Page 1 Page 2 アリストパネスの機知 --- 『蛙』 ー 378-ー 4 ー 0

KURENAI : Kyoto University Research Information Repository
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アリストパネスの機知 : 『蛙』1378-1410をめぐってその
1)
久保田, 忠利
西洋古典論集 (1988), 5: 15-36
1988-11-30
http://hdl.handle.net/2433/68569
Right
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
アl
Jス トパ ネスの機知
I---『蛙 』1378- 1410をめ ぐって--一一
(その l)
久 保田忠 利
序
『蛙』の後半 は, ア イスキ aロスとエウ リピデ スとが悲劇 の椅子 をめ ぐっ
て競 う悲 劇の コンテ ス トで あ る. デ ィオニ ュソスを審判 と して,悲 劇詩 人 の
社 会的使 命に は じま り, プ ロロゴ スと叙情 部 の吟味。 つ いで詩句 の計量, 最
後 に都 市救済 策 の順 で コンテ ス トは進 行す る. この うち詩 句計量 シー ンは,
いわゆ る第二 プ ロロゴ スで, ハデ スの門番 に よりあ らか じめ予告 され て い る.
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「詩 の技 を天 秤 にか け る」 あ るいは 「悲劇 を犠牲 の仔羊 の よ うに量 る」 とい
う奇抜 な ア イデ ィアは,計 量 シー ン開始直前 にあ るコ ロスの歌 で,詩人 が 自
画 自賛 す ると ころの もの で あ った よ うであ る。
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「斬新 な驚異 」 で 「思 い も よらぬ ことに満 ち あふれて い る」 ので あ り,他 の
人 が思 いつか ぬ こと と して い る. ア リス トパ ネスが この よ うに 自分 の喜 劇 的
趣 向 を誇 り, 自慢 す るのは 紬 こ珍 しい ことではな い. しか し,計 量 シー ンは,
-1
5
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1
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7
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0 までの 3
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行 で あ り, プ ロロゴ スの吟味 (1
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4) に比 べ ると予告 し自慢 して い る割 りには相当短 い
パ ロデ ィー (1
ヽ
の であ る・、Rader
maC
herは,先 行す る シー ンは観 客の文学 的審美 的教養 を少
なか らず必要 とす るため, その埋 め合せ に,平均 的観客 の レグ ェルに合 わせ
た シー ン と して辞句計量場 面 が あ ると述 べ て いる (i)
E.Fr
aenk
el も また,
秤 の シー ンは滑 稽か つ斬 新 で拍手喝 采 まちが いな い場 面 であ るか ら,大 衆 を
喜 ばせ満 足 させ る ことが最 も大 切 だ と考 えて いた ア リス トパ ネスは, この シ
ー ンを一 連 の コンテ ス トの最後 に置 いた と してい る (2)
いずれ の説 も,詩
句計量 シー ンの滑稽 さは悲 劇 に関す る知識 を必要 と しな い単 純 で明快 な もの
--一逆 に言 えば ,先 行す る プロロゴ ス と叙 情部 の吟味 の場面 を十 分 に理 解 し
そ の滑 稽 さを味 わ うには高 度 な知識 を必要 とす る一一一 とい う前提 にた って い
る. したが って,計 量 シー ンにみ られ る笑 いの仕掛 け, すなわち待 人が どの
よ うな工 夫 を凝 ら してい るか をあえ て解 明 しようとは しな い. けれ ど も, た
とえ 自明 であ るにせ よ,才 気に溢 れ た辞 人 が苦労 し骨折 って いる (
epiponoi
hoide
xioi)部 分 を十分検 討 す るのが礼 儀 で あろ うし, そ う しなければ, 悲
劇 に関す る知識 を必 要 と しな い とは断言 で きないであ ろ う.
もと もと物 理 的重畳 の な い言 葉 を秤 にか け 目方 を量 る とい うナ ンセ ン スな
行 為が, なにか有意 味 な機 知 と して成立 しうる根拠は二 つ考 え られ るだ ろ う.
一 つは, 価値 あ る ものは重 い とい う連想 で あ る. 『蛙 』 のパ ラバ シ スで, 倭
れ た人物 を金 貨 に, つ まらぬ人物 を銅 貨 に見立 ててい るの を借用す れば, 鍋
貨 より重 い金 貨 は価 値が あ り,金 貨同 士 を較 べれば重 いほ うが一 層価値 が あ
る土 とに な る. 優れ た表現 ,真 理 を含 む言 葉 は価 値が あ り, そ うでな い表 現
や言葉 よ りも重 い とい う類 推 が働 くで あろ う. その場 合.言 葉 は比 愉的 に計
量 可能 で あ る と感 じられ るに違 いな い.
次 に考 え られ るのは, ギ リシアの文学 的伝統 で あ る. あ る重大 な事柄 の決
-1
6
-
定 に秤 が使用 され るモチー フの典型 的 な例 は ,『イ リアス』2
2
巻 2
08行 以下
にみ られ るアキ レウ スとヘ ク トルの 「ケ- ロスタシア」 が知 られ て いる. そ
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o を黄 金 の秤にか け, まん
こでは, ゼウ スが二 人 の死 の定 め k
なか をつ まん で持 ち上げ る と ヘ ク トルの死 ぬべ き定 めの 日 a
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が下 が り, ハデ ス (
冥 界 )へ と向か った と歌 われ て いる. また, おな じ く
『イ リア ス』8巻 69行以下 では,や は りゼ ウ スが アカ イア軍 と トロ イア軍 の
死 の定 め を黄 金 の秤 にか け ると, 7 カ イア軍 の死 ぬべ き定 め の 日が大地 に 向
か って下 が り, トロ イ丁零 のは広 い天空 さ して上 が った と語 られ て いる. さ
らに, 『叙事 辞 の環 』 では, 『ア イテ ィオ ビス』 で, アキ レウスと メム ノン
の ケ- ロスタシアの場面 が あ った と言 われ る.叙事詩 に見 られ る この よ うな
ケ- ロスタシアの起 源 は, エジ プ トの 「死 者 の裁 判」 に 由釆 す ると言 う(
3)
『イ リア ス』 では, ゼウ スの黄金 の秤 が象 徴 す るのは この神 の支配権 で あ り,
人 間の死 の定 め あ るいは死 ぬべ き定 めの 日とい う一 層 プ リミテ イヴ な観念 と
至 高神 ゼ ウスの支配 とい う観念 を具体 的 イメー ジで結 びつけ る作 用 を して い
る もの と思 われ る. この イメー ジを成立可能 に してい るのは, 本来重 さの な
い抽象 的観念 を重 さの あ る実体 とみ なす意 識 にはかな らない.
ところで, 『イ リア ス』 に見 られ る この イメー ジに対 し. われ われは あ る
種 の と まどいな い しは違 和 感 を感 じる.一 つは,敗者 で あ るヘ ク トルの 「死
の定 め」 あ るいは 「死す べ き定 めの 日」が重 い点 であ る・ この シー ンは,
.ク トル とアキ レウ スの一 騎 討 ちでの勝者 な い し敗者 を決定 す ることに あ る.
