Title Author(s) Journal Issue Date Type 文学研究と文学教育(特集・文学のおもしろさ・シンポ ジウム) 小林, 幸夫; 松本, 朗; 赤羽, 研三; 村田, 真一; 小林, 章夫 ソフィア : 西洋文化ならびに東西文化交流の研究, 58(1) 2009-10-31 紀要/Departmental Bulletin Paper Text Version 出版者/Publisher URL Rights http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/266 66 を て あ い ら る か の じ か め 、 や 企 っ 業 て に お 入 い っ て て ほ く し る い 若 か 手 と の い 人 う た こ ち と に に ど つ う い い て う 、 意 お 識 話 を し 持 い っ た て だ も き ら た い い た と い 思 ︵か 鬼 い 司、 ま 会そ す ︶の 。 た 頭 め に は 学 校 さ ん 今 を 日 メ は イ 柳 ン 下 ゲ 先 ス 生 ト の と ご し 提 て 案 お で 迎 、 え 東 し 京 ま 商 し 工 た 会 。 議 企 所 業 の の 常 立 議 場 員 あ で る 環 い 境 は 委 企 員 業 会 団 の 体 副 の 委 立 員 場 長 か と ら柳 し 、 て ど も ︵ の 活 地 よ下 躍 球 う さ 環 な れ 境 環 て 学 研 境正 い 究 に は 鬼 五 頭特集・文学のおもしろさ・シンポジウム 小 特 特 十 林 幸 夫 集 名 地集 (国文学科教授) ・ 余 球・ シ の 環シ 松 本 朗 ン 第 境ン ポ 一 大ポ (英文学科准教授) ジ 期 学ジ ウ 生 院ウ 赤 羽 研 三 ム が 、ム ・ 論 正・ (フランス文学科教授) 環 文 式環 境 を 名境 問 出 称問 村 田 真 一 題 し は題 (ロシア語学科教授) を て 上を め 修 智め (司会) ぐ 了 大ぐ 小 林 章 夫 っ し 学っ て ま 大て (英文学科教授) す 学 。 院 地 地 球 球 会( 小林章夫 ) 新年度に入っていよいよ授業という、一番お忙しいときにお集まりいただき、本当にありがとう 環司環 境ざ境 ご います。 大 学 学本研 日は、特集「文学のおもしろさ」ということで、シンポジウムでは、文学部と外国語学部の先生方に各国の文学 院 究 が醍科 の 醐味についてお話しいただき、また関連論文は、本学ドイツ文学科の卒業でオーストリア文学専門の気鋭の研究 完 が 者 お願いしたところ、快くお引き受けいただきました。 成に、 年 二 度当初、特集の構成についてどうしようかいろいろ考えたのです。文学の話を語るとなると、上智の場合、文学部・ を ︵ 田 鬼司 柳 畠 田 迎 五 ︵ え 年 会 地 球 ︶ た に ︵ 環 畑 ︵ 地 ︵ 畑 の︵設 境 地 球 東 下 山 学 頭 を東立 い京 球 環 い京 研 契 で商さ 環 境 で商 究 日 機 科 あ工れ 境 学 あ工 日 ・ に 株会、 学 研 株会 会所 男 道 治 宏 ︶ 男 の 春 鬼 頭 文学研究と文学教育 式議二 武 を 、 環 境 教 育 に つ い て 取 り 上 げ て ほ し い と 言 わ れ ま し た の で 、 い い 機 会 だ と 思 い ま し て 畠 こ の シ ン 山 ポ ジ ウ ム 地 球 環 境 大 学 院 、 正 式 名 称 は 上 智 大 学 大 学 院 地 球 環 境 学 研 究 科 が 、 二 柳 下 正 治 た 次 第 で す 。 を あ ら 172 か じ め や っ て お い て 地 球 環 境 大 学 院 、 ︶ 七 年 の 春 鬼 頭 学 研 究 科 ・ 経 済 学 部 教 授 五 年 に 設 立 さ れ 、 二 経 済 研 究 正 究 科 武 式議 会所 た 次 第 で す 。 今 日 は 柳 下 先 生 の ご 提 案 で 、 東 京 商 工 会 議 所 の 常 議 員 で 環 境 委 員 会 の 副 委 員 長 と し て も 活 躍 さ れ て い る 田 畑 日 出 男 今 日 は 柳 下 先 生 の ご 提 案 た 次 第 で す 。 ︵ 地 球 環 境 学 研 究 科 地 球 環 境 大 学 院 、 日 日 特 集 ・ シ ン ポ ジ ウ ム 11 1 72 出 武 正 出 会所 社常 会議 七 長員 年 ︶・ 特 集 ・ シ ン ポ ジ ウ ム 畑 ︵ 東 い京 で商 あ工 株会 式議 会所 社常 会議 長員 ︶・ 頭 田 畠 柳 山 下 ︵ 地 球 環 境 学 研 究 科 委 員 長 ︶ ︵ 地 球 環 境 学 研 究 科 教 授 ︶ 畑 地 球 環 境 学 研 究 科 ・ 経 済 学 部 教 授 ︵ 司 会 ︶ 鬼 ︵ 田 五 年 に 設︵ 立東 い京 さ で商 れ あ工 、 株会 式議 二 特 集 ・ シ ン ポ ジ ウ ム ・ 環 境 問 題 を め ぐ っ て 地 球 環 境 大 学 院 、 正 式 名 称 は 上 智 大 学 大 学 院 地 球 環 境 学 研 究 科 が 、 二 特 集 ・ シ ン ポ ジ ウ ム ・ 環 境 問 題 を め ぐ っ て 鬼 頭 に は 五 十 名 余 の 第 一 期 生 が 論 文 を 出 し て 修 了 し ま す 。 地 球 環 境 大 学 院 が 完 成 年 度 を 畠 迎 え た の 山 を 契 機 に 武 、 学 内 に 道 お け に る は 五 十 名 余 の 第 一 期 生 が 環 境 教 育 に つ い て 取 り 上 げ て ほ し い と 言 わ れ ま し た の で 、 い い 機 会 だ と 思 い ま し て こ の シ︵ ン地 ポ球 ジ環 境 ウ学 ム研 を究 お科 引委 員 き長 受︶ け 環 し 境 教 育 に つ い て 取 り 上 げ た 次 第 で す 。 今 日 は 柳 下 先 生 の ご 提 案 で 、 東 京 商 工 会 議 所 の 常 議 員 で 環 境 委 員 会 の 副 委 員 長 と し て も ︵ 活 地 躍 球 さ 環 れ 境 て 学 研 い 究 る 科 田 教 畑 授 日 ︶ 出 男 今 日 は 柳 下 先 生 の ご 提 案 さ ん を メ イ ン ゲ ス ト と し て お 迎 え し ま し た 。 企 業 の 立 場 あ る い は 企 業 団 体 の 立 場 か ︵ ら 司 、 会 ︶ ど の よ う な 環 境 活 動 を な さ さ っ ん を メ イ ン ゲ ス ト と し て て い る の か 、 企 業 に 入 っ て く る 若 手 の 人 た ち に ど う い う 意 識 を 持 っ て も ら い た い か 鬼 、 そ の た 頭 め に は 学 校 で ど ん 宏 な こ て と い る の か 、 企 業 に 入 っ て を あ ら か じ め や っ て お い て ほ し い か と い う こ と に つ い て 、 お 話 し い た だ き た い と 思 い ︵ ま 地 球 す 環 。 境 鬼 頭 に は 五 十 名 余 の 第 一 期 生 が 論 文 を 出 し て 修 了 し ま す 。 地 球 環 境 大 学 院 が 完 成 年 度 を 迎 え た の を 契 機 に 、 学 内 に お け に る は 五 十 名 余 の 第 一 期 生 が 環 境 教 育 に つ い て 取 り 上 げ て ほ し い と 言 わ れ ま し た の で 、 い い 機 会 だ と 思 い ま し て こ の シ ン ポ ジ ウ ム を お 引 き 受 け 環 し 境 教 育 に つ い て 取 り 上 げ た 次 第 で す 。 11 12 外国語学部には日本文学、つまり国文学、それから英・米・独・仏、さらにロシア、中国、スペインと、いろいろあ るわけで、しかもそれぞれ独自に各国文学を研究なさっていらっしゃる方もおいでです。ですから全体をカバーしよ うとすると人数がふえてしまうので、ある程度絞らなければいけないということになります。中でも上智と昔から縁 のある文学というと、ドイツ文学なんですね。本学はイエズス会が経営していますが、創設時からドイツ管区に委ね られていたこともあり、ドイツとの関係には非常に深いものがあります。戦後に新制大学としてスタートしたときも ドイツ文学科と英文学科( ほ か に 新 聞 学 科、 哲 学 科、 史 学 科)からでした。そんなこともあってぜひドイツ文学をと 思ったのですが、諸般の事情で今回のシンポジウムにはドイツ文学の方はお招きできずに、先ほど申し上げたように 関連論文というかたちにいたしました。 これから「文学のおもしろさ」について自由にお話しいただきたいと思うのですが、最初に私から少しお話しいた します。本日のテーマをどう料理するかということですが、大ざっぱに申し上げて二つ考えています。一つは、現在 関心をお持ちの分野、あるいはご専門分野についてお話しいただくことです。もう一つは、大学における文学教育と いう問題、それもとくに先生方それぞれの授業で、文学を題材にして講義とか演習を行っていらっしゃるので、教え る対象としての文学、あるいは学生とどのように文学のおもしろさを共有しているのか、ないしは共有できていない のか、大きくこの二つの柱で話を進めていきたいと思っています。 それでは最初に赤羽先生からお話しいただきたいと思います。まず、赤羽先生はどういう分野のご研究が中心なの か、それからフランス文学科の授業として具体的にどんなものを担当されているか、その辺をご紹介いただけますか。 12 13 文学のおもしろさ 外国文学への手引き 赤羽 私の専門は一応文学理論ということになっています。主に言語表現の観点から、十九世紀も含みますが、主 に二十世紀のフランス文学を分析しています。また、現代フランス思想とか精神分析とかの授業も担当しています。 今、文学部の人気が落ちたとかということが言われていて、文学の研究書を出版するのが難しいし、研究もあまり進 んでいないというのが実情だと思います。ただ、おもしろい問題というのはたくさんあるので、それをもう少しア ピールできればいいなとは思っています。 13 私が用意してきたのは、フランス文学の範囲にとどまらないもっと一般的な問題です。最近よく文学自体が問題に されますが、それは、今文学が読まれていないという危機意識がたぶんあるためだと思うのです。学生も以前ほど文 学部には来たがらないと言われますが、それはどうしてなんだろうということを考えてみました。昔、われわれが学 生のころ、フランス文学は人気がありまして、仏文科に入って来てフランス文学作品を読んでいない学生というのは まずいなかったわけですけれども、いまや仏文科に来る学生は、フランス語かあるいは漠然とフランス文化に興味が あるという程度で、文学はほとんど読んでいないというのが実情です。 どうしてそういうことになったのだろうか、と自分の経験に照らして考えてみると、 国語の授業では、社会的なトピックを抜き出すような仕方で、文学を限定したかたちで を通して文学がやりたくなったということはまったくありません。私が高校生のころの はないかという気がするわけです。私も文学部に入ったわけですけれども、国語の授業 一つには、高校までの国語教育というのが、文学のおもしろみを伝えていなかったので 赤羽研三教授 14 無理やり読まされてきたということがありました。文学のおもしろさではなくて、そこから個人と社会の問題とか、 非常に深刻な問題を抽出する。例えば高校生のときに島崎藤村の『破戒』という小説を読まされましたけれども、部 落民の問題をどう考えるかという、そういう視点で読まされてきたんですね。それでよかったのだろうかという気が 少しあります。文学のおもしろみを、もう少し教えることを考えなければいけなかったのではないかということです ね。 それからやはりわれわれの時代 ― われわれと言っていいのかどうか分かりませんけれども ― 少なくとも私の時 代と現在とでは時代が変わってきているということです。一応私はそれを、モダンとポストモダンというかたちで考 えています。