SPICY!≪辛口小説談義≫ - タテ書き小説ネット

SPICY!≪辛口小説談義≫
天崎 剣
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
SPICY!≪辛口小説談義≫
︻Nコード︼
N2712D
︻作者名︼
天崎 剣
︻あらすじ︼
小説を書く上で思うこと。辛口ですが、ストレートに。甘口好き
の人にはちょっと、お勧めできない、小説談義のスパイスは如何?
︻完結︼
1
☆会話文と地の文
ファンタジーの短編連作をこっそり書いています。まあ、更新は
激遅なので、本当に、こっそり、ですけども。
短編連作と銘打っているので、出来る限り、どの話から読み進め
てもいいようにしようと思い、書いているため、どうしても説明文
的内容が多くなってしまいます。すらすらと、無理なく無駄なく説
明するのが大変だったりするんです。
実は人様のファンタジー小説は、殆ど読んだことがなく⋮⋮、ど
ういうふうに書き進めるのが普通なのかよくわかりませんが、私な
りに適当に世界観構築しながら話を進めています。漫画なら簡単に
済む説明も、小説だと難しいし、逆に、漫画では必要ないと思って
省いている設定が小説では大切に語られたり⋮⋮。作者の意図にも
よるのでしょうが、私は風景描写が好きで、いらないことまで書い
てしまいます。町の特産物、どういう人たちが住んでいるのだとか、
宗教のこととか、町並みの説明とか。
少しでも臨場感を与えようとすると、どうしても地の文が長くな
りますね。
私の話は大体、会話3:地の文7くらいの割合のようです。会話
2:地の文8のことも。ですから、オンライン小説・ケータイ小説
を読みなれている皆さんからしたら、どう映ってるのかしら???
と思うことがあります。
最近、あちこちの作品を覗くようになって、改めて思うのですが
⋮⋮。
││会話文、多すぎやしませんか?
2
一人称のものが多いので、どうしても状況説明的なものは、すん
なり書きづらいのかもしれません。だけれども、場面が想像しにく
いのは、読者にとって辛いことではないのかなぁ、と。
偉そうなことを書いていますが、私も素人です。
自分の文章に決して自信があるわけではないのですが、やはり、
人に見てもらうからには、誰にでも安易に状況がわかるようにしな
ければならないと、自分に言い聞かせています。目を瞑って、書い
てある文章の内容を思い浮かべて⋮⋮、毎回のように同じ動きにな
るように、動きや物の位置に不自然なところが無いように。地図に
起こしてみたり、配置図を描いたり。面倒な作業ですが、漫画を描
く作業に比べたら、まだまだ⋮⋮。
細部まで、きっちり構築していく。相手に伝えるための努力をす
る。
些細なことだけれど、いわゆる﹁ケータイ小説﹂﹁オンライン小
説﹂には、こういった点が不足しがちな気がするんですよね。
読んでくれる﹁相手﹂を意識する、そんな当たり前のことが、小
説のクオリティをぐっとあげてくれるのではないのかな、と、思う
のです。
3
☆描写するということ
前の記事︵会話文と地の文︶で書いたとおり、私は地の文はかな
り多めに書きます。今どこにいるのか、何をしてて、誰と誰がどう
いう位置関係で話をしているのか、または戦っているのか⋮⋮。地
の文は読者に情報を与える手段であり、省くことの出来ないもので
す。たった一言の台詞のために、地の文はその3∼5倍は書いてい
ると思います。
では、なぜそうするのか。全ては、読者に与える印象を一貫する
ため。誰が読んでも、いつ見ても、同じように受け止めてくれなけ
れば、自分の世界を表現しきったとは言えないからなんですね。
あちらこちらで言ってますが、私は漫画も描きますから、背景の
大事さはとてもよく知っています。漫画は簡単に描けるものじゃあ
りません。絵もそうですが、ストーリー、専門知識、絵やコマの構
図⋮⋮、全て揃わなければ面白いものは描けないんです。
絵が下手でも、面白い話を書く漫画家さんはたくさんいます。で
すが、絵が下手だということと、描写が下手だということはまった
く別のことと思って間違いないと思うのです。
背景がきっちり描き込まれ、どういう状況であるか、何故今笑い
が起きたのか、悲しんだのか⋮⋮、はっきりわからなければ、幾ら
感動的なお話であっても、読者には伝わりません。ですから、見せ
たい場面の前後には、その場所の全景が必ず入っています。商業誌
に載っている漫画であれば尚のこと、必ず場面転換の後は全景を入
れているはずです。手元にある漫画を見てみてください。︵4コマ
は別ですが⋮⋮それでも、わかりやすいようにあちこちにさりげな
く背景を入れていますよね︶
4
これは、漫画だけにいえることではなく、アニメ、映画、ドラマ
でも同じように、場面転換後に必ず全景を入れます。
今までと違うという意識付けもありますが、そうしなければ、見
ている人︵漫画であれば読者、映像作品であれば視聴者︶に、登場
人物の置かれている状況が伝わらないからなのです。
さて、話を小説に戻します。
会話文を連ね、話を進めていくのはわかりやすく、面白いですね。
ですが、その場所に読者を完全に引き込むための土台を作ってお
いていますか、ということなんですよ。
同じ会話でも、どこで話しているかによって、印象が異なります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
例文:
﹁あいつ、最近来てないよな、サボりかよ﹂
﹁さあね、いじめに遭ってるって噂も聞かなくはないけど?﹂
﹁そういや、誰かが机に花飾ってたよな。俺、陰湿すぎだと思って、
思わずとっちまったよ﹂
﹁それって、6組のやつの仕業じゃねぇ? 放課後にたかられてん
の見たことあるぜ﹂
﹁あいつもあいつだよ、悔しいなら、言い返してやるくらいの根性
見せりゃいいのに﹂
﹁そりゃ、お前だからいえる台詞でさ、あいつには無理だよ。大人
しすぎるもん﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
5
さて、どこで会話しているでしょう?
この会話だけで、私とぴったり同じ情景が浮かんだ人がいたら、
拍手を送りたい。
答えは、﹁男子トイレ﹂です。
つまりですね、話の流れがわかっても、どういう人物がどこで話
しているかなんて、全くもって伝わらないってことです。
この例文は、高校のクラスメイトの不登校、トイレで噂する友人、
という設定で今適当に書いてみたものです。
この文章の舞台を教室の中に入れてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
教室にて:
授業終了のチャイムが鳴り、俺たちは生き返ったかのように大き
く背伸びした。肩をゴリゴリ鳴らし、緊張を解きほぐす。
ふと、左斜め後ろの席が空いているのが目に入った。佐藤の席だ。
﹁あいつ、最近来てないよな、サボりかよ﹂
そう言ってトントンと佐藤の机を叩いたのは、俺の後ろの鈴木。
はぁと溜め息をつき⋮⋮まるで、俺も休みたいとでも言いたそうだ。
﹁さあね、いじめに遭ってるって噂も聞かなくはないけど?﹂
俺は、ちょっと前に聞いたその話を持ち出した。
ずっと気に掛かってたけど、なかなか切り出せなかった話だ。
鈴木は俺の言葉で思い出したように、こんな話をしだした。
﹁そういや、誰かが机に花飾ってたよな。俺、陰湿すぎだと思って、
思わずとっちまったよ﹂
この前の火曜の朝⋮⋮、佐藤の席にあったユリの花。アレを見た
時の、佐藤の顔は忘れられない。真っ青で、今にも飛び降りそうな
悲壮感が漂ってたんだからな⋮⋮。いや、佐藤じゃなくても、あん
6
な光景を見たら、休みたくもなるだろう。
﹁それって、6組のやつの仕業じゃねぇ? 放課後にたかられてん
の見たことあるぜ﹂
明らかに、いじめだ⋮⋮と、俺はわかってて、止めなかった。止
められなかったんだ。
こうして佐藤が休んで、初めて後悔する。
﹁あいつもあいつだよ、悔しいなら、言い返してやるくらいの根性
見せりゃいいのに﹂
﹁そりゃ、お前だからいえる台詞でさ、あいつには無理だよ。大人
しすぎるもん﹂
鈴木の台詞はあまりに無責任だ。
佐藤の、弱々しい有様からしたら、誰かにたてつくだの、救いを
求めるだのってのは、不可能に近いんだ。
それを知ってた俺は、こんな他愛ない会話中、胸の中のもやもや
が取れず、嫌な気分だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
どうですか。なんだか、イメージがちゃんとしませんか。
ちなみに、トイレバージョンだとこんな感じ←
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
男子トイレにて:
授業の合間の便所。
次の授業は化学室だから、かなり急がないと間に合わない。化学
室ってのが、また、俺の教室から遠いところにあって、別棟の三階
⋮⋮、走ってギリギリってとこだ。
早く用足して、さっさと行かなきゃ、そう思っていた矢先、
﹁あいつ、最近来てないよな、サボりかよ﹂
7
鈴木だ。休みがちの内気な佐藤のこと言ってんだな。今はそれど
ころじゃないってのに⋮⋮。
﹁さあね、いじめに遭ってるって噂も聞かなくはないけど?﹂
用足しながら素っ気無く答えてみる。
つか、トイレでその話題はやばくねぇ?
﹁そういや、誰かが机に花飾ってたよな。俺、陰湿すぎだと思って、
思わずとっちまったよ﹂
今度は山田かよ⋮⋮。俺の両隣でなんて会話してんだ。
とにかく、さっさと終えて化学室行かねぇと。あのハゲオヤジ⋮
⋮化学の川村がうるせぇんだからよぉ。あのおっさん、授業態度も
かなり厳しくチェックしてるって、もっぱらの噂じゃねぇか。俺、
こないだの中間マジやばかったから、これで減点されると辛いんだ
けど。
﹁それって、6組のやつの仕業じゃねぇ? 放課後にたかられてん
の見たことあるぜ﹂
そうそう、鈴木と山田で会話続けてくれ。俺はさっさと手ぇ洗っ
て化学室に⋮⋮って。
﹁あいつもあいつだよ、悔しいなら、言い返してやるくらいの根性
見せりゃいいのに﹂
山田ぁ、俺に話しかけんじゃねぇよ! ││かといって、知らん
振りもできねぇ訳で。焦る気持ちを必死に抑えて、俺は心にもない
ことを言っていた。
﹁そりゃ、お前だからいえる台詞でさ、あいつには無理だよ。大人
しすぎるもん﹂
そうだよな、と、顔を見合わせて考え込む鈴木と山田を尻目に、
俺は化学室まで猛ダッシュした。廊下をバタバタ走り抜け、やっと
辿り着いたと同時に、授業開始のチャイムが鳴る。だけども川村は
既に化学室に来ていて、汗だくで駆け込んだ俺と、俺の後に余裕か
まして入ってきた鈴木と山田の三人は、言うまでもなく、減点され
たのだった。
8
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
会話がちょっとスピーディーになって、更に人数が三人に増えて
ます。
同じ会話だけでも、きちんと地の文を挟むことによって、状況が
把握できるわけなんですよね。
一人称の地の文は、あまり書いたことがないですが、私が書くと
こんな感じです。ちょっと厳しいかも知れませんが、状況⋮⋮場所
と、会話に参加している人の人数、誰がどのように動いているのか
わかるようにすることは可能です。
全体像を掴ませるためには、地の文はとても重要な役割をしてい
るはずです。ですから、なるべく﹁書く﹂のではなく、﹁描く﹂努
力は必要なのではと、私は思うわけです。
せっかく面白い話も、雲を掴むような描写では、勿体無い。字が
詰まっていると、携帯では読みにくい⋮⋮などという方もいらっし
ゃいますが、決してそんなことはなく、きちんと描写されている文
章であれば、苦にならずに読み進められると思いますよ。
9
☆キャラクターをどこまで作りこむのか
今回は、キャラクター作成について。色々やり方はあると思いま
すので、あくまでも私の手法としてはこのようなものです、と前書
きしておきます。
まと
キャラが先か、ストーリーが先か、と言われたら、私の場合はス
トーリーが先です。あらすじ・アイディアがある程度纏まってから、
それに見合ったキャラを作成します。キャラが先にありけりでもよ
ろしいのですが、ストーリーが死んでしまう恐れがあるので、私は
避けています。
それは、今の私の作風のシリアスモノに限ったことではなくギャ
グでも同じ。﹁この話なら、こういうキャラを動かせばより物語が
進展する﹂というところからキャラクター作りを始め、やがてキャ
ラクターが自分で動くようになれば成功ですね。
では、キャラクターが動く、とはどういうことか。次の展開がス
ムーズに頭の中に浮かぶ、ということです。
ですが、毎回毎回、簡単に動いてくれることはまずありません。
キャラクターが窮地に立たされたとき、二者択一の現場にいると
き、﹁このキャラならばこういう展開になるはず﹂と、作者が常に
キャラクターの目線で物事を考えることをしないと、やがて行き詰
ってしまうんですよね。また、必ずしも浮かんだ筋書きが、ストー
リー上成功となるか否か、ということになれば、それは決してそう
ではありません。最後は、全体を通してみて、キャラの性格・行動
が一貫しているか、矛盾点を突き詰めても問題ないか、冷静に作者
の頭で考えていくことは、どんな場合においても必要です。
﹁自分のキャラクターに魅力を感じない﹂と言う人がよくいます。
10
私も実際、動かしづらいキャラクターには魅力を感じず、そのキ
ャラだけはどうしても次の動きが浮かばない⋮⋮ということがあり
ました。そこで私は、そのキャラの人となりを考えてみました。何
故そこにいるのか、どうしてそのような台詞を喋らなければならな
いのか。突き詰めていけば、いつの間にか、人物像がはっきり浮か
び上がり、スムーズに動くようになって来ました。
つまり、魅力を感じないと言うことは、そのキャラクターの肉付
けがきちんとなされていない、と言うことではないかと私は思うの
です。愛着云々の前に、一人一人のキャラクターの性格・考え方・
生い立ち・癖、あらゆるものをしっかり確立させていくことが、必
要ではないでしょうか。それは決して、ストーリー上で全てを語る
必要はなく、匂わせるくらいでよいのです。
キャラクターのデザイン画を描き、具体的にイメージするのもよ
いでしょう。それと同時に、上記の点についても考え進めていけば、
よりよいキャラクターになっていくと思います。
同時に私が勧めるのは、人物相関図を書くことです。一人一人、
どこかで繋がっているということを、図式化して頭に叩き込みまし
ょう。漠然とイメージだけで書くより、ずっと、人間らしくなって
いきますよ。
それから、主人公と脇役たちの区別をどうするか、という点につ
いても少し。
往々にしてありがちなのは、言葉の癖で区別する方法。しかし、
けんえん
その方法はくどくどしく、本格的に小説を読もうと言う人には、少
し倦厭されます。たとえ対象年齢低めに描かれた作品だとしても、
あまり使うべきではないと思っています。
11
では、どのようにして区別していったらよいのでしょうか。
人には、それぞれ、考え方の違い、喋り方の癖があります。
例えば、同じ花を見ていたとしても、Aさんは﹁美しい﹂と思う
が、Bさんは﹁物悲しげで切ない﹂と思うかもしれない。また、C
さんにいたっては、﹁目障りで摘み取ってしまいたい﹂という見方
をする。有名な﹁ホトトギス 鳴かぬなら∼﹂の句のように、それ
ぞれ同じ事象でも違った捕らえ方をする、と言うことはよくあるこ
とです。これをキャラクターの色付けに利用していくのです。
外見がたとえ平凡でも、性格を強烈に描くことで、いくらでも書
き分けは可能です。
あとは、文章力を向上させ︵こればかりは努力あるのみですけど︶
、作ったキャラクターを魅力的に描き出す。せっかく考えたキャラ
だったら、誰だって世に出したいって欲望、ありますよね。そのキ
ャラクターに作者と同じように愛着を持ってくれる読者が現れたら
ますますやる気が湧きますし。
なによりも、はっきりとした人物像があってこそ、物語の説得力
が増すのです。
面白いストーリーが浮かんだら、人物を生き生きと動かす努力も
怠ってはいけませんね。
12
*感想とレスポンス
小説を書いている、イラストを描いている、そしてそれをWEB
上で晒している以上、どんな反応があっても、対応しなければなら
ない。それが作者としての責任と思うのです。
ところが、偶にいらっしゃるわけですよ。
⋮⋮感想放置プレイ⋮⋮。
なんだか、寂しい。
わしの置いてった感想文読んでもらってないのかな、と、思って
しまうくらい哀しい。
││ってこと、ないですか。
感想に対するレスポンスを、読者はきちんと見ています。作者が
どのような性格で、どのような人物なのか、案外気になってしまう
のが日本人。どのような感想にも、誠意ある対応を。
そうしなければ、ただでさえ、文字の羅列に過ぎない画面上で、作
者の人となりを伝えるのは難しい。
作品が優れていても、読者・訪問者に優しくない作者・作家って、
なんだか嫌だ。せっかく見て貰ってるのに、お前のその態度は何じ
ゃ! ⋮⋮と、終いには某掲示板に晒されたりする。
作品=作者の子供、みたいなものだと思うんです。だから、未熟
でも、未完成でも、作者の性格が滲み出てくる。
真摯に他人の意見を受け入れられない作者の作品が、万人ウケす
るだろうか?
逆ギレだけで済ます苦情処理に、作品に対する愛を感じることは
可能だろうか?
13
誰かが見ている、誰かが感じている、だからこそ、感想も、酷評
も来る。自己満足だけなら、わざわざWEBに載せる必要はない。
自分のPCなり、ケータイなりで終了させればいい。だけれど、公
開してしまっている、ということは、自己主張であり、自己表現な
訳で、少しでも反応が欲しいからじゃないの? なのに、その反応
をないがしろにするのって、無責任じゃない? ││と、最近、思
ってるわけです。
ストーリーが面白くない、オチがつまらない。
それでも結構!
そんじゃ、私はこんどこそ、面白いといってもらえる物を書くよ!
色がダサい、センスない。デッサン狂いすぎ。
センスはこれから磨こう!
見苦しいのは下ろして、カッコイイのUPするように努力するよ!
