 に 罪
に変 化 す る 、 最 近 長 野県 の 神坂
しがつかぬ 。 無理して も 造りた
で 事故 の あ って から で は 取 り 返
する時である
悪でしかも邪道となることが
村も 、 中津 川 市への 越県 合 併を
○
往々にある。 其考え 方の 標 準と
議 決 し た 。 坂 下 町 と して も 、 島
町 村 合 併 の 問 題 に して も 、 過
か 単 位 の 取 り 方で 非 常 な 相 違 が
未 来へ の 発 展 の 為 に 合 併 問 題 を
国 根 性 を 捨 て て 大 乗 的 な 気 持で 、
○
○
出 来て く る も の で あ る 。 或 る 人
い。
は 自 己 本位 に 物を 考 え 、 或 る 人
―
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(3)
町教育 委員 長 吉村毅 一氏 、 小学
に それ ぞれ 証 書 、 賞 状 を 授 与 。
校 長梶 田 敏 郎 先 生の 祝 辞 、 在校
な ど に 続き N H K 専 属 稲 垣 寿 子
生総 代 糸魚 川 敏彦 君 の 送 辞を 受
さ ん の ピ ア ノ 独奏 、 愛 知 学 芸 大
学教授加藤恵 美子さ んの 歌 曲独
け 、卒 業 生 総 代 原 茂 君が 、 感 謝
が 開 け る か も しれ な い 。 ︱ ま あ 、
唱など にぎや かなうち に式を 終
プラス にな り 、産業 にも 新 生面
こ の 話 は冗 談 で あ る が 、 町 村 合
り 、 生 徒 た ち も 立 派 な贈 り も の
木 曽 と か い う 旧 来の 地 名 まで 、
無 く な るわ け で は な く た だ 、 長
すれ ば 、坂 下 が 川上 と合 併 す る
併 が 真 に よ い 環 境 を 生む 方 法 と
の 一部 と な って も。 信 州 と か 、
野県 と いう 行 政区 域 の名 が 、岐
英国 の 水 爆実 験、わざ わ ざ 違
阜県の 名と変 るだけで 、 どこ ま
い太平 洋まで 来んとて 、 お国に
近 い 大 西 洋で はで き ん も の か ネ 。
○
の答辞を述べた。
お 彼 岸 過 ぎ て も 寒 いコ ト 。で
に大喜びだった。
で も 、 木 曽 は 木 曽で 、 木 曽 の 藤
案 、 中 津 川 へ 合 併 す る案 と 、難
も初午祭りを 皮切り に、花 に浮
関 西 と 関 東 と の 境 目 に も な って
葉〃グランド・ピアノの
第七回坂下 高等学校卒業 式は、
七十一 人の 卒 業 生が 栄えて 一般
町 内 各 校 の 晴れ の 入学 式 は 次
小学校は八日
各校入学式
十人。
は二十 六日 が 卒業式で 卒 業 生は
は百四 十二 人。 なお上 野小 学校
日 に 行 わ れ る が 、今 年の 卒 業 生
坂下 小学 校 の卒業 式は二 十六
気時計一個を寄附した。
な お卒 業 生 一 同 は卒 業 記 念 に電
古 谷 栄 助 君 が 記 念品 を 受 け た。
が 卒 業 生 を 代 表 して 答 辞 に た ち 、
授与された 。 また糸 魚川 正之君
君ほか 十人 に それ ぞれ 優 良 賞が
して い っ た 。 卒 業 生 の う ち A 組
林 和枝
加 藤 明 君ほ か 十 一人 、B 君 安江
社会 に 、或 い は上級 校 へ と 進学
卒業生総代
堀
美 和子 さん ほ か 十 人 、C 組田 沢