この命名には問題があって、いろいろ批判があるのですが、とりあえずそれなりの有効性があるのでは ないかと考えて、ここでの議論に使わせていただきます。どういうことかというと、文学に求めるものが大きく変 わってきたのではないか、果たして本当に昔は文学をきちんと読めていたのだろうかという疑問が少し起こってきた のですね。たまたま、柴田元幸と高橋源一郎の本(『小説の読み方、書き方、訳し方』河出書房新社)が最近出て、それ を読んでいたら、似たような考えに出会ったのです。高橋源一郎によれば、昔は文学を教養主義的に読んでいたと。 つまり文学のなかに人生を解く鍵があり、それを読み取ろうとして読んでいたのだというのです。それが果たして正 しい読み方なんだろうかという、そういう疑問が出されているわけですね。 ある意味で、確かにわれわれの時代というのは人生の意味が分からなくて、文学にそれを求めていったということ がやはりあったと思うんですね。文学もそういう時代で、河出書房や新潮社から世界文学全集が出ていましたが、あ れを僕なんかも片っ端から読んでいたのですけれども、文学を読むことが社会的なステータスという部分もあったの です。読むわけでもないのに文学全集を買っている人がたくさんいたのです。いわば知のひとつのあり方として文学 が非常に高いステータスを持っていた。ところがそれがなくなってしまったということがあると思うんです。ある意 14 15 文学のおもしろさ 味では、文学もバブルだったのかなという気もしないではありません。 だから今の学生が文学を読まなくなったということをネガティヴにとるのではなくて、もう少し時代の違いという のを考慮しなければいけないのではないかと考えました。その本の中で、高橋源一郎が綿矢りさを非常に高く評価し ているんですね。私もあわてて読んだのですが、確かにすごくいいんです。やはり時代の差というのを感じて、それ をポストモダンと呼びたいと思っています。高橋源一郎は、同じ現代日本を代表する小説家である保坂和志の綿矢評、 「あれで近代文学は息の根を止められたね」を引いています。われわれの時代というか、私の時代は、何か価値を求 めていた時代、すなわちモダンな時代( 近代)なわけですが、それに対して今はそういうものが信じられなくなった 時代、すなわちポストモダンな時代で、そういう時代に文学を読み、書くというのはどういうことなのかというのが 非常によく分かる小説だと思うんです。この違いは、文学が読まれたり読まれなかったりするのと関係があるのでは ないかという気がしています。 それからもう一つは、文学部に人が集まらなくなったということですが、私は今年「現代フランス思想論」という 授業を持っていて、フランス哲学の講義をしているのですけれども、改めて驚いたのは、哲学関係の入門書というの が山のように出ていることです。現代哲学者の本もどんどん文庫になっている。例えばデリダやドゥルーズという哲 学者は日本でも流行っていまして、それを講義するつもりなんですけれども、ある意味では非常に難解なわけですね。 それで入門書がたくさん出ている。ところが文学に関していうと、例えばノーベル賞をもらったクロード・シモンは 難しいんですけれども、それに関する本は一切ありません。どうしてこういう違いが出るのかなという疑問が起こっ てきます。やはり文学に対する要求というのが昔は知と関係していて、そうした知を文学に求めなくなってくると、 いわゆる純文学は読まれなくなったのではないかとも思うのです。ところが、文学のおもしろみというのは、そのよ うな知とは少し違うところにあるのではないか、それをもう少しアピールできたらいいのではないかと考えていると 15 16 ころです。 それから最後にもう一つ、これだけは言っておきたいのですけれども、先ほど申し上げたように今の学生はほとん ど文学を読んでいないのですが、ただ、読ませれば非常にいいレポートを書いたり、卒論を書いたりするんです。や はり能力が劣っているわけでもないし、感性が落ちているわけでも全然ない。文学のおもしろみというものは上手に 読み方を教えれば、ある程度分かってもらえると思うので、そこをこれからこのシンポジウムで議論していければと 考えています。 司会 いろいろな問題、とくに大事な問題が幾つか出てきたと思います。ちょっとおうかがいしたいのですが、外 国文学を教える、あるいは外国文学を学ぶ場合に、ある程度語学の力をつけていかないと、そもそも文学作品が読め ないということになりますね。ことに文学研究をやる場合に、まさか翻訳だけで済ますわけにもいかないだろうから、 やはり原文で読むことが必要だと思う。フランス文学の場合、高等学校までにフランス語をある程度やってきた人も いるでしょうけれども、数は少ないですよね。そうしたときに、大学の四年間でフランス文学を原書で読みながら、 今おっしゃっていたおもしろさが分かっていくというところに到達させるのは、やはり相当に厳しいものがあると思 うのですが、それはどうですか。 赤羽 フランス文学科でも、一年次はほとんどの学生がフランス語初習ということで、それはかなり難しいですね。 だから残念ながら基本的には翻訳を使わざるをえない。今の学生は翻訳も読んでいないんですから、まず文学という ものはおもしろいものだよ、読んでみましょうと、まずそこから始めないとしようがないですね。読んでみましょう というかたちで始めるわけですけれども、それでも三年ぐらいになると一応演習の授業で、フランス語で読み始める わけですね。 私は言語学も多少やっているので、例えば時制の違いといった言語的な側面から見ていくことをしています。ここ 16 17 文学のおもしろさ の時制がこれだと、どういうニュアンスの違いが出てくるかという授業をやるわけです。翻訳と比較しながら原文だ とこうなっていて、翻訳ではそれは絶対分からないとか、そういう授業を一方でやっているんですね、それにかなり の学生が興味を持つんですね。やはり学生は翻訳には非常に関心があって、例えば綿矢りさなんかもう仏訳が出てい ますので、仏訳を比較したレポートを書く人もいるのですが、非常に微妙なニュアンスが読めているのです。それは うれしいことで、小説一冊を全部きちんと読むというのはなかなか難しいのですけれども、やはりフランス語で読ま なければ分からないことがあることを理解するところまでは何とかいくのではないかと思います。そうすれば、やる 気のある学生には、これからどんどん自分でやってもらえるのではないかという期待が持てます。残念ながら初習の フランス語だとそのくらいまでかもしれませんが、それだけでも大きな意味を持つのではないかと考えています。 司会 そうですね。最初の導入として翻訳を使うことはもちろんあると思います。しかし例えばフランス文学の場 合、かつて翻訳は随分出ていましたが、だんだんそうしたものが品切や絶版になり、新訳は出ているけれどもといっ た現象が起きている。なかなかフランス文学の翻訳もあまり社会から求められていない気がします。 赤羽 そうなんですよね。だから授業では翻訳のないものを使うときには、長いものは全部は読めませんから、比 較的短くて読みやすい現代の作品を選びます。ただ、こちらが読んでもらいたい重厚な長い作品などは、どうしても 翻訳がないと使えないという事情はありますね。残りは翻訳で読んでおいてくださいというようなかたちで、翻訳の あるものを使わざるをえないですね。その辺がちょっと悩ましいところなんですけれども。 司会 にもかかわらず、じっくりやっていくと関心を示してくれる学生も出てくる。 赤羽 ということですよね。いずれにせよ学生は、文学といっても、国文学であれば、ある程度高校までの国語の 授業で読んだりはしたでしょうけれども、外国文学になると、自分から進んで読まないかぎり、基本的にはまったく 読むチャンスはない。だから外国文学を読ませれば、日本の文学とは違った文学に出会って、驚きやある種の発見も 17 18 あるのではないかなと思っていますけれども、ただ最初が非常に入りにくい、とくに現代文学は入りにくいという面 がありますね。 司会 ありがとうございます。それでは今、国文学の話が出たところで小林幸夫先生におうかがいします。 小林先生は主として近代文学、それから短歌の方もなさっておられる。今国文学の話も出てきましたので、先生の ご経験あるいはお立場、あるいはご専攻の分野、その関係でお話しいただければと思います。 文学のおもしろさとは? 小林 今紹介をいただいたように私は日本近代文学、中でも森鷗外とか志賀直哉、近・現代短歌の研究をしていま すが、小林章夫先生が先ほど言われた専門のことと、それから文学をどう教えるか、伝達するかという二つのことを 絡めたかたちで、きょうのテーマである文学のおもしろさって何なんだろうということを少し考えてみたいと思いま す。 日本近代文学と言うと、 「近代」が付くものですから何かすごく古くさく見えて、 「現代」とは無関係に見えがちな え のですが、最近、近代文学が現代の問題とリンクして読まれるというおもしろい現象があって、昭和四年に出た小林 多喜二の『蟹工船』が、すごく 読まれてブームが起きたということです。この作品の冒頭、 「 お い 地 獄 さ行 ぐ ん だ で!」と、 「行く」という文字を「えぐ」という方言で読むわけですけれども、そういう有名な冒頭で始まる労働者 の悲惨な実態を描く小説が、何で読まれるのかというと、現在の状況が『蟹工船』にリンクしたと言いましょうか、 触ったという感じがあるんですね。それはまず、フリーターなどのワーキングプアの人たちが目をつけた。つまり、 非正規雇用者の増大という現代の社会現実と近代の文学とが対応していたのですね。 18 19 文学のおもしろさ 事の起こりは、 『蟹工船』が漫画化され、それが漫画喫茶に置かれて読まれ、火がついた。そこにフリーターとか、 職にあふれた人たちと文学との接触点があったのですけれども、それがブームになったのはどうしてかなと考えてみ ると、恐らくこれを読むことによって、自分の位置を小説世界の中に見出したのだろうと思うんです。これは一種の 自己確認であるとともに仲間を見つけたということであるし、同情して怒りながらも安心するというような、こうい う機能を文学が果たしたのではないかと推察できるわけです。では、こういうところに見られる文学の機能とは何な のかというと、読むきっかけはシンパシーなんだけれども、結果として自己発見とか確認とか連帯とか癒しとか、そ ういうものを読者は体験したのであって、そういう意味ではやはり、死んだかのように見える作品も、読者が読むこ とによって生かされるというところを、私は非常にうれしく思ったわけです。 19 こういう現象を見ると、ああ、やはり文学は捨てたもんじゃないなという感じを持つのです。このようなことを考 えながら私は教育の現場にいるわけですから、じゃあ、おもしろさってどのように伝達したらいいんだろうかと思う わけですけれども、そのときに五つくらいのことが考えられるかなと思っています。 一つは、楽しさというものを与えてくれるものが文学ではないかということです。例えば昭和二十年に発表された 太宰治の『カチカチ山』ですけれども、これは例の日本古来のおとぎ話、かちかち山を踏まえた作品です。作品の中 でウサギは十六歳の美貌の処女、タヌキは三十七歳のむくつけき男なんですね、そうい うふうに変換されているわけです。そのタヌキが一方的にウサギに惚れて、最終的には やはり笑いながら読むことができるし、最後にちょっと男と女の問題を考えさせられる。 あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている」と締めくくられている。そうすると な言葉があって、 「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、 泥舟に乗せられて溺死させられるというわけなんですけれども、最後のところに象徴的 小林幸夫教授 20 このように、楽しさというのを与えてくれるのも文学ではないか。 だからこの系統の作品というのは元気を与えてくれるというのでしょうか、精神を活性化させてくれるので、私の 言い方で言うと、疲れたからオロナミンCを飲む代わりに、疲れたから太宰治の『カチカチ山』を読むくらいの感覚 を持ってほしいなと( 笑) 、こんなことを伝えたいと思うわけでして。