⋮⋮くらいの勢いで立ち向かってやって欲しい⋮⋮。
﹁正直な感想をお待ちしてます!﹂とか﹁酷評上等!﹂とかあるの
に、実際行使すると﹁荒らしですか﹂ってレス返ってきたら、凹み
ます⋮⋮。
それとは別に、全くレスを返す気のないサイト。これも凹む。
掲示板の、最初の頃はレスあったのに、更新頻度ある割りに、最
近掲示板には無反応とか。感謝という言葉がないのか⋮⋮とすら思
ってしまう。ありがとうございます、の一言だけでも書けばいいの
になぁ。
寧ろ、掲示板のない、シンプルなサイト︵メルフォや拍手ボタン
14
有︶や、ゲストブック︵レス機能なし掲示板︶設置サイトの方が、
潔く見えてしまいます。
もし、忙しさや書き込みの多さに対応できないのであれば、注意
書きなどに、﹁多忙に付き、全てのご感想、書き込みにレス出来ず、
申し訳ありません。全て目を通させていただいております。日々の
ご訪問、感謝いたします﹂などと明記しておけばいいのです。そう
すれば、﹁そんなに忙しいなら、せめて応援だけでも﹂と、安心し
て書き込みできると思うんですが。
そういうわけで、最近は、初めてのサイトに飛んだら、
サイト管理人紹介
←
日記
←
掲示板の様子
←
作品
という手順で読むことにしてます。
悔しいけど、礼を重んじる日本人、レスもきちんと返せないよう
な人の作品を読む気にはなれん⋮⋮。
ここまで書いているのだから、私も自分の作品には責任を持つよ
! 悔しいが、実力が付かないと、負け犬の遠吠えになってしまう
しね。
精進精進。
15
#空想だけでは面白い作品は書けない
面白い話、筋書き、キャラクター。
残念ながら、それだけでは面白い話は描けない。
大切なのは、何を訴えたいか。これに尽きる。
筋書きを読みつくせる話はつまらないかもしれない。キャラクタ
ーが凡人ばかりでは、興味すら湧かないかもしれない。だけれども、
私は、案外そこにこそ面白さを見出せるのではないか、と、思って
きた。
前にも書いたけど、ファンタジー・SF・戦記物なんかは、設定
自体がかなり大切で、ありきたりじゃ駄目だし、パッと見、面白い
と思われなければ、その後の読者を引き付けておくことは困難だろ
う。私も色々書いてきたから、その辺はよくわかる。
実際、自分の話が﹁実はそれほど珍しくも面白くも無い﹂設定だ
と、最近思い知った。
だからこそ、他とは違う色をどんどん出していかないと、無数の
作品に埋もれてしまう。
私は心理面において、かなり他の人よりも描写を濃くしているつ
もりだ。まだまだ足りない、と言われたら、悔しいからもっと足す
かも知れない、というくらい、必死に書いている。物語の筋よりも、
人の心の動きがどうなっていくのか、そこを描いていくのが楽しく
て仕方がない。
それじゃ、現代モノ、恋愛モノでもない、友情モノでもない、文
学系の作品においてはどうか。
16
設定⋮⋮、まあ、凡人しか出ません。登場人物はサラリーマン、
OL、主婦、老人、学生、子供。これと言ってすさまじい人生を送
ってきた者などいないわけです。だけれども、その個々をよく観察
していけば、びっくりするくらいのエピソードがたくさんある。﹁
え、まじで?!﹂と、耳を疑うようなことが、現実には起きている
のだ。
ファンタジーその他、空想・創造的要素を持つ作品とは根本的に
違う、ドロドロして、ひんやりしてしまうような人間関係、壮絶な
修羅場。それを潜り抜けているが、平然として日々を送る人間達。
一人の人間像を組み立てる時、個別に設定を考えてやしないか。
人間とは、人と人の間にいてこそ、人間であるわけで︵金八じゃな
いけど︶、二人以上の登場人物と常に係わり合いがあるのが通常で
ある。この人とこの人は、過去で繋がっている、この人はこっちの
人の恋人だと、どんどん繋げていく。すると、あたかも実在する人
物のように、関係図が広がっていく。
更にそこに、ささやかではあるが、現実味のあるエピソードとテ
ーマを与える。すると、驚くほどスムーズに物語が流れ出す。
つたな
表面だけ見繕った話より、私は後者の方が小説らしいと思うし、
そういうのを書いていきたい。
もろ
自分だけの世界は、脆く、未完成で、拙い。そこを磨いていくよ
りも、身近なところをテーマに置き、身近な人物像で攻めていく方
が、私には合っているのかも知れないな、と、今更のように気づい
てきたのだ。
技量を重ねることは勿論、やはり、人間観察を怠ってはならない。
身近にいる人物こそ、最大のネタである。
17
18
#壁
連載モノの合間に、短編を書いていたり、ふと、絵を描くかと思
ったり。
忙しい日々が続きますが、私は所詮素人です。好きなことを好き
なだけやる。共感した人は、私の作品を見て! っていう、お気楽
家業です。
でも、なんか、それだけで、いいのかな、と。
主義主張を持ちすぎて、灰汁が強すぎる悪い性質の持ち主ゆえに、
悩みも尽きないわけで。
前々から書いている通り、面白いことを考え、書いていくだけじ
ゃなくて、そこにテーマがないと駄目だ、と言う信念に変わりはあ
りません。問題は、それをどのような形で表現していくのか。そこ
なんですよ。
実は、コメディ︵特に小説︶が苦手です。
若い頃は、それはそれはコメディ、ギャグ、書きましたよ。だけ
ど、どうも、面白いだけじゃ、つまらなくなってしまった自分がい
る。
若いときは肉食だけど、年取ると、野菜や魚のほうが良くなるん
だよ∼って、よく先輩が言いますけど、まさに、そういう状態なん
です。多分、こってりしてるのよりも、噛めば噛むほど素材本来の
味が楽しめる、和食傾向になるように、どんどん好みが変わってい
ってるんです。
私は少年誌と青年誌買っているのですが、少年誌は目当ての連載
二、三本だけしか読まず、青年誌は殆ど全部に目を通してる。﹁あ、
もしかして、少年向けじゃ満足しなくなってしまったのか﹂と、よ
19
うやく気づいたんですよ。
少年向けは面白い。でも、もっと面白いと思えるのは、青年誌。
大人が読んで、面白いと感じるように編集されているのだから、私
がそう感じるのは当たり前。
だけど、じゃ、どこが違うのか。
テーマが奥深い。
表現の幅がぐっと広がり、少年向けでは描かれない、残酷、残忍
な場面、エロス、かけひき、その辺がたまらない。読む側にも、あ
る程度の知識、常識が求められるところがある。
私は、多分、一昨年位から、﹁青年向け﹂を意識して作品を仕上
げてる。より、訴えたいこと、伝えたいことを作品に盛り込み、ど
うにかして、読後に﹁残り香﹂を与えるか。そればかり考えている。
だから、気が付けば、説教臭くもあるし、泥臭かったり、遠まわし
に世間を非難していたり。
誰にでも、同じように伝わって欲しい、そう願う。が、現実、そ
うはいかない。難しいところだ。
どんなに面白い話、展開を考えても、読者に﹁面白い、また、こ
の人の作品が読みたい﹂と思わせなければ、実力不足ということに
なる。
小説は漫画とは違って、読み進めなければ、作品の傾向がわかり
にくい。誰が、どんな人対象に書いたのか、なんて、簡単に判断で
きなかったりする。
だから、読者にわかりやすい題材で、より簡潔にテーマを見出さ
20
せる必要がある。
市販のライトノベルのように、設定からとっつきやすく、読んで
いて、テーマがはっきりしているもの⋮⋮なんてのは、私には書け
そうもない。だから、私の扱いやすい題材で攻めていく。そこには、
﹁より読者が興味を持てるようにする配慮﹂が常に求められる。
実はそれが、一番難しい。
自分の言いたいこと、ちゃんと伝わってる? ﹁最初はためらっ
たけど、読みすすめていくうちに好きになりました﹂と、たくさん
けんさん
の人に言ってもらえるようになるには、私はまだ、力量が不足して
いるんだろうなぁ。
いろんな人に感想や評価を戴くが、まだまだ、研鑽が必要なよう
だ。
21
◎書く姿勢、読む姿勢
書いている方が表現したいことと、受け止める側が感じることは
なかなか合致しない。書く側の姿勢と読む側の姿勢の違いで、それ
は顕著になる。
と、ふと、思ったんですよ。
何とかして、伝えたい、読ませたい。そう思って書き連ねるわけ
なんですけども。
エッセイやコラムと違ってストレートじゃなくて、作品の全体を
通して、エピソードや会話の中にこっそり忍ばせたものを堪能する
のが小説なのじゃないかなぁと、私は思っています。
例えば、料理の隠し味にスパイスを入れる。ただ、﹁おいしかっ
た﹂とだけ感じて、それで終わってしまう人がいる。味わいながら、
様々な具材のバランスを感じながら﹁あのスパイス、うまく効いて
たね﹂と言ってくれる人がいる。
同じ料理なのに、味わい方が違う。
小説も、同じだな、と。
どんなに訴えたいことがあっても、﹁面白いか、否か﹂だけを追
求されてしまうと、そこから先にあるものを見出してもらえない。
作者の努力不足なのか、読者の読解力不足なのか、悩んでしまうこ
ともある。
どんなにわかりやすく噛み砕いても、わかる人にはわかるし、わ
からない人には一生かかってもわからない。⋮⋮というのは、実生
22
活で既に嫌と言うほど見てきた。悔しいけれど、全員に同じ感想を
求めるのは酷だ。だって、生きてきた環境、考え方、下地がまるで
違う。
優れた文学作品でも、読む人によって片方では賞賛され、片方で
は卑下される。
子供の時はわからなかった﹁作品の真意﹂が、大人になったら急
にわかるようになる。
誰が読むのか、どのぐらいの年代でその作品に触れたか、その時、
どんな環境だったのか。それは感想につぶさに反映される。
書く側の姿勢も、大切だが、読む側の姿勢も、やはり大切なのだ。
どんな気持ちで読み進める?
楽しい気持ち? 沈んだ気持ち?
楽しい気分でコメディを読めば、面白いだろう。だけど、沈んだ
気持ちで読むコメディほどつまらないものはない。
最初から、﹁どうせ、駄文だろ?﹂と言う気持ちで読んでしまう
と、全部駄文に思えてくる。
ハードカバーのケータイ小説は、面白そうに見える?
飾り気のないWEB小説は、つまらなさそう?
そんなこと、ありません。最初から決め付けないで、読んで欲し
いと思う。素直な気持ちで読んで、それでもつまらなかったら、﹁
ああ、実力不足だな﹂ということで。
⋮⋮作者側の、言い訳ですかね、これって。
23
#他人に見せるための文章?
あちらこちらのWEB小説をつまみ食いするこの頃、ふと思う。
﹁他人に見せる文章じゃない﹂作品⋮⋮。
それって、ただの自己満足だよね???
書いている自分さえわかればいいんだ、と、あからさまに主張し
ている作品がある。話の筋、アイディアが面白い! と、思って書
くのだろう。それもまたよし。私だってそうだ。
だけど、それを書きなぐるのと、作品として仕上げるのとは、全
く違う。
真摯に何かを訴えかける、または、きちんと場面を説明し、相手
によりわかりやすく伝える努力をする。当たり前のことだが、案外
出来ていない現状がある。
実際、読者層が全体的に若いのか、幼いのか、という点にもよる
のだろうが、表向きの面白さ︵あらすじとしての面白さ︶だけで判
断して、本質︵物語としての主張︶に重点を置いていない作品でも、
簡単にもてはやされてしまう問題点が、あげられる。面白ければい
い、楽しければいい、という、素人的甘えが蔓延し、作者も読者も
それを許している。
駄文であれなんであれ、﹁読んでね♪﹂などと書かれると、思わ
ずクリックし、﹁おもしろかったですぅ∼﹂などと、社交辞令の感
想を言い合っているから、いつまで経っても上達しないのだと思う
私は、多分、彼等には嫌われる存在だ。
ある程度はそれでいいのかも知れない。
書き始め∼ある程度書きなれてきた、くらいまで。それなら、褒
24
めて伸ばす方法は有効だろう。
しかし、年齢・経験を重ねたものが、﹁ただ書く﹂だけの姿勢で
よいのか? と、私は疑問を投げかける。
ムカムカしないのか?
もっと、上達したくないのか。
感動を呼びたくないのか。
叫びたいことが、相手に届いているのか。
その表現は、有効か?
相手に読んでもらっている、という気持ちを忘れていないか?
相手に伝えようという、努力を怠っていないか?
自分の書いた文章を三日後に読み直して修正したくなる、その気
持ちがわかる人は成長する人だと、私は勝手に思っている。三日も
経てば、成長する。三日間の経験値が、三日前と同じだと言うなら、
そいつはレベル上げを怠ったやつだ。
どんなに、﹁納得のいく作品だ!﹂と、世に出したとしても、少
し間を置けば、﹁あそこ、こうするべきだったのに!﹂とか、﹁言
い回しおかしいじゃん、直さなきゃ!﹂などと、執筆時には思って
もいなかった点に気が付いたりする。そうあるべきだ。
だから、推敲しないでドンと、作品をアップロードしてしまうと
いうのは、ノートの殴り書きそのまま、人に見せるのと同じなんじ
ゃないかとさえ思う。誰も指摘しないから、わからない、では済ま
されないと、思うのだが⋮⋮、残念なことに、社会の常識=WEB
の常識にはならないらしい。
もちろん、小説の書き方というのは、一人一人違って然るべきも
の、絶対などありえない。
しかし、ルールはある。
25
冒頭下げ、疑問符・感嘆符の後の一字空け、三点リーダ・ダッシ
ュの二マス使用、人称の統一。最低これくらいは何とかして欲しい。
そんなに難しい欲求じゃないと思うんだが⋮⋮、だめなのか。気
にならないなら、スマン、私が気にし過ぎだったんだ。
それから、私の読みたいのは、短くても長くても、﹁小説﹂であ
って、﹁あらすじ﹂や﹁シナリオ﹂﹁ト書き﹂じゃない。
残念ながら、違いがわからず、混同している人が少なくないよう
だ。
﹁小説﹂と銘打ち、公共の場で発表しているのであれば、最低限﹁
筋書きやオチに囚われない、全体を作品として読ませる術﹂を身に
付けて欲しいと思う。
起承転結さえ揃っていれば、﹁小説﹂である、なんて勘違いも甚
だしい。文章でなければ、物語でなければ伝えることの出来ないも
のがある、だからこそ書く、のではないのか? 漫画や映像作品で
は表現しきれない、内面の葛藤を、何故もっと描こうとしないのか?
自分の作品を見直してみて欲しい。
きちんと、相手に伝えようとしているのか、自分が読者になった
つもりで。
もし、自信がなくなったら、少し間を置いて、離れたところから
作品を読み直してみてはどうだろう。足りないところ、余計なとこ
ろ。よく読んで、よく考えて。
練りに練った話か、書き連ねただけか、読者は案外、的確に見抜
いている。
26
*作者の人物像
私は、作品を世に出している以上、︵アマとはいえ︶何を言われ
ても、仕方ないと思ってる。それは、以前の記事、﹁感想とレスポ
ンス﹂にも書いたとおり。だって、この広いWEB世界の中で、自
分の思うようにだけ情報を操作するなんて、今やできないのだから。
誹謗中傷されることもあるだろう。それは、自分のまいた種なの
だから、ある程度覚悟がいるということなのだ。
しかし、よく考えなければならない。
本当にそれは、誹謗中傷、名誉毀損、言葉の暴力なのか?
相手は、自分を敵対視しているかもしれないが、実ははっきりと、
アドバイスも含めていることを見逃してやしないか。
小説に対しての酷評は、企業に寄せられるクレームに似ている。
畑は違えど、同じことだろう。社会に出て働いているものなら誰し
も、﹁クレームはもみ消してはならない﹂大原則を知っているはず。
クレームと言うのは、わざわざ寄せられる点に着目しなければなら
ない、顧客からのメッセージなのだ。
誰が、全く気に入らないものにクレームを寄せるだろうか。本当
に嫌いなものなら、見向きもしないはず。わざわざ﹁クレーム﹂と
言う形で、企業側に向けられた怒りを、どう納めるのか。どうやっ
て、集客に役立てるのか。企業はそれを追及するために、﹁お客様
の声﹂を集めたり、﹁クレーム大会﹂のようなイベントまで開いた
りする。
クレームをどうやって処理できるか、という点こそ、企業のトッ
プ、顧客がそれぞれ社員に一番に求めていることなのだ。
27
私はちなみに、窓口歴5年強。
はじめこそ、あまりのクレームの恐ろしさに泣いたものだ。陰で
は客の理不尽さに文句を垂れることもあるが、今では表向き、確実
に笑顔で応対できる。
けなされ、やじられても、強く生きなければ、営業というものは
やれないのだ。
ここで、話を小説に戻す。
酷評をすべて荒らしととるべからず。本当の荒らしなのだとして
も、⋮⋮たとえば、掲示板にエロ書き込みされた、とか、出会い系
の書き込みだったとか、そういうんなら削除すべしだけれども、確
証がないなら、削除するなって話です。
では、本当に大切な意見さえ、削除してしまうのはなんでか。図
星であっても、堂々としていることができないのか。せっかくの評
価・感想を削除するということは、同時に良心も削除していってい
ることに気づかないのか。
荒らしでないはずの書き込みが、荒らしの発端となる可能性だっ
てある。
レスポンスの誤りを犯してしまう場合⋮⋮、例えば、正当な意見
であったにもかかわらず、少し癪に障るからといって、逆切れのレ
スを返してしまう。又は、上記のようにせっかくの意見を、削除し
てしまう場合。
善意、真意からの感想書き込みを、削除された読者はどう思うだ
ろうか。多くの場合、不具合が起きたなどと思い、もう一度、同じ
書き込みをするだろう。しかし、再び削除される。それによって、
削除は意図的だと確信し、今度は攻撃に出る。
逆切れしてしまった場合は更に酷いだろう。そのサイト、掲示板
は、場合によって閉鎖に追い込まれる。せっかく作品を公開してい
28
る場を、失ってしまうことになりかねない。
家に土足で踏み込むようなコメントをする、荒らしが来たと思っ
ても、作者は自分の家=サイト・作品に対して、守りに出なければ
ならないのは当然だ。しかし、守り方というものがある。守り方を
間違ってしまうと、更に矢面に立たされてしまう。
企業でよく、クレームについての対応策などがあるが、参考にす
ると良いだろう。
クレームがついたら、まず、謝る。そして、相手の言い分を聞く。
相手の思っていることを全て確認したうえで、相槌を打ちながら、
論点を整理し、最後に、こちらの対応策をお話しする。
大変面倒であるし、気も使う。しかし、自分のサイト・作品を守
るためであれば、作者もきちんと誠意を持って対応すべきだ。
また、﹁相手の書き込みの文字数の多さ=作品に対する愛着・愛
情﹂である可能性のほうが非常に高い! 未熟でも、全力で書き尽
くしたものなら、どんな意見だって受け入れられるはず! それが
出来ずして、真の上達など、ありえないのだ!!
29
*マンエンスル
じ︲えん︻自演︼
ジエン
[名]スル自作の映画や劇に、自分が出演すること。﹁原作者が︱
する﹂﹁自作︱﹂
検索辞書:大辞泉
−−−−−−−−−−−−−−−
小説サイトや創作サイトなんかのランキングで、﹁自演﹂行為を
する、というときは、﹁自分に自分で票を入れる、または、自分の
掲示板・評価欄に、他者を装い、自分に都合のよい書き込みをする﹂
という意味に使われます。自分の地位を確立する、ランキング上位
になり、多くの読者・閲覧者を得ることができるわけです。
携帯サイトなんかでは、保守のため、自分でクリックしないとラ
ンキングから消えてしまうっていう、恐ろしい面もありますので、
一概に、自クリックが全部駄目、なんて言いませんが、行き過ぎな
のは、やっぱり、いただけません。PCや携帯を使い分けたり、友
人に頼んだりして、複数端末からクリックを続ける⋮⋮、そうして、
上位に食い込む。そういうのって、アリだと思いますか。
しかも、そうした自演クリックが、ランキングサイトからの集客
に繋がっている現実。クリック数の多さを指標としている読者に対
する、裏切り行為に他ならないのではありませんか。
ランキングというのは、ひとつの目安です。
面白ければランキングは伸びます。当たり前ですよね。
だけど、ランキングを信じすぎるばかりに、点数、ポイントを稼
ぎたいばっかりに、自演行為を行う者が絶えないのです。
30
ランキング上位=面白い、良サイト⋮⋮でしょうか?
そうとは限りません。どこかで晒されているから、アクセス数が
伸びているだけかもしれないですよ。良サイトは、ランキング上位
以外にも眠っています。気が付かないだけなんです。
昨今では、自演によるカウント数の増加を防ぐため、IPチェッ
クをしているランキングサイトもあるようです。場合によっては、
警告・削除の対象になります。要するに、自演かどうかということ
は、他者の目からすぐにばれてしまうのです。
携帯サイトを回っているときに、ランキングについて書かれてい
るサイトがありました。﹁ランキングは、絶対じゃない。気にする
ものではない﹂旨、書いてありました。
私とて、最初は気にしました⋮⋮。恥ずかしながら。だって、せ
っかく書いてるんだから、目立たないと! ⋮⋮とか。携帯用検索
サイトには殆ど登録してませんが、PCサイトのほうは、ランキン
グ・検索サイトに登録しまくりですよ、今でも。だって、少しでも、
自分の話に興味持ってくれる人がいるかもって、期待しちゃうんだ
もの、仕方ない。
だからといって、ランキングを気にしてるのかって言われると、
今は、そんなことないです。ランキングは二の次、三の次。まずは、
少しでもいいから、読者を増やしたい。それだけです。
いそ
純粋に創作に勤しむなら、ランキングなどどうでもいいはずなん
ですよね、ホントは。作品に共感して欲しくて創作活動してる、ラ
ンキング上位はご褒美みたいなもんじゃないんでしょうか。
31
自演してまで、ランキングを上げたい、評価を上げたい人。残念
ながら、最近、目撃してしまい、とても残念に思いました。不正行
為を働いてまで、目立ちたいのか。
私はさながら、胡散臭いダイエット広告、金運上昇グッズ広告の
捏造証言欄のようだとさえ、思いました。
﹁これで、私は十キロ痩せました! ありがとう、○○!!﹂
﹁この掛け軸が、我が家に幸運を呼び込んだんです! おかげで、
宝くじ一等当選! 夢の億万長者です!﹂
⋮⋮あれと、いっしょや。
同じ物書きだけど、多分、考えていること、作品に対する思いが
私と違うんだと思うことにしました。
きっと、そうなんですよ。
だって、みんなが自分とおんなじ考えだったら、気持ち悪いもん。
自演なんて無駄なことをしないで、自信があるなら、宣伝に、力
を入れるべきでしょうね。適切な宣伝文句、宣伝方法で、読者の心
を鷲づかみに出来たなら、いちいち自演なんかしなくても、どんど
んクリックしてもらえるようになるのではないでしょうか。
32
☆STOP! 見切り発車とオチ至上主義
去年の夏だったか、秋だったか、恋愛ものを書いてみよう! な
どと思い立って、とりあえず適当に設定作って、行き当たりばった
りで書いたことがありました。結果、勿論、途中放棄。⋮⋮久々に
やらかしてしまいました。
やっぱり、きちんと練ってからじゃないと、書き始めてもだめだ
な、と、改めて思ったわけで。
昔から、見切り発車が大好きでした。アイディアさえ浮かべば、
あとはどーんと勢いで書けるさ、と思ってたんでしょうねー。結果、
家中に未完のアイディアがゴロゴロ⋮⋮。かわいそうなので、今書
いている長編ファンタジーでネタを消費しようと思ってるんですが、
いつになることやら。
プロット練らないで、雰囲気だけで書き進められると思ってたん
ですよね、昔は。本当のことを言うと。
第一、面倒じゃないですか!
私ってば、説明書を読むのも、ものすごく苦手なんです。どうし
てこんな面倒くさいものを、好んで読む人がいるかな、と、思って
しまうくらい。年の離れた弟が、ゲームするのに、その説明書を一
から十まで読んでからプレイ始めるのを見ても、﹁奇特な奴だ﹂と
思っていましたし。電化製品や組み立て家具だって、いきなり部品
を広げて組み立て、わからなくなってから説明書や設計図を確認し
ていたほどですよ。
自分の作品の方向性や辻褄が矛盾してきてから、ようやくそこま
での道のりを振り返って、物語を組み立てなおしていたんです! そして、そっちの方が、本当はリスクが大きくて面倒くさいという
ことに気付いたのは、最近のことなんですよ! 恐ろしいですね⋮
33
⋮。
短編を書くようになったら、流石にプロットらしきメモを頻繁に
書くようになりましたね。裏設定、元々好きなので、﹁誰も聞いて
ねぇよ﹂ってことまで、やたらと書いてあるメモまであるし。
忘れたくない、大事なことは、一覧にしたり、年表を作っておい
たり。地図、なんていうものも作っています︵ファンタジーものの
世界地図や、現代もののときの住宅地図など︶。人物の関係図を矢
印たくさん伸ばして書いてみたり、家族がいるなら、家計図や年齢
表を作ったり。
そういうものを、ちょっと書いてみるだけでも随分違うなぁと、
やっとわかってきました。
途中、行き先を見失わないようにと思って書いてるけど、そうじ
ゃなくても、計画性は何事においても必要なんですよね。
最近目にしたWEB小説が、︵短編だったんですけど︶ヤマなし、
オチなし、意味なし⋮⋮で、︵BLにあらず︶めちゃ萎えました。
なんか、よ、読まなきゃ良かった⋮⋮、みたいな。
なるべく感想を残す主義ですが、どうも、そこには足跡残せませ
んでした。勇気ない、自分。無理。きっと、何かしら書いていたら、
その人傷つけること書きそうだったから、自粛。
自分は、ああならないぞ、と、反面教師にすることにしました。
多分、その方の中では作品として仕上がってたんだろうけど、起
承転結が全然なくて、﹁あれ、あれれれれ?????﹂と、達成感
のない終わり方になっていて。私が思うに、あの方は、行き当たり
ばったりで書いて、失敗したんだろうな、と。
短編でも長編でも、プロットがしっかりしてると、面白い。伏線
の張り方にも影響が出るしね。
読んでいて、﹁お!﹂と思う作品は、ちゃんと山場があります。
34
最初から最後まで、同じペースで、なんて、おかしいじゃないです
か。どこかで起伏がないと、はっきり言って、飽きるし。
逆に、起承転結にこだわり過ぎて、なのか、オチで全部覆される
のもいやだなぁ。
転のとこまでは、感動モノの、すばらしい流れだった︵様な気が
する︶小説があって、最後、どうすんだべと思って読み進めてたら、
無理やりハッピーエンド。⋮⋮あれ。今までの、エピソード、いら
んのとちゃうか。とか、本気で思ってしまうような展開。
あかん、あかん、あかん! 見切り発車もあかんけど、オチ至上
主義もあかん!