吉村郁夫他七名
加藤柳な枝他十四名
原 千尋他五名
昌之
町長賞
楯 芳美
功労賞
一年間皆勤賞
四年間精勤賞
町教委長賞
去 る 十 日 午 後 一 時 か ら 挙 行 され 、
に挙 行 され 男 子七十 七 人 、 女子
坂 下 中学 校 の 卒 業 式 は 十 九 日
小・中校卒業式
い る。 そ う 考 え る と 、 神 坂 村 は 、
披露式 が去 る 十三日 一時か ら同
西尾PTA会
金贈呈があり、
原君が答辞
高校卒業式
のである。
と冗 談 を と ば して み た く な った
当局 は 大切 な 村を 隣 県 へ 取 られ
頭を と り 同 校 創 立 十 周 年
坂下 中学 校PTAが音
立派な贈物に大喜び
盛大にピアノ披露式
︵伴︶
産 して い る の を み る と 、 ち ょ っ
神坂村が、町村
るよう に考 えて いる ようで ある
村 に変 り は な い の だ か ら 、 固 執
合併に波にのって、
が 、 町 村 合 併 の 目 的 か ら 言 って 、
する必要は な いよう に思 う。県
中津川市と合併を
して 認 可 し て も よ い よ う に 思 わ
越県合 併も 、こ れ に 沿う も のと
かれる日も近い。
る。
れる。
△
岐 阜 県 と 長 野県 と は 、 単 に県
▽
決議したそうであ
交通、産業、文
化をはじめ、親類
付き合いに至るま
を 記 念 して 寄 附 を 募 り 、
な地形 にあ る 神坂村 として は、
関東か ら 、 関 西へ所 属す るこ と
校講堂で父兄
境で あ るば か りで な く 、 丁 度 、
こ の 際 、岐 阜 県へ編 入した 方が
に な る が 、 そ の 逆で 、 坂 下 も 、
れて いる、山口、田 立の両村を 、
長から吉村町
小、中学校生
中学 校 四 月 五日 、 坂 下 小 学 校
の通り。
―
4
―
で 、 長 野 県 の 端で 、 孤 島 の よ う
便 宜で あ る こ と は 明 瞭 な の で 、
い っ そ 関 西 か ら 関 東 へ 入 って は
巨費を 投じ 購 入 した〃 山
殆 ん ど 全 員 が 、こ れ に 賛 成 し た
町費を加えて 六十万円の
わけであろう。
多数が参列し
△
いかが?
▽
は島 崎 藤村 が 、信 州 の 藤 村で あ
関東か ら関 西 へ招致 するかわ り
長に対し四十
披露式には
て開かれた。
るの に 、今 度 は美 濃 の 藤 村 にな
おもしろいではないか。
に、坂下が長野県へ所属すれば、
合 併 懸 案 の 一 つ と して 研 究 さ
って し ま う と い う 馬 籠 の 一 部 の
こ の 時、合 併反対を 唱 え たの
人々で あり 、 また 、 容易 に 認 知
市の方 が、 岐 阜市や 長野 市 より
徒たちのピア
三万円の寄附
も 近い か ら 愛 知県 へ 入る の も 一
ノ独奏、合唱
県庁 の所 在地ならば 、名 古屋
方 法で あ る が 、 長 野 県 へ 編 入 す
しないのが 長 野県 当局で あ るそ
その 反 対 理 由もま た 、 一 応も
れば 、 少なく とも、教育 面で は
うだ。
中津川 市の 一 部とな り、 岐 阜県
っともで はあろ うが、神坂 村が、
披 露 式 で の 加 藤 さ ん 独 唱
学園だより
昭和 32 年 3 月 25 日(1・15 日発行)
聞
新
下
坂
第 115 号
(4)
四月八日、上 野小学校四月 八日、