通 常 の重 さ較 べ では重 い方 が勝者 で あ り, 秤 を使 用 した勝 敗決定 の場合 も重
い方が勝者 で あ るのが普 通 の感覚 で あろ う. ところが この場 合 には,予想 に
反 し,勝者 の死 の定 めが軽 く,敗者 のが重 た くな る点 に何か とまどいを感 じ
る ことに な る. 敗者 のそれ が重 たい と され る理 由は, お そ ら く.死者 の お も
む く世 界 -デ スが大地 の下 に あ るとい う伝 統 的な イメー ジに よる もの と思 わ
れ る. あ るいは,死 の定 め の計量 で あ るか ら, 目前 の濃 密 な死 を含 む ケー ル
(
ker) が その分 だけ重 くな るとい うイメー ジのせ いであ り, いわば負 の計
量 では 負 の勝者 とは 敗者 を意味 す ると了解 す る こともで き よ う.
-1
7
-
もう一 つの違 和感 は, 「死 ぬべ き定 めの 日」 (
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r) がハデ ス
へ 向か うとい うイメー ジに あ る.叙事 詩 に お いては, プシュケー (
魂)が身
体 を抜 け 出 して-デ スへ 向 か うとい うのが死 の一般的表 現 で ある. そ こで,
3巻 の 箇所 で 「-デ スへ 赴 いた 百k
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0」 の主語 に ヘ ク トル
先の 2
を補 う解釈 も当然生 じて くる. しか し, これ も, ゼウ スの決定後 アキ レウ ス
とヘ ク トルが槍 を投げ あ う戦 闘場面 が措写 され るため,事前 にヘ ク トルが デ スへ お もむ いた と語 られ るの も不 自然 で あ り,全体 の イメー ジを損 な うと
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er の言 い替 えであ り, イメー ジの
思 われ る. む しろ,a
上 では, 天 秤 にかけ られ た k
苔rが その ま まハデ スへ 向か うと理 解 す る方 が
自然 な よ うに思 われ る. この よ うな違 和感 は古 くか らあ ったのか も しれ な い。
ア イスキ ュロスが 『ア イテ イオ ピア』に もとず いた悲劇 を書 いた とき, その
タ イ トル を 『ケ- ロスタシア』でな く 『ブ シ ュコ スタシ7 (
魂 の計 量 )』 と
した こと もその現れ だ と も言 えな くは ない. ア イスキ ュロスは, 問題 の 箇所
で ,k否r を死 の定 め (モ イラ)では な くプ シ ュケー (
魂 ) と考 えて 『ブ シ ュ
コ スタシア』 を作 った と古 庄は伝 えて いるの であ る.
ア イスキ ュ ロスの 『ブシ ュコ スタシア』では,女神 テテ ィス (アキ レウ ス
の母 ) と女神 エー オー ス (メム ノンの母 )が ゼウ スの傍 らに立 ち,戦 う息 子
た ちの ために ゼ ウ スに懇願 す るなか で,二 人 の英雄の プシ ュケーが 秤にか け
られ るシー ンが実際 に演 じられ るか, あ るいは語 られ るか歌 われ るか され た
とお もわれ る(
4)
その際 に天 秤が どの よ うに動 いて判定 が下 され たのか を
伝 え る資 料は な いが, お そ ら く, 『イ リア ス』の場合 と同様 に,死 すべ き メ
ム ノンの プシ ュケー を載 せ た皿 が下 が った もの と推測 され る. 目前 に迫 った
死 あ るいは死 の定 めが負荷 と して プシ ュケー に作 用す ると見 なせば. その プ
ジ ュヶ-はそれ だけ重 た い イメー ジを喚起 す る ことに な ろ う.後 にデ ィオ ニ
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yka
k
onす なわち重 い災厄 で あ り耐 えが た い
ュソスが語 る よ うに,死 は b
災 厄 なの だか ら.
『蛙 』の辞 句計量 シー ンが, この 『ブシ ュコスタシア』 に ヒン トをえ た パ
ロデ ィー であ る ことは つ とに緒摘 され てい る(
5)
-1
8
-
プシ ュケーの重 い方 が 敗
者 であ り死 ぬ ことに な るの で あ ったな らば, 静句 の重 い方が勝者 とな り地 上
に連 れ戻 され る とい う設 定 は それに逆対応 す ることに な り, パ ロデ ィーの 効
果 を発揮 す る. また,秤 の両脇 に立 つ二人 の詩人は,息子 の命乞 をす る二 人
の女神 に見立 て られ て い る. デ ィオニ ュソ スは ア イスキ ュロスとエウ リピデ
スに,秤 の傍 らに立 つ よ うに命 じ (
1
378), それ ぞれ の皿 をつ るす ヒモ を も
ち, 引用句 を皿 に向か って言 い,合 図 とと もに手 を離 す よう指図す る (1
379
181). 両詩 人 の言 葉 は各 自の ブシ aケ- とみな され る ことにな り, プ シ ュ
ケー -言 葉は計量可能 な もの と して取 り扱 われ,価値 あ る言 葉す なわち重 い
言葉 を語 るものが勝者 とな る.一 見 ナ ンセ ンスに お もえ る一一一
事 実 ナ ンセ ン
スを目指 して もい るのだが 一一一一
詩句計量 とい う奇抜 な ア イデ ィアは,叙 事 等
の 「ケ- ロス タシア」か ら悲劇 の 「ブシaコ スタシア」に至 る文学 的伝統 を
背 景に, その パ ロデ ィ- と して成立 してい る。詩 人の魂 と も言 うべ き言葉 の
計量 が ナ ンセ ンスで あ るな らば, それほ と りもなお きず ケ- ロス タシア あ る
いは ブシ 品コ ス タシアその ものが ナ ンセ ン スであ るとい うア リス トパ ネ スの
判 断 を機 知 と して提 示 して もい ることにな ろ う. また,表現 の優劣 は暖味 な
審 美 的判 断に委 ね られ て い るが, も しそれ が計量 とい う可視 的手 段 に よって
可能 で あ った な らば とい う仮定 は刺激 的で好 奇心 をそそ る もので あ ろ う。
この計 量 シー ンが演 じられ る際に, 小道 具 と して秤 が実際 に使 用 され た こ
とは.先 のデ ィオニ ュソスの指 図か ら明 らか であ る. おそ ら く,舞 台効果 の
ために相 当巨大 な ものが 利 用 されたの では な いか とお もわれ る. その こと を
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k
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o
n 「斬 新 な驚異」 が 「新 品 の
考 慮に いれれば, コ ロスの歌 う t
化 け物 」の意 味 で,小道 具 の巨大 な秤 を も暗 に指 して い る可能性 が あろ う.
三 度の判定 で いつ もア イスキ ュロスの側の秤 が下 が る ことに な るが, それ が
どの よ うな仕掛 けに な って いるのか, あ るいはデ ィオニ ュソスな りア イスキ
ュロスが手 で 引 き下 ろす とい う所作 に よるのかは演 出上 の問題 で あ り,資 料
か らは不 明で あ る.
-1
9
-
日
きて, 最初 に比較 され る等 句は次 の よ うに な ってい る.
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38
2-8
3)
エ ウ リピデ スの詩句 は 『メデ ィア』の劇 冒頭 第 1行 で あ り, ア イスキ 8 ロ ス
のは 『ピロクテ テ ス』のや は り冒頭 の第 1行 では なか ったか と考 え られ る断
片 であ る. 『メデ ィア』の詩句が喚起 す る イメー ジは, アル ゴ-船 が オー ル
を翼 の よ うに動 か しなが ら全速 力で海上 の難所 を通過 す る情 景 で あ る. 他 方 ,
『ピロ クテテ ス』断片か らは, スペ ル ケ イオ ス河 とその水辺 の牧 草地 に牛 の
群 れつ ど う光 景 が想 像 され る. これ らの詩 句 を もとに, ア イスキ ュロスの詩
句 の方 が重 い と判定 したデ ィオニ ュソスは, その根拠 を尋ね られ次 の よ うに
返 答す る.