大体、小説とか、漫画とかって、エンディングに向かって話を進
めていくんじゃないの?
途中経過が書きたかったの?
なんか、納得できん!!
2時間サスペンスに代表される、推理ものなんか見てるとわかる
んですが、ちょっとした出来事が、全部、犯人の動機に繋がってま
すよね。見逃したら、悔しくなるくらい、あちこちに散りばめられ
てあって。あれって、きちんとエンディングまでの道筋︵犯人は誰
か、どういうトリックだったのか︶がはっきりあって、それを視聴
者・読者に見つけて欲しくて、ちらちらとヒント出してるわけで。
別に、推理ものに限ったことじゃなくて、どの話にだって言える
ことですよね。
オープニングとエンディングの間に、物語があるわけだから、途
中、寄り道がたくさんあっても、きちんと結果として納得できる話
にしないと。下手したら、
﹁ワイの時間を返せー!! フンガー!!﹂とか、思われかねない
⋮⋮。
35
どんでん返しも、伏線を張って、その結果、成功するものだし。
伏線がハンパなのに、いきなりどんでん返しされても困る。っつ
ーか、伏線、どこ? って作品も、たまにあるんですけど。
かと言って、伏線を張りすぎて、回収不能になるのも、失敗、連
載中断の要因になってしまうので、要注意。要するに、プロットが
しっかりしていて、初めて生きる、伏線、ですよ。
なんだかんだ言って、結局は、そこに行き着くんです。
というわけでですね。
話を考えるときは、きちんと筋道立てて、ですよ。
自分にだけわかっても、しゃあない。
誰にでもわかるように、起伏つけるなら、思い切りつける!
どんでん返しを狙うなら、伏線をあちこちに張る!
この、2点。たのんます。
36
☆テーマを盛り込む
何のために小説を書こうとするのか、どういうときに、書きたい
と思うのか。
きっちり、自分の中で整理しないと、どんどん話がそれてきたり
しませんか?
短編小説なんかだと、ここって決めたらそこだけ書けばいいから
いいのかも知れない。││だなんて、高くくってると、酷い目にあ
います。短い中で、どれだけの要素を盛り込み、どれだけ相手︵読
者︶を納得させるかっていうことになると、案外難しいものなんで
すよ。
一応、短編も長編も書いてきたので、自分の経験ベースに書きま
すね。
私は、書きたい場面や台詞があって、そこからストーリーを展開
させていく手法を取っているのですが、そうじゃなくて、書きたい
シチュエーションだとか、世界観が先行している場合、特に、主張
不足に陥りやすい気がします。元々、雰囲気で物語を構築している
ので、極端に言うと、﹁だらだらしてしまう﹂恐れがあるんです。
創作活動って、結構、何かに共感して、いきなり﹁書きたい!﹂
﹁作りたい!﹂っていう気持ちが湧き上がって、勢いでやっちゃう
ことがあるじゃないですか。私の経験上、それはかなり高い確率で
失敗します。第一、なにがやりたいのかはっきりと決まっていない
のに、どこを目指して進めばいいのかわからない。目的もなく突き
進んだら、誰だって遭難しますよ。終着地があるからこそ、やり続
けられるんじゃないんでしょうか。
37
初心者は往々にしてそういう状況に陥りやすいので要注意。せっ
かく書くんだったら、まず、メモをとるなりして、論点を整理する
ところから始めたほうがいいかもしれません。キャラクターや世界
観、シナリオと同時に、これから書き始める物語の行き着く先、﹁
主張﹂や、主人公、または重要人物に必ず喋らせたい﹁重要な台詞﹂
を書き留めておくだけでも、随分違うと思うんですよ。
まずは、訴えたいこと、テーマを決め、それからシナリオを練っ
ていく、または、シナリオを練るなかで、テーマを色濃くしていく。
文章として書いてしまえば、﹁あたりまえじゃないか﹂といわれて
しまうかもしれませんが、そういうのが一番大切なんですよね。
漫画だって小説だって、読んでいて面白いと思う作品には、何か
しらテーマが眠ってる。直接的じゃなくても、作品全体を通して、
作者のメッセージが盛り込まれている。
例えば、普段見ている漫画や小説、ドラマや映画のなかにどんな
主張が盛り込まれているか、普段から意識して見てみるのはどうで
しょう。30分の子供向けアニメ番組でさえ、起承転結の中に、主
張がある。それがどんな些細なことであったとしても、主張、テー
マのない作品と、ある作品では、受け取る側の印象は全くと言って
いいほど、変わってくるのです。
惰性で書いている物語は、読んでいる方も苛々します。
﹁結局、何が言いたいわけ?﹂
だなんて、言われてみて下さい。悔しいですよ。
読者側も、時間をかけて読むからには、作品に何かしらの﹁感動﹂
を求めているはずです。せっかくの貴重な時間、文字の羅列を与え
られただけで、何も感じなかったとあっては、救われませんよね。
また、主張、テーマには必ずしも結論をつける必要はないと思い
38
ます。
確実に﹁こうしなければならない﹂だなんてことは、世の中には
ありません。﹁考えるきっかけ﹂としての作品だって、たくさんあ
ります。
恋愛ものなどでは、﹁人を愛すること﹂について延々と綴られて
いるわけですが、﹁恋愛の形﹂は、人によって様々です。シチュエ
ーションによっては、﹁愛すること﹂が禁じられていたり、﹁愛す
ること﹂によって、誰かが傷つくことだってある。主人公ないし登
場人物の選択肢は物語の通りだが、他にも方法があったのじゃない
か、なんて、よく、恋愛ものを見た後には思いますね。それでいい
んじゃないでしょうか。
結論はあえて出さない、あとは、読者が続きを考えてください、
と言う方法も、ありです。
確実な答えのない問題に、無理に答えを用意するのは、かえって、
不信を招きます。押し付けがましい、と、思われかねませんからね。
私としては、読了後、心に残らない話は嫌だなぁ。せめて、﹁ア
レはなんだったのか﹂﹁作者のメッセージが強烈に伝わってくる﹂
話を書きたいなぁと思います。
別に、特別に知識のある人間ではないですし、発想もどちらかと
いうと、貧困かも知れないですが、﹁私の書く話には、主張がある
!﹂と胸を張って書けるようになっていきたいものです。
39
#﹁駄作﹂?﹁駄文﹂?││卑下について考える
私も、もしかしたら過去に書いていたかもしれない。
﹁下手ですが﹂﹁駄文ですけど﹂﹁お目汚し﹂等々。
⋮⋮ネットマナーとしても問題視される、﹁自分の作品に対する、
過剰の卑下﹂。
﹁下手﹂というのと、﹁初心者﹂というのとでは、印象が違う。
わざわざ、﹁下手﹂なものを、好き好んで見る人がいるのだろう
か。
いるとすれば、同じ立場で創作をしている人だろう。
とりあえず、実力云々じゃなくて、やってみたいからやっている、
だけど、﹁下手﹂。
その行為自体、私は責めるべきことではないと思うし、誰もが通
る道なのだとも思う。しかし、へりくだりすぎからか、﹁下手﹂﹁
駄文﹂﹁駄作﹂という言葉が、横行するのには、少し、危惧を覚え
る。
友人のサイトのお絵かき掲示板の注意書きに以前、﹁自分の絵を
﹃下手﹄だとか、﹃お目汚し﹄だなんて、書かないでね﹂とあった
のを見た。﹁せっかく描いたのだから﹂と、添えてあった。
掲示板の場合は、人様のお宅にお邪魔するわけだから、わざわざ
﹁下手﹂なものを投下しないで欲しいという感情もある。お絵かき
掲示板への書き込みは、そこの管理人さんに贈る、プレゼントのよ
うなもの。誰が、﹁下手﹂と本人が自覚しているイラストを欲しが
るだろうか。この場合、﹁がんばって描いてみました﹂などの、前
向きの一言が適当ではないのか⋮⋮。
私の中の、﹁下手﹂という言葉との葛藤は、そこのサイト訪問か
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ら始まった。
日本人というのは、相手より自分を下に、下に、置くことを好む
ようだ。尊敬語、謙譲語などを始め、各種礼儀作法、挨拶、日常生
活、至るところで﹁相手との距離﹂を測っている。﹁空気を読む﹂
ことの大切さ、﹁敬う﹂ことの重要さを、幼いときから叩き込まれ
る。
しかし、本当に、相手のことを考え、正当な使い方をしているか
どうか、ということに及ぶと、話は変わってくる。知識として、相
手を敬うことを覚えていても、使い方を誤っては、何の意味も成さ
ない。
真の礼儀とは、﹁相手の気持ちを察し、敬い、気を害さないよう
に心がける﹂ことではないのか⋮⋮? そう考えると、創作サイト
で、自作を﹁下手﹂であると断言している管理人の行為は、礼儀作
法に反しているといえないだろうか。
実力差、感性の差、センスの差、どうしても現段階では超えられ
ない壁があったとする。しかし、精一杯気持ちを込めて書いたもの
であれば、︵瞬間的にかもしれないが︶満足は出来るはずだ。精一
杯が積み重なれば、スキルアップしていくことも出来るだろう。い
つか、目標としているところに、たどり着くことが出来るかもしれ
ない。││しかし、﹁下手﹂という言葉で、自作を装飾してしまっ
たら⋮⋮、その道のりは、少し、遠くなるような気がしてならない。
人には各々感性があり、個性がある。
うちには、娘が二人いるが、二人とも、それぞれの感覚を持って
いる。
6歳の上の娘は、私の真似をして、漫画絵を描こうと必死になっ
ている。可愛い女の子が、どうすれば描けるのか、試行錯誤してい
41
るようだ。友達と見せ合い、影響を受けてきたり、なにやらキャラ
クターらしきものを考え、ニヤニヤしているときがある。
下の、4歳の娘はというと、これがまた、恐ろしく独創的。初め
て人間の顔のような絵を描いてくれたとき、あまりの個性にドキッ
とした。なんと、歪な丸の中に、ぎょろぎょろとこれまた震えた線
で、大きく目玉を描き、ぎっと結ばれた口元の凛々しい⋮⋮ドクロ
のような絵だったのだ。
同じ親から生まれ、同じように育てたつもりでも、全く違うもの
を持っている。
人と違うものを、必ず持っているはずなのに、その個性を、まだ
発揮できていないだけなのに、﹁下手﹂などという言葉で、簡単に
済ませては勿体無いと思う。
自分の作品に対する自信がないのは、始めのうちだけ。回数を重
ねれば、だんだん上手になってくる。
昔のように、公に発表するには覚悟のいった時代とは違う。今は、
インターネットを使って、自由に簡単に、作品を発表できるように
なってしまった。経験のあるなしにかかわらず、ネット環境の有無
が、発表の機会を左右している。
自信のないまま、﹁下手﹂なものをアップしてしまうのは、往々
にしてありえること。それでも、自分の作品に対して、何かしら思
い入れがあるから形になった、という、根底の部分を忘れてやしな
いか。
上手い、下手、なんて関係ない。せっかく人に見てもらうためだ
もの、せめて、﹁がんばったので、見てもらえませんか﹂﹁まだま
だ上手とは言えないかもしれませんが、読んでもらえませんか﹂な
どの、ポジティブな言い回しで、自作を勧めてみてはいかがだろう
か。
作者が自作を貶めては、せっかくの読者ががっかりしてしまう。
42
訪問してくれた人にとっても、書いた側にとっても、極端な卑下は、
マイナスにしかならないのだ。
43
◎批評する、感想を送る
批評を目的とした、批評サイト。
レビューを目的とした、レビューサイト。
色々ありますね。
個人同士で掲示板に書き込みしあうのとは違って、専門にやって
やろうという強い意志のある人にお願いして批評、レビューしてい
ただくので、作者側にしたら、緊張はするけれど、同じくらい期待
もしちゃうわけです。
ここで、批評とレビューについて。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−
批評⋮⋮[名]スル物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分
の評価を述べること。﹁論文を︱する﹂﹁印象︱﹂
[用法]批評・批判︱︱﹁映画の批評︵批判︶をする﹂のように、
事物の価値を判断し論じることでは、両語とも用いられる。◇﹁批
評﹂は良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。
﹁習作を友人に批評してもらう﹂﹁文芸批評﹂﹁批評眼﹂◇﹁批判﹂
は本来、検討してよしあしを判定することで﹁識者の批判を仰ぎた
い﹂のように用いるが、現在では、よくないと思う点をとりあげて
否定的な評価をする際に使われることが多い。﹁徹底的に批判し、
追及する﹂﹁批判の的となる﹂﹁自己批判﹂
レビュー︵書評︶⋮⋮書物について、その内容を紹介・批評した文
章。
44
[大辞泉より]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−
一般的に、﹁批評﹂というのは、上記にありますように、良い点
も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じることです。また、﹁
書評﹂は、紹介を目的とし、その上で、良い点悪い点を指摘する、
と捉えて間違いないでしょう。
完璧な作品というのは、この世にはありません。人間の作ったも
のなのですから、どこかに欠点があるのは当たり前。それを指摘し
た上で、しかし、ここが良かったと良い点を上げる。それが、批評
なのだと思います。
批評・書評は、批評者の客観的視点から、作品を評価します。
作者が意図したことと違う点を、指摘されてしまうことも十分考
えられるのです。
私の尊敬する感想・レビューサイトさんは、大変残念ながら、昨
年一杯でサイトを閉鎖されたのですが、作者のやる気を盛り上げる
レビューをしてくださいました。もちろん、欠点を指摘した上で、
です。
かなりの作品をレビューなさっていましたが、どのレビューも、
作品に対する尊敬、愛情が感じられました。それゆえ、レビュー願
いが絶えず、その方は大変なご苦労をなさっていたようです。
全ての批評・レビューサイトが、そのようであれば問題はありま
せん。そういったものに特化したサイトだけではなく、読者が掲示
板などに書き込む感想・作品に対して寄せる批評についても、同じ
45
ことが言えます。皆が皆、作者を気遣って感想・批評を述べてくれ
るのであれば、よいのですが⋮⋮。
ネット上に多数存在する﹁批評サイト﹂。殊に、携帯サイトの﹁
批評サイト﹂では、厳しい批評が目立ちます。また、投稿サイトな
どの感想・批評欄にも、たくさんの厳しい批評が寄せられています。
切磋琢磨するための批評なのか、相手︵該当作品の作者︶を叩く
ための批評なのか。後者であれば、批評ではなく、﹁批判﹂という
ことになります。上記辞書によれば、﹁批判﹂は、否定的表現の場
合に利用されることが多いということですから、本来のサイトの目
的、﹁批評﹂とは、全く異なるものになってしまいます。
相手に意見を言うとき、どのような気持ちで伝えるか、どのよう
な立場から話すのか。批評する側の意思が、全て文章に表れてきま
す。
読者として批評する、一人の物書きとして批評する、││批評家
として批評する。
自分の立ち位置やサイトの目的を明確にせぬまま批判に走ってし
まうと、場合によっては、相手を酷く傷付けます。
短所や欠点を指摘した場合、必ず後で、長所をしっかり褒めるこ
とを忘れないように、と、聞いたことがあります。少し褒められて
から、たくさん指摘されるのって、ちょっと複雑。とりあえず、気
になったところは聞きたい、仕方ない、聞く、で、最後に、うんと
褒めて、今まで指摘されてきたことを上手く生かそうと思わせる。
子供の叱り方に似てますね。﹁○○はよくない、でも、××は最
高にいい、もっと伸ばせ﹂又は、﹁こうすれば、もっと良くなる﹂
などの、具体例。
ただ、悪かった、面白くなかった、だけでは、作品は向上しない
46
のです。批評という行為を成す場合、少なくとも、良い点悪い点同
じように指摘する必要があるわけですから、悪い点がよい方へ移行
するためのアドバイスは少なからず必要ではないかと思います。
若い人の作品に多いのですが、論点がうやむやになってしまって
いる場合。批評する側、感想を送る側も、気を使いますね。﹁ここ
を強調するとよかったです﹂など、遠まわしに指摘することも考え
なければなりません。ただ、褒めちぎるだけでもよいのでは、と、
言う人も多いでしょうが、本当にもっと面白い話を読みたいなら、
私は少しでも、本音を伝えることが必要なのではないかと考えてい
ます。
これは、レビューサイトだけに言えることではありません。
個人として感想・レビューを送るときも、やはり同じこと。
このとき、一体どのように書き込むことがベターなのか、少し、
考えてみましょう。
感想・レビュー欄は、その作品に初めて触れる人にとっても大切
なもの。
読んでみて面白い、ここがよかった、悪かった、など、具体的に
書いていれば、読む方もそれを意識します。過去に読んだ人がどの
ような感想を持ったのか、読者は知りたがります。ですから、書き
込む人も、きちんと自分の思いが伝わるように書く必要があるので
す。
ただ単に、﹁面白かった﹂﹁よかった﹂だけではなくて、﹁ここ
のシーンの○○という台詞に感激した﹂﹁あそこで××があのよう
な行動に出るとは思わなかった﹂など、ネタバレになるかならない
かスレスレのところで、後々、その作品に共感する読者、すなわち
同志を増やしていくようなレビューが望ましいでしょう。
47
指摘する場合も、客観論として述べ、決して﹁叩き﹂﹁荒らし﹂
的行為だけを残さぬように。上に書いたように、具体的アドバイス
を添えましょう。足跡として、感想・レビューした人物の足跡が残
る︵その人物のサイト・ページへリンクされる︶場合は特に、自分
の発言に責任を持たなければなりません。どんな人物がそのような
発言をするのか、別の読者が辿っていくかもしれません。感想・レ
ビューを送られた作品の作者が、訪れるかもしれません。
責任のない発言と足跡が、全く思いもしなかった展開を呼ぶこと
だってありえます。
つまり、今度は厳しい発言をした、自分に、同じような目が向け
られるということです。
感動のあまり、興奮だけを綴った文章をついつい、私も送ってし
まいます。思わず、ファンになってしまう、そんなときですね。勿
論、誰にだって、そういうことはありますから、そこは正直に!
ただ、だからといって、感想が一言だけなのは⋮⋮ちょっと、寂
しいかな。
何度も書きますが、﹁具体的に﹂﹁何に﹂﹁どのように﹂感動し
たのか、作者は、他の読者は、知りたいのです! お願いですから、
出来ればもっと詳しく、お書きくださいませ!
詳細な感想は、作者のモチベーションに関わってきます。
更新をもっと多めにして欲しい、もっと作品を盛り上げて欲しい、
など、読者側の欲求だけでは、更新頻度の向上には繋がりません。
それどころか、時間を割いて必死に連載している作者の方に向けら
れるそのような言葉は、脅迫に似た感覚をもたらしてしまいます。
催促をしたい気持ちもわかりますが、出来れば、ぐっと抑えて、い
たわりの言葉に変換してみては。
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﹁続き、待っています。くれぐれもお体をご自愛ください﹂﹁無理
せず、頑張ってくださいね﹂など、ほんの些細な挨拶でさえ、作者
の心は和むのです。
批評にしても、レビューにしても、作者への﹁贈り物﹂であるこ
とに違いはありません。
ただ、伝えればいい、だなんて、思ってはいませんか?
だとしたら、少し、考え直してみる必要がありそうです。
以前、﹁感想とレスポンス﹂﹁作者の人物像﹂でも語りましたが、
せっかく貰った贈り物へ対する、作者の態度。贈り物へ対する、お
返しは、きちんとしていますか。
日常生活では、必ず﹁お返し﹂をしますよね。﹁お礼﹂を言いま
すよね。貰いっぱなしでは失礼です。せっかく寄せられた﹁感想﹂
という読者の心を、ないがしろにするのは、いただけないと思いま
す。
自分にとって、厳しい意見だからと削除してしまう。点数にマイ
ナスに働くから、削除してしまう。││このような行動は、一見、
誰でもしてしまいそうな、些細なことだと思われがちですが、そん
なことはありません。
皆が皆、同じ感想を持つなんてことは、あり得ないのです。感性
は千差万別、当たり前のことなんですから。
それから、最後に、私が一番気にしていることを。
他者の感想・レビューが厳しい、又は甘すぎる、自分と違う意見
だからといって、﹁おかしい﹂﹁ありえない﹂と、堂々と感想欄や
49
掲示板に書き連ねる人がいます。
まず、それは﹁感想﹂でもなければ﹁レビュー﹂でもありません。
趣旨に反しますから、そのようなことは書くべきではないと考え
ます。
例えば、ケータイ小説上位の恋愛作品︵書籍化、映画化された作
品など︶のレビュー欄。感動した、面白かったという一言感想と、
具体的にこの辺が面白くなかった、期待していたほどではなかった
という厳しい意見が対立しています。
どちらも、率直な感想なわけですから、相容れなくても構わない
のでは?
ところが、﹁なぜ面白くないなんて言うのか﹂﹁つまらない、と
いう言葉は荒らしだ﹂という書き込みや、﹁こんな作品に面白いだ
なんて言うのは、おかしい﹂という書き込みが、あちこちに見受け
られるのです!
せっかく感想・レビュー欄を参考にその作品に触れようとしてい
る人たちにとって、そのような書き込みは大変不愉快です。それに、
よしあしに関わらず、その作品に触れた人たちの心を踏みにじる行
為ではありませんか。
誰が、どのような感想を持ったって、それはその人の感性なので
すから、いいじゃありませんか!