夏目漱石の『坊ちゃん』などもこういう系統 かと思っています。 それから二つめは、今度は逆に悲しさに浸ることが、たぶん文学にはできてしまうのではないかと思うんですね。 この悲しさというのはどうも日常現実の悲しさとはちょっと違う悲しさで、ここに文学があるのだろうと思うのです。 例を挙げて言いますと、有名な伊藤左千夫の『野菊の墓』があります。これは明治三十九年の発表です。少年と少女 の初恋を描くわけですけれども、 「僕」は数え年で十五歳、民子は年上の数え年で十七歳、従姉弟同士です。その民 子が他家へ無理やり嫁に行かされて、産後の肥立ちが悪くて死んでしまう。それを「僕」は受けとめるわけですけれ ども、その最後のところの文章が、 「幽明遥けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ」で終わるんですね。私 は全体を読んでいって、この一文に到達すると悲しくて涙が出てくるんですね。 この悲しさというものを、なかなか人間は甘受することが難しくて、多分日常の中にある悲しさはそこに立ちすく んでしまって、硬直してそれに立ち会うだけでもう精一杯である。これは悲しみに出会っているのだけれども、受け とめているとは言えない。そんな余裕はない。ところが文学というのは現実とは違い、自分のリアルなことではなく 作品世界の中のことなので、読者には余裕があり、そのため悲しみというものを受けとめることができる。たぶん悲 しみというのは、疑似体験の中ではじめて考えることができる。現実では残念ながらこれはできない。これが、文学 が持っている悲しさというものを甘受させる優れた能力だろうと思うんですね。短編でいうと、宮本輝の『途中下 車』という作品なども私にそんな感動を与えてくれます。 20 21 文学のおもしろさ あと三つ、四つ、五つですが、長くなりますので簡単に思っていることだけを述べさせてもらいます。これは当然 のことですけれども、異世界へ連れっていってくれるということ。異世界への旅というのでしょうか、これがやはり おもしろさの一つだと思います。つまりわれわれは現実の時間と空間の中に限定されて、そこでできる体験もたかが 知れているし、それで一生を終わってしまうわけです。それに比べて他人の体験というのは膨大な量があるし、時空 を超えた体験からもわれわれは隔絶されている。文学はその時空を超えた体験をさせてくれるということですね。そ れから文学によってつくり上げられた、虚構の体験をわれわれは浴びることができる。これは現実では無理なので、 つくられたものの中でしか体験できません。リアリズムから言えば、人工のものと否定される局面は強いのですけれ ども、逆に人工の中にしかない感触、それから思考というのもあると思うんですね。そういうものが体験できるとい うのが大きいだろうと思います。例えば泉鏡花の『高野聖』ではとんでもなく魅力的な女性に出会うとか、それから 坂口安吾の『桜の森の満開の下』ではおどろおどろしい世界に出会うとか、そういう体験というのは、実は文学でし か可能でないだろうと思います。 それから四番めには、ちょっとこれは過去の問題のようですけれども、文学は倫理というものを考えさせてくれる と思うのです。倫理というのは教育上、人間とはこうすべきだというように、観念的に習うことは十分可能なのです が、これは観念上の認識をつくるだけであって、実際に身体化して、それが自分の、人間の活動のエネルギーになる ところまではなかなかいかないと思うんです。ところが小説を読んで、その人物が悩んだり考えたりしたことを疑似 体験することによって、私の言葉で言うと、多分小説は読者を倫理の中に佇ませてくれるのだろうと思うのです。そ こでは倫理を一緒に生きたり甘受したりできます。漱石の『こころ』などはまさにそうだと思いますし、志賀直哉の 『范の犯罪』なども、一種の反倫理のようなところで倫理を考えさせてくれる。こういうのもやはり具体性を持って 考えさせてもらえるということで、多分小説というのは一つの大きな力を持っていると思います。 21 22 それから最後に五番めですが、今度は読む方の体験ではなくてつくる方の体験ですね。文学というのは専門家がつ くっていくもので、それを読者として多くの人が受け取るものだという思考方法は、どうも文学をおもしろくなくし てしまう。それは芸術品としていいものはいいのですが、芸術になろうがなるまいが、文学というのはつくりもので あり、しかも言葉でつくるものであり、つくられた結果ではなくて、つくる体験の中にこそおもしろみというのが含 まれているだろうと思うわけです。それはやはり観念的な頭だけではなくて、感覚、体といった自分の卑近な要素が 総動員されて、それらが全部露出したかたちになるので、それを見ればもう一人の自分にふいに出会えるというよう な楽しさがあるだろうと思うんです。一例だけ挙げますと、学生に就職活動の短歌をつくってもらったことがありま して、その中で学生たちは例えばこんなのをつくるんですね。 「アクセサリーいつもは胸にネックレス今日は言葉に 敬語をつける」 、うまいもんですよね。 司会 うまいですね( 笑) 。 小林 うまいですよね、これ、やはり楽しくなりますよね。身近なところ、小さなところで単なる散文にしてしま うと意味だけなんですけれども、短歌という様式に入れると何か発酵するものがあるんですね。 司会 なるほど。 小林 それからもう一首だけ挙げますと、 「性格を聞かれてすぐに答えたが暗い顔して明るい性格」 ( 一同笑) 。 これなんかもしみじみと笑ってしまうんですね。笑ってしまうとともに、やはり「あるよね」 、 「文学ってこういう ところにあるよね」とみんな感じると思うのです。小説などのような長いものはすぐには書けませんが、しかし、日 本の文化を浴びていると、俳句とか短歌とかは、お手軽とは言いませんけれども、すぐにつくることができる。そう いうとてもいい器を私たちは先祖からもらっているわけですから、素晴らしい作品ができないと自分に許せないなど というちっぽけな自己は捨てて、つくって楽しむ、共有する、こういうことをすると、文学がやはりわれわれにとっ 22 23 文学のおもしろさ て、何かいろんな意味での元気を与えてくれるように思います。そして、そんな、元気の出る文学の授業ができたら いいなと思っているところです。 司会 ありがとうございます。しかし今の二首はうまいですね。 小林 うまいですよね、立派なもんです。 司会 上智の学生ですか? 小林 ではなくて、ほかの学生さんなんですけれども( 笑) 、昔私が勤めていたところの学生です。 司会 その和歌の話も後でうかがおうと思っていますが、その前に小林先生にひとつうかがいたいのです。先ほど 赤羽先生がおっしゃっていた綿矢りさは、ブームになって随分売れた。それからもちろんここのところずっと、若い 世代、文学はあまり読まないという人たちでも、必ずといっていいほど関心を持つのが村上春樹です。一月でしたか 新聞に、五月に村上春樹の新刊が出ますという記事が出ていまして、二千ページのすごいのが間もなく出るらしい。 綿矢りさ、村上春樹、吉本ばななとか、そういう人たちの作品が若い世代にある程度受け入れられる一方で、外国人 の方によく聞かれるのですが、何であんなに高校生は夏目漱石の『こころ』を愛読書に挙げるのだろうと、不思議だ と言うんですね。彼は日本語を読める外国人なのですが、 『こころ』の一体どこがおもしろいのだろうかと。で、今 『こころ』の話が出てきたので、そこら辺はどうですか。 小林 そうですね、私の感じではその外国人の方が、どういう言語で読まれたかということが一番の問題だろうと 思うんです。多分これにはいろんな問題があると思いますが、一つには内容と表現の乖離の問題なのだろうと思うの です。内容は意味ですから、これは翻訳可能なのですぐ流通します。ところが残念ながら、散文であっても表現は翻 訳困難なニュアンスを含んでいたり、文化的な要素を含んでいるわけですよね。多分その辺が大きいかなという感じ がします。ですから、言語受容の感覚がその文化の感覚の域まで達しないと、ちょっとした表現が分からない。先ほ 23 24 ど赤羽先生は言語的に人称とか時制のところで反応していく文学の要素がある、そこを教えていらっしゃると言われ ましたけれども、私も多分そのようなところまで測鉛を下ろしていかないと、その言葉のおもしろさというのは分か らないのではないかと思うんです。だから『こころ』の場合は、生真面目なつまらない男三人でよく頑張りましたね、 さようならという小説になっちゃうのだろうと思うんです。 司会 そういうことですか( 笑) 。漱石なんかはわれわれ日本人からすると、あの文章のおもしろさ、そういうと ころに魅力を感じることが多いですからね。 小林 『こころ』では今思い浮かぶ具体的な言葉がないのですが、象徴的なものでいうと、 『三四郎』の広田先生が 「日本は滅びるね」って言うんですね。あれも意味だけ訳したら、 「あっ、そう思っているの」で済んでしまうのです 24 けれども、あの小説の、あの広田先生の文脈で読むとしみじみと、 「ちょっと怖いよね」という崩壊感覚を味わえる わけです。だからその崩壊感覚のところまで果たして味わえるかどうかは、やはり言語をどのくらいその言語文化の 感覚のレベルで読めているかということになるかと思います。 司会 分かりました。ありがとうございます。続いて今度は松本先生にお願いします。松本先生は私と同じ英文学 科の同僚で、主に二十世紀のモダニズムというのでしょうか、あの辺のところがご研究の中心で、私なんかからする とヴァージニア・ウルフなんて読むのは大変だなと思っているのですが、ウルフなどを専門にしていらっしゃる。 それからこれは宣伝めいたことをちょっと申し上げておきますが、つい最近、松本先生がお訳しになったヒュー・ ケナーという人の『機械という名の詩神』という非常に優れた本があるのですが、これがS P上智大学出版から翻 きっかけができたかなと思って、私は喜んでいるのですが、そんなことを中心になさっている松本先生からお話を続 あいうものを翻訳なさったのはいいところに目をつけたなと思っているし、やっと上智大学出版が世間に認知される 訳で出たのです。しかも上智大学出版始まって以来のことで、朝日と毎日の両方に書評で取り上げられたのです。あ U 25 文学のおもしろさ けてお願いできればと思います。 多面的にとらえる 松本 私はただいまご紹介いただいたとおり、もともとは二十世紀前半のイギリス文学、なかでも、ヴァージニ ア・ウルフという、 「意識の流れ」と言われるような小説を書いた作家を専門に研究していましたが、現在では、二 十世紀全般の文学・文化を研究対象としています。上智に来てから今年で七年目となり、試行錯誤しながら授業を やっていますが、上智の良き伝統を大事にしながらも、最近の学生が身近に感じられるような新しい動向をも織り交 25 ぜていく、このあたりに一番苦心しています。さきほど赤羽先生がおっしゃった「教養主義」としての文学という考 え方は、上智の伝統の中でももっとも重要かつ素晴らしい一面ですし、私自身、この感覚を共有できる最後の世代に あたるのではないかという意識を持っています。しかし、いまの学生の世代は、ヨーロッパの文化を圧倒的な高みに あるものとは見なしていませんし、湾岸戦争や九・一一以後は、アメリカに対して憧れを持たず、むしろ反感を抱く 学生も増えてきています。こういった情況下で、文学を古い意味での「教養」として教えるのは難しくなってきてい る と 感 じ て い ま す。 そ こ で、 最 近 は、 文 学 を「 民 主 化 」 す る こ と を 目 指 し て い ま す。 「民主化」というのは、一つには、文学テキストの読解や解釈というのは、深遠な言葉 けでなく現代日本の社会や文化と、繫がりをもっていることを分かりやすいかたちで示 ざまな文学テキストが、今私たちが生きている「この世界」と、言い換えれば、英国だ 積めば誰でもできるのだということを実践を含めて示していくこと。もう一つは、さま を駆使できる専門家やセンスがある一部の学生だけが行うものでなく、ある程度訓練を 松本 朗准教授 26 していくことです。 