坂下実業高校四月十一日
小学校育友会
しか し実 際 の とこ ろ は 、 女 子
と嬉しい悲鳴をあげている。
は 比 較 的ス ム ー ズ に い っ た も の
い よ う だ。 つ ま り ど っと お しか
のや は り 男 子 の 就 職 はむ ず か し
月十六 日行わ れ 、役 員選 挙 の結
小学 校育 友会 定時 総会 は 、三
と い って 名 の 通 った 大企 業 な ど
ら な い と い う の が実 情 ら し い。
の希 望 に 副 う もの が 案外 見 つか
会長に原氏再選
果 、会 長原 正 夫 氏 が 再選 さ れ 、
は 相変 わ ら ず の 狭き 門 と い うか
けた 求 人の う ち 、 本 人や 父 兄 達
副会 長 可 知 夏 生氏 、 後藤 喜 美 子
ら世の中は皮肉なもの。
◇⋮進学は 男子四十 人、女子二
就職の状況である。
以 下 は 中 学 校 にき い た 進 学 と
氏、会計加藤鶴介氏が決った。
中学校も決る
会長に氷室氏
中津商 高二 十 一、恵 那高 一 一、
十六人。内訳 は中津高三 十 五、
蘇 南 高 六 、 そ の 他 二 と な って
水稲展示圃の結果判る
大きい硅酸の効果
︵備考︶施肥量
東山三八号
員会 が実施 し た 水稲の 各
三 十 一 年度 中 に 農 業 委
種 展 示 圃の 展 示 成 績 が 次
三、四枚
三石一一七
銀河
十四日 二 、 六 五 五
ほまれ錦 十四日 二、四七二
早生秀峯
十四日 二、二一〇
一、五三
︵備考︶施肥量︱基肥
ければならない。
穂首、 稲熱 病 に弱く 、注 意 しな
が 良 い 成 績 を 示 した が 、 非 常 に
示 し 収 量 に お いて は 農 林 四 八 号
下 田 の 早 生 種を 対 象 と し て 展
五貫、過石三貫、塩加一貫
追 肥︵ 七 月 二 十 五日 ︶硫 安 一、
塩加三貫
尿素一貫 熔燐六貫、
一、二枚
三石〇〇七
熔 燐 八、〇貫
一、五貫
基肥︷尿素
塩加
のようにまとまった。
◇白葉枯病対策
一、五貫
三、〇貫
品種展示圃
ケイ酸石灰 三〇貫
追肥︷硫安
七月二十八日
熔燐 二、〇貫 施肥
大門
収量
原安二
◇ケイ酸石灰施用比較展示圃
品種 ケイ酸施用量
二石六二〇
三 〇 貫 三石〇三〇
二 〇 貫 二石九一四
︱
三 〇 貫 三石六〇八
二 〇 貫 三石三一〇
三十 一年度 は品種を主体 とし
いて は ほ ま さ り 、 新 山 吹 の 順 と
のが多 いよ うで ある 。収 量 にお
黄金錦
新山吹
て 展 示 した 結 果白 葉 枯 病 は 金南
一、〇貫
生産葉数 白葉枯病一
一、六枚
塩加
一、八八枚
一茎平均 株葉数収量
糸魚川亘
実施者︱新田
品種名
ほまさり
二、四四
風が一番弱 く いずれ も旭 系のも
三石三六四
な って い る 。 今 年 度 の 方 針 は 施
三石四二四
一、九九 三石三六二
肥量の 展示 圃を進めて ゆく 考え
◇早川千代松︵坂
氏の最高記録、
下町相沢在住︶
百米十二秒、二百
米二十五秒二、走
巾跳五米八六、走
高跳一米六五等万
能選手としてその
競技振りは特に多
彩であった。
◇原幹人︵坂下町新町在住︶
―
5
―
坂 下 中学 校 育 友 会 で はこ の ほ
だ。
◇⋮就 職は 男 子二十三、女子三
農林
ど新年度役 員 に次の 諸氏を 選ん
会 長 氷 室 伊 三 、副会 長 松 井淳
十 一 人で 、女子 は ほ と んどが
新山吹