作品に対して、様々な意見が寄せられることを、何故嫌うのです
か。
一方の言動を削除する動きは、﹁情報操作﹂になってしまいます。
読者が﹁不当﹂だと思われる、過度の﹁削除行為﹂は﹁情報操作﹂
の疑念を抱かせてしまうので、推し進めることは出来ません。
﹁荒らし﹂は当然、削除するべきです。私もそう思います。
しかし、﹁感想﹂﹁レビュー﹂に値しない、﹁他者の感想に向け
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る敵意﹂は﹁荒らし﹂ではないのでしょうか?
さあ、果たして自分が書いた﹁感想﹂﹁レビュー﹂はいかがなも
のか。
改めて考え直してみては?
51
*目立つためには何をやっても許されるのか
自分が目立ちたいという欲望は、誰にでもあります。認められた
い、知られたい。創作活動を行っているものであれば、誰だってそ
んな気持ちを秘めているはずです。
しかし、そのエネルギーを負に向かわせることは、あってはなら
ないと思います。
自分が目立つためなら、相手を蹴落としてしまえ。││つまり、
﹁荒らし﹂です。
そのような心理状態にはならないようにと気を付けている、一般
人には無縁の話だ、などと思わぬよう。
いつ、白羽の矢が立つかはわかりませんし、また、自分自身も荒
らし行為をしてしまうことだって、起こりうることを、忘れてはな
りません。
ランキングなどで、上位にいればいるほど、プレッシャーと戦う
ことになります。ちなみに、私は、プレッシャーとは無縁です! と、堂々と言い切れるくらいの知名度の低さなので、このような記
事が書けるのですが。
マラソンでも、常にトップを走る人には、かなりのプレッシャー
がかかりますよね。相手との距離を測りながら、それでも、自分の
ペースを崩さずに、孤独に走る選手には、頭の下がる思いです。ス
ポーツでは特に、このプレッシャーというやつは、随所に潜んで、
選手を追い込みます。打ち勝つことの出来る者のみが、真の王者に
なれる。当たり前のことです。相手がどうのこうの、そんなのは言
い訳に過ぎません。結局は、自分との戦いなのですから。
ひが
ところが、たまに、とんでもない輩が現れます。僻みから、相手
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の足を引っ張ろうとするやつです。
自分の地位を確保するためなら、相手にどんな汚い手で勝っても
構わない。陰で何を言われようが、全くもって気にしない。だって、
自分がやっていることは、自分にとっては必要なことで、正当なこ
とだと信じて疑わない。確信犯です。
このような信念を持ってしまった場合、単純に﹁やめましょう﹂
と制するのは不可能に近いでしょう。根底にある﹁考え方﹂は、そ
の人の成り立ちに深く関係していますから、余程、話術に自信のあ
るものか、心理学などを深く学び、相手の思考回路を着実に理解で
きるかでないと、難しいと思われます。
寄せられた反論は、自身への否定意見として頭に入ってしまいま
す。どんなアドバイスも、すぐには薬になりません。したがって、
反対意見も、賛成意見も、かえって火に油を注ぐ原因にしかならな
いでしょう。
こういうときは、﹁右から左に受け流す﹂ムーディー勝山で行く
のがベスト!
攻撃されたからと、すぐに削除してしまうと、危ないです。紳士
的態度で、さらりと交わすのです。
例え、作品に人気があっても、そのような思考の人間の作った作
品は、独りよがりだと思われかねません。人に読ませる作品を作る
ということは、第一に、読者のことを考えて文章を練るということ。
すなわち、人の心の痛みがわからない者には、面白い話は書けない
ということになります。
前記事、﹁作者の人物像﹂にも書いたとおり、読者は意外にも作
者の人柄に注目しています。
面白い話を書いている人がいる、さて、どんなやつか。プロフィ
ールは、案外、読まれているものです。
例え表向き、善人面をいていても、作品にその人の本心が現れて
53
はびこ
うつつ
きます。相手の評価の低下などに現を抜かしていれば、いずれ、邪
心が蔓延って、どんどん自身の作の質が低下してしまうでしょう。
まあ、要するに、人のことは構わず、自分の作品に力を入れまし
ょうってことです。
僻んでる時間がもったいないと思わないのかなぁ。
54
*数字の魔力
WEBで掲載しているからには、辛口意見も甘んじて受けなけれ
ばならない、ということは、以前の記事︵感想とレスポンス︶でも
書きました。感想評価に対する、読者側の視点については、﹁案外、
作者の人物像というものは見られています﹂ということを、﹁作者
の人物像﹂に書いたとおりです。
全体の纏めのようになるかもしれませんし、重複するかもしれま
せんが、納得するまで、この点については語ろうと思います。
小説は、イラストや漫画と違って、読むのに時間がかかりますね。
最初から映像で飛び込んでくる、というのは、かなりの利点です。
インパクトがあります。ところが小説は、残念ながら、文章を読み、
それを読者側が脳裏で映像化させる、という、二度手間を強いてい
るわけです。したがって、文章を綴る作者側の力量が問われ、また、
読者も同様に、読解力が求められます。漫画ばかり読みなれている
若い世代などにとっては、とてもハードルが高いのが現状だと思い
ます。
そのハードルを、中高生レベルまで低くしたのが、ケータイ小説
ではないかな、と、私は思っています。詩的かつ、簡略的言葉を羅
列し、イメージ先行で、相手に訴えかけてくるのです。ストレート
に、かつ、ドラマチックに。
⋮⋮そうして、若年層に少しずつ浸透する、﹁小説を読む﹂﹁小
説を書く﹂という行為。
PCで小説を読む、というのとは少し違う進化を辿ったのですね。
WEB小説︵ケータイ小説を含む︶に関わる作者・読者は二極化
55
しているのではないでしょうか。
単純に楽しみたい、読んでみたい、書いてみたいという、初心者
と、どうせ書くならばきちんとした文章作法・形式で、書籍化でき
るような作品にしていきたいというプロ志望者。両者の軋轢が、垣
間見えるのが、掲示板・評価欄というところです。
前者、初心者の書き込みは、とても気さくで、更に甘々です。1
0段階評価で、即10を叩き出してくれるくらい寛大です。なんて
ったって、ハードルが低いのですから、﹁作品﹂として成り立って
いる、少しでも感銘を受けたと思えば、満点評価をドンとくれちゃ
うわけです。
後者、プロ志望、玄人志向者ですが、かなり読み慣れ・書き慣れ
しているため、自分基準から見て、冷静な判断を下します。結果、
初心者が﹁荒らし﹂と勘違いしてしまうような酷評が寄せられてし
まう場合があるのです。
このような構図をわかっていても、いざ、二者が同席する掲示板
や批評欄を目撃すると、どちらの立場にたっているかによって、大
分見方が変わってきます。
甘い評価が悪いということではありません。かといって、厳しい
評価が悪いということでもありません。
様々な意見を持つ人間がこの世にいるのだということを、わかっ
ていて、その感想・評価をみているのか、ということなのだろうと
思います。
どちらにしても、感想なり評価なりいただくことは、作者として
大変名誉なことです。私なんぞ、過疎ジャンルですから、少しでも
﹁面白い﹂と言われると図に乗ります。厳しい感想でも、﹁読んで
くれた人がいた﹂というだけで、大喜びしてしまいます。
56
アクセス数の多いサイト・作品だと、かなりの感想・評価が寄せ
られ、いちいち対応なんかしていられないのでしょうが⋮⋮、やは
り、何かしら反応があると言うのは、作者の更新に向けてのモチベ
ーションにも繋がってきますからね。大切なことなんです。
ですが、ここにランキングなるものが絡んでくると、なぜかしら、
話が変わってきてしまう人たちがいます。
﹁マンエンスル ジエン﹂と、﹁目立つためには何をやっても許
されるのか﹂にも書きましたが、自演行為︵アクセス数を稼ぐため
に、いくつもの端末からの自演クリック・自演コメント︶や、ライ
バルへの攻撃︵評価や評判を下げるため、匿名で誹謗中傷したり、
掲示板・評価欄に低評価コメントを入れる︶をする人たちが、出て
くるのです。どこの世界でも、ある話ですから、こういうのを題材
にひとつ、話を作れるんじゃないかと思うくらい、その手は巧妙で、
汚いです。
点数操作というのも、ありますね。自分に都合の悪い低評価だけ
削除し、高評価のものは、生かす。こうすれば、点数の﹁伸び﹂は
良いわけですから。
サイトやランキングの形式にあわせた自演行為や他者への攻撃行
為は、一向に収まりません。ワクチンとウイルスがいたちごっこを
しているように、どんどん、巧妙化し、足が付きにくいため、制す
ることも困難になってきているのです。
﹁点数至上主義﹂というのは、受験戦争で言う、偏差値主義に似
ています。人より秀でているという指標に﹁点数﹂﹁ランキング﹂
を見立てているのです。私は、現在の大学と言うもののあり方に疑
問を持っている人間ですから、はっきり言いますが、こういう思想
は無意味です。順位をつける、ということに対しては文句はありま
せんが、﹁絶対視﹂する必要などないのです。
大学に入るのが目的で、受験をする、その後の卒業∼就職、その
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後の人生に関しては無計画、と言う人がいます。人生のあり方を考
えれば、終点は﹁死﹂であり、﹁大学合格﹂ではありませんね。こ
のような考え方では、それから先、どのように生きていくかという
指標が示されず、最悪ニートになってしまう。﹁大学合格﹂は通過
点であるという認識が欠けているといえます。
同じように、﹁ランキング上位になる﹂というのは、あくまでも
通過点ではないのでしょうか。作品がランキングによってある程度
評価されたとはいえ、その先にあるものへたどり着こうとしなけれ
ば、意味がない。ランキングは、読者が面白い作品を探すための﹁
目安﹂です。読者の質がどのようなものかによって︵初心者か、玄
人か、プロ志望者か︶変動する、﹁不確定なもの﹂なのです。
ランキングを全て信用してしまうというのは、作者にとっても、
読者にとっても、良いこととは言えません。
たまたま、その時期、人気があった、というだけ。連載が頻繁だ
とか、今のニーズにあっているとか、丁度連載が終わったとか、作
者が必死に広告を出していたのを見たとか。
ランキングを否定するわけではないのですよ。だが、過信しては
いけない。
自分の作品が、読まれる、そして、誰かが感銘を受ける。それが
楽しくて、話を書くのではないのですか?
ランキング上位になるために、書いているのですか?
点数が下がると、不安ですか?
厳しい意見を、ただ荒らしと決め付けてはいませんか?
様々な目が、様々な気持ちで、あなたの作品を、あなた自身を見
ている。
﹁数字の魔力﹂に踊らされている、あなたの姿さえ、物陰から薄ら
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笑いながら見ているかもしれない。
作品に自信があるならば、﹁数字﹂などに負けず、堂々としてい
ればいいのです。そうすれば、自ずと読者も付いてきてくれると思
いますよ。
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*﹁馴れ合い﹂と﹁向上心﹂
はっきり申しまして、私はオフでの知り合いには、小説を読ませ
たくないです。なんでって⋮⋮、めちゃ恥ずかしい!!
だから、昔からの友人で全部知ってるって人以外には、創作活動
してることも、ヲタクってることも、秘密!! 自分の親にも兄弟
にも見せられません。夫はまあ、そういうつながりで知り合ったの
でさて置きとして。
学生みたく、﹁小説書いたからさ、掲示板にでも感想書いておい
てよ﹂なーんて会話は、私にはないのです。
オンはオン、オフはオフ。それでええやん! って、考えなんで
すね。
だから、とりあえず、読んでくれる人がいて、﹁客観的な﹂ご感
想などいただけたらめちゃハッピーなわけです。
第一、馴れ合いには飽きました。
昔、同人していたんですよ。恥ずかしながら。同人界では、まず、
﹁馴れ合い﹂﹁褒めあい﹂が横行してます。ホントはそうでもない
のに、﹁上手いですね﹂って、社交辞令のように言い合うんです。
色々話を聞くところによると、やはり今でもそのような風潮らしい
ですね。 イラストや漫画は、文章と違って視覚で攻めてきますし、
すぐに個性がわかる。だから、褒めるにも、﹁この辺がいいです﹂
って、ピックアップして言うんですよ。﹁眼の書き方がいい﹂﹁髪
の毛の塗りが素敵﹂とか。決して当たり障りのないところで、相手
の弱点には触れず、長所を見出していく⋮⋮、実に大変な作業です。
シビアな意見は、﹁御法度﹂らしいので、どんなに親しくなって
も、本音では喋りません。商業誌レベルに達するくらいになって、
初めて互いに欠点を探そうとするくらいですかね。︵それまでは、
思っていても、口が裂けても言いませんね︶
60
プロを目指して同人する人なんてほんの一握りで、大体は趣味の
世界だし、ヲタクっていうのは、自分と同じ感覚を持った人間と仲
良くなりたい、共感しあいたいだけだったりするんです。そういう
人たちに、本音でぶつかっても逆に失礼になってしまう。それがわ
かっているから、多分、無駄に﹁馴れ合う﹂﹁褒めあう﹂ことをす
るんですね。
私は、やはりイラスト系の仲間には、今でもあまり突っ込んで批
評しあうことはしません。自分と違うスキルを持っていると、一目
見てわかるし、仲良くなって、技術を盗みたい︵嫌な言い方ですが︶
って、思ってるからかも知れません。︵正直、仲の良いイラストサ
イトの方はプロ並の方ばかりなので︶
出来ることならば、それでも無駄な褒め方はしたくないので、本
当に﹁上手い﹂と感じた以外は、基本的に、スルー︵通りすがり︶
で済ませています。たとえ趣味が同じでも、センスが合わなかった
り、管理人の態度が横柄だったりしたら、仲良くなるのは無理です
し。
ケータイサイトに限らず、PCサイトでも、イラスト・漫画系の
サイトで、掲示板に﹁批評﹂めいた書き込みはまず、ありません。
絵を描くことは、別に特別じゃないのに、管理人=神・崇拝の対象
っていう考えが根本にあるのだろうなぁと、思うことがあります。
イラストを描いて、批評してほしいと思ったら、専用の掲示板に
行って、添削を乞うしか道がないといっても過言ではないくらいで
すからね。
そういう環境からか、心では、大した事思ってないのに、﹁上手
いね﹂﹁面白いね﹂言ってたんだよな、あの頃。褒められて伸びる
61
時期だったから良かったのかもしれないけど、そういう時期って、
はっきり言ってあんまり長くない。ある程度成長すると、褒められ
るだけじゃ駄目になってくるんですよ。
﹁ドラゴン桜﹂って、漫画ありますよね︵以前ドラマ化しましたが︶
。あれは東大を目指す話ですが、その中で、全然勉強したことのな
い生徒のやる気を引き出すために、最初は無駄に褒めるところから
始めるってのがありました。
創作初心者にとってもそれは同じ。最初は、とにかく、褒めても
らいたいんですよね。褒めて、見て、注目して!!
ところが、作中でその生徒たちが、褒められ続けていくうちに、
やる気をなくしてしまう場面が出てくる。褒められることを当然だ
と思うと、感動を覚えなくなってしまい、更に、向上心さえなくし
てしまう、というものでした。
これはやはり、創作についても言えることで、あまりに褒められ
続けると、それが当たり前になってしまい、満点評価以外は受け付
けられないような状態に陥ってしまうのです。
そのとき、難易度の低めの問題︵現レベルでの︶を与えられると、
それを乗り越えようとほんの少し努力します。そうすると、今度は
達成感を味わうことが出来るようになる。満足感を達成感に変換し
ていくことで、更に上達できる。これは、勉強や創作だけでなく、
すべてにおいて共通していることです。
最初は、褒められたい。だけど、どんどん、書きなれてくると、
自分と他人の違いってなんだろうって、考えだす。
更に上級者になれば、他人が云々じゃなくて、自分との戦いにな
ってくる。
さて、そんなときに、延々と友人知人同士の馴れ合いを続けてる
62
のは、得策なのか⋮⋮。
趣味=何でもあり?
うーん、私は違うと思います。
趣味って言うのは、とことんやることじゃないのかな。いつもと
は違う、自分だけの世界に浸って、生活を忘れ、本当の自分になれ
る場所、じゃないですか?
仕事は勿論ですが、趣味ってなると俄然やる気を出す人も多いは
ず。社会では認められない自分の隠された才能を発揮したい、表現
したいって、思うからこそ、上達するし、時間だってかける。職業
芸術家、作家の方々とは違う、﹁兼業であるからこそ出る味﹂を、
搾り出そうと努力するのではないのか?
﹁趣味なんだから、余計なことを言わないで﹂という雰囲気がひし
ひしと伝わってきて、誰かに読まれているだとか、誰かが何かを感
じてるとか、そういうことはどうでもいい、みたいな⋮⋮、言うな
れば、﹁気持ち悪い﹂という状況が、どこにもかしこにも、見え隠
れしています。
自分がその枠から少しでも抜け出そうと思わなければ、もしかし
たら上達などありえないとしたら、思い切って抜け出すべきだ、と、
私は思いますけどね。
切磋琢磨なんて、古い言葉だと思っている人が、案外多いのでは
ないでしょうか。
別にプロになるつもりなんてないんだから、馴れ合いだって何だ
って、いいじゃんって、思ってるのか。自分の作品を読んで下さい
って、知り合いにお願いして、その結果、社交辞令的高評価を入れ
てもらって、それで自分のポイント稼いで、それで満足なのか。
知ってる人なら、オフラインやメールで感想貰えばいいじゃん?
きちんと客観的批評として送るならともかく、馴れ合い評価・感
63
想を送りあうのって、恥ずかしくない?
しかも、それが、ランキング上位に食い込むのが目的だったとし
たら、どうよ?
私は、同じ創作者として恥ずかしい! 何が楽しくて、そんなこ
とをするのでしょう!
くさび
ランキングという名の数字の魔力に見せられた愚か者の末路は、
その仲間の楔が切れたときに、一気に奈落に転落するという恐ろし
いものです。
殆どのランキングは累積ではなく、期間ポイントで計算されてい
ます。ある一定の区切られた期間内に、ポイントを稼いだことで、
ランキング上位へと滑り込むことが出来る。しかし、そのためには、
﹁真の読者﹂の手助けが必要となる。真の読者とはすなわち、お願
いして読んでくれる﹁一時的な読者﹂ではなく、本当にその作品に
感動を覚え、応援をしようとしてくれる読者です。
一時的な読者に評価ポイントやランキングクリックをしてもらっ
たところで、何度も同じように︵期間がリセットされるごとに︶評
価やクリックをしてくださいとお願いできますか? その手間を執
筆時間に変換した方が、有意義だとは思いませんか?
そういった手法をとるというのはすなわち、コミュニケーション
の下手さを露呈しているような。
本当に、人と人との関わりで大切なのは、相手を思いやる、真摯
な心、だよね。だとしたら、﹁馴れ合い感想﹂って、変じゃない?
本当に、素直に﹁上手い、最高!﹂っていうなら別だけど、﹁本
心じゃないのに﹂、﹁適当に﹂褒め言葉、書いちゃってない?
客観的に意見を求めるなら、私は﹁感想募集﹂や﹁評価募集﹂に
ついては賛成ですよ。元々、辺境のサイトには固定読者すらいませ
んから、何とかして自分の実力を知りたいと思って、あちこちの批
64
むし
評サイトやら感想書きますコーナーに書き込むのは、物書きとして
間違った姿勢だなんて決して思いません。寧ろ、物書きなら誰にだ
って沸き起こる、自然な心境から来るんですから。
⋮⋮とまあ、馴れ合いが大好き、ぬるま湯がたまらない、という
人を責めているわけではありません。向上心の持ち方というものが、
作品の質をよくしていくのだということを言いたいのです。
仲間を作り、わいわい賑やかに、その中でも、常に高みを目指す
ことを忘れないで!
自分に対して﹁高評価を入れてくれる人﹂ばかりを囲い込もうと
するのは、見苦しいです。必ずしも、自分の回りにいるのが全て味
方でなくても良いと思いますよ。だって、人にはそれぞれの価値観
や考え方があるのですから。
結局、全部、作品に対する信頼度を左右していきます。
日本人は特に、人目を気にする民族だから、売り込み︵宣伝︶方
法、レスポンス、苦情︵荒らし︶対応、全部纏めて、作品の付加価
値にしていくのです。
本当に、恐ろしいことだけど、事実。
作品に、自信があるなら、正攻法で行きましょう! 余計なこと
をすると、自滅しちゃいますよ!