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8)
(「なぜ か つて ?
彼 が載 せたのは河 だ,羊毛 商 人風 に
湿 らせ たの き,言葉 を羊毛 みた いに,
な のにお まえが載 せ たのは翼 をつ けた言葉 だ. 」)
・
計量 シー ンで引用 され る静句 は正 確 であ るため,笑 い を生 みだす おか しみ
は, もっぱ ら, 辞 句 の軽重 を判定 す るデ ィオニ ュソスの表現 に含 まれ る機 知
に依存 す る ことにな る. す なわ ち, この場 面 は,技法 的 にみれば一 種 の 「な
ぞ なぞ」形式 で あ り, デ ィオニ ュソスが その謎 の トキ と ココ ロを述 べ, そ こ
に観客 の意表 をつ く思 いが けな い連 想 と解釈 がで て くる ところに おか しみ が
-20
-
生 じる もの と思 われ る. 当然 . その連想の飛 躍が大 き くて思 いがけ ないほ ど
おか しみが増 す ことにな る.
この最 初の比較 でデ ィオニ ュソスが示す トキは 「
河」 であ り, その ココ ロ
は,乾燥 した羊毛 よ り湿 った羊毛が重 い よ うに湿 り気 の ない言葉 より湿 った
言 葉 の方 が重 い, ま して翼 のつ いた言葉 よ りは重 いとい うもので あ る.最 初
の連想 をた どれば,河- 水-湿 った羊毛-湿 った言葉, とい うことにな ろ う.
ここで注意す べ き ことは, あ る言葉 が指示す る事物の物理 的重畳 が, その言
葉 の重 さとみ な され てい るのではな く. あ る言葉 ない しは表現の喚起す る イ
メー ジに よって その言葉 の重 さが規定 され て いる ことであ る.先 の連想 の系
列 は, もっと正確に言 えば, 「水-湿 った言葉」 と 「水-湿 った羊毛」 とが
パ ラレルにな ってい る.前 者 の連想 は, スペル ケ イオ ス河 の水が 川辺 りの草
地 を湿 らせ る よ うに, スペ ル ケ イオ ス河 を含 む表現は それが喚起 す る水 の イ
メー ジに より湿 らされ るとい うことになろ う.後者の場 合,水か ら羊毛 - は
飛 躍が あ り, なぜ羊毛 が導 入 されたのかが分か りに くい.考 えられ る根拠 は
二 つ あ る.一 つは, ゼウ スの手 にす る運命 を決定づけ る黄金 の秤 とは対照 的
な, 日常生活 で利用 され る秤の イメー ジで あろ う.計量 シー ンの開始 を告げ
るデ ィオニ ュ ソスは.
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(
1
36
8
-69)
と語 る. 帝人 の技 をチー ズに見立て秤 にか け て量 ると言 うとき, そ こに示唆
されて い るのは, 日常 の商 取 引に欠 くことのできない厳 しい細心 の注意 力 こ
そが詩 の判定 に必要 なの だ とい うことであ る. それに よって文芸批評 の視 点
が喜劇的 に転 倒 され る ことにな る. また, 同時に,悲劇 とい う非 日常 的世 界
とアゴ ラの 日常生活 とを, 悲劇 の技 をチー ズに見立て る ことでい と も簡単 に
結 びつけ,悲 劇 の世 界 を 日常生活の レグ ェル-ひきおろ して しま う. その と
き生 じる落差 の大 きな結 合 かぉか しみ を生 み だす ことに な る. そ して, この
-2
1
-
チー ズ売 りの用 いる秤 の イメー ジが羊毛商 人 の秤 への連 想 を容易 に して い る.
しか し, これ だけでは羊毛 商人 の秤 と結 びつ く必 然性 は まだ強 くな い. こ こ
で それ を助 け て いるのが
『メデ ィア』 の辞句 であ る. アル ゴ-船 の英 雄 た
ちが 日給 す ものは, 言 うまで もな く 「金 毛 の羊皮 」 (
topa
nk
hr
亨so
nderas
坦 ・5) で あ る・
「金毛 の羊 皮」 と 「秤 」と 「水 」か ら, 日常生 活 で よ く見
られ たで あろ う車毛商人 の ペ テ ンの イメー ジが導 きだ され, それ が, 「言 葉
を湿 らせ た」とい う特異 な表現 の イメー ジの形成 を助 け ると同時 に, 日常 生
活 で馴染 みの光 景へ の風 刺 と もな って い る.
この ことを テキ ス トの文 脈 に即 して もう少 し詳 し く検 討 してみ よ う. 「羊
毛 商人風 に言 葉 を湿 らせ て 」とい う文 は, それ 自体 では もち ろん明瞭 な意 味
をな きな い し, 「
羊毛商 人 風 に 」が喚起す る イメー ジのみが孤立 して しま う
か, あ るいは それに続 く 「言葉 を湿 らせ た 」との 間に イメー ジの上 で混乱 な
い し異 和 が生 じて い ると思 われ る。 これは, 「
羊 毛商 人風 に湿 らせ た e
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o-
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i
k百sh
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o
否s
as」 に本来続 くと予想 され るのは 「羊 毛
t
盲r
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a」 で あ
耳pos
」 に 置 き換 え られ て い るため であ る. しか し最 後 に
るのが, 「
言葉 t
6sp
ert
Sri
a」が 付け加 え られ る ことで,「羊毛 を湿 らせ る」
「羊毛 の よ うに h
あ るいは 「湿 った羊毛」 とい う日常生 活 で 日頃体験 す る鮮 明 で具 体 的な億 が
い っきに創 出 され るため, その風 刺 を含み笑 いを喚起 す る強 力な イメー ジが
アナ ロジー を うなが し, 「言葉 を湿 らせ る」 あ るいは 「湿 った言 葉 」 を意 味
と 一てではな く, 感覚 的 に-一一その ものの 明確 な イメー ジを思 い浮 かべ るの
百s
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富r
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a が最
は 困難 では あ るが一一一一了解 で きた気分 に させ て しま う. h
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百s
as の部分 がそれ 自体一 種
後 まで保留 され るため,e
の 「なぞ なぞ」 の文 句 と化 し, h
百sp
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aがその輩 を一 瞬 に_
して氷解 させ
右 トキ と ココ ロの機能 を果 たす ことに なろ う. 「羊毛 商 人 が羊毛 を湿 らせ る
よ うに h
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」 とい う比 職 の表現 が ,eril
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a へ変形 され圧縮 され てい る ことに その原 因が あ る.
フ ロイ トに よれば,表現 の圧縮 は機 知 的表 現 の重 要 な技 法 の一 つ で あ る (6)
羊 毛商 人 のず るが しこいペ テ ン行 為が示唆 され,突如 その鮮 明な イメー ジが
-
2 2 -
浮 かぶ ため, そ こに おか しみ と笑 いが生 じ, 観客 の注意 力は ペ テ ンの方 へ 引
きず られ,湿 ら され た羊 毛 の重量が増加す る イメー ジのみが強烈 な印象 を与
え,類 推 作用 に より, その重量 増加 の イメー ジは 「
湿 ら され た言葉 」に纏 わ
りつ き,表現 その ものに た いす る批判 的判 断 力は停止 させ られ る ことに な る.