一、加 藤貞 子 、会計 林兼 夫 、監
いる。
査委員加藤清、原助 次、 長谷川
です。
五、四枚
◇水稲品種比較展示圃
出穂期 収量︵石︶
小 之 沢 山内三千男
品種名
二、九〇九
新 山 吹 八月二十三日
ほまさり 二十五日
二、四五二
二、七七七
十四日
十六日 二、九一〇
一、五二
改良新二号
さかえ
三石一八一
一、六枚
一、六九
三石一七八
一、七八
農林四八 十六日 三、二四二
三石二四〇
二、四四
三石二七八
一 、 六 五 一、四枚
三石三〇〇
三石三〇九
一、四三
金南風
一、六六 二、四枚
さかえ
美濃旭
千本優
豊稔
く 、 関 電 一、工 員 が 約 半 数、
残 り は 一 般 商 店 と な って い る 。
紡 績 関 係 。 男子 は 官 公 署 が な
職
子 七 人 、 女子五 人 、 女 子の洋
◇⋮その他家事につくもの は男
裁見習が四人、職業補導所へ
は男子 六人、女子三 人が 進む。
他 に 就 職 未定が 、 四 人 となっ
ている。
つばさ
中生新千本
②
西尾重郎
農業メモ
美代子
就
求人はワンサ
だが実のところは⋮
神武 以 来 の 好況 ︱ も っ と も そ
れ は 大 都会 周 辺 十 里 まで と い う
が ︱ の 波 に 乗 って か 、 今 年 学 窓
を 巣 立 つ 中 学 生の 就 職も な か な
人を 越 しう ま く断 る の に 一 苦労
か好調。今学校への求人は二百
坂下スポーツ人群像
昭和 32 年 3 月 25 日(1・15 日発行)
聞
新
下
坂
第 115 号
(5)
新舞子における全国中学校庭
しとて定評があった。
前 衛 と して 氏 の 右 に 出 ず る 者 な
と 宿 を 求 め た も の で 、こ れ は 面
日 本農 家 の 実 際を 知 りた い か ら
で のピ アノコ ン サート の 帰 り 道 、
会 を 催 した 。 夫 妻 は 付 知 中 学 校
れ 、私 の 家 で 二 人を 囲ん で 座 談
習 っ た 行 儀 を や って み た の だ が
巨体を 倒 して しま っ た。 学 校で
ぬ。も た も た す るうち 六 尺 余の
ので さ あ 立 と う と し た 足 が 立た
るあい だ夫 人 はつくば って いた
可 知 吉 田 組 と 対 戦 惜 敗 した 事 は 、
白 い と 一 役 買 って 出 た わ け で あ
で すか﹂ シビ レ 、シビレを 連発 、
﹁ 本 当 に つ ら い 、こ れ が シ ビ レ
︵十六ポンド︶
▽古谷敏夫︵坂下町乙坂在住︶
し全国 制 覇 組で あ る 育 英 商 業 、
球 大会 に 出 場 そ の 準 決勝 へ 進 出
砲丸投 九米一三
昭和二 年頃 の 中津 商業 短 距離
氏は現在中電中津営業所営業
の 競 技 生活 は 恵 那 中 学 時 代 か ら
陣 の 一 偉 才 で あ った 。 現 在 五 十
才に手が届か んとして 、 尚 百米
る。
主 任 と して 活 躍 中で あ る が 、 氏
において は 、絶対の強味を 持っ
県 下 に その 盛 名 を 馳 せ 、 二 百 米
ていた。記録二十四秒。
ので あ る。 実 業 に 就 かれ て か ら
今で も 氏の 口 から 、 物語 ら れ る
終種目 八百 米リレー において 、
以 下 は 前 日 の 座 談 会 の 模 様で
一同大笑いでした。
一五秒 前後で 走り得 る事もむべ
の 教 師 を し 、 主 人 は 農 家 の 生れ