65
*向上心を鍛える
先日、学校に行こうMAXとかいう番組を久しぶりに観た。ボク
シングの内藤選手が、かつていじめられていた中学を訪れていた。
彼は中学時代、壮絶ないじめを経験していたようだ。叩かれ、や
じられ、胃潰瘍になり、親にも言えず、頼る友人もいなかったらし
い。彼の転機は遅く、高校卒業後住んでいた町で、ボクシングに出
会う。体が小さい自分でも、もしかしたら強くなれるかもしれない、
そんな気がして、始めたのだという。
強くなり、あの時自分をいじめたやつを見返したいという彼は、
次第に力をつけ、ついには世界王者となる。
彼のように、弱い自分と戦いながら、強くなるのは、難しいこと
なのだろうか。王者になることは難しいかもしれないが、強くなる
努力なら、誰にでも出来ると私は思う。
私が小説や絵を書き始めた、小学∼中学のころ。自分はもしかし
たら、人よりうまいのじゃないかなどという感覚に酔いしれていた。
実に滑稽な話だ。視野の狭い学生時代、誰にだって、そんな錯覚は
起きただろう。学校で一番上手い、それが誇りだった。
高校になって、自分のそれが、ただの自己陶酔に過ぎないことを
知った。世の中にはもっと上がいると思い、頭の上にずっしりと重
石が落ちてきたような、そんな衝撃があった。
漫画の上手かったやつ。やつは今、出版社で仕事をしながら、売
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れっ子の同人作家をしている。当時から上手すぎて、追いつけない
と思っていたけど、やっぱり、今も追いつけない。
絵の上手かったやつ。そいつは、病院で働きながら、イラストレ
ーターをしている。大きなイベントに出品したり、個展開いたり、
WEBで紹介されたり。天性なのだろう、誰にもまねできないあの
独創性は、きっと私には一生かかっても手に入らない。
自分の才能が特別ではないことを悟ったショックからしばらく立
ち直れずに、それでも、悔しくて、抵抗するように同人活動にのめ
りこんだ。しかし、結局、私の中途半端さはあだとなり、結婚を機
に、やめてしまった。
ふと、また創作活動を始めたくなったとき、私は大人になってい
た。結婚し、子供もいる。やれることは限られている。たまたま目
にした二十歳以上限定の創作サークルにお邪魔し、執筆しているう
ちに、かつての職人魂が戻ってきて、私はまた、文章や絵を書き始
めた。
ブランクは、私にとってある程度必要だったのかもしれない。人
には言えない苦労もしたし、知りたくない過去や、人の心の恐ろし
さを知ることが出来た。ただ、目的もなくがむしゃらに突っ走って
いた十代の自分にはなかった、貪欲さを手に入れた。 だんだん、﹁書く﹂だけじゃ物足りなくなってくる。
上手くなりたいと、欲が出てくる。
誰かに、自分のことを酷く言われたりしたことが、ないわけじゃ
ない。
自分が、他人より優れているなんて、驕りを、今も持っているわ
けじゃない。
生きていくうちに、知らず知らず世間に揉まれ、様々な経験をし
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ていくうちに、いつの間にか、大きな起伏を乗り越えていた。そう
いうのが、どんな批判にも左右されない丈夫な心を作ったんだろう。
別に、人生の重大事件などに遭遇する必要はない。
ほんの些細なことでも、しっかりと一つ一つクリアしていく、そ
ういう小さな勇気が、必要なんだと思う。
少年漫画なんかでよくあるパターン。最初はすんごい弱くて、頼
りなくて。だけど、事件をひとつ、解決していくごとに強くなって
いく。あれって、本当なんだと思うよ。別に、最初から強くなる必
要なんてないんだもの。最初は弱くていい。すこしずつ、階段を上
って、いつか強敵をやっつけられればいいんだ。
誰だってそれは同じ。どんなことにだって当てはまる。最初は、
上手くなくたっていい。だって、スタートラインがみんな同じなん
て限らないんだもの。
上手くなりたい、強くなりたいと思うとき、決して、手を差し伸
べていたかもしれない相手を、突き放さないこと。人生はゲームと
違って、目の前のノルマを回避することを許さない。悔しいが、ぐ
っとこらえてクリアするしかないんだから。
地道な苦労の積み重ねが、いつか、強靭な心を作る。
もしかしたら、学生の頃にやらされていた宿題やテストも、学力
向上のためだけじゃなくて、少しずつがんばる、ひとつずつクリア
していくことの意義を、体に覚えさせるためだったんじゃないかな
んて、大人になった今なら思うわけなんだよね。
何事にも、真摯に取り組む姿勢を忘れない。そういうのを忘れた
人が、﹁ずる﹂や﹁不正﹂を、大人になってもしてしまうんじゃな
いの?
68
⋮⋮とまあ、説教くさくなったけれど、あんまり真面目にやりす
ぎると、それはそれで、脳にも健康にもよくないので、ある程度は
手を抜きながら、ね。
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*他人の気持ちがわからないのに、面白い話なんて書けるの?
認められたくて、そこにいる人がいる。そこにいれば、褒めて貰
える。誉め続けられたくて、きっと、そこから出たくないんだろう。
しかも、ずっとそこで、注目され続けたいとも思っている。その
ためになら、どんな手だって使う。そういう人が実際に、存在する。
私は残念ながら、その人の書く文章は好きではない。なんだか独
りよがりで、読者に優しくない。句読点も少なく、独特の言い回し
は、くどい。それが好きな人も多いのだろうが、どうも、好きにな
れないでいる。
文章を書くのは好きなんだろう。話を考えるのも、好きなんだろ
う。
だけど、それは、文字の羅列で、高揚する感情を、そのままぶつ
けているようにしか見えないときがある。
特に、私は、作者の人となりを見、そこで、判断してしまうとこ
ろがある。作品には、その人の性格も生き方も、全部反映されるの
だから、まず、その人がどのような人で、何を考えて小説に向かっ
ているのか、知りたいと常に思ってしまう。
それゆえ、かの人が、せっかくの読者の感想さえ、自分に対して
評価が低いと踏みにじるような行為を繰り返し、削除し、ましてや、
﹁こんなことを書く︵私を馬鹿にする発言をする︶人間もいるのだ﹂
と、晒し首にする状況を、よくは思わない。
どんなにすばらしい作品だと、本人が思っていても、万人がそう
感じるわけじゃない。
私の書いているこの文章さえ、不愉快だと思う人がたくさんいる
70
だろう。
だからといって、自分を否定する意見を、ただ、﹁攻撃﹂だと捉
えて、反省しないのはどうなのか。
かの人の作品をずっと読み続けている、読者の方、どうなのです
か。あなたの愛する作品の、生みの親は、人を冒涜することで満足
してしまうような輩なのですよ。
人間性を疑われるような人物の書いた作品は、あなたの胸を打ち
ますか。
本当に、その物語は、面白いのですか。
物語は、作者の分身だ。
エッセイやノンフィクションはもちろん、フィクションでさえ、
どこかしらに、作者の経験談や知識が混じっている。
辛い経験を乗り越え、必死に生きている人の文章は、涙を誘う。
心境がリアルに描かれる。︵それが、ケータイ小説が若年層にウケ
る理由の一つなのだろう︶自分の感じたことを、形を変えて、伝え
てくれる。必死さと、温かみが、溢れている。経験の浅い人の文章
と比べれば、それは一目瞭然。肌で感じたことがあるのかないのか
では、全然違うと言っていい。
あとは、そこに文章力と構成力をプラスし、試行錯誤していけば、
より良い作品に仕上がっていく。
ところが、経験の浅い人の文章は、どこか薄っぺらで、見ていて
もしんどい。
読者はすぐにそれを見抜いてしまう。
ここでいう、﹁経験﹂とは、決して、﹁仕事﹂﹁学業﹂﹁生活﹂
などの、実体験だけをささない。﹁経験﹂するのは、体だけじゃな
71
い、﹁心﹂も、たくさんの感情を﹁経験﹂して覚えていくのだ。
他人の気持ちを知らない人が、登場人物の心情を丁寧に描けるの
か、と、私は問う。
小説の醍醐味は、漫画にも映画にも描けない、﹁心の奥底を描く
こと﹂ではないかと思うからだ。
ほんの少しだが、作者の人物が垣間見える、掲示板や評価欄で、
読者という他人の気持ちをないがしろにするような人間の作品は、
心を揺り動かすのだろうか。
エンターテイメントであれば、それほど、登場人物の心の動きな
ど、書かなくても良いとでも?
ギャグならば、笑って済まされるとでも?
そういう問題じゃないだろう。
物書きってやつは、人に文章読んでもらって何ぼ。
自分が精魂込めて書き上げたものが、相手︵読者︶に、気に入っ
てもらえたり、感動してもらえたり、そういうのをやりがいに感じ
て続けているんじゃないの?
前にも書いたが、ランキングや肩書きはその延長線上にあって、
偶々、良い評価をいただいてるだけだと、謙虚に行くべきなんじゃ
ないの?
勿論、どうせ書くならば、賞を取りたいとか、プロになりたいと
か、目立ちたいとか。そういうのはわかる。︵私だってそうだ︶
だけど、だからといって、感想をくれた相手を傷付けたり、攻撃
したり、けなしたり、そういうことを、やっていいってことにはな
らないよね。しかも、自分の作品そのものを使うなんて。
72
もし、人間性を疑われるような返信しか出来ないのであれば、掲
示板や評価欄を閉じておくべきだろう。どんなに必死に見繕っても、
心の色は全て反映されてしまう。それでも、どうしてもランキング
に入りたい、目立ちたい、何とかして注目されたい、と思うなら、
人と人との会話として、掲示板なり評価欄なりを使用するべきでは
ないのか?
作品のイメージを壊すようなブログを書いたり、作品の付加価値
として読者が参考にする掲示板・評価欄で、作者が人として、やっ
てはいけない発言をしている、顔をしかめてしまうような発言をし
ているとしたら⋮⋮、どう思うか。そんなことは、小さな子供にだ
って、わかる。
作者がいくら酷い人間でも、作品がよければいい、というのは、
残念ながら、オンライン小説の世界ではあまり通用しない。なぜな
らば、作者と読者の距離が近すぎるからだ。
書籍や雑誌などの媒体を通じて作品と向き合うのとは違う。
読者の声はすぐに作者に伝わるし、作者の言動も全て読者に監視
されているといっても過言ではない。
たくさんの人間に支持されたいと思うなら、自分の行動を改めて
見つめなおす努力も必要だということだ。味方と同時に、敵をしこ
たま作ったんじゃ、どうしようもない。もちろん、味方の中に常に
敵がいるような状況も避けたい。出来るだけ、トラブルを避け、真
に作品の内容のみで支持されるようにならなくては、本当の意味で
の﹁ランキングトップ﹂にはなりえない。
自演と、他作品への荒らし、他人への躊躇ない誹謗中傷。
そこまでして、頂点を目指すのか。
その先に、一体、何があるというのか。
物書きの、風上にも置けない。
73
#数足の草鞋
なかなか作品を仕上げられず、代表作を足掛け十年も書き続けて
いる。仕事をしながら、家庭生活もあり、様々な障害もあったりと、
続けることだけに意義があるような状態だから如何ともしがたい。
せめて休んでいる間はと筆を進めようとするが、上手くいかないの
が現実だ。
それでも、少しずつ新しい作品をと思って、暇を見つけては短編
や中編の小説を書き下ろしてみたり、公募に出したりしている。ひ
とつの作品に固執しすぎるのは、もしかしたら自分の目線を固定し
てしまうんじゃないかという懸念があるからなのかもしれない。
私はどうも、一つのことに集中して、ばっと仕上げてしまうよう
なことが苦手で、あれもこれもと、欲張って手を伸ばしてしまう。
作業は大抵二つか三つ同時進行。どうしてだろう、頭の中で、優先
順位を組み立てているはずだが、﹁いずれ終わればいい﹂という気
持ちがどこかにあるのだろうか。
インスピレーションが沸いて、どわっと書きたくなったら、さっ
さと仕上げる方法も、少しだが身についてきた気がする⋮⋮が、そ
れでも、いくつか同時進行している。
料理を作るとき、頭の中に献立が出来ていて、材料をどの順番で
切って、どの順番で茹でていけば、炒めていけば、まな板とコンロ
の使用効率が良いのかとか、いつの間にか考えている。一つ一つ完
成させていけばよいのだろうが、時間のない主婦はそうは行かない。
どんなに長くても1時間くらいで、今ある食材から献立を考え、実
際調理し、盛り付けなければならない。︵と、私は勝手に決めてい
る︶
74
肝心なのは、決められた枠内で最大限の効果を引き出さねばなら
ないこと⋮⋮、せっかく作ってもおいしいといってもらえなければ、
調理の1時間はなんだったのだろうということになってしまう。
小説だって、自分の今ある知識、経験をうまく使って、そこに資
料という名の材料を上手く調理して作品に仕上げていっているはず
だ。面白くするのは腕の見せ所⋮⋮であるに違いない。
一つを丁寧に作りこむのに長けている人は、強いと思う。それ故、
思い入れも出てくる、愛着も湧く。
では、二つ以上を同時進行するのは愚かしいのかというと、そん
なことはない。要は、それぞれの作品との付き合い方なのだと思う。
連載中止や途中放棄をしてしまうのは、結局、この、﹁数足の草
鞋をうまく履けない﹂状態からくるのだろう。あれもこれも、アイ
ディアがあふれ出して止まらなくて、気がついたら、回収できない
くらいの伏線と、膨大な量のネタに、どうしていいかわからなくな
ってくる。頭の中で整理しようにも、どうにもならなくなってくる
ものだ。
プロットがしっかりしていないと、そういうことに陥りやすい。
以前も書いたが、始まりと終わりが決まっていないのに、途中経過
をつなげていけば何とか物語が成立すると思って書いている場合。
自分の中で固まっていないものを形にするっていうのは、かなり危
険な行為だ。行き当たりばったりっていうのは、案外当てにならな
い。
しかし、プロットばかりがしっかりしていて、それに沿って書か
なければならないという硬い考えを持ってしまうのはもっと危険な
行為だ。
物語が動き出し、キャラクターに性格がしっかりとついてくると、
75
作者の予期せぬ方向へ連れて行かれる場合がある。このようなとき
に、焦ってプロット通りに進行しようとすると、キャラクターが死
に︵死亡する、ではなく、輝きを失うということ︶、物語自体が頓
挫してしまう。
料理中に調味料の分量を誤り、必死にもとの味に戻そうと色々と
別の調味料を足したり、水を足したりしているうちに、気がついた
ら思った以上の味が出るときがあるが⋮⋮、それと同じことで、何
も、無理やり元に戻す必要などない。キャラクターの暴走が、もし
かしたら最終的には良い結末を生むのではないかと、期待してみる
のも良いのではないか。
また、いつもの癖で全部肉料理になっていた、というのは寂しい
から、少し野菜料理も作ってみるか、とか、スープであっさり感を
出さなくては、とか、そういうつもりで、いくつも作品を同時進行
させている人もいるだろう。AとBでは全く違う味、それの意外性
がスパイスとなって、両方の作品のよさが引き立ってくる。そうい
うのが理想的だなぁと思う。
書いている話が全部同じ作風だとして、そういうのを求めている
人にとっては、安心できる作者だ、というのもまたよし。しかし、
一つにこだわっている場合は、その中でも更に細かいバリエーショ
ンやアレンジを求められるのだから、実はかなり大変。広く浅く、
より、狭く深く、というのは、技術やセンスが求められる。どの業
界だって同じことだ。
ただ、いつも作品が同じイメージで、なんの捻りもないと思われ
るのは心外。
︵話は勿論それぞれ違うにしても︶どの主人公もおんなじ顔なんだ
けど、で有名な、某あ○ち充とか。あの人は、ある意味すごいと思
うのだが、私だけだろうか⋮⋮。
76
いろんなアレンジが出来るという強みを、数作掛け持ちという状
態に生かせたのなら、鬼に金棒なんだけども。なかなか上手くいか
ないものだ。
更新をとにかく急がねばと思っていても、自分には社会生活とい
うものがあって、学生やニート、まるっきりの専業主婦には到底追
いつけない。見えない﹁壁﹂がそこにはある。だからといって、自
分がそのような立場になれるかといったら、お断りだ。社会生活を
送ったことで得た経験が、作品を生み出す上での要素なのだし、勿
論、そうしなければ生きていけないのだから。 結局のところは、自分という人間が、﹁会社員﹂﹁主婦﹂﹁母親﹂
﹁妻﹂﹁物書き﹂﹁絵描き﹂などのいくつもの面を自在に操るよう
に、数作の掛け持ちを上手く完成までもっていくしかない。Aでは
見せるが、Bでは見せないマジックを、効率的に発揮できる器用さ
が必要なんだろうなぁ。
﹁器用貧乏﹂という言葉を私はよく使うが、はてなダイアリーには、
﹁大概のことを並かそれ以上でこなせる反面、突出して優れた分野
も持ち合わせていない人、又はその状態。全てにおいて1.5流﹂
とあった。
自分では何かに秀でたいと思っていても、どれもそつなくこなし
てしまい、結局、得て不得手が全くわからない。一極集中型の人間
には絶対に勝てない人種だ。
一つずつ作品を仕上げていけば負わなくてすむリスクをあえて負
ってしまう﹁器用貧乏型創作者﹂。﹁数足の草鞋﹂をうまく履きこ
なせなければ、共倒れになることを常に心に置いて、日々励もうで
はありませんか。
77
#視覚的効果の罠││小説と挿絵の関係を憂いる
小説に挿絵、バナーなんかがあると、ついついクリックしてしま
う⋮⋮そんなこと、ありませんか。
バナーは特にそそられますよね。なんか、センス抜群だな! と
思ってしまったら最後、そこのサイトへひとっ飛び!
中身じゃなくて、広告で踊らされているだけ、なのかも知れませ
んが。
せっかくなんで、自分だって使わない手はないな、と。
実は先日ペンネームを変更しまして、せっかくの機会なので、全
ての作品に表紙︵書影って言うんですか?︶を付けました。最初は
人に頼んでいたのですが、フォトショあるし、どんどんつくんべ、
と、フォントダウンロードしたり、フリー画像漁ったりしながら、
︵こういうのに時間がかかってるんですね︶作りまくりました。セ
ンスが問われるので、気を使いますね∼。でも、ものすごく楽しか
ったです。
視覚的効果って、かなり強いですよね。作品の雰囲気伝えるのに
はもってこい! 私はイラストも描くので、︵まあ、所詮素人レベ
ルですが︶画像を扱うってだけで嬉しいのです。
さて、そこで。
問題になってくるのが、イメージ画像と文章のギャップが激しい
作品。
ありますよね、やたらと美しい絵のライトノベル、買ってみたら、
中身が﹁あれれ?﹂とか。﹁すみません、中身が伴ってないので、
78
返品してもいいですか﹂なんて、出来ませんし。ゲームでも、グラ
フィックとストーリーのマッチしていない﹁クソゲー﹂が存在する
くらいだし。
騙される方も悪いんですが。これは、騙した方が勝ちとしか言い
ようがない。︵商売ですから︶
オンライン作品だと、更にそのギャップは広がります。だって、
絵を描くのも文章を書くのも、素人がやってるんだもの! どうし
ても差が出てきます。
絵も文も文句なしにツボにはまった! なんて作品は、滅多にな
いのかも。どちらもプロレベルだったら鬼に金棒だけど、そう上手
くはいかないもんです。
OMC︵オーダーメイドCOM︶なんかで発注すれば、セミプロ
の方に絵を描いてもらうことは可能です。︵ただし、執筆料金がか
かります︶以前、やはりOMC受注のイラストを掲げた小説サイト
さんを拝見したことがあるのですが⋮⋮、1枚○千円かかってます
から、どうしてもイラストだけ浮いてしまうというか。う∼ん、見
た感じ、﹁別に、そこまでしなくても﹂と思わざるを得ませんでし
た。
自分のイメージどおりに描いてくれるOMCのクリエーターさん
は、お金を貰っている分、顧客の満足を最大限に引き出そうと、か
なりハイレベルな作品を提供してくれます。だから、美しい、すば
らしい作品は当たり前。肝心なのは、せっかく納品されたイラスト
に見合ったレベルの文章を書けるかってこと。
イラストに惹かれて立ち寄ったけど、よく見たら大した作品じゃ
まと
こっけい
なかった⋮⋮俺の時間を返せ! なんて言われたくないしね。自分
の背丈に見合った衣装を纏わないと、滑稽じゃないかな。
79
例えば、OMCじゃなくても、あちこちで小説の挿絵募集見かけ
るけども、私、疑問に感じることがあるんです。
絵描きのセンス、ってのもあるので、一概には言えませんが、﹁
おいおい、どこにそんな描写が﹂と思うような文章に、恐ろしくハ
ゆだ
イレベルな挿絵⋮⋮。何ていうんでしょう、描写不足を全てイラス
トに委ねているような、そんな雰囲気バリバリの小説。それこそ、
表紙買いしてしまったラノベや漫画本の中身を見て、悶絶︵悪い意
味で︶してしまうような。
あのときの、がっかり感は、なんとも言えません。騙された自分
が悪いんでしょうか、騙した方がわるいんでしょうかと、小一時間
問答してしまいますよ。︵まあ、前述の通り、騙した方が勝ちなわ
けですけど︶
イラストを頼む方も、頼まれる方も、よくよく考えたら、小説に
書いてある以上の描写はするべきではないんですよ! 裏設定とか、
細かい容姿の指定とか、そんなの、作品に書いてください! 作品
の中に盛り込んで、その上でイラストを添える、くらいでは駄目で
しょうか?!