イン グラン ドにおけるモダニズムと国民文化』 ( Jed Esty, A Shrinking Island: Modernism and National Culture in ― そういった問題意識をここ数年でもっとも刺激してくれた研究書が、アメリカの研究者ジェド・エスティ著『縮小 する島 )です。この本は、いわゆるモダニズムの巨匠と言われるヴァージニア・ウルフ、 England, Princeton: Princeton UP, 2004 T・S・エリオット、E・M・フォースターを扱いながらも、これまでの研究書とは違って、モダニズムという芸術 運動を、現代の視点から、英国社会や文化の歴史の中に位置づけようとしている点に特色があります。 ちょっと長くなってしまうのですが、この本において、エスティは、英国社会・文化の長い二十世紀の見取り図を 示し、その中にハイ・モダニズムと後期モダニズムの文学テキストを位置づけようとしています。例えば、一九二○ 26 年代にはイギリス帝国が領土を外向きに拡張していて、経済政策の上でもレッセ・フェール( 自由放任主義)が良し とされる時代であったけれども、一九三○年代後半に入ると、大英帝国の力にかげりが見えてきて、植民地から撤退 して領土が縮小されるだけでなく、英国人の視線や思考の仕方も、 「イギリス文化とはどういう文化なのか。イギリ ス人とはどういう人々なのか」と、徐々に内向きになってきました。言うなれば、それまでは、植民地の有色人種に 向けられていた人類学的関心が、国内の英国人に向けられ始めたわけです。それをエスティは「人類学的転回」と呼 び、一九三〇年代の英国が、領土の面でも、思考の面でも、内向きに縮小していった様子を指して「縮小する島」と いう表現をしています。実際、一九三〇年代の英国では、野外劇を田舎の村で催して英国史を上演するなどの動きが 各地で見られていました。エスティによると、ウルフや ・S・エリオットの創作活動も、この流れの中に位置づけ 一九四一年に出版された『幕間』では、英国史を上演する野外劇が田舎のカントリーハウスで催されるという設定に 「意識の流れ」の中でも、英国在住の登場人物の意識や想像力が植民地へと拡張していく様子が描かれるのですが、 られます。ウルフを例に挙げて具体的に言うなら、一九二〇年代には、コスモポリタンな前衛性を維持して、その T 27 文学のおもしろさ なっています。まさに、田舎のカントリーハウスという伝統的な場所からイギリス文化という国民文化を再考しよう という姿勢が見られるわけです。エスティは、こうした一九三〇年代の内へと向かう動きが、第二次世界大戦後、つ まり一九四五年以降に英国で始まる、労働党内閣による福祉国家編成の動きへと繫がっていると分析しています。 ただ、この本がおもしろいのは、イギリス帝国が弱体化し、それに代わって、アメリカという新しい帝国の力が、 あるいは、映画やジャズに代表されるアメリカ消費文化の力が強くなってきたから、世界における英国の存在感が縮 小する一方であったのかといえば、そうではないと言っている点です。エスティは、一九六〇年代には、英国のバー フィルム ミンガム大学からカルチュラル・スタディーズという大きな影響力を持った学問研究の潮流が出てきたこと、あるい は、一九八○年代以降は、 「ヘリテージ映画」と呼ばれる、英国文化を商品化して世界に向けて売り出すような映画 がたくさん生産されるようになったことなども考慮に入れていて、そこに、アメリカ人の学者として、英国の巧妙さ を見ているようなのです。一見したところ、確かに英国の力は衰え、代わってアメリカがスーパー・パワーとして君 臨しているように見えるかもしれないけれども、実は英国はかなり巧妙なかたちで世界に対して影響力を揮っている のではないか、と。しかも、さらに興味深いのは、一九八○年代は保守のサッチャー政権によって経済面でのレッ セ・フェールが支持されたけれども、その後の労働党ブレア政権では、サッチャー政権によって悪化した格差社会を 是正すべく福祉国家を再建しようとする動きが見られた、つまり、一九二〇年代、一九三〇年代後半以降の図式が反 復されている点です。そして言うまでもなく、サッチャーからブレアにかけての動向は、日本の小泉政権以降の動き と連動しています。このように、二十世紀には、英国においても、日本においても、レッセ・フェールと福祉国家と いう二つの対立的な動きが繰り返されているというのが現状で、これを打開すべく、 「第三の道」を探ろうとしてい たブレア政権とその後のブラウン政権に世界が注目している、といったこともエスティの射程には入っているわけで す。こんなふうに考えると、英文学のテキストと英国社会、それから現代の日本社会が確かに繫がっていることがよ 27 28 く分かります。学生には、こうした繋がりを感じてもらいたいと思いながら授業をしています。 司会 おもしろいですね、今の話。大体イギリス人はしたたかでずるがしこいですからね。百年ぐらいのスパンの 中で歴史的変遷あるいはイギリス人の真情の変化みたいなもの、それと文学、その他の文化とかを重ね合わせると、 それは非常にアクチュアルな感じがします。学生の反応はどうですか。 松本 学生も、世界全体の流れと文学テキストを丁寧に結びつけて話せば、英文学のテキストから、英米間の複雑 な関係だけでなく、日本社会のありようも見えてくることが実感されるようです。 司会 その本もおもしろいし、そこにねらいを定めたのもおもしろいですね。 松本 これは本当に刺激的な本で、アメリカの一流の研究者の能力を実感させてくれるものでしたね。 司会 ありがとうございます。また後でいろいろお話をうかがいます。最後になりましたが、ロシア語、それから ロシア文学ご専攻の村田先生です。私なんかからすると、まずソ連時代というともっぱらソルジェニツィンでした。 あの時代にわれわれは学生時代を過ごしていましたからね。しかしその前にロシアの長い伝統があって、一応それな りにトルストイだとかドストエフスキーだとかチェーホフだとかを手にしていたわけです。しかしその後しばらく忘 れていたら、この数年でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が百万部も売れた。にわかにロシア文学、とく にドストエフスキーへの関心が高まった。村田先生の場合はロシア演劇がご専門ですが、そのあたりのところを踏ま えて、お話を少しうかがいたいと思います。 ロシア文学の語り 村田 大学に入る前は、ロシアという世界は非常につかみどころがなくて、ただ隣の大きな国という感じがありま 28 29 文学のおもしろさ したね。もちろん、文学、文化は素晴らしいということは聞いていましたし、きれいな女性とかたくましい男性もい て魅力的な国だなと思っていたのですけれども。大学に入ってみましたら、驚くべきことに、例えば『カラマーゾフ の兄弟』を五回読んだとか、それから『アンナ・カレーニナ』だったらほとんど全部暗記しているとか、そういう学 生がいっぱいいました( 笑) 。私は、最初はもっぱら国際関係に関心がありまして、文学は好きだったのですけれど、 それをまさか仕事にするとは思ってもいなかったのです。で、入ってみて、だまされたと思って、ロシア文学を読み 直してみたのです。 ドストエフスキーを五回も読んだという人はやはり思想的な面に惹かれていたんですね。私は東京外国語大学なん ですが、当時は学生運動がまだくすぶっていて、外語は全学連の拠点だったんです。ということで、まだ集会のビラ 29 を配ったりする先輩や同級生もいたのですけれど、ドストエフスキーが好きだと言っていることと彼らのやっている ことは違うのではないかと思ったのです。ドストエフスキーは確かに思想家でもあって、新しいヨーロッパをつくろ うと考えていたのです。どこにも存在しない東方的な正教会に基づいたヨーロッパをつくろうとしていたんですね。 でも、彼の考えていることは非常に霊的ですね。 それからもう一つは語り口がおもしろいんです。内容よりも表現がおもしろい。例えばゴーゴリにしても、トルス トイやチェーホフにしても、その語りというのは非常にうまいのです。そこにまず惹か れてだんだん深みにはまっていって、いつの間にか文学を研究することになりました。 点としていますが、いまだにこの伝統は途切れていないんです。私は、この語りという 方もロシア文学は強いですね。とくに空想的な小説が盛んですし、これはゴーゴリを起 りには二つあって、物語をすることと、 「騙る」 、つまりだますということです。だます ロシア文学の特徴としては、今言いました語りの文学が重要なのですけれども、この語 村田真一教授 30 のを中心にずっと考えてきました。 大学に入ってロシア語で芝居をやるようになってから演劇の世界にも浸っていったの ですが、実際のテキストを読んでそれを覚えて舞台化してとなると、また理解の度合が 変わってくるんですね。非常に深まってきます。それを当時は同級生と共有していまし た。今はロシア語学科で毎年ロシア語劇をやっていて、演劇の旅が続いているんです。 先ほどの話に戻しますと、やはりロシア文学でおもしろいのは表現なんですが、どう も日常の言語と文学の言語をうまく混ぜて使っているんですね。現実に私たちが使っている言語とまた違うものが生 まれて、その違いを楽しめるというのが、文学をやっていて非常に楽しいところだなと私は思っていて、これを学生 にも伝えたいのです。 テキストはいろんな読み方があるのですが、例えば人間の心理だとかその当時の社会背景とかを考えに入れて読む 読み方、それからテキストを言語学的あるいは数学的に解析して読む読み方、それからプロットなし、テキストなし で読むという読み方もあると思うんですね。今の学生が一番入りやすいのはおそらくテキストなしで入るというか、 あるいはプロットもある程度無視して入ってしまうという、そういうことかもしれません。つまり響いてくる音を楽 しむのです。それだけでもロシア語をやっていれば十分分かります。ですから言語として遊びながら楽しむことも必 要だと思うんですね。それプラス語りのリズムというのをつかめれば、ロシア文学はまだまだこれから素晴らしい作 品を生み出していけることに気づくでしょう。現代のロシア文学についてはまた後でお話ししたいと思います。 司会 二つほどうかがいたいと思っていたのですが、一つは、現在のロシアではやはり劇場は相変わらず人気のあ る世界なんですか。 村田 そうですね、人気はあります。毎週必ずロシア人は劇場に行って、新しい芝居を見て、それについて友だち 30 小林章夫教授 31 文学のおもしろさ や身近な人に語るというのが習慣になっています。新しい芝居を見ていないと話についていけないですから。これは ソ連時代から変わっていないですね。 司会 そうですか。というのは、日本にはあまりそういう情報が入ってこないものですからね。かつて日本の民芸 など、ソ連以前のと言いますか、ロシアのいろんな演劇を取り入れて、翻訳劇として上演してきました。日本では チェーホフはかなり人気があって、随分上演されていまして、今でもときどき上演されているようですが、うかつな ことに私は、それ以外にロシア演劇が日本でこの何十年の間に上演されているということを聞かないのですが、どう なんですか。 村田 おっしゃるとおり、やはりチェーホフはロシアでも一番人気がありますし、日本でも翻訳され上演されてい るという事実はここ数十年変わっていないですね。でも、それ以外にもおもしろい作家が出ていて、翻訳もされてい ますし、最近ではドストエフスキーの小説を脚色して舞台に乗せるということもあります。例えば『伯父さんの夢』 なども上演していますし、ミハイル・ブルガーコフという劇作家、小説家でもあって『巨匠とマルガリータ』を書き ま し た け れ ど も、 こ の 人 の 作 品 は ほ と ん ど す べ て 上 演 さ れ て い ま す。 で す か ら チ ェ ー ホ フ だ け で は な い ん で す。 チェーホフについてはいろいろ言うことはできますが、これまでの新劇の演出は非常にセンチメンタルなチェーホフ だったんですね。