当時岐 阜県 記 録保持者柴田 晃選
の 部 に 出場 さ れ 善 戦 、 本 年 八 月
究しているとのこと。
日 本 中 を 廻 って 日 本 の 生 活 を 研
答
位の百姓をしていますか。
ア メ リ カで は 一 戸 当 り 何 反
恵 那 高 に お い て 開 催 され た 、恵
百 町 歩 位で す 。 多 い 人 は 一 千 町
夫 人 は 音 楽 学 校 を 出て ピ ア ノ
なるかなである。
も氏の 庭球 に 対する情熱 は 、聊
す。
氏が東濃四郡陸上競技 大会最
一二秒〇
問
百米
校へ入り七月結婚されて 、今は
で 日 本 へ 来て 二 ヵ 年 間日 本 語学
共 に 、 陸上 部 の 斗 将 と して 、 中
︵ 昭和 三 、 四 年︶伊 藤県 議 等 と
私 の 家で は 木炭 の 合 理 的 な 焼
氏は中津商業陸上全盛の頃
▽吉村実︵死亡︶
記録
十 年度 国 体 庭 球選 手 と して 一般
か も 衰 え る も ので な く 、 昭 和 三
手︵百 米十 一 秒三 ︶ と 雌 雄を 決
を 演じ 遂 に 彼 を 抜き 去 って 坂下
那郡庭球大会 には一般の 部に出
歩ほ ど つく り 飛 行機 や ト ラ ク タ
すべ く 第三 走 者 と して 、 大 接戦
を 優勝 に導 い た 、エ ピソ ー ド は
距離走者た り 。東京 就後の 夭折
ーで行います。
トウ モロコ シ と 麦が 主 作で
問 どんな作物を作りますか。
私 の 故 郷オ ハ イオ 州で は四
今で も 語 り 伝 えられ て い る 事で
つ いて の 私 達 の 話 を 興 味 深 く 聞
き 方を 説 明 して くれ た り 、 蚕 に
二分十六秒
場梶田 校 長先 生と共 に堂々 群雄
八百米
をなぎ倒し、栄あるトロフィー
記録
四分二十五秒四
いていた。
は惜しまれる。
千五百米
を獲得、当町の為に万丈の気を
ある。
◇吉村樹雄︵ 旧姓小 池坂下 町矢
淵在住︶
答
麦は年二回、野菜は日本と同じ
夕食 には 五平 餅を ご 馳 走 した
とこ ろ 始 めて 食 べ る がこ れ は お
玉ねぎ 、馬 鈴 薯 、 カ ボチ ャ 、大
通り実証した。
い し い と 大 喜 び 、 し か し 五 本も
問 どんな農具を使いますか。
根、白菜何でも出来ます。
吐き 、 坂 下 松 井 健 在 な り を 文 字
作所名営業所勤務︶
振わ ざ る 坂 下 ス ポ ーツ 界 にと
食 べ た ら も う 満 腹で す と い う 。
▽ 吉村 正 一 ︵ 名 古 屋 市 、 日 立製
黙 々 と して 練 習 又 練 習 に 依 り 、
氏の 中津商業陸上 部に おける
ま た 朝 は 芋 じ る を つ く っ た とこ
氏 は 小 池 理 一 氏 の 令 弟 と して 、
長 距 離 走 者 と して そ の 走 法 を 会
って 、 一 大 快 心 事で あ る と 云わ
答
トラ クターで 引 くプ ラウ ・
ろ 、こ れ も 二 杯で も う 沢 山 と い
デスク 、ハ ロ ーを始 め刈 取 り脱
問 何時間ぐらい働きますか。
十 時 間 か ら 十 二 時 間 く ら い。
一 戸で 二 人 で 四 百 町 歩 は 耕 し 人
は雇いません。
答
問 小作人はありますか。
人の 大 食 に は アメリ カさ ん も い
自身も食い過 ぎを痛感 しま した。
答
お金を 貯 めて から 土 地や 機 械を
と考え る人 は まず 都会で 働き 、