もう、センス云々の問題じゃない。
普通に考えたら、小説の中に、﹁カッコイイ﹂﹁美しい﹂なんて
ありきたりの表現しか載ってないのに、挿絵なんか描けるはずがな
いんですって。
カッコイイったって、ジャニーズ系か、スポーツマン系か、私の
好きなスーツ着込みのおっさん系かなんて、誰もわかりゃしない。
﹁俳優の○○に雰囲気が似ていた﹂︵これは、﹁電車男﹂内で、エ
ルメスの描写に使用されていましたね︶とか、﹁いかにもとび職風﹂
とか、きちんとイメージしやすいように書きましょうよ。美しいっ
て、人には感性の差があるんだし、女子高生お嬢様風なのか、セレ
ブ妻風なのか、居酒屋女将風なのか、わからないじゃない。
描写もへったくりもない文章に、軽々しく自分のセンスを注ぎ込
80
むなんて、私は絵描きとしてプライドが許さない。
要するに、モラルの問題ですね。
お互い、いいかっこしいじゃ駄目。
頼むからには、頼まれるからには、きちんと作品と向き合って、
足りないところを指摘しあうくらいじゃないと。
言う人はまずないと思うけど、﹁あなたの小説からはこれ以上読
み取れませんから、人物描写や背景描写を足してください﹂と、本
来ならば挿絵描きだって言うべき。そうでなければ、逆に、﹁作品
の客引き﹂のために利用されただけになってしまう。﹁あの小説に、
あなたの絵は似合わない﹂だなんて言われたくないですよね。つま
り、絵描きにとっても、マイナスに働いてしまうということなので
す。
自分の小説がイラストで表現されるべきではないというなら、写
真を使う手だってあります。
現代文学系、時代物なんかでは、ラノベ系イラストは似合わない
から、写真を加工してイメージを膨らませることが出来る。画像の
使い方、処理の仕方次第で、ぼやかすことも、鮮明にすることも出
来るのだから、使わない手はない。
何も、小説のイメージ=挿絵・イラスト、ではないんですよ。
抽象的かもしれない街角のワンシーン、空の写真、草花、小道具
だって、小説の中身とマッチすれば、すばらしい広告になる。
使い方次第で、自分の作品を有効に宣伝できるなら、私はバナー
や挿絵には賛成。
だけど、使い方を誤ってしまった作品の末路を考えると⋮⋮忍び
ない。
81
一番げんなりくるのは、文章よりイラストが未熟な小説。下手、
とは言いません。未熟なのです。
小説を書き、さらに絵も描くというのは、どうも稀なようです。
︵すみません、謝っておきます︶
せっかくしっかりした描写、台詞回し、ストーリー展開なのに、
そこに添えられている絵が全てを破壊してしまっている⋮⋮なんて
こと、ありませんか。
﹁読まれやすいサイトを作ろう∼即バックされる条件について∼﹂
というブログ︵検索サイト・カオスパラダイスのアンケートを参考
に作られたブログ︶によると、﹃掲載イラストや写真、サイトデザ
インが趣味にあわなかった﹄ことを理由に即バックしてしまう方は
少なくないようです。余程自信がなければアップしないか、でなけ
れば、別コンテンツとして、サイト内で区別するとか⋮⋮、した方
が良いのかもしれません。私も、書影やバナー以外のイメージイラ
ストは必要な人だけが見ればいいのでは、と、少し場所を離して展
示させていただいています。︵必ずそうしなければならないという
ことではありません、悪しからずご了解くださいませ︶
イラスト、というだけで毛嫌いされ、小説の中身まで到達されな
いのは悲しいことです。自分の小説の対象年齢にもよるかもしれま
せんが⋮⋮、サイト作り自体、見直さなければならない小説が、溢
れているような気がします。
ただ、自分の作品に合った読者を惹きつけるために凝ったバナー
や挿絵を置くのは、いいと思います。
まとめると、小説の挿絵やイメージ画、バナーというのは、あく
までも飾りに過ぎなくて、本当に作者が薦めなければならないのは
本文。文章の未熟さをカバーするための挿絵、という考え方は、道
理に反しているのです。
82
ラノベ嫌いの人が、萌え絵のバナーをクリックすることはないと
思うし、スイーツ系恋愛小説の苦手な人がギャル系デザインのサイ
トに足を踏み入れることはない。読んでみて、﹁あれ? これ、苦
手な奴だ﹂とならないようにするために、自分の感性とあったバナ
ーをクリックしている、という、読者の心理を、小説サイトの管理
人はもっと意識するべきでしょう。
⋮⋮って、ここまで書いていて、自分で、﹁ああ! うちのバナ
ー、どうなんだろう!!﹂と、激しく動揺した私がいますよ。クリ
ックしてくれた人に失礼のないようにしなければなりませんね。
入り口から入りづらいと、最後まで読んでもらえない。
入り口で惹き付けても、中身が伴わないと最後まで読んでもらえ
ない。
難しいのです、小説と、挿絵の関係は、果てしなく難しいのです。
だから、世の中には編集さんという仕事があるし、装丁を専門に
している人もいる。
プロの世界は、つくづく、上手く出来ていますよねぇ。
83
#過去の呪縛
作品が仕上がり、それが、自己の満足度MAXだと、どうもそこ
から離れられない人が出てくる。終了して数ヶ月、数年経っても、
そこから這い出せない。
⋮⋮おいおい。あなたの思考は、まだそんなところで止まってい
るのか、などと、私は思ってしまう。
きつい言い方かもしれないが、やっぱり、次々に作品を生み出し
てこそ物書きと名乗れるんじゃないか、なんて、ふと思う。
私が大好きなドラゴンボールの作者、鳥山明が、連載終了後に、
こんなことを書いていた。
﹁⋮⋮もしかしたらもう悟空とかうまくかけないかも。ちょっとか
いてみましょう⋮⋮。あ! まだけっこうかけますね﹂︵1996
年2月頃少年ジャンプ本誌・カラーページにて︶
この記事を読んだとき、私の中ではドラゴンボール熱が最高潮だ
った。なのに作者はもう﹁過去の作品﹂としてドラゴンボールを扱
っていた。周囲がどう言おうと、作者の中では作品は完結し、アニ
メがGTへと移行して完全に作者の手から離れると、今度は全くの
視聴者の一人として作品を見ていたという。
アレほど長年にわたって読者を鷲づかみにし、未だにデータカー
ドダスやテレビゲームの新作が出ているというのに、鳥山明は驚く
ほど、自作に対して執着を見せなかった。ファンにとっては信じら
れない出来事だ。
代表作がヒットを飛ばすと、次の作品にもプレッシャーがかかっ
てくる。
84
次から次へとヒット作を生み出す作者は稀で、どちらかというと、
1本のヒットをどこまで続けられるかというのが少年漫画界の実情
なのだろうか。しかし、そういった周囲の期待は作家を羽交い絞め
にし、新たな舞台へ飛び立つ瞬間を見失わせてしまう。週間連載で
あればなおさら、ただでさえ短いスパンで締め切りがやってくるの
に、新しい雑誌や連載を始めることは困難であろう。きちんと予定
回数で連載を終了させ、次から次へと新しい発想を生み出せる型の
作者でなければ、結局ヒット作は1本限り、ということになりかね
ない。
小説だって、芥川賞だの直木賞だのとっても、次の作品への期待
感の割りに、ヒットが出ず、1作限りで姿を消す作家が後を経たな
い。そういえば、あの人は、だなんて、後々に言われるわけだ。
面白い作品を一つ、思い切り書くのはとても大切なことだ。
書けば書くほど思いが募り、どんどん展開してゆく。作者も読者
もその世界に浸り、もっともっと、その世界の真髄まで知りたいと
思ってしまう。そして、当初の予定を大きくオーバーして長巨編と
なって⋮⋮。それはそれで、いいのかもしれない。
しかし、問題なのはそこから。その面白い話を書き終えたとして、
新たな作品を作り上げようとするとき、完結したはずの物語の呪縛
から離れられるかどうかなのだ。
前に書いた話が面白いと、読者は過度に期待してしまう。次も面
白い話を作ってくれるはずだと。読者の期待に応えるために、作者
も必死に言葉を紡ぐ。││そのとき、ふと、過去の栄光を思い出し、
気がつくと似たような話になっていたり、また、続編を書いていた
り、などということはないか。新しい世界観を構築できずに、過去
の栄光に浸った作品になってしまわないか⋮⋮。
85
プロアマ問わず、ヒット作を生み出した物書きなら、そういうこ
とが気になるに違いない。
人気作執筆終了後、思ったように筆が振るわない場合、又は、過
去の作品に思い入れが深すぎ、自らの中で代表作をその作品と位置
づけて疑わなくなってしまった場合は、新たな問題が勃発する。
過去のヒット作を前面に出し、﹁私はこの作品の作者だ﹂と言う
肩書きを、自ら付けてしまうのだ。
それにより、新たな作品を生まず、代表作のみの宣伝に固執する
⋮⋮。大変恐縮だが、私は敢えて言う。なぜ、その代表作を超える
作品を自らが生み出せるという可能性を捨ててしまうのか。
売れっ子作家といわれる人たちは次々に新しいものを生み出す。
アイディアや経験を生かし、これでもかと作品を世間に突きつけて
いく。その一つ一つが魅力的で、生き生きとしている。
それは、常に高みを目指している証拠。常に﹁創作者﹂であり続
ける彼らは、自分の完結させた物語では満足できないのだ。もっと
もっと、面白い話が作れるはずだと思うからこそ、作家として生き
ていけるのだと思う。
もし、物書きという肩書きを持ち続けたいのであれば、どんどん
作品を仕上げることだ。一つの作品、一つの物語に満足し、そこで
とどまっている限りでは、﹁物書き﹂だなんてことは言えないので
は?
持久力、持続力だけでは駄目だ。尽きない発想力を、読者は期待
している。
次はどんな話? どんな主人公?
新たな感動を求めているはずの読者は、﹁長すぎる連載﹂や﹁続
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編﹂ばかり望んでいないのではないだろうか。
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◎読者という名の匿名
誰かの小説に感想を寄せるとき、その感想は一個人のものである
が、﹁読者﹂という名の匿名であることを考えたことがあるだろう
か。読者というだけで、作者にとってはどこの誰だかわからない、
自分とはそれまで縁のなかった﹁誰か﹂であることに変わりはない
のだ。
いつでも自分の身分を明かした発言をする人もいるが、中には匿
名性を盾にしないと発言できない人がいる。
日常生活でだって、経験はあるだろう、無記名や匿名希望のアン
ケート。アレに似たことが、WEB小説を取り巻く世界にもある。
例えそれが、普段は気に留められず身を潜めていても、いざとな
ったら刃を向いて襲ってくるものなのだから、作者側はいつも心し
ておかねばならないのかもしれない。
例えば、私がAという人の小説に感想を入れる。文章を書き、名
前の欄にXと書く。⋮⋮このXが、自分のHNやPNではなく、一
時しのぎの名前であったとしたら⋮⋮、それはすなわち、﹁匿名﹂
であるといえる。
匿名というのは、﹁自分の正体を明かさないこと﹂である。HN
やPNも匿名の一つだが、WEB世界では本名は簡単に明かせない
から、いつも名乗っている特定の名前を持っているのに、別の名前
を名乗ったり、名無し発言をしたりするときが、﹁匿名﹂の状態で
あるといっていいだろう。
匿名は、確かに必要だ。
内部告発は匿名でなければなかなか出来ないことだし、お客様ア
ンケートなどでも、正体を明かしたくはないが、訴えておきたいと
きは匿名を使うことがある。
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いつも本音でぶつかって、それで相手が納得するとは限らない。
もし、自分の発言が変なさざなみを立てたらどうしよう、あとで仕
返しされたらどうしよう、そういう罪悪感が、匿名にさせる。だか
ら、﹁あとで影響することはない﹂と言われても、﹁はい、そうで
すね﹂と名前を明かすものなんて、そうそういない。
匿名が問題視されるようになったのは、2chなどの匿名掲示板
のせいか。匿名ならば何を発言しても構わない、という風潮が出て
きた。
相手を傷付ける発言をしたとしても、自分の正体が明かされない
のだから、痛くも痒くもない。そういう輩が少なからず存在して、
時に爆弾発言をしたり、脅迫的な書き込みをしたりする。殺人予告
や爆破予告なんかも、お遊び半分なのか知らんが、簡単にやるやつ
がいる。しかし、結果として逮捕、起訴されるのだから、匿名性な
んて、案外脆弱な存在なのだと知るべきだ。IP辿れば誰が発言し
たことかなんて、最終的には突き止められるんだから。
⋮⋮と、大きな事件になれば匿名の価値も薄れるが、実際身に降
りかかるのは小さな事件、事象に過ぎない。IP辿ってまで突き止
めなきゃいけないようなことなんが普通は起こりゃしない。
身近で起きる匿名によるトラブルは、というと、いわゆる﹁荒ら
し﹂だ。
自分のプライドをずたずたに引き裂いてくれるくせに、相手は大
体﹁匿名﹂で攻めてくる。悔しいが、反論・反撃する手立てがない。
もしかしたら誰もが体験している、またはこれから体験するかもし
れないこの﹁匿名﹂こそが、案外厄介なのだ。
自分の意見を言うのに、どれだけ自分の発言に責任を持てるのか。
企業に苦情を言うのに、自分の住所氏名を明かしたことがあるか。
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殆どの日本人は、出来れば苦情は匿名で行いたいと思っているは
ずだ。だって、前述の通り、あとで何かあっても嫌だ、という気持
ちがあるんだから。
余計なことに巻き込まれたくない、しかし、言うことは言ってお
きたい。
実に都合の良い考えだ。
責任のある発言は、有識者に任せておけばいい。私はただの一般
人だから、言うこと言っても責任取れませんから、﹁名無し﹂﹁匿
名﹂でいいですよ、というわけだ。
私も匿名でなければ発言できない場に遭遇しなかったわけじゃな
いし、匿名発言だってしたことはある。だけど、匿名ということは、
あとで自分にプラスに働くことがあったとしても、自身の発言であ
ったという確固たる証拠がない限り、﹁名無し﹂という名の匿名集
団の発言の一つ、と捉えられていしまうのだ。
あの時名乗っていれば、なんて、逆に思うようなことがあって、
だけど、私はあの時匿名だったのだから、自分の発言でしたなんて
あとで言うのは都合のいい人間だと思われるだけなんだ。改めて名
乗りを上げるのはかえって失礼だ、と、そういうことがあった。
名無しなんて、マイナス面では役に立つけど、プラス面ではちょ
っと損してしまう、悲しい存在だ。
だけど、いいことをしたからと自分の正体をひけらかすのはやっ
ぱかっこ悪い。極端にいいことも、悪いことも、名無しや匿名でな
ければ出来ない、人間てのはちょっとかわいそうな面も持ち合わせ
ている。
サイトや作品に寄せられる﹁荒らし﹂とも捉えられかねない厳し
い発言だって、きちんと固定のHNやメアド、持っているサイトの
アドレスを晒したうえでする人は殆どいない。見る人から見たら、
90
﹁あ、こいつまたこんなところで叩きやってるよ﹂な∼んて風に映
ってしまうし、アドレスの類が添えてあれば、辿って荒らされてし
まう恐れがあるからだろう。
自分がされたくないから、相手にもしない、という原則が、匿名
になることによって崩される。
相手がどう思おうが、反撃できないように匿名という盾を構えて
おく。殆どの場合それは有効。だから、怖い。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス
mixiなどのSNSでは、ログインすることで相手と接触する
ため、匿名を防ぐことが出来る。名無し発言も、匿名発言も出来な
い。しかし、このSNSにも穴があって、荒らされたなら退会すれ
ばいい、もう一度入りたいなら別のIDを所得し、入りなおせばい
いという禁じ手が存在する。失われたIDによる荒らし行為はなく
なっても、新たなIDで攻撃されたなら、それが元のIDの人物と
同一なのかさえ、ユーザー側には簡単にわからないのだ。
こう見ると、匿名を防ぐ手立てなんてないに等しい。だからこそ、
匿名と上手く付き合っていかなければならなくなる。
この作品内でも、荒らしや自演について幾度も語ってきたが、相
手をこれ以上逆上させないように、なるべく真摯に対応するのが、
一番だろう。
自分がどう思ったかを、少し時間を置いて考えてみる。唐突なレ
スは避ける、冷静になれるまでレスしない。
とにかく、匿名さんが何を考え、どうしてそんなことを書いたの
か、ようく考えてみなければなるまい。
匿名でなければどうしても発言できないことなんだろう。相手も、
もしかしたら荒らしになるとわかっていて、もしかしたらそのつも
りで、そのような発言をしたんだろう。
91
極端な暴言でなければ削除できない、いや、するべきじゃない。
余計なことをしたら、新たな火種を生むんだから。
悔しいが、匿名には勝てない。その場限りのHN匿名者が、再び
自分のとこに来るか来ないか、確証もない。
実態の見えぬ匿名に、果たしてどう対処するべきか⋮⋮。
と、ここまで必死に考えていても、目の前に現れた匿名者がどの
ような人物か推し量るような推理力は私にはない。相手だって、私
がそんな余計なことまで悶々と考えてレスしているなんて思わない
だろう。
匿名でも何でも、寄せられた意見は大切。
酷評だろうが罵声だろうが、何かしら心に響いた証拠なんだから、
堂々としていなくちゃ。
メアドも真のHNも示せない、匿名の読者は、こうしている間も
ネットの渦の中を揺らいでいる。偶々その中で自分の作品に触れて、
足跡残していったんだから、﹁どうもありがとうございます。こん
な辺境の地までご苦労様﹂と、ねぎらってやるべき?!
いちいち人の意見で作風が変わるのはおかしいし、どーんと構え
ていた方が作者の態度としては、やっぱり、カッコいい⋮⋮よね。
92
☆残酷な﹁死﹂を扱う
殺戮、暴力、戦争、いじめ、児童虐待、家庭内暴力、DV。大小
に関わらず、力をもってして、死に至らしめる行為。現実社会にお
いて、決してなくならない、これらの重大な事件を作品として扱う
とき、作者の質が問われる。
1996年、某青年誌で、遭難した教師と教え子が、出会った直
後に死んだ子供の人肉を食って生きながらえるという漫画を掲載し
たところ、倫理的によろしくないということで、発売日店頭から回
収される騒ぎがあった。
当該作品については、ネット検索すればヒットするので、興味の
ある人は検索されたし。
漫画や映画、ドラマやアニメなど、視界に直接入ってくるものに
限っては、特に厳しい規制が敷かれる。アダルトものと同じように、
残酷描写は常に正当な倫理感が求められるのだ。
それは、小説についてもやはり同じ。ちょいエロのつもりが、描
写の細かさからアダルト指定になってしまうこともあるわけで。軽
い気持ちで殺人シーン書いたら、あまりの凄惨さにX指定かよ、な
んてことも、あるかもしれない。
あの、バトルロワイヤルが映画化されたときだって、物議を醸し
出したんだから、世間は本当に、そういうことには敏感だとわかる
だろう。
話を作るとき、なにをテーマに置くか、というのも関わってくる
と思うが、﹁死﹂を扱うときは、本当に、慎重にならなければなら
ないと思う。昨今、恐ろしい事件が日本中で起きているけれども⋮
⋮、それらにさえ、隠された﹁主張﹂﹁動機﹂があるのだから。
93
戦争は、時には必要だ。話し合いで解決できないとき、武力行使
することはある。ファンタジーやPRGなどでは、必要に駆られて
戦争をするのだから、現実社会でも同じことが起きているというの
は理解できるのではないかと思う。人を殺す、傷付けあう、日常世
界では考えられないことだが、人類史上では至極当然のこととして
続けられてきた行為だ。戦争によって、国は拡大し、歴史が紡がれ
る。正当化するつもりはないが、真実である。
しかし、市民生活において、殺人行為は卑劣であり、あってはな
らないこと。そこには加害者のほかに、命を奪われた犠牲者がいる。
加害者の人格、被害者の人格、それぞれ確実に存在し、無視するこ
とは出来ないものだ。
人は、何故加害者が事件を起こしたのか、何故被害者が事件に巻
き込まれたか、解き明かすために裁判をする。原因がわからなけれ
ば、根本的な解決にならないからだ。
自分の身近なところでも起こりうる事件、事故、そして、﹁死﹂。
その扱い方を誤ると、とんでもないことになってしまうことを、
忘れてはならない。
先のカニバリズム︵人肉を食す行為︶漫画だが、問題視された点
として、行為の必要性の低さがあげられる。
この漫画では、幼女を丸焼きにし、それを無神経に食らい、その
後、あっけなく助かってしまう。人肉を食らってまで助からなけれ
ばならない必要性に欠けてしまっていた。それによって、行為の残
虐性だけが目立ち、結果、回収騒ぎになってしまったのだ。
作者が何故カニバリズムを描いてしまったのか︵しかも、あまり
に軽率に︶不明だが、これは何も、この作品のみに言えることでは
ない。あちこちに潜んでいる、残虐性をうたった﹁グロ﹂系の創作
物全般に言えることだ。
94
いきなり、登場人物が誰かを殺す。その行為を鮮明に、残酷に描
いていく。しかし、何故、そこに至ったのか書いていない作品があ
まりに多いのには危惧を覚える。
私も、殺人シーンを書いたことはある。血反吐が出るような強烈
な描写が嫌いなわけじゃない。自分が書くときは、そこにたどり着
くまで、何があったのかを出来るだけ、一緒に書き添えるようにし
ている。殺人者の心境になりきることは難しいが、なるべくそこに
近い気持ちで書こうとする努力は必要だ。日常から非日常に移り変
わるとき、何がきっかけで、何が起こり、どうしてそういうことを
する羽目になったのか。殺人という行為、グロテスクな描写の必要
性を、読者に伝えなければならないと思って書いている。
ところが、私があちらこちらで見かけたのは、殺される登場人物
の人格を無視した﹁グロテスクな描写をするための死﹂を演出して
いる作者。そこに、感情などない。ただ、死体や殺人行為について
だけ、綺麗に描写されている。殺人現場は、この場合、感情のぶつ
かる場所ではなく、﹁作者が血や死体を見世物にしている﹂場所な
のだ。
大変恐ろしいことだが、﹁死﹂について、実感のない若者が増え
ている。
﹁生﹂と﹁死﹂、決して切り離すことの出来ない、逃れることの出
来ないもの。誰かが生まれている一方で、誰かが死んでいる。命は
必ず尽きる。││そんな当たり前のことを、理解できない人間が、
確実に増えてきている。
以前、テレビで﹁人は、死んだら生き返る﹂と信じている小中学
生が今増えているのだと知った。インターネットによる検索でも、
中学生のおよそ2割が﹁生き返り﹂を信じ、また、身近で起こる﹁
生﹂や﹁死﹂に感動を覚えていないことがわかった。
現代社会、核家族化が急激に進んだこともあり、﹁生﹂や﹁死﹂
95
の現場に立ち会うことが少なくなってしまった。
家庭で出産する人は、一握り。今では殆ど病院で出産する。立会
い分娩しなかった場合、男性が﹁生﹂の瞬間に立ち会うことは困難
だ。女性が必死に産み出す﹁生﹂の瞬間に立ち会わないためなのか、
それまでの人生がそうさせるのか、自分の子供を虐待する父親がい
る。女性においても、自分で産み落としながら、虐待死させる事例
が後を絶たない。生まれることに対する敬意が揺らいでいる。
同じように、家庭で臨終を迎える人は、少なくなった。大抵、病
院で死ぬ。病気で、入院し、そのまま帰らぬ人になってしまう。そ
うすると、同居家族でも、人がどんどんとやせ細り、ろうそくの火
が消えるように、ある日突然死を迎えることを理解できなくなって
しまう。
核家族化のため、一緒に過ごしていた誰かが死ぬ現場に立ち会う
ことも少ない。葬式、法事への参列も、経験することがなくなって
きている。
﹁生﹂や﹁死﹂は、﹁性﹂の問題とともに、どこか神格化され、タ
ブー視されてきた。
本当なら、もっと小さい頃、物心つくかつかないか、そんなとき
から積極的に教え込まなければならないことを、なぜか避けてしま
う。その結果、誤った認識が根付く。
なぜ、避けるのか。ちゃんと話せば子供だって、理解する。なの
に。
酒鬼薔薇聖斗の事件以来、問題視されていることだが、残酷描写
への憧れを抱き、それを文章としてしたためることによって発散し
ている人が、ごく一部だが存在することは事実。八戸の一家放火殺
人事件の長男も、やはり殺人小説を書いていたという⋮⋮。そうな
ってくると、流石に危険思想と思われても仕方がない気がしてくる。
残酷な表現を決して非難するわけではない。﹁ひぐらしのなく頃
96
に﹂は、私も漫画で少し読んだが、残虐な行為が前面に押し出され
ていても、決して残虐性を助長しているわけではないことはすぐに
わかる。
物語の本質を見抜けない、その上、﹁生﹂と﹁死﹂に対する敬意
が薄らいでいる、そんな人間がフィクションと現実の境界線を越え
てしまったときに、実際に殺人・殺傷行為に及んでしまうのではな
いか。また、そうした事件のあとに、犯人宅で残虐漫画やゲームが
発見され、その影響が有識者の中で問題視されるのは、確かに辛い。
全てがそうした残虐性の強い媒体のせいだけじゃないにしても、
そのように感じる人は少なからずいる。そういうことを、もっと認
識していくべきかも知れない。
作品を仕上げる上で、﹁死﹂を扱うことはある。しかし、﹁死﹂
に対し、きちんと理解し、向き合えない者は、﹁死﹂を軽々しく扱
うべきではないと思う。若年層の﹁生き返り﹂信仰もさることなが
ら、﹁残虐行為に対する正当性﹂を持たれてしまっては、たまった
ものではない。
勿論、個人の表現の自由、言論の自由という観点から、﹁残虐な
死を扱ってはならない﹂という拘束をすることはできない。
アダルトに関しても、残虐作品についても、需要と供給はいつの
時代にもあった。童話の中にさえ、残虐な設定は幾らでもある。し
かし、それらは社会風刺や教訓として、強烈に印象付けさせるため
の道具として用いられてきた。そう考えると、今横行している﹁残
虐な行為を描写させるための死﹂とは一線を画している。
結局のところは、﹁死﹂を扱い、その描写の先に何があるか、と
いうことだろう。
上記のような事件が発生した場合、世間はすぐに漫画や小説、ゲ
ームの影響だという。そうした非難の目を少しでも避けるためにも、
起承転結の中で動機をしっかりと描かなければならない。残酷描写
97
をするためには、作者側からの﹁残虐描写にも勝る作品全体を通し
た強烈なメッセージ﹂を織り込む必要があるのだ。
読了後に何かしらの作者のメッセージが見出せないような作品で
は、やはり簡単にグロテスクな描写はして欲しくない、というのが
私の考えだ。
物語を提供する側としては、﹁死﹂に対する畏怖と﹁生﹂に対す
る敬意を、忘れないようにしなければならないのではないか。単純
に興味本位で﹁残虐行為﹂を美しく書こうとすることは、本来なら
ばあってはならないと、私は思う。
98
#曖昧なオリジナリティ
私は自分が天才だ何て思わない。当たり前だけど。
だから、自分の中のオリジナリティの部分が他人とかぶっていて
も、別におかしいとも思わない。
100%のオリジナリティなんて、実はこの世には存在しない。
何かを参考にしたり、ヒントにしたりして、少しずつ物語やら作品
に変えているはず。絶対的なオリジナリティを持っているのは、神
としか言いようがない。人間ならばどうしても、自らの体験や知識
を元に創作しているはずであるのだから、その元ネタが一緒だった
り、同じことを経験したりすれば、やっぱり、似通った文章や作品
が出てくるのは仕方がないことだと思う。
例えば、私のコラムだかエッセイだか散文だかわからないこの代
物は、あちこちのマナーサイトや痛いサイト、痛い創作者を目の当
たりにし、﹁これではうまぐながんべ﹂と書き出したもの。同じこ
とを考えている人が少なからずいるだろうということは、よくわか
っているし、目にしたサイトにも同じような見解が目立つ。
しかしながら、私はそこに自分の考えを入れることでこのエッセ
イを確立させようとしてきた。
本当に自分が感じたことを、文章にまとめるということは案外難
しい。書いているうちに、﹁あれ、何が書きたかったんだっけ﹂と、
何度も削除や修正を重ねているのだ。推敲の結果が、他人の受け売
りだといわれても、私の読んできた物がその感想を書いた人と同じ
ようなものだったとしたら、それは﹁パクリだ﹂と思われても仕方
がない。
完璧な人間なんていない。所詮、何かに流され、何かに感動し、
感銘して創作している。
99
ありきたりのものにどう肉付けするかでその人のオリジナリティ
が発揮できるのだと私は思うが、ゼロからオリジナリティを発掘す
るのが当然だという考えの人がいたら、私は太刀打ちできない。い
や、私どころか、この世の中の殆どの人間はオリジナリティの定義
を失うだろう。
そもそも、生まれてきてからずっと、何かに影響され続けている
のが人間ではないか。全てが誰かからの受け売りで、誰かから教わ
ったり、誰かがやっているのを見かけたり。
何にも知らないところから何かを生み出すなんてことは、人間ど
ころか、どの生物にだって出来やしない。知らず知らずやってのけ
ているのは、遺伝子がそうさせているから、という部分だってある
くらいだ。その遺伝子はというと、結局は親から引き継がれたもの。
つまり、ゼロから何かを始めているわけじゃない。自分の前には必
ず何か道しるべになるものがあって、その上で自分や自分の考えが
存在しているのだ。
私が書いているしちめんどくさそうな文章は、決して高等教育や
教本などから得たわけではないことを、更に追加しておく必要があ
る。私は普通高卒で、高等な教育なんて受けたことはない。文学部
出身者なんかからしたら屁が出るほど、文学の知識もない。
学生時代、読書感想文ほど嫌なものがないくらい、本は嫌いだっ
たし、小説を書き続けている今でも、なかなか文庫本に手が出ない。
︵単に、金欠だから、とも言う︶
世に小説家志望者なんて腐るほどいるが、私は別にプロを目指し
ているわけじゃない。公募に出すのは﹁上手くいけば家計の足しに﹂
くらいの、主婦的感覚によるもので、趣味だから高みを目指してい
るだけの道楽家だ。
そうなってくると、大抵の知識はインターネットから入ってくる
100
ものに限られてくる。
だから、私の書いているエッセイの中身が、何かに似通っている、
ということは往々にありうる。
知識の門戸は異常に狭い。やる気も時間も然程ない。
しかしながら、何とか自分が創作人であり続けようと思ってこれ
を書き続けているのだから、私はどんな意見を言われても開き直る
しかないわけだ。
誰かに意見するのは簡単なこと。
オリジナリティがない、誰かのパクリだ?