それが今は違う見方もされていますし、私もそちらの方が正しいと思います。 この間もあるシンポジウムでメタカルチャーとチェーホフという話をしたのですが、チェーホフって何だろうなと いう話題になったら、結局言語が分からなくても何か通じ合うものがあって、その雰囲気ですね、それがチェーホフ だというような結論に近づいたんです。けれども、そうでない文学もロシアにはありますね。ドストエフスキーは思 想です。トルストイですと性格を描きましたよね。それからゴーゴリは人間のタイプを職業的に描いていますが、 チェーホフは人間をすっかり裸にしてしまって、個としての人間を描いたという点が、非常に現代的で今に通じてい 31 32 るわけです。だからそういう意味でチェーホフは今でも人気があるのだと思いますね。 司会 なるほど、語りとか言葉というお話を聞くにつけても、例えばゴーゴリの名前が出ましたが、ゴーゴリなど というのは、私はただ翻訳だけで中身を類推するに過ぎないのですが、やはりあの語りというのはおもしろいものが あるのですか。 村田 おもしろいですね、多分そこに芥川龍之介も目をつけたのだと思うんです。 司会 でしょうね。 村田 脱線した方の話が急にメインになってくるというスタイルはゴーゴリから取ったもので、こんな話はめった にないけれども、まれにあるよというひとことをつけている。その辺もうまいと思います。 司会 寒いロシアで、夜中にあんな話でもしていないとやっていられないところがあるのかなと思ってね。 村田 確かに冬は長いですしね。もう三時半ぐらいから暗くなって夜明けは九時ぐらいですから、その間は文学を 書いたり読んだりあるいは語り合ったりということでしょうか。帝政時代のロシア人は小説を書くときは、貴族です からサロンで読み上げるんです。そこで反応を見てその先を考えるというのが伝統的な手法だったわけですね。今は ちょっと様子が変わってきまして、パソコンですけれどね( 笑) 。 司会 なるほど。これで一通りお話をうかがいましたが、これから自由にということですが、今ロシアの話が出た のでちょっと赤羽先生におうかがいしますが、帝政ロシアのころというとやはりフランス語文化圏でしょう。 赤羽 そうですね、フランス語がやたら出てきますね。 司会 あのあたりのフランス文化とロシアとの関係というのは、非常におもしろいと思うのですけれども。 赤羽 ただ、フランスという国はロシアから何かを入れるという発想がほとんどないですよね。だからドストエフ スキーなどはアンドレ・ジッドがかなり評価して、多少読む人はいるのですが、どうもフランスですごく評価が高い 32 33 文学のおもしろさ ということあまりなかったような気はするんですね。 短詩型文学の伝統 司会 小林先生に先ほどいい短歌を紹介していただいて、おもしろいなと思っていたのですけれども、日本という のは文学部の中の文学だけではなくて、社会全体の中で、例えば俳句と短歌を愛好する人たちの数が多い。これはも う世界に冠たるものだろうと思うんですね。この現象というのはやはり日本の非常にすぐれたというか、文学的な側 面だと思うのですが、いかがでしょうか。 小林 時代にもよると思うのですが、多分言葉をつくり上げるというのでしょうか、そういうところに価値を置い た文化が繫がってきた。そういう傾向があると思うのです。例えば平安の貴族たちは和歌が書けないといけないし、 漢詩が書けなければいけないわけですから。教養として創作が存在したということですね。その伝統が先なのか、短 歌・和歌という短い形式の完結体としての文学があったことが先なのか、ちょっと分かりませんが、とにかく短い文 学形式があって、それに自己を投企してきた歴史が日本にはあるのですね。しかも短歌の場合は、多分ジャンルとし ての生命は、世界最長不倒距離だと思うんですね。 司会 そうですよね。 小林 西洋には戯曲がありますけれども、戯曲と並んで世界最長不倒距離を競うジャンルだと思うんですね。しか も、短歌・和歌が戯曲と違うのは、創作者と読者を分けない文学だということです。短歌と俳句の場合、基本的に作 者集団が読者集団を形成している。俳句の方ではよく座の文学と言いますけれどもそういう関係性、つまり作り手と 受け手が分かれないということと、それから短いために膨大な時間をかけなくてつくれるという、多分この二つの要 33 34 素が絡まって現在まで生きている。これは簡便にしてかつ豊かなジャンルかもしれないので、大事にしたいなと思い ますね。 村田 短歌や俳句は海外でも人気がありますね。ロシアですと、ほとんど毎日のように短歌、俳句大会というのが あって、インターネットを使って競争し合っているんですよ。 司会 出来はどうですか。 村田 何か川柳のような感じがありますけれど( 笑) 。 赤羽 フランスも同じで、やはりかなり人気がありますね。 司会 やはりそうなんですか。 赤羽 ただ、日本のとは少し違いますが、それはそれでいいと思うんですよ。 村田 そうですね。ロシアの場合は小咄の伝統がありまして、そこにもちょっと入っています。何かのスローガン や標語のようなものもありますけれど。 司会 しかし、日本の短歌だとか俳句だとか、そのようなものが西洋の人たちにある程度紹介され、あるいはそれ に関心を持たれるようになったのは、ちょうど松本先生の研究領域になっている二十世紀の初めくらいからでしょう。 松本 そうですね。 司会 エズラ・パウンドなどもそうですが。やはりおもしろかったのかな、あるいは単なるエキゾティシズムなの か。 松本 そうですね、オリエンタリズム的なものももちろんあるとは思いますが、ただ、パウンドは漢字が英語のア ルファベットとは違う表意文字であることについても意識的でした。イマジズムの詩には、一瞬のイメージを打ち出 すところが見られますが、そうした問題意識をさらに深めて、表意文字の意味の「厚み」が詩にもたらす効果を狙っ 34 35 文学のおもしろさ たところが、 『詩編』 ( The Cantos )の中の、中国語の漢字をそのまま使った詩にはあると思います。 司会 なるほどね。 赤羽 フランス二十世紀後半の代表的な文芸評論家、ロラン・バルトが非常に俳句が好きで、彼の日本論の『表徴 の帝国』に俳句の話が出てきますが、彼は日本語は読めないわけですけれども、俳句の本質的なところは分かってい るのではないかと思えるのですね。つまり何か意味にならないふわっとした感じだけが残るような、イメージだけ ふっと湧くというようなところを、俳句に見ようとしているのはよく分かるのですね。だから俳句の季語というのは、 フランスなんかではそんなに重要視されないと思うのですけれども、短詩型でそうした状況をパッと描写してできる というところ、それはやはりそれまでのヨーロッパにはあまりなかったのかもしれないですね。 司会 ただ、どうなんでしょうか、今仮に短歌、俳句と出してきましたが、先ほどの話にもう一回戻して言うと、 文学の中身の問題と、かたちというのでしょうか、技巧も含めてですが、そういうふうに仮に二つに分けたとしたら、 文学の場合にひとつのおもしろさというのは、中身に思想的なものがあるということもあるけれども、言葉の使い方 のおもしろさ、これがやはり文学の魅力だと思うんですね。ところが実際に学生相手に、例えば詩をやりますという と、まず拒否反応を示しますね、仏文ではいかがですか? 赤羽 先ほどポストモダンということを言ったのですが、それは要するに夢が持てなくなったというか、それがポ ストモダンだと思うのです。理想とかそういうものがあまり信じられなくなった、未来があまり信じられなくなった、 そうするとまじめに政治を議論するという雰囲気ではもうなくなってくるわけですよね。だから扱われるテーマより も、語りや表現のおもしろさをむしろ重視する傾向があると思うのです。綿矢りさなんかも完全にそうですが、まさ しく文体で引っ張っていく、それが非常にうまいわけです。 先ほど「知」ということを私は言いましたが、そこで知識、教養を得るというのでなく、読んで表現の起伏といっ 35 36 たものを味わうという、そして読み終わったときに何か有意義なことを学んだというのではまったくなくて、純粋な 心地よさが残るというか、現実から解放されてホッとする、そういう感じなわけですよね。だからある意味では語り の方に重点が置かれることになります。恐らくこれは世界的にどこの国も似たような状況ではないかなという気はす るんですね。ポストモダンというのは、結局語りのおもしろさを重視しているように思われます。私は個人的にはそ れが文学の本質的な楽しみ方だと思うのです。 司会 つまりこう言っていいですか。かつての日本の教養主義的な読み方でいくと、よく分からない内容がいっぱ い書かれているものは立派だと考えられていた。そこで、そういうようなものから外れて、もう一度その作品の語り のおもしろさの方に焦点を据えていくと、もっと文学の違った側面のおもしろさが分かってくる。 多様な文学の世界 赤羽 ええ、そういうことだろうと思うんですけれどもね。今授業でパトリック・モディアノというフランス現代 の小説家の作品を使っていて、その小説は描写が多くストーリーがたいしてなくて、語り口で読ませていくというタ イプなんですけれども、学生にはなかなか分からないというところもあるんですね。やはりあまり事件が起こらない からおもしろくないと。でも、これはこういうことなんだということを説明すると、描写に惹かれたという学生が結 構出てきます。現代の学生は、波乱万丈な冒険にはもう現実感がないことになんとなく気づいているのではないで しょうか。逆にそれがなくなったからこそ、そうしたものを強く求めてもいるかもしれません。 それからもう一つは、ミラン・クンデラというチェコ出身で、フランスに帰化した現代作家の作品を、ここのとこ ろ数年にわたって授業で取り上げているのですが、これは非常に人気がありまして、卒論でも、今年は六本も出てい 36 37 文学のおもしろさ ます。クンデラは非常にテーマ性が豊かで、キッチュの問題や、母と娘との関係などの他に、政治的な問題もあると いった具合で、卒論が書きやすいということもあるのですね。モディアノのような場合は、すうーっと読めてしまい、 よかったと思う反面、読み終わって何かかたちになるものが残らないという不安感というのが学生にあるのでしょう。 読んで勉強したという意識がやはり必要なのかもしれません。 司会 論文を書くときはね。 赤羽 ええ、そういうことなんですよね。やはり今は危機の時代で、これからどうなるか分からないということで 学生も不安なわけですよね。そうすると何かすがるものを求める傾向があって、そういう点で文学というのはやはり 純化されて、語りとかに特化してしまうと、少し足りないという印象も一方ではあるのかなという気もするんです。 だからある種のテーマ性というか、先ほど『蟹工船』の話も出ましたし、ドストエフスキーもそうだと思うのですけ れども、やはり不安な時代だと、何か思想的なものも必要なのかなという気もしてきます。 一方で学生は、綿矢りさとか吉本ばななとかはかなり読んでいて、重い小説にはある意味では抵抗を感じている。 けれども、逆に言えば求めている部分もあるので、こちらからうまく指導をすれば、興味を持つということはあると 思います。 司会 それは、文学部の宿命的なものでね。 赤羽 そうですね。 司会 純粋に楽しめないというところもあるんです。 赤羽 そう、そうなんですよ。 司会 つまりどうしても論文にしないといけないと考えているわけですから、そうするとやはり最後は、主人公の 生き方に共鳴しましたと書かなければしようがないわけですよね。 37 38 赤羽 そうそう、そういうジレンマがあると思います。 司会 だから授業とは別のところで綿矢りさを読んで、 「あっ、分かるわ」という感じなのだが、しかしその「分 かるわ」だけでは論文にならないんですから、その辺が難しいところなんです。 赤羽 ええ、ならないですから難しいところだと思うんですね。 司会 松本先生はどうですか。 松本 私は語りという「形式」の問題は、実は「内容」の問題とリンクしているのだろうと思っています。