こ ん な話を しなが ら朝 食をと
じずには居られません。
あ り ま せ ん 。 百 姓を した い
米と味 噌 汁の 生活の 相 違 、 と感
こ れ も パ ン と 乳と肉 の 生 活 と 、
さ さ か 当て ら れ た か た ち で 、 私
それ で 食 う 話を す る う ち 日 本
穀は一度に行い乾燥はしない。
ねばならぬ。
ケタ違いのアメリカ農業
ドウナン夫妻を
囲む座談会
小野沢明朗会で
△△△
去る三月 十 日小野沢明朗会へ
アメリ カの ア イバン ・ ド ウ ナ ン
︵二十八才︶とエレナ・ドウナ
う。嫌 いか と 思 った が そ うで も
活躍は実に目 覚しいものがあっ
四分二十七
当時︵大 正十四、 五年頃 ︶中
ン︵二 十七 才 ︶夫妻の二 人 が訪
ないらしい。
た。短 距離 走者として 又 フ ィー
千 五百米
ル ド 競 技 に お いて も 可 な ら ざ る
記録
得し郡下に君臨した。
秒四一万米 三十六分四十二秒
走巾跳 六米五四
二百米 二 十 四 秒 一 一
百米
異の的であった。
記録
十一秒六
技における氏の存在は他校の驚
はなく 、対 抗 競技、体育 連 盟競
氏 は フ ィ ー ル ド の 万 能 選 手で
▽原為一︵戦死︶
あり東 濃四 郡 陸上 大会 に 出場か
って は 一 度 も 投 げ た 事 の 無 か っ
た円盤 投に 、堂々優勝し 、 その
万能振 りを 遺 憾無く 発 揮 したも
津商業 庭球 部 におけ る氏の 存在
▽松井佐一郎︵坂下町伝馬町︶
三米一一〇
は 、恵 まれ た 身 長 に 物を 云 わ せ 、
のである。
一米六〇
棒高跳
走高跳
記録
円 盤 投 二十九米三〇
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6
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昭和 32 年 3 月 25 日(1・15 日発行)
聞
新
下
坂
第 115 号
(6)
〃 が 行 わ れ る た めで す が 、 皮 肉
に も 値 段 は 市 場 が す んで か ら 決
農家 の教養 程度 はど んなも
問
買います。
められ 支払わ れて い る有 様 とい
才 八日
鈴村吉五郎
才 十六日
下 外
五日
三日
ら の 買 手も つ き 、〃 坂 下 の 豚〃
▲日本語
⋮新刊図書⋮
金田一春彦著
▲幸福への手帖
中西
福田
悟堂著
恒存著
中学 校 に おいて 郡 連 合 婦
ち ょ う ど 出 くわ し た 同 部 落の
ヨチヨチさまようブー君一匹。
いた とこ ろ が 心当た りは 全 然な
ト シさ ん が 、 あち こ ち き い て 歩
い。 仕 方 な く ブ ー 君 を 抱 いて 家
一もうけしようと高
冬の 日は 短 くもうトッ プリ 暮
れている。
早速 自転 車 につけ たブ タ 箱に
ブ タを 入れ 、 何 と か 夕飯 に 間 に
合う時間に家へ着いた。
︱ と こ ろ が 、 だば え た こ と に
ブ タの 姿 が 見 当ら な い。 さ あ 大
手に逆戻り⋮⋮ブー君ヤーイ。
仕方な く空 腹をかか え、堤 燈片
変 と そこ い ら を 探 し た が お ら ん 。
付知町において恵北市
その 頃 、 西 方寺街 道の 暗 闇を
☆
村長会、町長出席、消防団
長会議に出席の為村瀬団長
中津川市へ
のとりもち︱。