││結構。ならば、脱却するすべを知っているのか。
本当のオリジナリティとは何か。
自分だけのアイディアとは何か。
考えても答えは出まい。
私も素人だし、趣味の域から出ないんだから、相手を納得させる
ほどの作品だって、なかなか書けやしない。だけど、努力だけなら
出来る。自分が納得できるまで、人目に晒さないぞ、と思って、毎
回書いているし、それでもなんやら言われたら必死になって挽回し
ようと思う向上心はある。
WEB上で素人が必死に書いたものを、すぐに﹁○○のパクリで
すね﹂という人がいる。発想が似ている、という点だけでパクリ呼
ばわりするのは、相手が素人だからだろうか。プロだって盗作疑惑
をかけられるような時代だから、素人相手ならば簡単に盗作だと断
定してよいのか。
素人のオリジナリティとは、それほどまでにもろいのか。
やはり、オリジナリティというものは、プロしか持ち得ないとい
う妄想の信者が潜んでいるということなのか。
101
自分という個が確立されなければプロにはなれないが、そのため
に様々なものを吸収し、模倣していくというのは、どの世界にもあ
ることなのに。
文章で食ってる人間やすばらしい作品が書けるヤツだけが、立派
だなんて思うな。
そんな権威主義に誰が負けるか。︵低学歴者の足掻き︶
素人だって、下手くそだって、書きたいことは書いていいんだ。
ちゃんと、筋道立てて論点しっかりしていれば堂々としていていい
んだという考えは││、浅はかかもしれないが、支持されてもいい
んじゃないだろうか。
102
☆発想力を磨け!
いきなり、﹁面白い話を書け!﹂﹁題材自由﹂と言われると、何
をしたら良いのかわからなくなってしまう⋮⋮。こういうとき、﹁
ああ、自分て発想貧困だな﹂と思うわけで。
かえって、﹁○○と言う題材で書きなさい﹂と言われた方が、筆
が進む。
自分の作品はラノベではないが、ケータイ小説でもない。どちら
かと言うと、大衆文学のつもりで書いている。ところが、そういう
のは携帯小説サイトではウケが悪い。
利用しているこの﹁小説家になろう﹂さんは、PCでも携帯でも
閲覧できる、PDFファイルへの変換や、縦書き、ダウンロードフ
ァイルまで作ってくれるので、大変重宝しているのだが、そこから
やってきてくれる読者さんは、どちらかと言うと、いわゆる﹁ケー
タイ小説﹂の作家・読者さんが多いようだ。
作風が硬めだからか、それほどアクセスもない弱小作者であるわ
けだが、私は別に﹁ケータイ小説﹂には興味がないのでやりたい放
題好き勝手に書いている。アクセスだとか、評価点だとか、そうい
うのよりも、読者の反応︵ただ、面白かった、つまらない、でもよ
い︶や、自分の小説を読んだ率直な感想︵酷評歓迎︶が欲しくて、
何とか様々な媒体で自分の作品に触れてもらおうじゃないかと試行
錯誤しているところだ。
読者数やランキングを面白さの指標として捉えている人にとって
は、私のような考え方や作風は、全くの範疇外だろう。だから、私
はそのような人が好き好むような作品は書かないし、そのような人
に媚を売ることもない。
中には、私の作風や表現を﹁面白い﹂﹁興味深い﹂と見てくれる
103
人がいるようなので、私はその、ごく一部の人のためにでもいいか
ら、自分らしさを紡いでいこうと思っている。
しかし、私のこのような凝り固まった考えも、公募だとか、もし
くは企画、競作などへの参加となると、崩さずにはいられなくなる。
自分一人だけの提供スペースから、見本市へと公開の場が変わるの
である。
当然だが、公募には選考委員がいて、その人たちの求めているも
の、目指すものに該当すると思われる作品が選ばれる。企画、競作
においては、主催者側の提示したテーマに沿って作品を作ることが
求められる。
そのようなときに、自分の作風だけをアピールし、空気の読めな
いような作品を提示することなんて出来ない。限られた枠の中で、
最大限に自分の味を引き出さなければならなくなってくるのである。
提示されるテーマ、方向性がある程度決められているからと言っ
て、その通り、単純に思いつくまま作品を仕上げたのでは意味がな
い。選考委員、または主催者側の、意図するところから決して離れ
ず、かつ、意外性の抜きん出た作品に仕上げなければ⋮⋮、大量の
良作に埋もれ、ただの﹁その他の1作﹂に成り下がってしまうのだ。
みんなが思いつくような題材では、とてもじゃないが、目立つこ
ひね
となんて出来ない。何とかして、他の参加者、応募者に負けないよ
うな捻った発想が必要になってくる。
無難に、与えられたテーマから物語を作ろうとすると、誰にでも
思いつくような単純な話が出来てしまう。
例えば、去年、一昨年と別々のところで主催されたWEB小説の
ホラー競作企画に参加したが、やはり、﹁ホラー=霊、死体﹂と解
104
釈して、そういう題材を使う人が多かった。私はどうしても、お化
けだとか霊だとか、死体だとか、そういうものが苦手で、出来るだ
けそういうのを使わずに恐怖心だけでホラーを描けないかと試行錯
誤した。
結果、出来上がったのは、一昨年は七不思議からヒントを得た階
段の話、去年はサラリーマンのサービス残業と過労死からヒントを
得た話。どちらにも、お化けや霊や死体は出てこない。それでも、
十分ホラーになった。
誰も題材にしようとしないところから、求められた﹁ホラー﹂と
いうジャンルへ話を持っていこう、そういう意気込みがあった。元
々、知名度が低いからアクセス数なんて殆ど伸びたりはしなかった
が、読んだ人が、﹁なんだこれ、なんか、他と違う!﹂と思ってく
れたみたいなので、私の目論みは成功したといっていい。
皆が同じような味付けを好むとしても、一つくらい、ちょっと違
うのがあれば、それにぶち当たった人の心に引っ掛かることが出来
る。その引っ掛かりが、自分に対して興味を持ってくれる切っ掛け
になればいいのだ。
大量のサンプル︵応募作︶の中で、急激に光り輝くものを作るだ
なんて、素人にははっきり言って難しい。場慣れしている人、名前
の知れている人が、有利に決まっているから。そこを切り崩してい
くには、発想しかない、と思うことがある。勿論、その発想に見合
うための表現力、文章力も必要になってくるわけだが⋮⋮、要する
に、﹁誰かとは確実に違う自分﹂というものを、知らしめる場とし
て、公募や企画、競作への参加をする、というのもアリではないの
か⋮⋮?
しかし、単純に、﹁人とは違う発想﹂が浮かび上がるほど、人間
は上手く出来ていない。そこで、常日ごろから、発想力を高める訓
練をしておく必要がある。
105
私はこれに、﹁100のお題﹂を使わせてもらっている。お題製
作サイトさんで配布している、様々なお題。雰囲気、漢字、天気、
気持ち⋮⋮などなど、様々なテーマ別の﹁お題﹂から、物語を作っ
ていくのだ。
100もお題があるものだから、全部制覇するのはなかなか難し
い⋮⋮。しかし、テーマに沿って物語を考える、という訓練には最
適だ。何よりも、自分の苦手を知るチャンスになる。今まで避けて
いた話、登場人物、舞台など、克服するきっかけになる。お題は勿
論、強制ではなく、自分の思いついた順番にランダムで書いていけ
ばいい。そしていつか、全てのお題を制覇したなら││、そこから
得られたものはきっと大きいに違いない、という、マラソン級の代
物なのだ。
書けないだとか、書きたくないだとかして、苦手なお題をすっ飛
ばしていると、最後に嫌なものだけ残ってしまう。何とかして全部
埋めたいという意地のようなものが沸き起こって、気が付くと結構
埋まっている、なんてこともあるかもしれない。
表現力の幅が狭い、発想力が貧困だ、などという人は、お題から
の物語製作を始めてみてはいかがだろう。
束縛された中でどれほど自分というものが表現できるのか、試し
てみる価値はある。
ちなみに、私は﹁歪んだあなたに100のお題﹂︵お題サイト・
追憶の苑さん提供︶で、ファンタジー小説を執筆中。無謀にも、お
題の順番どおりに物語を進めるオムニバス形式。全部の話が書き終
わったら、壮大な幻想絵巻になっているはず⋮⋮。完成まで気の遠
くなるような時間を費やしそうだが、何とかなるといいな、という
希望をもちつつ、カタツムリ並みの速度で更新中だったりするので
す。
106
#縦と横││ケータイ小説考
一般書籍は右綴じ、ケータイ小説は左綴じ。最初手に取ったとき、
ものすごく違和感があって、ちょっと試しにと開いてみたら、やっ
ぱり駄目だった。
どうも、小説は縦書き、という先入観から抜け出せない⋮⋮のは、
私だけではないはずだ。
一方、変わってWEB小説。横書きが一般的だが、たま∼に、縦
書きにしているサイトを見かける。横も縦も置いている、のではな
くて、縦書きしか置いてない。うーん、PCや携帯では、横の方が
読みやすいなぁと思ってしまう。
同じ小説でも、どこかが違う。縦と横、それぞれの読みやすさ。
それは一概に、媒体のみで変化するのだろうか。
私は、字が詰まってるWEB小説を読むのは苦ではない。内容が
面白ければ、必死に目で追う。︵最近は時間がないため、それすら
ままならない現状ではあるが︶それはPCでも携帯でも同じ。きち
んと段組されていて、描写が丁寧ではっきりしていれば、尚良い。
⋮⋮まぁ、私の作風がそうなのだから、他人の小説を読むときもそ
う感じるだけなのか⋮⋮、はたまた、私が両方扱うからか、定かで
はない。
強いて言うならば、私は小説は本で読む世代だったからだろう。
WEBで様々な作品に触れるようになった今日でも、やはり基準は
書籍の小説。ライトノベルに関しては殆ど読んだことがないという
くらいなのだから、こればかりはどうしようもない。
のっと
しかし、世の中には様々な見解を持つ人々がいるわけで。小説作
法に則った書き方や段組を推す者︵私もこちら側に含まれるわけで
すが︶と、いわゆるケータイ小説と呼ばれる空白を多用した小説を
推す者が存在している。どっちでもいいじゃないですか、と言われ
107
ると、そうですね、としか言えないが、この両者は、決して相容れ
ようとしないのだ。
小説作法に則って書くWEB作家は、新人賞や文学賞へ応募する、
プロ志向の人が多いと思われる。読書量も豊富で、普段読んでいる
一般書籍に準じた書き方を尊重する。当然のように三点リーダーや
段落前一字空け、感嘆符のあとの一字空けなどの基本的な書き方を
してくる。
原稿を送るときは、まず、縦書きに印刷するし、ルールを守った
書き方をしていなければ、すぐに弾かれてしまう。縦書きの基本は
あくまでも原稿用紙であるため、文章作法が殆どそのまま反映され
ているのだ。そういうシビアな現状もあって、他者の作品を読むと
きも、小説作法にうるさくなってしまいがちだ。
ただ、この書き方の場合、WEBではきちんとスタイルシート︵
読みやすくさせるために、行間や文字間の隙間を調節したり、レイ
アウトを変更したりするもの︶を組まねば、とても読みづらいとい
う欠点がある。何も考えずにテキストファイルをそのまま貼り付け
たようなサイトは、今でこそ珍しいが⋮⋮、文章量が膨大になれば
なるほど、目がチカチカしてしまい、即バックされかねない。
文字サイズ中∼大程度、文字サイズを固定しない、一行あたりの
文字数を膨大にしない、見やすい色を選択する、などすれば、大体
回避されるが、﹁元々文章を読みなれていない﹂人からしたら、も
のすごく見づらいのだろう。
いわゆるケータイ小説はというと、改行が激しく、空白が多い。
確かに、一文字一文字は読みやすいかもしれないが、絶対的文量が
少ない上に、何度もスクロールしなければならず、いらいらしてし
まう人もいる。
旧世代の私が携帯で読むときは、文字サイズ極小。このくらいで
ないと、スクロールが多くて面倒な上、全体像が捉えにくくて不便
108
なのだ。それでも、世のケータイ小説と呼ばれる奴は、句読点のた
びに改行や空白を繰り返し、ページ数の割りに全然物語が進まない
⋮⋮。携帯操作が苦手なのにクリック数が多くなると、別の意味で
ストレスが生まれてしまう。見やすいだの見にくいだのの前に、ペ
ージ数を見ただけで気が遠くなったりするのだ⋮⋮。
一時期はパケ代がどうの言われたが、今は定額制が主だし、何回
ページが切り替わったって、いいじゃん? ⋮⋮という考え方なの
だろうか。世代が違うからか、ちょっと理解できない。
1ページあたりの文字数が少なく、物語の密度が薄いと、それは
やゆ
単なる筋書きか独白になってしまうのではないか。そうなると、小
説ではなく、詩やシナリオの一種だと揶揄されても仕方なくなる。
小説自体が、物語の起伏のみを楽しむのではなく、その奥に秘め
られた心の動きや葛藤、伏線などを楽しむものであると信じて疑わ
ない世代は、私自身を含め、やはりケータイ小説には向いていない
のかもしれない。
さて、話を戻し、この両者を縦書き、横書きの枠に入れてみる。
前者、小説作法に則った作品は、縦書き、横書きとも可能である。
どちらにもそれぞれ読みやすさ、読みにくさがあるが⋮⋮、ぎっし
り詰まった文章が苦手でなければ、好きなほうを選択することが出
来る。ハウツー本や教科書など、横書きの書籍は世にたくさん出て
いるし、縦書きといえば、小説や新聞、辞書など、どこにでも溢れ
ている。
日本語は元々縦書きの文化であったが、近代以後、様々な遍歴を
経て左から右への横書き文化も定着した。縦横どちらにも対応でき
る言語は少ない。文字の種類も豊富で、バランスが取れている。よ
って、単一種類の文字しか羅列しない言語︵英語や中国語など︶に
比べたら、元々読みやすくなっているんじゃないかと思う。
109
それでは後者、ケータイ小説を、縦書きにして読んでみたことは
あるだろうか。まず、そんなことをする人はいないだろう。実は縦
書きにすると、極端に読みにくくなってしまう。ケータイ小説を書
籍化するときに縦書きにしないのは、その独自の空白、改行が、横
書きのときにしか効果を発揮しないからだと思われる。
つまりケータイ小説は、メール方式で発展してきたため、一行あ
たりの文字数が少なくてもよく、スクロールが難しくない﹁携帯﹂
という媒体のためのものなのだ。
携帯のディスプレイは小さい。それ故、文字がぎっしり詰まって
いると読みにくい。
適度な空白、適度な間隔││それは勿論、PCで読む場合も当て
はまるのだが││、これが大切なようだ。
成り立ちも考え方も違う人間が書いている、WEB小説とケータ
イ小説。対象となる媒体さえ違うのだから、両者がいがみ合ったっ
て、解決の糸口すら見えないのは当然だ。
以前も書いたが、それぞれ作者側の意図も違うのだから、わざわ
ざ﹁あなたの書き方はおかしい﹂だとか、﹁読みにくい﹂と言うの
は失礼なのかも。
と、ここで、一つ、私の体験談。
とある文学系の小説を拝読したが、︵私はPCで読んだ︶その書
き方は、まるでケータイ小説だった。一行書いてすぐに空白、台詞
の前後に空白。段落らしきもの︵一字下げ︶が見当たらず、せっか
くの文章が台無しだと思えた。これは文学作品のつもりで筆者が書
いたのであろうと、その旨指摘したが、本人は﹁ケータイ小説に準
じた﹂と答えた⋮⋮。
う∼ん。なんか違う。
110
私は自分の考えを押し付けるのは嫌だけど、その人はなんか、ケ
ータイ小説を履き違えている気がした。前述の通り、ケータイ小説
は独白や詩に近い。その書き方に準じて純文学を書くのは、ちょっ
と、変。
それぞれ、その書き方にしなければならない必然性があってそう
いう書き方をしているのだから、文学畑の人が何も無理してケータ
イ小説の書き方を真似る必要なんてないのに。携帯で読めるから、
ケータイ小説ってのは、なんか、違う気がする。
ケータイ小説を馬鹿にするわけじゃないが、あの書き方には﹁多
分﹂意図がある。空白も含め作品だというなら、やはり私の指摘し
た作品は、ケータイ小説にはなりきれていないし、なるわけがない。
横書きで、しかも携帯のディスプレイでなければ、緊張感や情感
を発揮できないのがケータイ小説だとするならば、私はそのケータ
イ小説の世界に入り込めない類の人間だということで諦めようと思
う。自分にしっくり来ない世界にのめりこもうだなんて、そんな厄
介なことはしたくない。
世の中には﹁ケータイ小説は小説を名乗るな﹂という人もいるが、
それならば最初から読まなければ良いのではないかとさえ思う。
少女漫画が嫌いだから少女向け雑誌を手に取らない、胡散臭いか
らスピリチュアル番組は観ない、という人もたくさんいるのに、ケ
ータイ小説を嫌いなのに読んでいることを自慢するのって、おかし
い。世の中にはそれぞれ、好みの分かれる問題があるのだから、小
説︵WEB小説も一般書籍もひっくるめて︶とケータイ小説が同時
に存在するのは悪いことじゃないんじゃない?