例えば 文学研究だったら、ジョルジ・ルカーチが十九世紀の歴史小説に関する研究を行った際に、リアリズムの時代には、 小説は、階級的な意味でも、領土などの空間的な意味でも、社会の「全体性」 ( totality )を表すことができていて、そ れが小説というジャンルを成熟させたと述べています。しかしモダニズムの時代になると、先ほどのエスティの議論 にもあったとおり、英国の帝国主義的な政策によって海外の植民地が拡大したので、英国社会の全体性が見えなく なってくる。一九二〇年代のハイ・モダニズムの小説に見られる「意識の流れ」の手法は、たゆたう意識や想像力が 植民地へと浮遊するさまを文体で示すことによって、リアリズム小説の手法では社会の全体性を表すことができない 状況にきてしまったという「内容」を、 「形式」的に表しているものである、と考えられると思います。そのように 「形式」と「内容」がリンクしていると考えると、綿矢りさの小説には、少しばかりユーモアの感覚をもって「私」 を眺める「私」がいる。言い換えれば、 「私」を戯画化して、ひょっとしたら「私」を突き崩しかねない語りをする 「私」がいたことがおもしろかったと思うのです。これは、今の若い女性の「自己」のあり方、そこにはジェンダー の問題とか世代の問題も絡んでくると思うのですが、それとリンクしているのだろうという直感があります。町田康 の語りもまた、充満しているのだけれども実は空虚な感覚を、笑いをこめたかたちで表していると思うのですが、そ れがどのような「内容」を表しているのか、とても興味があります。どなたかコメントくださる方があるでしょうか。 38 39 文学のおもしろさ 赤羽 町田康というのは非常におもしろいですよね。それこそ語り口で読ませていく作家で、だから私はむしろ松 本先生にうかがいたいのですが、要するにいずれもテーマはかなり二次的というか、それよりも語り口の方でもって い っ て い る わ け で す よ ね。 し か し 綿 矢 り さ は も っ と 世 代 が 下 で、 先 ほ ど 松 本 先 生 は 世 代 の 違 い と い う こ と を お っ しゃったような気がするのですけれども。 松本 はい。町田康の語りにも、世代の問題や、新しい「男性性」の問題という意味での「内容」があるのではな いかという気がしています。 赤羽 ええ、多分内容も関わってくると思うんですね。私は松本先生のようにそれほど社会との関係できちんと分 析していないのですが、そういうかたちでやっていけば非常におもしろい分析ができるだろうと思います。いわゆる 昔風の内容の分析ではなくて、語りとリンクさせることによって社会的な問題を扱うと言いますか、そうしたものが できると思うんです。 松本 確かあの人には、お金がなくてぶらぶらする日常を実際に経験した時期があったんですよね。バブルの真っ 最中とバブル以後に、そうした視点から世の中を眺めたことも関係がある。 赤羽 その辺のところを文学部として研究するとなると、そういうタイプの研究がやはり必要になるだろうなとい う気はしているんですね。ただ、私はその方面の勉強をあまりしていないので、松本先生に頑張っていただきたいで すけれども( 笑) 。 村田 確かに今は多様な作家が出ていますよね。昔は貴族とか貴族崩れ、いわゆる雑階級人というのがロシアにい たんですが、そういう人は大学で文学を勉強して作家になるという道がほぼ決まっていたんです。だが今はそうでは ない。例えばトラクターの運転手だったとかまったく違う仕事をしていた人が作家になって、その人が突然売れてく るという現象があるのです。それなりにおもしろい現実を書いていて、ほかの人が知らない新しいものや、ビジョン 39 40 を提示してきて、それで急に人気が出たりしますね。 司会 例えばどうなんですか。広い意味での西洋文学の二十世紀の流れの中で、一つの大きな出来事として、ラテ ンアメリカの発見というのがよく言われますよね。それでホルヘ・ルイス・ボルヘスだとかバルガス・リョサだとか、 マジック・リアリズムというのでしょうか、ああいうものが発見されて、そこから小説の語りのおもしろさをもう一 度発見するみたいなところがありましたでしょう。ロシアもやはり、何かそういう部分の影響を受けているというこ とはあるのですか。 村田 ええ、ありますね。一九五八年くらいからの雪解けの時代に翻訳が盛んになって、推理小説とかヘミング ウェイとか海外の作品がたくさん訳されるようになったんですね。ラテンアメリカのものも訳されていましたが、確 かに影響はあります。先ほどもちょっとお話ししましたが、ブルガーコフの語り口と創造力というものは、ロシア文 学の中でひとつの非常に大事な系譜を引き継いでいったと言えると思うんです。例えば『巨匠とマルガリータ』とい う作品では、皆さんご存じのように、モスクワとエルサレムの二つの場面を舞台にして、巨匠と言われている作家と、 イエスの処刑をとめようとしたポンティ・ピラト、その二人の精神的な悩みと受難を描いているんです。それを、最 後に黒魔術の教授ヴォランドが解決するというところでストーリーは終わるのですが、そういう魔術的なものの伝統 は一九二○年代後半からあります。ちょうど社会主義リアリズムの時代に逆にそれが強くなってきたり、鳴りを潜め ていた神秘主義が、突然また三○年代ぐらいから出てきたのです。ツァーリズムというのもある種狂気の世界ですけ れども、裏を返せば現実です。もしかしたらあれは空想の世界じゃないかなと思うような人も出てくるわけだし、そ ういうところでマジックなものというのは非常に関心が高かったですね。 司会 それともう一つは現代のロシアの小説をあまり詳しく読んでいるわけではないのですが、例えば具体的に言 うと新潮のクレスト・ブックスですか、あそこの翻訳の中には、ほうっと思うようなのが幾つかあって、数年前でし 40 41 文学のおもしろさ たか『ペンギンの憂鬱』という小説がありました。アンドレイ・クルコフという作家なのですが、僕は実におもしろ かったんです。この人のもう一作も確か翻訳されていると思います。どうなんですか、ロシアの現代小説というのは、 やはり一定の読者層をちゃんと獲得しているんですか。 村田 そうですね、とくに今読まれているのは女性作家の書いた文学です。リュドミラ・ウリツカヤやリュドミ ラ・ペトルシェフスカヤという力のある作家が書いていますが、文体が非常にきれいなんです。テーマよりも文体で 引っ張っていくタイプの作家ですが、ジェンダーの問題も取り上げていますね。そのほかにヴィトル・ペレーヴィン であるとかウラジーミル・ソローキンも、向こうではカルト的な人気があるような人で読まれてはいます。けれども、 やはり伝統としてはゴーゴリ、ブルガーコフあるいはパステルナークのような大きな文学の中のものをうまく使って、 そこから何かを引き出して新たな実験をして、文学そのものの存在に挑んでいるような作家は人気があります。私自 身は、 『ロシア魂の百科事典』 、 『ロシア美人』を書いたヴィクトル・エロフェーエフという作家の文体の斬新さに注 目しています。彼の作品にも、マジック・リアリズムがあらわれています。 司会 村田先生が所属しておられるロシア語学科には、政治、経済の方がご専門の方も多いと思います。しかし文 学に関心を持つ学生もいると思うんですね。そういう人たちがロシア文学に関心を持つとしたら、どの辺のところに なるのですか。 村田 そうですね、年によって違いますけれども、前から人気があるのはドストエフスキーですよね。あとはブル ガーコフ、エヴゲーニイ・ザミャーチンなどです。 司会 ああ、ザミャーチンね、なるほど。 村田 あとノーベル賞作家のイヴァン・ブーニンも人気があります。 司会 小林先生、日本ではロシアというとツルゲーネフですよね。 41 42 小林 そうですね。 司会 どうなんですか、ツルゲーネフは。 村田 ツルゲーネフは今新しい訳が出て、新しい読者もまた大分増えていますね。 司会 沼野恭子さんのですか。 村田 そうですね、 『初恋』が出まして、学生も読んでいます。ツルゲーネフはもちろん今でもロシアで人気があ りますが、やはりお話としておもしろい方に学生は惹かれていきますよね。チェーホフを一緒に読んでも分からない というんですね。何を書いているのか分からないと。いや、私はむしろよく分かると思うのですが( 笑) 。ドストエ フスキーも分かりますけれどもね。 司会 分からない? 村田 分からないんですね、答えがない世界というのが。答えはないことはなくて、探していけばあるのですが、 すぐ答えが見つからないと、例えばボタンを押して答えが出てこないと、だめな人もいます。 司会 それだとちょっと困るんだな。 村田 そうなんですよね。だからチェーホフはもうちょっと後ですね、四年生ぐらいになってからだんだん分かっ てくるかもしれない。一年生に読ませても、 「先生、これ何の話なんですか」 、 「登場人物が何もしないじゃないです か」と。 司会 なるほど( 笑) 。 村田 何もしないところがいいんだよ、役割を探しているだけじゃないかと言うと、 「ああー、そうですか」と。 42 43 文学のおもしろさ たくさん読ませて鍛える 司会 小林先生、国文学科の場合には卒論が必修でしょう。 小林 そうです。 司会 近代文学で書く学生は多いのですか。 小林 平均して一学年、五十人のうち十五人から二十人の間ぐらいですね。 司会 そうすると大体三割から四割ということですか、どのあたりのところをやられるのですか。 小林 指導の仕方によるのですけれども、国文学科は古典学を重視していて、近代文学の中でも明治・大正を中心 に指導していますので、その辺が多いですね。 司会 例えば現代文学の、生きている作家を取り上げるということはまずほとんどないと。 小林 ええ、まずやめなさいと言います。つまり先ほどの研究と楽しみの問題ですけれども、やはり卒業論文は対 象とどのくらい格闘できるかということにウエイトを置いて、しかもそのときに単に自分だけが勝手に格闘をするの ではなくて、先行研究がどのくらいのレベルであって、それとも一緒に格闘する、そういう体験を通して研究という ことを体得し、体験することだから、そういう前提が期待できない現代文学はやらない方がいいという指導をしてお ります。つまり、卒業論文で目指している目的に、現代文学の研究は合わないということですね。 司会 そうすると、村上春樹で卒業論文などということはありえない。 小林 『ノルウェイの森』で書いた学生はいたのですけれども、重要な作品というか中身のある作品で、もうかな り研究も進んでいる作品の場合には、 「まあ、いいでしょう」ということではやっています。 43 44 司会 今度は単なる文学部の学生ではなくて、社会全体として見たときに、日本文学の中でも一昔前まではまず一 般的に大体読んでいたであろうという、あるいは知のレベルとして読んでいたはずのものが、もうほとんど読まれな くなってしまっている。例えば今三島由紀夫を読む人は少ないんですよね。 小林 まあ、昔と比べたら雲泥の差でしょうね。 司会 それからこれは同僚のある先生が英文学科の学生に、日本の評論家あるいは文芸評論家という名前で頭に浮 かぶ人は誰だと聞いたら、全然誰も手を挙げなかった。それで「小林」とそこまで言って、 「章夫じゃないよ」と言 うと( 笑) 、ようやく五十人の中で一人か二人が「小林秀雄」と言った。しかし、読んだことはないというわけです。 だから唐木順三、亀井勝一郎なんていうのはもちろん無縁の存在。そうするとやはり国文学の世界でも、それこそひ と昔前なら簡単に文庫本で手に入ったはずの本が、先ほどの『蟹工船』などは時ならぬブームで手に入りますが、探 してもなかなか読めなくなっているものが随分ありますね。 小林 そうですね、現代文学はやはり読まれるんですよね。昔の規模とは全然違うかもしれませんが。そういう意 味でいうと、明治・大正・昭和前期の作品は読まれなくなってどんどん文庫から消えています。だから『金色夜叉』 の翻案がテレビドラマ化されて、ものすごくおもしろいということになって原作がこれだというので、それを読みた いという人が出て、あわてて新潮社が復刻するというようなことが起こっているんですよね。先ほどの『蟹工船』も そうですが、漫画とかテレビとか、じっとしていても与えてくれるメディアが接点にあっても、そこから興味を持て ば人は現物を読むんですよね。