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Sが実際 に は
と ころで しか し, これ までの検討 では ,h
何 を意 味 す るのかは依然 と して不明 な ままで ある.結 局は,言葉 の重 さが 増
加 す るとい う意 故 を導 き出す ために だけ利 用 され るナ ンセ ンスな機 知的表 現
に とど まるのか もしれな い. あ るいは, 『ピロクテテ ス』断片の失 われ た後
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nな りが テキス トの中に用 い られ て お
続 部分 で,h
り,単 に それ を 「
言 葉 」へ適 用 し特異 な表 現 と した と ころに機知が あ ったの
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sと
か も しれ ない. ただ しこ こで, これ まで 「湿 った」と訳 して きた h
い う語 の持 つ 多義性 が,機 知 を含 む表現形 成 に果 たす 役割に注 目 してお く必
要 が あ るだろ う。 スペル ケ イオ ス河 か ら水, そ して 「湿 った」へ の連想 を 自
yg
r
o
sは, 川の 流
然 な もの と して無造 作 に扱 って きた。 語法 の上か らみ て h
れ を修 飾す る語 と して, また水 を直接 修飾す る形容詞 と して用 い られ てお り,
川や水 の いわば一極 の枕 詞 か緑 梧 の よ うな もの と考 え られ,連想 を容易 に し
y
g
r
o
sは,
自然 な もの と してい る よ うにみ え る. とは い え しか し,他方 で, h
海 を意 味 す る語 の形 容 に用 い られ るば か りで な く, ホ メ?スにお いてその女
y
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aは単 独で海 を意 味 す るため, これ らの用法 を考 慮に いれれば む
性形 b
しろ 『メデ ィア』 の辞句 と関連 す る連想が生 じて くる. さらには. 「涙」 と
と もに用 い られ る こと もあ り, 『ピロ クテテ ス』 断片 が,長 い年 月遠 い孤 島
に見捨 て られ た ままの ピロ クテテ スが望郷 の念 にか られ て 口に した言葉 で あ
るな らば,涙 で言葉 を濡 らす とい うイメー ジ もまた考 え られ な くは ない. そ
の ほか に も b
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gr
o
sは, コンテキ ス トに よ り, 「液状 の,柔 らか い, しな や
か な,思 い悩 ん だ, なめ らか な」な どを意 味 す る ことが あ り, この ような多
義 性 は, b
百s
p
e
rt
S
ri
a と言 われ る まで, eri
o
p
61
i
k
百S.
.
.何p
o
sの意 味 と
イメー ジを混 乱 させ た り, 違和 感 を生 み 出 した り,停滞 させ た りす る方 向 に
作 用 し, 一 義 的 に 「湿 った」 を指示す る ことを妨げ るで あ ろ う. か くして
-23-
hygr
osに は,連 想 を助 け る方 向 と連 想 を妨 げ 拡散 させ る方 向 とに 同時 に作 用
す る矛 盾 した力 が秘 め られ てい る ことにな る. お そ ら く, この矛盾 す る作 用
は, h
石sp
ert
官ri
a が付 け加 え られ た ときに イメー ジが-気 に収 欽 す る こと
か ら生 じる解 放 感 を, む しろか え って強 め増大 させ るの では ないか とお もわ
れ る.
ところで, エ ウ リピデ スの引用句が軽 い と判定 され るのは, それが 「翼 を
つ けた言 葉 t
でposept
er
6
me
non」 で あ るとい うことで あ った. アル ゴ-船 が
撃 ち合 い岩 の 間 を全速 力 で くぐりぬけ る様子 を,比愉 的 に di
a
pt
ast
hai (あ
い だを飛 び進 む ) と表現 して い ると ころか ら, 「飛期 」 の イメー ジが導 きだ
p
eapt
eroe
nta」 に結 びつ
され る. これが ホ メ ロスの定 型句 「
翼 あ る言 葉 e
け られ て い る (7). この連想 を容 易 に し助 けて いるのは
「
翼 をつけ た e
pte-
er0
6 は 「羽や翼 をつ け る」
r
石me
no
n」 とい う語 が使 用 され て い る点 に あ る. pt
の意味 で あ るが,船 その もの, あ るいは船 の オール を修 飾す るの に も用 い ら
れ る.船 体か ら突 き出た何 本 もの オー ルが空 中に広が る様 を翼 に見立 て る こ
とに由来 す るが, オールの動 きを形 容 す る場 合にはその リズ ミカル な動 き を
示 して い る. したが って, di
apt
ast
haiす る船は s
ka
p
hose
pt
er
石me
n
on (
輿
の つ いた船 ) で あ り, その イメー ジを喚起 す る 「言葉 」 は, ホ メ ロスの e
pea
ose
l
)
t
er
石m
en
on とみ
pt
er
oenta と意 味が 同 じで しか も音 の類似 して い る ep
な され るの で あ る. 「船 」 と 「言葉 」 とい う一 見かけ離 れ た もの 同士 を. 叙
事帝 の伝統 の 力 を背 景 に, p
ter
o
B とい う語 を媒介に して結 びつ け て しま う
と ころに機 知 的表現 が成立 して い る. これ も表現 の節 約 であ り,圧 縮 に よる
技 法 と言 え るだ ろ う.
teroO の もう一 つの比 職的意味 に注 目すべ きだろ う.
ここでは さらに, p
43
7
行 以下 には,翼 をね だ る密告者 に対 しビステ タ
ア リス トパ ネ スの 『鳥 』1
イ ロスが,話 あ るいは言 葉 (
1
o
g
oi)
で もって人間 に翼 をつけ られ る と鋭 く場
面 が あ る. そ こで用 い られ る語 は a
n
apt
er
o
百 で, これ は 「翼 をつけ る」 を
意 味す る と同時 に,激 しい感情 で平 静 さを失 う状 態にす る ことを比 愉的 に表
446
行 では pt
ero
石 が an
a
p'
t
ero
百
現 す るの に使 用 され る語 で あ る. そ して,1
一24 -
の両義 的意味 をおびてその代 わ りに使 われ て いる. したが って,e
p
o
se
p
ter6menon も, お そ ら くは, 「
興 奮 した言葉, ちぢに思 い乱 れ た言 葉 」 を意 味
してい る ことに なろ う. 『メデ ィア』の プ ロロゴ スか らの引用句 は, メデ ィ
アの乳母 が,現 在の不幸 の そ もそ もの原因 で あるアル ゴ-船 の遠 征が成功 し
なけれ ば よか ったの に, もと もと実現 しなければ よか ったのに と非現実話 法
で嘆 く部 分で あ る. その よ うな言葉 は 「ち ぢに思 い乱 れ た言葉」 と評 して さ
しつか えない だ ろ う.
デ ィオニ ュソスの判定 の なか で, ア リス トパ ネスは,言葉 の重 さの イメー
ジを,湿 り気 と翼 に よってつ くりだ してい るが, それ は文学 的伝統 ,語 法 の
特性 ,語 の多義 性 に もとず いて お り, イメー ジの連想 に よる言葉 遊 びで あ る
と言 え よ う. ナ ンセ ンスな 問 い一一一一
辞 句の計量--一に対 して ナ ンセ ンスな答
えで応 じるとい うな ぞな ぞ形式 は, わが国 の知理 問答 を思 わせ る. しか し.