がコ ウ イチ さ ん と は 不思 議 な 縁
助けられた ト シさんの旦那 さん
イチ さ んの 奥 さ ん が ト シ さ ん 、
こ の 事件 ? ブー君 の 生 家コウ
めでたく森さんの手に帰った。
んで 廻 した 回 覧で 、 持 主 が 判 り
森さん が西 方 寺の自 治会 にたの
それ か ら 間 も なく 勘を つ けた
に帰った。
教育長会議に助役岐阜市へ
午 後 一 時 直会 殿 にて 遺 族
午 後 一時第 三 回 林 産祭
郡 町 村 長会 定 期 総 会 に
握部落の森さん、
ごとである。
せんだってのでき
午後一時生産組合長会議
出 席 の 為 町 長、 中 津 川 市へ、
十八日
打合会
十二日
会役員会
七日
て 消防ポンプ 操法講習会、
午前 八時半より中学校に
人会教養部研究発表会
旭 町
の地位 ? 確 保 もむ ず か し いこ と
市 場 が 盛 大 と なれ ば 広 範 囲か
う。
のですか。
普 通 大学 卒 業 で なけ れ ば ア
まず 機 械 操 縦 を せね ば な ら ず 農
で はあ りま せ ん。今 後は 売 手も
大宅
メ リ カで の 農 業 経 営 は 出 来 な い 。
答
薬から すべて の経営 知識 、 世 界
▲昭和怪物伝
図書館だより
の 市 場 伍に して ゆけ るだ け の 力
買 手 も 馬 屋 売 り は 避 けて ほ し い 、
▲野島と生きて
田中 忠雄著
▲社会主義と自由
部のコウイチさんと
一つブタでも飼って
Dマッケンジー著
向坂
アルベールカミュ著
▲泥棒
蓑 輪 長 野営 林 長局 長 就 任
ツを一匹わけてもらった。
▲転落
平凡社
こで、肥えそうなヤ
二日
挨拶の為来町
一日
︵三月︶
町針短信
日本電建出版部
▲小住宅デザイン集
︵3︶
▲少年少女世界地理風俗全集
逸郎著
▲禅の人間像
主婦の友社
壮一著
が必要なわけです。
深沢 七郎著
部
本 町
鐘
新 田
時
握
▲園芸全書
▲楢山節考
才 十七日
源作
よし
才 二十三日
高
︵一組合員︶
▲地図の読み方 籠明 良明著
悼
才 九日
平吉
一月
哀
願いです。
ア メ リ カで は 乳 牛 二 十 五 頭
林
というのが 組合関係者の 切 なる
64
58
89
問 畜産方面はいかがですか。
答
が 最 低 飼 育 頭 数で こ れ 以 下 で は
コ ス ト が 高 く な って し ま う 。 牛
乳の需 要 面で は小 中学校 給 食で
牛乳四合です。
問 畜類の飼育は︱。
普 通 サイロ を つ くり トウ モ
二月
才 十五日
あさの
才 十四日
原 佐都美
楯
吉村
吉村
三月
鈴村 か ね
旭 町
松源地
―
7
―
答
︵山内康広︶
一日 五ドル ︵ 千 八百 円 ︶ く
問 農家の雇入人夫の賃金は。
ロコシ、麦、クロバーです。
答
らいです。
仔豚はぜひ共
市場へ
養豚組合では
毎月一 回仔 豚 市場を 開 いて いま
す が 、 出場 頭 数 が 案 外 少 な く 頭
才 四日
睦美
大野 も と
安田
るのは せ いぜ い三十 頭前 後。 原
才 四日
因 は 手 数 の 省 け る〃 馬 屋 ? 売 り
十 頭は 生産 さ れて い る が 市 に 出
を 悩 ま して い ま す 。 月 平 均 約 五
74
0
51
84
76
88
0
昭和 32 年 3 月 25 日(1・15 日発行)
聞
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