そういう「読みたい」というエネルギーはまだまだ信用できると思うのです。 私の場合、 『金色夜叉』の文庫本があるうちに講義で取り上げるということを必死にやっていますね。でないと長 編になりますと、テキストそのものが手に入りにくいんですよね。そういう意味では困難な時代に差しかかっている と思います。 44 45 文学のおもしろさ 司会 できなくなりますね。 村田 日本文学は海外では人気がむしろ高まっていますね。もちろんフランスでもどんどん翻訳が出ていますし、 ロシアもそうです。あっという間に売り切れると、平積みで置いてありますよ。 小林 じゃあ、ロシアへ行って日本の学生に買わせたいですね( 笑) 。 松本 ロシア語になっているのでしょうか。 村田 そうですね、もうロシア文学になっていますね( 笑) 。かつてはドストエフスキーが日本の作家のように思 われたのと同じように、今は逆の現象になりましたね。 小林 現代文学は読まれるが、近代文学が読まれなくなったことの理由のひとつに、文章が難しくてよく分からな い、ということが挙げられるかと思います。しかし、分かることを中心に考えるのは、文学の享受の仕方からすると 少し貧しいですね。分かる気持ちよさの他に、文学には感じる気持ちよさもありますよね。読者は、分かることより 感じることを重視すべきではないでしょうか。分かるという知性の動きから脱却して、感じるという、いわば身体運 動としての読書の楽しさと言いますか、先ほど村田先生が言われたロシアの劇の音さえ聞いていれば何か感じる、そ れでいいんだと。それがおもしろいんだと思える感性ですね。これが必要だと思います。分かるというのは、自分の キャパシティの中の思考回路の中に位置づけられるものだけ理解し、位置づけられないものは排除するということで すよね。それでは自己発見は起こらない。自分のキャパシティを超えると言いましょうか、キャパシティを変更して いくということが大事だと思うのです。身体の感覚を鍛えるには、身体的に鍛えなければいけないということだろう と思うんです。 司会 たくさん読んで鍛えなければいけない。 赤羽 だから結局、どんどん読ませなければいけないでしょうね。教師からすると、年齢差があるせいもあって、 45 46 学生も初めはみんな似ているような印象を受けてしまいますが、やはり個人差は相当ありますよね。フランス文学で いうと、例えば二十世紀初めに「意識の流れ」みたいのがあって、シュルレアリスム、実存主義とあって、これを読 めばフランス文学の根幹は分かるみたいなところがあったわけですけれども、ヌーボー・ロマン以降そのようなもの は何もなくなってしまったわけですね。要するに誰もが認めるオーソリティがあるような作品がなくなってしまって、 学生はどれを読んでいいのか分からなくなってしまっています。 ですから、こちらも授業で現代文学の作品を選ぶときに、どれを選んだらいいのか分からないわけですよね。学生 に興味を持ってもらえるかどうかというのが不安なわけです。実際にはかなりいろいろな学生がいるのに、当然こち らから与えられる範囲というのは限られてしまうわけです。それぞれの学生には、自分に合ったものというのがある と思うのですけれども、たくさん読んでもらわないとそれに出会えません。小林( 幸)先生がおっしゃったように、 うまく当たると学生が持っている感性が発揮できるのですが、出会えなければ、その感性は死んだままなわけです。 だからやはりたくさん読んでもらうというのが大事かなと思いますね。 小林 やる気のある学生というのはいつでもいて、ある学生ですけれども、近代文学の勉強をしっかりやりたいと 二年生のころから言うものですから、よし、じゃあ今、古本が値崩れして本を買う最もいい時期だから、つまり安く て買えるからと、昔の筑摩書房の『現代日本文学大系』 、全九十七冊ですか、あれを全部買えと( 一同笑) 。 一番安いので三万円くらいで買えるのです。それを頭から読んでこいと、これを全部読んできた人は多分ほとんど いないから、あなたは最高の読書家になれると言いました。そうしましたら、 「ここまで読みました」と作品のリス トを持ってきます。まだ全部は読んでいません。有名なのや関心のあるものを読めと言っているのですけれども、今 明治四十年代ぐらいまできましたね、だから三分の一くらいは読んできたんじゃないですかね。そういうふうに読ん でくれると、どこかあるレベルにいっちゃいますよね。 46 47 文学のおもしろさ 司会 しかし大胆なサジェスチョンですね( 一同笑) 。 小林 今安いですからね。 赤羽 安いですかねえ( 笑) 。 小林 卒業論文では、私の場合は作家を決めた人には全員全集を買わせます。漱石などは現在の新しい全集は高い けれども、その前の全集は値崩れしていますから、一万円とか八千円とかでありますからね。それで、とにかくそれ を読んでこなければ話にならないと脅しています。実は私の方が読んでいないのですけれども( 笑) 。でもやはりそ ういうものだというふうにやらせれば、うちの学生たちは一所懸命やってきて、ほとんど卒業時点ではかなりの力を つけて出ていきます。期待はできると思います。 司会 なるほど。松本先生はこの前おっしゃっていたけれども、うちの英文学科で学生も教員も共に苦労するのは 卒業論文で、三月に出ていく学生を見てやれやれと思うわけですが、学生の多くは悩んで苦しみながら、やはり卒業 論文を書き終えて提出して、通るとそれなりによかったと言いますよね、どうですか。 松本 達成感が得られるのだと思うんですね。あとは一対一で教員から綿密な指導を受けるという経験は貴重だと 思います。何度草稿を提出しても書き直しさせられるという経験をする中で、大変優れた論文を仕上げて学問のおも しろさをちらりとでも味わう学生もでてきますし、そこまでいかなくても、たいていの学生が、明晰な日本語を書く 能力を身につけていきます。それは学生自身も実感できることのようで、あとになって初期の原稿を読み返して、 「こんなひどい日本語を読んでもらってたんですね」と笑いながら言ったりします。卒業論文というのは、おっしゃ るとおり、私たちの学科の教育の最も重要な部分だと思います。 村田 プロセスが大事ですよね、結果はそれぞれですけれど。 司会 学生以上に教員は大変なんですけれどもね。ただ、私はそれにつけてもいつも思うのですが、松本先生は当 47 48 初はウルフでしょう。そこからいろいろ広がっていますが、私はウルフを今読んでも、あんなしちめんどくさい文章 はないなと思うわけですよ。それでもやはり何か惹かれるものというのはあるのですか。 松本 私が最初にウルフの小説を読んだのは学部の三年生のときでした。そのとき、これは本当に自分の作家だと 思うくらいの衝撃があったんですね。それは多分私だけではなくて、上智の学生にも同じようなことを言う人がいま す。最近は学部のゼミでウルフの小説を取り上げることはあまりないのですが、二〇〇三年から二〇〇五年にかけて は、ゼミで『ミセス・ダロウェイ』や『灯台へ』を読んでいました。もちろん最初は、皆ウルフの文体に面食らいま す。でも、二週目く らいから女子学生の八割く らいは、 「この意識の流れって、私の頭の中の状態と同じです」と 言って、あの文体に慣れてしまうんです。逆に、男子学生の中には、語りの視点があちらこちらの人物に脈絡なく移 るので、 「これ、誰ですか一体!」と怒りだす人がいて、学生による反応の違いがおもしろかったですね。 小林 ちゃんと出てきますと言ってくれないで出てくるんですよね( 笑) 。 松本 そうなんです。男子の方がウルフの文体に対する戸惑いが強かった印象があります。でも意外と女子は違和 感なく入るんですね。 赤羽 多分それは仏文でも同じだと思います。男子は観念的に読むのですが、女子は感覚的に読みます。現代文学 はかなりややこしいので、最初は難しくて入りにくいようですけれども、いったん入ってしまうとスッと読めるとい うことをよく言います。それはやはり不思議な気がしますね。 司会 ただ、もう一つ、私はあの世界にあまりユーモアを感じないんですよね。 松本 ユーモアというよりは意地悪で嫌みな方が強いでしょうか。意地の悪さがよい意味でイギリス的だとしても、 行き過ぎているかもしれません。 司会 だからジェイン・オースティンをやるのはやめた方がいい、難しいと学生に言うのです。あんな皮肉や、あ 48 49 文学のおもしろさ るいはあんな意地の悪い観察力というのは、読んでいても分かるわけないと言ったのです。でも、そういう意味では 私はオースティンの方が好きです。 松本 オースティンの方がクスッと笑えるところがありますね。 司会 そう、笑えるところがある。だからやはりウルフやらなくてよかったと常々思っていますけれどもね。でも、 今のお話をうかがうと、彼女たち、女子学生たちにはわりと分かるんですね。 松本 『ミセス・ダロウェイ』の冒頭などはとくに共感を得るようで、 「これ、自分です」と言う子がいる。 司会 でも怖いな、そういう子は。 松本 そうなんです。過去の話ですが、 「私は軽い鬱病で、ウルフを読んでいると自分にあまりにも近くて怖くな るので、ゼミをやめさせてください」と言ってきた女子学生もいました。 赤羽 あまりに近いからですね。 松本 はい、そういった例もあります。でも、ウルフの世界にすっと入れる学生が多いということは、まだウルフ には現代の読者に訴える力がある証拠かもしれないとも思います。 司会 なるほど、はじめてそういう話をうかがいました。村田先生は今ロシア演劇をなさっているし、授業でも取 り上げられていますが、先ほどちょっとお話をうかがいましたように、実際に上演なさると、やはりおもしろいです か。 村田 おもしろいですね。学生と一緒にテキストを読んでそれから『モスクワ芸術座』などのビデオを見ますと、 彼らはテキストとはまったく違う印象を受けるんですね。造型化するとこうなるのかと非常に喜びます。自分たちで 演じてみると、自分たちの体がいかに動いていなかったかということに気がつくんです。それまでは現実認識も薄 かったし、外の世界と自分との結びつきが、演劇を通じて何か少しできてくるような感覚を得るということでしょう。 49 50 それも出発点はやはり文学のテキストです。そういう意味では両者のかかわりは非常に大事なので、このようなかた ちで文学と演劇を並行して授業をしていきたいと思うのです。 司会 実は僕の体験ですが、シェイクスピアの『マクベス』という芝居を半分くらいに縮めた日本語版の台本で、 それをプロの役者さん、男性ばかり五人で朗読したのです。要するに演技はつけずに台本を見ながら朗読するのです。 もちろんちゃんと台詞回しになっているのです。マクベス役は一人で朗読したのですが、あとの四人の役者さんは何 役も兼ねて、それからマクベス夫人の役も男性が朗読したのです。それを京都、名古屋、東京の三カ所で、どこも満 員だったのですけれども、終わって僕もすごくおもしろかったし、観に来ていた人たちがしみじみとその台詞のおも しろさを味わった、感じとったと言うのです。これは変な言い方なのですが、演技がなくて衣装もなくて台詞だけで やるから、台詞の語りのすごさが伝わるんですよ。改めて、ああ、すごいなあと思ったのですけれども、やはりそう いう部分ってありますよね。 村田 ありますね。字づらでは分からないものが声に出すと分かります。その声自体はもう生身の人間の存在です からそれぞれ違います。台詞の語りのインパクトは私も感じますね。そして、想像力が枯渇してきたというのを学生 に感じますね。 これはちょっと別な話なんですけれども、イタリア文学にディーノ・ブッツァーティという作家がいますね。おも しろくて読んでいたのですけれども、息子が戦場からお母さんのところへ帰って来る『マント』という話があるので すが、彼はマントを着ていて、そのマントの内側は真っ赤なんですね。息子はマントを絶対脱ごうとしない。で、お 母さんと話をして翌日帰っていって二度と戻らなかったという小説なんですけれども、これを学生に何の話か分かる か と 聞 い た と こ ろ、 い や、 暇 も ら っ て 息 子 が 里 帰 り を し た の だ ろ う で 終 わ っ た の で す が、 そ う じ ゃ な い だ ろ う と ( 笑) 。