も し 「言葉 を湿 らせ る」 が涙 と関連 が あ り, 「
翼 をつ け た言 葉」 が 「ち ぢ に
思 い乱 れ た言 葉 」 を意 味 す るの であ るな らば, 引用句 に対 す る巧妙 な機 知 的
評 言 を も含 む ことに な るの であ って, ナ ンセ ンスの衣装 を まとった批評 が な
されて い るの で あ り, こ こにみ られ る仕掛 けは思 いが け ないほ ど複雑 だ と言
わねば な らな い. また. 「河」 に始 ま り 「翼 のつ いた言葉 」へ た ど りつ く過
程 は, われわれ の意 表 をつ くもの とな って い る. 「
河 」 に対 応す る もの と し
ては 「海」が予 想 され る. その場合. 両者 の 「広 さ」 の優劣 が重 さの イメー
ジに転 化 され るか, または真水 と海 水 の重 さの比較-進 むT-- この様 な比 較
は エウ リピデ スの勝 ち を予 想 させ る一一一一と考 え られ る. または, 「河」 に対
し 「
船 」 が予 想 され, 「船 は水 に浮 か ぶ」とい う, いか に もなぞなぞ的 な解
答 が考 え られ るので あ る. ア リス トパ ネスの作 り上げ たデ ィオニ ュソスの判
定 は, その よ うな容 易に連 想 され る比較 を避 け,観客 の意表 をつ くことに 成
功 して い る.
-2
5
-
日
Ⅰ
第二 の計量 につ いて検討 してみ よ う.
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故 estiPei
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盲.
I (1
39
091)
エ ウ リピデ スのは 『アンテ ィゴ ネ-』 か らの, ア イスキ ュロスのは 『ニオペ
-』か らの引用 で, いずれ も断片 で あ る.
『アンテ ィゴ ネ-』の断片は, 棉
格 化 され たベ イ ト- (
説 得 )の住む神殿は.他の神 々の場合 の よ うな石造 り
の神殿 ではな く,説 得す る人間 の語 る ロゴ ス (
言葉,言説 )以外 の なに もの
で もな い とい う魅め て大胆 な暗 職に よる表現 であ る。 『ニオペ-』 の方は,
神 格化 され た タナ トス (
死 )は,神 々の うちにあ って唯一 サ人 々が嘆願 の た
め に捧げ る贈物 を少 しも欲 しが らな い神 で あ るとい うもので,死 の特性 で あ
る非情 さと不 可避性 を端 的 に示 す表現 であ る. これ らの詩 句に対 す るデ ィオ
ニ ュソスの判定 は次 の よ うに語 られ る.
DI:t
hanato
nearei
set
hae, b
ar
ytat
onkak
o
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b百 g
',epo
sarist
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n・
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DI:Peit
h
石d
ek
甘phonestikain
qn石ke
k
ho
n・
(1
39
496)
デ ィオニ Aソスは,第一 の計量 の場 合 と違 って, 『ア ンテ ィゴ ネ-』断片 中
eron や
の神殿 hi
『ニオペ -』の贈物 d
石r石n の ように具体 的 イメー ジを容
易 に喚起 す る話 を取 り上げ ず, それ 自体では明瞭 な像 を呼 び起 こ しに くい擬
神 化 され た タナ トスとペ イ トー を比較 の対 象 と してい る. したが って, それ
ぞれの神 の属性 か ら, あ るいは普通 名詞 と しての 「
死」 や 「説得 」の持 つ観
念 とか意味か ら重 さの感覚 ない しイメー ジをつ くりだ してい る.
第- の計量 と同様 に, ア イスキ ュロスの辞 句の方が重 いと判定 され る理 由
-2
6
-
が まず述 べ られ る. 『ニ オペ-』にみ られ る タナ トスが神格 とみ な され て い
る ことは 「神 々の うちでた だひ と り mo
n
ost
he
石n」か ら明 らかで あ るが, チ
ィオニ ュソスは それ を普 通 名詞 の 「死」に お きか え る. そ して 「死 をかれ は
載 せた, もっ と も耐 えが た いわ ざわ い を」 と語 る. 「もっと も耐 えが た い」
と訳 した b
ar
ytat
o
n は, 同時 に,「もっと も重 い」 を意 味 す る語 で あ る. こ
ar
ys の両義性 一一一一物理 的に 「重 い」 と比愉 的 に用 い られ た場 合 の
こでは, b
「耐 えが たい, 嘆か わ しい,辛 い」 - - を巧 みに利用 し,死 に対 す る伝統 的
観 念 の一 つ を表現 しなが ら. 同時 に重 さの イメー ジを喚起 す るために, 「も
っと も重 い」 を意味 す る語 を直接導 入 して い る.言葉 の両義性 を利用す るの
は,言 うまで もな く,言葉 遊 びの基本 的手 法 であ り,機 知の常套手 段 で あ る。
それ に たい しエウ リピデ スは, 「わ た しの方は ペ イ トーだ, とて もみ ご と
な語 り口の言 葉 」 と意義 を申 し立 て る。 この異議 には, 優れ た表現 には価 値
が あ り, 価値 あ る ものが重 い とい う計量 の観 念 が示 され てい る. この場 合 。
エ ウ リピデ スは, デ ィオニ ュ ソスの言 う b
ar
yt
at
o
nk
ak
on にた い し,最 初
の判定 か らの類纏 で e
pos を補 い∴ 「死」 は 「とて も耐 えが たい味 な言 葉 」
の意味 に解釈 して反撃 して い る と考 え られ る. k
ak
os の反対 概念 を示す語 で
ris
t
a が用 い られ て い る ことが その推 測の根拠 で あ る. また, epos
ある a
ari
s
taei
r
emenon は
,『メデ ィア』 か らの引用句が
ep
osept
er
融en
on と許
p
os.‥ とい う言 い回
された ごと くに,デ ィオニ ュ ソスに よって, 再度, e
しで評 価 され るの を避 け るため に. わ ざと分 詞 を用 いた類 似 の言 い回 しを先
取 りした結果 の表現 だ と思 われ る.
その異 議 に対 しデ ィオニ 且ソスは, エウ リピデ スの言 った e
pos を受 け な
が ら, 「ペ イ トーは軽 い言 葉 ,意味 の ない言 葉 だ」 と切 り返 す. こ こでは,
bar
ys の反意 語 で あ る k
qphos の多義 性一一一一「軽 い,空 虚 な,軽 快 な」 ---が利用 され て い る. まず, ba
r
ys の 目方 に関す る反意語 と して k
u
p
hos が
akos に対 し反意 語 の ari
st
a が使 用 され て いた こ
導 入 され て い るため一一一 k
すp
hos が翼 の軽 や
とに注意 ---一第- には 「軽 い言 葉 」 の意 を示 唆す るが, k
か な動 きの形 容 に用 い られ る ことを考 慮 に いれれば,
-
2 7 -
「軽 い言 葉
kV
p
hon
(epos)
」 は, イメー ジの上 で, 第- の計 量 に あ った 「
翼 の ついた言葉 epos
epter百menOn」 との連 想 を生 む ことにな り, 意味 は暖味 にな りは じめ る. そ
f
k ekhon (「
意 味 を持 た な い,分 別の ない」 )が 付け加 え られ る
して, n雷ni
ことで, k
苛phon はむ しろ
「空 虚 な, 内容 の ない」 を意 味 す る もの と して了
解 すべ き こと を示唆 す る. 第一 の計量 で ,h石spertaria が 付け加 え られ る
ことで鮮 明 な イメー ジが生 じた よ うに, この場合 に も, 後 か ら述 べ られ る語
に よって k百phos の意味 は変容 す るの であ り,語 の多義性 を巧み に利用 した
類 似 の機 知の技 法 を認 め て よいゼあ ろ う.