111
だけども、上記の純文学作品のように、ケータイ小説の中に紛れ
込んだ文学作品がスイーツ小説好きの女子高生の目などに触れて嫌
悪感を抱かれるように、WEB小説の中にケータイ小説もどきが混
じっているのも事実。互いに﹁あ、ちょっと、何でそんなところに﹂
と、つまはじきにされないように、文頭にでも注意書きをおいたほ
うがいいのかな、と思うこともある。
媒体が違っても、様々な作風が世に溢れるのは決して悪いことで
はない。表現方法や文章に﹁こうしなければならない﹂ことなどな
いし、縛り付ける必要もないと思う。それでも、読者側からしたら、
自分の好みに合った作品にいち早く辿り着きたいと言う願望は同じ。
ハズレくじは誰だって引きたくない。
以前視覚的効果の回でも書いたのだが、イメージや画像などの第
一印象で人は作品やサイトを選びやすい。となれば、文章において
も、空白の取り方や行間・段落の有無で無意識に読む小説を選んで
いるのではないか。
そうなってくると、ケータイ小説世代の者が行間無し本格的小説
の冒頭を携帯ディスプレイで見てしまい、不快感を覚えて即バック
することも、ケータイ小説を読んだことがない大人が初めてそれら
に接し、﹁これは小説なのか詩なのか﹂と小一時間問答するのも頷
ける。そうやって無意識的に、自分に合った小説を文字の塊が作り
出す視覚的イメージで選択しているのではないだろうか。
こうして読者がWEB上の小説と対峙していることをふまえて、
自分の作風が小説作法に則ったラノベや文学系の作品であるならば
余計な空白は作らない、とか、ケータイ小説ならば思い切ってプロ
ローグからスイーツにしてしまうとか、││作品の意図にそぐわな
い読者を排除する努力は少なからず必要なのかも。
入り口で失敗して、﹁あ∼、なんだ、書き方からして真っ当なラ
ブコメかと思ったら、スイーツばりばりのケータイ小説かよ﹂とか、
﹁甘々期待してたら、どうも純文学みたいなんで萎えました﹂とか
112
言われるよりもマシ⋮⋮かな、なんて。
文章作法がどうのこうので突っ込まれてムッとした、私の作風は
こうだから、余計なこといわないで! って気持ちもよくわかるけ
ど、読者としては、せっかく読むのだから失敗したくないんだよね。
だとしたら、やっぱり入り口ですぐに作品の対象がわかるように
した方がいいのよな∼。そうくると、あらすじの書き方からプロモ
ーションから、作者の宣伝方法が上手く言ってる作品にはそれ相応
の読者が付いてるし、その辺うらやましくはあるんだけど、私はそ
ういうのが苦手で損をしているのかも、と、この記事を書きながら
自己嫌悪に陥っていくのであります。
113
#対象年齢って難しい
﹁自作小説用・自主レイティング・マーク︵仮︶﹂というサイト
によると、私の書いているSFやファンタジーは明らかにPG−1
2みたいですね。主人公が殺人歴ありだったり、大量出血の殺陣シ
ーンがあったりすると、教育上あんまりよろしくないということな
んですかね。この辺は意識していませんでしたが、小さい子供さん
もPC触れる世の中なので、考慮すべきなのでしょう。
精神的ダメージを与えすぎてしまうかもしれないのは、後でトラ
ブルあったときに表示漏れを指摘されてしまうので、なるべくやっ
た方がいいと思い警告表示してあります。PL法みたいなもんです
よ。
︵※PL法⋮製品の欠陥が原因で消費者が被害にあったとき、企業
側に損害賠償を求めることが出来る法律。この法律の施行後、メー
カー各社が注意表示をこと細かく書くようになりました︶
ちょいと前の話なのですが、某アクション小説を読んだときのこ
と、前書きに﹁注意﹂が赤字で書いてあるので、ドキドキしながら
読み進めたのですが、思ったより流血激しくないし、倫理的にもお
かしくないし、﹁表示、いらないんじゃないの?﹂と作者さん側に
言ったことがありました。そこのサイトでは未だ︵以前よりは大人
しくなったようですが︶注意表示がしてあります。
その後、ふと、自分の小説を読み直してみて、﹁やばい! ウチ
の小説、あそこの小説よりやばい記述が多すぎる!﹂と、慌てて注
意書きを作成⋮⋮。銃撃戦バリバリやってるわけじゃないし、人が
死ぬシーンも多いわけじゃないんですが、物語の構成が精神的にダ
メージを与えちゃいそうな予感がひしひしとしてきたのです。
前述のアクション作家さんに拙作を読んでもらったところ、﹁か
なりやばい﹂ことが判明。やっぱりね。そうだよね。││私の小説
114
のTOPに燦然と輝く注意書きが定着しました。︵﹁小説家になろ
う﹂レイティングチェックによる冒頭注意書き表示のことです︶
書いていると、自分の作品に盲目になって、冷静に判断できなく
なってくるんですよね。残酷の境目、エロの境目がわからなくなっ
て、やりたい放題やってしまう。そんで、他人に言われるとはっと
する。
どうしてもわからないときは、複数人に指摘してもらうのが一番
かもしれません。自分の作品を一番知っているのは自分でしょうが、
その作品の対象年齢を決めるのは、作者ではなく読者かもしれない
と思うからです。
例えば、中高生向けに書いた恋愛だったとして、あまりにもエロ
要素が多くなれば、それはPG−12やR−15指定になってしま
う。すると、中学生は対象から外れてしまいますね。純朴な恋愛を
描く人は今は少ないかもしれませんが、そういったガイドラインか
ら考えると、PG−12にならないためには、ハグやフレンチキス
程度で描写をやめなければならなくなります。服脱いだり、ディー
プキスしたり、自慰行為したらPG−12、その後ベッドイン∼は
R−15、更に性描写に重きを置きすぎるとR−18になってしま
いますね。
性教育については、今の日本社会において、正当になされている
とはとても思えません。中高生でも簡単にセックスしたり、堕胎し
たりする人がいる世の中なので、そういうことを描写したい気持ち
もわかるのですが、女性は16歳にならないと結婚できないわけで
すし、結婚して安定的な生活を得るまで子供は設けるべきではない
と言う考え方が一般的な世の中で、やたらと性描写を含んだ小説を
はびこらせるのはどうかと思われます。思春期の子供にとって、衝
撃的過ぎる内容にならないように、そういった描写を含む、又は含
む可能性があるのならば、年齢制限の表示はしておいたほうが無難
115
ですね。
また、残酷描写、反社会的描写についてもそれは同じこと。犯罪
が起きるたびに、﹃犯人の自宅には猟奇的な小説や漫画、ゲームソ
フトが⋮⋮﹄という言葉を耳にします。作者側の表現の自由を守る
ためにも、年齢制限表示はしっかりしておかないと、作品のせいで
事件が起きたなどというひん曲がった報道が簡単になされてしまう
わけです。
私もそういった表示に関しては最近になって関心を持ち始めたの
で偉いことは言えないのですが、必ずしも、作者側の意図した読者
層が作品に触れるとは限らない世の中なんですよ。
18禁の本をコッソリ読んでしまう男子高生の気持ちがわからな
いわけじゃないんです。あの背徳感がたまらない刺激で、そんで、
ついつい読んじゃうんですよね。書店の18禁のコーナーにある成
人雑誌なんかは、思い切り﹁成人向け﹂表示がしてあって、それを
誰にもバレないように隠れて読んだことある人、多いんじゃないで
しょうか。堂々とエロ本を買えたり、エロビデオをレンタルできる
ような年になっても、レジを通さないと買えないという難関を潜り
抜けないと自宅に持ち帰られない、あの瞬間が重圧になって刺激を
加速するんだ、と言う人もいるかもしれない。
ところが、WEBや携帯では、保護者が規制をかけないと何でも
かんでも見れてしまって、そういう緊張感や背徳感が極度に薄れて
しまうんですよ。
今になって、フィルターがどうの、規制がどうの言ってますが、
そうやって何でもかんでも縛るだけがいいということも言えない。
しかも、規制するはずの親側の認識がまだまだ薄くて、﹁フィルタ
リングって何﹂っていう人がいるくらいなんだから、あとはサイト
や作者側で注意表示をしていくしかないのかもしれないなぁと思う
んです。
116
ちなみに、私のサイトFantastic
Cafeは、フィル
タリング通すと、表示のお断り画面になります。︵参考:キッズg
oo︶かろうじてTOPとABOUT、MAILは表示できますが、
NOVELは駄目ですね。イラストも規制かかって表示されない。
キッズgooでは、小さな子供にとって有益でないサイトと判断さ
れてしまいました。元々子供向けだとは思っていないので、ちょっ
と凹みますが、うさぎロケットの本文だけは何とか表示されるみた
いなので、よしってことで。
ではこの、﹁小説家になろう﹂はどうかというと、キッズgoo
では表示できませんでした。残念ながら、小さなお子様にはお見せ
できないようですね。一つ一つの作品がどうかということは、キッ
ズgoo表示だけでは判断できませんが、自分の倫理観と社会の倫
理観のズレは常に認識しておく必要があるかも知れません。
117
#社会人と創作
仕事を再開して、殆ど自分の時間が取れなくなりました。元々、
夜中にコッソリ∼していたのですが、寝不足になると次の日の仕事
に支障が出るため、ゆっくり休まねばならないのです。結果、更新
停滞⋮⋮。
楽しみにしていてくださる︵らしい︶読者様との交流もとても楽
しいので、本当はどっちも頑張りたいのですが、私は創作者である
前に一人の人間なのだなぁと思ってしまうことが多々あります。
毎日毎日、同じことを繰り返し、その中で時間を見つけ、パソコ
ンを立ち上げるのが難しい。この1週間は、キーボードを触ること
も出来ませんでした。どうしても、順番をつけざるを得ず、気が付
くと創作活動が一番最後に来てしまうのですね。
かといって、創作魂を忘れているのかと言われると、決してそん
なことはありません。日常の合間合間に、妄想を重ね、いつでも執
筆できるようにと、ネタを膨らませているはず、なのです。
通勤時間、車を運転しながら、ああでもないこうでもないと展開
を考え、設定を付け足し⋮⋮、しかし、それらは日常の雑務に追わ
れ、いつかは消えてしまいます。電車通勤の方であれば、コッソリ
携帯でメモることも出来るかもしれませんが、車を運転しながらメ
モを取ったりは出来ないんですよ。
以前、それが悔しくて、MDにマイクでネタを録音しながら運転
したこともありました。しかし、この方法はすぐに却下。自分の声
が恥ずかしい上に、恐ろしく演技が下手で泣きたくなりました。声
優並の声ならばよいのでしょうが、私には向いていないことがよ∼
くわかりました。
こうなると、あとは毎日同じこと、同じシーンを思い浮かべて、
118
よりイメージを鮮明にし、脳内に残しておくしか出来ません。職場
でメモ⋮⋮は無理ですね。窓口の営業担当ですので、手元で怪しい
メモを綴ることなど不可能に近いです。防犯カメラが四六時中回っ
ている店内で、そのような行動に出ることは、自殺行為でしょう。
独身時代はそれでも、自宅に戻れば自分の時間がありあまるほど
ありましたので、好き勝手やっていました。夜中の2時まで起きて
いても、誰にも迷惑がかかりませんからね。遅刻さえしなければい
いと思っていたくらいです。
当時、山形では深夜のテレビ放送がなく、2時か3時になると、
どの局を回してもカラーバーが出てしまいました。そのくらいの時
間になると、﹁ああ、今日も終わった﹂と、やっと寝る。そして朝、
山形県民歌﹁最上川﹂の放送の時間にセットされたテレビタイマー
で起こされ、それでももにょもにょと布団の中で朝のまどろみを堪
能し、やっと7時過ぎに起床して、シャワーを浴び、支度をして栄
養ドリンク1本で出勤するような日々でした。
若かったし、やりたいことを全部やれるだけの体力もあったのだ
ろうと思います。夜の時間が昼と同じくらいある、そんな日々。懐
かしいですが、今の自分に同じものを与えられても困りますね。環
境ががらっと変わってしまったのですから。
仕事をしながら子育てをしている人は、少なからず、自分の持ち
時間と葛藤するのだと思います。いつ、どうやって息抜きをするか。
簡単なようで難しい。
自分だけではなく、家族にもそれぞれ行事があるので、勿論それ
もこなさなければなりません。自由時間を作ることから始まるんで
す。
そうなってくると、平日の睡眠を減らすことも、だんだん視野に
入れなければならなくなります。しかし、平日の睡眠不足は、確実
119
に仕事に影響を及ぼします。普段は﹁大丈夫﹂と高をくくっていて
も、気力だけで乗り越えるには限界があるのです。
寝る時間が少なくても、徹夜であっても、仕事は関係なくやって
きます。常にベストを求められる世界で、簡単に休息を取ることは
出来ないのですから、睡眠時間の調整、体調管理も、労働者の大切
な仕事なのです。
WEB小説書きの方々の中にも、たくさんの社会人がいらっしゃ
いますよね。仕事、家庭、地域、自分⋮⋮、優先順位をつけながら、
必死に創作活動を続けられている方を、よく目にします。私自身、
家庭と仕事に比重を置いているせいで、復帰後は殆ど創作活動が出
来ていません。なんとかしたい、でも、と、今でもお悩みの方も多
いのではと思います。
趣味だからとはいえ、読者の方が待っている︵はずだ︶と思うと、
小説も書きたい、でも、もっと大切なことが他にある。言い訳では
なくて、本当に心苦しいのですよね。
社会人だからこそかけること、社会人として生活をしてやっと書
けるようになったものも、たくさんあるはず。だから、無理に執筆
時間をとろうとしなくても、自分のペースでゆっくり更新していけ
たらいいんじゃないのかな。学生の頃、独身の頃には出来なかった、
自分だけの感性を育て上げるのに、急ぎすぎてしまうのは勿体無い。
じっくりコトコトとネタを煮詰めて、他人には出来ない、自分だけ
の味を出せるように、日々を過ごして生きたいですね。
120
総括:SPICY論
創作活動を続けることは、自分のアイデンティティを確立させて
いくことなのだろうと思い、このようなエッセイを続けてきました。
私が投げかける問いに様々な方が反応し、問題意識を持ってくださ
ることは大変ありがたく、書き甲斐を感じていました。
しかし、自己を確立させるのは、何も創作活動だけではありませ
ん。社会生活そのものが創作活動に影響を及ぼします。一人の人間
として、しっかりとした考え、生き方をしていけば、自ずと道は開
け、個の埋没を恐れることもなくなるのだと思うのです。
営業の仕事に戻った今日、世の中には様々な人がいるのだと、改
めて知らされています。その一人一人の人生とはすれ違うだけです
が、﹁この世には個性のない人間などいない﹂ことがよくわかりま
す。
出会ってきた人々が、皆同じだったか、どこか特徴があるから覚
えているのではないか││。そして、自分の作品ではモブ︵群集︶
扱いの人間が、自分の人生に一番影響を与えているという事実をし
っかりと受け止められているか。
世間には小説のネタになることが、ゴロゴロと転がっているので
す。誰も見もしないような、他愛のない事柄が一番のネタの宝庫で
あることに気付けたら、今まで以上に面白い作品が書けるような気
がしませんか。
私は、自分の個がそれほど濃いものだとは思いません。普段は○
○の一員、○○のお母さん、○○に住んでる人⋮⋮、決して注目さ
れる存在ではないからです。目立とうとか、面白がらせようとか、
そんなこともしませんし、まして、有名になりたいなどという願望
もありません。
121
小説においても、まあ、そこそこに宣伝はしていますが、アクセ
ス数を稼ごうという気もありませんし、ランキングの上位になりた
い! などという気合も足りない部類でしょう。
そのような私が書いているこの文章に、少しでも個を感じてくだ
さるならば、嬉しい限りです。激しい感情を押し殺しながら、努め
て冷静に綴ろうと努力してきた甲斐があるというものです。
近年、ネット小説を取り囲む環境がめまぐるしく変わっています。
﹁恋空﹂に代表される悲恋系ケータイ小説がブームを巻き起こし、
誰でも手軽に小説を書く時代になってきました。新しい小説形態と
して、ケータイ小説なるものが登場したことで、今まで細々とネッ
ト小説を綴ってきた私にとって、﹁小説とは何か﹂と深く考えさせ
られる機会が多くなりました。
表現方法の差、端末・執筆環境の差、世代間の差、そして、執筆
している作者自身の読書歴・感性の差など、思いのほかたくさんの
ものが絡み合い、多種多様な作品が存在してきています。
前述の通り、人は誰しも個を持っており、表現の自由の観点から、
決して全てを否定することは出来ません。しかし、﹁小説﹂を名乗
さが
るのであれば、ある程度しっかりした書き方をして欲しいと思うの
は、旧世代の人間の性なのでしょう。ただ綴ればいい、ただ連ねれ
ばいい、というのでは、﹁小説﹂という形態をわざわざ選んだ意味
がないように思えてならなかったのです。
例え、今現在、商業的価値観からケータイ小説がブームになって
いたとしても、それが延々と続くとはとても考えられません。ブー
ムというのは、一瞬で過ぎ去るからそのように言われるわけですか
ら、いまのうちに、自分の価値や個性をきちんと確立させ、ブーム
が過ぎ去っても決して色あせない自分だけの作品を残せるようにな
った方がいいのではないかと思います。
勿論、私自身も、色々書いてきました。WEBに掲載していない
122
だけで、二次もBLもTSも書いたことがあります。そうした一過
性の強いジャンルに固執していた時代、私の視界はかなり狭かった
ような気がします。若かったことも、経験値が不足していたことも
その要因かもしれません。量をこなしていくうちに、自分に合って
いるものは何か、模索することの方が楽しくなってきているのです。
しかも、そうして自分だけの世界や作品を作り出そうと思い立っ
たのはここ数年。恥ずかしい話、私には誰かに影響されたり模倣し
たりすることが楽しくてたまらない時期が、長く存在しました。そ
れでも、そのような日々が今に繋がっているのですから、否定ばか
りしていられないのもまた事実です。
同人誌で作品を紹介していた時代、自分の作品を手にとって読ん
でくれるのは、ごく一部の人間で、それでも私は作品を書き続けて
いました。何のために、だったのか。今考えれば、自己満足だった
と結論付けるしかないでしょう。たくさんのお金をつぎ込みました
が、決して黒字にはなりませんでした。それでも、なんだか充実感
のようなものがあって、私は次々に即売会に参加し、せっせと売り
込みをしていました。
今は、経費もかけずに作品を公開できる、すばらしい時代になっ
たと思います。
あの頃の私がこのような世界になると知っていたら、作品の公開
方法を変えていたのでしょうか。いや、もしかしたら、あのわけの
わからない熱気に飲み込まれていた分、今のような感覚になること
はなかったかもしれません。
時代に乗りたい、自分も同じように書いてみたい、共感させてみ
たい。そんな気持ちは、どの時代にだって、どの世界にだって溢れ
ています。
同人というヲタクの世界に身を置いていた自分と、今のケータイ
小説作家たち、なんだかとても似ている気がして、完全否定する気
123
にはどうしてもなれないのです。
ですが、経験からいって、成功するのはほんの一握り。結局はど
んなに模倣しても、その世界で実力が認められなければ、三流にし
かなれません。必死に書いて書いて書きまくっても、本当の意味で
認められるのは稀なのです。
プロになりたくて書いている人も、勿論多いとは思いますが、現
実にはプロになったとしても、次作以降が振るわず、そのまま消え
てしまう人も多いと聞きます。自分にしかない世界観、表現方法を
駆使してどれだけ生き残れるか、真摯に構えなければ、たくさんの
作品群の中から注目されることすら出来なくなってしまいますよね。
私はプロ志望ではありませんから、のんびりコツコツと自分なり
の世界を書き続けています。趣味の世界ですが、妥協はしたくあり
ません。︵何度かこの作品ないでも語りましたが︶
趣味であればなんでもあり、趣味だから口出ししないで、という
のはやっぱりおかしいのではないでしょうか。どの世界だって、基
本の型から入って、応用を学ぶのに、小説は何でもありだよという
のは、合点がいきません。
表現方法や世界観は、基本があってこそ。我流は基本ができてか
らだというのは、どの世界だって常識ですよね。
このエッセイの中では、書き方や文章作法、物語の構成などにつ
いては殆ど触れていません。作者として、読者として、WEB小説
の今後を考えて、憂いている内容が殆どです。
素人が大口叩いてどうするの、と思われた方も、最後まで頷いて
くださった方も、ご愛読ありがとうございました。この作品はこれ
でおしまいです。
また、別の作品でお会いすることがあるかもしれません。その時
は、﹁ああいう主張の人間が書いた文章とは﹂と、色眼鏡で読んで
124
くださっても構いません。私も、主張に負けない作品を作り出すよ
うに心がけていきたいと思います。
数ヶ月の短い間でしたが、本当にありがとうございました。
皆様の創作活動がより発展しますように心からお祈りいたします。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2712d/
SPICY!≪辛口小説談義≫
2014年10月26日01時14分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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