誰も分からなかったですね、なぜそういう場面を書いたのかということが。だからもっと想像力を働かせるた 50 51 文学のおもしろさ めにも文学を読む必要がありますね。 こんな文学が楽しい 司会 なるほどね。いろいろなお話でおもしろいのですが、時間の都合もありますので、最後にお一人ずつ、今文 学のおもしろさといったときに、例えばご自分がこれを読んですごくおもしろかったとか、あるいは今これを読んで いて実に生き生きと想像力がみなぎってくるとか、何かそういう体験があれば少しうかがいたいと実は思っているの です。 というのは、これをもし学生が読んでくれるならば、教室でいろいろ文学の講義をやっているあの先生は、実際に はこういうものを読んでいるのか、あるいはこういうものにおもしろさを感じているのかという、そういうヒントと いうのでしょうか、そんな思いになってもらえればという気持ちもあります。そもそも文学というのはいろんなとら え方があると思うので、私にとってはこういうものが実はおもしろいんだという、そういうお話をしていただければ と。最後にまとめみたいなかたちでお一人ずつ、赤羽先生からいかがですか。 赤羽 何て言いますかね、やはり学生時代というのは何かものすごく衝撃が大きくて、何が衝撃だったのかよく分 からないけれども、そういう文学の体験というのはありましたね。ただ、年をとるにつれてある程度客観的に見られ てしまうというか、それほどのめり込めなくなってしまったというのは少しありますね。それぞれおもしろいのです が、一番お薦めの小説はと言われて、とりたててこれというものは思い浮かばないですね。だから、それぞれの作品 のおもしろみがあるということでしょうか。 司会 ただ、どうなんですかね、やはり文学研究者という職に就いてしまうと。 51 52 赤羽 どうしてもそうなってしまうんですね。そういう意味では先ほどの教養主義ではありませんが、そういうも のがなくなってしまうと淡々と読めるというか、おもしろいなと思うのだけれども、これはすごいという感じにあま りならないというか、それは少し寂しい感じもするのですけれども、その辺がね。だから、この小説ではここのとこ ろが非常におもしろいというようなかたちで学生に薦めるわけですね。 私は昔からストーリーにはあまり興味が持てなかったのですけれども、細部の描写には惹かれました。もちろん授 業では、プロットの問題も取り上げますが、細部を読むんだということを言っています。そうするとそれまで見えな かった全体がいろいろ見えてくるということがあります。だから作品の大きなテーマからではなく、小さなモチーフ の集まりみたいなものをきちっと読むようにということを強調しています。そして必ず二度以上読めと言っています。 最初はどうしてもストーリーを追ってしまうので、二度目に読むと細かいところが見えてきて深く味わえるというこ とですね。 レポートを書かせると、なかなか独創的なものがかなり出るのですが、そのときの話を聞くと、まじめにやる学生 は一回目では何だかよく分からなかったので、読み直すと細かいところが分かってきておもしろかったと言います。 去年、全学共通の授業をやっていて、英文の学生がミシェル・ビュートルの『心変わり』を読んで、びっくりするよ うなレポートを書いてくれたんですよ。えっ、どうしてこんなの書けるのと、どこかの研究書を見たんじゃないかと か一瞬疑りたくなるような、細かいところを分析して大きなテーマに繫げていました。やはり一回目はそれほど思わ なかったけれども、もう一度読んでみたら、思いがけない繫がりが見えてきて、新しい発見があったというようなこ とを言っていました。 司会 いいですね、そういうのがあると。 赤羽 そういうのっていいですよね。 52 53 文学のおもしろさ 司会 二十世紀を代表する作家のウラディミル・ナボコフがアメリカの大学で講義した「ヨーロッパ文学講義」と いうのがありますね。その中でもう口を酸っぱくして、小説は細部が大事なんだよと言い続けていた。それは非常に よく分かりますね。 赤羽 学生には、細かいところを敏感に感じるということがあると思うんですね。だからそこを手がかりに読んで いってもらうと、結構おもしろくなってきて、またもう一度読み直して、さらにまたいろいろ見えてくるという、そ ういうことがあると思います。全員というわけにはいきませんけれども、そういう感性のある学生は、文学のおもし ろみが分かってくるのではないかと思います。 司会 ありがとうございます。小林先生はいかがですか。 小林 そこそこ文学に関心のある学生たちはそれで十分、そこを突破口にすればいいのですが、問題は長い文章を 読むのは嫌だという学生たちが私の敵でありまして( 笑) 、これを攻略する方法を考えているのです。まず、短いの を読みましょう、それは疲れませんからということで、ひとまず散文の方でいうとブラックユーモアみたいなものと かショートショートとか、今超短編という言われ方をしているものもありますが、そういうものを読むのを薦めてい ます。例えば私が好きなのでいうと、阿刀田高のブラックユーモアで、 「お母さん。まっ赤な手袋が落ちているわ」 、 「あら、中身も入っているわ」 、このくらいのものから入って、内容と表現のおもしろさ、楽しさというのを味わって いくということです。 それからもう一つは、先ほどちょっと問題になりましたけれども、散文ではなくて詩歌ですね、それも先ほど村田 先生もおっしゃいましたように、分かるというよりも感じる、それで十分文学なんだというところで入ってもらえた らなと思うんですね。それは赤羽先生の言葉で言うと、言語を楽しむということだろうと思うのです。言語に対する 執着というのは先を開けると思うので、少し通俗的ですけれども、あまりまじめなものではなくておもしろい作品を 53 54 読もうということで短歌などをよく紹介しています。 例えば奥村晃作という、私の知り合いの短歌ですが、 「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに 文具店に行く」と、アホみたいな話ですけれども( 笑) 、ミツビシにこだわっているおじさんですね。コンビニで買 うのではなく、今どきあるのかどうか分からないような文具店に行くという発想のおじさんで、このこだわりには何 かほのぼのとしたものがあって、なおかつみんなにもある、私にもある、と共感を呼ぶわけです。そういう文学もた くさんあるわけで、知って楽しんでもらいたい。 もう一つ挙げると、これも私の知り合いで小池光の短歌なのですが、 「佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室 へ行きしが佐野朋子をらず」と、この「ばか」にはすごい愛情が入っていますよね。多分どうしようもない生徒だか らとっちめて何とかしたろと思って勇んで行ったら、向こうはもっと一枚上手でそもそも学校へ来ていないという、 そういうようないわゆる、分かるし、感じるしというおもしろい文学もあるので、それはやはり数を読まないと当ら なくてその辺にぶら下がっているわけではないので、こういう短いものを探しながら読んでいくと、読む楽しさとい うのが出てくるのではないかなと思います。 司会 ありがとうございます。松本先生いかがですか。 松本 素晴らしい文学作品の新訳ということでいえば、イーヴリン・ウォーの『回想のブライズヘッド』 ( 小野寺健 訳、岩波文庫、二〇〇九年)でウォーの魅力を再発見した思いでいます。あとは、文学のおもしろさを語る際に外せな いと私が思っているのが、良い評論や研究書の存在です。自分が何の気なしに読んでいた文学作品を、こんな視点か ら、こんなふうに分析できるのか、と興奮させてくれる研究書が、古いものでも、新しいものでも、たくさんありま 十八 ― 二十世紀における文学・美術の変貌』 ( 河村錠一郎監訳、河出書房新社、一九八八年)や、レスリー・A・ ― す。私が大好きで、折に触れて読み返すものを二冊だけ挙げるなら、ワイリー・サイファー『ロココからキュビスム へ 54 55 文学のおもしろさ フィードラー『アメリカ小説における愛と死』 ( 佐伯彰一ほか訳、新潮社、一九八九年)でしょうか。両方とも原著は一 九六〇年の出版ですが、内容はまったく古びていません。上智大学出版の「モダン・クラシックス叢書」も、そうし たやや古めの、しかし優れた英米の著作で本邦未訳のものを紹介するという企画ですが、学生のみなさんには、ぜひ そうした書物を手にとって、文学のおもしろさ、学問のおもしろさを幾重にも味わってもらいたいですね。 司会 それはそれでいいかもしれませんね、ありがとうございます。最後になりましたが、村田先生いかがですか。 村田 まず、先に読み方です。これは私も驚いたのですけれども、ロシアでは授業で文学を読むときは全部読んで 暗 記 さ せ る ん で す。 例 え ば『 ハ ム レ ッ ト 』 を 英 語 で 全 部 暗 記 さ せ る。 そ れ で 口 頭 試 問 を 受 け る わ け で す。 そ れ は ちょっと極端な例としても、ある程度短いものを覚えるのもいいと思うのです。日本語でもいいですし、外国文学を、 それもできれば原語で読む。例えば芝居ですと覚えてから演じますよね。これは非常にいい勉強になりまして、演劇 よりもまず文学として理解するということに目が向くんです。ですから覚えるということは必要だと思いますね。ま ず、短いものを原語で読んでみるというのも大事です。ただ注意が要るのですが、短いテキストを探してみても最初 はやはり学生はどうしても読めない。そうしたらアクセントがついたり、コメンタリーがついたものを読むのですが、 それはつまらないんですね。誰かが選んだのですから。ですから私は、あっちこっちから探してできるだけ簡単でお もしろくて短いものを読ませるようにしていて、これからもそうしたいと思います。 それ以外のいわゆる大きな文学といわれている中では、やはりコミュニケーションのねじれについて非常に興味深 いことを書いているチェーホフの戯曲ですね。それから先ほどのブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』 。これは想 像力を豊かにするにはとてもいいです。人間の死生観を感じるにはパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』だと思い ますね。その二つがとくに優れています。 司会 なるほど、昔、 『ドクトル・ジバゴ』を読みました。懐かしいですね( 笑) 。 55 56 ありがとうございました。もちろん、文学のおもしろさを語るとなると、もう幾らでも語る材料はあるのでとても 時間が足りないのですが、今日はいろんなお話が出て大変おもしろく拝聴いたしました。大学の方向というのか上智 だけでなくほかの大学もそうですが、実学重視とか、社会に出て役に立つ学問が重視される風潮になって、あたかも 文学は役に立たない学問であるかのように言われています。それはそれでもいいのですが、文学は案外役に立つもの だと私なんかは思っているのです。むしろ経済学の用語を覚えるよりは文学の方がずっと役に立つと思っています。 村田 出来合いの理論は三年ぐらいで消えますからね。 司会 ですよね。 小林 エコノミストが聞いたら怒りますよ( 笑) 。 司会 エコノミストはついこの間言っていたことが今日にはコロコロ変わります。あんないい加減な連中はいない なと思っているのですけれども( 笑) 。それに比べれば、文学の普遍性というのは頑としてあるだろうと思っていま す。そのおもしろさの一端が今日語られたのではないかなと思います。また何かの機会にこのようなシンポジウムが できましたら、顔ぶれをかえて、今度はドイツ文学や中国文学の方にお話をうかがう機会をつくりたいと思っていま すが、とりあえず、今回はその第一弾のようなつもりで行いました。長時間にわたっておつきあいいただきまして、 ありがとうございました。 ( このシンポジウムは二〇〇九年四月十日に行われた。 ) 56
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