女神 ペ イ トー が 「意味 の な い,軽 くて空 虚 な言葉 」とみ な され るのは, 女
神 ペ イ トーの神 殿が 「言葉 (ロゴ ス) 」で あ るとい う点 に ひ っか け てあ る.
「ロゴ ス-言 説 」 で できた実体 のな い神殿 を構成 す る ものは軽 い 「エボ ス語 」 で あ る, とい うイメー ジが想定 され る. また, この主語 であ るペ イ-トー
は,普通 名詞 と しての 「説 得」 の意 味 を も含 んで いるだ ろ う. その場合 , 説
得 とは意 味 の な い空 虚 な言 葉 に よってな され る行 為だ とす る批判 的認識 が語
られて い る ことにな る.
さらに, こ こには,次 の よ うな見逃 しては な らない技 法 が潜 ん で いる と思
われ る. k正phonestikai n
甘n の音 の響 きは,容 易 に, k汀phon
Tn を連 想 さ
せ る. この ことか ら, k
℡phon甘S を もと もとの構 成要素 に分 割 し,分割 され
た語 で もとの語 に近 い意 味 を作 り出す作業 が な されて い るの では な いか と推
測 され る. つ ま り, to k
i
f
phon血 epos esti 坤 p
hon kai n
un故 ekhon とい
う表現 の述語 部 分 のみが表 面 に残 った もの と考 え られ る. この よ うに一 つ の
概 念 をそ こに含 まれ る言 葉 を用 いて定義づ け るのは機 知 に馴染み の技法 の一
軽 薄 な, 移 り気 な」 とい うネガ テ ィヴ な意 味 と
つ であ る. 抗 phon℡Sに は 「
「陽気 な, の ん きな」 とい うポ ジテ イヴな意 味が ある. したが って,結 局 の
と ころ, 女神 ペ イ トー あ るいは 「説 得」は kもphon
us なのだ, とい う風 刺 が
こめ られ て い る ことにな∴
ろ う.
しか し,女 神 ペ イ トーが 「軽薄 で あ る」 あ るいは 「移 り気 であ る」と同時
に 「陽気 であ る」 あ るいは 「の ん きで ある」 とい うイメー ジは, も う少 し考
-2
8-
えてみ る必要 が あろ う. この二 つの属性 を合 わせ持つ人 間 を考 え るとき連 想
され るのは遊 女 であ ろ う. 女神 ペ イ トー と遊 女 の取 り合 わせ は い さ さか奇 意
の念 を与 え るが, ピンダ ロ スの断片 は この両者 の関連性 を示 唆 して いる.
You
ngWO
men
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sest
oma
n
y,han
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u
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「多 くの客 を相手 にす る若 い女 たち p
ol
yx
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naine
盲ni
d
es
」 とは, コ リン ト
ero
d
百l
os, つ ま り宗 教 的
スの ア プ ロデ ィテ神 殿 に住 む ヒエ ロ ドゥ- ロス hi
意 味合 を帯 び た遊女 の ことで あ り,彼女 らは ここでは 「ペ イ トー の侍女 am-
phi
pol
oiPei
t
h
石S
」 と呼 ば れ て い るの であ る. そ して彼女 らは ア プ ロデ ィテ
の ため に香 を焚 く役 目を担 って いる. ここには,遊女 とペ イ トー との関 係 を
明 らか にみ て と る ことが で き るので あ るが, なぜ遊女 が ペ イ トー の侍女 に な
って い るのか は語 られ て い な い. しか し. ペ イ トー と7 プ ロデ ィテ との間 に
は - シオ ドス以来 密接 な関 係が存在 してい る. 『仕事 と 日』では, ペ イ トー
は ア プ ロデ ィテ とな らん で パ ン ドラを飾 りたて る-I--この箇所 での ペ イ トー
をア プ ロデ ィテ と同一視 す る説 もあ る--I-し (
也
.73)
, サ ッポーはぺ ィ ト
ー をア プ ロデ ィテの娘 と して い る(
2
0
0)
. と りわけ ア プ ロデ ィテ ・パ ンデ ー
モ スとペ イ 1
、- の関係は 密接 で あ る. ア ク ロポ リス南 麓 の斜面 には この両 女
神 の神殿 が あ った と伝 え られ, しか も, ア プ ロデ ィテ ・パ ンデー モ スの神 殿
Paus
ani
as i
.22
.3, At
heは売春 宿 のあが りで賄われ ていた とい うの で ある(
nai
os5
96
d)
. また, メナ ン ドロスの 『調 停裁判』 では, 遊女 の ハ ブ ロ トノ
ンが 自分 の計 画 の成 就 を願 い, 「
愛 す るベ イ ト一様 」と女神 ペ イ トーに祈 願
す るシー ンが あ る(
55
5-5
5
6)
. この 箇所か らペ イ トーは遊女 の願掛 け をす る
神 であ るとた だ ちに断定 する わ けには いか な いか もしれ な いが,遊 女 とペ イ
-2
9
-
トー との 間に なにか密接 な関連 性 が あ った ことを うかが い知 ることは で き よ
う. これ らの ことを考 慮す れば, ペ イ トー と遊女 の結 びつ きがほ のめか され
た とき, 観客 は それ を察 知 し, そ こに含 まれ る辛 らつな あて こす りを理 解 す
る ことが で きたのでは な いか と思 われ る. エ 9.リピデ スの愛 好す るペ イ トー
は, 内容 のな い空疎 な言葉 だ と抑旅 され た うえに,遊女 の よ うな性 格 なの だ
と侮蔑 され て い る ことに な ろ う.
Ⅰ
Ⅴ
第三 の比較 へ 移行す る前 にデ ィオニ ュソスは エ ウ リピデ スに向か って次 の
よ うに語 る.
DI:al
l'het
er
onauz
百teitit
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h
m6n,
hotis
olk
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百 t
oi
甘t
ond
香t
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召s
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6k'Ak
hil
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yok
y妬 kait
et
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a・'
(
1
39
7-1
4
00)
デ ィオニ ュソ スは エ ウ リピデ スに対 して何 か ほか の重 い もの を捜 す よ うに求
る. す るとエ ウ リピデ スは 「そ んな ものが一 体わ た しの ど こにあ るとい うの
か?
ど こに ?」 と当惑 して尋 ね る. 最後 の m
ega には. 『女 の平 和 』22行
の場合 と同様 に, フ 7ロス-の ほのめか しが あ るのか も しれ な い. デ ィオ ニ
a と言 いなが ら股 間 を指 し示 す所作 を加 えれば容易 に成立 す る
ごソスが meg
だ ろ う. も しそ うだ とす れば ェ ウ リピデ スが 「ど こに p
甘」 を二 度繰 り返 し.
当惑 して あ るいは憤 然 と して抗 議す るところに滑 稽 さが生 じる.
デ ィオニ ュ ソスは それ を さら りと受 けて, エウ リピデ スの 『テ レボ ス』 か
ら 1行 の断片 「アキ レウ スはサ イコ ロを投 げ,- を二 つ と四 をだ した」 を引
-
3
0-
用 す る. ここに見 られ るア リス トパ ネスの工 夫は ,k
ar
ter
os と meg
as の多
it
石nba
rys
tat
hm
6n」
義 性 を十 分に 利用す る ことに あ る. 「何か重 い もの t
か らの連 想 では ,k
ar
t
er
os は事物 に関 して
「
頑 丈 な, 硬 い」の意 味 を示 唆
し,me
gaは当然 「大 きい」事物 を意 味 す る. ところが性 的 ジ ョー クに よ りそ
の連想 は挺乱 され て しま う. 次 いで 「
b
e
bl
否k
eA
khill
eus
」 と語 られ る とき,
kar
t
er
os は Her
akl
eshokart
er
os(『蛙 』46
4) の 例 にみ られ る英雄 の形
容 と しての 「力強 い.達 しい」 であ り,me
gas も meg
asAi
as(『イ リア ス』
5
.61
0)の ごとき英雄 の形容 詞 であ った と思 わせ る ことに な る. それと 同時
に この二語 は b
ebl
首k
eの 目的語 一一一一す なわ ち アキ レウ スの投 げ た もの と して
期 待 され る槍 か あ るいは敵 一一一一を修 飾す る ものではな いか と予想 され る. と
ころが 引用句 で語 られ るのは サ イコロ遊 びで使 用 され る三個 のサ イコロの 目
で あ るため,観 客 の予想 は見事 に裏切 られ る ことにな る. サ イコ ロは言 うま
で もな く 「大 き い m
egas
」 ものではな く 「小 さい m
Tkros
」 もの で ある. 従
って, この コ ンテキ ス トに置 かれ た引用句は二重 の意 味 で,観客 に対 し期 待
ar
apr
osd
o
ki
雷n-一
一を持 つ ことにな る・
は ずれ の効果 一一--いわゆ る p
さらに, この サ イコロ遊 びで アキ レウ スの振 った目の合計 は 「六 」 で あ る
が, 「六 」 の ゾ ロ目が最 高 の 目であ るため, 彼 の 出 した 目は甚 だ不 利 な 目 と
言 うことにな る. 従 って, この 引用 句が ェウ リピデ スの 『テ レボ ス』断片 で
あ ることか ら, 詩 句計量 で エ ウ リピデ スが大 層不 利 な立場 に追 い込 まれ て い
art
er
o
ntikaimega の
る ことをか らか って い る もの と解釈 されて い る. k
多義性 を利用 す る ことで引用句 自体 に観客 の予想 を裏 切 る効果 を持 たせ, か
つ また エウ リピデ スに対 す る当 てつけ を も含 む よ うな仕掛 け を案 出 して い る
もの と思 われ る.
デ ィオニ a ソスに最後 の計量
(
h
百s haut
す'
sti l
oi
p
否 s
ph
6n st
asi
s
1
4
01) と促 され,二 人が 引用す る句は次の通 りで ある.
EY:`si
d
雷r
obr
Tt
hest'el
abede
xi
富Xyl
o
n.'
AI:`ep
h'har
matosgarh
ar
mak
ain
ekr
百n
e
kr
os.'(1
4
0203)
-31
エ ウ リピデ スの 引用句は 『メレア グ ロス』断片 で あ り, ア イスキ a ロスのは
『グラウ コス ・ポ トゥニ エ ウ ス』の断片 で あ る. 「かれ は右 手 に鉄 を打 ち付
け た梶棒 を振 った」とい うエウ リピデ スの芳 句は, カ リa ドンの猪 狩 りに赴
くメレア グロスの描写 だ と思 われ る. 「力強 い」メレア グロスが 「堅 く」 て
「大 きな」根棒 を片手 で軽 々と持 つ とい うイメー ジの なかには,デ ィオ ニ ュ
art
ero
ntik
aime
ga が 明 らか に含 まれて いるだ ろ う. し
ソスが示唆 した k
か しそれは単 に イメー ジだ けの もの では な い.
「鉄 を打 ち付け た
sid百ro-
br
Tt
hes」 に含 まれ る si
d
育r
os (
秩 )は. へ シオ ドスの 『神統記 』 に よれば ,
「もっと も剛 い もの であ る鉄 s
i
d
否r
oshop
erkr
at
er
6t
at
oses
ti
n 864」 と
言 われ る もの で,デ ィオ ニ ュソスの要求 した k
art
eros に ま ことにふ さわ し
い もの で あ る. また, い まひ とつ の合 成 要素 であ る b
rTt
hesは文 字 どお り
i
t
h
す か ら派生 した語 形 で あ る. したが って エ ウ
「重 い」 を意 味 す る動詞 br
リピデ スの引 用 句はデ ィオニ ュソスの要求 を巧み に充 しなが ら,重 さの感覚
を イメー ジと語 義 の両面 か′
ら感受 させ る仕掛 け を含 んで い ると言 え よう.
他方 ア イスキ ュロスの引 用句 は ど うで あろ うか. この断片 は, おそ ら くペ
リア スの葬礼競 技会 で グラウ コ スの参 加 した戦車競争 の際に生 じた突発 事 故
を措写 した部 分 と思 われ る. 「戦車 の上 に戦 車が,死 体 の上 に死体 が」とい
う表現 は, しか し, む しろ戦 闘場面 を想像 させ るか も しれ な い.事 実, この
断 片の語 句 との類似 が古 庄 に よ り指摘 され て いるエウ リピデ スの 『フ ェニキ
xo
n
est'epi
アの女 た ち』 の詩句 -一一「車軸 が車軸 の上 に,死 体は死 体に a
ax
osi,ne
kroid
ene
kroi
s119
495
」 一一-1は, テバ イ軍 とアル ゴ ス軍 との戦
闘描写 なので あ る. また, k
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osは, ホ メロスでは enik
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官 の ごと く h
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官(
戦 闘 )の エ ビセ ッ トと して用 い られ る. これ らの こ
とか ら考 え る と, ア リス トパ ネスは ア イスキ ュロスの この断片が戦 闘場 面 と
して受 け取 られ る よ うな コンテキ ス トにわ ざと置 くことで,観客 の蓑 をか い
art
erontik
aime
gaは また
て いるのか も知 れな い. そ うだ とす れば先 の k
違 った連想 の もとで利用 され て いる ことに な ろ う.
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2
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この よ うな エ ウ リピデ ス とア イスキ ュロスの引用句 に対 す るデ ィオニ ュ ソ
スの判定 は次 の よ うに語 られ る.
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応 S 石kanar
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06)
「二 台 の戦車 と二体 の死 体, これは百 人の エ ジプ ト人 が持 ち上げ よ うに も持
ち上げ られ まい」 と言 うのは, エジ プ ト人 は 力持 ちだ とい う通念 を利用 して
戦 車 と死 体の物 理 的重量 を誇 張 す るのが 目的 であ る. この第三の比較 に お い
て,初 め て イメー ジ的に計 量 可能 な物 同士 が対象 に選 ば れ る ことに な る. つ
ま り, あ る言 葉 の指 し示 す事 物 の物 理 的重量 がその言葉 な い しその言葉 を含
む表現 の重 さとみ な され る. 従 って, 「鉄 を打 ち付け た梶棒 」と 「戦車 と死
休」 の重 さ較 べ は. 「
百 人 の エ ジプ ト人 .‥ 」とい う誇 張が 付け加 え られ る
ことで視 覚化 され,比較 の結果 は 自明 とな るため, エ ウ リピデ スの引用 句 が
軽 い理 由は もは や語 られ な い
この判定 の直前 に, 「お まえ (エウ リピデ ス)は今度 もまたや つ (ア イス
キ ュロス)に してや られ た e
x
亨p
a帽 kenausekair
序n 1
404」 とデ ィオニ A
ソ スは エ ウ リピデ スに語 る. e
xapat
a
石 は通 常 「欺 く, ペ テ ンにか け る」 を
意 味す るが,古 庄は レス リン グか ら生 じた比 職的用法 と して いる. 古代 の レ
ス リン グにつ いて詳 らか に しな いが, おそ ら くは相手 の意表 をつ き勝利 を収
め る ことを意 味 す るので あ ろ う. しか しこの 「欺 く, ペ テ ンにか け る」 の意
味 はな お生 か されて いるだ ろ う. エ ウ リビデ スを欺 いたのは もち ろんア イス
キ ュロスでは な くデ ィオニ ュソスで あ り, その よ うに仕組 んだのは作者 ア リ
ス トパ ネ スに はかな らず, ア リス トパ ネスが欺 こ うと したのは観客 であ る.
三 度 の詩 句計 量 の判定基準 は その都 度変 わ るため, エ ウ リピデ スが欺かれ た
よ うに, 語 の多義性 にたぶ ら`
か され る観客 もペテ ンにか け られ ざるをえな い.
引用句合戦 の最 後 を締 め くくるのは ア イスキ ュ ロスの次 の台詞 で ある.
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三 度 目の計量 では,梶棒 , 戦車 ,死 体 とい う言葉 の指 し示す計量 可能 な事 物
が比較 の対象 とな った ことか ら,物理 的重 量 を持 つ人 間 その もの と実体 の な
い言葉 の比較 計量 へ飛躍 す る. ア イスキ ュ ロスは,辞 句 を創 るエ ウ l
)ビデ ス
本 人 とその一 族 郎党 を彼 の蔵書 と共 に秤 にか け る ことを要求 し. それに対 し
自分は わずか二 つの辞 句 を載せ るだけ で勝 て ると主張 す る. もち ろん主 眼 は
言 葉 の重 さで物理 的重量 を もつ人間 と書物 に勝 る とい う甚 だ しい誇 張 とナ ン
セ ンスに あ る. しか し同時 に, エウ リビデ スとその妻. ケ- ピソポー ンに書
物 と列挙 され る ことに よ り, エ ウ リピデ スに対す る馴染 みの抑稔 が な され て
い る. ケ- ピソポー ンが ェ ウ リピデ スの作 品 の一 部 を代筆 した との あて こす
4
4行 ,1
45
2
行 に見 られ る し,彼 とエ ウ リピデ スの妻 との姦通 につ いて
りは 9
の広 めか しは 1
0
4
6
4
8
行 で な され て い る. またエ ウ リピデ スが蔵書 家 で書 物
4
3
行 に見 られ るの で あ る. 書 物 t
ab
i
bl
i
aが最 後 に付 け加
好 きな ことは 9
え られ て い る ことに機 知 を兄 いだすこ と もで き よ う. エ ウ リピデ スの所 持 す
る書物 には, 当然彼 の生 涯 にわ た る戯 曲の全 テキ ス トが 含 まれて い るは ず で
あ る. そ うす れば ェ ウ リピデ スの全作 品対 ア イスキ ュ ロスの 2行 の詩句 とい
う比較 の構 図が浮 か ぶ. しか しそれ と同時 に, エ ウ リピデ スの蔵書 の中 に ア
イスキ ュ ロスの全戯 曲の テ キ ス トが含 まれ て いる と考 え るとき, ア イスキ ュ
ロスは 自分 の全 作品 を相手 にす る ことにな り, それ らを 自己 の 2行 の詩 句 で
凌 駕す る と息 巻 いて い るナ ンセ ンスで滑稽 な詩人 の イメー ジ も連 想 され るで
あ ろ う.
『蛙 』の現 存 テキ ス トに は ア イスキ ュロスの 自慢す る肝心 な 2行 の詩 句が
欠 けて い るため,機 知の ポ イン トが ど こに あ るのかは確定 しがた い.大 方 の
学 者 は 当然 こ こに脱落 を想 定 す るが, そ もそ もその よ うな
-3
4
-
「
2
行 の詩 句 」 は
存 在 しな いの に, あたか も存 在 す るかの ごと く見せか け, その幻 の
「2行 の
詩 句」を観客 に想像 させ るのが ア リス トパ ネ スの仕掛 け であ った と考 え られ
410行か ら 1
41
1
行 -の移行 にや や
な くもな い. もっと も現 在 の テキ ス トで 1
唐 突 な感 が あ るのは否 めず,脱 落 を認 め る方 が 自然 では あろ うが.
辞句計 量 シー ンに見 られ るア リス トパ ネスの趣 向 をテキ ス トに即 して詳 細
に検討 したの で あ るが, あ るいは 自明 な点 を も くだ くだ し く述 べ たにす ぎな
いのか と恐 れ な いで もな い. しか し,以上 の ことか らア リス トパ ネスが この
シー ンで駆使 して い る技 法 は, お もに語 の多義性 に依存 して い る ことを確 認
で きたの では な いか と思 う. 従 って次 に検討 すべ き ことは, それ ぞれの比 較
の ため に引用 された詩句 は ランダムに引かれ てい るのか ど うかで あ る. 例 え
ば, 第- の比 較 にお いて エ ウ リピデ スの 『メデ ィア』の冒頭 の 1行 とア イス
キ ュロスの 『ピロクテテ ス』 の 1行 との間に なん らか の関連 が存 在 す るの で
は ないか,両者 を対 置 させ た こと自体 にア リス トパ ネスの機 知が 隠 され て い
るのでは ないか, とい う問題 で ある. 次稿 では この点 を検討 す る ことにす る.
注
(
1)
cf
.L.Rader
nac
her:Ari
st
oDhanes'Fr
'
dsc
he,S.330
.
(
2)
cf
.E.Fr
aenkel: Beobac
htung
en zu Arist
op
hanes,Roma 1
962,
S.1
6
3-1
88,§9perAufbauderFrosche・
(
3)
岡道 男 『ホ メロスにおけ る伝統の継 承 と創造 』創文 社 ,267269 貢
参照.
(
4)
cf
・0・Tapli
n: The Stag
ecr
aft of A
esc
hyl
us, oxf
or
d1
9
77,
pp・431
433
・
(
5)
Sc
hmi
dtSta
hli
n.
・Gesc
hic
hte dergri
ec
hi
sc
hen Lit
erat
ur, i
,
i
v,S・351
・Rader
mac
her,qp・Ci_
t・,S・3
31
・
-3 5 -
(6)
圧縮 をは じめ機知の技法については, フロイ ト 『
機知一一
一一その如意
巻 ,2
3
7
4
2
0
識 との関係-一一』高橋義孝訳.人文書院 (『フロイト全集』第4
冒)参照.
heF
ro
gs, L
on
do
n1
9
63, ad
(
7) c
f.W.B
.
Stanfor
d: Ari
st
o
T
)
hanes, T
l
o
c
.
-3
6
-